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オペラからのメッセージ
 
第1章 オペラは人生の真実を表現する

 私は「オペラ好き」と自称する人々がキライです。それも「昔から好きです」という人はダメです。なぜかというと、私が「にわかオペラファン」なので、「昔からのオペラ好き」という人々に引け目を感じるからです。私はとくに「昔からスカラ座やウイーンでしょっちゅう聞いています」などという特権階級には、ねたみと反感を感じます。こういう人々は許せませんね。
  通常の日本人は「オペラ好き」にはなりません。なぜならオペラを聞く機会がないからです。それにレコードやCDで聞いたぐらいではオペラの魅力は分かりません。そこでオペラを好きになるには、外国にしょっちゅうでかけ、劇場通いをしなければなりません。つまりそれだけヒマとカネがあるということです。マトモじゃありません。そういうエリートに「キミ、オペラはいいよ」などといわれると、私は反射的に「オペラなんかキライだ」といいたくなります。

 オペラは日本人にはなじみにくいのです。私は昔からクラシック音楽は好きでしたが、オペラは嫌いでした。要するに分からなかったのです。テレビで断片的に放映されるオペラを見てもさっぱり分かりません。それに話の筋も分からないオペラをCDで聞くぐらいつまらないことはありません。このような環境でオペラを好きになることなど、できるものではありません。ですから私はオペラ嫌いの人の気持ちをよく理解できます。
  ところが何年か前から、オペラの全曲を収録した映像資料が手に入るようになりました。これで見るとオペラがどういうものであるか分かります。そして西欧人がどうしてあれほどオペラを愛するのか、またオペラ好きの人が、どうしてあれほどとりこになるのかが分かります。
  映像ソフトとして編集されたオペラには劇場で聞く以上のメリットもあります。画面に字幕が出ますし、ヒーローやヒロインの表情もアップで映ったりします。桟敷からは見えないオケピットの中や指揮者の表情などまで映してくれます。ずいぶん便利な世の中になったものです。ハイテクの恩恵をつくづく感じます。オペラという古い芸術がハイテクと結びついて新しい視聴覚の快楽を作り出したのです。この快楽を享受しない手はありません。

 私にいわせると、映像ソフト以前の「オペラ好き」は特権階級です。しかし今やオペラは私たち大衆のものになりました。映像化技術が進むなど、今後はさらに小型になり、もっと私たちに身近なものになるでしょう。そして紹介されるプログラムの数も種類も豊富になるでしょう。
  こうなると「食わずぎらい」「知らない」というわけにはいきません。自分なりにオペラに対する態度をはっきりさせなければなりません。これまで私たちはオペラに接する機会がありませんでしたので、「知らない」でも通りましたが、これからはオペラについて何を選び、そこから何を汲み取るかが試されるのではないかと思います。
  これはオペラだけに限ったことではありません。情報化時代の進展によって、私たちはこれまで見知ることのできなかった多くの文化情報に接することができるようになりました。であればこそ、私たちは「文化情報との接し方」、受け取り方を学ばなければなりません。「私はスカラ座でトスカを見た」なんて、大したことじゃありません。トスカを見て何を感じたか、トスカから何を汲み取ったかが大切なのです。

 そして私は「私たちにとってオペラとは何か」を考えることが大切だと思います。ドイツの哲学者ガダマーはこういっています。「芸術は見逃されていた真実を明るみに出す。芸術はこれに接する人に『なるほど、そうだったのか』といわせる」。そこで、だれかが「オペラのどこがいいのか」といわれるなら、私はガダマーにならって「オペラは真実を明るみに出す」、あるいは「オペラは私に『なるほどそうだったのか』といわせてくれる」と答えます。
  R・シュトラウスは自分が作ったオペラの中でオペラそれ自身をからかって、「オペラでは歌いながら喧嘩をし、歌いながら人を刺し殺す、そして歌いながら死ぬ」といっています。
  オペラの舞台の上では敵役が追いかけてきて、いまにもつかみかかりそうになっているのに、主人公は逃げもせず、えんえんとアリアを歌い、一方も相手を捕らえもせず、これまた負けずに歌います。オペラでは物陰に隠れているはずの人物が「みつかったら大変」などと大声で歌いますし、相手のせりふを邪魔するほどの声量で独りごとをいったりします。これなどもオペラに関心のない人にとっては理解し難い、バカげたことでしょう。ところがこの間のびした、アリアの瞬間に人間の真実が見えるから不思議です。

 プッチーニのオペラ「トスカ」に登場する悪漢スカルピアは、1800年当時のローマで権勢をほしいままにした警視総監です。彼は教会でソロを歌う歌姫トスカを横恋慕し、これをモノにしたいと考えていますが、トスカには画家の恋人カヴァラドッシがいます。
  カヴァラドッシは自由主義者の脱獄犯をかくまっているらしいので、これを捕まえて縛り首にし、それからゆっくりトスカを料理すればいいと彼は考えます。第1幕ではスカルピアは、現場に落ちていた女物の扇子を使ってトスカの嫉妬心をあおり、彼女をカヴァラドッシの隠れ家へと急がせます。彼女の後を密偵がつけてゆきます。
  第2幕の幕が開くと、スカルピアは一人で食事をしているところです。スカルピアはスペインもののワインをすすりながら「トスカはいい鷹だ・・」と、みごとなバリトンのアリアを歌います。なぜトスカが「いい鷹」なのかといえば、トスカは鷹狩りに使われる鷹のように、獲物に向かって進み、獲物のありかを狩人=密偵に教えてくれるからです。そうすれば脱獄犯とカヴァラドッシを一網打尽にすることができます。

 ところで、現実の食卓ではふつうの人は歌いません。しかしスカルピアにとってはそれは勝利の前祝いです。鷹師の手の中に納まる鷹のようにかわいい、しかも激しい性質を持つトスカを、彼はすでに心の中で愛撫しているのです。このような表現はオペラでなくてはできません。
  「トスカ」の話をもう少し続けましょう。一人で食事をしているスカルピア。この官舎は教会の隣に当たっていて、スカルピアの部屋の開いた窓からは教会の音楽が聞こえてきます。はじめは古いガボット。これを聞いてスカルピアは「まずいガボットだ」とひとりごとをもらします。というのもこの前座的な音楽がすむと、みんながお目当ての「テ・デウム」が歌われ、その中でトスカのソロが聞かれるからです。スカルピアもこれを楽しみにしているようです。

 テ・デウムというのは「謝恩歌」と訳されますが、要するにお祭の祝祭歌として神に奉納される音楽です。スタンダールの『パルムの僧院』では、幽閉されている囚人たちが司令官の無事を感謝してテ・デウムを上げるための費用を出し合うという話が出てきます。
  ガボットが終り、トスカの歌うテ・デウムが教会から流れてくると、そこに捕らえられたカヴァラドッシが密偵に伴われてあらわれます。そこでカヴァラドッシに対する尋問、そして拷問が行なわれます。脱獄犯の居場所を吐けというわけです。カヴァラドッシは拷問に耐えているのですが、あまりの苦痛に時折叫び声を上げます。この尋問、叫び声が、背景に流れるテ・デウムを伴奏として進行するのです。カヴァラドッシは何も知らずに歌う恋人の甘美な歌声の中で、地獄の苦しみを味わうのですね。こうした効果もオペラ独特の境地です。
  「トスカ」のテ・デウムも終りました。歌い終ったトスカがスカルピアに呼び出されて来てみると、恋人カヴァラドッシが捕らえられているではありませんか。トスカは驚き、恋人を釈放してくれるように頼みます。

 いまやトスカに対して優位に立ったスカルピアは、恋人を助けたければ私のいうことを聞け、というようにトスカに迫ります。この恋人の助命と引き換えに貞操をよこせというパターンは、古くからあるセクハラのモチーフで、別に珍しいものではありません。しかし、スカルピアが歌う次のような言葉を聞いて下さい。
  「人は私のことを金に汚い男だといってる。しかし相手があなたのように美しい婦人ということであれば私は金では取引しません」。これは聞き方によって美しい言葉です。しかしスカルピアは次のように続けます。「(国家に)誓った忠誠を破るからには、私はもっと別の代償を求めます」。ワイロといえば大抵は「金」ですが、ここではスカルピアは「美人の愛」を報酬として要求していますね。なかなかセンスがよろしいのではないでしょうか。
  また、彼は暴力的にトスカに襲いかかろうとせずに次のように歌います。「私は手荒なことはしません。あなたはいつでもここを出ていってよろしい。だが、王妃は(カヴァラドッシの)死体のうえに恩赦を下すことになるでしょう」。

 婉曲で優雅な表現のなかの強制、絶体絶命のトスカ、音楽として歌われるからこそスカルピアはより勝ち誇って悪魔的であり、トスカはいっそう絶望的です。
  ここでファンお目当てのトスカの絶唱「恋に生き、歌に生き」が歌われます。トスカは追いつめられ、恋人のために恋人を裏切る決断をさせられるのですが、そのときに、聖母に対して恨みを込めて歌うのがこのアリアです。
  「私はこれまで何一つ悪いことをしませんでした。困っている人を見れば施しをし、助けてあげました。聖母様のマントにも、宝石を縫いつけて心からの信心を示したつもりです。それなのに、どうして私がこんなに困っているいま、お助け下さらないのですか」。
  これは考えて見ればずいぶん勝手ないいぐさです。誰も第一生れてからこの方悪いことをしたことはないなど、いえるものではありませんし、施しや寄進だって、神からのボーナス目当ての投資ではなかったはずです。

 次におかしいのは、トスカがこの絶体絶命の歌を歌っている間、スカルピアは目立たないようにしながら部屋の隅でじっと待機していることです。トスカのアリアはトスカの内心の、瞬間的な願いなのですが、それを歌にしてしまっているものですから、さしもの悪漢もじっと待っているしか仕方がないというわけです。こんなことは現実の世界ではありえません。
  ただ、プッチーニはさすがにこの場面の緊張感を考え、「恋に生き、歌に生き」のアリアをわずか二十二小節という異例の短さに圧縮しました。このことによってトスカの、藁にもすがる、赤裸々で悲痛な、刹那の願いを表現することに成功したのです。
  いまわが国で市販されているLDで一番種類が多いのはこの「トスカ」ではないでしょうか。私も手元に七〜八枚持っています。一方出演者はどの作品に出るときでも気合いを入れるでしょうが、とくにこのようなポピュラーな作品では、多くの演奏家がまた違った持ち味を競い、大向うをうならせようと、全身全霊を傾けます。

 私は手持ちのソフトではメトロポリタン版が一番好きですが、これとは別に深く心に残る一つの演奏があります。それは、1958年にマリア・カラスがパリで演奏したテープから収録したもので、白黒、しかも第二幕だけの抜粋ですが、ここでのカラスの「恋に生き、歌に生き」は本当にすばらしいものです。
  カラスは、この聖母マリアへの訴えを、祈る人のように手を胸のところで組み合わせ、ほっそりした指を絞りあげるようにしながら歌っています。どうしていいか分からない感情の高ぶり、切なさを、腕と指の偏執的な動作の中に託しました。
  オペラ歌手は、このように大きな声で歌わなければならないとき、手を胸のところに持ってきて力を入れたりしません。胸を締めつけ、声が出なくなってしまうからです。そこで大抵のトスカは両手を広げてこれを差し上げながら歌います。これは天の救済を求めるしぐさに一致しています。しかし今世紀最大の歌姫カラスは、その独自のしぐさによって、「祈り」と「恨み」が同じものであることを示したのでした。

 オペラ独特の表現、それは歌うということです。歌うということは時間的に間のびするということです。そのために現実の世界ではありえない「時間の停止」、あるいは「スローモーション化」が起こります。トスカが「恋に生き、歌に生き」を歌っている間、時間はストップしてしまいますので、悪漢スカルピアはじっと待っているしかなくなります。
  映画やビデオ作品でも画像の停止、あるいはスローモーション化のテクニックが使われます。このようなとき大抵バックミュージックは消されてしまいます。つまり一種の真空状態を作り出して、一瞬一瞬の画面の動きに見る人の目を引きつけ、注意を促そうとするわけです。しかしオペラはこの瞬間に「歌」という特異な情報を介して、人々の耳と魂に訴えようとします。

 R・シュトラウスの「ばらの騎士」第1幕、元帥夫人が謁見の時間を終り、うるさい取り巻きを追い払った後ほっとひと息ついて、ひとりごとをする場面があります。美しい元帥夫人は鏡を見ながら歌います。
  「どうして神様は私を?/私はいつも変わらないのに/たとえ変わるのがさだめでも/なぜこんなにはっきりと見せつけるの?/なぜ隠して下さらないの?」。この時間もある種の内面的なスローモーションです。しかしその内容が「時間」に関する考察を示しているだけに、よりいっそうオペラ的であり、際立って感動的です。
  私が初めてクラシック音楽に接したのは高校一年生のときでした。音楽の授業はありましたが音楽にはどうしてもなじめませんでした。先生になじめなかったし、音楽を得意とする連中・・彼等はおおむね優等生たちでしたが・・にもなじめませんでした。したがって私の音楽の点数は良くありませんでした。

 ところで高校一年生のとき、私は肺浸潤と診断され一年留年しました。そのとき父親がSP蓄音機と数枚のレコードを借りてきてくれました。そのSPの中にロッテ・レーマンというソプラノ歌手が歌ったシューベルトの「野ばら」や「セレナーデ」がありました。私は「音楽とは何と美しいものだろう」と感嘆しました。借りてきたレコード盤がすり切れるほど聞きました。以来私の人生にとっては音楽は切りはなせないものとなりました。
  ロッテ・レーマンの歌を聞いて、私は「この女の人は絶世の美人に違いない」と信じました。いま私の手元にあるレーマンの写真を見ると、当時の私の想像ほどではありませんが、よく歌手にありがちな肥満体ではなく、相当な美人であることはたしかです。ロッテ・レーマンがもっとも得意としたレパートリーは『ばらの騎士』です。彼女は作曲家R・シュトラウス自身にこのオペラの指導を受けました。

 そのレーマンが次のように説明しています。「元帥夫人は美しい若者と恋におち愛人にしている。彼女の年令は『中年』。シュトラウスに尋ねたところでは、ほぼ三十五才の女を想定しているということだった。当時その年令の女性はいまよりもはるかに年配に思われていたのだ」。
  何度も舞台で元帥夫人の役をこなしたレーマンは、第一幕が開くときの元帥夫人の心境を次のように説明します。「彼女にとってオクタビアンはかわいい玩具であり、魅力的な若者であり、この少年に恋を教えることはなにごとにもかえがたい体験である。・・今朝の夫人はいくぶん疲れている。若者の情熱が疲労を招いた」。この後です、みんながいなくなった居間で、例の鏡を見て、忍び寄るかすかな「老い」を知る瞬間は。
  彼女は「神様はどうして隠して下さらないの?」と歌い、さらに思い悩みながらも静かな諦念へと向かいます。レーマンは「彼女は試練を経た人間の、すべてを知りつくした微笑をたたえることを学んだ。若い日の抵抗から、彼女は諦めの哲学をようやく学びとっていた。それこそが彼女の人生の最大の勝利であった」。一人の賢者となった元帥夫人を演じるもう一人の賢者。『ばらの騎士』の魅力はこのように作られているのです。

   
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