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オペラからのメッセージ
 
第13章 ねころんで経営できるか――リムスキー・コルサコフ「金鶏」

 さて、ラヴェルの作品を卒業して、今度はロシアのラヴェルとも呼ぶべきリムスキー・コルサコフの「金鶏」を鑑賞しましょう。
  先日テレビで、キーロフ・オペラの「サトコ」を見ました。これはリムスキー・コルサコフの中期の傑作とされています。この中にある「インドの歌」は、高校の音楽の教科書などにのっていて有名です。これを歌ったのはゲガム・グレゴリアンだったのではないでしょうか。さすがにうまいですね。「なるほど、『インドの歌』はあんなに美しい歌だったのか」と驚嘆しました。やはりR・コルサコフは並々ならぬ、すばらしい作曲家なのですね。
  ところで、これからお話する「金鶏」は、楽しいオペラの部類に入れるほかはないと思いますが、筋書きは悲惨なものです。およそハッピー・エンドではありません。ではどうして悲惨なものが楽しいのか、これがこの作品の重要なポイントです。じつはこれはプーシキンのおとぎ話、「金の鶏」をもとにした風刺劇なのです。
  プーシキンについてはすでにチャイコフスキーの「エウゲニ・オネーギン」のところで触れました。プーシキンがラフマニノフの「ジプシー」のテキストになっていることも触れました。「スペードの女王」「ボリス・ゴドノフ」「ルスランとリュドミーラ」、そしてこの「金鶏」と上げてくれば、プーシキンを抜きにしてロシアのオペラを語ることはできないことがお分かりでしょう。

 またまた横道にそれることをお許し下さい。「罪と罰」「カラマーゾフの兄弟」などで名高い作家ドストエフスキーは、1880年5月、モスクワでプーシキンの銅像除幕式に記念講演をしてほしいと頼まれました。
  というのも、ドストエフスキーは日頃から、プーシキンを師と仰いでいると公言していたからです。このときドストエフスキーはすでに苦難時代を卒業し、ロシアでもっとも人気のある作家となっていました。彼はあまり体調がすぐれませんでしたが、講演を引受けました。
  彼は講演の席上でこういいました。「プーシキンはロシアそのものであり、そしてまた全世界的である。彼はいろいろな民族が理解できたし、すべてが理解できるからこそロシア人なのだ」そしてプーシキンの死について触れて、「プーシキンは、その最盛期にあって、疑いもなく一つの偉大な秘密を墓場に持ち去ってしまった。われわれは、今やその秘密のなぞを解かなければならないのです!」といいました。ドストエフスキーの説得力はすさまじいものだったようです。
  アンリ・トロワイヤはこのときの聴衆の反応を次のように伝えています。「場内は大混乱になり、全員総立ちで、はじけるような拍手を送り、わめき立て、感きわまってぽろぽろ涙を流しているものもいる」。当時のロシアにおけるドストエフスキーの人気と、プーシキンの人気の相乗効果が見られたのですね。

 R・コルサコフは、プーシキンの「金の鶏」というテキストをもとにオペラを作りました。これまで私たちが見てきたところでは、文学テキストは、オペラのリブレットよりもはるかに長くて複雑、というのが通例でした。ところがこのリブレットは、プーシキンの原作のほうが単純で短く、オペラ・リブレットのほうが長くて複雑なのです。つまり原作のコンセプトと筋書きを尊重しながらも、原作にはない場面や挿話を入れています。
  参考書によると、リブレットの筋書きはR・コルサコフが考え、友人のベリスキーが表現を完成したことになっています。つまりR・コルサコフはこの作品の中ではっきり主張したいことがあったということです。それは何であったのでしょうか。ともあれ、オペラそのものを見ることにしましょう。

 幕前に鋭いトランペットのファンファーレが聞こえます。これは金鶏の「コケコッコー」を模したものです。舞台の端に何やら魔法使いらしい不思議な人物が立って、口上を述べます。
  彼のいいぶんはこうです。「私は魔術師である。私は超能力を持っている。これから私の魔法を使っておとぎ話をお目にかける。おとぎ話はつくりものだ。しかしここには一つの暗示があるみんなにつけたい薬がある」。
  何やらなぞめいていますね。ゾクゾクしますね。ここですぐに幕が開き、立派な宮殿の広間が見えます。王を中心に会議の最中です。
  ここはドドン王国。何ともふざけた名前ですね。でも原作の名ですから仕方がありません。いましも年老いたドドン王が次のように演説をぶっています。
  「わしは年若くして恐れられ、近隣の諸国を存分に辱めてきた。しかしわしも寄る年波には勝てぬ。ついては、王冠を息子に譲って隠居したいと思っている。ところが最近は東西南北から敵が攻撃をしかけてくる。おちおち心配で眠ることもできない。何かいい対策はないだろうか」。

 この心境、分かりますね。若くして会社を創業し、会社を大きく伸ばしてきた。そろそろ後継者に会社代表の地位を譲り、ゆっくり夫婦で海外旅行でもしたい。それなのに、ライバルからの攻撃がしきりで、内部にも課題山積、「どうしたらよかんべえ」、というやつです。
  王から投げかけられたこの問題に対して第1の王子が次のような解決策を提案しました。「国境が拡大していることが問題です。戦争は兵を配備した国境で発生するのですから、国境線を縮小すればよろしい。すなわち国境軍を引上げさせ、この都だけを守備させればいいのです。都には食べ物、ビール、ワインを豊富に蓄えればいい」と。
  何とすばらしい思いつきでしょう。王様も感心しますし、提案した本人も得意です。ところが反対者がいました。老軍司令官のポルカンです。彼は「敵が城下に陣を敷き、大砲をぶっぱなしたらそれでドドン国はおしまいだ」といいます。これ、正論ですよね。
  ところがドドン王はこの正論を聞いて、ひどく不機嫌になります。「ほら吹きか、それともお縄がほしいのか?」。そして周囲にいる貴族たちも「年よりの冷や水」などと口汚くののしります。困ったものです。でも、これ、どこでもあることですよ。

 第2の王子は次のように発言します。「敵から攻撃がないのに、年中軍隊を配備する必要はない。要するにタイミングなのです。軍隊はひとまず家に帰しましょう。敵から攻撃される1ヵ月前になったら招集し、決戦で勇敢に撃退する。これで戦争問題は解決です」。何とすばらしいアイデア、王様はすっかり感心「だれもがいえることではない」などといっています。
  ところが、これを聞いた老軍司令官ポルカンが「敵が予告なしで攻めてきたらどうしようもない」といって反対します。これも正論ですよね。
  ところがドドン王は機嫌を悪くし「またも貴様、おしゃべりな奴、おまえは敵とぐるなのか。裏切り者」などとどなります。しかしそうはいってもいい知恵が浮かばない。ドドン王が腹立ちまぎれに、居並ぶ貴族に「お前たちはバカだ」といえば貴族たちは「仰せのとおり」という始末ですから、どうしようもありません。2人の王子のアイデアも、要するに自分が率先して戦線に立ちたくないということをいっているに過ぎません。提案内容から察するに、2人ともあまり賢いとはいえないようですね。

 一同が悩んでいるところに現われるのが、開幕前に登場した魔法使いです。魔法使いはドドン王にうやうやしく挨拶をして、問題の解決となる「金の鶏」を進呈します。魔法使いの説明によると、この鳥は平和時には眠っているのですが、敵が攻めてきたときには、眠りから覚め、羽をばたつかせて「キキリククー」と鳴くのです。
  何とすばらしい「危機センサー」ではありませんか。この金鶏が鳴かない限り、国は安全なのですから、その限りでは全員が安心していられます。そのとき金鶏が羽をばたつかせてこういいます。「キキリククー、ねころんで治めよー」。つまり、安全宣言です。
  これを聞いてドドン王は大いに喜びます。魔法使いに向かって「わしの愛と尊敬に加えるに、どのような褒美をとらせたらいいであろうか」と報酬の支払方法をたずねます。すると魔法使いは「私がのぞむものを下さると約束して下さい」といいます。王は「わしの言葉は法律じゃ。約束しよう」といい、魔法使いは退出します。

 金の鶏が来てからというもの、王様はまったく悩みから開放されました。ドドン王はこれまでにもまして童心にかえり、「おお太陽のぬくみ、春のいぶき、万物みどりに、サクラはまるでミルク・・」などと歌います。そして女中がしらに頭のはえを追わせながら、存分にうたた寝を楽しみます。近衛兵たちも「ねころんで治めよー」などといいながら眠ります。国中が平和です。
  ところがある日金鶏がけたたましい声を立てます。「キキリククー、気をつけろー」。金鶏は敵の方角を向いて鳴きます。王宮は騒然となり、老軍司令官もかけつけてきます。ドドン王ははじめねぼけていましたが、そこはリーダーです。すぐに気を取り直し、軍隊編成を命じ、2人の王子に出発するように命じます。
  ところが2人の王子はホンネを出します。「われわれはちょっと休みたい」「不幸にあうのはいやだ。恋人がいないのはさびしい」などといっています。これにはさすがの親バカのドドン王も怒った。「黙れ、恥知らず。軍を二手に分けてゆけ。喧嘩をしてはならん」。そこで2人の王子はしぶしぶ出発します。

 すると金鶏は、「ねころんで治めよー」と鳴きますので、王様はすっかり安心し、ふたたび居眠りを始めることにします。ドドン王はここですてきな夢を見ますが、何の夢だったか思い出せません。女中がしらが王を誘導尋問すると、それは美女に愛された幸福な夢でした。
  しかし平和が戻ったのもつかの間、金鶏が鋭く「キキリククー、気をつけろー」と鳴きます。どうやら王子たちがでかけていった方面に危機的な状況が発生しているようです。
  ドドン王は「わしが行かねば」と武装を始めますが、よろいかぶとはボロボロ、軍隊だってまともな兵隊は残っていません。ここに見るも無残な老人軍隊が編成されました。ドドン王は食事もとらずに出発です。

 第2幕、夜の荒野です。ドドン王が行進してゆくと、いくさで死んだらしい人馬が転がっています。よく見ると2人の王子ではありませんか。さらによく見るとこの2人はたがいに刺し違えて死んでいます。ここにいたってドドン王の悲痛はきわまります。恐ろしい敵に遭遇する前に、早くも2人の世継ぎを失った王は家来の前もはばからずに「アーアーアーアー」と泣きます。この泣き声のアリアは、なかなかユニークでいいものです。
  オペラでは、悲しい事件があっても登場人物は泣きません。泣いたのでは歌えなくなってしまいます。しかしLDでは、真に迫った出演者の涙を見ることができます。
  ワグナーの序曲を振った指揮者ジェイムズ・レヴァインは、指揮をしながら感動のあまり鼻水を出してしまいました。本人はどうやら気づかないらしいのですが、映像録画のディレクターとしては困ったでしょうね。

 ヒーローやヒロインが、演劇上の主人公になり切って涙を流すということはいくらでもあります。これを見て私たちのほうも感動の涙を流すわけです。しかし私たちの場合、涙が出るようなときには、たいてい嗚咽が込み上げてくるので、歌うどころではなく、通常の話しことばさえもコントロールできなくなるものですね。
  それが涙を流しながら間違いなく、思う存分歌えるのですから、プロの歌手はいったいどのような訓練をするのでしょうか。いずれにしてもたいしたものです。
  ところでドドン王が「アーアーアーアー」という滑稽な泣き声を上げた後、軍隊は敵の陣地を発見します。ところがこの陣地は美しいテント張りです。
  私はいま「テント」といってしまいましたが、「天幕」といい直すべきでしょうね。何でもカタカナでいえばいいってものじゃない、言葉の優雅さが違います。後楽園なども「大洞天幕」とか何とかいった方がいいんじゃないですか。

 話を元に戻します。ドドン王の軍隊がこの怪しい天幕に向かって大砲を撃とうとする瞬間、中から美しい女性が現われ、エキゾチックな美しい歌を歌います。この歌は、「シェヘラザード」などにも共通するオリエント感覚あふれるものですね。
  ドドン王はたちまちうっとりしますが、気をとり直し「美しいお方、お名前は、そしていずれの国から?」と質問します。するとこの女性、大胆にも「私はシェマハの女王、あなたの国を奪います」。ドドン王は「それにしては軍隊が見えませんな」というと、女王は「勝つためには軍隊はいりません。美しさだけで十分」。
  結局ドドン王はシェマハの女王のとりことなります。彼女の話から、2人の王子がシェマハを争って相討ちをしたことが分かりますが、もはやドドン王は2人のことなど気にもかけません。王は、彼女にからかわれながら、歌いなれない歌を歌ったり、踊りをしたあげく彼女をつれて意気揚々と都に帰ってきます。

 さて、ドドン王を出迎えた群衆ですが、これがなかなか面白い。注目に値します。彼等はまずシェマハ女王が連れてきた一行の異形に驚きますが、すぐに、王様に忠誠を誓い、「王のかかとにくちづけし、いろいろバカなことをやって王をお慰めしよう。お気に召さなければムチ打ってください。私たちは王と女王のもの。王様、いつまでもご長寿を!」という具合です。どうやらR・コルサコフの意図が、次第にはっきりとりんかくをとってくる感じですね。
  そこに例の魔法使いが現われドドン王に対して「貸し」になっていた褒美を要求します。「私は結婚したくなった。褒美としてシェマハの女王をください」と彼はいいます。ドドン王は「何ということを。褒美とはいっても、ものには限度があるのだぞ」と怒ります。王は魔法使いを笏杖で打ち、殺してしまいます。すると一天にわかにかき曇り、怪しい雷鳴がとどろきます。

 ドドン王はシェマハの女王に愛想笑いをし、「くちづけをしよう。悪いしるしを追い払おう」などといっていますが、女王は「おしゃべりの老いぼれめ、おまえの死は近いぞ」と、さっきまでとは打って変わった形相。
  そこへ金鶏が下りてきてドドン王に飛びかかります。「キキリククー、じじいの頭をつっつくぞー」。ドドン王は頭を突かれて死んでしまいます。「ひひひひひ、はははー」シェマハ女王の無気味な笑い声が響くと、金鶏も女王も消えます。
  ドドン王が死んでしまうと、群衆は王の死体のまわりに集まってきます。そして嘆きの歌を歌います。「あーあーあー、永遠に忘れ得ぬ王よ、ねころんで治めた王の中の王よ、腹を立てると雷そっくり。これから王様なしにどうしよう」。
  このまぬけな合唱が終ると、緞帳が下りてきますが、その幕の前に例の魔法使いが出てきて最後の口上を述べます。「話はこれでおしまい。血の結末は悲しいものでしたが、心配ご無用。実在の人物は女王と私だけですから」。人を食ったこのあいさつによって「金鶏」の全幕が終了します。いかがですか。

 このオペラには、多くの教訓が含まれています。まさにそれが問題であるために、R・コルサコフは生前上演許可を受けることができず、許可後も再び禁止となり、このオペラの禁演はじつにペレストロイカまで続いたのです。
  まず「金鶏」という名の高性能センサーに着目しましょう。これは、経営管理用のコンピュータ・システムと考えていいでしょう。このシステムは経営が順調にいっているときには、ドドン社長に「すべて順調です」と情報提供します。この金鶏は通常のコンピューターよりは少しばかり知性が発達していますので、「順調情報」を「ねころんで治めよー」といいかえることができます。危険が迫っているときには「キキリククー、気をつけろ」と警報を鳴らします。たいしたものです。

 しかし金鶏がやってくれることは、あくまでも「情報提供」だけです。これは今日経営管理用のコンピュータがやってくれることと少しも変わりません。すなわちデータの処理と、その結果にもとづく何らかの指標の提示です。どうかすると、計算処理はするけれども分析も判断もしないというコンピュータを使って満足している人もいます。ともかく、わが社にはコンピュータと名のつくものがある、というわけです。
  ドドン王のミスは、金鶏、すなわちコンピュータが課題解決をしてくれると考えてしまったことです。あるいは、金鶏がもたらす情報は課題解決に直結すると考えたことです。今日の経営者にもこの点いくぶんドドン王的傾向を持っている人がいます。コンピュータの導入が経営の課題解決に直結すると考えてしまうのです。それはドドン王がそうであったように、経営者が「ねころんで治める」ことは経営の一つの理想だと思うからです。だれもが努力せずに、ねころんで暮したいのです。

 このオペラが示しているもう一つの強烈なアイロニーは2人の王子です。王位という利権を得たいと思う、しかし率先していのちがけで働くことはごめんこうむる、これがこの兄弟共通の考え。2人の仲は悪く、極限状態においては刺し違えてしまうほど。この物語の原点は、テーバイのオイデプス王と2人の息子のケースにあります。要するに人類不変のテーマです。 
  さて、このオペラの中心的なテーマに入る前にもう二〜三、周辺の教訓を探してみたいと思います。第1幕で2人の王子がくだらない提案をしたときに、勇敢にその提案を批判したのは軍事司令官のポルカンでした。するとドドン王は彼をはげしくののしりました。
  最後にポルカンは王様に「腰抜け」で「敵のスパイ」とまでいわれました。そしてなみいる家来たちは王様の尻馬にのって司令官に悪態をつきました。
  たとえ正論でも、トップに感情的に気に入られなければ評価されない、これは、どの組織もが陥りがちな通弊なのです。そしてこの家来たちが、自分たちの愚鈍さを際立たせて王にへつらう様子を見て下さい。彼等は王よりも自分たちのほうが劣っているということを自認し、そこに安住し、そして本当に王がいなくなったときには途方にくれてしまうのです。

 もう一つ考えておきましょう。ドドン王を取り巻く女性です。最初は女中がしらです。彼女は王の側近として仕え、主として王のアメニティを保証する役割を果しています。彼女がそれなりに有能であることは認められます。ところが彼女には国の守りのことなどどうでもよく目の前の王をあやすことしか関心がありません。
  ではそれだけなのかというと、そうではない。第3幕に入ると彼女は群衆を恐れたり、群衆に威張ったりします。どうもいけすかない女です。
  一方、ドドン王がシェマハ女王のとりこになる部分は、よく観察する必要があります。シェマハは天幕で王に歌や踊りを要求します。王はシェマハの要求に応じて歌う努力、踊る努力をしようとします。
  女性を好きになった男性は、その女性に愛されようとしてそれなりの努力をするものです。ところが可能な努力と不可能な努力があります。ドドン王は要するにまじめな戦士でしたから、当然歌や踊りはニガ手です。しかもかなりの老齢ですから、体力的にもムリがあります。ところがシェマハ女王はそれを承知のうえで、ドドン王をからかおうとしているのです。

 美しい女が自分に関心を持っている男をどのように扱うものか、これで分かります。つまり女性は、自分のために相手がどこまで困難な課題に挑戦するかを見ているのであり、これは要するに「竹取物語」の主題です。
  シェマハは、ドドン王の頭にネッカチーフをかぶせ、ひげを直してやり、手に扇子を持たせます。「さあ踊って」。ドドン王は悲しげに「せめて軍隊を遠ざけてくれ」といいますのも、この姿を自分の軍隊に見られるは恥辱ですからね。
  ところがシェマハは「ドドン王は何てセンスのないわからず屋なんでしょう。軍隊がいなかったらだれがあなたの踊りに拍手するのですか」といいます。女性の残酷さとはこのようなものであり、老いらくの恋の代償とはこのようなものです。

 このオペラが全体として寓意しているものを考えましょう。それは明らかに体制に対する強烈な批判です。国政の頂点に立つ為政者が、課題解決力も見識も持っていないということ、これを取り巻く二代目も幹部も、独裁的な「愚鈍王」よりもさらに愚鈍であるということを、このオペラは遠慮会釈もなくあばいています。
  このオペラが完成した1907年頃のロシアの政治体制はどうなっていたのでしょうか。ご存じのように、ソヴィエト革命が起こったのは1917年ですから、まさに革命前夜ですね。帝政時代の最後のツアーリ、ニコライ二世の時代です。ですから、このオペラに描かれているドドン王は、リアルタイムに解釈するとニコライ二世ということになります。いずれにしてもドドン王が、ロシアの歴代皇帝に共通するなにものかを表現していることは間違いありません。

 この時代のロシア宮廷におけるスターとして、有名な怪僧ラスプーチンを忘れることはできません。この恐るべき魔術師が活躍したのは1930年ごろからといわれていますから、もしかしたら例の魔法使いは、ラスプーチンがモデルかもしれません。
  農奴開放は、ナポレオンと対決したアレクサンドル一世時代からの政治課題でした。しかし農奴開放が実現したのは1861年。しかしこのオペラを見るかぎり群衆はあいかわらず、絶望的な愚かさを示しています。
  このオペラがドドン王とその王宮体制の、時代錯誤的な愚かさを描くことによって、ロマノフ王朝末期の姿を描きだそうとしたことは明らかです。それにしても、随所に注目すべきポイントがあります。

 たとえば2度目に金鶏が警告の叫びを上げたとき、ドドン王はまだ気持ちよく寝ていました。ところが側近の家来たちはよく寝ている王を起こすことができません。「王様はおやすみ中だ。とてもお起こしできぬ」。
  これが、トップの恩寵を当てにして生きている家来の本質的な行動パターンです。権力はつねに快適な情報を求め、不快な情報を排除しようとします。だから権力におもねるとは、これに従うことを意味するわけです。ラスプーチンが活躍した王宮は、ある意味では目隠しされた王と侫臣たちの巣窟だったのです。

 もっと大きなポイントがあります。たとえば金鶏が2度目に警告の叫びを上げ、ドドン王自身が勇ましく出征しようとするとき、王は次のように歌います。「戦だ。各戸ごとにきつねのしっぽやビーバーの皮を戦費として供出させろ。市長や部下が余分に持っていこうと逆らうな、それが彼等の仕事なのだから」。
  これは、当時ロシアの中にまんえんしていた官僚汚職と、これをきちんと取り締まる力のない為政者、すなわち皇帝を皮肉ったものですね。ここまではっきり皮肉られては作品の公開に問題が生じるのは当然です。

 1905五年1月22日の日曜日、ペテルブルグの広場でパンと平和を求める行進が行なわれました。平和というのは、当時ロシアは日本と戦争をしていたからです。ドドン王の東側の敵が日本であったというのも、また笑えるような、笑えないような歴史ではありませんか。
  このデモは事前に許可を得た合法的な「皇帝請願デモ」でしたが、突然軍隊が発砲し、修羅場となりました。そしてこのニュースを聞いた全土の市民が、抗議のデモやストライキを実行しました。「血の日曜日事件」は皇帝と民衆を結んでいた最後の精神的なきずなを断ち切ったといわれています。R・コルサコフはこの事件を見聞し、自分のスタンスをはっきりさせました。オペラ「金鶏」はこうした背景の中で生まれてきたのです。
  1907年、R・コルサコフが上演の申請を出したとき、当局は作曲者に内容の修正を要求しました。作曲者はこれを拒否しました。押し問答の末、作曲者は少しばかり妥協しました。しかしR・コルサコフは、上演許可を受けないまま1908年に亡くなってしまいました。作品が検閲を通ったのは、作曲者死亡の翌日といわれています。作品は1909年に初演されて大好評をはくし、その後パリでも公開されました。
  1907年革命が起こります。ところが1932年、ロシア政府はこの作品の上演を禁止しました。このオペラがロシア革命政府を侮辱したわけではないのに、皮肉がこたえたのですから不思議な話です。いずれにしてもスターリン体制にとって、このオペラは許しがたいものにうつったのです。

 R・コルサコフの音楽について少し。彼の作品で有名なのは何といっても交響詩「シェヘラザード」でしょう。あのセクシーなヴァイオリンの序奏と、それに続く親しみやすいロマンチックなメロディ、シンドバッドの冒険を描く多彩で起伏にとんだオーケストラの響きは、船で世界一周をしたこの作曲家にふさわしい代表作です。
  小品で有名なのは「熊ん蜂は飛ぶ」でしょう。これは「皇帝サルタンの物語」というオペラの中に出てきます。この曲はヴァイオリンでも、フルートでもその他の楽器でも演奏されるポピュラー・ナンバーです。

 この「熊ん蜂」は最初から最後まで半音進行でメロディが作られています。音符はすべて十六分音符で、とても早く演奏されます。ソリストが、自分の腕前を見せびらかすために、アンコール曲として用いたりします。「熊ん蜂」の半音進行は、花畑の中を熊ん蜂がぶんぶんいって飛び回る動き、そして羽音をみごとに、リアルに再現しています。半音進行は、R・コルサコフの作曲上の得意ワザのひとつでした。
  シェマハ王女のライトモチーフは、この半音進行で作られています。これによって作曲家は、妖しく、異国的で悩ましいムードを作ることに成功しているのです。半音進行で「熊ん蜂」を描写したR・コルサコフは、ここでは同じテクニックで「謎の女王」を描写しました。こんなところに注意しながらオペラを聞くのも楽しいものです。

   
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