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オペラからのメッセージ
 
第11章 愚者は賢者より強い――ドニゼッティ「愛の妙薬」

 さてこれまで、名作文学とそれがリブレット化されたもの、という視点であてどなくオペラ談議を続けてきましたが、こんなことをしていたら、いつまでもきりがないことに気づきました。なぜなら名作文学を取り扱ったオペラはとても多いからです。
  思い出すままに名を上げてみますと、シェイクスピアの「マクベス」「オテロ」「ファルスタッフ」を扱ったヴェルディのそれぞれのオペラがありますし、「ロミオとジュリエット」は多くの作曲家が取り上げています。ベンジャミン・ブリテンの「真夏の夜の夢」もなかなか美しく、心やすまる作品です。
  ドイツの文豪ゲーテの「ファウスト」に作曲したグノーの作品は有名ですね。題名は「メフィストフェーレ」に変わっていますが、ボイトのオペラもゲーテの「ファウスト」をオペラ化したもので、こちらのほうが原作に忠実といっていいでしょう。

 「メフィストフェーレ」もなかなか忘れ難い、印象深いオペラです。ゲーテでは「ヴィルヘルム・マイスターの修行時代」から取ったトマの「ミニョン」があります。このオペラは「君よ知るや南の国」のアリア一発で有名になりました。
  同じゲーテの作品ではマスネの「ウエルテル」もいいですね。マスネといえば、「タイスの瞑想曲」がめちゃくちゃに有名ですが、これは文豪アナトール・フランスの同名の原作によるオペラです。
  シェイクスピア、ゲーテと肩を並べるオペラ文豪は、何といってもプーシキンです。プーシキンについては、すでに「エウゲニ・オネーギン」をご説明しましたが、同じチャイコフスキーの「スペードの女王」も圧巻です。
  それにムソルグスキーの「ボリス・ゴドノフ」を忘れることはできません。国最高の地位にありながら、孤独のうちに罪の意識にさいなまれ、ついに心臓発作で倒れるボリスの姿。私たちとは縁もゆかりもないはずの昔の異国の王の物語が、なぜかずっしりと胸にこたえます。

 ドストエフスキーの、「死者の家」から取られた同名のブリテンのオペラも強烈ですね。ジャン・コクトーの作品「オイデプス」はストラビンスキーの風変わりなオペラに、「声」はプーランクのオペラになっていますが、いずれもオペラ史を飾るショッキングな作品です。コクトーの「声」は、翻訳ページ数にして20ページ足らずの脚本です。オペラといっても登場人物は一人しかいません。
  同棲していた男に捨てられた女が、男からかかってくる最後の電話を待っているという設定です。彼女はショックを受けているのですが、はじめのうちは平静を装っています。しかし彼女はこの「別れ」に耐えられるほど強くはありませんでした。電話で話をする女性の一方的な話からドラマを想像させるコクトーの才能も鮮やかですが、プーランクのオペラも舞台劇に勝るとも劣らぬ独自の芸術として完成しています。

 さて、ここまで何となくシリアスなオペラばかり取り上げてきてしまいました。私個人の好みははじめに申し上げたように、シリアスなものよりも、どちらかというと愉快なものに傾いています。
  ハッピー・エンドで終る楽しく滑稽味のあるオペラはオペラ・ブッファと呼ばれています。ブッファというのはイタリア語で「からかうこと、嘲笑」という意味のようです。面白おかしいオペラをオペラ・コミックとか、オペレッタとかいうこともあり、音楽学的にはそれぞれ多少の違いがあるようですが、そんなことはここではどうでもいいことにしましょう。

 オペラ・ブッファの起源として、記念碑的作品とされているのはナポリ派の作曲家ペルゴレージの「奥様女中」です。これは金持ちの老人の世話をしている若い美人の女中が、老人をうまくいいくるめて、まんまと結婚してしまうという話です。ところで最近は「女中」などといってはいけないのでしたね。そうなると「奥様女中」ではなく、「奥様お手伝いさん」ということになりますが、これはいまいちいいネーミングではありません。
  いずれにしても、間もなく死んでしまう金持ちの老人の相続人となるために、この女性はありとあらゆるチエとコケットリーを駆使するのですが、これがなかなかかわいらしくて憎めないのです。これは「女とは何か」という本質をえぐる、おかしく、楽しいプチオペラです。

 笑えるオペラの古典的名作をといわれれば、私はドニゼッティの「愛の妙薬」をあげますね。モーツアルトの「コシ・ファン・トゥッテ」を先にあげるべきかもしれませんが、私は「愛の妙薬」のほうを上位に置きます。
  モーツアルトの「コシ・ファン・トゥッテ」を面白いといって笑う人がいるかもしれませんが私にはだまされている女性たちが可哀想で悲しくなります。またそれに、女性の本質的な浮気性を知って絶望する若者たちも哀れです。「コシ・ファン・トゥッテ」は、ハッピー・エンドで終るオペラの古典的な名作として知られています。しかし主人公たちが深く傷ついていることを考えると、このオペラは、私には後味の悪いものに思えます。

 その点「愛の妙薬」のほうは底抜けに明るく、楽しいオペラです。ご一緒に鑑賞しましょう。序曲に続いて幕が開くと、そこは十九世紀のスペインの農園です。正面には大きなブナの木が立っており、その木の下で地主の娘アディーナが本を読んでいます。ほかの農民たちは、収穫したばかりのぶどうを葡萄酒にするため処理作業をしています。こうした農民たちの集団の中には、アディーナに恋する若者ネモリーノの姿がまじっています。
  この最初の場面から、アディーナは農園所有者の娘なので他の農民のように働く必要がないこと、彼女だけ教養があって本を読めること、ネモリーノとアディーナは身分が違っていること、などを知ることができます。
  村の若者ネモリーノはアディーナを好きでしようがないのですが、身分が違う上に教養が違います。おまけに彼は内気なのです。身分のほうは何とかなるとしても、教養の違いをどう克服するか、内気をどう克服するか、これがわが主人公の最大の課題になります。
  このとき木の下で読書していたアディーナは突然けたたましく笑いだします。理由をたずねる周囲の人々にアディーナは、自分が読んでいる「トリスタン」の物語がおかしいといい、みんなに促されて本を音読します。

 ところで「トリスタンとイゾルデ」といえば、私たちはワグナーの楽劇を最初に思い浮べてしまいますが、トリスタン物語は中世期にヨーロッパ中でもっとも親しまれた「ロマンス文学」の代表です。ワグナーはこれを下敷きにして独自の作品を作ったのです。
  話はまた脱線しますが、「ロマンス文学」というのは男女が愛しあう文学という意味ではありません。ロマンスは非日常の世界を取り扱った古典文学です。すなわち王子、お姫様、魔法使い怪物などがほとんど不可欠の役割を担って登場します。
  ところで「原トリスタン物語」は大きく三つの系統に分かれるといわれます。その違いは主として媚薬をだれが飲むのか、また媚薬の効果が永久的なものか、期限つきのものかということにあるようです。なにしろクスリの効果が途中で切れるとなると、話は変わってきますからね。

 オペラの中では、トリスタン物語は、アディーナの歌によって次のように説明されています。「薄情なイゾルデ姫にトリスタンが恋をしました。しかしのぞみは叶いませんでした。彼が魔法使いをたずねると、魔法使いは愛の妙薬を一杯与えました。そのために美しいイゾルデ姫はトリスタンから離れることができなくなりました」。
  この話では、媚薬を飲むのはイゾルデではなくトリスタンです。ここは重要なポイントです。ご存じのようにワグナーでは、トリスタンとイゾルデが自殺用の「毒薬」のつもりで二人が半分ずつ飲むことになっています。これが正統的なトリスタン物語であり、こちらのほうがリアリティがあります。

 ところでこの「薄情なイゾルデ姫」と「トリスタン」の関係が、アディーナとネモリーノの象徴となっていることは、観客にはすぐに分かります。ネモリーノは、これから「愛の妙薬」を使って彼女の心をつかもうとするわけですが、現状のネモリーノとアディーナの関係においては、ネモリーノが相手に媚薬を飲ませるなどということは、至難のワザですよね。
  そこで最初に紹介されるトリスタンの物語は、トリスタン自身が媚薬を飲むことによってイゾルデ姫をひきつけ、拘束するという形式になっています。この形式のトリスタン物語は「ライオネスのトリスタン」と呼ばれているそうです。他のトリスタン物語ではなくこの形式でなければならない理由が次第に明らかになります。

 アディーナは美しく教養がある、ネモリーノはそのアディーナを恋している、こういう関係が明らかになったところで、兵隊の一行がこの村にやってきます。
  隊長をつとめる軍曹は村の女性たちをひとわたり見ますが、たちまちアディーナの美しさに目をつけ、彼女にいいよります。彼は隠し持った花束をアディーナに差し出して「美しいパリスが一番美しい人にりんごを捧げたように、私の心をひいた村の娘さんにこの花束を捧げます」と歌います。
  「美しいパリスがりんごを捧げた」というのは、トロイ戦争の発端になったギリシャ神話のことですね。ある日、羊の番をしているトロイの王子パリスのところへ、有名な三人の女神が下りてきて「私たち三人のうちでもっとも美しいのはだれ?」と聞きます。

 女神テティスと英雄ペレウスの結婚式に招待されなかったことを恨んだいさかいの女神エリスが、結婚式のテーブルに金のりんごを投げ込みました。このりんごには、「もっとも美しい女神へ」と書いてありました。パーティは紛糾しました。まず女神ヘラが「このりんごは私のもの」といえば、アテネが「いや、私のもの」といい、アプロディテが「それは私に決まっている」といい張ります。そこで三人はトロイの王子パリスに選ばせようということになり、問題のりんごを持って下界に下りてきたのですね。この話は「パリスの審判」とも呼ばれています。
  女神といえば賢いのかと思うと、たかがりんご一個のことでいい争うなんてずいぶんバカげていますね。しかし神でも「女」なのですから仕方がありません。トロイの王子は女神たちに金のりんごを手渡され、「一番美しい女神に捧げなさい」とかなんとかいわれたのでしょうね。ところがこの審判にはウラがありました。

 というのも、女神たちはパリスに自分を名指させようとして「条件」を持ち出したのです。ヘラは自分を名指せば「富と栄誉」をやるといいました。アテネは「すべての戦いにおける勝利」を約束しました。アプロディテは「地上でもっとも美しい女」を約束しました。そしてパリスはアプロディテに金のりんごを捧げました。あなたならどの女神にりんごを贈りますか。
  このパリスの審判事件は、その後十年間にわたる人間たちの大戦争にまで発展し、さらにはイタリア建国の歴史に至る壮大なストーリーにつながります。
  ところで例の軍曹は、この故事にちなんでアディーナに花束を捧げたものですから、アディーナも「この軍曹さん、ちょっとカッコいいじゃない。気が利いているわね」ということになります。軍曹はさらに、「愛の女神だって軍神マルスにはかなわないんですよ」と押しの一手で彼女に迫ります。
  彼はアディーナをアプロディテに見立て、さらに自分が軍人=軍神マルスであるという図式を描いています。ギリシャ神話では、アプロディテは公式には鍛治の神ヘパイストスの妻ですが、軍神マルスとの内縁関係はなかば公認されています。

 村に到着した兵士の一行、その隊長をつとめる軍曹がいきなり村の娘にいい寄って「結婚しよう」というのはいくらなんでも唐突だとお思いになるかもしれません。「そこがオペラなのだから、文句をいっちゃいけない」という人がいるでしょう。
  しかし私はそうは思いません。現実の世界でも手の早い人は早いものです。軍曹はそういう人々の代表選手に過ぎません。彼は戦場においても恋においても速攻が大切と思っています。
  ここで軍曹にいきなり口説かれたアディーナの心境はどうでしょうか。彼女は自分が選ばれ、美の女神アプロディテにたとえられたことに悪い気はしません。それにこの軍曹はギリシャ神話なんかよく知っていて、少しばかり教養があるらしい。それに若く男前で、決断力にとみ、実行力もありそうだ。しかしそれにしてもいきなり結婚話というのは、あんまり急だ。

 そこで彼女は「私は急いでおりません」と答えます。これは「あなたが私をお気に召したのならば、しばらくおつき合いをしましょう」という意味です。ところが軍曹は早いほうがいいといって彼女をせきたてます。「愛する人よ、武器を捨てなさい」。
  軍曹の求愛があまりに性急なのと、あまりに図々しいのにあきれて、彼女は歌います。「アディーナはどうしてどうして、そう簡単には征服されなくてよ」。しかし、彼女がこの軍人に魅力を感じていることは否定できません。
  さて、兵隊たちの出現と図々しい軍曹の口説、そしてこれに対するアディーナの反応を目の当たりにしたネモリーノは、観客が見ていても気の毒なほど苦しみます。まず彼は、自分の気弱に対して例の軍曹が大胆であることに驚き、感心してしまいます。

 「あの男の勇気のほんのちょっぴりでもぼくにあったらなあ・・」とネモリーノは歌いますがこの心境はすでにスタンダールが「恋愛論」の中で指摘した恋敵の美点に対する賛嘆の念にほかなりません。アランは「恋敵は気にも入りかねない」といっています。彼はまさにこの心理状況の中にあります。だからネモリーノはこの軍曹を恨む気持ちはさらさらありません。
  ところがネモリーノにとって許せないのはアディーナの反応です。彼女はもともとお高くとまっているのですから、行きずりの男がちょっと甘い言葉をかけたくらいでコケットリーを示してほしくないのです。ところが驚いたことに、アディーナは「私は急いではおりません」「簡単に征服されませんよ」などといいながらも、軍曹の口説を喜んで聞いているではありませんか。

 愛する女性に抱いたイメージが、その女性の他の男性に対する態度によって大きく変化させられる、こうした経験はだれにでもありますよね。ネモリーノのショックを思いやってください。「何て不幸なんだろう。彼女が承知したら、ぼくは死んでしまう」と彼は歌います。
  折りも折り、この村に不思議な人物があらわれます。金ピカの馬車に乗って、いかにもタレント風な派手な衣装に身を包んだ中年の男性です。村人はびっくり仰天、この人は相当偉い人物に違いないと思います。
  この人物、やおら町の広場を占拠すると「我が輩こそは偉大なる医師、この世に知らぬものはない百科の医師ドゥルカマーラ、病の治療者、人類の恩人である」と名乗ります。要するに地方を回って歩き、素朴な村人を対象に薬を売り歩く人物なのです。

 彼の口上によれば、「健康を売っている」ということになります。彼の薬は歯痛にもきくだけでなくねずみでも南京虫でも退治できます。また彼は、この薬を飲んだおかげで七十才の老人に十人も子供ができたという話をします。これは不老長寿を約束する奇跡の特効薬なのです。村人は感心し、大先生のすすめに従って先を争うように薬を買います。
  このシーンを見ると、今も昔も人々の健康への関心は大きな市場であったことが分かります。そしてここでは集客、セミナー方式の説明、薬や療法による効果の事例発表、そして薬の販売までが一連の流れになっていることが分かりますね。いずれにしても、こんにちの健康食品、健康機器、それに民間治療法などのマーケティングも、このドゥルカマーラ博士の方法論を受け継ぐものであることはたしかです。

 さてネモリーノですが、彼は若くて元気ですからドゥルカマーラ博士が推奨するいわゆる「定版品」は不要です。それよりも彼は、さきほどアディーナが読んでくれた「トリスタンとイゾルデ」の物語の中で、トリスタンが用いた媚薬を買いたいと思います。
  そこで彼はおずおずと「あなたはイゾルデ姫の愛の薬を持っていますか」、と大先生に尋ねます。これを聞いて大先生は目をパチクリ。「それは何のことですね?」。ネモリーノはじれったそうそうに、「ほら、愛を呼び起こす不思議な薬のことですよ」。ドゥルカマーラ博士ははたと膝を打ち、「我が輩がその薬の蒸留人じゃ」。
  どんなビジネスでも「それは当社ではできません」といってはなりません。先例のない仕事ほど実績があるように見せかけるのがコツです。ドゥルカマーラ博士は医師としてはどうか知れませんが、ビジネスセンスは相当なもので、「それは、いま大はやりなのじゃよ」などとネモリーノにいいます。博士はボルドー・ワインを薬のびんに移し、「これがその魔法の液体じゃよ」と渡します。狂喜乱舞するネモリーノ。

 博士はあまりにネモリーノがやすやすだまされるので、「わしも諸国を巡ってきたが、これほどバカなやつは見たことがない」とあきれ果てます。薬のききめがあらわれるまでには24時間。「それだけあれば、ここからずらかれる」と博士は後ろ向きになって歌います。
  この先お話がどのように展開するか、察しのいい方はおそらく見当がついたことでしょう。ネモリーノは、このボルドー・ワインを効果のある媚薬と思ってチビチビ飲んでいます。「これを飲めばアディーナは自分を好きになる」と固く信じていますから、アディーナが目の前にあらわれても自信たっぷり。彼はもはや以前のように溜め息をついたり、彼女に哀願するようなそぶりを示しません。どころか彼女を無視する態度さえ取ります。
  これを見たアディーナは、「私を見ないわ、何て変わったんだろう!」と驚き、不安を覚えます。彼女の不安は怒りに変わり、「このおばかさんに復讐してやろう」という気持ちにまでなります。そこで彼女はヤケクソになり「例の軍曹と結婚する」といいだします。

 軍隊は突然出発することになり、軍曹とアディーナの結婚式が直ちにとりおこなわれることになりました。ところがご承知のように、ネモリーノの媚薬は24時間経過しないと効果があらわれないのです。媚薬にすべてをかけたネモリーノの計算は狂ってきます。
  村人が集まり、公証人が呼ばれ、結婚式の準備が進んできます。ネモリーノはいまや半狂乱です。ネモリーノは媚薬のききめを加速するために、ドゥルカマーラ博士からもう一瓶買おうとしますが、金がありません。愚かな彼は軍隊に入隊を志願し、その軍隊からの支度金で追加の一瓶を手に入れるのです。
  ネモリーノがいんちきな媚薬を手に入れるために、みずからすすんで破滅の道を選んでいる頃彼の大金持ちのおじさんが亡くなり、ネモリーノはその遺産を相続することになりました。しかしこのニュースはまだ本人の耳には入っていません。村の娘たちのうわさ話の段階です。

 舞台にネモリーノが登場しますが、彼は相当ご機嫌です。それもそのはずボルドー・ワインを二瓶あけてしまったのですからね。そこへ日頃彼をバカにしている村の娘たちがやって来て、彼に愛想よくふるまい、彼を取り巻いて離しません。彼女たちはすでにネモリーノが金持ちになったという噂を聞き込んで、うまく行けば「玉の輿」に乗ろうという魂胆です。
  ところがネモリーノは、娘たちが自分をチヤホヤしてくれるのは、いよいよ媚薬のききめがあらわれてきたためだと確信します。アディーナはネモリーノが娘たちにモテている様子を見て不思議に思います。彼女はドゥルカマーラ博士から彼が軍隊に身を売ってまで「愛の妙薬」を買ったのだと聞いて、ひどく感動し、自分が彼にこれまで薄情にしすぎていたと反省します。
  彼女がネモリーノへの愛に目覚めたのを見てとったドゥルカマーラ博士は、「あなたにもすばらしい薬を売ってあげよう」とビジネスをもちかけます。しかし彼女は自分の女としての魅力こそ何よりもの愛の妙薬のはず、と主張して商品の購入を断わります。

 ここで興味深い人物、ドゥルカマーラ博士を観察しましょう。彼は素朴な村人にかなりいんちきくさい薬を売りました。ネモリーノの要望に応えて、ただのワインを「愛の妙薬」として売りました。それも2度にわたってです。最初の「値づけ」の駆け引きは次の通りです。
ネモリーノ「お値段はいくらぐらいで?」
博士「わずかなものじゃ」
ネモリーノ「わずかといいますと?」
博士「そのう、つまり・・・」
ネモリーノ「1ツェッキーノしかないんですが」
博士「ちょうどその値段じゃ」
  という具合で、相手の懐具合に合わせてしっかりビジネスをしています。そしてネモリーノが女性たちにモテモテの現場を見ると、この先生、自分がインチキの薬を売ったことを忘れて「わしの薬はなんてききめがあるんだろう」とすなおに驚き、「やはりわしの薬はすばらしい」と強い自信を持ちます。そしてタイミングをとらえてアディーナにまで同じ薬を売ろうとします。
  そしてアディーナに断わられると、彼は「ほい、彼女のほうがわしよりうわてじゃ」といい、「あんたは蒸留器を持ち、エトナ火山よりもずっと強力な溶鉱炉を持っているんじゃ」とアディーナの魅力を讃美します。私はここに理想のセールスマンの姿を見ます。いつの世もセールスはこうでなくてはなりません。

 アディーナはまだネモリーノ自身と同様、彼が金持ちになったことを知りませんから、ただ彼が軍隊に取られることだけを心配します。そこで彼女はネモリーノに相談せずに、彼が軍隊から受け取った支度金をそっくり返還して、ネモリーノを開放する手続きをとります。
  ネモリーノの方は、アディーナの愛情さえ得られれば後はどうなってもいいのですからこの勝負アディーナの負けです。賢い人間は、あれこれ先のことまで考えて心配し、手配し、調整します。ところがバカな人間は先のことなどなにも考えません。それどころか彼女があれこれ心配して、自分の世話をやいてくれるのはみな媚薬の効果だと思っているのだから始末におえません。

 ここでネモリーノによって歌われるのが有名な「人知れぬ涙」というアリアです。「彼女が僕のために人知れず涙を流しているのを見た。そうだ、彼女は僕を愛しているんだ。神様、もう私はこれ以上なにもいりません」。
  ごらんのように、ここで歌われる彼の認識には若干の誤解がまじっています。しかしネモリーノの素朴な内面がにじみ出た、とても美しい曲です。普通日本語タイトルでは「人知れぬ涙」となっていますが、これは「人知れぬ涙を見た」とすべきでしょう。でないと誰が泣いているのか分からなくなってしまいますからね。こうして彼と彼女は、インチキ媚薬のおかげで、結局めでたく結ばれます。おすすめしたい、楽しいオペラです。

 このオペラ「愛の妙薬」が私たちに告げているもの、それは思ったほど単純ではないと私は思います。
  その第1は「薬というものは本人が思い込んでいるとききめをあらわす」ということです。このような薬の効果をプラシーボ効果といいます。新薬の効果を確認するとき、本当の薬に混ぜてこのプラシーボが被験者に投与されます。製薬会社としては、どこまでが純粋な薬の効果なのかどこまでがプラシーボ効果によるものかを統計的に判定しなければなりません。
  このオペラでは、本人の薬に対する絶大な信頼が主人公の「自信ある態度」に変わり、自信ある恋の駆け引きと、ひたむきな愚直さが結果として、あたかも薬の効果のように、彼女の同情と愛情を引き出したというところがおかしいのです。これは昔からの「魔法」とか「媚薬」の本質を私たちに伝えています。

 現代の医薬は、あまりに即物的な薬の効果を追及しすぎています。プラシーボ効果と真の効果を判別することは大切かもしれません。しかし「薬が効く」とは一体どういうことでしょうか。それは患者の課題を解決し、患者に幸福感を与えることなのではないでしょうか。それなら例の大先生は成功したのです。
  「現代の医師たちよ。ネモリーノに自信を与えた、かのドゥルカマーラ博士のあり方を謙虚に見習うべし」これがこのオペラから学ぶ最大のポイントです。

 このオペラの第2のポイントは、「自信をもって行動すれば道は開ける」、あるいは「捨て身になって行動すれば成功する可能性がある」ということです。これらの教訓はもう何度もいいふるされたものです。しかしネモリーノが最後までウジウジしていたら、彼が金持ちになったことだって有利に働くかどうか分かりません。
  さて、このオペラの第3のポイント、それは「愚者は賢者より強い」という教訓ではないでしょうか。心配する人間になるのと、心配される人間になるのとどちらを選ぶほうがいいのでしょうか。私たちはどうやら道を間違えたかも知れません。

 ネモリーノとアディーナの結婚、うまくいくでしょうか。私はうまくいくと思います。おそらくネモリーノは、例の愚かぶりでアディーナをあきれさせるでしょう。彼は彼女にバカにされ、罵られるでしょう。しかしネモリーノは反撃せず、彼女を尊敬しつづけますから心配はいりません。彼女はネモリーノを保護し、最後まで彼のことを心配し、面倒を見るでしょう。彼の新しい財産についても、彼女が管理すればまず問題ないでしょう。
  このオペラは、美しく賢い女性がかならずしも教養的に似合いの相手を見つけるわけではないということも教えています。もっと若い頃にこのオペラを見ておくべきだったなあ。そうすれば私も臆せずにもっとネモリーノ型の人生を歩んだかもしれないのに。

   
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