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一人百首
 
第5章 獄中の花

51.鳴きほれて逃ぐるすべさへ知らぬ鳥その鳥のごと捕へられにけり
  いよいよ逮捕の日がやってきました。この歌の前書きには「悲しき日苦しき日七月六日」と記されています。この日の読売新聞は事件を次のように伝えています。
  「詩人 白秋起訴さる 文芸汚辱の一頁/北原白秋は詩人だ、詩人だけれど常人のすることを逸すれば他人から相当の批難もされやう。昨五日東京地方裁判所の検事局から北原隆吉として起訴せられた人は雅号白秋其の人である。起訴されたのは忌むべき姦通といふのだ・・」。
  また読売新聞は、白秋と松下俊子とのなれそめや交際状況についても、後段で次のように記しています。「松下(夫のこと)は非常な交際家だから白秋を隣付合で招いて米国の写真など見せる、白秋の家は毎日多くの友人が集まつて酒を飲んだり華やかな生活をする。其の間に俊子も白秋方を訪れることが度重なつて、どうにかなつたのらしい。其後白秋は京橋・・に転居したが此の際に俊子は仕事用の膝掛けを贈つたり、折々シネリヤの鉢など贈つて大いに実を見せてゐたらしい。・・」。

 新聞記事としてはずいぶん非客観的な書き方ですが、当時はまだドキュメント記述の原則が確立していなかったのでしょう。もっとも今日でもスキャンダル報道となると、記述はこれによく似たものになりますが。またこの新聞記事からは、「人気詩人」に対する悪意のようなものを見て取ることができますね。
  「鳴きほれて逃ぐるすべさへ知らぬ鳥」というのは、2人が逮捕直前まで、自分たちが夢中になって「恋の歌」を歌う無防備な小鳥のようなものだった、ということをいっているのですね。「鳴きほれて」といってはいますが、いまの私たちには、その歌の中身が必ずしも甘美なものではなく、けっこう苦しいものだったことが分かります。

 「その鳥のごと捕へられにけり」というのは字あまりです。これを「捕へられけり」とすれば破調にならずにすみます。しかしそうすると、あまりにすんなりして抵抗感がありません。白秋はあえて破調にすることでこのときの苦しさ、絶望感を表現したのです。
  逮捕された白秋はうしろ手に縛られ、黒い囚人護送用の馬車に乗せられました。「かなしきは人間のみち牢獄(ひとや)みち馬車の軋みてゆく礫道(こいしみち)」。人間は法律を作ります。その法律で罪ありとされれば、人間の道は牢獄に続く道となります。
動物の世界には法律がありません。逮捕も牢獄もありません。法律を持っている人間の道、こうして馬車でゴトゴト走ってゆく人間の道は悲しいものだなあ、ということでしょうか。こうして2人の関係はついに司法の手によって裁かれることになりました。

 

52.大空に円き日輪血のごとし禍(まが)つ監獄(ひとや)にわれ堕ちてゆく
  この日、東京は晴天だったようですね。「円き日輪血のごとし」とありますので、白秋が馬車に乗せられて移動したのは、午後四時ごろのことであったろうと察しられます。
  ちなみに、この歌の直後に「胸のくるしさ空地の落日(いりひ)あかあかとただかがやけり胸のくるしさ」とあり、ここにはっきり「落日」と記されていますので、夕方近くであったことは間違いないと思います。この「胸のくるしさ」を前後にはさんだ歌も、切迫した感情と生理の関係をみごとに伝えていますね。
  この歌には「大空の丸い日輪」という超人間的な自然についての観察があり、「日輪が血のように赤く見える」という認識があり、「自分はわざわいに満ちた、地獄=監獄に落ちてゆくのだ」という自覚があります。ここで歌の中に存在する天から地獄までの、いわば百八十度の視角に注目をしてください。

 冒険映画では、悪漢が高い崖から「あー」と叫び声を上げながら落下してゆくことになっています。おそらく白秋はあのイメージを持っていたのでしょう。天から地獄への落下ですから、大神の怒りにふれて堕とされた天使ルシファーのイメージです。
  それにしても「空に真赤な雲のいろ/玻璃に真赤な酒のいろ・・」と歌ったその詩人、「赤い入日にふとつまされて、潟に陥(はま)つて死ねばよい・・」、あるいは「赤い夕日つまされて/酔うてカフエを出は出たが・・」と歌ったその詩人が、落日輝くそのときに馬車に乗せられて監獄に向かうというのは、本人には申し訳ないが、カッコいいのではないでしょうか。

 私の考えでは、白秋も「これはもしかしたら物語のようで、ひどくロマンチックなことなのではあるまいか」と、ちらっと思ったのではないかと思うのです。もちろん彼が実際に「胸のくるしさ」を体験し、汚辱を感じ、不安と恐怖にさいなまれていたことはもちろん事実としてです。しかし、ここには自分自身を、あたかも物語の主人公を見るように客観視し、冷静に観察しているもう一人の自分が設定されていたと思うのです。
  白秋は生涯にわたって「歌」と「詩」を平行して作りましたが、不思議なことにこの監獄行きの場面に関しては詩を一編も作っていません。残されているのは短歌だけです。全般に詩の方には俊子との関係に関してリアルな表現の作品がありません。
  白秋にとって、極端ないい方をすれば歌=普段着、に対して詩=外出着という位置関係があったのではないでしょうか。それだけ歌には赤裸々なものが表現されているのですが、それでも彼は、自分を見つめる「もう一人の自分」を失うことはありませんでした。

 
 

53.まざまざとこの黒馬車のかたすみに身を伏せて君の泣けるならずや
  白秋が捕らえられたとき俊子も捕らえられました。どちらが先だったのかはっきりしません。「鳴きほれて・・」の歌からすると2人一緒のところを捕まった感じもします。
  しかし「大空に円き日輪血のごとし禍つ監獄に・・」の歌の前書きには「馬車霞が関を過ぐ」とありますので、馬車は越前掘、つまり白秋宅の方向から移動してきたものと想像されます。ということは白秋宅で、2人が捕まったという状況になります。
  いずれにしても「かたすみに身を伏せて君の泣けるならずや」という表現には、「気づくと馬車の片隅に、君が突っ伏して泣いているではないか」というような、不意の驚きの感情が入っているように見えます。「まざまざと」という言葉は、限度を超えたリアリティ、生々しさ、残酷さを、浮き彫りにしていますね。

 ここで不思議なことがあります。逮捕されて監獄に行くまでに白秋は9首の歌をよんでいるのですが、彼女を歌った歌はこれ1首だけで、あとは彼女についてひとことも言及していないのです。もっと彼女を歌った作品があってよかったのではないかと思います。
  その1首もごらんいただいたように、「まざまざと・・身を伏せて泣けるならずや」というように、状況は生々しく悲惨ではありますが、取りようによっては「おや君もいたのか」という感じがしないでもありません。
  これが監獄の庭に入ると、白秋の彼女に対する関心、つまり歌の割合が増えてきますので、馬車の中で白秋がことさら彼女を忘れていたようにも思えるのです。
  この歌のうしろに「夕日あかく馬のしりへの金網を透きてじりじり照りつけにけり」とありますので、少なくともこの瞬間、白秋は馬車の前の方から、馬車を包んでいる防護の金網ごしに、牽引している馬の尻を見ていたことになります。また次に「夏祭わっしょわっしょとかつぎゆく街の神輿が遠くきこゆる」とあります。この瞬間には、彼は遠くの祭りの神輿かつぎの喚声に耳を澄ましています。そこで私の推理はこうです。

 この馬車は銀座方面からやってきて霞が関を通り、市ヶ谷方向に移動していました。つまり西向きです。白秋が座ったところは馬車の前方右側です。西日が馬車の中まで差し込んでいます。 俊子は馬車の後方の隅の方に崩れるように座っています。ここは当然日陰になっています。2人の間には警備担当の吏卒が座っています。そこで白秋はまともに俊子の方を見て、声をかけたり、観察することができませんでした。なるべく見ないように、考えないようにして馬車に乗っていたのでしょう。

 
 

54.しみじみと涙して入る君とわれ監獄(ひとや)の庭の爪紅(つまぐれ)の花
  護送の馬車が刑務所に到着しました。ここは市ヶ谷の未決監です。当時の地図を見ると陸軍学校などの施設からちょっと離れて「東京監獄」というのがあります。
  彼等は7月5日に起訴されて6日に第1回の裁判を受け、監獄に入れられました。つまり逮捕された当日に霞が関の裁判所で何らかの指示を受け、ここ市ヶ谷にやってきたのです。この歌は監獄の庭に入ったときの印象を歌ったものです。
  詞書きに「うれしや監獄にも花はありけり/草の中にも赤くちひさく」とあります。これで見ると、白秋は監獄には花などないと思っていたのですね。地獄のような「禍つ監獄」を想像していたわけですから、庭の雑草に混じって咲く「爪紅の花」を見て、花好きの白秋がどれほどホッとしたか分かりません。

 この「爪紅の花」は、さきにご紹介した鳳仙花と同じものです。「夏よ夏よ鳳仙花ちらし走りゆく人力車夫にしばしかがやけ」と歌ったあの花、人力車の車輪に当たって飛び散っていたあの花が、いまは自分たちを慰めてくれる唯一の存在です。
  それでは、2人がこの庭に入ったのは午後何時ごろだったでしょうか。いずれにしても日没前まだ花の色を十分識別できる時間帯だったことが分かります。
  ここで「しみじみと涙して入る君とわれ」といっている部分に注目してみましょう。2人は一緒に降ろされたようですね。馬車の中ではつとめて彼女を見ないようにしていましたが、ここでは一体感が戻っています。
  「しみじみと涙して」の句の「涙して」からは、悲痛感はあることが分かりますが、「しみじみと」という表現からは、初期の不安感や動揺は一応おさまって、やや落ち着きを取り戻した様子がうかがわれます。

 逮捕されてからここまでの白秋の心理をたどってみると、彼はすっかり動転し、罪悪感を感じ精神的に参っていることが分かりますね。しかし当局に反発したり、恨んだりしている様子は少しもありません。そうかといって諦めたり、ふてくされたりしているわけでもありません。ただ悲しく、情けなく、困惑し、不安を感じているだけです。
  「君とわれ」とありますから、白秋が俊子にも視線を向け、彼女が自分と同じ状態にあることを確認していることが分かります。ここには、2人とも罪あるもの、裁きを受けるものとしての自然体があります。このような自然体があってこそ、「爪紅の花」が目につき、それが大きな慰めとなっているわけですね。

 
 

55.やっこらさと飛んで下りれば吾妹子(わがもこ)がいぢらしやじつと此方(こち)向いて居り
  「やっこらさ」などといっていますが、これは何のことでしょうか。この歌の詞書きは7行にもなる長いものです。状況をご説明しましょう。白秋はこのとき他の男の囚人と一緒に数珠つなぎにされていました。白秋は列の最後にいました。看守に突き飛ばされるようにして1人ずつ階段を下りるのですが、手錠をはめられ、体を紐で結ばれていますので前の囚人に体を引っ張られる格好になります。
  「われ最後に飛び下りんと身構へて、ふとをかしくなりぬ、帯に縄かけられたれば前の奴のお尻がわが身体を強く曳く、面白きかな、悲しみ極まれるわが心、この時ふいと戯けてやっこらさのさといふ気になりぬ」。

 ここにある心理は何でしょうか。「悲しみ極まれる」状況なのに、大の男の電車ごっこのような滑稽な行列、前の男のお尻の動き、そして自分の身体が引っ張られるという意外性、これらを目にして、いきなり白秋の童心が刺激されます。
  白秋はあの有名な「かにの床屋」や「まちぼうけ」などの童謡に見られるように、平素はユーモア精神にとんだ、愉快な人でした。しかし、場違いといえばこれほど場違いなことはありません。しかし冷静になればなるほど自嘲的な意味でも自分が滑稽です。
  私など何をするにも「どっこいしょ」です。白秋と同じ状況だったら、私は「どっこいしょ」ですね。白秋はこのとき、ふざけて「やっこらさのさ」といいました。心の中でいっただけではなく、口に出していいましたので、さすがの白秋も「ちょっと不謹慎だったかな」と思い、まわりを見ると、俊子がじっとこちらを向いているではありませんか。

 そこで白秋は自分がなぜこの場にいるのかを思い出し、場違いなふざけ方をした自分を恥ずかしく思います。じっとこちらを見ていた俊子が、白秋のかけ声を聞いたのか、聞いてどう思ったのかは分かりません。ただ白秋は俊子の視線に、自分を責めるような、恨むようなものを感じ、いじらしくも、いとおしくも思いました。
  「やっこらさのさ」に限らず、白秋はこの手のかけ声や、お囃し、呼び声、方言のいい回しの面白さにとても敏感でした。「ちゃっきり、ちゃっきり、ちゃっきりよ。きゃァるが啼くんで雨づらよ。」で知られる「ちゃっきり節」も、白秋のこうした精神の結晶です。
  ふたたび俊子を見ると、彼女は今度は爪紅の花をじっと見ています。「網傘をすこしかたむけよき君はなほ紅き花に見入るなりけり」。そのとき白秋には彼女がこれまでにもまして美しく見えたのでした。

 
 

56.罪びとは罪びとゆゑになほいとしかなしいぢらしあきらめられず
  監獄での生活経験が豊かという人があるとすれば、それは相当なものだと思います。私たちは「あそこは犯罪者が入るところだ」と決めていますので、その先はあまり考えてみようと思いません。映画の脱獄シーンなどワクワクして見たりしますが、これもあくまで「おはなし」の世界のことであり、私たちにとってさほどの現実感はありません。ところが白秋はここでまず第1夜を明かし、強いショックを受けました。
  そして彼はこう歌いました。「この心いよよはだかとなりにけり涙ながるる涙ながるる」。白秋は子供時代とても神経質で、なにかあるとすぐに熱を出したり、カンを起こしたりしました。すぐにこわれやすいというところから「柳川のびいどろびん」というあだ名までもらいました。その白秋が監獄にいるのですから、その違和感と絶望感は想像するにあまりあります。

 「いよよはだかとなりにけり」というのは、自分自身をガードしていたヨロイのようなもの、着物のようなものが一枚ずつはがされていって、いまは精神的にまったく無防備の状態になったということでしょう。名誉も誇りもすべて取り上げられ、自分が檻に入れられた獣と同じ状態にあることに彼は気づくのです。
  そのような状態のときに、脳裏を占めるのは彼女のことです。彼女がこうした状態の原因ですから。そして、名状しがたい孤独と絶望を作り出した原因が彼女との関係にあることを忘れて、白秋は監獄における孤独を彼女に慰めてもらいたいと思います。
  この場合、彼の孤独を慰めることができる人がいるとすれば、それは彼女をおいてほかにありません。それは彼と彼女が、相思相愛の関係にあるからというだけではなく、同病相憐れむ罪人同士だからです。

 庭までは彼女と一緒でしたが、ここでは白秋は一人です。彼が監収されたのは独房なのです。「彼女はどんなところに入れられているのだろう」と白秋は考えます。俊子は胸を病んでいました。そこで「彼女の体は大丈夫だろうか」と急に心配になります。
  次に白秋は「彼女は私のことをどう思っているだろうか」と思います。二人でいい争いをしたり、彼女を「女手品師」などとこと呼んだことなど、すべて忘れてしまい、ただいとしさだけがつのります。
  そこで「罪びとは罪びとゆえになほいとし」となり、「かなしいぢらし」となり、「あきらめられず」となるのです。いつしか夜になり、明りが消され眠れぬ監獄の窓から月の光がさしこみました。「どん底の底の監獄にさしきたる天つ光に身は濡れにけり」。

 
 

57.監獄にも鳳仙花咲けりいと紅しとこの弟に言ひ告げやらむ
  白秋が入獄してから二日たって、弟の鉄雄が面会にきました。このときに歌ったのが、「母びとは悲しくませば鳳仙花せめて紅しと言い告げやらむ」という歌と、右に掲げた歌の二首です。鉄雄は兄思いのやさしい弟でした。監獄に入った兄のために各方面に奔走し、保釈金を工面し、せいいっぱいの働きをしたのが鉄雄でした。
  このとき、金網越しに2人が何を話したのか、どんな表情だったのか、それは分かりません。この歌からすると白秋は「監獄の庭にも鳳仙花が赤く咲いていたよ」とか、「お母さんはどうしている。監獄にも花は咲いているから、心配しなくてもいいといってくれないか」といったことになりますね。実際にこんなバカなことをいったのかどうか、それも分かりませんが、いずれにしても悲しいですよね。

 白秋には弟と妹が四人いました。鉄雄は2つ違いの弟で年も近かったせいもあり、子供のときからよく一緒に遊びました。詩集「思ひ出」の中に「あはれ、わが、君おもふヴィオロンの静かなるしらべのなかに/いつもいつも力なくまぎれ入り、鳴きさやぐろばのにほひよ。/・・」とある「君」とは、弟の鉄雄のことです。
  同じく詩集「思ひ出」の中に「弟よ、かかる日は喧嘩(いさかひ)もしき。/紫蘇(しそ)の葉むらさきを、韮をまた踏みにじりつつ、/われ打ちぬ、汝打ちぬ、血のいづるまで、/柔かなる幼年の体の/こころよく、こそばゆく手に痛きまで。/・・」とあります。お兄さんとしてはずいぶん弟に乱暴をしたようですね。
  また「断章」の中にある詩。「あはれ、鉄雄、/静かなる汝が顔の蒼さよ。/声もなきは泣きやしつる。/たよりなき闇の夜を、/光りて消ゆる花火に。」。花火の夜、兄弟げんかをしたのでしょうか。それとも鉄雄が誰かに叱られたのでしょうか。あまり静かに黙っているので、白秋は心配して弟のカオを盗み見ます。花火の瞬間的な光の下に、鉄雄の青白く、悲しそうな表情が見えます。「泣いていたんだな」と兄は思いました。

 今度は、弟が兄のカオを心配そうに見る番になりました。弟の鉄雄には、白秋のような文才はありませんでした。しかし鉄雄は兄の才能を高く評価し、兄を尊敬していました。白秋が逮捕された当時、鉄雄は保険会社の代理店に勤める薄給のサラリーマンでした。
彼はのちに、白秋の出版物を中心とする「アルス」という出版事業を始め、出版という側面から兄を助けました。白秋という偉大な存在を考えるとき、私たちはどんなときにも兄を信じ、助け、際立たせた、鉄雄という献身的な協力者を忘れることはできません。

 
 

58.おのれ紅(あか)き水密桃の汁(つゆ)をもて顔を描(か)かむぞ泣ける汝(なれ)が顔
  刑務所での暮しの日々が過ぎます。ある日出入りの床屋さんがやって来ました。白秋は整髪されながら、「バリカンの光うごけばしくしくと痛き頭(かしら)のやるせなきかなや」と歌いました。なにしろ監獄のことですから、町の床屋さんのようには丁寧にはやってくれなかったのでしょうね。
  またある時、囚人たちは日光浴のために、爪紅やダリヤの花が咲いている庭に出されました。そこで白秋は「あはれなる獄卒どもが匍ひかがみ紅きダリヤの毛虫とる見ゆ」と歌いました。 中庭には簡素なトイレ施設もあったようで、詞書きに「太陽のもとに許されて尿するはうれしきかな楽しきかな」とあって、「狂人(きちがい)の赤き花見て叫ぶときわれらしみじみ出ていばり尿する」。

 ここに掲げた「おのれ紅(あか)き水密桃の汁(つゆ)をもて・・」の歌は、事情がお分かりにならないと分かりにくいでしょう。この歌の謎を解くヒントは「桐の花」歌集の最後のエッセイ「ふさぎの虫」の中に詳しく記されていますのでご説明しましょう。これは監獄での食生活に関係しています。
  囚人たちは3度3度きちんと食事を与えられました。スープに洋食を3品ずつ、それに果物がかならずついていたそうです。なかなか待遇いいですね。監獄の食事の量が多いのと、気分がふさぐのとで、白秋は水密桃を食べ残しました。そしてこの水密桃を絵の具がわりに使って、差し入れの半紙に自画像を書いたのです。なにしろ白秋は絵心がありますからね。ところがこの自画像は看守に見つかり、白秋は呼び出されました。変わったことをするのは監獄では好まれません。

 「『三八七番、この真赤な面(つら)は何だ。』『それは私の顔で御座います。』『何で描いた。』『水密桃の腐れたので描きました。』『ぢやあこの黄色いのは何を用(つか)った。』俺は髪の毛をもじゃもじゃと真黄色になすりつけたのだ。『それはバタで。』『この点々(ポチポチ)は何だ。』『それは辛子で御座います。』『青い眼玉はどうした。』俺はつくづく苦笑した、『それはサラダを絞りましたので。』一帖の半紙を一枚めくるとやっぱり下にも俺の真紅な顔が泣っ面をしてゐる。・・」
  ユーモア精神のある白秋は、入獄のときも階段のところでも「やっこらさのさ」などとかけ声をかけてしまいましたが、獄中でもかなり個性を発揮していたようですね。
  「おのれ紅き水密桃の汁をもて・・」の歌には、エピソードの面白さ、白秋の答弁の卑屈さに反して、とても力強い響きがありますね。白秋の芸術家魂が、限定された空間の中でも脈々と呼吸していたのです。

 
 

59.わが睾丸(ふぐり)つよくつかまば死ぬべきか訊けば心がこけ笑ひする
  白秋はその日監獄の中で石鹸遊びをしていました。何もすることがないので、石鹸をかなだらいの中に入れて、両手でアワをかきたてて水を跳ね飛ばしていたのです。シャボン玉を作りたかったのでしょうかね。またしても子供っぽいことをやっています。
  すると隣室のカベをコツコツ叩く音がします。そこで白秋が「どうしたの」と聞くと、となりの囚人が「今日は盆の16日ですねえ」といいます。「そうだ、盆の16日」と白秋が答えると相手は「もうつくづく嫌になっちゃった、あああ・・」といいます。この囚人は2月に浅草で友達を殺した男です。彼はまだ刑が決まらずにほったらかしにされているらしいのです。もう彼は退屈でどうしようもなくなってしまったのでしょう。

 しばらく黙っているとまたコツコツと叩きます。「『何だね。』『あの睾丸(きんたま)つかんだら死ぬんでせうか。』不意に俺の眼が笑ひ出した。『そりゃあね、ギュッとつかんだら何時(いつ)でも死にます。』と口を寄せて、また物好きな道化心が笑ひ出す。『だが、一体誰がつかむの誰の睾丸を。』『私(あっし)がつかむんですがね。』猫のやうに頓狂な声がした。」。これ、おかしいですよね。刑務所では、囚人が自殺に使えそうなものは置いておかないといいますが、この囚人はどうやらすばらしいアイデアを思いついたようですね。その効果を確認するために、隣室の、どうやらインテリらしい青年にたずねているところがいいではありませんか。
  この会話からすると、カッとなって友人を殺したというこの男、さほど悪い人間ではなさそうですね。カベ越しに不意を打たれた白秋は、このアイデアのおかしさに、いっとき鬱々とした気分が吹き飛んでしまいます。考えてみれば、白秋がここにこうしてつながれている原因も、このアイデアが意味する自己懲罰と無縁ではないわけで、白秋としてはおかしさと、皮肉の両方を一挙に感じてしまうわけです。

 「わが睾丸つよくつかまば死ぬべきか」というのは、隣室の囚人の質問でもあると同時に、自分にも「これで死ねるかと自問してみると」というように、二重の質問に取るべきでしょう。しかしこのタイプの自殺というのはあまり聞いたことがありませんからねえ。そこで「訊けば心がこけわらひする」となるわけです。
  「驚きてふと見つむればかなしきかわが足の指も泣けるなりけり」。気がついてみると自分の足の指まで泣いていた、といっていますね。このようにして、退屈で陰うつな監獄の日々がきょうも過ぎてゆきます。

 
 

60.夕されば火のつくごとく君恋し命いとほしあきらめられず
  もう1つ、「殺人犯隣にあり」と詞書きして「猫のごと首絞められて死ぬといふことがをかしさ爪紅の咲く」と歌っています。恐らく隣室の「友人」がまたも白秋に声をかけてきて、「あっしは友達を殺したから死刑でしょうかね。死刑って猫みたいに首締められて死ぬんでしょうか」というようなことをいったのでしょう。
  この頃同じ監獄の中で子供を産んだ女囚がいました。「恐ろしくおのれ死なむとつきつめぬいきいきとまたも赤子啼き啼く」。
  ドストエフスキーはシベリアに徒刑囚となったときの体験をもとに「死の家の記録」という小説を書きました。「死の家」とは監獄のことです。ここにいる人々はたえず「死」を意識させられます。拘束されていることは生きながら死んでいるようなものです。隣室の友ならずとも「いっそ死んだほうがましではないか」と、つきつめた気持ちになるのは当然のことです。
  そんな「死の家」に、赤ん坊が出現しました。どうやら女囚の棟から白秋たちのほうまで赤ん坊の泣き声が聞こえたようですね。極限的な環境下での「死と誕生」の鮮やかなコントラスト、白秋は生命の強さと、因業の深さを感じました。

 ところで、俊子の妊娠騒ぎはその後どうなったのでしょうか。白秋は監獄にはいる前に真相を知ったのでしょうか。それともこの時点で「もしかしたらオレの子ができたのかもしれない」と思い続けていたのでしょうか。
  私の想像では、白秋は入獄直前に俊子から「妊娠はしていませんでした」と、聞かされたのではないかと思います。なぜなら、白秋が「懐妊りたり」という情報を信じていたとすれば、これを暗示する歌がどこかにあるはずだからです。また法廷でのやり取りにもこのことはコメントされるはずだからです。
  しかしながら赤子の泣き声は、白秋の「生」への思いを強くかき立てました。俊子が赤ん坊をつれて自分の下宿に通ってきた日々のことも思い出されます。こうした感慨は、独房での不安、退屈、さびしさ、それに禁欲とあいまって、鋭いまでに白秋の心をさいなみます。
  「火のつくごとく」という表現は、本来赤ん坊の泣き方の表現です。しかしながら白秋の心は女囚の部屋で、火がついたように泣き出した赤ん坊とまったく同じでした。
  白秋の犯罪は死刑になるほどのものではありませんが、それでも彼は「死」を考えています。しかし彼女を思うと「命いとほしあきらめられず」となります。赤ん坊の泣き声は、生と外部世界に対する執着とをかきたてるばかりです。

 
 

61.一列(ひとつら)に手錠はめられ十二人涙ながせば鳩ぽつぽ飛ぶ
  裁判の日になりました。入監してからちょうど10日目です。白秋たちは市ヶ谷を出て霞が関の裁判所に向かいました。その行き道にヒマワリの花が見えます。「向日葵(ひぐるま)囚人馬車の隙間より見えてくるくるかがやきにけれ」。姦通罪は犯罪としては軽微なほうなので、法定は同程度の囚人を12人ひとまとめにして扱ったようです。
  白秋の視線は、さきほどから裁判所の窓から見える鳩を追っています。この歌に続いて私が大好きな歌、「鳩よ鳩よをかしからずや囚人(めしうど)の『三八七(さんはちしち)』が涙ながせる」が登場します。前の歌を「十二人涙流せば」と読むと十二人全員が泣いていたみたいですが、「『三八七』が涙流せる」を読むと、12人の中でメソメソ泣いていたのは白秋1人だったことが分かりますね。

 白秋の視線はさきほどまでは鳩を追っていましたが、いまは鳩の視点から自分を見ています。すると、いかめしげな建物の一室で、12人の男が並べられ、まわりをいく人かの男が取り囲んでいます。12人のうちの1人が一番気弱で、さっきから泣いているのですが、その泣いている男こそ、「387番」の自分です。
  警察が白秋たちにしつこくたずねたのは、「どちらのほうが先に手を出したのか」ということでした。どうも程度の低い話だけれど、こちらが程度の低いところに落ちてしまえば、もう仕方がありません。
  白秋はのちに友人宛に書いています。「警察署は少くとも罪人製造所である。甚だ憤慨にたへない、・・それから美人筒といふ事も、こちらから元警視田川氏の紹介状を持つて僕の方から人が行つた時、署長は内意をふくめて、かうかう今度呼び出すときに云へ、・・」。

 つまり、獄中の白秋につまらぬ知恵をつけようとした人がいるのです。要するに今回の事件は「美人筒(つつもたせ)だといえ」というのですね。要するに俊子が夫と示し合わせて自分を陥れようとした、という筋書きの法廷戦術をとったらどうか、ということです。ところで俊子側にもアドバイスした人がいたようで、「男に関係を強要されたといいなさい」というのです。
  有名な思考実験、「囚人のジレンマ」というのがあります。同一事件で捕まった2人の犯人が自分が助かりたい一心で相手の方を悪くいう心理状況を指します。白秋たちは弁護士や周囲にあれ知恵をつけられ、「囚人のジレンマ」に陥った可能性があります。
  裁判のときに、白秋は何をどういっていいか分からなくなりました。彼は「四方八方義理と人情で、実に血を吐くよりもつらい思ひをした。」とのちに語っています。鳩が見たのは、こうした男のジレンマの涙でもあったのでしょう。

 
   
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