トップエッセイ音楽作品アラン経営関連リンク
 
一人百首
 
第8章 真実への巡礼

88.ゆづり葉に西日射すときゆづり葉のかげに巡礼鉦うちにけり
  1913年9月7日、白秋は伊賀の実家の俊子宛に次のような手紙を書きました。「晩餐後の家族会議の模様をお知らせする。鉄雄のいふには、これは思ひきつて決断せねばなるまい、兄さんにはお気の毒だが、いつそ根本から改革して、かうしたらといふのだ。実は父上と母上とおいゑさんとで小ぢんまりに暮らして貰つて、あとは凡て独立する。兄さんも三崎へ居たければここで下宿するか、家を持つといふ風に別れて、各自に働いた方がいい、よく考へるに、両親と兄さん夫婦は到底気が合ひさうにないし、・・」
  弟の鉄雄が家族の中でもっともしっかりした実際家だったようです。この動議によって家族の生活方針が決定し、10月には両親と鉄雄は東京の麻布十番に転居、俊子も念願の離婚届けが取れて帰ってきました。そこで白秋と俊子は、三崎町二町谷(ふたまちや)にある臨済宗の寺、見桃寺に仮寓することになりました。

 鉄雄が指摘しているように、俊子と両親とはまるで合いませんでした。彼女は古い嫁しゅうとの枠組みにはどうしてもおさまらなかったのです。
  三崎の見桃寺には、白秋夫婦が仮寓した書院の部分は現在はもうありませんが、ひっそりとした小さな寺の庭には白秋の自筆になる歌碑が立っています。この歌碑には「寂しさに秋成が書(ふみ)読みさして庭に出でたり白菊の花」とあります。
  「秋成が書」とあり、「白菊の花」とありますので、上田秋成の「雨月物語」の中の「菊花の契り」のことでしょう。この話は、2人の武士が偶然のめぐりあいから兄弟の盟約を交わし、「重陽の節句」の再会を約束して分かれるのですが、一方は旅先で獄死してしまいます。武士どうしの固い契りを守るために、死んだ男は魂魄となって、菊の咲く節句の日に友人を訪ねるという鬼気せまる、それでいて感動的な物語です。

 寺の一隅を住いとした白秋は、家族への気がねなしに愛する女をかたわらにおいてひととき、落ち着いて本を読み、本を閉じて、ゆっくり感動をかみしめるという時間を過ごすことができたのでしょう。
「ゆづり葉に西日射すとき・・」の歌も見桃寺の静かなたたずまいを伝える落ち着いた一首です。「ゆずりは」は大きな葉を持ち、葉柄の部分が赤く、葉柄を上にして、葉の一群がたれさがっているように見える特長のある常緑樹です。おそらく見桃寺の境内に植えられていたのでしょう、巡礼が立ち寄ってはお参りをしている様子がこの樹木の向う側に見え隠れしていたのです。

 

89.何事の物のあはれを感ずらむ大海(だいかい)の前に泣く童あり
  海辺で大声を出して泣いている子供がいます。おそらく近所の悪ガキが親に折檻されて泣いていたのでしょう。人気のない砂浜で声を限りに泣く子供を見て、白秋は共感とカタルシス感を覚えました。
  「桐の花」と同様、歌集「雲母集」にも白秋自身の手になる挿し絵が入っています。「雲母集」には装飾的なカットが見られなくなり、1ページを使っての大きな挿し絵だけになります。「雲母集」には、この「泣く子供」の挿し絵が入っています。
  海岸の向こうに富士山が見え、富士山の右の裾のほうに岬の突端がせりだしています。子供が中央で目にてを当てて泣いているのですが、何とこれがフリチンのカッパです。
  シリーズ中に「この泣くは仏の童子泣くたびにあたまの髪がよく光るかも」という歌がありますので、髪の毛が光ったとき、カッパのお皿に見えたのでしょう。大海の前に投げ出されて夕まぐれ童子わがごとくよく泣けるかも」。白秋自身にも大声で叫んでスッキリしたいという衝動があったのだと思います。

 ところで、ゆずり葉のかげの巡礼に心ひかれた白秋は、この年の11月、「巡礼詩社」という文学主体を設立しました。機関紙は「地上巡礼」。その中で「巡礼詩社」創立のコンセプトを白秋は次のように説明しました。
  「白秋の仏は白秋一人の持仏にして、世の所謂仏にあらず、・・願くば人間として生き、人間として歌ひ、力溢るるばかり己れと己れに驚き、恭敬日夜真に浄罪の悟りに進まむとするこそ大勇者なれ」。
  この詩社創立には、白秋の経済的な復帰の意味も込められています。12月には、白秋は東京で「巡礼詩社」の発会おひろめもしました。この頃「城ケ島の雨」の作詞を頼まれるという一件もあり、次第に文壇に復帰する環境が整ってきつつありました。彼はこの「地上巡礼」のコンセプトで心に傷を持つ詩人としての再起をはかったのですね。

 見桃寺での生活は短いものでした。夫妻は翌1915年2月には見桃寺を出て、三崎の海外と呼ばれる民家をかりて2週間ぐらい過ごしました。白秋たちはこのあと小笠原父島に渡ります。白秋が出ていったあと、貸家の主が来てみると、フスマに墨黒々と「雨は降る降る城ケ島の磯に・・」の、例の歌が大書してありました。家主は怒ってすぐにフスマを張り替えたそうですが、惜しいことをしましたね。これが白秋が三崎を去るに当たっての置き土産でした。海辺で泣いていた子供のように、白秋なりに大声で叫んで見たのでしょうね。

 
 

90.和田の原の波にただよふ椰子の実のはてしも知らぬ旅もするかも
  さて、歌集「雲母集」は終りました。私たちはもう少し白秋のその後の足取りをたどります。「雲母集」についで白秋が出した歌集は、1921年(大正10年)の「雀の卵」という大型歌集です。1921年というと、三浦三崎を離れてから6年後のことです。
  「雀の卵」は白秋が心血を注いで作った歌集です。序文で「たうとう『雀の卵』が完成した。上天に向つて私は感謝する。生きてゐてよかつた。生きてゐてよかつた」と書いています。ずいぶん大袈裟に聞こえますが、白秋が餓死寸前の貧乏と戦いながら、芸術的な良心をつらぬき、推敲に推敲を重ねて作り上げたものですから、本当に「生きていて良かった」と思ったのでしょう。
  「雀の卵」は大きく3部に分かれ、それぞれ「葛飾閑吟集」「輪廻三鈔」「雀の卵」という三つの歌集から成り立っています。時系列に並べ替えると「輪廻三鈔」がもっとも古く、これが「雲母集」に続くものです。
  「輪廻三鈔」の中は「流離鈔」「別離鈔」「発心鈔」の3つに分かれています。私たちはこの「流離鈔」から白秋の足取りを追うことになります。

 フスマに「雨は降る降る・・」の落書きをした白秋は、俊子を連れて小笠原の父島に渡りました。俊子の病気治療が目的です。白秋は俊子のほかにも2人の若い女性を同伴しました。白秋たちの計画を聞いた知人の姉妹が、「私たちも体が弱いので、一緒に連れていっていただけると有難いのですが」ということで同道することになったのです。
  当時は結核に対する効果的な治療法がなく、空気のいいところへの「転地療養」がせめて最良の方法とされていました。白い砂と輝く太陽、そして青空のもとでのんびりすれば俊子の健康は回復するのではないか、と白秋は考えたのです。
  それにまた白秋自身にも南国への憧れがありました。少年時代から藤村の「若菜集」などを愛読していた白秋は、藤村の歌う「椰子の実」を実感してみたかったのではないでしょうか。ちなみに「椰子の実」の歌は、明治34年刊行された「落梅集」におさめられています。流離鈔冒頭の「和田の原の波にただよふ椰子の実のはてしも知らぬ旅もするかも」という歌は、いかにも藤村の「椰子の実」をほうふつとさせますね。
  ところが、このようなロマンチックな憧れを抱いてきた白秋たちを待ち受けていたのは排他的で、都会の病人を恐れる島人の狭量で冷たい反応でした。また非文明的で不衛生な住居環境、それにひどい食事でした。

 
 

91.南海の離れ小嶋の荒磯辺(ありそべ)に我が痩せ痩せてゐきと伝へよ
  白秋たち一行は、男1人に女3人というものですから、島人には相当異様に映ったのではないかと思います。白秋たちは、一応紹介状をもらっていった先の雑貨屋の離れに落ち着きました。しかしゴキブリがいくらでも出てくるようなところですから、女性たちはさぞ難儀をしたものと思われます。
  白秋はのちに「小笠原の夏」という文章の中で「頭がモジヤモジヤするので両手で掻きむしると大きな油虫が二三匹飛び出した。黒蟻までがポロポロこぼれ落ちる。油虫にも弱つて了ふが、蟻から頭の毛に群(むらが)られるくらゐ気味の悪いものは無い。」と書いていますから、相当の環境だったようですね。

 そのうち、「姉妹の着ていた紫色の羽織が島の若者の性欲を刺激するのでけしからん」といって警察に訴えた人があるというのです。これを聞いた女性たちは、宿から一歩も外に出られなくなってしまいました。
  そのうちみんな体が弱いものですから、昼間から枕を並べて寝るような始末です。これには白秋も弱ってしまいました。そこで白秋はまず四月に同行の姉妹を三崎に帰し、俊子と残りましたが、ついで六月には俊子も帰しました。
  白秋自身はどうかというと、島の自然にはどうやらなじんだようですね。すでに三浦三崎の海でさんざん遊びましたし、もともと自然には興味がありましたからね。真っ黒になって魚を捕ったり、タコを突いたりしていたのではないでしょうか。

 「珊瑚寄る嶋の荒磯にいとまなみ昨日も今日も痩せて章魚(たこ)突く」とあります。内地を離れたストレスと、保護者としてのストレス、まずい食事、それに運動量の増加によって白秋はやせてしまったようですね。「いとまなみ」といっているところを見ますと、白秋はタコを食料の一部にしていたように思われます。
  「南海の離れ小嶋の荒磯辺に・・」の歌は、俊子を帰したとき、あるいはその後で作った歌です。どうして白秋だけ1人で残ったのか、そこのところが1つのナゾです。
  もっとも女性たちに帰られてしまうと、さすがに白秋もさびしくなりました。「あるかなく生きて残れば荒磯辺や俊寛ならぬ身は痩せにけり」と、自分を島流しにあって帰れなかった俊寛になぞらえています。また「愛妻(はしづま)を遠く還して離れ嶋に一人残れば生ける心地なし」などと歌っています。おそらく彼は一人になって自由を満喫したかったし、同時にサバイバル実験を楽しみたかったのです。

 
 

92.ひさびさに仰ぎまつれば涙なりこの父母を棄てて遊びき
  1人島に残った白秋には、それなりに収穫がありました。のちに白秋は「地上巡礼」の初号に「父島滞留の半ケ年がどれほど私を赤裸々にし人間らしく大胆に純一に真実にさして呉れたか、それは私の近作を見て下すつたらわかる事と思ふ。」と書いています。
  島では、白秋はとくに「正覚坊」と呼ぶ大きなカメの姿に感銘を受けました。このカメは、動物性蛋白源の少ない当時の島の人々にとって貴重な食材だったのでしょう。島の人々はこのカメを捕まえてひっくりかえしておきます。
  やがてこれを殺すのですが、このときの様子を白秋は「正覚坊虐殺前」という小文に、「正覚坊の殺し方は全く普通(ただ)の殺し方ではない。見るも無惨である。虐殺である。弱いものいぢめの極である。・・」と書いて、島の生活への違和感を示しました。

 白秋は環境に順応して、詩人らしい観察眼で島の風物や人々と接しました。しかししばらくするとさすがに寂しくなりました。とくに帰ってから同居しているはずの俊子と、自分の父母の関係が心配になりました。ご存知のように小笠原は「父島」と「母島」を中心とする島々です。毎日「父」と「母」をどうしても思い出さずにはいられません。
  そこで白秋は「父嶋よ仰ぎ見すれば父恋し母嶋見れば母ぞ恋しき」と歌いました。白秋が父島の南岸に立って歌っていることがお分かりでしょう。
  「父恋し」「母ぞ恋しき」という白秋の感情には、偽善はなかったと私は思います。何だかんだいっても、昔の日本には子供は親には頭が上がらず、親を心から敬愛するという精神的風土があったように思います。

 白秋はにわかに里心がつきます。「帰らなむ父と母とのますところ妻と弟妹(いろと)が睦みあふ家」と考えると、帰心は矢のようです。こうして白秋は七月のはじめ、八丈島経由で本土にたどり着きました。
  「あな愛(かな)しここは日本(やまと)の青ケ島つくづくと聴けば雀子がこゑ」。白秋が「日本に帰ってきた」と驚いて実感したのは、雀の声を聞いたときだったようです。考えてみると、小笠原では雀の声を聞かなかったように思われたのです。
  家にたどり着いた白秋は、「悪かった。自分は勝手にきままに親を捨てて遊びほうけていたんだ」と反省します。この反省をすなおに歌ったのが「ひさびさに仰ぎまつれば涙なり・・」という歌です。彼は島でさびしい思いをした自分をまるで被害者のように思っていたのですが、自分こそ家族に対する加害者だったのです。

 
 

93.青山を枯山になして泣きいざちて泣きおらぶとも我は貧しき
  白秋が家族の団欒にあこがれ、熱い思いを抱きながら帰って見ると、そこには恐ろしい状況が待ち受けていました。お分かりのように父母と俊子の確執です。
  この点について「輪廻三鈔」の序で「大正三年六月、我未だ絶海の離嶋小笠原にあり。妻は曩(さき)に一人家に帰り、すでに父母とよろしからず。七月我更に父母の許(もと)に帰り、またわが妻とよろしからず。・・」と白秋は書いています。
  白秋だけ遊んでいましたからね、そのツケが回ってきたのです。白秋の父母と俊子のいざこざこれについて私は当時の親子関係、嫁姑関係などを考えると、俊子がなかなか頑張り、けなげに自己主張していたのではないかと思います。夫の不在中ですから、たいていの嫁なら自分を殺し、義理の父母のいいなりになっていたに違いありません。ことのよしあしは別として、私は彼女の行動に近代的パワーといったものを感じますね。

 白秋家のトラブルのタネは、何といっても経済です。一家を背負って立つべき白秋が遊んでいるのですからどうしようもありません。
  白秋は同じ序の中で「我は貧し、貧しけれども、我をしてかく貧しからしめしは誰ぞ。」などといっています。白秋にして見れば、姦通事件がなければ自分は詩人として世の中に認められ、それなりに生活できたはずだ、これほど貧乏するようになったのは君のせいではないか、という弁明があります。
  私はこれは白秋の身勝手だと思います。姦通事件は一方だけで起こせるものではありませんから。それに「彼女を救う」などとカッコいいことをいっていますが、白秋だって彼女の魅力から離れられなかったことはたしかなのです。

 そこで「お金を何とかして下さい」「あしたのお米をどうするんですか」というようなことで、家中が大騒動になります。これに対して「天地(あめつち)を泣きくつがへし幾千日泣きひたすとも我は貧しき」というのが白秋の回答であり、「青山を枯山になして泣きいざちて泣きおらぶとも我は貧しき」というのが白秋の回答になります。
この「青山を枯山になして泣きいざちて」という表現は、古事記上巻にあらわれるスサノオノミコトが泣き叫ぶ表現から取られたものです。「速須佐之男命命さしし国を治らさずて、八拳須心前に至るまで啼きいさちき。その泣く状は、青山は枯山如す泣き枯らし、・・」。白秋から見ると、大声で泣き叫んでいる俊子の姿は、太古のむかしスサノオノミコトがワガママをいいはって泣き叫んでいた姿に近いものがあったのです。

 
 

94.今さらに別るといふに恋しさせまり死なば一期と抱きあひにけり
  白秋夫妻の関係もいよいよ破局に近づいてきました。「金は無し」というシリーズで、白秋は「父母の裂けしころものほころびを縫ふ針すらも無きを吾妹(わぎも)よ」と歌います。ぼろぼろの着物を縫う針もないというのは大袈裟な感じもしますが、この通りだったとすれば、北原一家の貧乏もすさまじいものがありますね。
  ここで白秋は、きわめて物理学的な歌を作りました。「金なけば憎し隔(へな)れば恋しちふかかるをかしき事あらめやも」という一首です。遠くにいると恋しいのに、おたがいに近くにいて「金がない」というだけで憎みあうのはどうしたことだろうか、というのですね。
  白秋はこのとき、「恋と憎しみ」という感情が、「距離と金銭」という物理的な条件によって支配されていることに気づいたのです。すなわち恋しさは距離に反比例し、憎しみは貧乏に比例するというニュートン的な公式です。貧乏は相互の近さによって確認されますから、この二つの公式は同時には成立しえないのです。

 「幸福はお金では買えない」というのが定説ですが、お金と憎しみがマイナスの相関関係にあることを彼は発見したようですね。
  恋しさが距離に反比例するということは、事件後の離別、そして小笠原での二カ月間に確認されました。そして貧乏についてはこうです。「ますらをと思へる我や貧しくて命はかけし妻に嗤はる」。俊子は白秋にズケズケいったのですね。「あなたを信頼すればこそついてきたのに、この有様は何ですか」「それでもあなたは男ですか」。ここにはもはや恋はありません。
  「それでは別れよう」ということになります。そこでよまれたのが「今さらに別るといふに恋しさせまり・・」です。ここには、矛盾する例の公式が表現されています。「恋しさせまり」とは、別れた後の距離感を先取りして共感し、もうおたがいに恋しくなっていることを示します。ところが貧乏=憎しみが二人一緒にいることを妨げます。

 この二つの、矛盾する公式を解くカギがアランの中にあります。アランは「下部のものが支え上部のものが照らす」といっています。「下部のもの」とは経済原理です。「上部のもの」とは理性であり、情熱です。
  どんなにすばらしい思想も愛も、経済的な基盤なしに生き続けることはできません。白秋たちはこのとき下部構造を失っていました。貧乏が憎ませるのではありません。愛を保証する生命の基盤がゆらいでいたのです。この危機のときの二人の愛の真実は、「死なば一期」という切ない表現の中に凝縮されています。

 
 

95.垂乳根の父母(おもちち)ゆゑにうつしみの命とたのむ妻を我が離(さ)る
  7月15日、白秋は俊子の母宛に手紙を書きました。この中で彼は「まり子儀未だに人の妻女たる覚悟なくまたその務め何ひとつ尽くし不申態度軽薄のため夫以外の男とも風聞たち我意暴慢益募り、女だてらに夫に離別を迫り、はては両親の面前にて茶碗箸を庭上にたたきつけ候等、・・」と述べています。
  しゅうと夫妻の面前で「茶碗箸を庭上にたたきつけ」というのも、ずいぶんハデな立ち回りですね。何かにつけお嫁さんが小さくなっていた時代であることを考えると、よしあしの判断を越えて、俊子の勇ましさに喝采を送りたくなりますね。しかし、さすがにこの一件で、俊子に弱かった白秋も離婚の決心を固めたようです。
  同じ手紙の中で「小笠原行にも親を泣かせ、帰りても家庭鼎の沸くが如くに擾乱致し、親を棄つるか、妻を棄つるかの絶躰絶命に相成、ふびんなれども妻をすて申候。」とあります。これは今日の感覚とは少しばかり違っています。白秋は離婚の理由として親と妻とが両立しえないことを上げています。

 今日の考え方では、離婚はあくまで当事者間の問題ということになります。したがって本当の理由はどうであれ、現代人は離婚の理由を説明するに当たって「妻か親か、結論として親を取る」といういい方はしません。「姦通罪」までおかし、妻をあくまでも恋人として扱おうとした開明派の白秋も、ここでは「嫁は家に帰属するもの」、という古い思想に従って離婚理由を説明しています。
  この離婚理由の説明と重なるのが、「垂乳根の父母ゆゑに・・」の1首です。これを読むと、父母への情愛が妻に対する情愛を越える、というようにもみえます。しかし私はここに2つのポイントがあると見ます。その1つは、俊子が父母とうまくやろうとしているように見えず、世間常識から見て彼女の言動には問題が多すぎることです。その例の一つが「茶碗箸たたきつけ」であり、「夫以外の男」です。

 しかし私はここにもう1つ、経済的な理由を見ます。白秋はいずれにしても妻の扶養より両親の扶養に責任があると考えていたのです。それにまた、俊子は経済的にもガマンをするタイプの女性ではありませんでした。彼女には、むしろぜいたくとおしゃれが似合ったのです。
  白秋はなかば本能的に「父母とならともかく、彼女と一緒では経済的な危機は乗り切れない」と判断したに違いありません。これが「命とたのむ妻を我が離る」という結論のキメ手になっていたと私は考えます。

 
 

96.うつし世の千萬言(ちよろずごと)の誓言(かねごと)もむなしかりけりわかれ去らしむ
  ついに離別のときが来ました。この歌は初版の歌集では「うつし世の千万言の誓言もむなしかりけり今わかれなる」となっています。この二つの歌の違いを見てみましょう。まず初版の歌のほうは「千万言の誓言も」となっています。「万」の字がのちに変化していますが、これに大きな問題はないでしょう。
  「千万言の誓言も」の場合は、「幾千万回の誓いも」という具合に、「千万言」が誓いを説明する語となりますが、これが「千萬言も誓言も」というように、「千万言」と「誓言」が別なもので、対等に位置するものとなります。私はこの場合、「千万言」は2人の愛の言葉、「誓言」を結婚するときの誓約というように取りたいと思います。

 次に大きな違いは、初版が「今わかれなる」であるのに対して、修正版のほうは「別れ去らしむ」となっている点です。当初は「両方が対等関係で別れた」というニュアンスであるのに対して、修正の段階では「自分が女を帰した」というように変化しています。
  これは明らかに時間の経過とともに、白秋が「自分が彼女を追い出したのだ」という気持ちになっていったことを物語るものです。
  白秋はしばらくして「彼女にも可哀想なことをした」という気持ちが働くようになったのでしょう。それが「別れ去らしむ」という表現になったのです。しかし別れの瞬間の歌、「今わかれなる」には、物語が大団円を迎えるときのような、「いよいよそのときがきた」というタイムリー感、ダイナミズムがありますね。ですからこの2つの歌は、同じ歌ではなく、別の歌として鑑賞すべきではないかと思います。

 「わが妻が悲しと泣きし一言は真実(まこと)ならしも泣かされにけり」。いよいよ両者が離婚に同意しました。彼女も「別れます」といいました。その後で、彼女は「悲しい」といって泣きました。
  彼にしてみればどこまでが彼女の本心なのか、どこまでがウソなのか疑うこともしばしばでした。しかし、この彼女の「悲しい」のひとことには、たとえそれがウソであったとしても泣かされてしまったというのです。
  「これの世に家はなしといふ女子を突き放ちたりまた見ざる外(と)に」。この歌の初版形は「三界に家なしといふ女子を突き出したりまた見ざる外に」となっています。俊子は「別れます」「出てゆきます」といいながらも、まだぐずぐずいっていたようです。それを白秋は最後にはムリに戸の外に押し出すようにしたのです。

 
 

97.ほとほとに戸を去りあへず泣きにけり早や去りにけり日も暮れにけり
  この歌は本当に悲しく、哀れですね。この歌の初版形は「ほとほとに戸を去りあへず泣きし吾妹早や去りけらし日の傾きぬ」となっていますが、これは修正された歌のほうが数段すぐれていると思われます。それにしてもこのような悲しみの極致のような歌に、冷静に手を加え、どこまでも作品として完成させ続けてゆくことができる白秋という人は、やはり「歌」という業(ごう)にとりつかれた人だったのですね。
  この歌の意味から想像すると、俊子はいったん家の外に出ましたが、戸の前にたたずんでいたようですね。戸を閉めていても、中にいる白秋には彼女がずっとそこに立っていることが分かりました。
  彼女はどうしてそこに立っていたのでしょうか。もしかしたら白秋が気を変えて、「別れるのは止めよう」といってくれるという期待があったからです。というのも、これまでも何度も破局的な事態に立ちいたっても、最後は2人は仲直りしてきたからです。

 私は、この戸の前に立ちつくす俊子の気持ちになってみます。すると「私はどこへ行けばいいのか」という考えが浮かびます。「実家に帰ればいいじゃないか」というのは、あまりにも簡単すぎます。
  彼女はそれでなくても郷里には迷惑をかけました。そして再婚をめぐってはいろいろと両親に注意を受け、例の気性から彼女もいろいろと自己主張しました。彼女にも彼女なりのプライドというものがあります。今度は2度目の離婚です。「実家に帰ればいいじゃないか」といわれてもそう簡単には帰れません。
  「私はどこへ行けばいいの」と彼女は考えます。義理を悪くした友人や知人のカオを思い浮べます。自分を何とか受け入れてくれる場がないかどうかを、彼女の頭はせわしく計算していたのです。そして一番好ましいのはこの家の戸が開かれて、自分が白秋ともう一度やり直せることだということが分かるのです。

 家の中の白秋は、戸の外が気になりながらもムリに本を読んだり、別のことをしようとしたりします。時折、彼女が可哀想になって、「戸を開けて入れてやろうか」「仲直りしようか」という考えも頭をよぎります。しかし「また同じことの繰り返しになる」と白秋は自戒します。「こうなったら根くらべだ」とも思います。
  何時間たったでしょうか。日が西に傾いたころ、白秋は「まだいるのかな」と、そっと戸の外をうかがってみます。いつの間にか彼女は立ち去ったあとでした。

 
 

98.貧しさに妻を帰して朝顔の垣根結ひ居り竹と縄もて
  白秋が俊子を「また見ざる外に」突き放したのは何月何日でしょうか。7月14日、または15日ではなかったかと想像します。白秋が俊子の実家の母親宛に出した手紙が2通残されています。1通は7月15日づけのもので、これはすでにご紹介したものです。ところでこれとほとんど同じ文章、同趣旨の手紙がもう1通あるのです。
  このあとのほうの手紙の結びには、7月17日の記述があり、さらに二伸として「この状とくにも認め置候へども帰宅匆々は当人ふびんと存じ今日迄さしひかえ置候事に御座候。二十日」となっています。ところで白秋は20日づけでもう1通の手紙をしたためているのです。これは20日に到着した母親からの手紙、そして俊子からの手紙を読んだ直後に書かれたものです。

 以上を整理してみますとこうなります。7月14日ないし15日に白秋は俊子を家から出しました。俊子はその足で実家に帰りました。
  白秋は直後の15日に実家の母宛に手紙を書いたがこれを投函せず、17日に書き直して手元にとめて置きました。その間に俊子本人と母親からの手紙が白秋宛に届いたので白秋は返事を書き、とめ置いた17日づけの手紙を同封し、投函しました。
  俊子の手紙に対する反応として、白秋は次のように書いています。「只今まり子の書状を見れば未だに当人はこの度の一大事をさほどにも思はず、容易に小生の心を取りかへす事出来うるやうに思ひ居るやうに御座候へども、これは全然の考へちがひかと存候」。
  俊子はもう一度やり直しができるのではないかと考え、母娘ともども白秋に詫びを入れたというように見えます。しかし白秋の今回の決心は固いものでした。「ふびん乍らこのままにては絶縁の外御座なく候。小生も軽浮なる痴情の恋に一生をあやまり、真実のつくし甲斐もなく実に実に残念に御座候。」

 そして「小生も最早諦め、只今は夜は十二時朝は四時に起き一心不乱に勉強罷在候。」と書いて、別れた後の自分の生活態度をことさら強調しています。
  白秋には「落日」「夕日」の歌が多いですね。これに対して「朝日」を歌った歌は皆無です。ということは、白秋が夜型の作家で、たいてい朝寝坊していたことを示すものではないかと思います。その彼が「朝は四時に起き」といっているのですから、大変なものですね。彼はこのときライフスタイルを変えたのです。
  この歌をよむと、夜明のしらじら明けに庭先にうずくまって、朝顔の手入れをしている白秋のさびしい後姿が見えるでしょう。

 
 

99.苦しさに声うちあぐるたはやすしおとなしく堪へて幾日(いくひ)籠るは
  離婚の方針を堅持し、ライフスタイルを変え、意地を張り通している白秋も、別れてから何日間かは悔恨と淋しさに打ちのめされました。
  「思ふままに声を放ちて喚く子がその朗らけき心ともがな」といって子供をうらやんでみたり「代々木の白樫がもと黄楊(つげ)がもと飛びて歩(あ)りきし栗鼠の子吾妹」と昔をなつかしんでみたりしています。この代々木の思い出は白秋にとってなにものにも代えがたいものがあったようですね。
  ところで、白秋と俊子は別居することにはなりましたが、まだ正式の離婚ということにはなっていません。白秋は8月1日づけの手紙で正式に離婚する旨を「離別状」という形でしたためています。

 8月1日に白秋が実家の父親宛に当てた手紙によりますと、俊子は実家に帰った後、あちこちに手紙を出して白秋とその家族の悪口をいっていたようです。 「・・この縁はこれきりおあきらめを願ひます。」と白秋は書き、「一体とし子は気でも狂つてゐるのではございますまいか、」ともいっています。
  そしてこの手紙に同封して白秋は俊子宛に書きました。「もう何にも云ひません。ただ身体を大切にして、自暴自棄に陥らぬやう、軽薄な人や世間をうつかり信じて一生を謬つて下さるな。・・一旦夫となり妻となつた仲ではないか、勝つも負けるもない、くだらぬ事に角目立てれば立てるほど、本心の愛情が汚されます。・・」。
  そしてこの書状に同封する形で「離別状」というのが入っています。「今回双方納得の上互に離別致候上は向後如何なる事ありとも決して苦情あるまじく此段離別状迄如件」。いわゆる三下り半というやつですね。

 8月3日に、白秋が俊子宛の手紙の末尾に母親宛に書き添えた文章がちょっと気になります。「指輪は如何ほどの大きさのものにてよろしく候や。あさましき事かぎりなし」とあるのです。これはおそらく俊子が嫁入り時に指輪を持ってきたものを、生活苦のために質入れしたのでしょう。俊子の母親はそれを「返してくれ」といってきたにちがいありません。そこで白秋は苦々しい思いを込めて「あさましきことかぎりなし」と書き送ったのですね。これが離別に関して2人の間に残されている最後の交信記録です。
  白秋は、どうせ別れるなら最後はきれいに別れたかったのですね。ところが、きれいに別れられるくらいなら最初から離別なんて生じないですよ。こうして白秋の苦しくにがにがしい日々が過ぎていきました。

 
 

100.ひさかたの満月光に飛ぶ鴉いよよ一羽となりてけるかも
  アランは失恋の痛みについて「腹部の悲しみに過ぎない」といっています。白秋も俊子と別れたあとずいぶん苦しみましたが、その傷も時間とともに少しずついやされていきました。白秋と俊子の関係において、これまで白秋は「あきらめられず」といって、自分で自分の情念をかきむしっていたようなところがありました。ところが、ひとたび「別れる」と決心したとき変化が生じました。
  アランはまた「『私は決心した』というのはいい言葉だ」といっています。それは問題の解決と同時に、優柔不断の状態からの解決をも意味しているからです。白秋はこの意味で勇気をもって決断し、苦しい再生への道を歩みだしました。「たわやめの色に溺れてこの三年おぞや大事を我が忘れたり」。こういわれては、俊子も立つ瀬がありませんが、白秋が何とか過去に袂別をつけようとしている意欲のほどがしのばれます。
  また、「この我や心いたらぬ女子をあはれとは思へ憎みあへなくに」という歌では、すでに彼女との間に距離を置いて、「許し」を示す心のゆとりが表現されていますね。そして「ひさかたの満月光に飛ぶ鴉いよよ一羽となりてけるかも」にはさびしさと同時にすっきりした明澄さが表現されていますね。

 藪田義雄の「評伝北原白秋」の中に、晩年の俊子のことが記されています。これによりますと俊子は昭和29年に65才で亡くなっているのですが、町田市に住んでいたそうです。俊子の最後を面倒を見た針金さんという人の話によると、その後俊子は3度目の結婚をしたのですが夫と死別したそうです。
  彼女は晩年、茶の湯の師匠をしておこづかい稼ぎをしていたそうです。けれど借りた茶道具をだまって売ってしまったり、人から金をだまし取るということもあったという証言が記されています。俊子は年を取ってからも美人で色っぽい人だったそうです。
  白秋の研究書に登場する俊子像は、あまり評判のいいものではありません。「言霊」の中の山本太郎も「金もないのに毎日一度はオシャレをして町をしゃなりしゃなりと練らねば気のすまぬ俊子。」などと書いています。
  しかし私は俊子が示しているあらゆる特性は、女性に共有の特性であり、しかもその特性は過去の女性のものではなく、現代的なものではないかと思います。もし彼女が白秋と添いとげることができたら、彼女の晩年もまた変わったものとなっていたでしょう。しかし2人はすでに別々の道を歩み始めました。白秋は満月の空を1人飛んでいます。

 
   
←第7章へ 目次へ まとめ→
 
 
Copyright (C) 2006 Kunihiro Kato All Rights Reserved.