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一人百首
 
第2章 白き露台の恋

12.さしむかひ二人暮れゆく夏の日のかはたれの空に桐の匂へる
  女性との2人きりの夕暮れどきを歌っていますが、この女性はいよいよ松下俊子さん登場ではないかと思われます。「かはたれ」というのは夕方のことで、「かは誰」、つまり夕方になって相手の区別がつきにくくなった時刻をいいあらわしています。
  この歌にも詞書きがあって「白き籐椅子をふたつよせてものおもふ人のおだやかさよ。読みさせるはアルベエル・サマンにや、やはらかに物優しき夕なりけり」とあります。アルベール・サマンはフランスの詩人(1858〜1900年)。マラルメやヴェルレーヌなどと同時代の人、感傷的で繊細典雅な詩風で知られています。
  ミーハー的な詮索を始めてみましょう。この歌が作られたのは明治44年夏でしょう。私の手元資料では、この歌の初出がはっきりしないのですが、1年前の初夏に白秋が作っている歌と歌の調子ががぜん違っていることに気づきます。

 「やるせなき夏の心となりにけり棕呂の花咲き身さへ肥満(ふと)れば」。この歌の「夏の心」は、後に「淫ら心」と変わりますが、要するに43年の夏には、白秋の心をとらえていたのは単なる対象のないあこがれ、欲求不満に過ぎませんでした。しかし今は対象が出現しています。
  この歌は「桐の花」の「浅き浮名」という項に納められており、冒頭には「恋すてふ浅き浮名もかにかくに立てばなつかし白芥子の花」という歌がのっています。
  この「さしむかひ二人暮れゆく・・」の歌によると、白秋は桐の花の匂う夕べに、白い籐椅子に並んで腰掛けていたとなりますが、ここに問題がひとつあります。44年の2月に白秋は木挽町に転居してしまい、2人の住いは離れてしまうからです。
  「白き籐椅子をふたつよせて」という詞書きを見るといかにも俊子の家の庭先という感じがしますが、そうだとすると、白秋が転居する前に俊子とある程度親しくなり、このたびは転居先から彼女の家に訪ねてきた、ということになりますね。

 ところで「さしむかひ二人暮れゆく・・」の歌をしっかり読むと、まだ2人の関係が浅く、淡いものであることが分かります。詞書きも気取っていますし、「さしむかひ」という言葉が何よりも2人の間の距離を物語っています。そして何よりも全体に女性の観察が甘く、理想化されすぎ、ロマンチックすぎます。
  この女性が俊子だとすると、彼女はこのときけっこう高踏的な、翻訳詩集を読んでいたことになりますね。彼女の文学趣味は、白秋の心をどれほどかとらえたことでしょう。しかしこの段階では2人の関係は、桐の花の香りのようにまだふんわりしたものでした。

 

13.ほのぼのと人をたづねてゆく朝はあかしやの木にふる雨もがな
  この歌は44年の7月号の「創作」に掲載されています。そこで「人をたづねて」の人がだれか、また詮索したくなってしまいますね。しかしここでは人物詮索をせずに植物詮索をすることにしましょう。
  「アカシヤ」という木は日本にはありません。日本の街路樹などとして用いられているのは「ニセアカシア」です。したがって白秋はニセアカシアをアカシヤとして歌った可能性があります。ところが、それでは問題は解決しません。ニセアカシアは別名ハリエンジュといいます。そしてハリエンジュによく似たエンジュも街路樹としてはたいへんポピュラーで、どちらかというと東京ではエンジュのほうが圧倒的に多いのです。

 植物としての違いは遠くから見ているだけでは分かりません。両方とも小さい楕円形の対生の葉です。細かな葉の間から日の光がすけて見えるのはとても美しく、すがすがしいものです。木の幹は縦ジワがあります。黒っぽいのはエンジュで、やや白っぽいのはハリエンジュです。
  ハリエンジュの小枝をよく見るとやや長めのトゲトゲがついています。このためにハリエンジュの名をもらったのでしょう。エンジュにはトゲはありません。この二つの木の大きな違いは花にあります。
  ハリエンジュのほうは4月から5月にかけて白っぽい房状の花をつけます。いかにもマメ科らしい、一つ一つが可憐な花です。エンジュのほうは七月から九月にかけて黄色い小さな花をつけます。これもよく見るとマメ科の花の形をしています。花の季節になると、エンジュの木の下には、花びらが黄色く敷きつめたように落ちます。

 そこで「ほのぼのと人をたづねてゆく・・」の歌は、ハリエンジュのことだ、と考えたくなりますね。ところが、「雨のあとさき」の項に、「あかしやの花ふり落す月は来ぬ東京の雨わたくしの雨」という歌があるのです。ここで表現されている「花ふり落す」は、まさにエンジュの表現以外のものではありません。
  そうすると白秋がここで歌っている「あかしや」もハエリエンジュでなくてエンジュでなければなりません。「おそらく白秋は混同したのだろう」という人がいるかもしれませんが、それはとんでもないことです。白秋はすばらしく植物にくわしいのです。
  この歌には次のような詞書きがあります。「すずかけの木とあかしやの木とあかしやの木とすずかけと舗石みちのうす霧に」。石の舗装と交互、向かい合わせに植えられた2種の樹木をしみじみと見ながら、白秋は霧雨けむる道を彼女に会いにいったのです。

 
 

14.あかしやの花ふり落す月は来ぬ東京の雨わたくしの雨
  この歌に団伊玖磨が美しい歌曲を作っています。「花ふり落す」という表現は、まさにエンジュの花のこぼれ、自然の美しい余情を過不足なく表現していると思われます。
「桐の花」の歌集には五か所に「エッセイ」が収録されています。そしてこのエッセイが、歌集の中の大きな句切りに対応しています。最初のエッセイは「桐の花とカステラ」。ここでは白秋の短歌に寄せるこころざしと思いがつづられ、ちょっとした短歌論になっています。
  次は「昼の思」。コーヒーを飲みながらの、詩人の昼のアンニュイがつづられます。次に「植物園小品」です。ここで白秋の植物観察が語られます。このあとに「白猫」「ふさぎの虫」と続きます。後半のエッセイは、また歌とともにご紹介することにしてここでは「植物園小品」の中を跋渉してみましょう。
  「日の光は形円きトベラノキに遮られて空気冷やかに風うすく這ひくねれるサンザシに淡紅緑の芽は蕾み、そのもとに水仙の芽ぞ寸ばかり抽きてうち戦ぐ。とある小枝に寥しくして忙しき小さき白粉色の蜘蛛・・」。
  「ハヒビヤクシンの傾斜面の暗青色の静止・・短艇の船腹の如き雲灰白色の別館の上に薄れんとし、ヒマラヤ杉ひとり早春の風に戦ぐ、大きなる魚の青き骨のごとく・・」「入り口の看守はさみしげに座り、ユヅリハの葉柄の赤きが暮れんとして、閉ざさぬくぐりの間よりかなたの街の薄ら明をさしのぞき・・さしのぞく・・」。

 この植物園は文中からは不明ですが、おそらく小石川の植物園でしょう。エッセイには日づけがあり、10年(明治43年)3月25日と読めます。それにしても植物観察が的確ですね。少ない言葉で、その植物が持っている特長と季節のしるしをいい当てています。しかも周囲の物音や散策する人々、そして空の雲も小枝の蜘蛛も見落とさないという周到さです。
  「東京の雨わたくしの雨」という表現に注意しましょう。読者はこの語感から、白秋があたかも「私の東京」といっているような印象を持たれるだろうと思います。白秋が父に隠れて上京したのが六年前、そのとき白秋は東京の都会ぶりに驚嘆しました。
  「汽車が横浜近くに来る頃から私の神経は阿片に点火して激しい快楽を待って居る時の不安と憧憬とを覚えはじめた。都会が有する魔睡剤は煤煙である、コルタアである。石油である、瓦斯である・・」。その白秋が、東京生活にすっかりなじみ、歩道に降る雨もいとおしく「東京の雨わたくしの雨」とまで歌うようになったのでした。

 
 

15.新らしき野菜畑のほととぎす背広着て鳴け雨の霽れ間を
  この歌の魅力はなんといっても「ほととぎす背広着て鳴け」というところにあります。燕尾服という言葉があるように、男性の洋服のデザインにはどこか鳥の形を思わせるものがあります。それは胸の部分がワイシャツの白さで鳥の胸を思わせるからでしょう。田村隆一の有名な「戦友」という詩の中にも、亡霊となって帰って来た戦友が「答えられるものなら答えてくれ、真っ白な鳩の胸をした戦友よ」とたずねる一句が登場します。
  しかしこの歌の新しさは、人間が鳥の形をしているのではなく、ほととぎすのほうが人間の背広を着ているようだ、と発想していることにあります。それが「新らしき野菜畑の」という前句を受けているために、いっそう新鮮で、すがすがしいものになっています。
  ところで、「新らしき野菜畑」とは何を意味するのでしょうか。水田に土を盛って新しい畑を作ったという意味でしょうか。それとも野菜が新しいという意味でしょうか。それとも単なる感覚的な修飾語でしょうか。私の考えでは、これは「新しい野菜」の意味ではないかと思います。そしてその野菜も「白菜」とか「大根」ではなく「キャベツ」ではなかったかと思います。「どうしてそう思うのか?」。ご説明します。

 第1の理由は直後に掲げられている歌が、「あまつさへキャベツかがやく畑遠く郵便脚夫疲れくる見ゆ」とキャベツの名が出てくるからです。第2の理由は、キャベツが明治時代には本当に新しい野菜だったことによります。
  日本に球結性のキャベツが渡来したのは安政年間のことですが、本格的に栽培が始められるようになるのは明治時代に入ってからです。キャベツは東北方面から定着しました。九州から来た白秋には東京のキャベツ畑は相当新しく見えたのではないでしょうか。
  「背広着て鳴け」の背広についても同じことがいえます。この時代にはまだ和服姿の人がかなり見られましたから、背広そのものが結構新しいファッションだったのです。私の手元には白秋の明治42年のポートレートがありますが、ここでは白秋は白いハイカラーのYシャツにチョッキつきの背広を着込み、上唇に短いひげをたくわえています。チョッキのポケットからは時計の金鎖がのぞいています。大変おしゃれな格好です。
  白秋が着ている背広は大きな格子模様のコール天風の生地で、今日のビジネスマンの背広よりはずっと派手でキマっています。大正初期に萩原朔太郎などと並んで写っている写真でも、白秋のダンディぶりは際立っています。ほととぎすが着るほととぎす色の背広。おしゃれな白秋の目と耳がとらえた梅雨どきのキャベツ畑のひとこまです。

 
 

16.人妻のしみみ汗ばみ乳をしぼる硝子杯(コップ)のふちの薄きかがやき
  この歌は、新潮文庫版では「しみみ汗ばみ」となっていますが、白秋の初版では「すこし汗ばみ」となっています。「しみみ」というのは、「しみじみ」という意味で、本来は汗そのものの表現ではなく、時間がゆっくり経過している、落ちついた様子を示している言葉です。しかし「汗ばみ」の形容として用いられているので、「よく見ると汗がしみだしている」という感じに取れる、これまたうまい表現です。
  この歌について、私の手元にあるさる白秋評伝の中で次のように書かれています。「人妻のすこし汗ばみの一首からは、赤ん坊をどこかにあずけて、白秋と逢っている若い人妻の、熟れた肉体が浮かぶ。生理の必然で、乳がたまり痛くなる乳房をもみ、白秋の前でコップにしぼり出している彼女・・と考えれば、もはや2人の関係は明白だ」。お分かりのように、この評伝のライターは「人妻」を松下俊子と見ているわけです。

 ところがこの歌の原形は、「人妻のすこし汗ばみ乳をしぼる硝子杯のふちのなつかしきかな」というもので、明治43年6月に発表されているのです。明治43年には白秋はまだ彼女にあっていませんから、上記の評伝の記述はひどい誤りだということになります。少なくとも評伝を書こうというぐらいの人なら、歌の前後関係を、分かる範囲ででもきちんと調べなくてはなりません。
  禁じられた恋をしている上流階級の女性が、いかに親しい男とはいえ、その男の目の前で乳房を出して乳をしぼるものでしょうか。私はこの点だけでもこの人妻が彼女でないことがよく分かります。反面、むかしは乳飲み子を抱えたお母さんは、人前でもわりと平気でオッパイを出したものです。これは明らかにそういう種類のオッパイなのです。

 次に「しみみ」とか「少し」とか「コップのふちのなつかしきかな」「薄きかがやき」といっている白秋の心境を観察する必要があります。ここには愛する女性の乳房を見ているという情欲感、あるいは熱っぽさがどこにもありません。ここに見られるのは乳母の乳房への回帰、母性への回帰とでもいうべき感情です。
「なつかしきかな」を「薄きかがやき」に変えた理由について考えてみます。乳母への回帰というテーマは、じつは白秋は詩集「思い出」の中で基本的なモチーフとして取り扱いました。しかも彼は「なつかしきかな」という言葉に、平凡さと未消化を感じました。歌にはもっと奥行きが欲しい、と彼は思いました。そこで彼は乳房から目をそらすようにしてコップのへりの光をとらえ直したのです。

 
 

17.なつかしき七月二日しみじみとメスのわが背に触れしその夏
  この歌を読むと、白秋が病院で手術を受けたことが分かります。一体どうしたのでしょう。その理由を知るためには、入院の背景となっている白秋の当時のライフスタイルを観察する必要があります。
  一例を上げましょう。その日、明治四十四年吉原には大火事がありました。吉原には何度も大火事があったことが記録されています。ところで白秋はこの火事を見に行って、仲間との会合に遅れてしまいました。この会は友人の出征祝いを兼ねていたらしく、友人たちは白秋が来るのを待ちかねていました。紅蓮の炎と逃げまどう遊女たち、こうした強い刺激的な視覚チャンスを、白秋がヤジウマとして見逃すはずはありません。白秋は仲間がすっかり出来あがっているところへ遅れてやって来ました。次はそのときの様子です。
  「やあといいながら上がりかけた瞬間に私はもう誰かに組みつかれていた。組みつかれたが早いか、イヤというほど頭をぶん殴られた。・・次の瞬間には何でも大きな丼で二三杯私は一息に飲まされた。・・それからどうして帰ったのか、酔っ払っているので私は平気何でも『泥棒泥棒』と追っ駈けて来たそうだ。冷汗が流れる」。

 どうやら白秋は泥酔して、往来にある人のものを持って来てしまったようですね。ひどいランチキぶりがうかがわれるではありませんか。当時白秋は詩集「思ひ出」を出したばかりでしたがとても評判がいいのでうれしくなり、毎晩のように友人と飲み歩き、そのつど大変なランチキ騒ぎをやっていたようです。
  ある晩、夜ふけの町をふらふら歩いていたとき、白秋は道路脇に駐車してあった荷車に目をとめました。彼はこの荷車を勝手にひっぱり出しました。これは無免許、飲酒、窃盗型無謀運転もいいところです。果たせるかな、白秋は荷車ごと電柱に激突しました。
  彼は蠣殻町の岩佐病院に担ぎ込まれ、ここで手術を受けることになりました。だいぶ説明に手間取りましたが、これが「なつかしき七月二日しみじみと・・」の歌ができた背景です。もっとも詩人とは転んでもただでは起きない人種で、転んだ体験、傷ついた体験がそのまま作品になり実績になります。
  いまベッドの上に横になった白秋は体を動かせません。「なつかしき」という表現からは、バカ騒ぎの後の静けさが、幼いころの追憶までよびもどしているらしいことが分かります。「七月二日」と「その夏」が重複していますが、夏の暑さと、記念すべき貴重な体験の意識がベッドの上で重なっていたのでしょう。

 
 

18.夏はさびしコロロホルムに痺れゆくわがこころにも啼ける鈴虫
  この歌は、白秋が病院で手術を受けるためにクロロフォルムを吸入し、全身麻酔をされたときの印象を伝えています。今日では副作用の関係でクロロフォルムは使われないそうです。「夏はさびし」という言葉の中に、白秋の心細さが端的に表現されていますね。
  ところで、この歌にはナゾがあるのです。すでにお気づきのように「夏」と「鈴虫」という季節的に相容れない要素が歌い込まれているのです。
  前回ご紹介したように、白秋が手術を受けたのは7月2日です。この日付は旧暦ではなく、新暦のカレンダーですから、7月2日といえば、通常は東京ではまだ梅雨が明けきっていない時期です。その時期に果たして鈴虫が鳴くものでしょうか。もし鳴いたのだとしたら、それはずいぶん気の早い鈴虫、ということになるのではないでしょうか。

 鈴虫はコオロギの仲間に入ります。毎年8月後半に成虫になり、リーン、リーンといい音色で鳴き、マツムシと並んで秋の虫の代表選手となっています。もっとも鳴くといっても、鈴虫は羽をこすりあわせて発音しているもので、いわばオスがメスを呼ぶ恋歌です。ではこの鈴虫が7月2日に本当に鳴いていたのでしょうか。
  「コロロホルムに痺れゆく」と「わがこころにも啼ける」という点から判断すると、本当に鈴虫が鳴いていたのではなく、麻酔薬のために一種の耳鳴りがして、それが鈴虫が鳴いているように思えた、と解釈できないこともありません。
  しかし結論からいうと、この歌にある通りに鈴虫は鳴いていたのです。その根拠をこの歌集の中にある条件に従って申し上げます。まず第1に、この歌が含まれる項のタイトルが「昼の鈴虫」というタイトルになっています。第2に、この項に「鈴虫」というキーワドを含む歌が四首も含まれています。耳鳴りにしては歌の数が多すぎます。

 第3に、その4首の中の1首は、「麻酔の前鈴虫鳴けり窓辺には紅く小さき朝顔のさく」とあり、すでに麻酔をされる前から鈴虫が鳴いていたことになります。第4に、白秋が明治44年10月1日の「文章世界」に載せた「病院より」という歌群の中に、「桐の花」への転載、あるいは修正転載分以外に「鈴虫」と「きりぎりす」を歌った歌がそれぞれ一首づつ見られます。以上のことから、鈴虫が鳴いていたと結論づけられます。
  「若き医師いとなつかしくおもしろくわが背を切るやきりぎりす鳴く」「創(きず)いたしかなしするどしまたさびし昼の日なかに鳴ける鈴虫」というものです。ここまでくると私たちは病院で鈴虫が鳴いていたという事実を認めなければなりません。

 
 

19.朝顔を紅く小さしと見つるいのち消えむとぞする鳴け鳴け鈴虫
  この歌は、初出の「文章世界」では「夏の日のほそくかなしきわがいのち消えむとぞする鳴け鳴け鈴虫」となっています。「夏の日の・・」を「朝顔を・・」に変えたのは、前の歌が「夏はさびし・・」で始まるので、夏というキーワードの重複を避けたためと思われます。
  ところで、この時期に東京で本当に鈴虫が鳴いたのかどうかを知るための一つの手がかりとして、明治時代の東京地方における気温を調べてみました。
  調べてみますと、1876年から1950年までの75年間の、東京地方の年間平均気温は摂氏14度でした。ところが1951年から1980年までの年間平均気温は15.3度で1.5度上昇しています。さらに最近の1994年までの直近10年で調べると、これが16.2度に上昇しています。こうしてみると白秋の時代の東京と、現在の東京とでは年間平均にして2度以上違います。

 次に7月の平均気温ですが、最近の10年間の7月の平均気温は25.8度です。明治44年つまり白秋が入院した年は24.5度となっており、いまの私たちの基準からすると、相当低めだったことが分かります。これなら、鈴虫も鳴くかもしれません。
  ここからは私の想像です。当時の東京は都会といってもかなり田舎で、あちこちに畑や田んぼが残っている状態でした。アスファルトやコンクリートを照らし付ける都会特有の「熱気」のようなものも少なく、今の東京にくらべればずっと郊外的な、あるいは田舎に近い気象条件にあったと思われます。
  しかも病院といえば建物の中はいざ知らず、裏庭はずっと静かだったのではないでしょうか。つまり病院の北側の庭には土があり、雑草が茂り、日陰には鈴虫だけでなく、きりぎりすやこおろぎたちがたくさんいたのではないでしょうか。病院の裏庭など、子供達も遊びに来ることのない、ある種の閉ざされた空間だったのではないでしょうか。

 白秋が病院に来て見ると、鈴虫の声が聞こえました。この虫の声は白秋にとっても一寸した驚きでした。彼はいまさらのように、冷え冷えとした病院とその周囲の環境を実感したものと思われます。「昼の鈴虫」というタイトルは、彼にとって心細い、肌寒い病院生活の象徴であり、さびしい秋の感覚の先取りだったのです。
  「・・いのち消えむとぞする」「鳴け鳴け鈴虫」という歌の響きからは、「もうこうなったら虫でも何でも鳴いてくれ」というような、小さなふてくされのニュアンスが聞こえるではありませんか。

 
 

20.燕、燕、昼の麻酔のさめがたに宙がへりして啼くはさびしも
  白秋はいま病院のベッドの上です。麻酔が覚めかけてきています。大手術でしたから、麻酔のさめぎわは痛んだに違いないと思われますが、この時点では白秋はまだ肉体的な苦痛について触れていません。
  次第に意識が戻ってくるプロセスは、「わがいのち消えむとぞする」とまで思った白秋にしてみれば、蘇生の感情に近いものがあったのでしょう。そのとき、彼が最初に外界の事物として認識したのはツバメの鳴き声でした。「あ、ツバメの声だ」。
  「宙がへりして」とあるのは、窓の向こうに視線を動かしてみたからでしょうか。それとも鳥の鳴き声の、空間における分散状態から「ツバメがきっと宙返りしながら鳴いているんだな」と思ったからでしょうか。私はこの時点で、白秋がツバメの実際の動きを目で追ったのではないと思います。

 おそらく、やっと顔を動かして窓の外を見たのではないでしょうか。そこで窓ガラスをすばやくよぎるツバメの姿をとらえたのだと思います。そして彼は鳥の姿で判断したのではなく、鳴き声と鳥影との両方を瞬間的に総合判断したのだと思います。これが彼が「世界」の中に自分の「生」を再発見する瞬間のことでした。
  白秋は依然としてベッドに横たわったままです。ときどき包帯を取り替えに来てくれる看護婦病院の中のさまざまの物音、そして自分以外の病人の姿です。
  窓からは夏の青空が見えます。白秋はここで「声もなく寝(い)ねてながむる恐ろしき大夏の空青(きよ)く汗する」と歌っています。あおむけに寝た状態では、窓からは空しか見えません。空の青さを見ていると自分の立脚点が喪失したかのような、不安感を感じます。とりわけいまは健康とはいえない状態で空を見ているのですから、なおさらのことですね。

 白秋はそこで「恐ろしき大夏の空」と表現しました。また「空青く」とあるのは、恐ろしいという感情が、空に対する威圧感、自己の喪失感をともないながらも、なお青く美しいという認識と同居していたことを示しています。
  この青空の恐ろしさも、ツバメの声のさびしさも、視界の限られた条件のもとに拘束されていた当時の白秋の、別種の根源的な不安感を表現していますね。白秋がやっと人心地を取り戻すのは、自分の包帯交換時の傷の痛みや周囲の人々の表情を観察できたときでした。
  「やはらかに創(きず)にあてたる包帯もいとほし紅き朝顔のさく」「寝がへれば赤き金魚の鉢も見ゆかの気ちがひの頬の痩せも見ゆ」。

 
 

21.長廊下いろ薄黄なる水薬の瓶ひとつ持ち秋は来にけり
  やがて退院の日がやって来ました。上記の歌は「立秋」と章名があって、詞書きは「退院の前の日」となっています。7月2日に手術を受け、立秋まで入院していたということは、白秋は約四十日病院で暮らしていたことになりますね。
  この歌の前には「宵のくち」という章があって、そこには「なにおもふわかき看護婦夏過ぎて雨夜の空に花火あがれる」「宵のくちそれもひととき看護婦のはるもにか吹く夏もひととき」とあります。この2つの歌から、いくつかのことが分かります。
  一つは白秋の目が看護婦の行動を観察しているということです。四十日も滞在していれば、病院でも結構なカオになります。何人かいる看護婦の名前も覚え、冗談もいいあうようになったにちがいありません。

 この病院は蠣殻町ですから、両国の花火が見えたのではないかと思います。宵の口から上がりだした花火を見あげている看護婦の横顔に、あるいは、看護婦詰所のほうから聞こえてくる細々としたハーモニカの響きに、白秋はいいしれぬさびしさを感じました。いつの間にか夏が終わり秋がそこまで来ていたのです。
  「長廊下いろ薄黄なる水薬の・・」の歌に戻りましょう。これは病院生活に別れを告げる歌です。この歌を最後にして「桐の花」は次の項に切りかわります。
  この歌の大きな特長は「長廊下」というように、病院の内部空間を描く視覚的に垂直方向のパースペクティブが出現している点です。その廊下のこちら側に病院生活があり、向う側に外の世界があります。いつの間にかなじんでしまった病院と、ちょっとよそよそしくなってしまった外界をつないでいるのが、この長廊下です。

 「薄黄色なる瓶」というのはおそらく飲み薬のビンのことでしょう。このビンを持っているのが白秋自身なのか、それとも他の病人なのか、その点はどうもはっきりしません。何しろ文脈のうえでは、この薬ビンを持っているのは、「秋」なのです。
  この歌の詞書きは「退院の前の日」となっていますから、白秋が薬ビンをもって長廊下を通って出ていったわけではありません。そうではなく、この廊下を通って薬ビンをもって「秋」が入ってきたのです。何というさびしい歌でしょうか。ここには退院する若者の喜びや胸のふくらみはどこにもありません。
  「茉莉花(まつりか)の甘き香にすらえも堪へぬ病後の身こそさみしかりけれ」。入院して基礎体力を失い多少は彼の気力も萎えてしまったようですね。

 
 

22.薄らかに紅くか弱し鳳仙花人力車(じんりき)の輪にちるはいそがし
  この歌と同じテーマで、白秋は「夏よ夏よ鳳仙花ちらし走りゆく人力車夫にしばしかがやけ」という歌を作っています。この2首を比較してみましょう。この二つの歌はともに入院前に作られた歌ですが、「薄らかに紅くか弱し鳳仙花・・」のほうは改作されて、入院後の歌の系列に並べられています。
  そしてもと歌は「薄らかに紅くか弱し鳳仙花硝子のそとにちるはつめたし」というものだったのを、入院後の歌に編集し直すに際して、下の句を変えて「人力車の輪にちるはいそがし」としたのです。これは一見なんでもないようですが、とても大きな違いです。彼はもと歌をまったく違う歌にしたといってもいいでしょう。そしてこの変更は入院前と入院後の白秋の心境の微妙な違いを示すものです。

 「薄らかに紅く・・」と「夏よ夏よ・・」の二つの歌は、まったく同じ光景を描いています。つまり、当時都市の一般的な交通手段であった人力車と、道端に生えている雑草の一種、鳳仙花との組み合わせです。人力車の車輪が道路脇の草をかすめ、そのときに花が飛び散る様子を描いています。人力車の黒と鳳仙花の赤が、鋭い色彩コントラストを形成しているわけです。
  「夏よ夏よ鳳仙花散らし・・」の歌には、力強さと明るさがあります。「人力車夫にしばしかがやけ」という表現の中には、いかにも健康感がみなぎっていますね。
  ところが「人力車の輪にちるはいそがし」という表現には、一種のめまい感と、無常観のようなものが込められています。「人力車夫にしばしかがやけ」では、勢いよく飛び散る花の美しさを認めていたのですが、後の歌では機械的な世の中の進行と、花の弱さが対比されているようにもみえます。

 鳳仙花はツリフネソウ科の一年草で、よじれたような五枚の花びらが不規則な感じにくっつきあっています。ギザギザの目立つ葉と花のイメージが対照的です。当時は雑草としてどこにでも自生していたようです。
  鳳仙花は白秋にとってきわめて重要な植物です。彼はこの花をそのときの気分で「鳳仙花」といったり、「爪紅(つまぐれ)」と呼んだりしています。
  この花にはツマベニとか、ホネヌキという名があるそうです。何でも魚の骨がノドにひっかかったときこの実を噛んで飲むと骨が取れるそうです。ここでは鳳仙花は、人力車との関係でしか述べられていませんが、翌年の同じ時期、白秋はこの花をまったく異なった心境の中で見ることになります。

 
 

23.ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり鶏頭の花黄なる初秋
  白秋が病院を出ると、もう東京には秋が来ていました。日ごとに朝夕が寒くなり、空気も乾燥してきました。こうした秋の感触は、病み上がりの白秋の心身にはとくに鋭く、強く感じられました。
  「ひいやりと剃刀ひとつ落ちてあり」という、上の句の印象が鮮やかですね。秋の朝の身のひきしまるような寒さ、冷ややかさが「ひいやり」という形容によって、皮膚を伝わるように、生理的に伝わってきます。アランは、詩人はその言葉の働きによって読む人の生理をつき動かす力を持っているといいましたが、その通りです。
  ところで「剃刀ひとつ落ちてあり」というのは、使い捨てられた安全剃刀の刃のことと思いますが、この安全剃刀は、明治の末期になってはじめて日本に入ってきました。だからここで庭に落ちて光っているカミソリの刃は輸入品でしょう。
  カミソリでひげをそるのは、男性の不可避の日課ですが、大昔から男性はヒゲそりには苦労してきました。石器時代には黒耀石の刃でひげをそったそうです。これが次第にナイフ型になり、19世紀に入ってやっと安全剃刀が発明されたのです。

 いまでも床屋さんでは昔ながらの日本カミソリを使っていますが、昔の男性は大部分あれで毎朝、あるいは毎晩フロ場で顔をそっていました。「剃刀ひとつ落ちてあり」といっているこのカミソリの刃は、当時としてモダンな対象物であることがお分かりでしょう。
  ところで、落語の「品川心中」では、遊女と男が心中の方法について相談します。女が「ここに剃刀が二丁あるから、これで一緒に相手の喉をスッとやろうよ」というと、男が「痛いからイヤだよ」といい、結局海に身投げをすることになります。
  近松門左衛門の「卯月紅葉」では剃刀が大活躍します。
  「『憂き目を見せて何事』と。夫の手をとり、わが喉に押当つれば、思ひきり。『南無阿弥陀仏』と笛の鎖。剃刀の刃も折れよと。一ゑぐりはゑぐりしが、若き者の悲しさは、止めの急所を知らずして。まだ息絶へずもだゆるを、傷の口を隠さんと抱への帯をくるくると。二三遍引き回す憂き目のほどぞ不便なる。『我もやがて追付かん』と喉に当つる剃刀の。刃は鋸と折砕け皮肉ばかり切れけるを。力を入れて突きけれども通りつべうはなかりけり」という具合。
  このようにカミソリには自殺用具としてのイメージもあるわけで、私たちがこの歌から何かすごみを感じるのは、こうした背景があるからかもしれませんね。白秋もやがてこのカミソリを近松的側面から考えるときがやってきます。

 
   
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