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オペラからのメッセージ
 
第12章 女は果たしてロマンチックか――ラヴェル「スペインの時」

 「愛の妙薬」に続いて思い起こされる楽しいオペラの代表選手は、ロッシーニの「アルジェのイタリア女」でしょうね。ロッシーニのオペラはどれも明るく楽しいものですが、中でも「アルジェのイタリア女」は風刺がきいていて愉快です。この作品は、モーツアルトの「後宮からの逃走」にも通じるところがありますね。
  しかし私はここで時代を一気に飛んで、みなさんにラヴェルの「スペインの時」という極上の作品をおすすめしたいと思います。
  これは一時間足らずの短い作品です。初演のときに台本を提供してくれたフランク・ノアンにラヴェルが「感想はいかがですか」と聞いたところ、この作家は「56分」とだけ答えたそうですから、音楽を聴かずにじっと時計ばかり見ていたようですね。
  私の考えでは作家は音楽がひどく新しかったので、自信をもってよしあしをいえなかったのだと思います。もっともノアンが時計を見つめていたのには、別の理由があったかもしれません。といいますのも、この作品は時計屋をテーマにした作品だからです。

 舞台は最初から最後まで時計屋の店頭です。この店から向かって左手二階に、時計屋の女房の寝室につながる階段があります。店頭にはいろいろな時計がならんでおり、時計の仕掛けが動いたり、音を出したりします。その時計の効果音を、ラヴェルは音楽の中で多彩に、効果的に使います。
  ラヴェルが、この「スペインの時」というオペラを作ろうという気持ちになった理由をいくつか上げることができます。その第1はラヴェルのスペイン好みです。ラヴェルのお母さんはスペイン系の人だったようで、ロン・チボー・コンクールでその名を残しているマルグリット・ロンは彼について次のように書いています。
  「マニュエル・デ・ファリャも驚くスペインに対するあのすばらしい本能的な天分は、母親ゆずりです。・・19才で作曲したすてきな『ハバネラ』から『ドルシネア姫に思いを寄せるドンキホーテ』の最後の歌にいたるまで、すべてのラヴェルの音楽はスペインのリズムとダンスへの賛歌なのです」。
  第2の理由は「時計屋」というモチーフです。オーケストラの魔術師といわれる音響効果の達人が、たくさんの時計のチクタクいう音、鳩時計の鳴き声、ゼンマイの回る音、それに仕掛け人形などの回転音などが登場する脚本を見過ごすとは思われません。ストラビンスキーはラヴェルに「スイスの時計師」というニックネームを奉っていましたが、これはラヴェルの音楽の、計算された精緻さに対する賛嘆の念を表現しています。

 第3の理由は、ラヴェルがありきたりの古典的なオペラを作るつもりがなかったということです。彼はひと癖もふた癖もあり、しかも洒脱で、軽妙なものを作ろうとしていたのです。そのチャンスを待っていたのです。
  ラヴェルの作品には、器楽曲であれ声楽曲であれ一筋縄ではいかない何かがあります。ラヴェルはよく同時代のライバル、ドビュッシーと並べられ、比較されます。しかし、ドビュッシーの音楽が自己陶酔型であるのに対して、ラヴェルの音楽はずっとクールで、突きはなしたところがあり、知的で、皮肉がきいています。
  ドビュッシーの生涯には起伏があり、ドラマがありますが、ラヴェルの生涯はごく坦々たるもので、劇的なエピソードはないといってもいいほどです。しいていえば生前彼の音楽的な水準の高さが、一部の権威や批評家たちに理解されなかったということぐらいでしょうか。作曲家自身の人柄も温和で真面目であったようです。
  ところがラヴェルの音楽は、一つ一つがおそろしいほど完成度が高く、濃縮されています。そして何よりも情緒豊かな音楽性の反面に、意地が悪いほどのアイロニーがひそんでいるのです。「スペインの時」はこうしたラヴェルの特性をみごとに凝縮したオペラです。
  彼自身がいっています。「もうずっと前から私は、ユーモアのある音楽作品を作りたいと思っていた。近代的なオーケストラは喜劇的な効果を盛り上げるのにちょうどいいと思えたからだ。・・この台本では、あれこれと私を誘惑するものが山ほどあった」。近代的なオーケストラが喜劇を盛り上げるのにちょうどいいとは、ラヴェルならではの、驚くべき発言です。

 幕が開くと、そこは時計屋の店先です。さまざまな時計が作り出す音楽が幻想的に響いてきます。時計屋の主人がいます。そこへお客が1人はいってきます。この男は若いラバ引きです。彼は壊れた懐中時計を直してもらいたいといいます。なぜなら彼は郵便物を輸送しているので、時間通りに仕事をしなければならないからです。
  懐中時計は闘牛士のおじさんからの形見です。おじさんはこの時計のおかげで命拾いをしたことがあります。突進する牛のつのが時計に当たったのです。「牛のつのは止まったが、今度は時計が止まってしまった」とラバ引きは歌います。この闘牛士のおじさんを説明するくだりで、早くもスペイン的なものがあらわれます。

 時計屋が修理をしようとすると、そこへ時計屋の女房が出てきて、「もうでかける時間じゃありませんか」と夫をせきたてます。木曜日は、時計屋の主人は市役所の大時計を合わせに行く日になっているのです。要するに彼は官庁からルーチン業務を請負っているわけですね。時計屋はラバ引きに「すぐに戻るから待っていて下さい」といい残してそそくさとでかけます。
  時計屋の女房が夫をせきたてたのには、それなりのわけがあります。彼女は1週間に1回のこの時間帯を利用して、浮気のお楽しみをしようとしていたのですね。恋人も間もなくあらわれるはず。ところが今日は店先にラバ引きが立っています。ちょっと具合が悪いですね。

 奥さんはラバ引きに、店頭にある2つの大時計のうちの一つを自分の寝室に運ぶように頼みます。この時計は背の高い、いわゆる「おじいさんの時計」です。ラバ引きは喜んで大きな時計を担いで二階に上がります。何しろラバ引きはとてもシャイで、奥さんと店先で2人っきりでいるのが気詰りだったので、力仕事を与えられてむしろほっとし、奥さんに感謝している様子です。
  そこへ奥さんの恋人の若い学生が歌いながらやって来ます。なかなかハンサムなのはいいのですが、彼はすっかり詩人気取りです。名文句を見つけてはこれを手帳に書きつけています。奥さんはこの学生をもう一つの大時計の中にかくして、戻ってきたラバ引きにいいます。「ごめんなさいね、さっきの時計は部屋に合わないので、こっちの時計を運んで欲しいの」。

 ラバ引きは何しろ力自慢ですから、「よっしゃ引き受けた」とばかり学生の入った時計を奥さんの寝室へ、さっきの時計を店先に戻します。そこで奥さんは、お楽しみのために寝室に上がります。店頭には人のいいラバ引きが残り「いい奥さんだな。さすがに人使いがうまい」などといっています。
  観客は奥さんが時計の中から学生を引き出して、楽しいことを始めたにちがいないと想像します。ところがしばらくすると、奥さんがイライラしながら階段を下りてきます。どうやら学生が「詩作」に夢中になって、奥さんのご要望に応えていないようですね。
  しばらくすると時計屋の店先にでっぷり太ったもう一人の恋人が現われます。こちらのほうはちょっと年配ですね。この男は町の銀行家で、市政にもカオがきくようです。というのも彼は、時計屋の奥さんとこの時間に逢い引きできるように、時計屋のご亭主に市役所の仕事を発注したなどといっているからです。

 彼はバカなことに、自分に「遊びゴコロ」があることを示そうとして、自分からもう一つの大時計の中に入って奥さんが出てくるのを待ちます。奥さんが二階から下りてくると彼はさっそく大時計の中から奥さんにいいより、若い男よりも自分のように何もかもわきまえている大人と恋をするほうがいいと説得します。
  奥さんは本当は若い学生のほうがいいのですが、なにせ学生は詩作に夢中でその気になりませんから、このさい年寄りのほうでも我慢しようかと決心します。何しろ彼女は限られた貴重な時間を有効に活用しなければなりません。
  彼女はまたラバ引きに頼んで今度は別の大時計を自分の寝室に持ち上げてくれるように頼みますと、ラバ引きは喜んで仕事にかかります。ラバ引きが下りてくると、今度は交代で奥さんが二階へ上がります。

 観客は奥さんが時計の中から銀行家を引き出して、きっと楽しいことを始めたにちがいないと想像します。けれどしばらくすると、奥さんが前よりもさらにイライラしながら階段を下りてきます。どうしたのでしょう。
  「ああ情けない、情けない」と彼女は悲痛な歌を歌います。「1人は詩人気取りで肝心なときになってもその気にならないし、もう1人は太った腹がつかえて時計から出てこられない・・」銀行家はユーモアのあるところを見せようとして、時計の中に自分を閉じ込めてしまったようですね。これじゃ奥さんが嘆くのも無理はありありません。
  彼女は「あれでも一体スペインの男なの?」といって恋人たちをののしります。「ああじれったい、じれったい、もうじきエストラマドウルなのに、グアダルキビールの国なのに・・」と奥さん。
  このエストラマドウルとかグアダルキビールというのは何のことでしょう。グアダルキビールという名は河の名として「フィガロの結婚」にも登場しますが、この不思議なスペイン語が何を意味するのか、分かりません。お分かりの方がいたらぜひ教えてください。文脈から察するに桃源郷のようですね。

 ところが「私ときたら、さっきから操を守りっぱなし」ということになります。これには観客も大笑い。しかし彼女にとっては真剣です。彼女はフラストレーションのあまり「ああ、じれったい。手当り次第に何でもめちゃくちゃにこわしたくなる」といって足で床を鳴らしますが、さすがにこれはフラメンコのリズムになっています。
  ところがこのとき、ふと奥さんの目に止まったもう1人のスペインの男がいます。いままで彼女の視野に入っていなかった例のラバ引きです。
  女性の表情がもっとも美しい瞬間は、レストランで何を食べようか迷っているときだ、と教えてくれた友人がいます。それ以来、私はレストランでメニューを見ている女性の顔をのぞくようになりましたが、観察の結果を申し上げると、「これにしましょ」と食べるものを決心した瞬間がもっとも美しいと思います。

 これは女性に限ったことではありません。すてきなアイデアを思いついて、「よし、これでいこう」と決めたとき、人間の表情は明るく輝きます。女性たちも単なるおめかしではなく、アイデア発想のトレーニングをすべきでしょうね。
  そこで例の時計屋の奥さんが、恋人として第3の「スペインの男」のことを思いついたそのときの表情を想像してください。ラヴェルの音楽も、オペラ役者の演技もこういう点では決して抜かりがありません。要するにすぐれた芸術は、大切な心の瞬間を見落さないのです。
  ラバ引きは時計をかついで二階から下りてきたところです。彼は「もう一度運びましょうか。何なら二ついっぺんでもいいです」などといっています。奥さんは、「なんて落ち着きがあること。この人の腕っぷしはすごい。この人となら、たわごと抜きだわ」と、たちまち行動方針を決定。そこで、「もう一度二階に来てちょうだい」と彼に頼みます。「どっちの時計を運ぶんですか」と聞くラバ引きに「時計はいいの!」と奥さん。

 ラバ引きと奥さんが、時計なしで二階に上がってしまうと、銀行家はそっと時計の扉を開き、「恋よ、恋よ、意地が悪いな、こんなところへ私を閉じ込めるなんて。これなら家にいてスリッパを履いて、安楽椅子に座っている方がよかった」と歌いますが、この部分のメロディは本当に美しく、何度聞いてもほれぼれします。
  この場面を見ると私は志ん生の落語「五人まわし」を思い出します。くるわに遊びにきた男が花魁にふられて「ああ、こんなところに来るんじゃなかった。おふくろの寺参りでもすればよかったな」と嘆くところがあります。恋の失敗は人間を謙虚にするのです。
  一方学生の方は時計から出てきて「さらば独房よ、いとしの姫君からたまわった騎士のよろいかぶとよ・・」などと歌っています。彼は時計をそのつど棺桶に見立てたり、森の樫の木に見立てたり、独房に見立てたり、よろいかぶとに見立てたりしているのですが、なるほどそういわれてみればそう考えられなくもありませんね。もしかしたら、彼は本当に詩人としての才能があるのかもしれません。

 そうしているところに、時計屋の主人が帰宅します。店頭の2人は大いにあわてますがさすがに銀行家の方が年の功で、「御宅の時計はどれも立派ですな。振り子のしかけをみようと、時計の中に入ってしまいました」などとその場をとりつくろいます。
  時計屋の主人は、自分の留守中に見慣れない男が2人も店先にいることを怪しみますが、そこは世慣れたビジネスマンです。「千客万来。ありがたい」などといい、いささか後ろめたい2人にすぐさま大時計を売りつけてしまいます。
  2人とも時計など買いたくはないのですが、なりゆき上やむを得ません。商機をつかんでしっかりセールスする、ビジネスはこうでなくてはなりません。
  そこへ望外のアバンチュールに気を良くしたラバ引きが現われます。すると時計屋の主人は、彼を長時間待たせていたことに気づきます。続いて時計屋の奥さんが、ほてった顔に扇子を使いながら登場しますが、彼女の表情にはすっかり満ち足りた「お色気」がただよっていますね。

 ところがここに問題が一つ残っています。大時計に入った銀行家が、まだ時計から抜け出せないでもがいているのです。みんなで手をつないで引っ張りますが、やはり出せません。そのとき業を煮やしたラバ引きが、銀行家のむなぐらをつかんで引っ張ると、すぐに取れてしまいます。みんなは「何てすごい力なんだ」とびっくりします。
  するとこのとき、こちら向きになった奥さんは、「彼の強さならみんな覚えがあるわ」とひとりごとをいいます。それはそうでしょう。銀行家も学生も時計ごと担ぎ上げられたわけですからね。そして奥さんが体験した「彼の強さ」とはどのような種類のものだったのか? それは私たちが勝手に想像することにしましょ。
  オペラの最後は古典的なフィナーレです。ということは登場者みんな揃っての合唱。「何はともあれスペイン風・・。ボッカチオがいっています。恋人はたくさんいても、役に立つのは1人だけ。ときには恋のたわむれにラバ引きの出番もやってくる・・」。
  ここではラヴェルお得意のハバネラのリズムが聞かれます。このリズムこそヴァイオリンの名曲「ハバネラ」、そしてソプラノのための「ヴォカリーズ」で私たちにおなじみのもの。そしてハーモニーはモダンでどこまでも「粋」です。

 モダンといえば、当時アメリカで活躍していたガーシュインがラヴェルのもとにやって来て、「弟子にして欲しい」と頼みました。ガーシュインは今世紀最大の作曲家の一人で、彼が開発したハーモニーは最高に美しいものです。モダンジャズの理論的な源流はガーシュインのハーモニーといってもいいでしょう。彼のオペラ「ポーギーとベス」は圧倒的、感動的です。これもどこかでご一緒に鑑賞したいですね。
  作曲家としてすでに成功しているガーシュインがほかならぬラヴェルに向かって、「弟子にしてくれ」というのです。私はガーシュインの選球眼のよさと謙虚さに驚きます。しかしラヴェルはこういいました。「小さなラヴェルになるよりも、そのまま大きなガーシュインにおなりなさい」。ガーシュインはラヴェル以外に師事する考えはありませんでしたから、話はこれで終りました。

 さて、話はラヴェルの「スペインの時」に戻ります。このオペラはまさにアダルト・オペラとでもいうべきもので、なんといってもきわどい滑稽さが身上です。それでもよく見ると、男性のほうはロマンチックで、即物的なことは何もいわないのですね。ちなみに学生詩人は最初から最後まで雅語を連ねて詩を作っていますし、一見グロテスクな銀行家もそのせりふは紳士的で、エッチなことは一言もいいません。
  一方、ラバ引きは素朴さの固まりのような男で、前の二人にくらべれば教養はありませんが、「気はやさしくて力持ち」そのものです。彼は重い時計を運びながらも「すてきな奥さんだな、いい人だな」などといっていますが、これは憧れを表現しているのであって、彼女を恋愛の対象と考えているのではありません。

 これに反して、時計屋の奥さんの即物性は驚くばかりです。「さっきから私は操を守りっぱなし」「早くしないと夫が帰ってきてしまう」「なんて強い腕っぷし、あの人とならたわごと抜きだわ」というように、彼女の関心は、与えられた時間内に、ともかくやるべきことをやってしまうこと、この点にしっかり絞られています。
  スペインの男性をはじめラテン系民族の男性は、女性口説きの名人として知られています。御存じドンファンの国籍はスペインですからね。ところがここに出てくる「スペインの男」の4分の3はモノの役に立ちません。

 このオペラの面白さは、女性口説きがうまいはずのスペインの男の、意外な「とろさ」にあります。これは何もスペインだけに限ったことではありません。男性はとかく「女性はロマンチックな雰囲気を好むものだ。女性に愛されようとするなら、あまり露骨であってはいけない」と考えています。ところが女性のほうはもっと直接的に、目的に対してムダのない行動を求めています。
  ちなみに時計屋の女房が要求しているのは「具体的成果」であって、「ロマンチックな雰囲気を作るためのたわごと」ではありません。この際、「成果」を保証してくれる人ならだれでもかまわないわけです。
  もっとも女性がこのような「成果尊重主義」にたどりつくためには、それなりの体験を積み、男性というものに絶望しているのでなければなりません。それでいて社会的な規制の中で対面をつくろうというプレッシャーがかかっていなければなりません。時間がいくらでもありあまっているなら、「たわごと」も結構です。しかし彼女は時間の制限、それゆえ時間の生産性を気にしていますね。

 時計屋の奥さんにとっての時間の制限、これは舞台中に飾られたいろいろな時計、その時計がかなでる音楽によって象徴されています。そして男性の悠長ぶりと彼女の直接的で露骨な欲求、これが優雅で香り立つような、上品な音楽に包まれているのです。ラヴェルの「スペインの時」は洒落が分かる人のためのオペラです。
  まだ高校生だったころ、プラントームの「艶笑伝」、バルザックの「滑稽風流談」を「面白いから読んでごらんよ」といって父親に貸したことがあります。「高校生の分際でこんな本を読むとは何事だ」といって、私はひどく叱られました。父は高等学校の校長だったのです。以来、私は本を貸すときには相手の立場や性質をよく考えるようになりました。

 バルザックに「結婚の生理学」という大論文があります。彼はここで「姦通はどうして発生するのか」という大研究を行ないました。彼はまず、統計学的にアプローチしました。当時フランスの人口は3千万人。彼はその半数を男性、半数を女性に分け、それぞれから恋愛に不適当な人口を差し引きました。たとえば年令、収入身分からくる時間的なゆとり、病気など。
  バルザックは計算の結果こう結論しました。「独身者の数に艶事の数をかけると3百万の情事ということになる。これに対応させるにわれわれは、40万の淑女しか持っていないのである」だからこれらの数の不整合はすべて結婚している女性の姦通、不貞ということでつじつまを合わせなければならない、というわけです。
  彼はこの書物の中でコキュにならないための対策法、たとえば住いの設計法まで、ことこまかに助言を提供しています。こうした文化的な風土をふまえて「スペインの時」を鑑賞するのも一つの見方かも知れませんね。

   
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