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オペラからのメッセージ
 
第3章 復讐された恋――チャイコフスキー「エウゲニ・オネーギン」

 オペラに用いられる直接的なテキストは、リブレットと呼ばれています。しかしリブレットは大抵の場合、原作文学からのオペラ用の書き直しという形になっていることが多いようです。たとえばヴェルディの「オセロ」や「マクベス」「椿姫」などがそうですし、グノーの「ファウスト」やマスネの「ウエルテル」、それにプッチーニの「マノン・レスコー」などもそうです。
  このように文学の名作は、オペラ作曲家の意欲をかきたてるわけですが、原作のままでは長すぎてオペラには使えません。そこでだれかが書き直しをすることになりますが、そこで原作の味を損ねることもありますし、またちがった味を出すことに成功する場合もあります。

 前章でご紹介した『ばらの騎士』は、最初からオペラ用に書かれた台本ですから、原作からの焼き直しにありがちな舌足らずのところがありません。R・シュトラウスという作曲家は、原作文学からの書き直しをきらってオリジナルなリブレットを要求しました。そこにホフマンスタールという、ドイツ第一級の得難い作家が協力してくれたわけですから、この二人のコンビによる作品は、オペラ史上に輝く最高水準の作品になりました。
  R・シュトラウスはオスカー・ワイルドの「サロメ」をみごとなオペラにしていますが、これなど、原作のドイツ語版をほとんどテキストとして使っています。ここにも文学に対する作曲者の一貫した態度が見えます。

 オペラのリブレットを考えた場合、どうしても大ワグナーに触れないわけにはいかないでしょう。ワグナーは既存のどんな文学作品も気に入らず、すべてのオペラ作品の台本を自分で書き下ろしました。彼の作品はその基本的な着想においても、文学表現のレベルにおいても、音楽表現のレベルにおいても、作品の規模においても、いささか人間ばなれしています。中には「ニーベルングの指輪」のように、一つの作品を聞き終るのに4日間もかかる、などという、途方もない作品もあります。
  私の知っているある人は大変なワグナーファンです。この人はいまでは独立していますが、サラリーマン時代にどうしてもワグナーの作品を現地で聞きたいという思いに取りつかれました。「現地で」というのは、ワグナーの作品を上演するために毎年、バイロイトで特別の音楽祭が開催されるからです。そこで会社に90日の休職届を出し、バイロイトに行ったそうです。

 バイロイト劇場はワグナーが自分の作品を上演させるために特別に設計し、建設させた劇場です。世界のオペラファン、そしてえり抜きのワグナーファンが毎年ここを詣でて、ワグナーの作品にしびれるというわけです。ちなみに、例の「指輪」の鑑賞には実質四日必要ですが、コンサートの場合は、4日ではすみません。中1日ずつ休みますので、これだけで一週間の日程が必要になります。オペラ鑑賞にも相当な根性が必要ですね。
  筋金入りのワグナーファンには脱帽しますが、私のような「にわかミーハー・オペラファン」には、ワグナーの重量感は耐えられません。むしろ原作の雰囲気を上手にアレンジし、ある側面を光らせてくれるような、小意気でおしゃれな作品のほうに心がひかれてしまいます。

 そうした作品の代表格を上げるとしたら、なんといってもチャイコフスキーの「エウゲニ・オネーギン」、それに「スペードの女王」ということになります。
  この二つの作品はロシアが生んだ天才作家プーシキンの叙事詩と小説から取られています。プーシキンは多くの音楽家に霊感を与えたらしく、ムソルグスキーやラフマニノフもプーシキンを題材にしています。私はチャイコフスキーの甘美な音楽による「エウゲニ・オネーギン」について語らずにはいられません。この原作はまず叙事詩としては長編ですが、小説としては中編というほうが適切かもしれません。日本では小説形式で翻訳が行なわれ、文庫本が出ていますので一読をおすすめします。

 エウゲニ・オネーギンはニヒルな青年ですが、この洗練された都会的なセンスと、暗い知性に一目でひかれてしまうのがこの作品のヒロイン、タチアナです。タチアナはオネーギンにあったその日に霊感を受けたようにオネーギンを好きになり、その晩、徹夜でラブレターを書きます。そして夜明けになるのももどかしく、この手紙を使いのものに持たせてやります。
  タチアナは二人姉妹の姉、二人は地方地主の子供ですが父親はすでになく、母親と乳母、それに何人かの使用人と静かに暮しています。タチアナは夢見る文学少女ですが、妹のオルガは活発な女性で、隣村に住む詩人のレンスキーと許婚の関係にあります。昨日はレンスキーが都会の学校で親しかった友人のオネーギンをつれて妹のオルガのところに遊びにきて、そこでタチアナとオネーギンが初めて顔を合わせたという次第です。

 文学少女で世間知らずのタチアナは、出会いのショックを早速ラブレターにしたためたわけですが、どうも昔から女性のほうから愛を告白するというのは賢明ではないようですね。それにオネーギンが相手というのは、ちょっとまずかった。いずれにしてもタチアナは手紙を出したことをひどく後悔し始めます。
  まもなく手紙を受け取ったオネーギンは、馬車を飛ばしてタチアナのところにやってきます。このときのタチアナの気持ちを想像してみてください。後悔と、不安と、ほんのかすかな希望。極端な感情の揺れ、前の晩に徹夜したために火照っている頭と身体。このような心理をチャイコフスキーの音楽はじつに雄弁に、あやしいまでに美しく、デリケートに描き出します。

 二人は屋敷の前に広がる庭の隅にやってきて、そこでオネーギンが彼女に話しを始めます。そこで聞いたものはタチアナが生まれて初めて聞く恐ろしい言葉でした。
  「率直な魂の打ち明けを、清らかな恋のお言葉を、僕は読みました。・・けれども僕はあなたをお褒めしようとは思わない。・・もし僕が一瞬間でも家庭の絵図に心を奪われることがあったなら、そのときは誓ってあなた以外、僕はどんな花嫁も探さないでしょう。・・ところが僕はしあわせのためには生まれついていないのです。僕の魂はしあわせには無縁なのです・・」。
  これはプーシキンの原作に使われている言葉ですが、そのまま旋律をつけてアリアとして歌えそうな、音楽的なせりふですね。おそらくこうした原作の魅力的な響きにひかれてチャイコフスキーはオペラを書く気になったのではないでしょうか。

 ところでごらんのように、オネーギンの言葉つきは美しくいかにも慇懃です。ここには乙女の心を傷つけまいとする紳士の配慮がこもっているように見えます。しかし、これがごう慢な男性の挨拶であることを知らないものがあるでしょうか。独身時代の男性たちは、いつもこの常套句を使って、恋のおいしい部分だけをつまみ食いして逃げてゆくのです。
  タチアナはうぶで率直な娘でしたから、こちら側から情報発信し、それでこの言葉を「事前」に聞けたのですが、似たような言葉を「事後」に聞く女性も多いわけですから、女性たちも「これぞ」という男性を選択するのはなかなか大変です。
  一方オネーギンの立場に立ってみましょう。彼はエリートとして最高学府に学び、それなりに遊びました。彼は数々の本を読みました。その結果得たものは何でしょうか。それは「人生は退屈だ」という真理だけでした。そこでプーシキンは彼を次のように表現しています。
  「いや、早くから彼の心は冷めていた。社交界のざわめきにも飽きがきて、美女も長くは彼の思いを捕らえなかった。不義の恋ももの憂くなった。・・幸い彼は、ピストル自殺こそしようとは思わなかったが、人生に対してはまるで熱意を失った・・」。

 オネーギンのイメージはファウストの後裔であり、国を追われるバイロンであり、「父と子」のバザーロフの前身です。プーシキンも「チャイルド・ハロルドそこのけに、陰気な、もの憂げな様子をして・・」と書いています。これをカッコよくいえば旧体制の矛盾を知り、自我に目覚めつつあるが、さりとて何をしていいか分からない早産のインテリ、しかし早くも、神を恐れぬ程度に理性を持った近代青年ということになります。
  彼にしてみれば、突然出あった田舎娘のラブレターに感動して結婚したりしたら、自分自身にさらに絶望するはめになったことでしょう。ところが、皮肉なことにこのようなニヒルでもの憂い様子が文学少女タチアナの心をとらえたわけです。以上のように観察してみれば、オネーギンのタチアナへのごう慢な挨拶の出所が分かります。

 タチアナの「名の日」のパーティが開催されることになり、近隣の名家や友人たちがタチアナの家に集合しました。この席にはオネーギンも呼ばれています。彼は親友のレンスキーと一緒にやってきますが、レンスキーがあまりにも妹のオルガに真剣なのを見て、ちょっと友人をからかってやろうという悪心を起こします。
  オネーギンにしてみれば、タチアナを振ってしまった後味の悪さと、心の空虚感をどう埋めていいか分からないのです。ダンスの時間が始まると、許婚のレンスキーと踊るとばかり思っていたオルガは、突然オネーギンに踊りを申し込まれてびっくりしますが、恋人を少しじらすのもいいじゃないかというので彼と踊ります。
  レンスキーは親友の意地悪に驚きますが、自分の番を待っています。ところがオネーギンはオルガを手放さず、最後の曲までオルガと踊ってしまいます。こうなると純真なレンスキーの心はズタズタです。親友に恋人を取られたと思い、すっかり逆上した詩人レンスキーは、オネーギンに向かって手袋を投げつけ、二人は明朝ピストルで決闘しようということになってしまいます。

 オネーギンは、自分がたしかにたちの悪い冗談をしていると思っています。しかしなにも「決闘」などといっていきりたつほどのことではない。しかし仕掛けられたら受けないわけにはいかない。「これがなりゆきか」ということです。
  さて、ここでオネーギンに誘われるままに、最愛の許婚レンスキーをそっちのけにして踊りまくった妹、オルガの心理を解剖してみましょう。「女なんて所詮こんなものさ、いい男に誘われればすぐについていく」という女性不信型の論評もあるでしょう。
  あるいは「おねえさんに少しも関心を示さなかった男性が、私に関心を持っている。やっぱり私は美人なんだ」ということで、すっかり自信を持ったオルガが、姉と恋人に当てつけをするつもりで踊ったのだ、という解釈もあるでしょう。また他方では実直なレンスキーの一本調子にマンネリを感じたオルガが、ちょっとした冒険的な刺激を求めたのだという解釈も若干当たっているかもしれません。

 私は、オルガには多少のいたずら心はあったかも知れませんが、レンスキーを裏切るつもりはまったくなかったと思います。むしろ、オルガには許婚に対する信頼と甘えのようなものがあって、彼女はレンスキーの雅量を試したのだと思います。これはモリエールにおけるセリメーヌとアルセストの関係と同じです。ところがアルセストもレンスキーもこの手の雅量は持ち合わせませんでした。
  オルガの行動を見てレンスキーは心の中で叫びました。「コケットよ、浮薄な子供よ、ようやくおむつを脱いだばかりだのに! それなのにもう彼女は手管に通じている、心変わりを学んでいる!」。彼には女性がどんな生き物であるか、まだ分かっていなかったのです。
  翌朝レンスキーは約束の場所に早く着きました。そして彼は決闘を前にして美しいアリアを歌いました。

 「ああ、どこへ去ったのか、私の春の黄金の日々よ。明日の日は私に何を送るのか、目を凝らして見ても、深い霧に隠れて見えない。・・たとえ私が一すじの矢に貫かれて倒れようとも、その矢が身をかすめて飛び去ろうとも、どちらでもいい。・・私はこの世から忘れられる。けれどもうるわしい乙女よ、そなたは一人私の墓を訪ねて、時ならぬ私のむくろにさめざめと涙を流し『あの人は私を愛してくれた。あらあらしい生命の悲しい曙をただひとり私に捧げてくれた』と思ってくれよう・・」。
  これはあらゆるオペラのテノールのアリアの中でもっとも美しく、もっとも悲しい歌です。チャイコフスキーの特性のすべてが凝縮された「白鳥の歌」です。

 やがてオネーギンは約束の時間よりも遅れてやってきました。二人は作法にのっとって歩数を数え、ふりむきました。銃声が響き、一人が倒れました。介添人がかけ寄るとレンスキーはすでに絶命していました。
  この「エウゲニ・オネーギン」という作品を書いてから7年後、プーシキンは自分自身が決闘するはめになりました。無礼にも自分の妻に言い寄った近衛士官ダンテスが相手です。そして彼は射殺され、38才の短い生涯を閉じました。詩人プーシキンは、詩人レンスキーの中に自分の運命を予告していたのでした。
  第3幕は豪華な館の大広間。このパーティに長旅から帰ったオネーギンが居合せています。彼は友人を殺した後、各地をさまよいました。プーシキンは「彼は不安のとりことなり、たえず居場所を変えないではいられなかった」と書いています。このパーティの席上で彼はある美しい婦人に目をとめ、近くの公爵に「あの婦人は誰?」と聞きます。

 驚いたことに公爵は自分の妻だといって紹介しますが、これこそあのタチアナです。オネーギンを紹介されたタチアナの様子。「公爵夫人はじっと彼の顔を見つめた。どんなに彼女が思い乱れ、驚きもし愕然としたにもせよ、彼女は素振りひとつ変えなかった。以前と同じ物腰を保ち、会釈のそぶりも静かだった」。
  オネーギンは再会したタチアナの一段と美しく、気品のある姿を見て、またその優雅に落ち着き払った様子にすっかり参ってしまいました。そして彼は田舎娘とあなどり、偉そうなことをいって彼女の愛を拒んだにもかかわらず、彼が長年放浪の中でさがしもとめていた女性はタチアナにほかならなかったことに気づくわけです。

 ずいぶん勝手な話ですね。ここからオネーギンの必死の愛の告白、口説が始まります。タチアナは彼に追いすがられて一瞬グラリ、となる場面はあるのですが、それでも彼女は踏み止まりました。オネーギンがタチアナに拒まれ、人生の一切を失ったことに気づき、呆然として立ちつくすところでオペラ全幕の終りとなります。
  このオペラ、「エウゲニ・オネーギン」が私たちに発信していることは何でしょうか。それは第一には裏切られた愛の復讐、それも美しい復讐です。第二には女性の恋愛感情におけるタチアナの清純無垢、オルガの恋の中にあらわれているデモーニッシュなコケットリー、そして貞淑と逸脱の間で微妙に揺れ動くタチアナの成熟した感情です。
  第三には男性の恋愛感情におけるレンスキーの忠実でゆとりを持たぬ愛、そして放浪の末に虚栄と自尊心を打ち砕かれるオネーギンの愛です。

 中心的な登場人物はわずかなのに、人生経験や加齢とともに変化する愛の多様な側面とコントラストを、プーシキンはみごとに描きました。そしてチャイコフスキーはこれをさらにすばらしい音楽にしました。
  原作のリブレット化はチャイコフスキー自身と、シロフスキーという友人の二人の手によって行なわれたといわれています。チャイコフスキーはこのオペラを作っておきながら、「私はエウゲニ・オネーギンという男は嫌いだ」といっていたそうです。この感情、よく分かりますね。
  私たちも一観客として、清純なタチアナの心を踏みにじったオネーギンを憎らしく思います。けれど、オネーギンは、どこかしら私たちがそうありたいと願うような、男性の理想像を示しています。彼はまぎれもなく妥協を知らず、クールでエレガントな、情熱のために死ねる、そんなヒーローの典型なのです。

 プーシキンが決闘で殺されたことはすでに述べましたが、彼は政治的にも反体制的な、要注意人物と見なされ、一時は追放処分にもあっています。彼の才能を買っている皇帝に向かって、人もなげな返答をして皇帝を怒らせたりもしました。要するにプーシキンという作家自身が、ほかならぬオネーギン自身だったのです。たとえばスタンダール自身がほかならぬファブリスでありジュリアンであったように。

   
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