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オペラからのメッセージ
 
第8章 誇りの値段――マスカーニ「カヴァレリア・ルスチカーナ」

 ジプシーのことを描いたオペラに、ラフマニノフの「アレコ」があります。この作品は「エウゲニ・オネーギン」を書いたプーシキンの長編詩、その名も「ジプシー」をもとにしています。この作品を書いたとき、ラフマニノフはまだ音楽学校の生徒でしたが、チャイコフスキーはこの作品を絶賛したといわれています。
  アレコは男性の主人公で、ふとしたことでジプシーの仲間に入ります。そこで美しいジプシー女ゼムフィーラを好きになり、結婚します。しかしゼムフィーラは少々ネクラの主人公アレコに嫌気がさし、浮気をします。そこで嫉妬に狂ったアレコがゼムフィーラと男の両方を刺し殺してしまうという筋書きですが、ここでも短剣が使われます。よく見るとカルメンにとてもよく似ていますね。

 しかしこのオペラに登場するジプシーは、文字どおりコーカサスの山野を移動するグループです。グループ内の小社会、その中での習慣や掟が、ドラマに対して大きな要因をなしています。
  ですからセビリアやコルドヴァの町を股にかけて大活躍する都会的なジプシー、カルメンとはちがった趣き、ちがった現実味があります。「アレコ」は全編、大変美しい、憂愁あふれる音楽で満たされています。ラフマニノフのピアノ・コンチェルトのファンにはぜひともご鑑賞をおすすめします。ところで私は「短剣」が登場するオペラの話をしていたのでしたね。話を本筋に戻しましょう。

 「道化師」と「カヴァレリア・ルスチカーナ」は、ともに惚れっぽくて短気なイタリア人気質を描いたみごとな作品です。私はこの二つとも大好きです。この二つのオペラは傾向が似ているせいか、並べられることが多いですね。同じ日にこの二つのオペラが演奏されることもあるそうです。またこの二つのオペラの作曲家が、それぞれ「この一作」で世に残った人という点でも共通です。
  「道化師」のほうは2幕ものですし「カヴァレリア・ルスチカーナ」のほうは全一幕と、両方とも小型でピリッとしています。それぞれLD1枚で完結します。この二つの作品には両方とも短剣、この場合は「ドス」とか「あいくち」といったほうがいいのですが、要するにナイフが出てきてすごみをきかせます。
  同じ刃物でも、長い刀ではどうしてもこのすごみが出てきません。山田耕作のオペラ「黒船」では、勤王の志士がダンビラを用いますが、大刀ではなぜか短剣が持っている、あのゾッとするような迫力に欠けます。

 台本の話ですが、「道化師」の脚本が作曲者レオンカヴァルロ自身の手になるのに対し、「カヴァレリア・ルスチカーナ」の原作は、ヴェルガというシシリー島生まれの文学者の同名の短篇小説です。この小説は、岩波文庫の翻訳量でわずか正味十一ページという、短篇小説の中でもさらに小型の作品です。しかし内容はずっしりと重く、読後に残る印象は鮮烈です。
  わずか十一ページの「カヴァレリア・ルスチカーナ」は、いったん原作者自身によって脚色され、舞台劇になったそうです。私としてはこの舞台劇の脚本をぜひ読んで見たいと思いますが、残念ながら脚本を手にしておりません。私がなぜこの脚本を見たいかといいますと、原作者が作った脚本とオペラのリブレットとの違いを知りたいからです。

 恐らくこのリブレットの台本作家は、ヴェルガ自身の脚本を参考にしたに違いありません。そのどの部分を生かし、どの部分を変えたのか、知りたいのです。原作を読んだだけでは、この作品をどうアレンジすればいいのか、私にはまったく見当もつかないからです。
  これまでご紹介してきた作品は「オネーギン」にしても「マノン」にしても「椿姫」にしても原作の小説は長いものです。ですから台本化するためにおのずから圧縮をかけなければならないのですが、「カヴァレリア」となると全く作業は逆になります。短い素材に想像を加えてふくらませなければなりません。
  短くて完結している文学作品は、その短さの中に凝縮した必然性があって、品位の高い宝石のように人の手を寄せつけないものがあります。「カヴァレリア・ルスチカーナ」の原作もまさにそうした作品の一つで、それも第一級の品位を持つもの、といっていいでしょう。作曲家と台本作家たちは大胆な挑戦をやったわけです。

 このオペラの舞台は原作者のふるさと、シシリー島です。ヴェルガの短篇小説の多くはこのシシリーを題材にしているようです。シシリー、シチリアは古代ギリシャの植民地の一つでもありました。ペロポネソス戦争のとき、アテネは無謀にもこの島に派兵しましたが、少しも戦果を上げることができませんでした。ここはアフリカ海岸にも近いので、カルタゴからも攻められたりして結構ぶっそうな場所であったようです。
  東海岸の都市国家シラクサの僭主ディオニシウス二世がプラトンを呼びつけ、政治顧問にしようとした話は有名です。結局「知と徳」による理想の政治を説こうとするプラトンと、若い暴君ディオニシウスはどうしても折り合わず、プラトンは命からがらアテネに逃げ帰りました。
  あれれ、何の話をしているのでしたっけ。そうそう、「カヴァレリア・ルスチカーナ」の舞台シシリーの話をしているのでした。

 イタリアが独立し、このシシリー島が統一国家イタリアに編入されるのは一八六五年のことです。ヴェルガがこの島に生まれたのは一八四〇年です。ですからヴェルガは、イタリア独立のさいにあちこちで政府軍に対抗して蜂起した農民の戦いを、実際に見聞したものと思われます。おそらくこのオペラの主人公トウリッドゥは、こうした戦争に政府軍側の兵士としてでかけていってしばらくして故郷に帰還した若者の一人です。
  「ヌンツィア叔母さんの息子、トウリッドゥ・マッカは、兵役から帰ってくると、狙撃兵の服を着て真っ赤な帽子をかぶり、日曜日ごとに広場を練り歩いたが、その姿は屋台の上にカナリアの篭を乗せた、おみくじ占いの女みたいだった」。
  この数行の表現だけで、もともと目立ちたがり屋のいなせな若者が、軍隊の最新のファッションを持ち帰って村の娘たちに見せびらかしていること、それが島のコンサバな年寄たちの目にどう映ったかが分かります。すばらしい書き出しですね。

 また脱線しますが、有名なシシリーのマフィアが形成されたのはこの時代、つまり1800年代の中盤のことといわれています。マフィアといえば法秩序を無視して世界中で荒っぽいことをする連中というイメージがありますね。この時代のマフィアも、早くも地域社会の中で彼等独自の秩序を、国家よりも大切に考えようとしていたらしく思われます。
  小説にもオペラにもマフィアは登場しませんが、シシリーにはマフィアを生んだ独自の価値観独自の美学、独自の掟があるのだと考えれば、話はずっと理解しやすくなります。トウリッドゥは島の外から、なにがしか異質なものを持ち帰りました。彼には無益な戦争後の虚脱感もあったでしょう。彼はある種の掟破りをし、掟にしたがって戦い、そして殺されるのです。

 ここで事件のあらすじをご紹介しましょう。
  彼が島に帰ってみると、恋人のローラは馬車屋のアルフィオのところへ嫁にいっていました。頭にきたトウリッドゥは腹いせにサントゥツァといい仲になってローラを見返します。ローラは夫の出張中にトウリッドゥを家に誘います。これを知ったサントゥツァは嫉妬に狂い、アルフィオに向かって告げ口します。この部分の原作のいい回しは独特です。
  「留守の間に奥さんがあなたのお家を飾っていたのに!」。すると馬車屋は怒って事実関係を聞き出すと、トウリッドゥと話をつけにやって来ます。やがて二人は決闘することになりますがここも原作は次のように表現しています。
  「『日の出に街道で待っていてくれ、いっしょに行こう』。こう語り合って決闘の抱擁を交わした。トウリッドゥは馬車引きの耳を軽く噛んで、必ず行くという誓いを作法通りにたてた」。復讐と恐怖、二人の内心の血は沸き立っているのに、会話は乾いた低い声で行なわれ、小説の記述もたんたんと、まるで何かの記録文書のように、少しの感情も交えずに、しかも、省略に省略を重ねながらすすみます。

 「カヴァレリア・ルスチカーナ」という題は「田舎流騎士道」と訳されてます。「カヴァリエル」「シュヴァリエ」というのは「騎士」のことですから、兵隊崩れと馬車引きの決闘を、作者は田舎の騎士どうしの果たし合いに見立てたのでしょう。
  アランは「騎士らしさの少しもない人は尊敬するに値しない」といっています。つまり自分の名誉を重んじ、その名誉のために戦うことをしないような人には、何かが欠けているといっているのです。西洋でも日本でも決闘が半ば公認されたのは「武士の体面」というものを一つの人間的な徳として考えていたからです。最近はこの種の徳は忘れられています。
  現代人の「体面」というのはリッチさの面で笑われないようにすることを意味し、「メンツ」にこだわって私闘を考えたりするのは、ヤクザのふるまいであるという考え方が支配的です。これは昔の指導階級や武士階級から見れば、さしずめ「町人どもの思想」ということになるでしょう。いまや私たちはメンツにこだわらずに、恥をかいたまま生きられますから有難いことです。

 ところがシシリー島では、町人といえどもおめおめと恥をさらすことはできません。もしアルフィオがトウリッドゥを放置すれば、彼は「寝取られ男」といって笑われるでしょう。西洋では夫が寝取られることを「亭主の頭に角が生える」といういい方をしてからかいます。これがヴェルガの表現では「留守に家を飾る」となります。
  要するに閉ざされた地域社会では、寝取られ亭主もそのままでいることができないしくみになっているのです。こうして二人の男は騎士道にのっとって、相互に「カタ」をつけるということになります。

 決闘のシーンは、原作ではわずか一ページで終了となります。はじめにトウリッドゥが腕に一突きくらい、お返しにアルフィオのまたぐらにナイフを突き立てます。
  「・・痛む傷に左手をあて、身体を丸めて身構え、片肘で地面をはくようにしながら、彼はすばやく砂を握ると、相手の目に投げつけた。『ああ!』何も見えなくなってトウリッドゥが叫んだ。『やられた』。必死に飛びすさって、彼は助かろうとした。だが、アルフィオは追いすがって、腹に一撃を加え、さらに三つ目を喉に突き立てた。『これで三つだ!おれの家を飾ってくれた礼だぜ。これでおまえの母親も安心して雌鶏たちを鳴かせておけるだろう』。トウリッドゥはなおもしばらくフィーキディンディアの間を、あちこちと、よろめいていたが、やがてどっと倒れた。そして泡を立てて喉にあふれてくる血潮の中で、声にならない声を叫んだ。『ああ、マンマ!』」。これで小説はおしまいです。
  フィーキディンディアというのは高さ二〜三メートルのサボテンの一種。LDの映像で見るとわらじをたくさんつないだような、平たい肉厚の楕円形の葉形です。このヴェルガの「あいくちの一突き」のような短篇小説を、マスカーニはどのようにオペラに変えたのでしょうか。台本は二人の作家の手になるもので、マスカーニはこれに曲をつけ1890年、ソンツォーニョ社の懸賞に応募し、一等になりました。

 オペラは静かに前奏曲に始まり、まもなくトウリッドゥの歌が聞こえます。これは映画の「テーマソング」に相当するものですね。
  オペラでは事件は復活祭の日に始まり、その日に終るようになっています。つまり、午後に決闘が行なわれることになっています。しかし原作ではトウリッドゥが馬車引きと話をつけるのは復活祭の前日で、決闘は復活祭の朝なのです。
  マスカーニに台本を提供した連中は、なぜ時間の圧縮操作を行なったのでしょうか。それは一幕もので勝負しようとする場合、事件の始まりと終りは短いほうが演劇の緊密度が高くなるからです。これはアリストテレスの悲劇作法にのっとったものです。
  次にオペラと原作の大きな違いは、住居の位置関係です。ローラとローラに恋人を奪われたサンタ(オペラではサントゥツァ)との家は、隣同士ということになっているのですが、オペラではローラの家は村はずれにあり、夜中にローラの家を訪ねたトウリッドゥは、途中で亭主のアルフィオに姿を見られることになっています。アルフィオは、そのときには気づかなかったのですが、あとでサントゥツァに指摘されて、男が自分の留守中に忍んできていたことを知るというようになっています。

 トウリッドゥが腹いせに愛した女性の名が、どうして原作の「サンタ」から「サントゥツァ」になったかもオペラを見ていると分かります。
  小説の主人公はトウリッドゥです。しかしオペラの主人公は哀れなサントゥツァです。彼女は「朝帰り」してきたトウリッドゥに泣きつき、自分を捨てないでくれと泣いて頼みます。しかしローラとの関係が回復したトウリッドゥは、サントゥツァのいうことなんか聞きません。
  前半はほとんどかき口説く彼女と苛立つトウリッドゥのやり取りです。とうとうトウリッドゥは苛立って、「行け、おれの邪魔をするな」といい、一声大きく「サントーーーウッッァ」と叫ぶように歌うところがあります。これが原作名の「サンタ」ではこうはいきません。「サーーーンタ」では、ちょっと間が抜けて開放的すぎ、この劇の悲劇性とどうしても合いません。

 トウリッドゥに突きとばされ、ひどく頭にきたサントゥツァは、通りかかったアルフィオに告げ口します。アルフィオは胸に一物をもって広場に向かいます。オペラではこの日は復活祭の当日ですから、村を上げての祝祭ムード、だれもかれもが教会のミサにでかけます。このミサの音楽がとても美しく、感動的です。またアルフィオが復讐に燃えていったん舞台から姿を消したあと、流される「間奏曲」が恐ろしくきれいです。
  これらの音楽に象徴される「聖なるもの」と、男と女の救いのない「俗なるもの」、この鮮やかな音楽的なコントラストを鑑賞してください。これらの要素は、マスカーニが原作につけくわえた新しい魅力です。

 アルフィオが広場にきてみると、トウリッドゥが先頭になって酒盛りをやっています。トウリッドゥの前には、晴れ着でいっそう美しくなったローラの姿が見えます。トウリッドゥはとぼけてアルフィオにも酒をすすめますが、アルフィオは、「あんたの酒は飲めないね」といい放ちます。すると、今まで陽気に騒いでいた広場は一気に白けてしまい、ピリピリした緊張感につつまれます。
  女友達がローラをつれて場を離れ、他のメンバーも巻きぞえを恐れてそそくさと去ります。舞台には数名の男たちとライバルの二人が残ります。「おれはいつでもいいぜ」。トウリッドゥはすばやくアルフィオに抱きつき馬車引きの耳を噛みます。「よく噛んでくれたな」と応じるアルフィオ。そして「裏庭で待っているぜ」といって立ち去ります。

 トウリッドゥが自分の家に帰り、母親にそれとなく別れを告げる場面があります。テノールのアリアとして有名な「ママこの酒は強いね」。これは先にサントゥツァが歌う「ママも知るとおり」と並んで聞きどころのアリアです。
  トウリッドゥはでてゆきます。しばらくすると女の悲鳴が聞こえます。「トウリッドゥが殺された!」。マスカーニは原作の時間をさらに短縮することによって、原作が持っていたきびしさと凝縮された美しさをそのままオペラ化し、さらに何ものかをつけ加えることに成功しました。音楽史に輝く珠玉の一曲です。

 このオペラの主題とは何でしょうか。人間の「誇り」はたいへん高くつくものだということです。トウリッドゥが故郷に帰還して傷ついたのは、ローラの裏切りのためでした。そこで彼はこの傷つけられた「メンツ」を癒すためにサントゥツァを身代りにしました。そうなると今度はローラの「メンツ」が立ちません。そこでローラは彼を誘惑しました。
  恋人を取られたサントゥツァは、彼の母親にこういってかき口説きました。「私は名誉をなくした」。また彼女はアルフィオにもこういいました。「トウリッドゥが私の名誉を奪った」。すると今度はアルフィオの名誉が喪失しました。そこで彼はにやけた若者をこらしめるために挑戦しました。トウリッドゥはご亭主に謝罪することも、逃げることもできましたが、それではまったく男が立ちません。最後はナイフの勝負ということになりました。
  ごらんのようにすべては「誇り」「名誉」「メンツ」に終始しています。この因子はどのドラマでも重要な位置を占めます。この因子を用いて王侯貴族のドラマを書けば、きっとコルネイユの「ル・シッド」のように高貴な演劇になるでしょう。
  シシリーの片田舎の、サボテンだらけの街道沿いの畑の中だから、「カヴァレリア・ルスチカーナ(田舎流騎士道)」となります。しかし「メンツへのこだわり」という普遍的主題は、いまだに私たちの中にある何かを打ってやまないのです。

   
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