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オペラからのメッセージ
 
第6章 愛に殉じた娼婦――ヴェルディ「椿姫」

 それではいよいよヴェルディの「椿姫」に取りかかりましょう。「椿姫」と「マノン・レスコー」はどのようにつながっているのでしょうか。それはオペラを見ただけでは分かりません。カギは原作の中にあります。「椿姫」の原作の語り手は「私」という、物語に無関係な筆者で、物語はこの筆者が偶然競売に出された財産の中から、1冊の本を競り落すところから始まります。 筆者は行きがかりからとんでもない高い値段で古書を買うのですが、古書の題名は「マノン・レスコー」。本の持ち主だった人は「椿姫」とあだ名された一人の女性です。その本の扉部分には添え書きがしてあります。いわく、「慎み深くあれ」。
  この本の送り主は椿姫に、マノンを反面教師として学ぶよう暗示しているわけです。筆者がこのいわくありげな本を手に入れて何日かしてから、一人の悲しみに打ちひしがれた青年が訪ねてきます。彼はこの「マノン・レスコー」の本を買い取りたいと申し出るのですが、これぞ誰あろう、椿姫に先立たれた恋人アルマンだったのです。そして彼が自分自身の体験を話すというのが原作「椿姫」の組み立てになっているのです。

 この筆者と実質的な語り手の関係、男と女の愛、女性の特殊な職業、どれをとってもこれは、「マノン・レスコー」という小説を下敷きにした作品以外のものではありません。そこで私はこの二つの作品がつながっていると申し上げたのです。
  ところで、オペラ「マノン・レスコー」は、筋書きの複雑さ、規模からいって原作を相当圧縮しなければなりませんでした。「椿姫」となると、もっとページ数が多いのです。そうなるともっと圧縮をかけなければなりません。実際「椿姫」のリブレット作者はものすごく物語を短縮しました。それどころか筋書きまで大幅に変えてしまいました。おまけに、主人公の名前まで変えてしまいました。ひどいものです。

 ちなみに、原作で「椿姫」の名はマルグリット・ゴーチェです。オペラではこれがヴィオレッタとなります。男性の名前はアルマン・デュヴァルです。これがオペラではアルフレード・ジェルモンとなります。彼の出身地方は、原作で椿姫が住んでいた町の名プロヴァンスという名称がいともイージーに流用されています。
  筋書きも大幅に変えられてしまいました。オペラでは臨終のヴィオレッタに、かけつけたアルフレードが再会することになっています。また父親もヴィオレッタとアルフレードの仲を承認することになっています。ところがどっこい、原作では、アルマンは椿姫の臨終に立ち会うことはできませんでした。もちろん父親が二人の仲を認めた、などということもありません。
  原作では、アルマンはまず埋葬された椿姫の死体を掘り起こしてもらい、なかば白骨化しつつあるものすごい椿姫に会うことになっているのです。

 だいいち「椿姫」という名称に対して、「ヴィオレッタ」というのがいかにも変ではありませんか。ヴィオレッタというのは「すみれ」です。いうなれば「すみれ姫」です。「椿」を「さざんか」というならまだ分かりますが、「椿」を「すみれ」というのでは、いくら植物の仲間でも縁が遠すぎるように思えます。
  マルグリットが「椿姫」と呼ばれるようになるいきさつについては、原作ではちゃんと説明があります。彼女が観劇するとき、つねに椿の花束を手に持っていたのです。その椿の色は月の25日までが白で、残りの日は紅でした。誰もその理由は知りませんでした。しかしこのなぞめいた花束が彼女をして「椿姫」と呼ばせる原因となっていたのです。これがオペラのほうではあっさりヴィオレッタになってしまうのですから、どうも納得がいきません。

 原作とオペラのもっとも大きな違いは、椿姫の突然の失踪と心変わりに怒ったアルマンの態度です。原作では男が執拗に彼女にいやがらせをするのですが、オペラではたった一回、賭博で勝った金を彼女に向かってたたきつけるところだけです。これでは真実が分かってから苦しむアルマンの心境の伏線としては不十分と思われます。
  もっともこのオペラの題名は「ラ・トラヴィアータ(淪落の女)」というのですから、台本は原作を参考にした別のリブレットといってもいいかもしれませんね。もっともそうなると、日本の題名「椿姫」というのがちょっと変になってきますね。クレームをつけるのはこのぐらいにして、それではいよいよオペラを見てみましょう。
  私はこのオペラ「椿姫」はヴェルディ最高の傑作ではないかと思います。もっともヴェルディのオペラ作品は26曲もあります。私はそのうちの15〜6曲しか見ていませんので、断言することはできません。少なくとも私が鑑賞した範囲では何といってもこのオペラが第一等です。

 まず序曲がすばらしい。美しく、甘い、流れるような旋律です。これも独断と偏見ですが、椿姫の序曲に匹敵する美しいオペラ関連の器楽作品は、カヴァレリア・ルスチカーナの「間奏曲」だけです。それにすべてのアリア、重唱、合唱曲が分かりやすく、美しい。駄作的な歌がありません。
  さて、第1幕が開くと、ここはヴィオレッタの主催するパーティの場面。ヴィオレッタに執心している若者ということでアルフレードが紹介され、彼はヴィオレッタに促されて即興で「乾杯の歌」を歌います。オペラでは、この乾杯の歌によってアルフレードがヴィオレッタの歓心をとらえることになっています。この場面には着飾った男女が2〜30人いることになっており、そこにはアルフレードの恋敵もいることになっています。
  ところが原作では、アルフレードが彼女の心をとらえるのは、長い間、片想いでいること、名をかくして病気見舞の花を贈ったり、椿姫に出会ってもまともに口もきけないほど純真であるということによります。彼がはじめて彼女の家を訪ねたときも、同席者はわずか4人です。

 オペラに戻って、ヴィオレッタはパーティを楽しく盛り上げようとしますが、病気のために気分が良くありません。彼女は肺結核で、すでに何度も喀血しているのです。大多数の客が踊りや遊びに夢中になってヴィオレッタの変化に気づかないときに、アルフレードは、親身に彼女の健康を気遣い、このやり取りの中で二人の親密感が増します。
  アルフレードは彼女に対する真剣な恋を打ちあけ、ヴィオレッタは「他の女性を愛しなさい」などといいつつも、大いに感動します。やがてパーティはお開きになり、三々五々客が帰ってゆくと、ヴィオレッタは一人客間に残り彼の告白を思い出します。そして「あの人が自分の愛すべき運命の人だったのだ」という意味の美しいアリアを歌います。この歌のメロディの後半は、アルフレードの愛の告白のメロディをそのまま使っています。
  ところがヴィオレッタがふと現実にかえって反省すると、自分はかたぎの女ではなく、しかも病気持ち、病状も相当進んでいることに気づきます。そこで普通の世の男女がするような恋愛を自分はすることはできないのだと考え、自嘲的な気分になります。そこで残された人生を享楽的に生きるしかないのだと悟り、歌うのが「花から花へ」というスピード感のあるアリアです。

 これはソプラノ泣かせの難曲ですが、聞いているほうは爽快のひとことにつきます。この歌の途中にはヴィオレッタの窓下でたたずんでいたアルフレードの歌も混じります。
  オペラの第二幕に入ると、もうここはパリの郊外です。ヴィオレッタとアルフレードの愛の巣です。何しろオペラでは時間がワープするのです。
  アルフレードは田舎のぼんぼんですから、生活費がどのくらいかかるものか、すなわち損益状況、それにヴィオレッタのバランスシート、これがさっぱり分かりません。
  この経済音痴は、マノン・レスコーにも共通するものでしたが、ラブ・ロマンスと経済的なセンスはどうやら同居しないらしいですね。マノン・レスコーの中にもデ・グリューの無鉄砲にあきれた法官が、「恋よ!恋よ! なんじは永久に知恵とは和解しないのだろうか?」と天を仰いで慨嘆する場面があります。

 ヴィオレッタたちの愛の巣は借家ですから、家賃がかかりますし、ぜいたくな暮しをしていますから大きな固定費が発生します。一方彼女には多額の借金があるのです。そこで彼女が持っている資産を売り食いするという状態になるのですが、アルフレードは愛用の馬車がなくなってからようやく経済状態の変化に気づくという鈍感さ。
  折悪しくそこにアルフレードの父親がやって来て、ヴィオレッタに単独会見を申し入れます。そして彼女に、息子と別れてくれと説得します。ヴィオレッタは父親の申し出を拒否しますが、「あなただっていつまでも若く美しくはいられない」「これは祝福された結婚ではない」「息子のためを思って犠牲を」などといわれて、とうとう別れる決心をし、置き手紙をするとすぐにパリに出発します。
  アルフレードの父親がヴィオレッタに「これは祝福された結婚ではない」という部分がありますが、これはヴィオレッタの特殊な職業のことを指しているのです。では、この頃のフランスでヴィオレッタが所属する業界はどのようになっていたのでしょうか。

 この「椿姫」の物語は、フランス革命後の1850年ごろのことらしく思われますが、この世紀の業界事情の研究書としてアラン・コルバンという人の「娼婦」という本が邦訳されて出版されています。これによりますと、当時のパリでは15〜19才までの女性1万人に占めるプロ女性の割合が、45人以上にも達していたということです。
  また彼は、都市化が進むにつれてプロ化する女性たちの割合は増加したと報告しています。これらのプロ女性も大きく分けると「公娼」と「私娼」に別れ、公娼の方は鑑札を発行されていました。
  ヴィオレッタの場合は「ファム・ギャラント」と呼ばれる高級娼婦ですが、分類上は「私娼」に入ります。ヴィオレッタはこうしたファム・ギャラント中のエリートで、ほとんどタレント化した女性の一人と見ることができます。

 彼女たちの生態についてコルバンは「下町の公認娼家の、裸を露呈する低俗な娼婦とは全く異なり、花や宝石をあしらって美しく装い、ぜいたくなブルジョワ家庭のインテリアを思わせる心地よさそうな室内で非のうちどころのない態度で客を迎えた」と述べています。
  もっとも洗練された趣味、物腰、教養を持ったこれらのプロ女性を想像してください。彼女たちが、それなりに知的な趣味を持つ男性を引きつけるということは十分ありえたわけです。「椿姫」の原作には、椿姫がウエーバーの「舞踏への誘い」をピアノで弾き、うまく弾けない部分を遊びにきた男性に教えてもらうというシーンがあります。彼女たちが演劇通であり、音楽通、文学通でもあったことがうかがわれます。
  しかし彼女たちのビジネスと恋愛の間にも、それなりに葛藤があったのですね。コルバンは、これらのファム・ギャラントと男性との関係について次のようにいっています。「これらの男女の結びつき、さらには夫婦まがいの関係が果たした重要な役割は、どんなに強調してもきりがないほどである。階級の異なった相手とのこのような性関係は、実に、二重の欲求不満と『癒すことのできない誤解』を生み出すもとになっている」。

 さて、以上のような事柄を前提にアルフレードの父親がヴィオレッタにいった言葉、「あなただっていつまでも若く美しくはいられない」「これは祝福された結婚ではない」「息子のためを思って犠牲を」・・を思い出してください。知性も教養も分別もそれなりに持っているヴィオレッタの心に、これがどのようにしっかりと突き刺さっていったかを知ることができるでしょう。
  オペラ第2幕第2場では、パーティを盛り上げる余興、そして賭博が始まります。アルフレードはやけくそになってやって来て賭博でバカ勝ちし、みんなを白けさせます。
  やがてヴィオレッタと彼の話し合いということになりますが、ヴィオレッタは、なぜ自分がアルフレードから別れようとしているのかを、つまり父親による強制ということを「女の信義」にかけて口にしません。そのためにアルフレードは彼女が完全に心変わりをしたのだと思い、彼女を侮辱するために賭博で稼いだ金を彼女に叩きつけ、「これで借りは返す」とやるわけですね。
  このためパーティ席上は騒然となり、アルフレードは女性を侮辱した紳士らしくない未練なやつということでみんなに総攻撃を受けます。オペラではなぜかこの席にアルフレードの父親もきていて、息子の「いとしさあまって憎さ百倍」の愚行にあきれ果て、「もうおまえは息子ではない」と勘当をいいわたします。

 原作でもアルマンは賭博を行ないますが、これほど派手な立ちまわりはしません。そのかわり彼は別の女を恋人に仕立て、彼女に夢中になったふりをして椿姫にいやがらせをします。また椿姫あてに、つまらぬ中傷の手紙を書いたりします。
  現代ではこれは「匿名電話」に相当するものですね。要するに原作では、男はオペラのアルフレードよりももっと胸のむかつくような、卑劣な真似をします。この間、椿姫のほうはアルマンのいやがらせに耐え、そのためにいっそう健康をそこねてゆきます。

 第3幕はヴィオレッタの臨終の場面です。まず彼女が待ちかねているアルフレードが飛び込んできて再会を喜び、ついで医師が父親と一緒に入ってきて彼女の死に立ち会い、父親はこの二人の真実の愛に感動すると同時に、自分が彼女にむごいことをいってしまったという、自責の念を味わうということになっています。
  私は長らく、結核でいまにも死にそうなヴィオレッタが、死に際にどうして美しい声を張り上げて歌ったりできるのだろうと考えていました。ところがしっかりオペラを見ていると、こうした「オペラの嘘」はほとんど気にならなくなり、それどころか、美しいヒロインの最後はこうでなければならないと思うほどになりました。不思議です。
  肺結核、肺の障害、肺活量や発声上の障害というものは病理上のリアリティですが、舞台上にあるのは恋愛上のリアリティ、あるいは音楽的なリアリティであり、これらは無理に結びつく必要がないわけです。音楽的なリアリティが病理学的なリアリティを凌駕するといってもいいでしょう。

 ところでこのオペラの場面は、原作からとんでもなく離れてしまっています。関係者がヒロインのもとに集合するというところが違っていますし、彼女の死の瞬間がある種の「幸福な和解」に一致しているというのも違います。原作者がメーテルランクだったら、これで何回作曲者と訴訟になったか分かりません。
  「椿姫」ほどひどく原作を離れた、それでいて成功した台本もないかもしれません。私はこの作品についてここまで原作との対比を問題にしてきました。しかし本当はこういう鑑賞方法は間違っているのですね。この作品は「椿姫」にヒントを得た、「ラ・トラヴィアータ」という別の作品だと考えるべきなのです。ちょうどそれは「椿姫」という文学が「マノン・レスコー」にヒントを得た別な作品であるのと同じことです。

 もうすでにお気づきのように、主人公の名前が変えられているのも決して意味のない変更ではなく、音楽のためのアレンジの一つです。考えてみてもください。「マルグリット・ゴーチェ」という名前に、あなたならどのようなメロディをつけますか。
  「ヴィオレッタ」なら音楽になります。有名な古典イタリア歌曲にも「ヴィオレッタ」という名曲があるほどです。このようにして「アルマン」は「アルフレード」に、「プリュダンス」という女友達の名は「フローラ」という名前に変えられました。
  同じコンセプトによって筋書きにも大胆な変更が行なわれました。ヴィオレッタが死ぬのは仕方がない。しかし恋人に会わず、父親の理解もなしに絶望のうちに死ぬのはいかにも救いがありません。そこで彼女は臨終の床で大切な関係者と再会しました。これは「椿姫」を読んだ切ない読者の潜在的な欲求でもあったのです。原作に忠実ではオペラとして成功したかどうか分かりません。

 ここで「椿姫」と「マノン・レスコー」の共通点と相違点について考えてみましょう。二人のヒロインは高級娼婦という点で共通です。また良家の息子と運命的な恋に陥るという点でも共通してます。男性の主人公がヒロインを夢中になり、相手の職業も自分の身分も将来もかえりみずひたすら自分の女を愛そうとするところも共通しています。
  そのため多くの障害が発生し、男性も女性も苦境と孤独に陥るという点でも共通しています。最後にヒロインが死ぬというところも共通です。これを見ても「椿姫」が「マノン・レスコー」をどれほど忠実にトレースしているかがお分かりと思います。
  ところがマノンはどれほど男性に愛され、男性を窮地に追いやっても、それでもパンドラ的気質は直りませんでした。彼女は生れながらの娼婦であり、無人の荒野しか彼女を浄化させることはできませんでした。それにくらべて「椿姫」の恋人への愛は、はるかに純粋なものでした。彼女は愛するがゆえに別れるという知性と、自己犠牲の精神を発揮し、これを貫きました。ここに原作者デュマ・フュスのコンセプトがあります。

 同じ職業を持つ美女といってもいろいろある、一方には救いようもなくだらしない女もいるだろうが、一方にはまことをもった女性もいる、ということです。マノンの存在も真実なら、聖女マルグリットの存在も事実だということです。だから椿姫はマノンへのアンチテーゼなのです。
  さいきんのNHKのアナウンサーの質の悪さには目にあまるもの、いや、耳かな、・・にあまるものがありますね。今日も「・・会のハッキニンの1人・・さんが」ときましたね。先日はラジオで「民法上のテキシュツシとヒテキシュツシの相続問題について・・」と元気よく読み始めました。私は「テキシュツ」とは何のことだろうと考えていましたが、あわてたディレクターがアナウンサーに小声で注意していました。何とこれは「嫡出子」のことでした。私は、どこから「摘出」したり「非摘出」したりするのだろうと考えました。失礼。

 「椿姫」の作者デュマ・フュスは、「三銃士」で有名なアレクサンドル・デュマの庶子であることが知られています。彼は庶子としての悲哀を何度か味わったのではないでしょうか。そこで「椿姫」に対する彼のスタンスは一貫して「聖女マルグリット」という観点です。彼は、華やかに着飾ったファム・ギャラントといえども、その内面をのぞけば社会の弱者の一人に過ぎないのだといっているわけですね。
  オペラ用に大幅改作を行なった「ラ・トラヴィアータ」はどうでしょうか。私は「椿姫」のコンセプトは、改作、そして音楽化によっても少しも損なわれていないと思います。
  そしてここでも注意したいと思いますが、彼女もまた全女性に共通する「なにものか」を代表しているのです。すなわち自己犠牲の選択、献身、ひたむきな愛などです。このオペラ作品は、とりわけ私たち日本人に対して、「もののあはれ」的に訴えるものがあるように思いますが、いかがでしょうか。

   
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