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オペラからのメッセージ
 
おわりに

 この「オペラ談議」にもそろそろ決着をつけなければなりません。私としてはまだまだご紹介したい、すばらしいオペラが沢山あるのですが、「ばらの騎士」の元帥夫人が身をもって示しているように、なににでも「けじめ」というものが大切ですからね。
  昨夜私はR・シュトラウスの「アラベラ」を見直して、一人でおいおい泣きました。こういう点、一人でLDを見ているのはいいですね。これが劇場だったら、オジサンがオペラを見て声を放って泣いたりしたら、滑稽ですし、みなさんのご迷惑になりますからね。
  この「アラベラ」もハッピー・エンドで終る話で、「ばらの騎士」の原作者ホフマンスタールのリブレットです。原作はホフマンスタール自身の短篇小説「ルツィドール」をもとにし、これを作曲者と作家が、ほとんどケンカしながら作り上げたものです。短篇小説「ルツィドール」もいい話で、これも泣けます。

 ところはウイーン、ときは十九世紀半ば。落ちぶれた貴族夫妻は二人の年ごろの娘を持っていますが、二人を貴婦人として養育する金がないので、下の娘に男のなりをさせて姉弟という触れ込みで育てています。そしてとりわけ美人の姉のほうをどこかの金持ちの貴族に嫁がせ、つまり長女の結婚によって一家の経済的な起死回生をはかろうと考えているのです。
  姉のアラベラには三人の貴公子がいいよっており、彼女が一人を選べば一件落着なのですが、彼女はいまいち物足りなく、決心がつきません。この三人とは別にアラベラに夢中になっているもう一人の軍人マッテオがいるのですが、アラベラはこの軍人にはまったく関心がありません。

 ところが男装した妹のズデンコは、この軍人マッテオを愛しているのです。けれど、対外的には彼女は男だということになっていますから、自分の心を打ち明けることはできません。こうした複雑な状況の中に、アラベラを慕うもう一人の、決定的な人物が現われます。お定まりの誤解と事件が重なって、最後にはすべての関係者がハッピー・エンドを迎えるという筋書きです。
  妹のズデンコが、悩むマッテオに「何かしてあげたい」と考え、姉の名でニセ手紙を書き、暗い寝室で姉のふりをして彼を迎えるというくだりは、このオペラの最大のヤマ場です。さっきまで少年だった歌い手が、今度は男性を知ったばかりの一人の女として舞台に現われ、歌います。

 ズデンコを歌うのはソプラノ歌手ですから、男装はしていても実際には女性であることがだれにでも分かります。けれどオペラの話の中ではだれもが男だと思い込むのです。そしてマッテオも彼女を女だと気づかないことになっています。
  これはリアリズムの見地からするとありえないことですね。ということは、このような表現方法は、映画でも演劇でも決してマネることはできないということです。オペラだからこそ、みえすいた男装をしてもおかしくないのです。音楽的なリアリティが通常の演劇のリアリティを越えるからこそできる表現です。
  いずれにしてもここには、豊饒な愛とエロチシズム、献身と誓い、誇りと決意、尽きることのない人間讃歌があります。多くの芸術が私たちに人間の真実を開示してくれますが、オペラほど人間の真実を、美しく、音楽的に、官能的に、しかも人間肯定的な手段で提供してくれる芸術も稀でしょう。

 私はオペラに関しては入門者もいいところです。ですから、何十年も前からスカラ座やウイーン歌劇場の常連だなどという人にすれば、何をいまさらいってやがるなどとバカにされるところがオチでしょう。
  LDに限らず、新しいテクノロジーとこれにかかわるメディアは、私たちに価値ある文化との接触の道を大きく開いてくれました。ニュー・メディアによる文化情報の紹介は、翻訳の技術に似ています。翻訳の技術がなければ私たちはトルストイも読めないし、ロマン・ロランも、史記も三国志も読めません。翻訳の技術が文学世界の国際化、大衆化を実現してくれたのです。これと同じことで、電子ソフトは、音楽の世界における国際化、大衆化を実現してくれました。

 これからはむしろ、これらの文化情報がイージーに手に入り、際限もなく氾濫する時代を迎えるものと思われます。であるとすれば、私たちの「選び方」「受け取り方」や「感じ方」が問題です。結局、何を読み、何を見、何を聞くにしても、「見方」「感じ方」が問題です。これは遊びの世界でも、仕事の世界についてもまったく同じことがいえます。
  何はともあれ私としては、オペラが語りかけてくれるメッセージとナゾを解きながら、好きなときにオペラの魅力を味わうことができることを、心から幸福に思います。

   
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