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一人百首
 
第6章 破られる誓い

62.監獄(ひとや)いでぬ重き木蓋をはねのけて林檎函よりをどるここちに
  8月10日、白秋は免訴放免のいい渡しを受けました。この間、時代は明治から大正に変わっていました。白秋が免訴のいい渡しを受けた背景には弟鉄雄の涙ぐましい努力がありました。彼は親戚や知り合いを駆け回って示談の資金集めに奔走したのです。
  俊子の夫が要求したのは金300円でした。鉄雄の当時の月給は15円でしたから、必要資金は年収の2倍近くに当たります。もしも白秋の家が破産さえしていなければ、このくらいのお金を出すのはわけなかったでしょう。しかしこのとき、破産した一家はとらわれの白秋の留守宅に集合している状態だったのです。
  思いあまった鉄雄は俊子の実家、伊賀に飛びました。2人が同罪で捕まっているのだから、示談の資金を折半で出しましょう、と持ちかけたのですが、俊子の父親は「罪を犯すような娘のためには一文も出せない」という冷たい返事。

 このようにして鉄雄がさんざん苦労して工面した金を渡すと、俊子の夫は告訴取り下げの書類に調印し、「金さえもらえれば用はない」とうそぶいて立ち去りました。
  こうした弟鉄雄の苦労を、白秋が獄中でどの程度知っていたのか分かりませんが、いざ監獄を出るとき白秋はこう歌いました。「鳳仙花よ監獄(ひとや)にも馴れ罪にも馴れ囚人にさへも馴れむとするか」。人間には驚くほど適応力があるものです。彼はいつしか監獄での暮しを「こんなもの」と思うようになっていたのですね。
  それはちょうど、あの蠣殻町の病院を退院しようとするときと同じ感慨です。「囚人にさへも馴れむとするか」という響きの中には、隣室の殺人犯や庭で出会う囚人たちとすっかり友達になりつつあるということ、そしてそれに違和感を感じなくなりつつあるということ、それでいいんだろうかという妙な自覚が入りまじっています。

 しかし、ついに釈放されました。その喜びを白秋は「監獄いでぬ重き木蓋をはねのけて林檎函よりをどるここちに」と表現しました。自由になれば、自由ほどうれしいものはありません。「林檎函よりをどるここちに」という、アクセントのあるリズムを味わってください。
  白秋は途中で人力車をひろいました。そしてたまらずにこう歌いました。「監獄いでぬ走れ人力車(じんりき)よ走れ街にまんまろなお月さまがあがる」。
鬱積していたすべてのものが開放され、白秋はクルマの中でも、もうじっとしていられません。蕩児の帰還時刻はすでに宵の口を過ぎ、正面の空には大きな月が出ました。人力車は街を駆け抜けます。

 

63.空見ると強く大きく見はりたるわが円(つぶ)ら眼に涙たまるも
  事件は落着しました。しかし何と大きな心の空洞でしょうか。監獄にいるときには、「拘束されている」という当面の課題があったので、彼の孤独感は別の方角を向いていました。ところが一度自由の身になってみれば、「世間」との関係に身を置いた孤独感を感じることになります。
  彼にしてみれば道行く人がすべて彼を指さして「ほら、見てごらんなさい、あれがこないだ姦通罪で捕まった北原白秋よ」と噂しているような、そんな気持ちがしたのではないでしょうか。かりにそれは思い過ごしだとしても、彼は自分が卑屈になっていることを自分に対して認めないわけにはいきません。
  「これではいけない、元気を出そう」、と自分にいいきかせて空を見上げると、その目にも涙がたまってしまう、というのですから、白秋も相当落ち込んでいたようですね。

 こうした時期、白秋の友人たちはどうしていたのでしょうか。いく人かの友人が白秋に激励の手紙を送ってきました。まっさきに手紙をくれたのは志賀直哉でした。「この手紙で君に対する従来よりも一層の好意を示したく思ひます」。白秋逮捕のニュースが流れたその日の日づけの手紙の一節です。
  美術評論家中田勝之助は白秋あてにこう書きました。「百歩千歩を譲つてああだとしても決してどうのかうのとは思ひません、以前と少しも変りない尊敬と親しみを持つてゐます。・・ワイルドやベルレーヌやドストエフスキイやツルゲーネフの例もあることですから。こんな事にめげるやうな兄でもないとは思ひますが、御心配になつて御病気にでもなられないかと恐れます。私に出来ることなら何なりと致します。どうか御心をお安めなさい。・・」。
  また佐々木繁は「詩人としてあなたに、今度の事件などは少しの障害をも致してゐるものではありません。かえって不思議な光明を我々に見せて下されたのみで御座います。・・」と書き送りました。

 どの手紙もが白秋の健康を案じ、「何も気にすることはない」と励ましています。しかし白秋は開放されたいま、改めていやすことのできない空虚感、孤独感にさいなまれていたのです。ちなみにこの時点では、白秋は俊子との連絡は取れない状態でした。
  「あまつさへ夾竹桃の花あかく咲きにけらずやわかき男よ」。この「わかき男」は、白秋自身のことかもしれませんし、まったく行きずりの他人かもしれません。けれど監獄を出てきた白秋には身の置き所がなかったのです。

 
 

64.驚きて猫の熟視(みつ)むる赤トマトわが投げつけしその赤トマト
  鬱々として気の晴れない白秋は、8月の末ごろふらりと木更津に旅行をしました。歌集にも「木更津へ渡る。海浜に出でてあまりに悲しかりければ」と前書きして、「いと酢き赤き柘榴(ざくろ)をひきちぎり日の光る海に投げつけにけり」としています。このころの白秋はやたらとモノを投げつけたがっていますね。
  木更津で白秋は「松川」という旅館に泊まりました。この旅館には、どういうわけか白い猫がうじゃうじゃいました。このときの印象を記したのが、歌集第4番目のエッセイ「白猫」です。このエッセイは萩原朔太郎的な、鋭い感覚と幻想に満たされています。

 ここで白秋は、夜中に白い猫と偶然に視線を合わせてしまいました。私たちもなんかの拍子で猫と目が合うことがありますが、このときの白秋はちょっと神経過敏になっています。
  「二つの霊がひたと今向ひ会ってゐる。而して各々の急所急所をきゆつと凝視めて、痛ましいほどの凌辱を相互に続ける、その恐怖と、憎々しさ、私は電球の尖をキッと差向けたまま、まるで青ざめはてた大刀の魚のやうに立ち竦んだ」。
  ここで彼は、その日の朝がたに見た夢を思い出すのです。白秋の夢の中では一弦の琴の音がチリツンチリツンと聞こえています。白秋は8〜9人の子供を目の前にしています。年は7〜8才から15〜6才ぐらいまでの顔立ちのよく似た子供達です。するとどこからともなく声が聞こえ「たった1人で宜しいのです。どうぞ何奴(どいつ)か拾って下さいませんか。」といいます。
  子供達はどうやら捨て子らしく思われます。「どうぞその子を引き取って下さいませんか」といわれると白秋はその子供達のどれかを引き取らねばならないという強迫観念に襲われます。

 「もう一度怪しい声がしたらどう為やう、あれかこれか、真蒼な私の眼が列の端から端までずつと見渡すと、一緒にその大人(ませ)たさもしい、眼の大きく額の白い子供の顔がさも恨めしさうにほろほろ泣いてゐる。・・」。こんな夢でした。
  翌日、白秋は見かけた猫に真っ赤に熟れたトマトをなげつけました。トマトは的を外れたようです。猫は一瞬逃げずに、何やらいぶかしげにトマトを見つめていたようですね。る猫の視線にも悲しい神秘の名残りがあります。いずれにしても、白秋の傷ついた心は木更津にやって来てもあまり慰められませんでした。
  夢の中の捨て子は、旅館の周辺にたくさんいた猫からの連想でしょうか。白猫はどこかをさ迷っている女の心の代理でしょうか。それとも捨て子を拾うとは、俊子を引き取るということの暗示だったのでしょうか。

 
 

65.柿の赤き実隣家のへだて飛び越えてころげ廻れり暴風雨(あらし)吹け吹け
  柿の実がなって台風が来ていますから、季節は完全に秋です。この歌の前に同じく柿の実を歌った歌があります。「心心赤き実となり枝につく鴉食(は)まむとすはぢぎれむとす」とあります。
  柿の木にからすが飛んできて実をつつきます。けれど皮が固いのと枝が揺れるのとで、一二度つついても皮はすぐには破れません。しかし間もなく柿の皮ははじけるでしょう。自分の心も、あのように、直後の破局を待っている柿の実のように、不安定に宙にぶら下がっているようなものだ、と白秋は思うのです。
  「柿の赤き実隣家の・・」の歌には「暴風雨来りぬ面白きかな面白きかな」という詞書きがあります。毎日ふさいでいる白秋にとっては、台風の強風すらも気がまぎれます。

 「面白きかな面白きかな」という二度がさねの表現の中には、「どうなってもいいんだ」というすてばちな気持ちと、子供が大雨や大雪を喜ぶような無邪気な童心とがないまぜになっています。それにしても柿の実が飛ぶくらいですから、相当の強風です。
  10月に入って白秋は俊子宛に手紙を書きました。例の事件後最初に白秋が出した手紙です。「・・信念ある芸術家としての覚悟はあらゆる因襲を超越し、あらゆる民衆の迫害に堪へ、あらゆる人生の痛苦にうち克ち飽迄も敬虔なる芸術のために殉ずべきものにて候、・・」などと、白秋はやけにカッコいいことを書いています。
  さらに「わが心はいつしか彼の人(俊子のこと)を侮り彼の人を信ぜず、ただしめやかなる愛と憐憫の心とはあれども昔日の如くもはや彼の人のために火の如き幻影の恋を感ずる事能はず、そは果して誰の罪にて候べき、幻は破れたり、・・」などと彼女に対して縁切りを申し渡しているかのようないい方をしています。

 ところが手紙の後半に来ると、「わが最後の法廷に立ちしとき、あまりにやつれたるかの人を見て胸もふたがる心地いたし候ひしが、その時あまたたび咳き入りたまひし様子の今だに気がかりにて忘られず、・・」などと急に彼女に対する愛惜の念を表現しています。
  白秋の心はこの手紙の文面通りに、一瞬間ごとに揺れています。ある瞬間には「もう関係ない」と思い、次の瞬間には「いとしい」と思います。彼の心は、嵐に吹かれる柿の実のように地面をころげまわっていたのです。
  この手紙は彼女の伊賀の実家宛に「福島浪子様」として出されています。「浪子」というのは周囲を気づかっての変名です。彼女の名はこのあとも「まり子」になったり「百合子」になったり、大変忙しく変化します。

 
 

66.小犬二匹石炭舟(ぶね)のふなべりを鳴けり狂へり夜に叫び居り
  俊子のほうからの、白秋への手紙はどうだったのでしょうか。状況を判断すると、まず俊子から白秋のほうに手紙が来ていたようですが、白秋は「彼女に手紙を出すな」と止められていて、それで我慢をしていたようです。前にご紹介した手紙の二伸にも「手紙は香曽我部氏より差とめられ居候へども、これ丈は申上ねば心のくるしさ堪へがたし、これを初めの最後と御覧被下度、・・」とあります。
  俊子からの手紙については、歌集末尾のエッセイ「ふさぎの虫」の中にいくつか引用されています。まず白秋が彼女を思いだしている部分を引用してみます。「も一度逢ひ度い・・ハッとして眼を開けた、嘲笑ふやうに鶏頭が光る。/ほんとにあの鶏頭のやうな女だった、お跳(はね)さんで嘘吐きで怜悧(りかう)で愚かで虚栄家(みえばう)で気狂で而して恐ろしい悪魔のやうな魅力と美しい姿・・凡てが俺の芸術欲をそそのかし瞞らかし、引きずり廻すには充分の不可思議性を秘して居た、・・」。

 このときの彼女のイメージは鶏頭。「またぞろふさぎの虫奴がつのるなり黄なる鶏頭赤き鶏頭」という作品に白秋の気分がそのまま反映されています。
  さて俊子からの手紙ですが、残念ながら私の手元には俊子の手紙はありません。そこで「ふさぎの虫」のエッセイから彼女の手紙に相当する部分を引用してみます。
  「そばからそばからと起る残念な事、口惜しい事、迫害、いろいろの事情にせめられて平常からきかぬ気の私はとりつめました、自殺と覚悟をきめました、然しここで死ぬのはいや、今一度お目にかかり度いお目にかかり度い。」。
  ここで私は「そばからそばから」と同じ言葉を二度打っていますが、原典ではタテ書きで、平仮名の「く」の文字を大きくしたような、むかしよく使われた繰返し記号が用いられています。「お目にかかり度いお目にかかり度い」も同じです。そこで私はこれを「(繰り返し1回)」というように記載することにします。
  次の引用。「私はあなたが憎らしい、あなたは私を世の中から、凡ての人から見はなさせて一人ぽっちになった後、いぢめていぢめてつき放さうとなさるに違ひありません、口惜しい、入らっしゃい、ここへあの思ふ存分いぢめて上げ度い、入らっしゃい(繰り返し4回)気がもう狂ひ出しました。」。なかなか強烈ですね。
  ある夜。彼は「パンの会」で騒いだころを思い出しながら隅田の岸辺を歩きました。川には石炭船が浮かんでいるのですが、甲板に2匹の子犬がいて、遠ざかる岸に向かって狂ったように吠え叫んでいます。「だれかさんと同じだ」と白秋は思いました。

 
 

67.かなしみに顫へ新たにはじけちるわれはキャベツの球ならなくに
  白秋が人妻との恋に苦しんでいた頃、同じように、人妻との恋の痛みに苦しんでいるもう1人の歌人がいました。その名は若山牧水、白秋と早稲田時代の友人です。白秋は早稲田時代には「射水」という号を使っていました。そこで「牧水」「射水」、それにもうひとりいた「蘇水」という友人とともに「早稲田の三水」と呼ばれたこともありました。
  白秋は牧水と親しく、同居したり、同人誌を手伝ったり、手伝ってもらったりしたこともありました。その牧水が同じような恋愛に身をけずっていたのです。牧水の恋愛の相手は園田小枝子という人です。
  牧水が彼女に出会ったのは明治39年といいますから、白秋よりはずっと早いですね。牧水は誠実に小枝子を愛しました。その恋の歴史は「ああ接吻(くちつけ)海そのままに日は行かず鳥翔ひながら死(う)せ果てよいま」「君かりにかのわだつみに思はれて言ひよられなばいかにしたまふ」などの歌になって残っています。

 同じ愛の歌でも白秋とは趣が違って、スケールが雄大で力強いですね。何しろ2人がキスする瞬間、太陽も止まり、海の動きも止まり、鳥も飛びながら死んでしまわなければならないというのですからすごいです。
  牧水のこの恋愛は明治44年に悲しく終りました。彼女は神戸の人。複雑な家系の中にあって、すでに2人の子供もいる女性だったのです。はじめ彼女は牧水にこの件を隠していたようですが、最終的にはどうにもならず、神戸に帰りました。
  牧水は苦しみ、「山奥にひとり獣の死ぬるよりさびしからずや恋の終りは」とうたいました。また、「詫びて来よ詫びて来よとぞむなしくも待つくるしさに男死ぬべき」「かくばかりくるしきものをなにゆゑに泣きて詫びしを許さざりけむ」と歌いました。

 私が好きな歌。「逃れゆく女を追へる大たはけわれぞと知りて眼眩むごとし」。別れた女に恋々としている意気地のない男をかつては大馬鹿者と笑ったものだが、自分がその大馬鹿者なのだということですね。この絶望的な自己認識を、大ナタでばっさりやるように歌い切っているところが牧水のたまらない魅力です。
  これに対して白秋の歌はもっと繊細でピリピリしています。白秋は青白く光るキャベツの玉に「内にこもろうとする求心的な力」と「爆発してしまいたいような遠心的な力」という強いテンションを見ました。「私はキャベツの玉ではないのに、悲しみのためにいまにも爆発しそうだ。一体どうしたらいいんだ」。白秋独自の表現です。

 
 

68.と見れば監獄署裏の草空地(くさあきち)にぶらんこの環(くわん)のきしるなりけり
  白秋はひまにまかせて、自分が入っていた監獄の付近にもいってみました。あなたはいかがですか。あなたが何かの事情で監獄に入れられたことがあったとして、そののち時間ができたとき自分が入って苦しんでいたところへ行って見たいと思いますか。私ならそんなことはしません。私なら、自分がイヤな思いをしたところには行きませんね。
  こういう点、詩人は多少マゾヒスティックなところがあるのでしょうね。よくいえば、どろどろした心の奥までのぞきこむ冒険心がある、といったらいいのでしょうか。ともかく白秋は傷心の思いを抱きながら市ヶ谷に行って見ました。今度は監獄の中に正面から入るわけにいきませんので、裏手に回ってみます。
  監獄とは不思議なところですね。罪をおかさないと中に入れないのです。外から監獄を見ますので白秋は建物全体を指して「監獄署」と呼んでいます。彼が中に入っていたときには、彼は「監獄(ひとや)」としかいわなかったのですが、このたびは「監獄署」となります。

 「来てみれば監獄署の裏に日は赤くテテツプツプと鳩の飛べるも」。ここで「テテツプツプ」とは、柳川の方言で「ハトポッポ」ということだそうです。
  この「テテツプツプ」というのは、詞書きにも用いた表現の一つです。「テテツプツプ/弥惣次ケツケ」と前書きして彼は監獄の中で、「日もすがらひと日監獄(ひとや)の鳩ぽつぽぽつぽぽつぽと物おもはする」と歌いました。この歌を、改めて「来てみれば監獄署の裏に日は赤く、テテツプツプと鳩の飛べるも」と比較して見てください。
  監獄の中の歌のほうが気分的にゆとりがあり、「のどかさ」さえ感じられるのに、いま外で歌っている歌のほうが寂寥感にあふれているのはなぜでしょうか。
  同じく彼は「囚人の泣く声か、拷問の叫びか」と前書きして、「と見れば監獄署裏の草空地(くさあきち)にぶらんこの環(くわん)のきしるなりけり」の歌を歌いました。ここできしっている冬のブランコの音はラヴェルの「夜のガスパール」の「絞首台」や「スカルボ」の、あの悽惨なイメージをほうふつとさせますね。

 監獄の中で、白秋は無我夢中でした。拘禁されて、彼はけっこう苦しんだように見えました。しかし今になって見れば、本当に苦しんでいたとはいえません。
  自由になったいまこそ、彼は自分の思想と感情によって真のとらわれびとであり、罪人であり拷問にかけられて苦しむ囚人なのです。自分を苦しめるものは自分です。監獄付近に行ってみるという行為自体のなかに、それがあらわれています。

 
 

69.時計の針T(いち)とTとに来(きた)るときするどく君をおもひつめにき
  この頃、つまり1912年の暮から13年のはじめにかけて、白秋と俊子は狂ったように手紙をやり取りしています。とくに2月には白秋が俊子宛に書いた手紙は13通が残っていますので少なくとも2日に1通ずつ書いていたという勘定になります。ここに掲げた歌は、そうした時期の歌と思われます。
  12月に白秋が書いた手紙にはこうあります。「御手紙拝見、つくづくと考へさせられ候 お前様の言葉が真実か否か以前の如き信用を置かれぬ今の汚れはてたる小生の心を何より情けなく存候」という出だしですから、のっけからケンカ腰ですね。そしてこれを読んでゆくと「自棄くそは何につけてもあしく候」などと出てきます。彼女がヤケクソで「死んでしまう」などといっているのをたしなめている感じですね。

 この時代の手紙は「候文」は当然の常識でしたが、白秋は俊子に対して候文あり、通常の口語調あり、電文ありで、じつに多様な書き方をしています。候文は、白秋が怒っているときの口調です。手紙の文体や表現はさすがに無為のうちにも工夫されていて、手紙をもらった俊子としてはそれなりにうれしく、刺激があったのではないでしょうか。
  手紙の中で白秋は、俊子が警察の事情聴取に答えた内容を、せめているくだりがあります。「聴取書といふうもの凡て一閲したれば。さればとて今さらとがめ立したりとて何になり候べき、女はやはり女にて候べく、男の心はやはり男より知るものなし。」。
  これを読むと、若山牧水の、「唯だ彼女(かれ)が男のむねのかなしみを解(げ)し得で去るをあはれにおもふ」を思い出します。男女の愛は、同時に男女という性の間の戦いでもあることが改めて理解されます。

 「お前様は口さきもうまし、手紙のさきもやさしくいぢらしけれど、深き心はわれとても知るよしなし、・・気まぐれもののお坊ちゃんのよし、ほとほと御閉口のよし今のリリーさんとやらは申さるれど、そのお坊ちゃんらしい応揚なところにむかしは俊子さんがお惚れなされたのではなきや、一寸伺上たく候。」。
  いまこうして見ると、思わず笑ってしまいますね。俊子が「あなたは気まぐれなお坊ちゃんで私、閉口いたしましたわ」といえば、「そのお坊ちゃんに惚れなすったのはどなたでしたっけね」といい返します。まさに痴話喧嘩です。彼は毎秒ごとに「何てやつだ」「女ってどうしようもない」「一目あいたい」「あってはならぬ」を繰り返しました。その思いが「するどく君をおもひつめにき」という表現に結びついたのです。

 
 

70.どれどれ春の支度にかかりませう紅(あか)い椿が咲いたぞなもし
  この歌には、「母の云へらく」という前書きがついています。つまり同居している母の言葉をそのままそっくり歌にしたものです。身近な人がいった言葉でも、敏感にキャッチして歌にしてしまうこの白秋の詩才に驚きたいと思います。
  ところで「椿が咲いたよ、もう春だね、そろそろ春のしたくをしようかね」という言葉の内容は、のどかで平和で、いいですよね。この歌には、まだ残っている冬の空気の冷たさと、もうすぐそこまで来ている春への希望がミックスされています。
  この歌は、「桐の花」歌集の後ろから数えて4首目のところにあります。つまり、この歌集もいよいよおしまいなのです。ですからここに来て、白秋の心もついに平安と家庭的な落ち着きを取り戻したかに見えるのですね。
  ところが、この歌にはバージョンと見られる別の歌があるのです。このバージョンのほうは「桐の花」歌集には載っていません。そのバージョンのほうをごらんになったらあなたはきっとびっくりなさるでしょう。

 「妖婆の云へらく」と前書きして「どれどれ人の胆でもゑぐりませう紅い椿が咲いたぞなひつひつひ・・」というバージョンです。「母」はここでは「妖婆」となり、「春の支度にかかりませう」という美しい言葉は「人の胆でもゑぐりませう」となっているのですから、すさまじいものです。「桐の花」のほうに掲載されたのが現実の姿で、「妖婆の云へらく」のほうが、あとで考えついたバージョンでしょう。
  いまから見れば、これも一種の罪のない精神のお遊びとしてみることができ、ニヤリと笑ってすますこともできます。しかし、一面では白秋の心の「すさみ」の産物として見ることもできるでしょう。
  白秋の母は19才で白秋を生んでいますから、このとき彼女はまだ47才です。まだ「妖婆」などというイメージではありません。しかし白秋は狭い家で家人と同居し、ストレスがたまっていました。俊子との手紙のやり取りではとくに家人に気を使っていましたから、家人が敵に見える瞬間もあったに違いありません。
  いずれにしても、文学は単に美しいだけのものではありません。1つのものについて、他の視点や考え方を同時に考慮することができたとき、文学はその説得力を発揮します。
  白秋は監獄で鳩の視点で泣いている自分を見ました。ここでは最愛の母に「つかのまの敵意」を感じています。人間の心は何と奥深いものではありませんか。

 
 

71.吾が心よ夕さりくれば蝋燭に火の点くごとしひもじかりけり
  いよいよこれが「桐の花」歌集の最後の歌になりますが、この歌には次のような詞書きがあります。「ひもじきかなひもじきかな/わが心はいたしいたしするどにさみし」。これ以上はないような、痛恨の叫びです。
  ところで、「どれどれ春の支度に・・」の歌の直後に、「あかんぼを黒き猫来て食みしといふ恐ろしき世にわれも飯(いい)食(は)む」という歌があります。どこかの家に猫が入り込んで、赤ん坊を食い殺してしまったという事件が報道されたのでしょう。この事件が「どれどれ人の胆でもゑぐりませう・・」という表現のヒントになったと思われます。
  ここで注目したいのは、「猫は人を食い、私は食事をしている」という対比です。ここには「生き続ける」ということへの根源的な自己認識があります。この認識は上に掲げた歌の、「蝋燭に火の点く」という思想に通じます。ともっているローソクの火は、いまにも消えそうな弱々しい生命の火です。しかし消しがたい情念の、凝縮された炎です。その炎が「ひもじい」といって泣いているのです。

 大正2年(1913年)があけました。この年の正月、白秋は太田という友人宛に絵はがきを送りました。そこに「極々内証で新年おめでたう 僕は五六日前からここにきてゐる 何ひとつおもしろい事はない 恐ろしいゆめばかり見てゐる」。「ここ」とは以前にも来たことのある三浦三崎のことです。
  1月9日、白秋は俊子宛てに短い電報を打ちました。「フン ケトウノダンナニヨロシク」。意味不明ですね。じつは白秋は、彼女が横浜で外国人相手の酒場で働くことになったということ、自分にはひいきにしてくれる「旦那」がいる、というようなことを、5日づけの手紙で知らされたのです。この知らせは白秋の心に痛打を与えました。
  私の考えでは、白秋は東京では彼女に会えないので、できたら三浦三崎で会おう、さもなければここで死のうと考えたのではないでしょうか。ところがこの時点で彼女はすでに就職を決めていましたので、白秋は期待はずれどころか「私は外人の妾になりました」というふうにも取れる手紙を受け取ってしまったのです。
  翌日、今度は彼は電報に続く手紙を書きました。「お前様は拙者の敵なり 恋しき恋しき恋人なり、かなしくいぢらしく、何となくかわゆし、・・拙者の乱暴なる電報御立腹なされしにや もつともつとヒドイ事今に申すべく候。・・何事もこれでおしまひにおわかれと致すべく候、・・」。

 
 

72.おめおめと生きながらへてくれなゐの山の椿に身をよせにけり
  歌集「桐の花」からの歌は終り、ここからは「雲母(きらら)集」からの歌をご紹介することになります。「桐の花」が刊行されたのは大正2年、1月25日です。これに対して白秋が三浦三崎に出かけるのは1月2日です。ですから「吾が心よ夕さりくれば蝋燭に火の点くごとしひもじかりけり」という、前回ご紹介した歌が作られたのは、前年の、原稿を出版社に送るギリギリのところではなかったかと思われます。
  年末を期して「桐の花」を仕上げた白秋は、「脱稿」という肩の重荷を下ろして三浦三崎にやってきたわけです。「雲母集」は大きく分けて12のブロックに分かれています。
  最初のブロックには「序歌」が何首かのせられていますが、序歌は、時期的にはあとに作られたものと思われます。私としては白秋の足跡を時系列にたどって、「流離抄・三崎哀傷歌」からご紹介したいと思います。

 この部分のはじめのところに、次のような詞書きがあります。「大正二年一月二日、哀傷のあまりただひとり海を越えて三崎に渡る。淹留旬日、幸に命ありてひとまづ都に帰る。これわが流離のはじめなり」。
  この詞書きに解読のポイントがあります。「幸いに命ありて」という部分です。これは彼が明らかに自殺しようとしていたということです。「ひとまづ」というは彼が自殺を延期したということです。「寂しさに浜へ出て見れば波ばかりうねりくねれりあきらめられず」。
  白秋は「何事もこれでおしまひにおわかれと致すべく候」などと書いたくせに、やはり彼女のことをあきらめられません。そしてこの三崎への旅の収穫の中でもっとも美しい歌「おめおめと生きながらへてくれないの山の椿に身をよせにけり」が作られました。

 私はこの歌は、白秋が生き抜くことを決心した歌であると読みます。「おめおめと生きながらへて」というのを、「これまで死のうとしたのだが死に切れずに」と読んでも構わないのですが昨年12月まで、彼は「桐の花」刊行という大事業を目前にしていましたから、ひとつの目標が彼を支えていました。ところが三崎への旅は彼女に会うか、心中か、自殺かという、かなり危険なものだったのです。
  ところがここに来て海を見、丘にのぼり、赤い椿の花を見ると、どうしても死に切れません。そこで「おめおめと生きながらへて」の意味は、「やっぱりどうしても自殺はできない」という意味になります。後の俊子の手記のタイトルは「思い出の椿は紅し」ですが恐らくこの歌から取られたものでしょう。

 
 

73.血を流し南無妙法蓮華経くるほしく唱へまつらば慰むらむか
  白秋は三浦三崎から東京に帰った後、手紙書きに没頭し、ほとんど作品を作っていません。作品に集中するという精神状態ではありません。彼の創作活動が始まるのは、1913年の5月、一家を上げて三浦三崎に移転してからのことです。
  そうはいっても、雑誌「朱欒」に何首か、おそらくこの時期の作品と思われるものが載せられています。拾ってみましょう。「悲しくも心かたむけいつとなくながれのきしをたどるなりけり」。こころなしか、歌の響きにいまいち精彩がなく、これまでの白秋にしては作りが単純すぎるように思えます。
  1月づけの俊子宛の手紙に「今日も病院へ行つて、夕方からとぼとぼあの木挽町の河岸をあるいて帰つてきた、あなたとよく夜歩いたつけ、あの頃はあなたも僕も風船玉で、今から考へると軽薄だつた。・・」。

 すでにお気づきのように、この手紙は候文ではありません。末尾に「怖がらなくていいさ、僕はお前に惚れてゐるんだもの、バカだね。」。すっかり弱気になっている白秋です。
  3月の手紙に、白秋はこのように書いています。「世の中も恋人も名も芸術も棄てて了はうと思つた私に、今さらお前は何を訴へる。/お前を突き殺したとて何にならう、私はたつた一人、ひとりぽつちで、さびしい道を歩むつもりでゐた。/お前は私がいぢめるといふが、誰がかよわいお前をいぢめる、みんなお前の心から、而して私の心から、二人が二人悲しい思をするやうなハメに堕ちてゆくのだ。もう何にも云つておくれでない。私は胸がはりさけさうだ。」。
  「血を流し南無法蓮華経くるほしく唱へまつらば慰むらむか」とは、このような心境の中から生れた歌ではないでしょうか。

 白秋はこのとき何を悩んでいたのでしょうか。そのひとつは彼女の病気です。「君病むと風のたよりにききしなりいかでかおのれ嘆かざらめや」という歌もあります。
  手紙にも「もう何も言はないがいい、お前は安心して養生をおし、私はどうにでもして薬代位はみついであげ度い、それが男の役だとは思ふが、金に縁のない私、不甲斐ない詩人の気楽さが耻かしい。」といっています。
  もうひとつの悩み、それは彼女の職業上発生しうる不貞です。彼女は外国人を相手とする酒場で働いています。もちろん彼女はさかんに否定しているのですが、置かれている環境と、彼女の容貌、性格などからして、彼女が潔白でいるはずはないと白秋は疑っており、その疑念からどうしても開放されないのです。

 
 

74.君見じと曾て誓ひき君もしか泣きて誓ひき偽りにけり
  資料「生誕百年記念、近代日本の詩聖北原白秋」によると、「大正二年四月、夫にも離別されまた胸を病んで身を持ち崩していた俊子と偶然再会し、・・」と書かれていますが、手紙から判断すると白秋は2月はじめごろから俊子に会っています。
  2月14日づけの手紙に「今度ほどいい気持で別れた事はなかつた。さうして何となく心がうちとけて、さつぱりしてゐて、それでなつかしみがあつて、――私たちの仲はもうすつかり生優しい恋人同志の浮いた心でなしに、かげになり日向になり、互の身のためによかれかしとまるで夫婦のやうなぢみなそれでゐて温かい愛情の中に溶け込んで了つてきた、・・」とあります。これは明らかに2人が会った証拠です。
  私としては文脈の落ち着きぶりからして、2〜3度目の邂逅ではないかと思います。昨年の手紙では「もう2人は会うまい」と誓っているわけですから、その誓いは早くも破られているわけですね。「君見じと曾て誓ひき君もしか」というのは、「君にもう会わないと誓った。君も誓った」ということです。ところが「偽りにけり」です。困ったものです。

 2人がどこでどんなふうに会っていたのか、それは分かりません。ただしこんな手紙が残されています。「お前の手紙を見て、かはいさうになつたから、も一度かほを見せに来た。今伊勢崎町のオデオン座の壱等席で待つてゐる。/「二時間ほどは待つてゐる」/もし、お前がこの手紙を見るのがおそかつたら、港屋の方へ来ておくれ、/松蔦がゐるぜ/ハローハワユ リリさんのにせオデルより」。ここでは白秋はだいぶご機嫌です。
  ところが、このような気分は長く続きません。3月に入ると白秋の手紙は「お前の考はどこまでも薄情で不実で、負惜しみで、つくづく愛憎がつきました。もうもう半分以上愛憎がつきました。お前のやうな人を頼りにして、芸術界に打つて出やうとすればするほど私は耻をかきます。手をたたいてキット今に笑はれます、さう思ふと憎くて憎くて突き殺したくもなる、・・」となります。

 「吾妹子よ世にただひとり信(まこと)ある男の心けふ破(や)れむとす」。愛するがゆえに憎み、憎み切れずに懊悩する、こんな毎日だったのですね。
  そしてついに白秋は、俊子と横浜本牧に隠れ家を持ち、そこを拠点としてひんぱんに会うようになります。「・・それから鍵が銀貨入になし、一応お探し・・被下度候 あれがなくては秘密のひきだし開けられず。・・留守中の日記したため置なさるべし、・・あかんぼのとし子さん。」。これは隠れ家の彼女宛の手紙です。

 
   
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