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オペラからのメッセージ
 
第7章 自由を求める民の子――ビゼー「カルメン」

 すでに申し上げたように、本格的なオペラは悲劇作品です。ご紹介した「マノン・レスコー」も「椿姫」もオペラ・セリエと呼ばれています。これらのオペラでは主人公は死か、あるいはこれに準ずる悲惨な結末を迎えます。
  ところでマノンも椿姫も原典はフランスの小説です。ところが作曲家はイタリア人です。そして当然劇場ではイタリア語で歌われます。オペラの世界では、この手の国際交流は日常茶飯事のことです。ヴェルディはさかんにシェイクスピアものを取り上げましたし、プッチーニも国際的でした。
  ちなみにプッチーニの「ラ・ボエーム」の舞台はフランス、「マダム・バタフライ」は日本、「トウランドット」は中国、「西部の女」はアメリカという具合です。それが一貫してイタリア語で歌われるのですから、面白いというか、すさまじいというか。音楽を楽しむのに題材の国境は問わないということでしょう。 

 ところでオペラ・セリエでは主人公がどんな死に方をするのか、こんな観点からオペラを見るのも、オペラ鑑賞の一つです。ちなみに「アイーダ」の主人公は酸素欠乏による窒息死ですし、「ルクレチア・ボルジア」のように毒殺されるケースもあります。そうかと思うと「ボリス・ゴドノフ」のような恐怖による心臓麻痺、「スペードの女王」のピストル自殺、「カテリーナ・イズイマロヴァ」の水死など、死にざまは多様です。
  しかし統計的にもっとも多いのは短剣による殺害、自殺ではないでしょうか。短剣が登場するもっとも名高いオペラは、何といっても「蝶々夫人」かと思いますが、そのほかにも「道化師」「カヴァレリア・ルスチカーナ」「カルメン」など、人気の名作オペラを思い浮かべることができます。
  ここでは文学作品との関係を追及するうえで、同じ短剣が登場する作品のうち、「カルメン」と「カヴァレリア・ルスチカーナ」という二つの名作を鑑賞することにしてみましょう。

 「カルメン」を書いたメリメは、スタンダールと同時代の教養ある作家でした。そこで「カルメン」の原作は、ジプシーの研究エッセイ的な性質を持った変わった短篇小説となっています。
そこでは、ジプシーの言葉の地域による違いや、ギリシャ語との比較などが行なわれています。見方によってはいささかペダンチックな趣味だ、ということになるかもしれません。しかし作者メリメのこうした教養披瀝が、「カルメン」をより良く理解するための大きな原動力になっています。
  メリメはこの短篇小説の終り部分に書いています。「『カルメン』の読者諸君に、私のロマニ語(ジプシー語の一種)の知識がまんざらでもないことを吹聴することはこれぐらいで十分だという気がする。ではこのへんでこの場合にはうってつけの諺を一つ書きつけて、筆を置くことにする。『閉めた口に蝿は入らず』」。ではこれより、私は口の中に蝿を入れさせていただきます。

 ジプシーの起源がどのへんにあるのか、これは長らく謎でした。しかし「ジプシー」という言葉は、「エジプシー=エジプトの」ということらしく、エジプトが起源であるというのが通り相場だったようです。しかし今日では言語研究の分析の結果、インドが起源というのが定説になっているようです。このことはメリメの時代に明らかになったようで、「カルメン」の中にはっきり記述されています。
  ジプシーは現在でも世界中に分布しているそうです。彼等の共通の特長は一カ所に定住しないこと、音楽や工芸の才能にすぐれていることにあるようです。ヒッピーの先祖といったところでしょうか。最近では一部のジプシーは馬車ではなく、キャンピング・カーを使って移動したり、中には定住化の傾向も見られるなど、伝統的なジプシーの文化も次第に凋落の方向に向かっているそうです。何だかちょっと残念ですね。
  原作の「カルメン」では、作者のメリメ自身があるときドン・ホセに出会い、後日カルメンに出会うというように、偶然の機会を通して二人の主人公に出会い、その後カルメンを殺害したドン・ホセに獄中で話を聞くという筋立てになっています。

 ビゼーのカルメンにおいても「椿姫」同様、かなりオペラ化のためのアレンジが行なわれています。ちなみに、オペラではカルメンの殺害は闘牛場の前ということになっていますが、原作ではコルドヴァの近くのさびしい谷間です。
  オペラと原作の違いを例によって少々あげつらってみましょう。最初の場面でカルメンが煙草工場から出てきて、妖しくセクシーな「ハバネラ」を歌うところがあります。もちろん原作にはこんな歌は出てきません。ここで彼女がふざけてホセに投げつける花、この花はアカシアということになっています。ところが、大抵のオペラでは、これは赤いバラの花に変わっています。

 日本でアカシアと呼ばれているのはニセアカシア、ないしはハリエンジュのことのようですが北原白秋が「アカシヤの花ふりおとす夏はきぬ、東京の雨、私の雨」と歌ったのは、エンジュのことです。これは東京では初夏から夏にかけて黄色い花をまさに「ふりおとす」という感じで咲きます。この木の下に駐車したクルマは、屋根に花びらをいっぱいくっつけて走り回ることになります。
  ところが花の図鑑で見ると、ニセアカシアというのはハリエンジュのことだと書いてありますから、白秋がアカシアと歌ったのはニセアカシアのことではありません。ハリエンジュのほうは春に房状に白い花をつけます。

 ところがさらに調べてみると、日本にあるアカシアの木の仲間は「ミモザ」だというから話はややこしくなるではありませんか。ミモザの花は、耳かきの後ろについている綿の固まりぐらいのフワフワした黄色い小さな花で、これはカルメンがホセに投げつける花としては適当でありません。
  カルメンに花を投げつけられたドン・ホセは、この瞬間にカルメンのとりこになります。彼は花がしおれてもまだ持ち続け、しおれた花の香りをかぎ、最後にはこの花を見せてカルメンの同情を求めたりします。だからこの花が相当強いかおりを持つ花であることは確実です。
  世界にアカシアの仲間は約300種類あるそうですが、これに該当する花を探してみると、和名キンゴウカンというのがあります。英名をスイート・アカシアというそうですが、これは「ねむの木」に近いのではないでしょうか。「ねむの花」に近いとすれば、カルメンが使うには不適当です。ハワイに行くと木の特長はよく「ねむの木」に似ているのに、ハイビスカスのような真っ赤で大柄の花をつける木があります。このイメージが近いかもしれません。

 花のところで道草を食ってしまいましたが、原作との違いはまだあります。オペラの上では不可決の存在、ミカエラというホセの同郷の恋人が、原作にはまったく登場しないのです。
  第1幕でミカエラがセビリアの町にやってきてホセに出会い、お母さんからの預かり物だといって「息子へのキス」を贈る場面があります。これは大変感動的な場面です。
  私たちは母思いのホセがやがてカルメンに誘惑され、ミカエラを捨て、母をも忘れてしまうという運命を知っていますから、この場面を見るとつい泣かされます。ところが原作には、ホセの故郷の女性がはく青いスカートがとてもすてきだ、という記述しか見当たりません。困ったものです。
  ドン・ホセの故郷はどこにあるのでしょうか。原作ではナヴァレ地方、ビトリアという町となっています。この町はイベリア半島の東北の端のほうです。これに対して、事件の舞台となっているのはセビリアの町ですから、これはイベリア半島の南端ですね。セビリアの町といえばロッシーニの「セビリアの理髪師」を思い出します。有名なオペラの舞台となったうらやましい町ですね。

 ところでセビリアとビトリアの距離を道路沿いに見積もると、ざっと600キロあります。これは東京、大阪間の距離です。ところが大抵のオペラではミカエラはとなり町から来るような格好で、買い物篭を下げて出てくるのですから、ちょっと理解に苦しみます。ホセの母親はミカエラに「ちょっと町までいってきておくれ」といったことになっています。このようなことをやたら詮索するのは野暮というものかも知れません。
  しかし、原作ではカルメンはアカシアの花を一輪口にくわえ、もう一つのアカシアの花束をシミーズの肩の紐のところにはさんで出てきます。ものすごい片田舎から出てきた若者ホセには、このカルメンの姿は魔女のように見え、田舎だったら思わず十字を切るところだ、といっているのです。
  純情でおどおどしながら上目づかいにカルメンを見るホセ、それをかわいいと思うカルメン、この対比を明確にするためにも、スペインの、昔の道のりの600キロはかなり重要であると思われます。

 原作とオペラ台本の決定的な違いがもう一つ。それは、闘牛士エスカミーリョの存在です。オペラではホセが軍隊を脱走し、密輸の仲間に入った後で、仲間のパーティの中にエスカミーリョが入ってきて、有名な「闘牛士の歌」を歌います。これは「ハバネラ」とならんでこのオペラの最大の見せ場、聞かせ場となっています。
  ところが原作ではこのような場面はまったくありません。カルメンが町に行って闘牛の興業を見て、そこでリュカスという闘牛士に一目ぼれして帰ってくる、という話になっているのです。

 原作には、このリュカスという闘牛士は一度もせりふをいう形では登場しません。原作では次のようになります。
1.ホセはコルドヴァの闘牛場で、リュカスが試合前にカルメンに花を贈っている様子を見る。
2.カルメンがリュカスに夢中になって声援している様子を見る。
3.リュカスが牛の下敷きになって倒れると、カルメンがいちはやく客席から姿を消してしまうのを見る。
  そして右を総合して、ホセは「この調子じゃ、おれはもうじきお払い箱だな」と自覚するのです。
  そこで原作では、彼はカルメンに、「おれを捨てないでくれ。二人でアメリカに渡って出直そう」と迫るのですが、カルメンはもちろんホセのいうことなんか聞きません。そこでホセは思いあまってカルメンを刺すという次第です。またアメリカが出てきましたね。当時の人々にとってアメリカがどのような場所であったか、しのばれます。

 闘牛士と一口にいっても、いくつか種類が分かれているようです。闘牛士の総称はトレロ、あるいはトレアドールですが、赤いケープで牛をあしらうのはバンデリリェロ、剣を持つのはマタドール、槍を使うのはピカドールというのだそうです。原作の中でカルメンが惚れたリュカスはピカドールです。オペラの中では闘牛士はどうもマタドールの感じがしますね。
  小説の中では闘牛士を直接登場させないことによって、ホセの内面的な苦しみが浮かび上がるようになっています。けれど見せ場、聞かせ場を作らなければならないオペラでは闘牛士がさっそうと登場しなければ面白くありません。ビゼーはこの闘牛士という題材をもののみごとに使いこなしました。彼は闘牛士へのはげしい喚声をバックにして、カルメンに対するドン・ホセの暗い情念が爆発するという構図を取りました。

 ここでホセという名の前についている「ドン」という意味ですが、これは「貴族出身」を示しています。「ドン・カルロ」とか「ドン・ロドリーグ」などというときの、あの「ドン」です。彼は田舎出の若者ですが、それなりの氏素姓があって、どこかにまだ品の良さや、自分のしていることをわきまえる知性のかけらを持っています。原作の中でホセは作者にこういいます。「私の中にはまだ粋なお方の同情に値するものが残っています」。その多少とも思慮分別のある男が一切を捨てて走っていった女、それがカルメンなのです。

 ではここで、カルメンという女性がどんな身体的な特長を持っていたのか、原作者の言葉から要約してみましょう。それは次のようになります。
1.小柄で姿がよかった。
2.どんなジプシー女よりも美人だった。
3.目が斜視であったが大きくぱっちりしていた。
4.唇はやや厚かった。
5.純白な歯並みであった。
6.髪の毛は太かったが黒く玉虫色に光っていた。
7.髪の毛は長かった。
8.野性的で、情欲的で狂暴な表情だった。
9.狼のような目をしていた。
10.踊りがうまく、動作が敏捷だった。
  これは当時のヨーロッパの男性が持っていた異国的な女性美の集約形です。ところがこのような条件は、オペラの台本には指定されていません。そこでオペラにはかなり太目のカルメンや、長身のカルメンが出てくることにもなります。オペラでは小錦級の「椿姫」が出てくることさえ珍しくないのですからやむを得ません。

 カルメンの音域がメゾソプラノという、やや低い感じの声であることは指定されています。人によって好みはあるかもしれませんが、メゾのほうが野性的でセクシーであるという点ではだれの意見も一致しています。ビゼーとしてはそのへんも十分計算の上のことでした。
  原作とオペラの微妙な違いをカルメンの行動について観察してみます。彼女が自分の将来を占って、自分がホセに殺されるらしいと自覚する部分があります。オペラでは、女友達が気楽にトランプ占いをして他愛もないことをいっているとき、戯れに自分自身について占ってみると、スペードのエースが出てくるというしかけになっています。これもなかなか効果的です。

 オペラでは「カルメンの死のモチーフ」という気味の悪い音楽が設定されています。これが序曲の段階からじつに効果的に何度も出現します。このような音楽の動機をライトモチーフといいます。
  小説のほうでは、彼女はトランプだけでなく、いろいろなもので自分の将来を占っているのです。たとえば彼女はコーヒーの滓(おり)で何度も占いました。これも凶とでました。「出がけに坊さんにあった」これも凶です。「馬の足の間をすり抜けてうさぎが通った」これも凶です。
  これらの複合的な暗示情報を総合して、カルメンは自分がホセに殺されるということをほとんど確信しているわけです。「占いはそれを当人が信じるだけで実現してしまう」とアランがいっている通りです。
  彼女はホセに従えば一時的には助かるかもしれないけれど、その先も同じことが繰り返されるということをも知っていたかのようです。だからホセがいくら哀願してもホセとよりを戻すことには同意しませんでした。

 カルメンの音楽はどの部分をとっても魅力的ですが、最大の魅力を一つだけ上げるとすれば、それは「異なる音楽の重ね合わせ」です。たとえば「闘牛場の喚声の音楽」に「カルメンの死のモチーフ」の重ね合わせはみごとです。すごいのは、「帰営のラッパ」とカルメンの「誘惑の踊り」のメロディを重ね合わせる部分です。
  カルメンは、ホセのために無伴奏で歌いながらセクシーな踊りをはじめ、彼を扇情的に誘います。そこに「帰営のラッパ」の音が響きます。ホセはあわてて部隊に帰ろうとします。するとカルメンは「いい伴奏が入ってきた」などといいながら、自分の歌と「帰営のラッパ」を重ね合わせ、ホセをますます誘惑します。
  それでもホセが帰ろうとすると、今度は「ラタタタ・・あのラッパであんたは帰るのかい。そんならお帰りよ。ラタタタ・・」という具合にホセをからかい、はげしく毒づき始めます。

 2種類以上の異なる旋律を組み合わせて1つの音楽を作る技術は、一般に「対位法」と呼ばれます。ビゼーのこの作品の中には、全く異質の意味を持つ音楽を色彩も鮮やかに組み合わせ、ドラマを盛り上げる「意味的体位法」とも呼ぶべき技術が豊富に用いられています。
  残念なことに、ビゼーは生前「カルメン」の成功に立ち会うことはできませんでした。しかし彼はこの一作品で、全フランスを代表し、本場イタリアのオペラ群に今日でも対等以上の自己主張を続けているのです。

 カルメンという女性の本質とは何でしょうか。それは「自由の主張」「自由の希求」だと私は思います。この基本コンセプトは、大幅にメタモルフォーゼを受けたオペラにおいても少しも変わっていません。
  原作者メリメは、カルメンを自由を愛するがゆえに放浪するジプシーの魂として描きました。彼女は「私という女は、人になにかしてはいけないといわれると、さっさとそれをしてしまうたちだから」といっています。
  このカルメン魂は、「ハバネラ」の中でみごとに音楽的に表現されています。つまり、彼女は逃げるものを追いかけ、人に恋されると、いやになって逃げてゆくのです。彼女には、だれかと固定した関係になるということはまったく考えられません。それは彼女が多情で移り気であるからというよりは、束縛を恐れ、嫌っているからです。

 彼女には「帰営のラッパ」が鳴ると、それを合図に部隊に戻ってゆこうとするホセの行動を理解できません。「棒の先でこき使われるなんて、あんたって、あきれたカナリアだね。まるで雌鶏の気性じゃないか」。この痛烈な言葉は、もしかしたら管理社会の中から一歩も抜け出せずにいる私たちへの当てつけかもしれません。
  アランは「もし精神が自由であり、また神が精神であるならば、自由そのもの以外のものではない一つの恩寵と救いが差し出される」といい、キリストは精神の自由を行使して十字架を選んだといっています。キリストにはいくらでも逃げるチャンスはあったわけですから、みずから承知してその運命を選んだといえます。カルメンをキリストにたとえるのは不敬かも知れませんが彼女も逃げようとすれば逃げることができました。
  彼女はホセを嫌っていたわけではないと私は考えます。彼女はホセが示す小市民的な、既成の安定した男女観、それをもとにした規制を嫌ったのです。カルメンもまた精神の自由をあがなうために、自由を行使して運命を選択しました。「殺されたってイヤなものはイヤだよ!」。私たちの耳にこだまするカルメンの叫び声です。

   
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