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オペラからのメッセージ
 
第4章 夢と幻の異次元宇宙へ――ドビュッシー「ペレアスとメリザンド」

 オペラとリブレットの関係で、それぞれが名作であるような作品を考えようとすると、私はどうしても「ペレアスとメリザンド」のことを考えざるをえません。ご承知のようにこの原作戯曲はメーテルランクによって書かれました。これをもとにオペラを作り上げたのはドビュッシーです。19世紀末〜20世紀初頭を代表する天才芸術家どうしの対決ですから、これはもうワクワクしますよね。
  この二人は、はじめは仲良く仕事をしていたらしいのですが、そのうちつまらないことを原因に本当にケンカ対決をしてしまいました。最後は裁判所にまでいってケンカしたというのですから、どうにも困ったものです。しかし私たちにとっては美しいリブレットと美しい音楽があればいいので、芸術家のケンカのことは放っておきましょう。

 メーテルランクというと、「青い鳥のメーテルリンクとは別人か」とたずねる人がいるでしょうね。もちろん同一人物です。「ギヨエテとはおれのことかとゲーテいい」などという冗談があるくらい、作家の名前の紹介にも時代の変遷や流行があります。
  最近はメーテルリンクではなく、メーテルランクというのが相場だそうですので、この名を使っておきます。なお、メーテルランクの「ペレアスとメリザンド」の戯曲本は岩波文庫で、珍しく横組のフランス語との対訳編集になっています。挿し絵もたっぷり入っていてとてもいい感じです。
  メーテルランクの「ペレアスとメリザンド」をオペラにしたのはドビュッシーですが、この戯曲に関心を示した作曲家はドビュッシーだけではありませんでした。ドビュッシーの先生に当たるフォーレも劇音楽を作りましたし、シベリウス、シェーンベルクなどもこの脚本に霊感を得て音楽を作りました。
  フォーレの作った「ペレアスとメリザンド」の「シシリエンヌ」は、今日とてもポピュラーになってしまいました。テレビコマーシャルに使われたり、商店街のバックミュージックにさえ使われたりしています。

 大分話は脱線しましたが、オペラに戻りましょう。第1幕が開くと、そこは暗い森の中です。この森の中で道に迷っている1人の騎士がいます。この騎士は近くの城主の長男ゴローです。
  ゴローというと日本人の名前みたいで変な感じがしますね。私の学校のときの担任の先生の名前が渡辺五郎でした。私は自分の飼い犬にゴローという名をつけました。いけね。また脱線しました。 
  このゴローが気がつくと泉のそばに美しい若い娘が座って泣いています。彼が近づくと娘はひどくおびえますが、しばらくするとやや安心し、泉の中に金の冠を落としたといいます。
  ところがゴローが冠を取ってやろうというと「いえ、もう欲しくありませんから。あれを拾っておしまいなら、私が代わりに水に沈みますから・・」などといいます。どうものっけから謎だらけです。

 私はひとつ恥を白状しなければなりません。ずっと以前に私は日本の演奏家たちによって演じられた「ペレアスとメリザンド」を見たことがあるのです。その当時私はオペラにはまったく興味がありませんでしたので、しかたなしにおつき合いで見ていました。
  そのときの舞台はほとんど真っ暗で何も見えませんでした。音楽はたしかにドビュッシーのものではありましたが、弱々しく、とぎれとぎれにしか聞こえず、私は大いに失望しました。そして「ペレアス・・はつまらないオペラだ。やっぱりオペラなんてだめだ」という自分なりの結論を出してしまいました。弁解していいますが、これはドビュッシーが初演したときの聴衆の反応に近いものでした。当時の人々もこの風変わりなオペラの真価を理解することはできなかったのです。
  ところがLDで見る「ペレアスとメリザンド」は舞台とは大違い、すばらしい作品でした。これはある意味では当然のことでもあります。演奏家が違うといってしまえばミもフタもなくなってしまいますが、それ以前に、この物語の全場面が、夜または薄明の状態で上演されなければならないので、舞台を明るく、見やすくすることができないのです。
  この点、LDはいくら暗くても演奏家の表情をアップでしっかり映してくれますから、暗い舞台を客席の隅で見ているのとはわけが違います。「ペレアス」はLD時代のオペラなのかも知れません。

 森の中で美しい娘メリザンドを見つけたゴローは、彼女の素姓も知らぬままに自分の妻にし、半年も城に帰らずにいます。彼は自分勝手な行動をとった後なので、城の敷居が高くなり、自分の父親が怖くなったのです。そこで弟ペレアス宛の手紙を書き、自分が城に帰っていいなら塔に灯火の合図をしてくれるように頼みます。
  場面は城の中、ここがゴローの手紙を母親が読む有名な「手紙の場面」です。ほの暗く神秘的で、何か不吉な事件を予感させるような、名状しがたいおののきを感じさせる場面です。ゴローの父であり、城主でもあるアルケル王は、ゴローの所業をいぶかしみながらも、帰宅を許すむねを告げます。
  この物語はいつ、どこで、どのような背景で、という説明が一切ありません。メリザンドがどうして森の中でゴローにであったのかも最後まで説明されません。舞台上での会話もはなはだ暗示的、象徴的で、一見取りつくシマがありません。見るほうは自分なりの想像をしなければならないわけです。

 私はこの物語を古いフランク族のある部族の王城とその周辺で起きたできごと、と勝手に決めています。そしてメリザンドをオンディーヌ(水の精)、日本でいえば「おつう」のようなものと考えることにしています。もっともこれは私の解釈ですから、正しくありません。見る人は自分の責任において解釈するなり、ナゾをナゾとして受け入れるなりして下さい。
  ある日、メリザンドはゴローの弟のペレアスと、城の構内にある古い井戸のところで話をしています。このときメリザンドは、ふざけてゴローにもらった大切な指輪を井戸の中に落としてしまいます。ここのところは、メリザンドが泉の中に王冠を落とした状況によく似ていますね。

 指輪をなくしたことをゴローに問いつめられ、仕方なくウソをいったメリザンドは、ペレアスと二人で夜中に海辺の洞窟に指輪を探しにやらされます。月が出ていて、洞窟には塩の結晶や水晶や夜光虫が光っています。もともと幻想的な物語ですが、この場面はひときわ夢幻的です。このあたりは、ドビュッシーの音楽特性の独壇場といっていいでしょう。
  こんなことがあってペレアスとメリザンドとの関係はより近いものとなりますが、ある夜、メリザンドが城の窓から長い髪を梳いていると、ペレアスが窓のしたからこれを愛撫するという場面が描かれます。メリザンドの髪の毛は彼女の身長よりも長いのです。このところの音楽もメチャクチャに幻想的、官能的です。
  二人が「髪の毛遊び」をしているところへゴローが通り、二人を叱ります。ゴローは二人の関係を怪しむようになります。ゴローは弟にひそかな殺意を抱きますが、同時に二人の関係がどの程度のものなのかを確認したいと思います。彼は先妻との間にできた子供イニョルドを使って二人の様子を探らせようとします。

 ある夕方惨劇が起こりました。ペレアスとメリザンドが城の外で逢引し、二人がはじめて愛していることを告白しあったとき、突然ゴローが出てきてペレアスを刺してしまうのです。メリザンドは失神し、城内に運ばれます。ゴローは自殺をしようとしますが、果たせません。メリザンドは意識不明のまま子供を産み、いったんは意識を取り戻しますが、次第に衰弱し、瀕死状態となります。
  その間ゴローは瀕死の床にあるメリザンドを問いつめ、ペレアスとの間に何もなかったのかを確認しようとします。「どうなのだ、お前たちの仲は道ならぬものだったのか、さあいってくれそうなんだな、そうなんだろう」「いいえ、いいえ、あたしたちは道ならぬことはしていませんわ。なぜそんなことをお尋ねになるのでしょう」「メリザンド、頼む、神にかけて本当のことをいえ」「本当のことを申したではありませんか」。こうしたやり取りのため、メリザンドの体力はさらに弱ります。

 賢者の相貌を持つアルケル王は、真相を知りたいあまりメリザンドの口を割らせようとして瀕死の妻につめ寄るゴローに向かってこういいます。「あれの心を乱すことは、ならぬ。もう、ものを言っては、ならぬ。そなたには、魂というものが分かっておらん」。そのとき、どこからともなく女中たちが現われ、ベッドを静かにとりかこみます。ついにメリザンドは横になったまま両手を長くさしのべ、そして息絶えます。
  ここで「ペレアス」の音楽のことを考えましょう。ドビュッシーはかねてから、「ペレアス」の台本を見つけるはるか以前に、友人たちにこういっていました。「時はいつ、ところはどこどこと局限されぬ登場人物を構想し、・・ぼくがやりたいようにまかせてもらえる詩人(脚本家)を見つけたい」。
  また彼はこうもいっていました。「音楽劇場ではどうも歌いすぎます。・・感動的なアクセントは大事に取っておかなくてはいけないのに・・」。だからドビュッシーにとって「ペレアス」はうってつけのテキストでした。

 ここでフランスの「歌」についてひとこと。ドイツでリートと呼ばれる音楽のジャンルは、フランスではメロディと呼ばれます。それは単なる言葉だけの違いではなくて、音楽の違いです。歌唱法も違います。ドイツリートやイタリア歌曲が声を存分に張り上げて歌うのに対して、フランス歌曲ではむしろおさえ気味に、空気の余力を残して歌います。
  言葉と呼吸をメロディの一部として用いるといったらいいでしょうか。ドビュッシーは最初から最後まで力の限り歌う従来方式では、自分の考える真の音楽を表現することはできないと考えたのです。ですから、「ペレアスとメリザンド」を普通のオペラを見るように見た人は、私と同様とまどい、奇妙に感じるかも知れません。それは吐息と言葉が昇華されてメロディになったというような、心理的な、幽玄な、それでいて現実的な「語り」に近い音楽なのです。

 ドビュッシーは自分のイメージにピッタリの台本を発見しましたが、作家の許可なしにオペラを作り、上演することはできません。そこでドビュッシーはメーテルランクに会いに行き、オペラ化の許可を求めるということになります。
  ところが、ドビュッシーもメーテルランクも、初対面の人に対してはまるで子供のようにシャイなので、おたがいにまともに口をきくことができません。このときドビュッシーの友人としてついていったのがピエール・ルイスという詩人です。
  彼はいっています。「ドビュッシーに代わってぼくが弁じたてた。彼は自分で説明するにはあまりに内気すぎた。ところが、メーテルランクはドビュッシー以上に内気で何一つ受け答えがない。そこでメーテルランクに代わってぼくが返事をした。あの情景をぼくは決して忘れないだろう」。
  ピエール・ルイスは依頼側と回答側の両方を自分一人でやったわけですから、腹話術師か、落語家みたいなものですね。極端に内気な男女を紹介した仲人の立場といったらいいでしょうか。ところが、おたがいに内気で口もきけなかったようなこの二人が、最後は法廷闘争までやるのですから、人間というものは分かりません。
  いずれにしても、感じやすく傷つきやすい二つの魂が出会い、そこで二十世紀の初頭を飾るもっともナイーブなオペラが完成した、このことだけで私たちは満足することにしましょう。

 またまた脱線をさせていただきます。ドビュッシーとメーテルランクとの間に入って、二人の代わりに大いに弁じたて、何とか交渉をまとめたピエール・ルイスという詩人は、ドビュッシーの生涯変わらぬ友人でしたが、ドビュッシーはこのルイスの詩をもとに美しい歌曲を何曲も作りました。
  私がここで「生涯変わらぬ友人」といったことには意味があります。というのは、ドビュッシーの女性問題が原因で、他の友人たちが彼を非難したり、絶交したなどということがあったからです。
  私はあるときテレビで、チェロの巨匠カザルスへのインタビュー番組を見たことがあります。カザルスは、同時代の作曲家ラヴェルについてすばらしい思い出を語ったあとで「ドビュッシーについてはどうでしたか?」と聞かれると、突然けわしい表情になり、「ドビュッシーについては何も語りたくありません」と答え、固く口を閉ざしました。このことから見ても、ドビュッシーという人は毀誉褒貶のはげしい人であったらしく思われます。

 さて、ピエール・ルイスの話に戻りますが、彼の代表作に「ビリチスの歌」というのがあります。この詩集は古代ギリシャ時代に思いを馳せて、自然で奔放な男女の愛、そして女性同志の愛をも歌った、たとえようもなく美しい作品です。ドビュッシーは、この詩集を題材にして同名の「ビリチスの歌」という歌曲作品を作りました。
  ピエール・ルイスは、「ビリチスの歌」発行に当たって、古代ギリシャの古文書が発見されたのだ、という設定をしました。そして「ビリチス」という美しいギリシャ女性の墓があったという、まことしやかな説明を詩集前文の中で書きました。その一部をご紹介しましょう。
  「墓はG・ハイム氏によって、パレオ・リミッソにおいて、・・古代のある街道のほとりに見出された。・・墓柩を開くと、ビリチスは二十四世紀以前に、敬虔な手によって整えられたままの状態であらわれた。・・香料の瓶は土釘につるされていて、その一つはこれほど長い時を経てしかもなお匂っていた。・・骸骨は雪の枝のように白かった。しかし、まことに軽く、まことにもろく人の手が触れるや否や、塵となってくだけ散った」。

 当時の読者の中には、ピエール・ルイスのこの冗談をまともに受けた人が少なくなかったといいます。私は昔、鈴木信太郎訳の「ビリチスの歌」の初版本(一九五四年刊)を古本屋で発見しました。この詩集は各ページにみごとな挿し絵があり、最初から最後までグリーンのインクで印刷されています。
  ドビュッシーはこの「ビリチスの歌」にも美しい音楽をつけたのです。この音楽も大変風変わりです。基本的には詩の朗読に音楽をつけているのです。シェーンベルクの「月に憑かれたピエロ」に似ていますが、こちらのほうがずっとエレガントで、何よりも「ペレアスとメリザンド」の楽想にきわめて近いものがあります。
  私の手元には、「ペレアスとメリザンド」の初演でメリザンドを演じたメアリー・ガーデンの写真があります。うーむ、彼女は美しい。完全なメリザンドです。

 ところでメーテルランクとドビュッシーの不和の原因は、メーテルランクがメリザンド役として自分の妻のジョルジュエット・ルブランの起用を望んだのに、ドビュッシー側がこれに応じなかったからだという説があります。しかし私としては、歌はどうだったか知れませんが、この写真を見るかぎりは、ほかのメリザンド役は考えられませんね。
  ところが初演は散々でした。意地の悪い妨害などもあったようです。このオペラ上演に打ち込んできた指揮者のメサジェは最後の幕が下りると、こらえずに泣き出しました。気をまわして慰める人にメサジェは「そうじゃない、ペレアスがかわいそうなんだ」といったそうです。何しろフランス人は気位が高いですからね。

 初演の不評、初期の批評家たちの酷評にもかかわらず、このオペラの評判は次第に上がりはじめました。識者たちがその真価を認め始めました。ロマン・ロランは「ワグナーに対するフランス魂の、正当で、自然で、生命から発する反動」と激賞しました。
  若い人達が熱心に劇場に通い、熱狂しました。若者たちのあいだにはペレアスやメリザンドを気取る一種の風俗が出現しました。この青年たちは「レ・ペレアストル」と呼ばれたそうです。こうして美しく、夢幻的な革命の音楽は、オペラの歴史に不動の地位を築くに至ったのです。

 「ペレアス」に似た物語は少くありません。つまり愛してはならない二人の、愛の物語です。オペラだけでも、「フランチェスカ・ダ・リミニ」「トリスタンとイゾルデ」などを思いつきます。前者はダンテの神曲に登場する悲劇です。北原白秋が「あはれ人妻、ふたつなきフランチェスカの物語・・」と歌った、あれです。フランチェスカは乱暴で醜い兄と結婚しますが、美男の弟パオロと愛しあい、兄に刺されて二人とも死にます。
  トリスタンとイゾルデの話はワグナーの楽劇でご承知の通り。王の花嫁イゾルデ護送の任務に当たったトリスタンは、媚薬の力によってイゾルデに呪縛され、ここから悲劇が起こります。トリスタンの物語の原形は古くからヨーロッパにフォークロアの形で存在し、これらは「原トリスタン物語」と呼ばれています。

 偶然からの結婚、愛していたはずの二人の不幸な結婚生活、道ならぬ恋、そこからの疑惑、逡巡、切るに切れない男女の結びつき。こうした情念は時代を越え、国境を越えて普遍的な真理です。「ペレアスとメリザンド」は普遍的な感情の中にある神秘的なものと、人間的なもののコントラストを浮き彫りにしました。
  メリザンドは異次元の世界からやって来て異次元の世界に去ります。その死体を揺さぶってまで真相を知ろうとするゴロー。その心はいかにもあさましく哀れですが、そこにも人間の一つの真実があります。これらの重い真実が、夢の中の出来事のようにあらわれ、消えてゆく。これがこのオペラなのです。

   
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