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一人百首
 
第3章 愛の深みへ

24.さいかちの青さいかちの実となりて鳴りてさやげば雪ふりきたる
  さいかちの木はエンジュに似ています。葉はエンジュよりもさらに小粒で、長めでとてもかわいらしい感じがします。とくに若葉の美しさは格別です。さいかちに限らず、新緑は大変美しいものです。
  ところで、さいかちは黄色い小さな花をつけ、その後マメの実がなります。ところでこの実はえんどう豆をジャンボ化したような、巨大な豆がらに特長があります。豆がらの長さは20~30センチぐらいでしょうか。中に入っている豆は小さくて、豆がらが大きいのです。しかもこの豆がらは大抵よじれたり、曲がったりしています。これが枝の間からブラブラとぶら下がるのですから、小さくてかわいい葉とは対照的です。

 秋になるとこの豆がらが変色し、いくつかは地上に落ちますが、いくつかは枝に残って風が吹くと音を立てます。「青さいかちの実となりて」というのは、はじめ青かった実が変色して乾燥した状態になったことを意味し、「鳴りてさやげば」というのは、これが風に吹かれてカラカラと音を立てている様子を示しています。
  日比谷公園には立派なさいかちの木が2~3本あります。いつぞやここを散歩していたとき、公園のお掃除のおばさんがやって来て、「このさいかちの実は石鹸になるんだよ。戦時中、よくここで実を拾っていって洗濯に使ったもんだ」と話してくれました。家に帰って図鑑で調べてみると、「材は器具剤、薪炭材に、葉は食用、豆果はサポニンを含み、薬用、洗濯用に、とげは利尿、解毒剤として利用する」と書いてあります。こうしてみると、さいかちはずいぶん有難い木なのですね。

 これは私の想像ですが、日比谷公園が好きな白秋は、ここでさいかちの木を見て、この歌を歌ったのではないでしょうか。同じ木を見たかどうかは分かりません。しかし日比谷のさいかちはけっこう樹齢がありますから、あるいは同じ木かも知れません。
  「雪ふりきたる」とありますが、これは明治44年の冬です。この歌をよんだ頃、白秋は松下俊子との恋愛のまっ最中でした。つまりこの冬は白秋の運命を決定づける冬だったのです。白秋は入院前は木挽町にいましたが、12月には京橋に移転しました。なにしろ白秋は年に2度も3度も転居する引越し魔でしたからね。
この歌のできたのが12月とすると、松下俊子が原宿から出てきて白秋の家をたずねたか、あるいは2人が日比谷公園で落ち合ったということも考えられます。小雪のちらつく公園で2人は何を話していたのでしょう。

 

25.楂古聿(チョコレート)嗅ぎて君待つ雪の夜は湯沸(サモワル)の湯気も静こころなし
 「貯古齢糖」といっても一見何のことか分かりませんが、これが明治時代の初めにわが国に最初に出現したチョコレートの広告、その商品名の表示です。いろいろな書き方があったのですね。西洋の新しい文物をどんどん受け入れ、これをいかにも日本的に消化していった祖先たちの多様な試みが察せられます。
  ところでこの夜、白秋はホット・チョコレートを準備し、自分も一口先にこれをすすりながら彼女が来るのを待っていました。なにしろ「チョコレート」に「サモワル」と来るのですから、当時の白秋のモダンぶりが分かりますね。
  「サモワルの湯気も静こころなし」というは、湯沸かしからたちのぼる湯気があっちに動いたり、こっちに動いたりして不安定だということですね。その湯気の動きは、彼女が来るのを待ちかねている自分の落ち着かない心のようだというのです。

 さて、ここにいくつか注目すべきことがあります。それは白秋が彼女を待っているのが夜だということです。人妻が若い男性を訪問する時刻としては、相当な意味を持っているといわねばなりません。人妻はそれほど簡単に家をあけられるものではありません。松下俊子がこれから白秋を訪ねてくるということは、それなりの準備と覚悟をして出てくるということでなくてはなりません。
  もし彼女が単に約束の時間に遅れて、それでじりじりして待っているという気持ちを表現するつもりなら、白秋はもっと別の表現を用いたでしょう。ということは、白秋にとっては彼女を夜迎えるのが初めてであり、2人の関係は、これまでのところは一線を越えていないと判断するのが適当だからです。

 もしも彼女がこの時点で「白秋の女」になっていたとすれば、チョコレートや、サモワルのお膳立や「静こころなし」という表現は生まれなかったでしょう。ここにはまだ、一種の気取りのようなものがあります。男女の関係は、関係成立後は急速に日常化するものですが、ここにはそうした日常性は見られません。
  ぶっちゃけていえば、白秋は「今夜はオレは彼女を抱けるかもしれない」と思っていたにちがいありません。では松下俊子とはどんな風貌の人だったのでしょうか。室生犀星は「色白の紅顔長身の美女」といっています。「流行のローマ髪に紫のリボンを後ろで結んでいた」ともあります。ちょっと日本人離れのした派手好みの人だったようですね。いずれにしてもチョコレートとサモワルが似合う人だったことは間違いありません。

 
 

26.恋すてふ浅き浮名もかにかくに立てばなつかし白芥子の花
  白秋の歌集「桐の花」は、年代と季節を追って編集されていることが分かります。つまり白秋自身が、人妻との苦しい恋と姦通事件を山場とする一つのストーリーを構成するようにこの歌集を作り上げています。ところが白秋は、この筋立てを尊重するために、自分の歌の実際の成立年代を無視して歌を並べ替えています。
  一読すると「なるほど、あのときのことを歌ったものか」と感じられるようなものが、実際には2年も前に作られている歌だったりします。「桐の花」に収録されている歌は、明治42年ぐらいから45年ぐらいまでの作品ですが、それが白秋の編集方針に従って入り組んでいます。読者としてはこれを心得ておく必要があります。

 さて、私たちは白秋と松下俊子がいよいよアブナイ関係に入る直前まで進みましたが、再度時計を44年の9月に戻してみたいと思います。44年の9月には、わが国で初めての出版記念会が催されました。それは白秋の詩集「思ひ出」を対象に行なわれたものです。白秋はこの年の6月に「思ひ出」を刊行しましたが、その直後に入院してしまったのです。
  そこで白秋が入院している間に、友人たちが「思ひ出」の出版を祝ってやろうではないかということでパーティの企画を立てました。場所は神田の「みかど」という西洋料理屋だったそうです。この席で、上田敏が立ち上がって「思ひ出」を激賞しました。
  白秋は返礼のために立って挨拶しなければならないところでしたが、尊敬する上田敏に望外にほめられたので、彼は度を失いました。感激のあまり涙を流し、ただ黙ってうつむいているだけでした。友人がテーブルのうえにあった花束を白秋に持たせ「何もいわなくていい、君はこれを持って帰りたまえ」といったそうです。

 このときすでに白秋と松下俊子との淡い恋が始まっていました。ですから仲のいい友人からは「おい、白秋君。すごい美人とつき合っているそうじゃないか。お安くないぜ」とか何とかいわれたのではないでしょうか。そこで「恋すてふ浅き浮名も」という歌が生れたのものと思われます。「かにかくに立てば」という表現からは恋人がいるといわれて、まんざらでもなかった白秋の気持ちがうかがわれます。
  「浅き浮名」というのは、噂がさほど大袈裟なものではないということと同時に、白秋と彼女の関係もそれほど深間には入っていなかったことを暗示しています。「立てばなつかし白芥子の花」という響きからは、恋する白秋の幸福感がしみじみ伝わってきますね。

 
 

27.なまけものなまけてあればこおひいのゆるきゆげさへもたへがたきかな
  白秋は病院を出たあと、以前の生活に戻りましたが、病院生活を通して、いろいろな人の実生活をかいま見ました。そして自分の、詩人としての毎日の生活をふりかえって、自分が「なまけものである」という実感を持つに至ったらしく思われます。彼は「なまけもの」という題で、明治44年11月に一連の歌を自分が主宰する「朱欒(ザンボア)」誌に発表しました。また「なまけもの」という題は「桐の花」にも持ち込まれました。
  「なまけものなまけてあれば・・」の歌は、朱欒には見当たりませんが、「なまけもの」というタイトルのコンセプトを集約するような、すぐれた歌と思われます。とくに平仮名だけを並べて、けだるい感じを出しているという点でも工夫が見られます。

 怠惰とコーヒーの関係を解くカギは、「桐の花」に収録された「昼の思」というエッセイの中に記されています。
  「珈非、珈非、ひとりでにわれとわが心の匂を温め乍ら、やはらかな紫のいろにたちのぼるその吐息、病ましい物思の何とも捉へどころのないやうなその香煙の縺れを、懶惰(なまけ)た身の起伏に何といふこともなく眺めやる昼の男の心持、また逃げてゆく『時』のうしろでをも恍惚(うっとり)と空に凝視むる心持」。
  仮病で学校を休んだり、会社を休んだりして家にぶらぶらしているとき、人はある種の焦燥感と自堕落な恍惚感を味わいます。白秋もそれを感じたのです。
  「清しさよ、/わかうどが朝の瞳の、/そのカラの、/そのシャツの、/その青き麦の帽子の/そのわかき人の世の旅のいそぎの/清しさよ。あはれ、清しさ」(断章63)
  朝になると、若いサラリーマンたちが列をなして通ってゆきます。これに対して白秋自身はどうでしょうか。「顔のいろ蒼ざめて/ゆめ見るごとき眼眸(まなざし)、/今日もまたわかき男、/空をのみ空をのみ、見やりて暮らす」(断章44)という状態です。

 私たち真面目なビジネスマンは、時間になって会社に出勤するという習慣がいちど身についてしまうと、家に何となくブラブラしているという状態に耐えられなくなります。やっぱり私たちには詩人になる資格がないのでしょうね。
  学校を中退し、そのまま詩人としてスタートした白秋は、はじめ一般の人々と自分の生活の違いを強く意識しませんでした。しかし、恋人ができた現在になってみると、意識に変化が生じます。一日中家にいて、昼間会おうとすれば好きな女性にも会えるという状況が、白秋自身に、多少とも後ろめたく感じられるようになったのではないでしょうか。

 
 

28.なまけもの昼は昼とてそことなきびんつけの香にも涙してけれ
  この歌にある「昼は昼とて」はどういう意味でしょうか。それは、彼が昼間彼女に会っているという罪悪感を表現しています。
  「そことなき」ということは白秋と女性の間に、まだなにがしの空間的な距離があったことを示しています。もっと女性が近い距離にいれば、「そことなき」という表現にはなりません。「びんつけの香にも涙してけれ」とは、実際にびんつけ油の香りをかいで泣いたというよりも、何ともいえぬ感傷的な気分になったと解釈すべきでしょう。
  なぜ白秋はびんつけの香で感傷的な気分になったのでしょうか。その理由は2つあると私は考えます。それはびんつけ油の香りがことさら母性を意識させ、母親や乳母に甘えた時代の、郷愁を呼びさましたからだと思います。もう1つは生身の女への渇望を刺激したからだと思います。しかしこれは抑制しなければならない感情であり、そこからくる情緒不安が「涙してけれ」となったのだと思います。

 白秋は詩や歌の上でよく泣きます。現実の世界でもけっこう泣き虫だったようですが、それにもまして歌の上ではどんどん涙を流します。白秋のこのような感傷的な気分から「泣き」に至る情緒は、さまざまな言葉で段階的に設定されています。
  もっともそこはかとない、根拠性の乏しい感傷は「あはれ」です。これに、いとしいとか、かわいらしいという評価がともなうと「かなし」となります。この「かなし」は「悲し」ではありません。「悲し」と漢字を用いるときは明確に根拠が生じます。
  「ああ、かなし、/あえかにもうらわかき、ああ、わが君は、/ひともとの芥子の花、そが指に、香のくれなゐを/いと薄きうれひもてゆきずりに触れて過ぎます」。
  ここで用いられている「かなし」に注目してください。これは「悲し」ではありません。これに対して「あはれ、日の/かりそめのものなやみ、などてさはわれの悲しく、/窓照らす夕日の光、さしもまた涙ぐましき。・・」。

 ここでの「悲しく」は、さきほどの「かなし」とは違いますね。あとの詩のほうでは、原因は不明ながらはっきり「悲しい」と感情が特定されています。
  白秋は外界に対して鋭敏であっただけではなく、自分の情緒や感情表現についても適切であり鋭敏でした。自分なりに、きちんと感情のレベルを区分して言葉を用いていたのです。洋の東西を問わず、昔の人は「泣く」という感情表現に率直でした。私たちは泣くことを忘れただけでなく、中間的な「あはれ」や「かなしみ」を感じる心までも忘れかけているかもしれません。

 
 

29.おづおづとよそのをなごを預れる人のごとくに青ざめて居り
  これも「なまけもの」のシリーズの中の1首です。白秋と俊子はデートを重ねます。まだおたがいに遠慮があり、気恥かしさがあり、気取りがあります。まだ一線は越えられていないものの、親密度は急速に深まっていきます。次第に遠慮がとれ、相互に自己主張や甘えが発生する余地も生じます。この歌は、こうした移行期における二者間の感情的緊張の一瞬を描写しています。
  藪田義夫の「評伝北原白秋」によると、昭和40年代になって白秋の未発表の小説が発見されたそうです。この中に、小説に仮託して書いた彼女の描写と2人のデートの様子があります。「評伝北原白秋」から引用してみます。

「背のすらりとして下腹部できゆつと締つて腰の出つ張つた、どう見ても日本の女ではなかった。髪は鉢われに分けて、まるで外国の女優のやうな着物の着方をしてゐた。妖艶と蠱惑とに満ちた怪しい女であつた」「・・やつぱり彼も恋を恋する人であった。さうして京子と逢ふごとに絶えず胸さわぎがしたり、顔を赤くしたりした。京子も赤くなつたり震へたりしてゐた」。
  これで「おづおづと・・」の歌のニュアンスがいくぶん理解できるのではないでしょうか。
  白秋の未発表の体験的小説が確認された一方で、松下俊子自身も自分の体験を小説に書きました。昭和23年雑誌社「婦人の光」に一束の原稿が持ち込まれました。タイトルは「思い出の椿は赤し」というもので、著者は福島俊子、すなわち旧姓に戻った松下俊子でした。あれから30年以上の月日がたっています。

 この原稿の中で、彼女は実名で自分の体験をつづっています。これは全部が本当ということではないようですが、資料としての価値は十分にあります。この中で彼女は、「わたくしたちが、からだのことを目標のように思っていたのなら、3年の間にそんな機会はいくらでもあったのである。白秋も私も、ありふれた甘い泪なんぞ流したこともなく、あえばただ楽しくうれしく、ただ朗らかに歓んだ」。
  白秋の小説と俊子の「小説」、それぞれに共通部分があり、まったく違っている部分があります。共通しているのは、おたがいに幾分でも自分の方を正当化しようとする傾向があるといったところです。これはやむをえないことです。
  「おづおづずとよそのおなごを・・」の歌に示されているような気分的なテンションは、おそらく白秋の方が強かったのではないでしょうか。俊子の方は案外気楽にふるまっていたのかもしれません。

 
 

30.かりそめにおん身慕ふといふ時もよき俳優(わざをぎ)は涙ながしぬ
  この前後、白秋は盛んに芝居小屋をのぞいて、役者やピエロや曲芸師などに強い関心を見せています。この歌も、そうしたお芝居での役者の演技に感動している様子が描かれています。役者が舞台の上で、悲しいときにはちゃんと涙を流せるということは、私たち平凡人にとってはかなりの驚きです。
  オペラなどでも、迫真の演技をする歌手が涙を流しながら歌うということがありますがあれにもびっくりし、大いに感動します。だれでも嗚咽すると声が出なくなったり、言葉が出なくなったり、妙な声になったりしますね。ところがオペラ歌手は泣きながらでもきちんと歌えるのですから、感心してしまいます。

 ところで、この歌の場合注意しなければならないのは、「かりそめにおん身慕ふといふ時」という部分です。役者が涙を流すのは、悲しい場面です。親子の分かれとか恋人どうしの離別、愛するものの死など。こうした場面で愁嘆場が演じられるのは当然のことで、役者も観客も大いに泣くということでなければなりません。
  では「あなたをお慕いしています」「あなたを好きです」というように、愛の告白のときに涙を流すというのは一体どのような場合なのでしょうか。一般的にいえば、愛の告白にはためらいや羞恥はあっても、悲しみの涙は必要ないのではないかと思います。
  しかし愛の告白がしょせん意味を持たないというような場合、あるいは、成就しないことが分かっているような場合の愛の告白ならどうでしょうか。はたまたシラノ・ド・ベルジュラックの場合のように、身代りの告白をするようなケースはどうでしょうか。

 白秋と俊子の関係は、基本的には成就しない恋の図式に当てはまります。「愛している」といってはならず、いったところでますます悲しくなるというような関係、白秋は、こうした自分たちの関係を念頭に置いて役者を観察していたようですね。
  ところで、白秋がしきりに芝居小屋や見せ物小屋をうろついていたらしいことは、多くの作品で知ることができます。「桐の花」の中には「戯奴」という章がありますが、この冒頭には白秋自身によるペン画の、ピエロらしいもののカットが入っています。
  「一月や道化帽子の色あかき一寸坊の小屋に雪ふる」「ほこりかにとんぼがへりをしてのくるわかき道化に涙あらすな」「夜おそくひとりひそかに帰りきて道化衣装を脱とる男あり」。芝居や見せ物小屋の世界は、白秋の現実世界の重要な一部なのでした。

 
 

31.いざやわれとんぼがへりもしてのけむ涙ながしそ君はかなしき
  この歌には詞書きがあり、「泣きたまふな、あまりにさびし」とあります。女性の涙は男性にとっては困ったもので、多くの男性が女性に泣かれるとパニックに陥るものです。そのへんは女性も十分に心得ているので、多様なコミュニケーションの一手段、しかもとっておきの切り札としてこの「泣き」「涙」を用います。
  この歌は、俊子に泣かれた白秋が慰め、笑わせようとして、「ね、僕はここで、いっちょうとんぼがえりをして見せよう。だからなくのはおよし」という気持ちを持ったことを示しています。この「とんぼがへり」のキーワードは、白秋が見せ物小屋で見てきた道化のとんぼがえりからの連想であることはたしかです。

 前掲の「ほこりかにとんぼがへりをしてのくるわかい道化に涙あらすな」の、「してのくる=やってのける」が、ここでは「してのけむ」となっており、白秋がとんぼがえりを大変な「離れ業」と考えていたことが分かります。白秋が本当にとんぼがえりができたとは思えませんが、この慰めの歌の悲しさもいっそうよく理解できるではありませんか。
  ところで俊子はどうして泣いていたのでしょうか。
  俊子の夫長平は、かなりの異常性格だったようです。彼は俊子に始終乱暴を働き、彼女には生傷の絶え間がなかったといいます。また夫には混血の情婦がおり、これがたびたび家に入り込んで、彼女と口論をしていたらしいのです。しかも俊子は乳飲み子を抱え、どうしようもない状態でした。

 「あはれ、人妻、/ふたつなきフランチェスカの物語/かたらふひまもみどり児は声をたてつつ、/かたはらを匍ひもてありく、/君はまた、たださりげなし、/あはれ、人妻。」。断章のこの詩は、「いざやわれとんぼがへりもしてのけむ・・」の歌よりも前に書かれたものと思われますね。「君はまた、/たださりげなし」という一句からは、俊子の日頃の苦しみが、白秋にまだ語られていないことが分かります。
  「フランチェスカの物語」とは、ダンテの「神曲・地獄編」の中に紹介されている歴史上の悲恋物語です。時は13世紀、北イタリアの城主の娘フランチェスカは、醜男のジャンチオットと政略結婚させられます。ジャンチオットは自分が醜いので、結婚が不成立になることを恐れ、美男の弟パオロを身代りに立てます。ところがフランチェスカとパオロは深く愛しあうようになってしまい、二人はたびたび密会を重ねます。やがて2人は嫉妬に狂ったジャンチオットに刺されて死ぬのです。

 
 

32.いと長き街のはづれの君が住む三丁目より冬は来にけむ
  この歌は、44年12月1日付けの「朱欒」誌に収録されている歌ですが、ふしぎなことがあります。「朱欒」誌に載せられているのは「三丁目」となっており、初版の「桐の花」でも「三丁目」となっているのですが、私が愛用している新潮文庫ではこれが「八丁目」となっているのです。
  「『三丁目』でも『八丁目』でもどっちでもいいではないか」といわれるかもしれませんが、そういうわけにはいきません。「校正ミスじゃないの」という人もいるかもしれませんが、その可能性はありません。新潮文庫は、白秋の愛弟子の木俣修と遺児北原隆太郎の共同編集ということになっていますが、木俣修はおそらく白秋の全作品とその背景を知っているような人ですから初歩的なミスをおかすはずはありません。

 そこで新潮文庫の編者によるあとがきを見てみます。「白秋は初刻本の作品を後になつて斧削して、定本を作らうと企ててゐるので、本集では、底本として各歌集の初刻本を用ひたが、後の刊本に於いて斧削訂正をほどこしたものは一々その諸本を示さないが、それらと厳密に対校して訂正作を採ることにした。作者の意志を重んじたのである」とあります。白秋はどこかで「三丁目」と「八丁目」を入れ替えたことになります。
  この歌には「遠々しくなりし女のもとへ」という詞書きがついています。これは白秋と彼女の距離が何らかの意味で遠くなったことを暗示しています。
  白秋は年がら年中引越しをしていました。だから引越しをして遠くなったのか、とも考えられますが歌が作られた時期のことを考えると、「遠々しく」というのは物理的な距離のことではありません。

 ところで「三丁目」は「青山南三丁目」ないしは「青山北町三丁目」のことで、彼女の家がある原宿へのアプローチ部分に相当します。けれどこの原宿付近に、当時の地図では「八丁目」は存在しません。そこで「三丁目」ならいいが、「君が住む八丁目」というのは意味的におかしくなってくるのです。
  おそらく白秋は後になって木挽町にいた時代に、彼女と小さないさかいをしたことを思い出し、彼女との当時の心理的な距離だけを念頭に置いて「八丁目」に変えたのではないでしょうか。当時白秋が住んでいた木挽町と原宿を結ぶ線上に「銀座八丁目」がありましたから、「八丁目の方角」でも意味は通じます。もしかすると「三丁目」のリアリティが改訂時点の白秋自身にとっても「遠々しく」なっていたのかもしれません。

 
 

33.いちはやく冬のマントをひきまはし銀座いそげばふる霙(みぞれ)かな
  この歌は同じ「冬のさきがけ」の章の中におさめられています。「三丁目より」の歌のすぐ後です。ところがこの歌の原形は43年、つまり1年前に作られています。白秋は冬の始まりの歌として、同じところに並べているのですが、1年の開きがあります。
  「いちはやく黒のマントをひきまはし銀の笛とり『冬』はきたりぬ」、これが1年前の歌の原形です。いかがでしょうか。小意気でおしゃれで、屈託のない童謡詩人風の白秋が見えるでしょう。木枯しの音を「銀の笛とり」などは、むしろ軽薄な感じさえします。
  それが1年後、あるいは2年後かもしれませんが、「銀座いそげばふる霙かな」に変えられています。色調がいささか暗くなっていることにお気づきでしょう。それでも「銀の笛」から「銀座」のように、かすかに前の歌の余韻が残っていますね。

 この歌が変えられた理由はよく分かります。直近にできた歌との関係からこうせざるをえなかったのです。「遠々しくなりし女のもとへ」という前書きのある歌のすぐうしろに「銀の笛とり」では、どうもムードぶち壊しになってしまいます。ということは、1年前の白秋の心境と1年後では大違いということです。
  それでも、この「いちはやく冬のマントをひきまはし銀座いそげば・・」の歌をよく見てください。この歌の中にはまだ1年前の白秋のギャラントな香りが残っていることがお分かりでしょう。
  それはまず「いちはやく」という言葉によって示されています。これは他人に先駆けて勇気をもって新しい季節のファッションを身につけるということです。他人が着替えたのを見届けて、それからやっと自分も着替えをするというような、おしゃれ感覚のない人はこのへんの心意気と快感は分かりません。

 次に「マントをひきまはし」という表現を味わってください。昔のマントは、全身をすっぽりと包む釣鐘型のもので、なかなかカッコよかったですよね。あのマントは裾がたっぷりありますから、これにあおりをくれてさっそうと着こなす様子が「ひきまはし」となるのです。一年前の白秋には悩みなどほとんどありませんでした。意気軒昂としてマントの裾をひるがえしながら、銀座の町をかっ歩していてよかったのです。
  白秋はもとの歌を変えましたが、「いちはやく」と「ひきまはし」は変えませんでした。歌集後半にかけて次第に暗調を帯びてくる歌の群れの中にあって、この歌が依然としてギャラントな光を残しているゆえんです。

 
   
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