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落語からのメッセージ
 
第2章 火炎太鼓――富は人間性を豊かにする

すでにご説明しましたが、志ん生の最大のおはこといわれた「火炎太鼓」を、最初から通して鑑賞してみましょう。火炎太鼓の始まりの部分には「世の中にはいろいろな商売がある」というコンセプトの枕が置かれます。 私が持っているテープでは「季節になると、昔はいろいろ季節のものを売りに来たものであります」というところから始まって、むかし巷で聞かれた物売りの声を志ん生がやって見せてくれています。
  それから話は「古いものはてえと、道具屋でございます」となり、本題に入ります。これはこんにちでいう骨董店のことですね。もっとも最近骨董というと、高級な美術品というイメージがありますが、「道具屋」という言葉には「リサイクルショップ」的なニュアンスがあるようにも思えます。
  「道具屋」にもピンからキリまであって、ピンのほうは高価な美術品が専門で、キリのほうは「古道具屋」という業種名がぴったりする感じになります。もっとも「古道具屋」からも思わぬ掘り出し物が出る可能性があるわけで、その雑多性が「古道具屋」の魅力です。この落語に登場する主人公はキリの方に属する道具屋の主人です。

 この店の主人は志ん生の紹介によると「世の中をついでに生きているような」人物であり「ボーっとしていて、おかみさんの方がハッキリして」います。話は二人の会話から始まります。おかみさんは「お前さんぐらい商売の下手な人はないね」といい出し、今しがた帰ったばかりの客に対する主人の応対の悪さを指摘します。
  これは会社でいえば、部下の接客態度に対する上司のOJTという場面です。ここではおかみさんが亭主を指導しているわけです。おかみさんは、「今のお客はなんていって入ってきたね。『道具屋さん、この箪笥いい箪笥だね』ってお客の方から惚れ込んで入ってきたじゃないかね。それをお前さんは『ああいい箪笥ですよ。うちに六年もあるんですから』って。六年もあるということは六年売れないということじゃないかねえ」。
  「『お客がちょいと引き出しあけて見てくれ』といえば、『これがあくくらいならとうに売れちゃうんです』『じゃあ、あかねえのかい』『こないだ、無理にあけようとして腕くじいた人がいますから』『箪笥あけるたんびに腕くじいちゃっちゃ、しょうがねえじゃねえか』『腕をもむ人を抱えておけばいいでしょう』って。バカなことばかりいっているから、お客が帰っちゃったじゃないか」という具合です。

これは主人の接客技術の悪さを、おかみさんが詳細に再現していて、限りなく滑稽な一場面です。この客と主人のやり取りをおかみさんはどこで聞いていたのでしょうか。彼女は勘定台か、店つづきの部屋にいたのでしょう。会話がよく聞こえるところです。もしも彼女が店先にいたら彼女はそつなく箪笥を売ったでしょう。もし彼女がヘルプに出られるものなら、彼女が店先に来たかもしれません。
  けれど亭主が「ああいい箪笥ですよ。うちに六年もあるんですから」と回答したあとでは、出ていこうにもタイミングを失ってしまいました。彼女ははらはらしながら、亭主のセールストークを聞いているしかありません。そして亭主が「腕をもむ人を抱えておけばいいでしょう」という決定的にバカなことをいってお客を怒らせるところまで、じっとガマンしているわけです。
  これははじめて自転車の稽古をする子供を見ている親の心境であり、新入社員に仕事をやらせてみてうしろで見ている上司の心境です。あるいは人前で、おぼつかないプレゼンテーションをする新人講師を、先輩が見守っている心境です。

これらの状況と道具屋のケースとの間に違いがあるとすれば、道具屋の方は店の主人として別に緊張もせずに、のびのびとセールストークを展開しているという点です。彼は自分の説明が買い手を不安に陥れたり、買い手の感情を害しているなどとは少しも考えていないのです。相手にこびて買ってもらおうなどとしていないところが爽快です。
 

客を怒らせる売り子は珍しくない
 ではここで、お客の心境になってみましょう。お客はおかみさんがいうように、箪笥の外観に一目ぼれして入ってきます。このように一目ぼれしたときには、たいてい買うものです。彼にとっては八十パーセント以上、買ったも同然です。
  店の主人と対話するのは、最後の迷いを吹っ切ってもらいたいからであって、いうなれば自分の背中を一押ししてもらいたいのです。これはどんな買い物についてもいえることで、人は店先で買おうと思っていないものを買うことはありません。ですからすぐれた売り子は、入ってきた客のまなざしや態度だけで、本当に買う客かどうかを見分けます。
  おそらくこの客はこの箪笥をこのときにはじめて見たのではないでしょう。彼は何度か店の前を通って、この箪笥に目をつけていたのです。彼は購買意欲満々で入ってきたにちがいありません。ところが「ああ、いい箪笥ですよ、うちの店に六年もあるんですから」「この引き出しがあくくらいならとうに売れちゃうんです」という応対で、さすがの買い気も出鼻をくじかれてしまいます。

 「箪笥をあけるたんびに腕をくじいちゃっちゃ、しょうがねえじゃねえか」というのは買い手からのせめてもの救いの提供です。ここで道具屋は「お手数ですが、ちょっと蝋を引くとか、かんなを当てていただければ、引き出しはすべるようになりますよ」といえばよかったわけで、肯定的な返事をすれば相手はまた買い気を取り戻したかもしれません。
  ところが、「腕をもむ人を抱えておけばいいでしょう」という道具屋の返答には、さすがに好意的な客もあきれてしまいます。客は「このおやじ、商品を売る気があるのか」と思います。顔を見るとさほど人が悪そうでもないし、どうもよく分かりません。そこで彼は「売る気がない店から、何も無理に買うこたあねえ」と思います。そこで客は「また来るよ」とか何とかいって店を出たのでしょう。
  この道具屋はあくまでも落語専用のキャラクターですが、現実の世界にもこの道具屋に近い、妙な売り子がたくさんいます。それが、どういうわけかこの道具屋ほど人柄がよくありません。そこでお客は恐ろしく感じの悪い思いをします。

 たとえば勘定台に商品とお金を持っていっても、売り子が長電話していたり、隣の子とおしゃべりをしていたりしていつまでも待たされることがあります。アメリカに行くとこういう経験をすることが多いですね。アメリカ人一人一人は別に悪くないと思いますが、アメリカにおける小売りサービスの劣悪さは徹底しています。
  わが国でもなじみ客ばかりを相手にしているような地元の店、たとえば食堂や喫茶店などに一見の客として入ると、「何しに来た」という顔をされることが少なくありません。最初から「よそ者お断り」という貼札を出しておいてもらわなければなりません。こちらも店側も気まずい思いをするというのでは、どうしようもありません。
  私の家の近くにある輸入雑貨屋の売り子は、ひとことも口をきいてくれません。口をきかないので、言語障害かと思って観察していると、仲間とは話しているのです。私は面白いのでときどきこの店に行きますが、先だっても「領収書を書いてください」といったら大きなため息を吐かれてしまいました。こうなると道具屋のおやじも完全に負けです。問題になりません。

 
 

女房のストレスはたまっている
  落語の方に戻りましょう。道具屋の女房の亭主に対する攻撃はまだ続いています。女房は「もう、お前さんったら、いつもこうなんだから。売らなくちゃならないものを売らないで、売らなくてもいいものを売るんだから」。すると「おれが何を売ったね」と亭主がいいます。
  女房は「去年もそうだろう。向こうの米屋の旦那が遊びに来て『甚兵衛さん、この火鉢面白いね』『よかったら持ってらっしゃい』っていうから、うちに火鉢がなくなっちゃったよ。寒くなると向こうの米屋にあたりに行っているだろうよ。だから米屋の旦那がそういってたよ。なんだか火鉢と甚兵衛さんと一緒に買っちゃったみたいだ、って」。
  女房のこの言葉から、道具屋の主人の名前が「甚兵衛」であることが分かります。そして彼が地域社会に根ざして違和感なく交際していることも分かります。自分の所帯道具である火鉢を売ってしまって、代わりの火鉢を買っていないというのは、彼の人の良さと経営判断のまずさ、そして経営内容の悪さを暗示しています。

 なぜなら、その火鉢にはさしあたり仕入れ代金がかかっていないのですから、新しい火鉢を買う分のコストと付加価値が取れていなければなりません。ところが彼が売った先の火鉢にあたりに行っているところを見ると、新しい火鉢を調達していないのです。彼は安い値段でその火鉢を売り、売上金を生活費にまわしてしまったのですね。けれど米屋の旦那が気軽に遊びに来たり、こちらも火鉢にあたりに行けるところを見ると、甚兵衛さんとご近所との人間関係は悪くありません。
  しかし女房は亭主の付加価値産出力についてはすっかり絶望的です。「お前さんといると、本当に儲かったためしがないんだからね。だから何か食べようと思ったって、また損しちゃうんだから、食べんのよそうと思って、内輪内輪に食べているんだからね。このごろ本当に胃が丈夫になっちゃったい。そのうち背中とおなかがくっついて、背中からおへそが出てくるよ」。
  ここでは女房が固定費節減のために日頃努力している様子が語られます。「腹八分目で病知らず」ですから、健康にはいいようですが、女房にはコストダウンのストレスがたまっているようです。もっとも女房は「儲かったためしがない」といっていますが、本当に損ばかりしていれば店はとうにつぶれています。だから、いくら亭主に甲斐性がないといっても、生命を維持するぎりぎりのところで経営は維持されているわけですね。

 女房は亭主が新しく仕入れてきた商品に関心を持ちますが、それが太鼓だと分かると、またしても亭主をののしります。「それが、お前さん、バカだてえんだよ。太鼓なんていうものは際物(きわもの)といって、頭の働くものが初午(はつうま)前なんかに仕入れて、さっと売っちゃうんだよ。なにさ、太鼓なんか買ってきて」という具合。
  ここでも女房の方が仕入れセンスがいいことが証明されます。そして亭主が小僧の定吉にいいつけて太鼓の煤をはたかせようとすると、女房がまたひとこといいます。「およし、そんな太鼓はたくの。煤がなくなったら、太鼓もなくなっちゃうから」。
  定吉が太鼓をはたいていると武士が入ってきたところについてはご紹介しました。使いの武士は「その太鼓を屋敷へ持参いたせ。ことによったらお買い上げになるかも知れぬ」といい残して立ち去ります。ここに願ってもないビジネスチャンスが生じましたので、亭主はすっかり気をよくします。「ほら見ろ、太鼓が売れるじゃねえか」。
 
  ところが女房はあくまで懐疑的です。「そんな太鼓が売れるもんかね。いいかい、お殿様はお駕籠で通行中に音をお聞きになったんだよ。金蒔絵なんかしてあるいい太鼓だと思っている。そこへそんな煤だらけの太鼓を持っていってごらん。『かようなむさい太鼓を持ってきた道具屋、けしからん。当分帰すな!』かなんかいわれて、若侍に捕まって庭の松の木にゆわえられて、大きなアリに食われる。アリに食われて帰ってこい」。
  この女房の論理は女性特有の飛躍を伴ったロジックで、しばしば男性が悩まされるものです。つまり「太鼓が汚いので大名が怒る」「若侍に捉えられる」「庭の松の木に縛られる」「大きなアリが刺す」という具合に、可能性の特殊点をつないでいって、リアリティのある全体のストーリーを作るというやり方です。
  たとえば「あなた私を放っておくの」「一人きりのとき強盗が入ってきたらどうするの」「殺されるかもしれないわよ」「殺されてもいいと思っているのね」「人殺し!」というロジックの展開と基本的に同じものです。

 
 

セールストークを指示する
  女房はさらに、大名のお屋敷に行ったときの亭主のセールストークに懸念を抱きます。そして「向こうで『この太鼓いくらだ』とこういったら、お前さん、いくらっていうつもり?」と聞きます。すると亭主は「一分で買ったんだから、三分かなんか・・」。
  すると、女房は「それがお前さん、バカの取締まりだてえんだよ。『市で一分で買ってまいりました。口銭はいりません。一分で結構です』てえんで売っちまわないといけないよ。いいかい忘れないようにね」とアドバイスを与えます。
  女房がこの時点で考えていることは、「この煤だらけの太鼓を見たら、お殿様は失望し、機嫌を悪くするに違いない」「しかし町人にわざわざ運ばせたのだからということで駄賃程度くれるかもしれない」「そのときには小細工をせず、仕入原価をありのままに告げた方が相手の心証を害さずにすむ」「かりに利益がゼロだとしても、デッドストックになるよりはマシだ」ということです。こうした判断が亭主に対するアドバイスに反映されているわけです。

 こうして亭主は太鼓を風呂敷きに包み、背中に背負って店を出ます。太鼓を背負って出た亭主にうしろからまた女房が声をかけます。「いいかい、お前さんは普通の人間と違うんだから、血の巡りが悪いんだからね。そこんところをよく考えておくれ」。女房にこれだけいわれれば、たいていの亭主はアタマに来て、夫婦喧嘩になるところですが、甚兵衛さんのところはなりません。
  しかし、さんざん女房に罵倒されて家を出た甚兵衛さんとしては、どうも面白くありません。彼は歩きながら考えます。「なにをいってやがんでえ、ちくしょうめ。あんなかかあてのはないね。ひとのことをバカだ、バカだって。だれが自分のことをバカだって思えるんだい。本当に亭主をなめやがって。ひょっとするとああいう女は、生涯うちにいるかもしれねえ」。
  そして彼は女房には直接面と向かっていえない反撃を、歩きながら試してみます。「なんだ、てめえなんか、いやならどこへでも出ていきやがれ。なぐりつけてやるぞ」。するとちょうどそこが訪問先の門のところで、門番が立っています。門番は、「なぐりつけてやるぞ、こんちわ」という甚兵衛さんを認めて、「やあ、ヘンなやつが来たな。なんだそのほうは」という対応になります。

 屋敷の中に通された甚兵衛さんは、応対に出た武士におっかなびっくり太鼓を差し出します。その武士は太鼓を殿様のところへ持っていって見せてくる、といいます。甚兵衛さんは「これ、向こうに見せるんですか」と弱気になり、「殿様に見せないで、あなた買ってください」などともちかけますが、相手にされません。
  武士が太鼓を持って席を立つと、甚兵衛さんはいよいよ不安になり、半分腰を浮かした状態になります。「ありゃ、買わないよ。いまに怒って出てくるよ。『かようにむさい太鼓を持って参って、道具屋!』っていったら、さよならっ、て逃げちゃおう。太鼓だけ損すりゃいいんだからね」。ということは、甚兵衛さんの頭には、女房からいわれた先ほどの悪いシナリオがインプットされているわけです。
  ところがお殿様のところに太鼓を見せに行った武士はニコニコして戻ってきて、殿様がたいそう御意に入ってお買い上げになる、といいます。ここでいよいよ販売価格の交渉となります。
  「あの太鼓いくらで手放すな?」と改めて聞かれると、甚兵衛さんは不意をつかれて、「あの太鼓をいくらで手放すのだ、・・ということをあなたはおっしゃるのですか」などという、わけの分からない返事をしてしまいます。

 
 

十万両から交渉開始
  ここで甚兵衛さんは女房に教わった通り、「一分でございます」といいそうになるのですが、その前に先方の武士が次のようにいいます。「遠慮することはない。申してみよ。商人というものは、儲けるときに儲けておかんと、損のできるときもあるからな。金子のところは拙者がはからってやる」。そしてこの武士は次のようにいいます。
  「こんなことをいっては殿にははなはだあい済まんことであるが、殿が御意に入っていなければ仕方がないが、たいそう御意に入っておられる。手いっぱいに申してみよ」。
  これでお分かりのように、この武士はなかなかいい人物です。そしてこの家中は決して貧乏な藩ではなく、経済的にゆとりがあることが分かります。もし経済的にゆとりのない藩なら文化財に投資することなど思いもよらないことでしょうし、かりに文化財に興味があったとしても、道具屋をだましたり、脅したりしてでも安く買おうとするに違いありません。とくに購買係の担当になっている武士としては出費を嫌うでしょう。
  「手いっぱいに申してみよ」といわれた甚兵衛さんは、両手をいっぱいに広げます。これを見て武士が「それはいくらだ」というと、甚兵衛さんは「十万両」と答えます。「そりゃ、高い」といわれると、甚兵衛さんは「その代わり、値切ってください。いくらでもおまけしましょう。きょう一日中どんどんまけましょう」。

 彼は目下精神錯乱状態にあり、何をどういっていいのか分かりません。彼にはもともとこの太鼓について「一分」、あるいは「三分」という価格イメージしかないのですからとっさに適当な返事ができないのです。ただ彼に分かっているのは、ここで求められている答えは「一分」でもなければ、「三分」でもない、ということだけです。
  購買係の武士もよく見れば「この道具屋はちょっと足りないな」、ということが分かるのですが、彼はそんなところにつけ込むようなことはしません。そこが武士なのです。彼は「では、拙者の方から切り出すから、それでよければ売れ」といい、「あの太鼓、三百金でどうだ」と指し値をします。
  この三百両という金が太鼓の値段として高いのか安いのか、私たちには分かりません。ただ、この武士が購買係として決してバカな対応をしているわけでないことはたしかでしょう。おそらく彼は殿様から「この太鼓なら、値はいかほどでもよいぞ」といわれているのです。それをこの武士なりに「おそらく五百両見当」と解釈し、交渉を「三百両」からスタートさせた、と考えるべきでしょう。

 この購買係の武士は「三百金」が、小判で「三百両」であることを甚兵衛さんに納得させるのに手間取ります。普通の人でさえ頭の中にないことに思い当たるには、ちょっと時間がかかります。ましてや金に縁のない甚兵衛さんにとっては「三百両」という大金など想像することさえできないわけです。
  甚兵衛さんは三百両を五十両ずつの包みで収受しますが、緊張のあまり二百五十両のところで水を一杯もらって飲みます。そしてすべて現金を受け取ると「ちょいとおたずねしますが、あの太鼓どうして三百両で買うんでしょう?」といいます。これは彼が人間らしい気持ちに戻ったことを示しています。自分は無価値だと思っていたものに三百両の値がついたのですから、当然といえば当然ですが、自分の利害に直接関係ないことにでも興味や関心を示すのは、精神の健全性のあかしです。
  甚兵衛さんに質問された購買係の武士は「そのほう分からんのか」と一応聞きますが、そのあとで「拙者にも分からんが」と前置きし、「殿はお目が高い。あの太鼓は見たところむさいようであるが、あれは火炎太鼓と申し、世に二つというような名器、国宝に近いものだとおおせられた」と説明します。

 
 

火炎太鼓の材料はウバメガシ
  ではここで「世に二つというような名器」と判定された「火炎太鼓」とはどんなものだったのか、想像してみましょう。落語ではこの太鼓が「名器」らしいことが二つの場所で暗示されています。その一つは定吉がホコリを払い落とそうとして縁の部分にはたきをかけると、太鼓が思いがけぬ大きな音で鳴ってしまう、というところです。
  つぎに甚兵衛さんがこの太鼓を風呂敷きに包んで担ぐ部分で、彼は「重いなあ」といって太鼓の重さに改めて驚きます。そこで彼はお屋敷に行って武士に太鼓を渡すときも、「この太鼓の取り柄は重くて汚い、オモキタナイだけですよ」と念を押します。スピーカーの性能などもそうですが、振動によって発音するしくみのものは、自重が大切な要因になります。太鼓のつねならぬ重さは太鼓の品質を暗示するものと考えていいでしょう。
  日本の太鼓には二つのタイプがあります。ひとつは、いわゆる鼓のように皮を紐で締めている「締め太鼓」、もうひとつは皮を鋲で固定してある「鋲打ち太鼓」。静御前にまとわりついて忠信狐が恋しがったのは「締め太鼓」の方です。話の流れから察すると、どうやらこの火炎太鼓は「鋲打ち太鼓」のようですね。「火炎太鼓」の「火炎」というのは、縁の装飾版にほどこされたデザインの特性を表現したものです。

 雅楽で使われる大型の据付型の太鼓の中に、豪華な火炎の装飾がついたものがありますが、火炎太鼓はあの大陸的な装飾の流れを汲んでいるものと見ていいでしょう。甚兵衛さんが背負って持っていったところを見ると、太鼓の大きさはせいぜい五十センチパイ程度、胴の長さはパイよりも短めであることが察しられます。これは、おそらく雅楽か能楽に用いられたのでしょう。
  それではこの火炎太鼓のモデルになるような太鼓が実在するのでしょうか。これについては深津正・小林義雄共著になる「木の名の由来」という本の中に紹介されている、熱田神社の火炎太鼓の話が参考になります。この本によりますと、熱田神社には鎌倉時代に作られたとみられる直径が九十二センチ、奥行き六十七センチの火炎太鼓が、県の文化財として保存されているそうです。これは「だ太鼓」と呼ばれる形式のものだそうです。この火炎太鼓は私たちが想像した太鼓よりも大きなものですね。このサイズでは甚兵衛さんも風呂敷きに包んで背負うことはできないでしょう。

 さてこの火炎太鼓の材質ですが、これはウバメガシなのだそうです。「木の名の由来」では九十センチの径の太鼓を作るには、胴回り三メートルの原木が必要だろうと記しています。そしてそのような巨大な原木があるのかどうかを確認しています。この本によると香川県の白鳥町に胴回りが六メートルもあるウバメガシが天然記念物として指定されているそうです。
  ウバメガシは私たちが家の垣根の木や庭木として、どこででも見ることができる、ありふれた木です。どちらかというと地味な常緑樹で、葉っぱは小さく、縮れたような感じがします。葉っぱからは想像できないのですが、これでも樫の木の仲間で、細い金鎖のような花をつけた後、小さなどんぐり状の実がなります。
  私たちの身の回りにあるウバメガシはいずれも低潅木で、胴回り三メートルなど思いもよりません。私がこれまでに見た都内最大のものは、直径三十センチぐらいのものでこれを材料にして太鼓を作ることなど考えられません。熱田神社にあるものは本当に貴重なものだと思います。
  かりに甚兵衛さんの太鼓の直径が五十センチとすれば、これでも相当なもので、原木入手から考えれば価値あるものといわなければなりません。ウバメガシの成長には長い時間がかかり、それだけ緻密で重く、しっかりした楽器の素材になるのでしょう。

 
 

数奇な運命を持つ太鼓
  これだけの太鼓を作った、あるいは作らせた人は一体だれだったのでしょうか。そしてどうしてこの太鼓は本来あるべきところからさまよい出てしまったのでしょうか。おそらくこの太鼓には名門没落の歴史があり、権力者たちの争いと忘却の歴史が刻まれているにちがいありません。
  やがて太鼓は、その価値を知らない人の手にわたり、無造作に放置され、煤だらけになり、がらくた道具と一緒になりました。市にこれを出した問屋は厄介払いをするつもりで「甚兵衛さん男気を出して、これ一分で買ってくんねえな。古くて味があるよ」といったのですね。そこで甚兵衛さんは男気を出してこの太鼓を仕入れました。
  太鼓は定吉が煤を払おうとした瞬間に、長い眠りから覚めて澄んだ音を立てました。太鼓は甚兵衛さんの店先で、自分のいやしからざる生まれを主張したのです。こうしてみると、価値ある文化財に敬意を払うお殿様にとって、「三百両」は決して高い買い物ではなかったことが分かりますね。

 商品の価値は、それを求める人との関係で決まります。砂漠で干上がっている人にとって、コップ一杯の水は万金に値します。海で溺れかかっている人に、「水を一杯どうぞ」といっても喜ばれません。だれに、なにを、どのようなタイミングで提供するか、それを考えるのが商売なのです。
  甚兵衛さんはもとより、そのように気のきいた工夫ができる人材ではありませんが、偶然から商機をつかみ、買い手が紳士的であったために大儲けをしました。このところ、落語では次のようになっています。武士が「・・国宝に近いものだとおおせられた。その方、どこであれを手に入れた」と聞きますと、甚兵衛さんはこれに答えず「じゃあ、あっしは儲かったんですね。ありがとうございます」というのです。
  つまり、甚兵衛さんは相手が納得して購入したというウラを取ったわけで、これで取引きがまっとうなものであることがはっきりしました。いくらダメオヤジの甚兵衛さんでも一商人としてどこがポイントなのかは承知しているわけです。

 甚兵衛さんは門番に「商いはあったか。いくら儲かった?」と聞かれますが、なにしろ懐に三百両を抱えています。売上額を聞かれることは、懐に手を突っ込まれるような気がしますので、「大きなお世話だ」と捨てぜりふをして駆け出します。
  駆け出しながら甚兵衛さんは、「一分で売れ」といった女房のことを思い出し、またまた反発心がわきます。「うう、三百両。夢じゃねえかね。・・あのやろう、一分で売れ、一分で売れっていいやがんの。ここんとこをいうんだよ。男のバカと女のリコウとちがうというのは・・」。ということは甚兵衛さんは日ごろから女房の方が賢く、自分の方は愚かだということを多少は認めているわけですね。
  顔色を変えて帰ってきた甚兵衛さんを見て、女房は夫がてっきり買い手を怒らせて追いかけられてきたのだと判断します。そして「はやく二階に隠れておしまい」といいます。甚兵衛さんは「何をいってやがんでえ。二階なんぞにあがれるかい」と、正面きって反発します。人間、実績があるときには「何も恐くない」という自信が湧いてくるのですね。やはり人間には成功体験が必要なのです。

 
 

女房、亭主を尊敬する
  ここで甚兵衛さんは例の太鼓が三百両で売れた話をし、懐から三百両の現金を出して女房に見せます。甚兵衛さんの懐から五十両ずつ取り出される小判の包みを見て、女房はもう半狂乱の状態です。甚兵衛さんは「これを見やがって、てめえ、びっくりして、座りションベンして、バカになっちまうな」などといっていますが、また女房に次のように忠告を与えています。「おいおい、うしろの柱につかまれ、ひっくりかえっちゃうからな」。
  女房はここで思わず「お前さん、商売が上手だね」といいます。私はこの落語の中で、この部分がもっとも好きです。日ごろ頭ごなしにののしり、バカにしていた夫を、その実績によって彼女ははじめて賞賛したのです。
  これについてはいくつかの解釈が成立します。たとえば、彼女は見たこともない大量の現金を見て、頭がおかしくなり、普段決して口にしないような夫に対する褒め言葉を思わず口走ってしまった、というように解釈することもできます。

 また彼女は賢いので、夫の実績を率直に評価することによって夫をはげまし、夫のビジネスマンとしての成長を促進しようとしたのだ、と解釈することもできます。この解釈を取るならば、彼女はすぐれたマネージャーとしての素質もあるということになります。
  しかし、私は次のような解釈を取りたいと思います。すなわち、豊かな富は人間性を変えるということです。もちろん世の中には富がなくても人間性豊かな、立派な人がたくさんいます。その反対に、情けないことに、豊かな富を持ちながらじつに唾棄すべき人間性の持ち主もたくさんいます。
  けれども穏和で常識的な人物にとって、富の増加は気持ちのゆとりをもたらし、他人に対する寛容をもたらすということはあり得るのではないでしょうか。私たちが少しでも経済的に富みたいと思うのも、ビンボーによって気持ちがすさんだり、不健全な考え方を強いられるのがいやだからではありませんか。

 かりに友人がみな人並みの生活をしているのに、自分だけが経済的にひどく苦しい、というようなことがあれば、引け目を感じたり、恥ずかしいと思ったり、些細なことを当てこすりだと思ったりせずに交際することができるでしょうか。できないことはないでしょうが、それには相当の賢明さを必要とします。
  だからバランスの取れた普通の人にとって、経済的に豊かになることは原則として歓迎すべきことなのです。少なくともこの道具屋夫婦のようにお人好しで、無欲でさえある人々が経済的に恵まれたことは、この時点では好ましいことであり、祝福すべきことだったのです。
  彼らの人柄のよさが、彼らがもっとも幸福の絶頂にあるときの会話「うしろの柱につかまれ」「お前さん、商売が上手だ」という短い言葉のやり取りの中に、生き生きと描写されていることがお分かりでしょう。

 女房も先ほどまでは「おへそが背中から出ちゃうよ」などといっていました。彼女が頭ごなしに亭主をののしったのは、空腹という生理的条件のためだったのかもしれません。もしそうであるなら、彼女は変わるでしょう。経済は少なくとも下半身の条件を整備してくれます。下半身が安定すれば精神も落ち着きやすくなります。
  もちろんこれから道具屋がこの三百両をどのように生かしてゆくのか、あるいは失うことになるのか、それは分かりません。この落語のサゲは「これからは何でも音のするものに限る。オレは今度は半鐘を買ってきて叩くんだ」「半鐘はだめだよ。おジャンになる」というものです。
  これを聞いていると、甚兵衛さんが今回の取引きから得たマーケティング上のサクセス・ポイントは、あまり当たっているとはいえないようですね。この調子で、甚兵衛さん夫婦がこれから先商売を発展させることができるかどうか、ちょっと心配です。けれど、まあ女房がなんとかやりくりするでしょう。それに期待することにしましょう。
  志ん生の名演で名高い「火炎太鼓」。いかがですか。このようにしてみると、落語の中に、驚くまでに多くの人間的真理が隠されていることがお分かりになるでしょう。

 
   
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