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落語からのメッセージ
 
第1章 落語からのメッセージとは――笑いの中に真実を隠す

幸福を保証する時間
 私は落語が大好きです。なぜかと考えてみると、子供のころ「ラジオ寄席」を聞いていたことが原風景として思い起こされます。ラジオがテレビをも兼ねていた時代、どこか知らないところから聞こえてくる滑稽な世界が私の心に深くしみ入りました。
  ラジオは家族と一緒に聞いていましたが、大人が笑う部分と子供が笑う部分にはずれがあります。「どうして今笑ったの?」と母親に聞くと、理由を教えてくれることもありますが、にやにやして教えてくれない場合もあります。いずれにしても「ラジオ寄席」を聞いて笑った時間は、私にとって貴重な、幸福な思い出につながっています。
  そんなわけで、もう人生も終盤を迎えたこんにちでも、落語を聞く時間は私にとって幸福な時間そのものです。私は愛聴のテープとCDを少々持っています。これを寝る前などにかけて聞きますが、不思議なことに同じものを繰り返し聞いているのに、少しも飽きません。

 話がおかしいところにくると、話は分かっているのに笑います。それにまた同じ話を聞いて充分知っているつもりなのに、話の中に新しい発見をすることが少なくありません。要するに落語は、いつでも私に幸福な時間を保証してくれるのです。
  落語のテープをかけたまま意識がなくなり、寝てしまうこともしばしばです。私としてはこれが幸福な瞬間です。すぐれた話術には何かしら、疲れた中枢神経を和らげる効果があるように思えます。だから落語は私にとって重要な心身の健康器具なのです。
  私が愛聴している落語は、ほとんどが亡くなった五代目志ん生のものです。人によって好みはあるでしょうが、私は志ん生が大好きです。他のいろいろな落語家を聞きくらべましたが、やはり志ん生のおかしさ、うまさは群を抜いています。

 いうまでもなく私は落語の専門家ではありませんし、演芸界のことも落語界のことも何も知りません。志ん生についても、自伝のような「びんぼう自慢」を一冊読んだだけで、それ以上の知識はありません。だから本当のことをいえば落語を語る資格はないのです。
しかし落語の一ファンとして、落語の中でいわれていることがらの意味を、解釈し、これによって「何か」をつかんでみたいと思います。

 

付加価値は交換によって発生する
 たとえば志ん生のおはこに「火炎太鼓」という落語があります。この落語の主人公は、あまり賢くない古道具屋のおやじです。彼はある日、古い太鼓を「一分」で仕入れてきました。この太鼓じつは、国宝級の名器「火炎太鼓」なのですが、古道具屋のおやじはもちろんそんなことは知りません。仕入先も知らずに売ったのです。
  この古道具屋の女房は少なくとも亭主よりははるかに頭の回る、賢い女ですが、女房にもこの商品の値打ちは分かりません。だから彼女は例によってドジな亭主が、値打ちのない、煤のかたまりのような太鼓を仕入れてきたと思い、亭主をおおいにバカにします。
  彼女は「一分」などという高い金で、こんながらくたを仕入れてくる亭主には道具屋としての仕入れセンスがないと考え、あきれ果てます。

 ところが店の小僧がこの太鼓の煤をはたくと、太鼓は思いがけず大きな音がします。煤を払うつもりなのに太鼓が鳴るのです。この音を聞きつけて一人の武士が店先に入ってきました。太鼓の音が、外を通りかかったお殿様の耳に止まり、使いの武士が入ってきたのです。
  お駕籠で通りかかった殿様はかなり音楽に素養のある人物だったのでしょう。太鼓のへりを叩いて鳴ったその音を聞いただけで、「む、あの音は、さだめし名のある太鼓に違いない」と思ったわけですからね。
  結局この煤のかたまりのような太鼓は、城に持ち込まれて検分された上、古道具屋夫婦が見たこともない「三百両」という大金で買い取られました。道具屋の女房は三百両の現金を見て、腰を抜かしてしまいます。

 この話は少なくとも商品の付加価値という課題を考えさせてくれます。つまり買い手が感じる価値は、仕入れ金額や製造原価とは関係がないということです。商品は買い手が納得するなら、いくらで売ってもいいのです。そして直接原価と売価との差、これが付加価値なのです。もしも耳のいい殿様が通りかからなかったら交換は成立せず、二百九十九両三分という付加価値は発生しなかったことになります。
私たちはこのことから、付加価値は生産に伴って発生するのではなく、交換=販売に伴って発生するのだということを知ることができます。

 
 

みかんを持って逃げる番頭
 付加価値に関する有名な落語に「千両みかん」というのがあります。ある商家の若旦那が真夏に「みかん」を食べたいと思いました。彼はこのことを思いつめて、とうとうノイローゼになってしまいました。みかんに恋わずらいをしたわけです。大旦那は一人息子の健康を案じて、「いくらかかってもいいから、息子が食べたいといっているみかんを見つけてきてくれ」といって番頭に依頼します。そこで番頭がみかん探しに出かけます。彼は苦労に苦労を重ねたあげく、とある問屋の倉庫から無傷のみかんを一個だけ見つけ出しました。その問屋にみかんの価格をたずねると、これがなんと「千両」だといいます。
  この問屋ではみかんの時期に大量に仕入れ、倉庫にしまっておきました。しかし倉を開けてみると夏場のことでしたので他のみかんは全部腐っており、奇跡的にひとつだけ無傷のみかんが残っていたのです。番頭は「いくらかかってもいい」という許可を得ていますから、このみかんを千両で買い取り、大切に持ち帰りました。

 若旦那はみかんを見ると大喜び。彼はみかんをむき始めました。すると中に子袋が十個入っていました。ですからこの場合子袋一個につき百両という勘定になります。番頭は、まず百両が若旦那の口の中に入るのを見ます。ついで二百両、三百両・・若旦那は結局七個を食べて、残りの三個を「両親にさしあげてくれ」といって番頭に手渡します。
  番頭は三個の子袋を見つめて、「これに三百両の値打ちがあるのだ」と思います。番頭は自分がもらっている給金のことを考え、自分がこの店にいて、将来果たしてどのくらい蓄財できるだろうかと考えます。彼は再び手の中の三百両を見つめます。とうとう番頭はこのみかんの子袋三個を持って逐電しました。
  「落語のどこがおかしいか」を説明するほどヤボなことはありません。けれど錯乱した番頭のコンピュータがしきりに「三百両」を表示し、番頭の手の中のみかんが、あたかも黄金のような光彩を放っていたことを想像するのは楽しいことです。

 「火炎太鼓」も、「千両みかん」も販売価格、すなわち商品の付加価値が需要家との関係によって成り立っていることをまざまざと見せてくれています。ビジネスに関する限り、ものの価格は交換関係の中にあるのであって、実体としていくらのコストがかかっているのか、あるいはそれを用いて何ができるかということは別問題です。
経済が統制下におかれているというのでもない限り、売り手は買い手が感じる価値の程度に合わせて売ることができるのです。その代わり買い手が「いらない」といえば、実際の原価がいくらであろうとビジネスは成立しません。

 
 

販売価格は生きものである
 仕入れ金額と販売金額ということについて私は思い出すことがあります。ある商社で、独占的に開発した商材に人気が集まっていました。セールスマンがその人気商品の取り合いをしていました。限定生産品でしたので、なおのこと調整が難しかったのです。
  セールスマンたちは集合して、価格の改定と商品の配分について相談しました。それによると価格は五十パーセントアップ、供給先はこれまでの販売実績と今後のビジネスチャンスを考慮してセールスマンに重点的に数量を割り当てる、というものでした。セールスマンの中には「今なら値段は三倍でも五倍でも売れる」と豪語するものもいました。
  ところがこの会社のトップは、セールスマンたちの提案を拒否しました。価格は従来通り、商品の割り当ては全地区に均等にするというものでした。「暴利をむさぼらない」、これが会社のポリシーだというのです。実績の上がらないセールスマンは、この商品をバネにして拡販努力をせよ、という会社からの指導方針も出されました。

 ベテラン・セールスマンたちはがっかりしてしまいました。一人当たりにまわされる商品の供給量が少ないこともあって、彼らの関心は急速にさめてしまいました。需要のない地区に配分された商品は皮肉なことに在庫になりました。数年たつと、この商品に代わる商品がライバル会社から発売されました。結構な価格で売られ、利益を享受したのはライバル会社でした。
  商品と需要家の出会いのタイミング。この要素がそろわなければ、「火炎太鼓」も「千両みかん」も商品として成立しません。このタイミングを自ら逃すようでは、ビジネスマンとしてはいかにもお粗末です。
  またこんな事例も見聞する機会がありました。ある新商品が発売されましたが、設定された販売価格があまりにも高いために売れませんでした。もっと価格を下げるようにと、得意先からもセールスマンからも要望が集中しましたが、開発とマーケティングに当たった担当者は値下げしませんでした。

 この開発担当者は価格設定にさいして、開発にかかったコストをすべて販売価格の上に上乗せしていたのです。彼は「一年間のコストは一年間で取り戻さなければならない」と考えました。彼は一年間に販売できるはずの数量で、これまでにかかったコストを割り算しました。
  このようにして一年たちましたが、売れないものは売れません。この商品の直接原価は微々たるものですから、販売数量さえ確保できればビジネスとして充分成立するはずでしたが、彼はプライシングを誤ったために失敗しました。おそらくこの商品はまだ、倉庫の中で眠っていることでしょう。なぜならこの商品を破棄したりしたら、それこそ損失ですからねえ。
  販売価格は生きものです。なぜなら売り手側も買い手側も生きているからです。ところがこの会社の開発担当者は価格を命のない「事象」あるいは「もの」として取り扱ったのです。だから博物館の中で標本がじっとしているように、その在庫もまたじっとしているのですよ。

 今ご紹介したような実例は、落語以上に落語的です。このような現実は、おそらく少しも珍しくないのです。おそらくみかんの子袋三個を持って逃げかねない人物が世の中にいるのです。そのリアリティが落語を面白くしているのです。
たとえば原価をきちんと積み上げ、それにマージンを加えれば、まっとうな販売価格が計算できる、と考えている現代の番頭たちは少なくありません。じつに笑止の至りです。このような人々は「付加価値は需要家のニーズと購買力とライバルとの関係によって決定される」という大鉄則を落語から学ばなければなりません。

 
 

なぜ与太郎は妻子を養えないか
 付加価値といえば、とうなす売りの与太郎の話があります。与太郎は八百屋のおじさんに手ほどきを受け、天秤を担いでとうなすを売りに出かけます。おじさんはとうなすの仕入原価を教えこれにいくらかマージンをのせて売りなさい、と指導します。「マージンをのせて販売をする」という意味のことを、おじさんは「上を見て売れ」といいます。
  「上を見て売れ」というのは、自分で販売価格を設定しなさいということです。おじさんは原価を教え、与太郎に値づけの自由を与え、まかせたわけですね。おじさんにして見れば、与太郎は商売の一年生ですから、大きな利益を上げることはできないだろうと踏んでいます。「かりに原価に近い安値で売ったとしても、それは仕方がないことだ。慣れてくれば、顧客のカオを見てそれなりの価格で売れるようになるだろう」と考えたのです。
  ところが与太郎には、この「上を見て売る」という言葉の意味が分かりません。そこで買い手が集まってくると、与太郎はお客に仕入原価をそのまま告げてしまいます。客は商品が安いので大喜び、とうなすはたちまち売り切れます。与太郎はこの間、じっと立ったまま空を見上げています。つまり、彼は「上を見ている」わけです。たまたま親切な人がいて、お金をまとめて与太郎に渡してくれました。

 与太郎が全部の商品を売り切って予想外に早く帰ってくると、おじさんは原価分のお金がきちんとそろっているのですっかり感心します。おじさんは「原価と粗利を別に管理したというのはえらい」といい、「もうけ」の方、つまり粗利を見せろといいます。
  ところが「もうけ」なんて始めからありません。おじさんは粗利分を与太郎の小遣いとして与えようと考えていました。「もうけをおれが取ろうというんじゃない。お前にやる。けれど、お前がどれだけ稼いだのか、おじさんは見たいのだ」。つまり、粗利の額が与太郎のビジネスセンスを証明する指標となるからです。ところが、いくら問いただしても粗利は出てきません。
  ここでおじさんは与太郎が、とうなすをすべて原価で売ったことに気づき、その愚かさにあきれます。そして「そんなことで女房子供が養えるか」といって与太郎を叱るのです。けれど与太郎にはなぜ自分が叱られているのか分かりません。

 このとうなす売りの話には、粗利確保が商売の原点であること、固定費は粗利でまかなうものだという大原則が示されていますね。「女房子供を養う」とは固定費の本質をみごとに突いています。普通の会社では固定費の大部分は人件費であり、人件費イコール生活費ですからね。
  固定費とは食事の代金、つまり生物代謝のコストです。そこでビジネスの要諦は粗利と固定費の関係、つまりFM比率で示されることになります。FM比率がいつまでも狂ったままでいるとビジネスはやがて破綻し、生活も破綻するのです。
  世の中には、値引きをしすぎてマージンを確保できない「与太郎セールスマン」が少なくありません。かりに十人のセールスマンがいるとすればその中の何人かは与太郎セールスマンです。また会社をいくつかの損益部門にわけて活動を行うようなとき、どういうわけか、どうしても粗利を確保できない部門が生じます。これは与太郎部門です。

 ビジネスマンなら原価が分かっていれば、適切に値づけできるだろうと思いますが、ところがどっこいだめです。えらそうにネクタイを締め、背広を着てりゅうとしていても、主体的に仕事のできない与太郎ビジネスマンが多いのですから驚きです。つまり与太郎の話なら、寄席に行くまでもなく身近なところでいくらでも観察できるわけです。
もっとも駆け出しのセールスマンは、多かれ少なかれ与太郎的ですが、経験を積むにしたがってプロフェショナルになります。つまり与太郎は、ビジネスにおけるアマチュアの典型を示しているのです。だから、入社後五年も六年もたってもまだ与太郎の真似をしているようなアマチュアは、会社にとって大きな障害です。

 
 

だれが与太郎を扶養するか
 これは同時に社会的な障害でもあるのです。なぜなら与太郎もどういうわけか「食う」ことにかけては一人前、あるいはそれ以上ですからね。
  このように、落語の中に一歩入って考えてみると、落語は驚くほど多様ですばらしい知恵のメッセージを、しかもアイロニーに満ちた知恵を、私たちに投げかけているように思われます。ただ、この落語の鋭いアイロニーを受け止めるためには、落語を注意深く、自分の経験に引き寄せて咀嚼する必要があります。
  与太郎はどこにでもいるものです。中には取締役の肩書を持った与太郎もいます。こういっている私自身が、ある側面ではみごとな与太郎である可能性があります。そう考えると、不思議なおかしさが込み上げてきます。

 与太郎を急に賢くすることは、至難のワザです。すなわち彼に商材を渡して、固定費に見合う粗利を稼がせることを考えると、いささか頭が痛くなります。そうはいっても彼も立派な人間です。どんな与太郎にも人間として生きる権利があります。ですから巨視的に見れば、社会は与太郎のコストも支払わなければなりません。
  さしあたりだれが与太郎の固定費を支払うのでしょうか。それは与太郎の父親であり、おじさんです。父親またはおじさんに力があり、与太郎のコストをカバーできなければ社会は破滅してしまいます。おそらく落語の与太郎の父親もおじさんも、与太郎のコストをカバーする力はあるでしょう。
そこでおじさんには与太郎を叱り、与太郎のバカさ加減を笑う権利があります。

 もちろん社会的な弱者を見下したり、差別してはならないというのが、現代のモラルです。しかし強者の皮をかぶった与太郎、擬似与太郎もいます。少しも勉強しようとせず、自ら望んで愚かな与太郎役を演じ続けている人物については、少しは笑わせていただいていいのではないでしょうか。そこで「与太郎には生きる権利」「他の人には笑う権利」、これが落語の基本構造となります。
  社会福祉のことを考えてみましょう。だれもが手厚い社会福祉を望んでいます。けれどその福祉の財源はどこからやってくるのでしょうか。「国が支出する。当然じゃないか」などといっている人は与太郎的です。
  国に税金を支払っているのは、与太郎の父親であり、八百屋のおじさんです。納税者の実力を高めなければ社会の与太郎を養うことはできません。けれど与太郎はどこからお金が出ているのか分かりません。おそらく「国から出ている」と思っています。

 こんにちだれもが与太郎側の発想をすることを考えています。つまり福祉の受給者側に立つことを考えているのです。「弱者へのいたわり」が必要だとする声は、自分に対するいたわりが必要だという叫びです。本当に福祉国家を実現するためには、お金を使う方法を考える前に稼ぐ方法を考えなければなりません。
  ところで、「火炎太鼓」の話に戻りましょう。火炎太鼓の取引きでは仕入価格が「一分」、販売価格が「三百両」でした。ですから原価率は限りなくゼロに近いものです。かりに物品販売について、このようなビジネスを恒常的に行っている会社があるとすれば相当に高い利益を計上していることでしょう。
  けれどこのような粗利率の高い販売会社は、社会的にはなかなか受け入れられないものです。たとえば「くすり九層倍、花屋八層倍」などという言葉がありますが、これは薬屋さんや花屋さんを尊敬していっているのではありません。「大きな利益を上げる」ということそのものが、根深いところで否定されているのです。

 「金持ち」は、彼から恩恵を受けられる人にとっては尊敬の対象となりますが、まったく関係のない人にとっては面白くもない対象です。ありていにいえば、ねたみの対象です。

 
 

道具屋は資金繰りに陥る?
 ところで、例の「火炎太鼓」を売った道具屋が現在仕事をしていたとします。この道具屋は今期いくら納税しなければならないでしょうか。それは道具屋の今期の経費によって決まります。「一分」「三百両」という貨幣の価値観で考えると、道具屋の年間経費はおそらく十両にもならないでしょう。こんにちの税法を適用すれば、道具屋はいずれにしても百五十両近い税金を納めなければなりません。
  「道具屋の手元には、まだ百四十両も残っている」と考えるか、「え、半分以上税金で持っていかれてしまうのか」と考えるかはその人次第です。しかし与太郎の例を見てもお分かりのように、利益を上げることはなかなか困難ですが、その利益も全部自分のものというわけではないのです。これが利益を目指す人に課せられているゲームのルールです。
  私たちは「この納税分が国や地方の財源となり、福祉予算に回ってゆくからいい」と考えることにします。ということは道具屋に再び儲けてもらう必要があるということです。

もっとも、こうして苦労して利益を得たとしても、金持ちが社会福祉の主であることがまったく忘れられ、資金の提供者が単にねたまれたり、軽蔑されるだけなのだとすれば、苦労して金持ちになる動機が一つ減ります。黙って人の援助を待つだけの与太郎コースを選んだほうがいいということになるではありませんか。
  さて、「火炎太鼓」で当てた道具屋ですが、彼らが無事に納税を済ませ、手元に百四十両近くの現金があると仮定します。けれど道具屋の周辺には、火炎太鼓の成功のうわさを聞いて多くの関係者が集まっていることでしょう。
  たとえば仕入先は新しい商品を持ち込むことでしょう。それこそ「石川五右衛門を茹でた釜」とか、「岩見重太郎のわらじ」「清盛の尿瓶」「小野小町が鎮西八郎為朝にやった手紙」などという、次の商材の話が山のように押し寄せるでしょう。

 道具屋自身が「音のするものがいい」などといっていますから、「静御前の鼓」なんてのを買いつけることになるかもしれません。しかし道具屋はもともと仕入れセンスのある方ではありませんから、次の仕入れに失敗する可能性があります。かりにまともで、確実な商品で、しかも金額の大きなものとなれば、在庫金額がふくらむことになるでしょう。
  一方道具屋が、店の拡張や改修計画などを進めることを考え、業者のいいなりになって、店を手直ししたとします。これは現金の固定資産への転換ということになります。在庫がふくらみ、固定資産がふくらむと手元の資金繰りが悪化します。このため借入金が発生する可能性があります。おそらく銀行では「定期預金を崩す必要はありませんよ。こちらでご用立てします」などというでしょう。
  こうしてビジネスセンスのなかった道具屋は、予期したほどの利益メリットを享受することなく、身分不相応なバブル型経営へと突き進む可能性があります。もちろん、資金を有効に生かして生活を向上させつつ、事業を発展させる可能性も十分にあります。これからの道具屋の進路は彼らの才覚と努力にかかっているわけです。

 落語をこのように受け止めながら聞いてみるのも、味があり、楽しいのではないでしょうか。どんなことでも、聞き方、感じ方が大切だと私は考えます。そこで私たちにとって重要なのは、十分な考察に耐えられる対象を選ぶことです。
この点で、長い時代人々に愛され、生きのびてきた古典落語には彫琢されたものだけがもつ普遍的な何かがあります。それは分かりやすさと、滑稽な笑いとに包まれていますが、その中にきらりと光る人間の真理を隠しているのです。

 
   
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