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オペラからのメッセージ
 
第2章 諦めの哲学を語る元帥夫人――R・シュトラウス「ばらの騎士」

 「あなたがもっとも好きなオペラを一つだけあげてください」といわれたら、私はためらうことなく『ばらの騎士』を第一にあげます。次に好きなものとはといわれれば、J・シュトラウスの『こうもり』をあげます。
  私は明るく華やかで、幸福な恋愛関係と軽やかな大人の冗談とが入り交じっているものが好きなのです。ところが、残念なことにこのような私の好みの領域はオペラ作品としては比較的少なく、ジャンルとしてはオペレッタに近いものとなります。そしてオペレッタのLD作品は現在のところ極端に少ないのです。
  私があげた二つの作品はいずれも正当なオペラとして評価はされていますが、『ばらの騎士』を作ったホフマンスタールとR・シュトラウスは「今度はオペレッタ風のものを作ろう」と相談したらしいのですね。一方『こうもり』は最初からオペレッタとしても知られている作品ですから、私の好みの単純構造はバレてしまいますね。

 ギリシャの時代から、正統的な演劇のスタイルは悲劇と相場が決まっています。ギリシャの古典喜劇もたくさんありますが、喜劇の方は演劇としてはいちだん地位の低いものと見なされていました。アリストテレスもその「詩論」の中で、もっぱら悲劇について述べました。悲劇に対する喜劇は、日本の「能」に対する「狂言」の地位と同じような関係でしょう。そこで、オペラに対するオペラブッファ、あるいはオペレッタも同じような関係になります。正統的なオペラはいずれも悲劇というのが一応の前提です。
  悲劇にくらべ喜劇がなぜ一等地位が低いと見られているのか。これは難しい問題ですが、ギリシャの古典演劇に関していえば、喜劇作品は別名サテュロス劇ともいわれ、随所に猥雑なしぐさやいい回しが出てきたことが一つの理由として上げられると思います。

 これは考えてみれば一つの心理的なカウンターバランスです。ギリシャ悲劇といえば、アガメムノーンやオレステスやそれに名高いオイデプス王の物語をあげることができますが、これらの物語はあまりに悲しく、残酷で、不条理です。こうした悲劇の幕間に演じられたのが喜劇ですから、一方が深刻であればあるほど他方がドタバタに、猥雑になるということは避けられなかったのかもしれません。
  また、以前にご紹介したガダマーの理論にのっとっていえば、何が何でも笑いのうちに終らなければならない喜劇に対して、悲劇のほうが人間の真理に迫り、人間の真理をえぐりだし、深いところで人々の魂に訴えるのだということもできましょう。
  こうしたことから、西欧の演劇の歴史においても、ラシーヌやコルネイユ、それにシェイクスピアの悲劇作品に代表されるように、悲劇が正統の地位についているわけですね。またモリエールのように喜劇の作家として知られている人の作品でさえ、「ドン・ジュアン」「人間ぎらい」など、シリアスなもののほうが評価が高いというわけです。
  だいぶ前置きが長くなってしまいました。いずれにしても私はややコミカルタッチの作品のほうが好きです。この意味で『ばらの騎士』は、私にとって必要なすべての条件、明るく華やかで幸福な恋愛関係と軽やかな大人のセンスという条件を満たし、音楽的にも最上級の、すばらしい作品と思われます。

 ここで少しばかりさわり部分をご紹介して、みなさんにもこの作品を好きになっていただきたいと思います。『ばらの騎士』の舞台になっている国はウイーンで、時代的にはマリー・テレジア帝の時代といいますから18世紀中頃ですね。実際の史実には関係ない、ホフマンスタール独自の脚本です。このオペラは序曲が重要なのですが、この序曲は何とベッドシーンの音楽なのです。第一幕はまだ開いていません。そこで演奏される音楽は男女の絡み合いであり、次第に高まる興奮であり、そしてとくに男性の絶頂感です。
  「そんなことが音楽で表現できるのか」という人もいるでしょう。しかしR・シュトラウスは音楽ですべてのことを表現できた史上ただ一人の音楽家だったのです。もっとも音楽によるセックスといっても、それと知って聞いていなければ分かりません。しかしオペラファンはすでにこの音楽が何を意味するか知っていますので、かたずを飲んで幕が開くのを待っています。

 幕が開くと舞台の中央にはでっかいベッドがあって、そこに半裸の二人がまだ抱き合っている生々しい情景があらわれます。ところがこの二人はともにソプラノ歌手です。つまり一方の若い男性は女性が演じることになっているのです。このように、女性が演じる男性役のことを「ズボン役」といいます。『ばらの騎士』はズボン役を起用することによって、男女関係のどぎつさを音楽的にやわらげてあるわけですね。
  女性は35才の元帥夫人(マリー・テレーズ)、一方はオクタビアンという、まだ十八才の少年貴族です。オクタビアンの最初のせりふは「ゆうべのきみ、けさのきみがどんなだったか、だれも知らない」というアブナイものです。
  これに対して奥方は「それが悲しいの、カンカン?。みんなに知ってもらいたいの?」と受けます。たったこれだけのやり取りで、一方が恋の勝利に気負った若者、一方が経験豊かな人妻であることを知らせるのですから、ホフマンスタールという作家もすごいものですね。

 元帥夫人は夫の出張中に浮気を楽しんでしまったわけですが、二人が身仕度しようとしているところに突然来客があります。来客はオックス男爵という下品な貴族。彼は元帥夫人に頼みがあって早朝やってきたのです。オックス男爵がいきなり寝室にまで入ってきたので、オクタビアンは部屋を抜けだすことができず、洋服とサーベルを持ってベッドのカーテンの蔭に隠れます。
  オックス男爵は元帥夫人に「自分はこれから若い町人娘と結婚するので、婚約の使者を紹介してほしい」といいます。この結婚話にはさまざまなニュアンスがあります。まず第一にオックス男爵自身はもう老年に近い相当エッチな男だということ。第二に貴族が町人と結婚するということは、彼が財産を目当てにしているということ。第三にこれは政略結婚ですから、相手の娘はオックス男爵にまだあっていないということ。
  元帥夫人には依頼を断わる理由が見つからないので、内心不快を覚えながらも、「承知しました」といいます。婚約の使者は「ばらの騎士」と呼ばれ、花婿の代理として婚約の徴である銀のばらを花嫁に持参する役割です。日本でいえば仲人が結納を持参するという、あれです。奥方は「ばらの騎士」としてオクタビアンを使いに出そうと考えました。

 そのとき突然、部屋の中に若い小間使いがあらわれました。好き者のオックス男爵はとたんにこの小間使い娘を気に入ってしまいました。奥方の手前もおかまいなしで小間使いの腰にさわったり、手を握ったり、食事に誘ったりという具合で、どうにもあつかましい本領を発揮します。見かねた奥方に「結婚前の花婿がそんなことでいいんですか」とたしなめられても平気の平座。ところがこの小間使い、さっきまでカーテンの蔭に隠れていたオクタビアンの変装でした。そこで話はややこしくなります。
  そのとき謁見の時間が始まります。ついでその騒がしい時間も終ると、元帥夫人が鏡を見ながらひとり物思いにふける例の場面となります。そこへ乗馬服に身を固めたオクタビアンがさっそうと入ってきます。また二人きり。そこでオクタビアンは奥方を抱きしめて、二人の仲がいまや特別のものであり、自分がどれほど愛しているかを示そうとします。

 ところが元帥夫人はもうさきほどの気分ではありません。人が入ってきてムードはぶち壊されたし、いましがた自分は哲学的な瞑想にふけっていました。だから、自分にからみついてくるオクタビアンがわずらわしい。もうちょっと静かにしていてほしい。このデリケートな女の気持ちの変化が若い男には分かりません。「聞き分けてね、カンカン」と奥方。そして元帥夫人は次のようなすばらしいアリアを歌います。
  「カンカン、私には時間の流れてゆく音が聞こえる。逆らうことはできないの。・・きょうかあしたか、あなたは私を捨てていってしまうのよ。若い美しい人のところへ。・・私は二人のために真実をいうだけよ。楽にしなくちゃ、心も体も楽に、会うときも別れるときも・・、そうでないと私たちは人生に罰を受け、神さまに見放されてしまう」。
  なにごとにも潮どきというものがあり、それを見失うものは不幸になる、これが賢者マリー・テレーズの結論でしたが、こんなに深い真理を、若い坊やがどうして理解できたでしょうか。

 第2幕はぜいたくな広間、オックス男爵が財産目当てに結婚しようとしているファーニナル家です。「ばらの騎士」が到着するというので、一人娘のゾフィーは興奮し、居ても立ってもいられない様子。そこへ若さ輝くオクタビアンが登場するので、ゾフィーは花婿よりもこの使者のほうを好きになってしまいます。もちろんオクタビアンも一目でこの美しい娘を好きになります。
  そこへオックス男爵がやってきて、信じられないほどの下品さを示すので、ゾフィーは思わずオクタビアンにすがって助けを求め、行きがかりと好意とでオクタビアンはオックス男爵と決闘するはめになります。2人は剣を抜きあいますが、オクタビアンの剣が男爵の片腕をチクリと刺すと、オックス男爵は悲鳴を上げて「殺される!」とばかりに大騒ぎして、取り巻きに介抱される始末。オックスは口先だけの腰抜け貴族だったのです。

 第2幕の終わりのところで、R・シュトラウスは恐ろしく美しいワルツを書きました。騒ぎもおさまり、人気がなくなった舞台で、オックス男爵が気付け用のワインを飲みながら歌うものです。「一人では昼でもさみしい。二人なら夜は短い・・」。
  オックス男爵はギリシャ劇のサチュロス。半身は人間、半身は山羊の、あれです。この猥褻でグロテスクな人物のために、だれにも書けない、夢のように美しいワルツを捧げたシュトラウスという作曲家もただ者ではありませんね。男爵の野太いバスのEの音とともに第二幕が静かに閉まります。

 第3幕は、これまでとうって変わって汚らしい「あいまい宿」の地下の一室。左側の半開きのカーテンからはベッドが見えます。オックス男爵は一人の小娘を連れて入ってきますが、その意図は見え見え。「おまえはわしにどんなに甘えてもいいんだよ」とオックス男爵。二人は食事を始めますが、この小娘こそ、小間使に変装したオクタビアンです。彼はアルバイトで雇った連中と示し合わせてオックス男爵をギャフンといわせ、ゾフィーとの結婚を諦めさせようと画策したのです。
  オックス男爵は元帥夫人のところで見かけた小間使がいたく気に入っていましたから、まんまとだまされて、自分が相手を誘惑したつもりでここにやって来ました。いよいよお床入りという段になると、不意に部屋の窓や地下からお化けがあらわれ、オックス男爵を脅します。オクタビアンの雇ったアルバイトたちが活躍してくれているのです。
  こわくなった男爵が大声で人を呼ぶと、間が悪いことに警察官が入ってきました。さらにはゾフィーとその父親まで出現します。男爵の行状の悪さを暴露しようとするオクタビアンの作戦はまずまず成功です。

 ところがオクタビアンの計算違いがひとつ発生しました。元帥夫人マリー・テレーズまでもこの騒ぎの現場にあらわれてしまったのです。かくして、この不潔なあいまい宿の一室に、すべての関係者が集結してしまうわけですね。こうしてドラマは最後の解決場面を迎えます。
  第3幕ではいろいろのことが一瞬にして起こります。まず娘をオックス男爵に嫁がせて、貴族と親戚になろうとしていたファーニナル氏は、その野望を断念します。ゾフィーはオクタビアンへの愛を確認します。
  元帥夫人は、この若い二人がすでに愛し始めていることを敏感に察知します。そこで彼女は雄々しくオクタビアンとゾフィーを結びつけるために、自分がオクタビアンを諦めることを決意するのです。元帥夫人はオクタビアンにいいます。「少々おとりこみのご様子ね。あの方がどなたかよく分かりましてよ。とてもかわいい方だわ」。

 この場面の元帥夫人の心境を、往年の名ソプラノ、ロッテ・レーマンは次のように書いています。「夫人にしてみれば、この半分子供にすぎない娘に格別の取柄を見出すことはできない。この娘についてただ一つ明らかなことは、自分がずいぶん昔に失ってしまったあの大いなる若さと無垢の魂があることだけだ・・」。
  またレーマンはこうも書いています。「夫人が立派にやりおおせるようにと願っていたただ一つのこと、つまりオクタビアンが自分を見捨てて別の女性のもとに走る時に、軽い気持ちでやさしく受け止めようという彼女の強い意志は、いま貫かれた・・」。
  彼女はまだあきらめ切れないでいるオックス男爵に、威厳をもって「出ていきなさい。もう終ったのです」と最後の引導を渡し、こうしてゾフィーとオクタビアンの結婚の障害を取り除いてやります。

 このオペラが私たちに告げているのはどんなことでしょうか。それは「けじめ」ということだと私は思います。元帥夫人は夫の留守を利用して、いささかアバンチュールを楽しみました。別にほめられるようなことではないけれど、ここでは道義性はまったく問題にされていません。そうではなくて一個の大人として、彼女がどのようにふるまえるかが問題になっているのです。
  デカルトは「優柔不断は最大の害悪である」といいました。優柔不断とはけじめを知らない状態です。もしも元帥夫人がオクタビアン可愛さに、ズルズルと不決断の状態を続けていたらどうなったでしょうか。それはオクタビアンのためにもならなかったし、彼女も結局は幸せになれなかったでしょう。けじめをつけるとは、何かに押されて行動することではなく、主体的に、自分の考えで決断することです。

 この点彼女は賢者として考え、元帥夫人の名にふさわしく堂々と、主体的に行動しました。だからこの劇は悲劇ではありません。夫人は、父親のファーニナルを伴って舞台から去ろうとするとき、前を向いたまま片手を後ろにさしだします。この手にオクタビアンは感謝のくちづけをするわけですが、このときの夫人の心をレーマンは次のように説明しています。「夫人は彼に告げているかに見える。『心配しなくていいのよ。私には分かっていますよ。そして・・許しています』」。
  人生のすべての場面には始まりがあり、ふさわしい終り方があります。ものには限度があり、けじめがあります。このことを知っているものだけが人生を楽しむことができるのであり、諦めることができるのであり、真に悲しむことができるのです。
  R・シュトラウスはこの複雑な哲学を、すなわち享楽と崇高、ロココ的な華やかさと東洋的な諦念、出会いの愛と離別の愛を、限りなく美しい音楽にしました。これにまさるオペラはありません。

   
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