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一人百首
 
第1章 恋へのプレリュード

1.しみじみと物のあはれを知るほどの少女(おとめ)となりし君とわかれぬ
  これは歌集「桐の花」の冒頭部分におさめられている一首です。この歌には白秋が九州を出立して、東京に来たばかりのときの思いが込められています。彼が東京に出て来るその頃に、地元に白秋が心をひかれる、すてきな少女がいたのでしょう。白秋は彼女をつい最近までまったくの子供だと思っていたのですね。ところが次第に美しくなり、つつましくなり、女らしくなってきたので、内心彼もおだやかではなくなりました。
  「しみじみともののあはれを知るほどの」というのは、この少女が単なる年ごろの娘ではなく趣味や知性の面で、白秋となにごとかを共有できるレベルにあったことを示しています。白秋とこの少女の間には何らかの交流があったらしくも思われます。
  もっとも明治時代のことですから、年ごろの男女が自由に好きな話ができた、ということはどうも本当らしくありません。白秋がありえないことを勝手に想像して、相手の少女を理想化し、自分に近づけて考えていたという方が当たっているでしょう。いずれにしても白秋の場合、都会への憧れと野心のほうが勝ったのでした。

 「しみじみともののあはれを知るほどの」という部分にもっと近寄ってみましょう。「知るほどの」といっていることは、「彼女はもののあはれを知っている」と白秋が確信できるわけではないことを意味しています。
  つまり外見からすると「もののあはれ」を知っていてもおかしくない、その程度に彼女が大人になったように見えるということです。「ほどの」という一句が、白秋と少女の関係にまだ相当の距離があったこと、しかしある種の彼女への信頼をうかがわせていますね。
  ところで「もののあはれ」とは何でしょうか。これこそ本居宣長が日本人の魂のアイデンティティとして称揚したもの、やたらと合理性を追及する「からごころ」に鋭く対峙させたものにほかなりません。
  私たち日本人は物事を分析的に、合理的に見ることをしません。何よりも先に「感じる」のであり、このほうが分析的であるよりもはるかに価値があると考えられたのです。
  もっとも白秋がここでいっている「もののあはれ」とは、このような大袈裟な意味ではありません。それは恋愛情緒、あるいは文学的情緒とでもいうべきものです。
  それは「しみじみと」という前置きで分かるように、自分に引き寄せた感情です。「彼女とさしむかいで、ゆっくり、しみじみと話をしてみたかったなあ、そうすれば、彼女が私にもっと恋ごころを感じてくれるチャンスもあったのだがなあ」。

 

2.ヒヤシンス薄紫に咲きにけり早くも人をおそれそめつつ
  白秋の短歌には、かなりの確率で「色」の名、あるいは色を暗示する花やモノの名前が折り込まれています。ここではヒヤシンスの「薄紫」が歌われています。
  私は岩波文庫の「白秋全集」を本棚に飾ってありますが、正直をいうと、めったにこの「全集」を手にしません。ケースをはずさなければなりませんし、本が重いからです。私がいつも手元に置くのは、新潮文庫「白秋歌集」(北原隆太郎・木俣修編)です。こちらのほうが手になじみます。手ずれがしていて、自分の身体の一部のような気がします。
  いまこの新潮文庫のページを任意に開いて歌の数と、そこに歌われている色彩の頻度について調べてみます。いま見ているのは15・16ページですが、ここには14首の歌がおさめられています。この中で色彩名が上げられているもの、あるいは花の名前、たとえば「たんぽぽ」のように、その名からすぐに色彩が思い浮かぶようなものをひろってみます。すると「あかあかと」「銀笛」「薄紫」「黒く」「たんぽぽ」「赤き」「ココア」「あまりりす」と、全部で8つのキーワードがそれぞれ1首の中から出てきます。このページでいうならば、色彩の出現率は57%ということになります。

 同じことを24・25ページ、38・39ページ、48・49ページ、58・59ページについてもやってみました。すると66首に対して色彩が読み込まれているのは33首、色彩出現率はちょうど50%になります。このことから白秋は、自分の歌の2首に1首の割合で色彩を読み込んでいることが分かります。
  同じことを同時代の歌人若山牧水と比較してみましょう。同じく新潮文庫の「牧水歌集」から、同じようなページ、14・15、28・29、42・43、48・49ページを調べてみることにしました。上記のページには69首の歌がありますが、色彩が読み込まれた歌は17首、色彩の出現率は24%にとどまります。
  この調査は「全集」を使って全歌を対象にやってみた方がいいし、色彩だけでなく「花」「植物」についてもやってみたら面白いでしょう。しかしこの楽しい調査はだれかに続きを譲り、私たちは歌に戻りましょう。
「ヒヤシンスが薄紫に咲いた」という上の句は何ということもありませんが、「早くも人をおそれそめつつ」という表現がすごいですね。ここには都会の人々に驚く田舎出の自分の心境と咲き初めた花に少女のはじらいを見る多感な心とが一つになっています。花ならいくらでもありますが、花をどう見るかが問題なのです。

 
 

3.かくまでも黒くかなしき色やあるわが思ふひとの春のまなざし
  ここでは白秋は女性のひとみの色を観察しています。「わが思ふひと」がだれであったか、つい詮索したくなりますが、この場合だれであるかはほとんど問題にならないでしょう。この時期の男性はだれでも構わないわけで、1人の通行人でも、電車に乗りあわせた女性でも、だれでも「わが思ふひと」になり得るわけです。
  電車の中といえば、女性の敵チカンが問題となりますが、チカン的な衝動と「あの子はちょっとすてきだな」という男性的感慨との距離は案外近いものです。大抵の男性は衝動を抑制していますが、中にはタガがはずれてしまう人もいます。白秋の歌に「そこ通る女子(をなご)とらへてはだかにせう、といふたれば皆逃げてけるかも」というおかしいのがありますが、これなどチカン的な感性ですよね。

 ところで、男性も若いうちはこのようなふらちな衝動を感じることはほとんどありません。彼の視線は若い女性の顔を求め、その目を探します。私の想像ですが、この白秋の「わが思ふひと」は、行きつけのカフェの女給さんという感じではないかと思います。
  ちなみに、北原白秋が明治42年(1909年)5月号の「スバル」に発表した歌の中に、「かくまでも黒くかなしき色やあるわが歌女(うたひめ)の倦みつる瞳」という作品があります。これは上の句がまったく同じですから、作品は同じ頃に作られたと考えることができます。
何でも「桐の花事件」にかけて考えるのはよくありませんが、白秋が例の松下俊子と初めて出会うのは1910年のことですから、「わが思ふひと」を、無理やり俊子に結びつけて考えようとすればできないこともありません。しかし、そう判断しないほうが歌の解釈に奥行がでると思います。

 するとここで歌女とはだれのことか、ということになりますが、これもオペラのプリマドンナのことではなく、カフェの女給さんが、たまたまそのときに小唄を口ずさんでくれた、というように解釈することにします。
  たとえ行きずりでも、出会う女性はみな美しくあいさつはみな「恋のしるし」であり、歌う女性はみな歌姫に見える、これが多感な文学青年の春ではないでしょうか。
  この歌が作られたのが1909年とすれば、白秋の東京における創作活動がいちだんと盛んになった年です。「邪宗門」が出されたのもこの年です。「邪宗門」は仕送りされた金を使っての自費出版ですが、この年に白秋の生家は破産しています。しかし経済感覚の乏しい白秋には、まだ破産の実感はなかったのでした。

 
 

4.あまりりす息もふかげに燃ゆるときふと唇はさしあてしかな
  歌には人によってどのようにでも解釈できるファジーさがありますが、この歌もその典型的な例です。つまり唇をさし当てた対象が花なのかそれとも人なのか、どちらとも取れるのです。
  「あまりりすがあまりにもすてきで、あたかも切ない吐息をもらす女性のように思えたので、これを疑似的な恋人と見立て、花に唇を押しつけた」、というのが一つの解釈。これに対して「あまりりすの花が美しく咲いているところで、自分は女性にキスをした」、というのがもう一つの解釈。
  アマリリスにもいろいろな種類のものがありますが、一般的なのは茎がすっと長くて花がいかにも人の「首」という感じがしないでもない、そんな植物です。ですから、白秋がこれを見て「美しい女性」を連想するのはなかば当然のことだったと思います。

 ところでアマリリスを、「あまりりす」と平仮名で書いている点に注目したいと思います。白秋のように言語に対して極端に鋭敏だった人、しかも幾度も推敲を重ねた詩人にとって、偶然の用語用法ということは考えられません。かならず理由があるのです。ちなみに先にご紹介した「ヒヤシンス」は片仮名ですからね。
  白秋の詩集「思ひ出」の中に、「断章」という詩の一群があります。これはほんの数行からできている短い詩の集合体で、それぞれに番号がついていますが題はありません。断章は処女詩集「邪宗門」の中に7編登場し、「思ひ出」の初版では全部で61編、その後アルス社から出された「思ひ出」では70編、その後昭和8年の岩波文庫では63編となり、これが現在の形になっています。

 このように「断章」は、詩集が次第に版を重ねるにつれて増減する不思議な詩の群れですが、その「断章」中にアマリリスを歌った次のような詩があります。「明日こそは/面(かお)も紅めず、/うちいでて、/あまりりす眩ゆき園を/明日こそは/手とり行かまし」。
  ごらんのように、ここでも「あまりりす」は平仮名表示されています。このほかに代表的な平仮名表示に「あかしあ」「たんぽぽ」などがあります。これに対して、先に上げたヒヤシンス、ダリアなどはどんな場合もきちんと片仮名表示になっています。その他の花は原則として漢字または平仮名、「白ゆり」「茴香(うゐきよう)」となります。
  白秋には彼独自の「洋花」「和花」の区分があって、その中間に「和」の感覚で受け止めたい「洋花」があるのです。その代表が「あまりりす」「あかしあ」です。あまりりすは彼にとって和服を着た洋風センスの美人、というように見えたのでしょう。

 
 

5.手にとれば桐の反射の薄青き新聞紙こそ泣かまほしけれ
  これは「初夏晩春」という章の冒頭にある「公園のひととき」という一節の冒頭の歌です。まずこの公園がどこだったかを考えてみましょう。私はおそらく「日比谷公園」ではなかったかと想像します。私が日比谷公園説を主張するのにはそれなりの理由があります。
  第1の理由は「桐の花」に、しばしば日比谷公園が登場するからです。「喨々とひとすぢの水吹きいでたり冬の日比谷の鶴のくちばし」。この鶴の噴水は今でも日比谷公園の池の中に立っています。
  日比谷公園は1903年に完成したそうです。資料によると「アーク灯、ガス灯による夜間照明、めずらしい西洋花壇などに人々の人気が集まった」とあります。当時としては日本の西欧化を代表するような、西洋風の公園だったのでしょうね。
  郷里で柳河独特の西洋的なエキゾチシズムを体験した白秋にとって、できて間もない日比谷公園は格別お気に入りだったのではないでしょうか。

 第2の理由は白秋、杢太郎、勇などを中心とする「パンの会」が、日比谷公園内にある松本楼で開かれたからです。この松本楼も現存しています。「パンの会」が一番多く利用したのは隅田河畔にある西洋料理屋でした。しかし松本楼も時折利用されていたようです。
  「手に取れば・・」というのは新聞紙のことです。私たちの場合、公園のベンチに腰掛けて新聞を読もうとすれば、目がすぐに活字に行ってしまいます。ところが白秋の場合、新聞紙に反射している桐の葉の青さにまず感激しました。この点に注意してください。人が気づくところで気づき、人が感心するところで感心するというようでは、観察も反応もあまりに平凡です。

 白秋の感覚的な繊細さは、単なる感覚にとどまらず表現アイデアに直結しています。私はこの点では、ビジネス面でも芸術面でも大きな差はないと思います。
  ところで彼は、新聞紙に反射している桐の葉の青さを見て「不意に泣きたくなった」といっているのですが、なぜ泣きたくなったのか、などといわないで下さい。こうした情緒不安定こそ若さの代償であり、いまや、あふれんばかりの感覚的鋭敏さの代償なのです。もっとも白秋が、さほど真剣に新聞を読もうとしていなかったことはたしかですが。
  「桐の葉」とここでいっている木がただの「桐」なのか、「青桐」なのか、「いいぎり」なのか、これを想像して見るのも楽しいことです。新聞紙に負けないぐらい大きな葉を広げるのは「桐」ですが、木の枝や幹までも青々としている「青桐」の葉が白秋の腰掛けたベンチのほうに枝を広げているというのも、なかなか絵になります。しかしおそらくこれは「桐」でしょうね。

 
 

6.草わかば色鉛筆の赤き粉のちるがいとしく寝て削るなり
  白秋の青春のもっとも屈託のない時期を象徴する、幸福な感傷にあふれた作品です。白秋は原稿と赤鉛筆をもって公園に来ました。おそらく同人誌のゲラ刷りか何かを校正するつもりなのでしょう。
  まず「色鉛筆の赤き粉の」という表現に注意しましょう。ただ「色鉛筆」といえば、いろいろな色があるはずです。しかし「赤き粉」といっているからには赤鉛筆です。では白秋はどうして「赤鉛筆の」といわなかったのでしょうか。もちろん次に「赤き粉」が来ますので、赤がダブらないようにするためです。
  しかし言葉の天才である白秋は、この「赤」の重複を避ける表現を、もっと多彩に持っていたはずです。つまり「色鉛筆」という表現には、それなりの意味があったに違いありません。
  私にこのドグマ推論の余地を与えてくれる根拠に、白秋がとても絵が得意だったということがあります。彼は画材として色鉛筆はもちろんのこと、水彩絵の具やペンや水墨を自由に使いこなしていたのです。げんに歌集「桐の花」の中にも、白秋自身が描いたスケッチやカットがたくさん登場します。彼が公園に持って出たのは、「赤鉛筆」ではなく「色鉛筆の赤」だったのではないでしょうか。

 色鉛筆のセットは、使う人の好みやスケッチするものによって消耗する「色」が違います。グリーンの鉛筆だけ先になくなったり、赤がチビたりします。赤鉛筆は当時でも恐らくバラでも売っていたでしょうが、セットの赤と微妙に違ったりします。白秋の鉛筆箱には、これらのものがゴチャまぜに入っていたに違いありません。
  下の句に「寝て削るなり」とありますので、この鉛筆の先は磨り減っていたことがうかがわれます。また自分の家で鉛筆を削ればいいのに、「公園で削ればいい」と思って、彼がナイフと鉛筆を一緒に持ちだしたことが分かります。そしてこのことは、彼が公園で過ごす時間のほうを大切にしていた証拠でもあるのです。
  草むらに座って鉛筆を削ってみると、削りかすが草の間に落ちてゆくその色彩的なコントラストが、とてもファンタスティックです。白秋は何の目的で鉛筆を削っていたのか忘れてうっとりします。そこで今度は草のうえに腹ばいになって削ってみます。赤い粉が蟻たちの地上にこぼれ落ちる様子を見て、白秋は淡い感傷を感じ、それなりに満足します。これが「赤き粉の散るがいとしく寝て削るなり」という歌の意味です。都会の文学青年白秋と、幼いトンカジョン(白秋の子供のころのあだ名)の姿が重なっています。

 
 

7.いつしかに春も名残となりにけり昆布干場のたんぽぽの花
  明治43年(1910年)、白秋にいろいろなことが重なりました。まずこの年、彼は自分が中心になって創刊した同人誌「屋上庭園」に「おかる勘平」という詩を掲載しましたが、これがあまりにも猥褻だというので発行禁止処分を受けてしまいました。
  この年の春、白秋は三浦三崎に遊びました。そのとき作ったのが右の名歌です。三浦三崎は、例の姦通事件のあと彼が都落ちをして行く先ですから、思えばこの場所は白秋にとって運命的な行楽先になったわけです。
  同じ年の9月白秋は原宿に転居しました。そしてここで隣家の人妻松下俊子と出会うのです。「検閲にひっかかる詩」「都落ちする先への旅行」「運命の恋人との出会い」、このように白秋倫落のさまざまな条件が整えられたのが明治43年だったのです。

 発禁になった「おかる勘平」ですが、この詩の中でもっとも刺激的なのは、「紅茶のようにほてった男の息、/抱擁められた時、昼間の塩田が青く光り/白い芹の花の神経が、鋭くなって真蒼に凋れた/顫えてゐた男の内股と吸はせた唇と・・」いう部分です。これで発禁ですからむかしの官憲はずいぶん文学的な感受性が豊かだったのですね。この詩は愛する勘平のために自分の身を売る決心をするにいたるまでの、おかるの気持ちの必然性を示しています。 
  私は白秋の足跡を慕って三浦三崎を訪ねたことがあります。このときに案内をしていただいた文学好きの方に白秋の色紙の複製をいただきました。この色紙には白秋の直筆で、「いつしかに春の名残となりにけり昆布干場のたんぽぽの花」とあります。

 ごらんのように、この歌には、「春も」と「春の」という2つのバージョンがあるのです。「春の」、のほうは1910年に「創作」誌上に発表されたもので、歌としてはこちらのほうが先と思われます。
  ところが白秋が「桐の花」を編んだときには、これが「春も」に変わっているのですね。例の色紙をいつ書いたかは分かりませんが、恐らくずっと後年のことでしょう。ということは白秋の中でも「春の」と「春も」が行ったり来たりしていたにちがいありません。
  「春の」とすると「たんぽぽ」が春の名残りのしるしとなり、「春も」とすると、春とたんぽぽの関係距離がやや遠くなります。どちらをとるかは好みの問題です。
  ここでもっとも際立っているのは「昆布」の黒と「たんぽぽ」の黄色の鮮明なコントラストです。鋭い五感をいかして自然を観察し、対象に美しさを発見して驚き、自分の感情を作り、十分表現し、さらにとことん手直しする、これが白秋の方法論でした。

 
 

8.美しきかなしき痛き放埓の薄らあかりに堪へぬこころか
  定職を持たず詩を書いている、そのとき、仕送りを続ける実家の家運は、数年前の火事が原因で次第に傾いている、こんな白秋の状況を考えてみてください。この時期の白秋に童貞を破らせたのは石川啄木だといえば、大抵の人はびっくりするでしょう。啄木といえば「たはむれに母を背負ひて」のイメージ、そして「人がみな同じ方角に向いてゆく。それを横より見ている心」、このシリアスで思いつめたイメージが強いですからね。
  その日白秋はひとりで浅草をぶらぶらしていました。そして何の気なしに木馬館に入り木馬に乗りました。どだい、ひる間からこうした行動をとっているというのが真面目なビジネスマンには信じられませんよね。すると、前の木馬に同じ年格好の男が、一人で木馬にのって遊んでいるではありませんか。それが啄木でした。

 白秋は後年「まつ昼間からいい年をした僕同然の馬鹿がゐた」と語っています。啄木は白秋を近所の遊廓につれていって「筆おろし」をさせたというわけです。「パンの会」もはなはだ隆盛でした。「我他皆狂騰して饗宴し・・友人はほとんど毎夜自宅に来会し、酒に浸って熱狂し・・」という具合。これが「美しきかなしき痛き放埓」の実態です。
  このころ「パンの会」で酒が回るとみんなが歌う歌がありました。それは白秋の作った「空に真赤な」の詩にラッパ節のメロディをつけた替え歌です。「空に真赤な雲のいろ/玻璃はりに真赤な酒のいろ/なんでこの身が悲しかろ/空に真赤な雲のいろ」。
  この歌は要するに戯れ歌ですが、かすかに九州弁が入っていることにお気づきですか。「なんでこの身が悲しかろ」の。「なんで」と「かろ」の係り結びはいかにも九州風のいいまわしですね。そして「かろ」の部分との視覚的な韻を合わせるために、白秋は各行の末尾を「色」とせずに「いろ」としたのですね。内容のデカダンスとは対照的に、表現上の妥協を許さなかった白秋の特質が、戯れ歌の中にさえ示されています。

 このような連日連夜の酒宴と談論風発、浅草の木馬も遊廓もあえて辞せずという生活、そして反面ナイーブな神経と妥協を許さぬ制作態度、これらは白秋の中でどのようにバランスしていたのでしょうか。それは、この歌の下の句、「薄らあかりに堪へぬこころか」というフレーズの中にきちんとおさめられています。
  「アーク燈点(とも)れるかげをあるかなく蛍の飛ぶはあはれなるかな」。これも前掲の歌と並んで作られたものです。都会の盛り場に迷い込んだ蛍、その蛍のような淡い光りを放ちながら、わけもなくひらひらしている自分、彼はその自分を見ていたのでした。

 
 

9.黒き猫しづかに歩みさりにけり昇菊の弦切れしたまゆら
  浅草に遊んだ白秋は、同じく盛り場でフランス風のカンカンを見たのでしょう。「悩ましく回り梯子をくだりゆく春の夕の踊子がむれ」など踊子を歌った作品があります。 
  こうした劇場は「パンの会」が盛んだった頃の、白秋のお気に入りの遊び先の1つだったのです。素足をむき出しにして、らせん階段を下りてくる踊子たちを見て胸をときめかせたり、その踊子の1人に取りとめのない恋心を抱いたりしていたのでしょう。きっとこの踊子たちの中には、幾人もの「和製ナナ」たちが混じっていたことでしょう。
  白秋たちは「和風」の興業「女義太夫」にも熱狂しました。当時、昇菊、昇之助という美貌の女義太夫の姉妹がいました。この姉妹が都の若い男たちの人気を一身に集める魅力を持っていたのです。2人が舞台に上がると、ファンが歓声をあげる、浄瑠璃がさわりのところにさしかかると「待ってました」と声が飛ぶ、舞台が終ると、ファンが姉妹の乗った人力車の舵棒を奪い合って、引いていってしまうという有様だったそうです。

 「黒き猫しずかに歩みさりにけり」というのは、姉妹の義太夫の演奏中に、客席のどこかを猫が歩いていったことをいっているのでしょう。この歌の詞書きには「昇菊の弦のつよさよ」とあります。「昇菊の弦切れしたまゆら」ということは、演奏中に三味線の糸がプッツリ切れた、ということでしょうね。
  三味線の弦が切れることと、猫が立ち去ることの間には何の関係もありませんが、いかにも客席が芸をしっかり鑑賞し、かたずを飲んで聞いている、その緊張感が伝わってきますね。そのとき音もなく移動してゆく「黒き猫」の影に、白秋はある種の「音曲の精霊」のような気配を感じたのではないでしょうか。

 白秋はこの昇菊を詩の中でも歌いました。「鳴きそな鳴きそ春の鳥、/昇菊の紺と銀との肩ぎぬに・・」。
  「パンの会」を通して白秋と親交の深かった木下杢太郎も、この二人の義太夫タレントについて詩を書きました。「・・濃いお納戸の肩衣の/花の『昇菊昇之助』*/義太夫節のびら札の/藍の匹田もすずしげに/街は五月に入りにけり・・」。ここで*印がしてあるのは杢太郎自身の注で、次のように書いてあります。
  「コーヒーの中にヰスキイ(コニヤックの稿もある)の酒入るるを好み給ふほどの人はこの行の次に・いよご両人待てました・の一行を入れ試みたまえ」とあります。和洋の楽しみを、均等に愛していた良き時代がしのばれます。

 
 

10.薄あかり紅きダリヤを襟にさし絹帽(シルクハット)の老いかがみゆく
  これはある夕方銀座で見かけた老人の姿です。おしゃれですね。日本の年配の男性も、シルクハットをかぶり、赤いダリヤの花を襟にさして、夜会へと急いだ時期があったのですね。「薄あかり」とありますから、薄暮の時間でしょう。「老いかがみゆく」という一句にこの男性がかなりの年配であること、それでいて上品であること、しかも少しばかり道を急いでいる様子が伝わってきますね。目的地はさほど遠くないと思われます。
  この年配の男性はきっと高級な夜会へと行くのでしょうが、白秋たちは例によって「パンの会」で落ち合うために銀座を歩いていたと思われます。恐らく白秋は、銀座を通って永代橋のほとりにある西洋料理屋「永代亭」をめざしました。

 「永代亭」を歌った木下杢太郎の詩を読んでみましょう。「その家(永代亭)の女中物に躓きて手なる盤さらを落としければ」とあって「深川の西洋料理の二階から/お花さんがまた大川を眺めてるよ。/入日の影は悲しかろ、/細い汽笛も鳴いて来る。/お前がひとり悲しんだとて、嘆けばとて、/つぶれた家は立ちません。/あんまり何して粗相をしまいこと。」。
  「永代亭にはお花さんという女中さんがいた。彼女はかつてしかるべき家の娘だったが家が破産したためこの西洋料理屋に雇われることになった。きょうもまた皿を落とすという失策をやって主人に叱られたので、彼女はすっかり落ち込み、窓から隅田川を見て泣いている。しかしいくら嘆いても、つぶれた家が元通りになるわけではないから、気にせずしっかりおやんなさい」とまあこんなところでしょうか。

 白秋と杢太郎には共通点があります。とくに「南蛮趣味」が一致しています。
(A)「絵蝋燭緑にくゆり、/沈金の台ほのあかる。/じやすびすの壷には、君よ、/かをれるを、葡萄の酒の。・・」
(B)「われは思ふ、未世の邪宗、切支丹でうすの魔法。/黒船の加比丹を、紅毛の不可思議国を・・」、と二つ並べてみると、A、Bいずれが杢太郎で、白秋か見分けがつかないのではないでしょうか。
  杢太郎は文学者には珍しく医学者でした。日本が生んだ万能の知識人の一人といっていいでしょう。ところで杢太郎が好んで下町風景を描いたのに対して、白秋は現実的な下町を少しも描きませんでした。白秋の歌には「永代亭」の名は一度も出てきません。彼の目はおしゃれなシルクハットのほうをとらえたのでした。

 
 

11.すっきりと筑前博多の帯をしめ忍び来し夜の白ゆりの花
  この博多帯をしめて忍んできた白ゆりの花は一体だれだったのでしょうか。これはもう例の姦通事件の端緒を示す二人の密会の歌なのでしょうか。私の考えでは、いかにも思わせぶりなこの歌も実相は案外軽いもので、だいいち、当の「白ゆりの花」が白秋を目当てに夜忍んできたのかどうか、怪しいものだと思います。
  まず第1の根拠は、この歌が発表されたのは明治43年11月だということ、第2の根拠はこの歌の詞書きがどうもそれらしくないこと、の理由によります。
  11月に刊行される雑誌の原稿を送るには、10月ではちょっと遅すぎます。どうしても九月でなければなりません。ところが9月は白秋が松下俊子の隣家に越した月です。引越しをしたその月のうちにこの歌のもとになるような体験ができたというのは、いくらなんでもリアリティがありません。

 この歌の詞書きですが「博多帯しめ、筑前しぼり、筑前博多の帯しめて、あゆむ姿は柳腰・・」とあります。これは逢引きする相手についての描写としてはちょっと軽すぎると思われませんか。白秋とこの観察対象との間にはどう見ても一定の距離があります。
  「博多帯しめ、筑前しぼり、筑前博多の帯しめて、あゆむ姿は柳腰・・」という表現をもう一度見てみましょう。この繰り返しは明らかに民謡調ですね。そして私はこれを読むと「思ひ出」の中の「柳河風俗詩」に出てくる「紺屋のおろく」を思い出します。
  「にくいあん畜生が薄情な眼つき。/黒の前掛け毛繻子か、セルか、/博多帯しめ、からころと」。これをごらんになると、ここに出てくる「博多帯しめ」の調子が詞書きの「博多帯しめ」と同一であることがお分かりでしょう。つまり、これは白秋の女性表現の定句、しかも心理的にゆとりのあるときの定句なのです。ということはこの女性は少なくとも、白秋の真剣な恋愛の対象ではありません。

 「こうだったらいいな」という空想とあこがれが、この歌の原動力であることは間違いありませんが、単純に空想ででっち上げたということもないでしょう。この歌のすぐ後には「ぬばたまの銀杏がへしの君がたぼ美し黒し蓮の花さく」と、これまた思わせぶりな歌を持ってきていますが、これは先のスバル掲載の中には並んでいません。
  私の想像では、これは例の酒宴にはべった芸者さんかあるいは遊女の一人ではなかったかと思われます。白秋にとっては女性讃美の機会があれば、美しい歌がどんどん作れました。相手はだれでもよかったのです。

 
   
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