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第7章 新生への模索

75.恍惚とよろめきわたるわだつうみの鱗(いろこ)の宮のほとりにぞ居る
  この歌は白秋とその一家が5月に三浦三崎に越してきて、借りた家で歌った歌です。一見すると単なる家のロケーションの説明のように見えますが、気分的にすっかり自分自身をとり戻し、一新した、安定した精神状態にあることが分かります。
  白秋と俊子はついに結婚しました。そしてこの家に父母弟妹と同居しています。この間の事情を、白秋はパリで絵を勉強している山本鼎宛に次のように書き送りました。
  「驚き給ふな、今僕等二人は僕の両親弟妹とともに、相州の三崎に家を持つてゐる。僕と彼との同棲、これはほとんど奇跡とおもはれる位、僕にも不思議におもへる、親たちから彼を是非同棲せしめよと云はれた時、僕はほとんど口にいふ事が出来ない位驚駭にうたれた。ここへ越したのは世間を一時憚るのと、病気の療養を主にした事である」。

 しかしここに一つ問題がありました。資料「生誕百年記念、近代日本の詩聖北原白秋」によると「五月、白秋と俊子は正式に結婚」と書いてあるのですが、この6月17日づけの手紙には「実はまだ、離縁になつて、金も入れてはあるが、夫たる人が、卑劣から、まだ籍をかへさない。」と書いているのです。
  「入籍」せずに「正式に結婚」ができたのかどうか私は分かりません。いずれにしても俊子は両親、弟妹からは白秋の妻として認知され、共同生活を開始したのですが、まだ法律的な問題はクリアされていませんでした。

 白秋が借りた家はこの地方では「異人館」と呼ばれ、もと外国人がその妾のために改造した家だったということです。なにやら「黒船」の舞台を思わせるようなところですね。いずれにしてもなかなかおしゃれで快適な住いだったようです。
  現在では取りこわされて、場所が確認されるだけです。白秋は大変ここが気に入りました。南向きの縁からすぐに海が広がり、左手に通り矢の小さな突端、そしてはるか先には城ケ島を臨むことができます。この海を見ながら白秋は、やがて「城ケ島の雨」の詩を作るわけですね。
  「鱗(いろこ)の宮のほとり」とあるのは、この家の近くの向ガ崎の龍宮の祠のことを指しています。「恍惚とよろめきわたる」というのは、海の波がうねうねとくねっているありさまを描いているわけですが、「よろめきわたる」という表現の中に、激動の精神状態から脱出した後の、船酔いの名残りのようなフィーリングが感じられますね。
白秋はここにきてはじめて解放感を味わいました。「水あさぎ空ひろびろし吾が父よここは牢獄にあらざりにけり」「深みどり海はろばろし吾が母よここは牢獄にあらざりにけり」。

 

76.ほがらかに天に辷りあがる不盡(ふじ)の山われを忘れてわがふり仰ぐ
  6月、白秋は志賀直哉へのハガキで三崎の新居を自慢しています。またその後の彼の生活ぶりの一端を伝えています。
  「先月この絵の青き線の上の家に転居仕候 家探しの巧妙さをおほめ被下度候 その家はもと仏蘭人の別荘なりし故一寸異国趣味に候 このせつは非常に元気にて毎日毎日ボート漕ぎにていそがしく新聞も雑誌もよまず、ただ自己独自の生活に閑なし、ただのんきになつてしまひ申候」
  彼は都会を離れ、すっかり土地の自然が気に入りました。そして積極的に土地の自然と同化しようとつとめていたようです。いずれにしても元気になってよかった、よかった。
  三浦三崎では、どこからでも富士山を見ることができます。白秋は、まずこの富士山にびっくりしました。そして「われを忘れてわがふり仰ぐ」と歌いました。ついで彼は、地元の人が富士山にまったく注意を払わないということにびっくりしました。

 「相模のや三浦三崎は誰びとも不盡(ふじ)を忘れて仰がぬところ」と歌いました。
  もっと後になって白秋はこのように歌うようになります。「蒼天(あおぞら)を見て驚かぬ賢(さか)しびと見ておどろけやいにしへのごと」。要するに「君たちは、この美しい青空を見て感動しないのか」、といって現代人を責めているわけですが、同じことをこの富士山についても思ったに違いありません。けれど「誰びとも不盡(ふじ)を忘れて仰がぬところ」という表現には、まだ土地の人々に遠慮したおずおずとした響きがありますね。
  白秋は富士山がもっとも美しく見えるところを探して歩きました。そしてついにそのポイントが海の上にあることを発見しました。白秋は両親に「海のあのへんに出てみると富士山がすごくきれいなんですよ」とかなんとかいったのではないでしょうか。
  彼は小さな漁船を借りて父母を乗せました。「不尽見ると父母(かぞいろ)のせてかつをぶね大きなる櫓をわが押しにけり」。

 この風景は志賀直哉へのハガキの、「毎日毎日ボート漕ぎにていそがしく」という文面に対応しますね。大きな櫓を自分で押したといっていますが、いきなり素人が船を漕ぐのは難しいですよね。おそらく白秋は郷里の水郷柳河でボート漕ぎの経験があったのでしょう。ですからこのときも、実際に自分で船を漕いだものと思われます。
  このように白秋は、都会を逃れ、人間の社会を逃れて、自然の美しさを讃美し、自然の中で心の傷をいやしていたのです。そしてそれは同時に自然をさらに間近で観察するすばらしい機会ともなりました。

 
 

77.かき抱けば本望安堵の笑ひごゑ立てて目つぶるわが妻なれば
  俊子と両親、そして弟妹との共同生活が始まりました。この新居には離れがあったようで、白秋と俊子は別棟で寝起きすることができました。家では家族の目がありますから多少の遠慮があります。この歌は、白秋が俊子を連れて散歩に出て、人目のないところで彼女を抱きしめたということを歌っているわけですね。いかにも幸福感あふれる瞬間です。    
「ある時は誰知るまいと思ひのほか人が山から此方(こちら)向いてゐる」というような歌も、このような瞬間に出てきたのかもしれませんね。しかしこの歌もよく読むと、かならずしも手放しの幸福感だけを歌っているようには見えません。「本望安堵」と彼女は思っているのですが、白秋にはまだたくさんの課題が残されています。

 たとえば彼女の入籍問題、生活の手段、次の創作展開など。白秋が自然の中で遊ぶといってもただボーッとしているわけではありません。「世間を追われた」という意識が白秋にはありますが、すでに仕事を通し作品を通し、白秋は何千何万という社会の人々につながっています。その気持ちが「私は芸術に生きなければならない」という言葉になります。これはビジネスマンが「仕事をしなくちゃ」というのとどこも変わりません。
  白秋にしてみれば、自分にこれほどの苦労をさせた俊子が、かわいくもあれば恨めしくも、憎くもあります。ですから恋女房を得たという喜びと裏腹に、払った犠牲の大きさを思わずにはいられません。
  そこで「笑ひごゑ立てて目つぶるわが妻」を見ると、「よかったなあ」という幸福感と「いい気なもんだ」という彼女への皮肉な評価がないまぜになります。その微妙なニュアンスが「わが妻なれば」という、どこか割り切れない表現となって残るのです。

 「俊子は『本望安堵』と思い、『すべて終った』と思っているが、本当はまだ終ってない」ことを暗示するこの歌は、やがてもっと現実のものになり、次の波乱へと結びついてゆきます。この後七月に入ると俊子はいったん、三崎の家を離れ、白秋の実妹いえ子を伴って実家の伊賀に帰りました。なぜ俊子はこの時期、実家に帰ったのでしょうか。
  これは私の推定ですが、まず俊子の、松下籍を抜く交渉を確実に進めるため、弟の就職情報を得るため、それにいえ子を実家の行儀見習として連れてゆくためなど、複数の目的があったと思われます。いえ子の件については、白秋一家の食いぶちをへらす目的と、いえ子自身の嫁入り前の修行の目的があったと思われますが、それ以上に俊子が、自分の世話をやいてくれる「おとも」が欲しかったためではないかと思われます。

 
 

78.一羽立ち二羽立ち三羽立ち四羽五羽立ち大鴉の群立ちにけるかも
  白秋は「桐の花」に続く第二歌集としてこの「雲母集」を出しました。「桐の花」が青春の抒情から俊子との恋愛、そして姦通事件にいたる一連の「恋の歌集」であるとすればこの「雲母集」は、自然の中で精神の養生と再生をはかってゆく「新生の歌集」ということができます。白秋自身そのことを意識していました。
  彼は「桐の花」時代の耽美的な甘さを捨て、対象を観察し、現実をざっくりとけれんみなく歌うことを心がけたように思われます。白秋はこのあと「雀の卵」という歌集を作ります。「雀の卵」を契機として白秋の歌風は、早くいえば「わび」「さび」の方向に変わります。「雲母集」は白秋の美意識のターニング・ポイントに当たります。

 白秋の「新生」への意気込みは、「新生・序歌」のサブタイトルにも示されています。「力」「卵」「大鴉」「犬」「魚介三品」「穴」「薔薇」「雲」というサブタイトルを見ると、三崎で白秋は自然のエネルギーと正面からぶつかろうとしていることがお分かりでしょう。「大鴉」の歌はこの中の七首からなるシリーズです。
  「一羽立ち二羽立ち三羽立ち・・」の歌は、海岸に休んでいたカラスが順に、そして一斉に飛び立つありさまを、映像的なダイナミズムとともに表現した秀作です。カラスが傍若無人に、バサバサと羽ばたく音が、私たちにも聞こえてくるようではありませんか。ここに見られるような美意識は、「桐の花」にはまったく見られなかったものであることにご注意ください。白秋の中で何かが変わっていったのです。

この「大鴉」の7首のシリーズは、どれもつぶぞろいで全部ご紹介したくなってしまいますが、最後の歌「大空の下(もと)にしまし伏したり病鴉(やみがらす)生きて飛び立つ最後に一羽」をご紹介したいと思います。おそらくこの大鴉の群れの中には、一羽だけ病気のカラス、あるいは傷ついたカラスがいたようですね。
  公園などでもよく見ると、片足をなくしたり、指をなくしたハトが多いことに驚かされます。人間でも病人がいるのですから、不健康なカラスが一羽ぐらいいても不思議はないのですが、白秋はこれをまるで傷ついた自分自身の似姿のように思ったのでしょう。
  「あのカラスはもう仲間と一緒に飛び立てないだろう」と思ってみていると、これが必死に力をふりしぼって、最後に飛び立つのですね。白秋はここに生命のしぶとさを見ました。大鴉なんてあまりかわいくもない鳥ですが、このカラスが白秋をいくぶんでも勇気づけたことはまちがいありません。

 
 

79.鱶(ふかざめ)は大地の上は歩かねばただにごろりところがされにけり
  三崎は漁村ですから、白秋の作品にはいろいろな魚が登場します。ここに出てくるのはサメです。大きなサメがごろっと投げ出されてたのを見て、白秋はびっくりしました。
  この歌を読むと私はすぐに、ボードレールの「信天翁(おきのたいふ)」、それに佐藤春夫の「天馬行」を思い出します。ボードレールの「信天翁」というのは、ぞくにアホウドリと呼ばれている巨大な鳥のことです。
  ボードレールの詩は、水夫たちが退屈しのぎに船の回りを飛んでいるアホウドリを捕まえて甲板につなぎ、鳥をつついてからかうというものです。空の帝王アホウドリも、甲板の上では足はふらふら、大きな翼もかえって邪魔になってぶざまです。ボードレールは、世事にまみれている詩人も、このアホウドリのようなものではないかというのです。
  「・・雲居の君のこのさまよ、世の歌人に似たらずや、/暴風雨を笑ひ、風凌ぎ、狩男の弓をあざみしも、/土の下界にやらはれて、勢子の叫に煩へば、/太しき双の羽根さへも起居妨ぐ足まとひ。」。

 佐藤春夫の「天馬行」は、このボードレールの作品にヒントを得て作られたものです。佐藤春夫はベガサスのような、背中に翼のある馬を想定しました。そしてこの馬が下界で似つかわしくない仕事をさせられておのが運命を嘆くという設定にしています。
  「・・詩人が輿を運ぶ身は/せめてをとめを乗せましを/米塩重くつけられて/彩雲蹴りし蹄もて/砂漠の道脚たゆく/塵土を踏む運命かな/土偶の馬や死馬の骨/それさへ賞ずる人の世も/天馬に用はなかりけり・・」。
  いつの世も、プロの詩人として生きるということは難しいのですね。天駆けるすばらしいイマジネーション、目もあやなすばらしい修辞、これらはなるほど後の世の定評を得れば結構なことです。ところが生きている間に定評を得て、作品を収入に代えて生きるということは、本当に難しいのです。

 じつは白秋は三浦三崎に来て、出版社との意見の対立から最後の、唯一の定期収入源である「朱欒」編集の仕事を断ってしまいました。彼は編集者として月収40円をもらっていたのですがこれで無収入になりました。けれど彼に何ができるでしょうか。
「鱶」はこの場合、ボードレールのアホウドリ、あるいは春夫の「天馬」です。しかし海の帝王であるサメも地上を歩くことはできません。「ただにごろりところがされにけり」。地上のサメは白秋自身なのでした。

 
 

80.生きの身の吾が身いとしみしくしくに腐れ鮑(あはび)を天日にぞ干す
  この歌は、初版稿では「生きの身の吾が身いとしみしくしくと腐れ鮑を日に干しにけり」となっています。
  白秋にとっては、歌は作ってそれで終わりというようなものではありません。彼は自分の作った歌をいつまでもよく覚えていたようです。彼は自分の歌にどこまでも手を入れ、可能な限りブラッシアップし続けます。いうなれば永久メインテナンスのシステムです。
  「生きの身の吾が身いとしみ」というのは、生活苦の中で、自分の生命原理を改めて意識しているということですね。「しくしく」というのは生乾きの、悪臭を放つあわびからまだ少し液がにじみだしている様子を伝えていますね。

 もと歌の「しくしくと」というのは「干しにけり」の方にかかる表現ですが、改作の方では「しくしくに」となり、明らかにあわびの状態を説明しています。と同時に、あわびの生乾きの状態と、生に執着する自分自身の状態が重ねあわされていますね。
  また「日に干しにけり」というのは動作の説明ですが「天日にぞ干す」は、照りつける太陽と生乾きのあわびのコントラストが一段と鮮やかですね。これは改作の方が数段優れた歌になっていると私は思います。
  三浦三崎では、海女によるあわびの裸潜水の漁法が盛んだったそうです。そこで白秋は海岸にすっ裸で寝ている海女の姿を見ることもありました。「城ケ島の女子うららに裸となり見れば陰出しよく寝たるかも」などという歌があります。ものに動じない三崎の海女の気性と自然ののどかさが感じられていいですね。

 白秋は自分でも海に入って、泳いだり、魚を突いたりしました。「躍り入り抜手切れどもここの海の渦巻く潮(うしほ)の力深しも」と、潮の強さに感心したり、「躍り入りひとり泳げばしみじみと寂しき魚の臍突きに来ぬ」と歌ったりしました。
  このあわびの歌が含まれている「生きの身」の歌は、五首からなるシリーズになっています。はじめの一首は「牛乳」、二首目が「鯛を釣る歌」、三首目は「青豌豆」、四首目「パンとバラの花」、そしてこの「腐れ鮑」と、いずれも食べ物に関連しています。
  四首目の歌がちょっといいですよ。「パンを買ひ紅薔薇もらひたり爽やかなるかも両手に持てば」。なんかほっとしますね。いずれにしても、ここには生きのびようとする意欲、自給自足的な生活のにおいが強く感じられます。こうして白秋一家のサバイバルの試みが始まりました。

 
 

81.しんしんと寂しき心起りたり山にゆかめとわれ山に来ぬ
  白秋はさびしくなって山にやって来ました。この歌は「狐のかみそり」という、九首からなるシリーズの冒頭の歌です。「狐のかみそり」というのは、ヒガンバナの一種で、スッと立っているところは通常のヒガンバナと一緒ですが、花のイメージは水仙に近いですね。「狐のかみそり」というすごい名前はその毒性から来ているのでしょうか。白秋も注として「馬この花を食らへば死す」と書いています。その上で「毒ある赤き狐のかみそりは悲しき馬に食ましてかな」と歌っています。
  ずいぶんひどい話じゃありませんか。馬が食ったら死ぬと書いておいて、「悲しい馬に食わせたい」などといっているのですからね。もっとも「悲しい馬」などというものがいるかどうか分かりませんが。白秋としては、おそらく「自分がもしも馬だったら、悲しいと思ったとき、ここに来てこの花を食うかもしれないな」と思ったのでしょうね。

 いわゆるヒガンバナは、東京地方ではきっちり秋の彼岸時期に咲きますね。狐のかみそりが、温暖な三浦三崎にいつ咲くのか分かりませんが、じつは7月半ば過ぎ俊子はいえ子と実家に帰っています。白秋が寂寥を感じて山に来た理由のひとつでしょう。
  白秋が7月23日に俊子宛に出した手紙には「・・お前様がゐなくなりて家内平和なりと思はれても困る故時々はそらごとのかんしやくも起し居候。これも皆お前様我まま故の気がねなり以後少々おたしなみ可被成候」とあります。
  これ、おかしいですが、意味するところはなかなか深刻です。「お前がいなくなったので家庭が平和になったなどといわれると困るから」といっているということは、俊子は家族とうまくいっていないのです。間に入った白秋が気を使っているのですね。

 8月に入ると俊子が何か向こうで失敗をやったようですね。白秋は次のように書き送っています。「おまへがあまり軽率で考へなしのおかげで御父上にまで御気の毒せねばならぬ、・・世間の事はなかなか複雑なもので、単純に考へて無邪気にやつてのけるとあとで大変困る事になる。」。また次の手紙では「お前もたわいが無いね、どうして何時までもそんなだらうと思ふとなさけなくなる。・・」という具合。
  「狐のかみそりしんしんと赤し然れどもかたまりて咲けば憤ほろしも」。まるで俊子を花に見立てて怒っているようですね。「淫らにして恒心なきもの実に寂しそこにもここにも狐のかみそり」。みだらで心がいつも安定していないもの、それは何を指しているのでしょうか。花のことでしょうか。俊子のことでしょうか。

 
 

82.あなあはれ人間闇の海にゐて漁火(いさりび)を焚くその火赤しも
  白秋たちの住んでいるところからは海が見えます。夜になると海の方向は真っ暗ですが沖のほうに点々と赤い漁火が見えます。これは地元の漁師たちのイカ釣り舟の灯です。白秋は人がいるはずのない暗闇の海に、人がいる証拠を見て痛々しい感動を覚えました。
  「あなあはれ人間闇の海にゐて」というのは、目の前に見える海とそこで働いている漁師たちのことですが、この「人間」、そして「闇」という言葉に、もっと普遍的な意味があることはたしかです。私たちはだれもが先の見えない暗闇の中にいます。だれもが心細く、不安でたまりません。その闇の中で、私たちはかすかな光の信号を出しながら生き続けようとしています。

 私はこの歌をよむと、人類が生れるずっと以前に、深海に漂っていた無数の原始の生き物、単細胞の生命体、あるいはプランクトンのような、クラゲのような水中生物を想像します。それらのたよりない生命は、生れたときから孤独の中に投げ出され、だれと話しあうこともなく、相談することなく、ただひたすら生きるためだけに浮遊しています。
  生命体のいくつかは餌を取るために周期的に発光します。その自己完結的な、絶対的な孤立。私たちはあの原初のライフスタイルからどのくらい変化し、あれからどれくらいへだたっているのでしょうか。
  白秋は家族と一緒に暮し、恋する女と結婚したにもかかわらず孤独感を深めていました。「ある時はおのが家内(やうち)を盗人のごとく足音(あのと)をぬすみてあるも」。この種の孤独感はかならずしも白秋だけのものではなく、私たちもしばしば経験するものです。しかし彼の孤独感はさらに原初的なところに進みました。

 「赤障子戸ぴつたりと閉め音もなしそこに生物(いきもの)われひそみ居つ」。赤障子とは、赤い紙で張った障子のことでしょうか。「異人館」と呼ばれている住宅だったそうですから、赤紙の障子はありえますね。
「赤障子戸ぴつたりと閉め」とありますが、白秋は障子を勢いよく閉めたのでしょうか、
それとも静かに閉めたのでしょうか。そうですね。静かに、音を立てないように、しかしすきまを作らないように閉めたのですね。
  白秋はこの障子から離れませんでしたね。まるで立ち聞きをする人のようにそこに貼りついたのですね。ここで白秋は自分のことを「いきもの」といっています。彼は自分を虫のような、あるいは、けもののような存在だと感じたのです。こうした瞬間に、私たちは私たちが人間以前のものであった太古の記憶をたぐっているのかもしれません。

 
 

83.城ケ島の燈明台にぶん廻す落日(いりひ)避雷針に貫(ぬ)かれけるかも
  この歌は城ケ島の灯台に落日の太陽がかかって、ちょうど避雷針が太陽をつらぬいているように見えるという意味の歌ですね。いまでもこの灯台を三崎のほうから同じ角度で見ることができますが、太陽が沈む位置は毎日少しずつ変わりますから、八月ごろの太陽を基準にすれば、白秋がこの時に立っていた位置を推定することができます。
  この歌の心ですが、単なる落日の美しさと、偶然のデザイン的な面白さだけをよんだものでないことはたしかです。灯台にかかっている太陽をなぜ「ぶん廻す」といっているのでしょうか。何が何を「ぶん廻」しているのでしょうか。

 「ぶん廻す」というのは、歌舞伎で舞台を廻すときにト書きに指定される書き方の一つです。強烈な、ほとんど暴力的とも思える夏の太陽が、西の地平に円周を描いて傾いていることが分かります。
  そして地球を回って太陽が沈むのか、横暴な太陽に振り回された地球が反転するところなのか判然としないといった印象、これらが大きな舞台装置が回転するというような意味で、「ぶん廻す」というレトリックを生んだのではないかと思います。
  「ぶん廻す」という表現と、「避雷針に貫かれける」という表現の中に何か暴力的衝動を感じますね。それは白秋自身の中に破壊的なエネルギーが蓄積されていたことを暗示します。先のとがった槍のようなもので、太陽の真ん中を突き刺したい、といっているようにも聞こえます。
  こうした破壊的な衝動は、このあとの「深夜」と名づけられた短歌「憤怒(いきどほり)抑へかぬれば夜おそく起きてすぱりと切る鮪(まぐろ)かも」にきわめてよく表現されています。夜中に起きて、台所のマグロに切りつけるというのは、はたから見ていたら滑稽ですが、これも精神的な危機であることは間違いありません。

 白秋が何に怒っていたのかは分かりません。俊子のことが気になり、始終アタマに来ていたことだけはたしかです。たとえば8月半ばの俊子宛の手紙に、「その後一度の消息無きは多忙か病気か、それとも女だてらに反抗なさるつもりか、反抗するならば思ひ切つて徹底する迄戦はるべし。」などと、はなはだ威嚇的な調子のものがあります。
  俊子のきまぐれなふるまい、なかなか片づかない入籍問題のほかにも、生活費の悩み、父の債務にからむ裁判所の督促など、白秋にはむしゃくしゃすることがたくさんあったと思われます。彼は夜中にむっくり起き出して包丁を手にしました。けれどエイヤッと切りつけたのが台所のマグロだったのはまだしも幸いでした。

 
 

84.豚小屋に呷きころがる豚のかずいつくしきかもみな生けりけり
  「泥豚」のシリーズには十九首もの歌がおさめられています。農家の豚小屋を見て、その印象がよほど強烈だったのでしょう。「泥豚」という豚の種類があるのかどうか分かりませんが、おそらく泥の中を転げ回っていたので、白秋がそのように名づけたのか、あるいは土地の人がそう呼んでいたのでしょう。
  「泥豚」といわずとも、「豚小屋」といっただけでも私たちは相当汚いイメージを思い浮べてしまいますが、本当はブタは清潔好きで、きれいな環境で育てたほうがいいそうですね。しかし白秋の見た豚小屋は泥まみれの、相当な飼育環境だったようです。「呷きころがる豚のかず」といっているところを見ますと、かなりの頭数がいたことが分かります。
  「いつくしきかも」は、字義通り取れば「美しい」となりますが、私は「慈し」というニュアンスを含めて、「カッワいい」というように解釈したいと思います。彼はキュウキュウいいながら集合し、泥の中をはいずり回っているこの豚の眷族に、自分たち一家、そして人間の集団全体との相似性を発見しました。

 「豚小屋の上の棕櫚(しゅろ)の木の裂葉(さきは)より日は八方に輝きにけれ」。太陽の光は、棕櫚の、放射状の葉にかかって、そこから神々しい光が八方に分散しているように見えます。地上には自分の汚物にまみれた動物がいます。天と地の鮮やかなコントラストです。
  白秋は豚のいびきにも感心しました。「いぎたなき豚のいびきのともすれば零妙音に歌ふなりけり」。はじめは「なんだこれは」「ひどい音だ」などと思ったのですが、これがしばらく聞いているうちに「妙なる音楽のようだ」と思えてくるのだから不思議ですね。
「棕櫚の木のしみ輝る下(した)に家畜(けもの)あはれ命やるせなくいまつるみたり」。ブタが交尾をしました。その瞬間を、白秋は「命やるせなく」と歌いました。
生物の雌雄が分かれてから、固体保存のためにくりかえされてきたこのDNAの戦略、固体には制御できない強い衝動、衝動が命じるままに行動しなければならない生き物。人間も決して例外ではないのです。

 ブタは人間とちがって理屈や風習をいいません。むきだしの本質がそこにあります。しかし私たちはこの本質に対して虚心でいることはできません。超越的な力が私たちを駆り立てるからこそ「やるせない」のであり、そこに人間的な感情がからむから「やるせなく」なるのです。まもなく1頭立ちあがり、また1頭立ちました。「寂しきか豚は豚どちしみじみと入日に起きて尿(しし)放ちたり」。

 
 

85.目を開けてつくづく見れば薔薇の木に薔薇が真紅に咲いてけるかも
  白秋はバラの花をつくづく見て、「バラの木にバラの花が咲いている。不思議だなあ」と思いました。もっともバラの木にバラが咲いても別に不思議はありませんよね。そこで「薔薇の木に薔薇の花咲くあなかしこ何の不思議もないけれどなも」といいました。
  もっともこの歌は後で「薔薇の木に薔薇の花咲くあな愛(かな)し何の不思議もおもほえねども」と改作されました。もちろん改作の歌のほうが格調が高くなって、ずっとよくなっていますが、もと歌のほうの「あなかしこ」とか「なも」などという言葉づかいが、白秋の上機嫌な、リラックスした感じをよく伝えています。

 白秋は生来楽しい人だったようです。冗談をいって人を笑わせたり、子供のような無邪気なしぐさやいたずらで周囲の人々を驚かせたといった逸話がたくさん残っています。同じ頃の歌に、「何ぢやとてそげなそしらぬふりをする急須こち向け日も暮るるぞよ」というのがあります。お茶のきゅうすの底が濡れていて、何かのひょうしにくるっと向こう向きになったのですね。こんな瞬間に白秋の童心が九州弁を伴って口をついて出ます。
  バラの木にバラの花が咲くのは、遺伝子の働きによるものだといってしまえばミもフタもありませんが、これを見て不思議に思ったり、生物の営みの背後にある法則や力を思ったりする心は神学的探究心であり、同時に科学的探究心の発露です。

 コントは「科学のふるさとは神学である」といっています。白秋は薔薇を見て根源的な関心を持ちました。もっとも白秋の関心は科学的な探究には進みませんでした。彼はこのあと、次第に仏教的な思想にひかれるようになります。
  この三浦三崎には、白秋に思想的影響を与えた重要な知識人がひとりいました。その人の名は公田連太郎、真福寺の住職でした。そのむかし白秋を三浦三崎に遊びに来るように誘ったのは、この人だったようです。この年の正月に死ぬ覚悟をして三崎にやって来たときも、おそらく公田に一度はあったことでしょう。公田連太郎という人は島根県の人で、漢学と仏教の研究者です。なかなかの人物だったようです。
  白秋は時折真福寺をたずねて、ともに語らったり本を読んだりしました。「ここに来て梁塵秘抄を読むときは金色光のさす心地する」。仏教に帰依するという気持ちはないまでも宗教的なものの見方、考え方に、詩人として触発されるところがあったのではないでしょうか。そしてバラの木がバラの花を咲かせるように、詩人である彼は思索しつつ美しい歌を作っていったのです。

 
 

86.樹はまさしく千手観音菩薩なり西金色の秋の夕ぐれ
  この時期、白秋は何を見てもそこに「仏がいる」というイメージを持ちました。秋の夕日を浴びて立っている大きな木を見ると、その枝ぶりはまるで千手観音のように見えました。また遠くの道を通ってゆく巡礼の人を見ると「虔ましき金の歩みやつづくらむ親鸞上人野を行かす見ゆ」と歌いました。
  また漁師が上げる網の目が、日の光にきらきら光るのを見て、その網の目ごとに「仏がいる」と思いました。「網の目に閻浮檀金(えんぶだごん)の仏ゐて光りかがやく秋の夕ぐれ」。「閻浮檀金」というのは、仏典に見える閻浮樹という木の生えているところを流れている川の、川底から取れる砂金のことだそうです。

 この頃の白秋の詩集に「白金之独楽」という作品がありますが、ここでは仏教的なイメージがより鮮明に表現されています。この詩集は平仮名の代わりに片仮名が用いられています。「感涙ナガレ、身ハ仏(ホトケ)、/独楽ハ廻レリ、指先ニ。/カガヤク指ハ天ヲ指シ、/極マル独楽ハ目ニ見ヱズ。/円転、無念夢想界、/白金(ハッキン)ノ独楽音(ネ)モ澄ミワタル」。
  これだけ見ると、白秋がいかにも精神的に解脱したかのように見えますが、かならずしもそうではありません。
  「白金之独楽」を読むと、白秋の煩悩がより尖鋭的な形で示されているように見える部分もあります。「御足(オミアシ)ヲ吸ハセタマヘト/帰命頂礼サレタレバ。/女来テ吸ウタレバ、/タマラズ、ワレハヲノノキヌ。/アハレミタマヘ、御仏ヨ/ワレハ滴(オト)シヌ、人間ノ精ノシヅクヲ。」などという、それこそかなり思い切った表現に挑戦している作品もあります。

 ご紹介したバラの木の作品も、この詩集でほぼ同じ口調で詩として歌われています。「薔薇ノ木ニ/薔薇ノ花サク。/ナニゴトノ不思議ナケレド。/薔薇ノ花。/ナニゴトノ不思議ナケレド/照リ極マレバ木ヨリコボルル。/光リコボルル。」。
  あの超頽廃的で有名な「コロガセ、コロガセ、ビイル樽、/赤イ落日(イリヒ)ノナダラ坂、・・」の詩も、この詩集の中の1編です。
  樹木の枝に千手観音を見、漁網の目にさえ仏の姿を見た白秋は、一方では悟り切れない自分、女に執着し、半ば自暴自棄になった自分を見ていました。その感情を白秋は「白金之独楽」のあとがきで「・・悦シキカ、苦シキカ、タダ悶々(モダモダ)ナリ」と記しています。仏の思想に親しむことは「悦シキ」ことですが、現実の自分を知ることは「苦シキ」ことです。そこで「タダ悶々(モダモダ)ナリ」となります。

 
 

87.人間のこれの夫婦(めをと)はいと寂したんだ黙つて畑うちかへす
  白秋は、付近の農夫が畑仕事をしている様子を見ました。そして、機械的に鍬をふるって畑を掘りかえしている人間の姿を「まるで人形のようだ」と思いました。「赤き日は人形のごとく鍬をうつ悲しき男を照らしつるかも」。
  この農夫が本当に何か悲しんでいたかどうか、そんなことは白秋は知りませんが、機械的に仕事に精を出しているその姿を「悲しい」と思いました。
  このころ白秋の家には大きなパニックが到来していました。白秋が無収入になったことに加えて、弟と父が事業で大失敗してしまったのです。北原家では、長男の白秋に収入がないので弟と父が共同で事業を始めました。三崎の漁師が取った魚を東京方面に売る仲買人の仕事です。ところがなれない仕事はどっちにしてもうまく行かないものです。お人好しの北原父子は、たちまち詐欺にひっかかって債権を横取りされてしまいました。

 こうして北原家としては、最後の財産を無くしてしまったわけですが、こんなとき、白秋は家族として自分勝手な行動を取っていたわけです。突然ふらりと散歩にでかけたり、家にこもって歌をひねったりしているわけですから、白秋の父は大いに怒りました。   
  「隆吉の親不孝奴!」と父は怒鳴りました。「歌詠みなんかやめて俥を曳くなり、石を担ぐなりしたらどうだ」というわけです。毎日の食べ物にも困るような状況になれば、こう言葉が出るのは当然のことですよね。私は父親の意見に同調したいと思います。しかし白秋は文学の道を止めて就職するとはひとこともいいませんでした。
  こんなとき、畑を耕すことに専念している農夫を見て白秋が何を考えたか、想像してみたいと思います。生きることの悲しさではないでしょうか。そして彼は「畑打ち人形」というシリーズを作りました。ここで「人形」というのは、自分の意志にかかわらず機械的な動作を続ける「からくり人形」という意味です。

 「人間のこれの夫婦はいと寂したんだ黙って畑うちかへす」のすぐうしろには、「人間のこれの夫婦はいと寂し時に尻向け畑うちかへす」という歌が続き、この2首はセットになっていることがわかります。畝沿いに仕事をしていると、夫婦が同じ向きで働いていたのが、今度は2人が後ろ向きになったりします。また「時折りに夫婦向きあひ畑をうつ拝む如くに悲しき人形」というのもあります。
  農夫は農夫の仕事をし、詩人は詩人の仕事をしていたわけです。しかしあのような状況で、白秋の家族は彼の仕事をどう理解すればよかったのでしょうか。

 
   
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