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落語からのメッセージ
 
第4章 中村中蔵――工夫する人こそ真の仕事師

 五代目志ん生は若いころ講談をやっていたことがあったそうで、そのためかときどき語り口が講談風になることがあります。「中村中蔵」は、落語のジャンルとしては「人情話」に分類されていますが、どちらかというと講談口調で演じられます。
  「中村中蔵」は歌舞伎の歴史で名人とされた人です。下積みの時代に忠臣蔵の「定九郎」の衣裳について改革を行いました。この落語のテーマは、彼がこの衣裳のイノベーションに成功するまでの苦心談です。
  志ん生の落語は「今日は名人のおうわさをいたします」というところから始まり、まず最初に「名人」の定義を行います。志ん生によれば「なんにでも名人というものがあるんでございますな」ということになります。
  たとえば大工、左官、俳優、相撲などの職業が列挙され、そして「えー、それにたけている人を、まず名人というのであります」という明快な定義を与えます。私たちが「名人を定義せよ」といわれると、おそらくひどく理屈っぽくなるのではないかと思いますが、落語の方では、こういうところはすっきりしています。

 では落語が「それにたけている人を、まず名人というのであります」という定義だけで終わっているかというとそんなことはありません。ちゃんと実例がうしろに続いています。一見ひどく粗いようですが、説明は論理を追っています。
  彼はこの名人の定義の裏づけとして、「左甚五郎」を紹介し、甚五郎の名作「眠り猫」が作られたいきさつを説明します。
  「あの猫のまわりへ牡丹が彫ってありますな。猫のまわりだから鰹節なんか彫りそうなものだけれど、やはり、ああいう名人になってくると考えが違う。牡丹の盛りが、猫がいちばん眠いんだそうですな。甚五郎ぐらいになるてえと、心安い猫なんかがあって『お前の眠いのはいつごろだい?』。猫が『牡丹の盛りが眠いニャオ!』なんてことをいったんですな。そいであれをナニしたんだそうです」という具合です。
  またこの眠り猫ができると日光の町にねずみがいなくなったという話が紹介されます。「ただの猫じゃねえよ。あれはおめえ、左甚五郎さんの猫だから、おれたちはどっかほかへ行こうじゃねえか」。当時のねずみは名人に敬意を払うことを知っていたようです。

 「これは江戸時代のおはなしでございまして、葺屋町の市村座に、中村伝九郎という座頭がおりました。この伝九郎の弟子に中村中蔵というものがあった。これはまだごく下っ端でございまして・・」という具合に話の核心が始まります。
  ここでいわれている中村伝九郎は二代目伝九郎のことで、1700年代なかばにかけて活躍した、元禄歌舞伎を代表する大物座頭の一人です。この時代は同じ歌舞伎でも上方の方が格が上とされていた時代です。これに対してやがて宝暦、天明、寛政にかけて江戸歌舞伎が次第に隆盛をきわめるようになります。いわばその途上にある時期です。

 

みかけと実体の違い
  ところで、伝九郎の弟子の一人中村中蔵ですが、「えー、どうもこの中蔵というものが不器用で、もう、何をやらしてもうまくない。名人はごくずーっとうまいか、ごく不器用って人がなるんですな。そういうもんですよ」。というふうに、改めて名人の若いころの素顔がどういうものか説明されます。
  つまり名人は若いときからすばらしい天稟を示すタイプか、大器晩成型かのどちらかで、中途半端はないということを志ん生はいいたいのでしょう。ところが彼の話は少し視点がそれていきます。「名人は若いころ不器用である」が、いつのまにか「大仕事をする人は日ごろはパッとしない」というように話がすりかわってゆくのです。
  「甚五郎なんて人は」と彼は再び甚五郎を引き合いに出します。「普段はまるで馬鹿みたいな顔でボーッとしていて、そいでも仕事にかかるとすばらしい。大石蔵之助という人も昼行灯といって馬鹿にされた。それが、赤穂義士討ち入りのときには、あの人の力でもって大変な働きをした。普段ボンヤリしていても、いざとなるときにはじつに頼もしい」という具合です。

 下積み時代の中村中蔵が不器用であった、ということを傍証する例としては、「エジソンも、アインシュタインも子供のときは落ちこぼれだった」というような例の方がいいのですが、「名人は普段ぼんやりしているが、いざとなると立派な働きをする」というように、ロジックがどこかですりかわっています。
  「われわれの仲間でもボンヤリしているのがいます。だから『この人はいいだろうな、まあ名人だからよく付き合っておこう』ってんで、いざとなって相談しに行くと、やっぱりボンヤリしていたりして・・」。志ん生は、話をここに誘導したかったわけです。彼は「名人は見かけによらない」と「正真正銘の愚か者」との差を問題にしているのです。

 世の中には四タイプの人物がいます。「愚者にみえる愚者」「愚者にみえる天才」「一見天才風にみえる愚者」「いかにも天才風にみえる天才」。「いかにも天才風にみえる天才」のことはこのさい放っておくことにしましょう。
  私の考えでは、いちばん困るのは「一見天才風にみえる愚者」「有能そうにみえる無能者」です。これがビジネスマンとしてもっとも数多いタイプです。話をしていると、とうとうと論陣を張り、新語やカタカナ用語を使ってまくしたてます。それにトップや会社や業界の現状を批判したり、非難したりするのも巧みです。

 ところがそのような連中に、実際に仕事をやらせてみるとからきしだめ。決断力はないし、実行力もない、仕事は遅い、満足にレポート一つ書けない。こちらが外見から期待している分だけ落胆させられるというタイプです。
  これに対して「一見愚者にみえる天才」「外見に似合わず有能な者」、志ん生はこのようなタイプを事例を挙げて賞揚しているわけですね。つまり本当の実力者は、実力ありげな外観を示す必要がないばかりでなく、「大石蔵之助」のように、その意志や意図を隠さなければならないこともあるわけです。 志ん生が、「この人はいいなと思っていざとなって相談してみたら、やっぱりボンヤリしていた」というのは、彼が実際に経験したことなのでしょうね。
  私たちは他人に対する期待によって生きています。そして「有能そうな愚者」にさんざん失望すると、今度は「愚者にみえる人物」の方に、勝手に思い過ごしの期待を抱くということも出てきます。すると裏の裏をかかれるわけですね。
  もっとも先方は最初から「無能」の看板を掲げているのですから、確かめてみたら本当にボンヤリしていたといっても、相手の方を責めることはできません。

 
 

定九郎山崎街道にあらわれる
  さて話は横道にそれてしまいましたが、中村中蔵に戻りましょう。不器用な中蔵のところに配役がまわってきました。これはその役を担当する俳優が急に病気になってしまったためのピンチヒッターです。実力を買われての起用ではない、間に合わせの配役です。
  中蔵に振られたのは「仮名手本忠臣蔵」の五段目、山崎街道に追い剥ぎとして出てくる「斧定九郎」の役です。「仮名手本忠臣蔵」の内容は皆さんはよくご存知でしょう。四段目が有名な判官腹切りの場面です。
  判官の家来である勘平はおかると駆け落ちし、舞台はおかるの実家の里に移ります。勘平は例の騒ぎの中で現場を離脱したことをおおいに恥じ、何とか主人の恩義に報い、仇討ちに協力したいと考えています。そのためには資金が必要です。そこでおかるは愛する勘平のために、遊郭に自分の身を売って軍資金を作るということになります。

 北原白秋は「屋上庭園」という雑誌の中で「おかる勘平」という詩を書きましたが、この詩は当時の官憲の目に「風紀を乱すもの」とされ、発禁処分になってしまいました。この詩の中で白秋は勘平に愛されたおかるの心境を、エロティックに、おかるの言葉で描きました。白秋はそれほどまでに切なく愛された女だからこそ、男のために自分の身を売ることができたのだ、というコンセプトを表現したかったのですね。
  余談はさて置き、おかるの父親は娘を連れて京都に出、娘の体と引き換えに五十両の金を受け取りました。そして「夜道は危ないから」と止められたのも聞かずに、婿である勘平を早く喜ばせようと、山崎街道にかかってきます。すると、ここに斧定九郎が登場して、おかるの父親与一兵衛を切り倒し、金を奪います。このとき勘平は同じ山中を、鉄砲を持っていのししを追っています。そして勘平は定九郎をいのししと間違えて撃ち殺します。

 暗がりの中を勘平が近寄ってみると、自分が撃ったのはどうやら人間らしい。その死体の懐をさぐると五十両の金が出てきます。勘平はその死体が誰かをよく確かめもせずに、財布をひったくって帰宅します。その後に死体となった与一兵衛が、戸板に乗せられて運ばれてきます。
  勘平は自分が持って来た財布と照らし合わせ、自分が撃ったのは義父の与一兵衛だったと早合点し、自害するのですね。勘平はここでも父親の死因を確認していませんから、男ぶりとは裏腹にずいぶんそそっかしい人です。
  というわけで、中蔵に振られた役は与一兵衛を殺し、勘平に鉄砲で殺されるという、ちょいのまの端役です。この役について志ん生は説明しています。
  「定九郎という役は今は名代がやりますが、昔はあれはいい役者がやらなかったんですな。お客が見なかった。どういうわけで見ないってえと、昔は明かりで起きて、明かりでご飯を食べて見物に行ったんです。それで、大序、二段目、三段目と見てゆく。四段目の『判官の腹切り』でもって、うーんと見せられてしまって、そこでちょうどお昼になる。ここは弁当幕といってだれも見ない。客が見ないから、いい役者はそこに出っこないわけであります」。

 仮名手本忠臣蔵はワグナーの「ニーベルングの指輪」みたいな出し物で、とても長いお芝居ですから平常月の公演では全幕通しでやりません。「道行きの場」とか「一力茶屋の場」だけ取り出して演じられますが、それはちょうど例の「指輪」の「ワルキューレ」だけ上演されるのと同じです。
  志ん生の説明によると、昔は忠臣蔵は年二回、夏の暑い盛りと暮れの忙しい時期、いずれもお客の足が芝居から遠のく時期に、忠臣蔵が全幕通しで上演されたといいます。そうするとどんな時期でも観客を動員することができたというのです。忠臣蔵が年末に上演されるのは、討ち入りの時期との関係だと思っていましたが、かならずしもそうでもなかったようですね。
  ということで、定九郎が登場する場面は、昼食にかかる「弁当幕」ですから、役者は演技をしていてもお客の注意を引くことができません。中蔵の役は、あまり条件のいい役柄ではなかったことになります。

 
 

工夫する人が自分の仕事をする
  中村中蔵はこの台本をもらって考えました。「どうも考えてみるてえとおかしいよ。え、いくら弁当幕だといっても、舞台で役者が狂言をやっているというのに、お客がそれを見ねえということはない。これはお客に見せることを考えなくちゃいけない」。
  私はこの落語で、この部分がいちばん好きです。中蔵は「定九郎」の役を与えられました。この時点では役柄は自分に命じられた仕事であり、外部から規定された仕事です。
  ところが彼はその仕事の本質を問い直します。つまり「定九郎を演る」ということを、「舞台の上に出て、定九郎の衣裳を着て、定九郎の所作をして、定九郎のせりふをいうこと」というふうには考えません。
  彼は「お客が納得するような定九郎を見せ、お客を喜ばせること」を自分の仕事として受け取り直します。この瞬間に「与えられた仕事」は、「彼自身の仕事」に転換します。この、仕事の「受け取り直し」は、どんな小さな仕事についてもいえることで、与えられた仕事を与えられたままの条件で、そのまま実行するのは、平凡な仕事師です。

 かりに上司が「どうしてこんなやり方をしたのだ」というと、平凡な仕事師は「だってこうしろという命令でしたから」という返答をします。仕事は与えられたままの状態ですから、結果が悪いとすれば、命令した方が悪い、といういいわけができるわけです。ま、百人中九十五人まではこの仕事のやり方をしているのではないでしょうかね。
  この考え方で仕事をした場合、中蔵は「お前の演技は下手だ。だれも見ていなかったぞ」といわれたとき、「だってあそこは弁当幕ですからね。仕方がありませんよ」といえるわけです。このロジックを現在でも多くの人がおおいに活用しています。
  「仕事はこれだけではありませんからね。予定通りできるわけがありませんよ」「この景気では何をやってもだめですよ」「市場の価格が下がっていますから」。これらはいずれも弁当幕に対する平凡な仕事師のいいわけパターンです。

 中蔵は「お客に見せることを考えなくちゃいけない」と考えました。この瞬間に中蔵独自の工夫が始まりました。とはいってもいきなり解決方法が見つかるわけはありません。けれど、あれこれ考えてみて中蔵は定九郎の装束がどうも気に入りませんでした。
  その時代には定九郎は夜具縞のどてらを着て、たっつけをはいて出てきたといいます。たっつけというのは、たっつけ袴のことで、旅行用に足のところを紐で縛った袴のことです。着物のすそが足に絡まなくて歩きやすかったのでしょう。
  たっつけに夜具縞のどてらとくれば、これはまさに山賊の親分のイメージです。実際定九郎は山賊なのですから、これでいいといえばいいのですが、中蔵は「定番」になっているこの衣裳に疑問を持ちました。

 というのも、ここに出てくる定九郎という人物は、浅野内匠頭(芝居では判官塩冶)の家来、斧九郎兵衛(芝居では斧九太夫)の息子なのです。この九郎兵衛、すなわち九太夫は、もと判官に仕え、五万三千石の扶持をもらっていましたが、判官切腹におよんで敵師直のスパイとなり、大石蔵之助(芝居では大星由良之助)に仇討ちの意志があるかどうかを確認するという役柄を受け持ちます。
  一力茶屋の場面で、斧九郎兵衛は明日は主君の命日とあって精進をしたい由良之助の心を試すために、わざと蛸の刺身をすすめるという一幕があります。これによって由良之助の遊興が単なる演技であるかどうかを確かめようとするわけです。いやな男です。

 
 

山賊になり切れない山賊のファッション
  山崎街道に出てくる定九郎は、この斧九郎兵衛の息子です。主君の家が取り潰しになり、家来たちはみなちりぢりになり、その家族も難儀をするわけですが、そうした中で、定九郎は自分の家を飛び出し、金欲しさからにわか山賊に身を落としたのですね。 
  落語の中で中蔵は次のようにひとりごとをいいます。「どうも定九郎のなりが気に入らない。世にあるときは五万三千石浅野内匠頭の家来、斧九郎兵衛のせがれの定九郎が、いくら零落して『切り盗り強盗、武士の習い』とはいっても、夜具縞のどてらを着て、山崎街道に追いはぎに出てくることはない。これにはなんか、ふさわしいいいなりがなくちゃならないはずだ・・」。

 ここで中蔵は、定九郎という人物のキャラクターに迫ろうとしているわけです。夜具縞のどてらにたっつけ、という装束は長年山賊をやっているプロの装束です。ファッションなどにはおかまいなしの、中年のおいはぎの格好です。いくら昔とはいってもダサいことおびただしい。
  ところが定九郎はまだおそらく二十五六でしょう。例の切腹事件から一年しかたっていないのですから、定九郎もプロの山賊になりきっているとはいえません。中蔵はそこに疑問を持ったのです。「山賊になりきっていない若い山賊をどう表現するか」。
  そうはいっても中蔵は、いくら考えてもいいアイデアを思いつきません。それはそうですよ。すばらしい解決法が、いきなり出てくるわけはありません。昔の人はこういうとき神仏に祈願をしました。自分の能力の限界を率直に認め、奇跡を願ったのですね。

 中蔵は柳島の妙見様に願をかけました。この妙見寺について志ん生は次のように説明しています。「柳島に妙見様というのがあります、今でもありますな。柳島の終点のところにある。昔はあのまわりはずーっと田んぼでございまして、えー、ただ妙見様があるだけなんです。そこへみんないっちゃ花柳のものが信心をしたもので・・」
  現在でいうと、都営浅草線の押上駅とJR両国駅、それに錦糸町駅を結ぶ三角点の中間にあります。額には「妙見山」となっていて、妙見堂のほかに「かもめ稲荷」などというお稲荷さんが同居しています。現在は都会地の中に残った小さな社寺の一つといったところですが、昔の地図で見ると、大きな敷地を持っていたようです。ここには勝海舟が子供のころけがをしたときに、祈願をして助かったという話が掲げられています。
  「花柳のものが信心をした」というのも、ここが元吉原、新吉原の中間位置に当たっていたからでしょうね。
  ところで中村中蔵が当時住んでいたのは、葺屋町、職場である市村座の近くと思われます。といいますのも、彼は芝居が終わった後、すぐに親方に呼び出されていますからね。この葺屋町は現在でいえば日本橋の北側に相当します。ここから妙見様まではおそらくざっと四キロ、往復にたっぷり二時間はかかったでしょうね。

 
 

目の前にモデルが出現する
  「どうか定九郎にふさわしいなりを、あたくしにお授けくださいませ・・」。中蔵は三七、二十一日の間、妙見様に一心不乱に通って祈りましたが、どうしてもいいアイデアが浮かんできません。公演初日は間近かに迫っています。結局満願の日になっても中蔵の頭の中は真っ白で、何も思いつきません。
  満願の日、中蔵が妙見堂から出てきますと、いきなりにわか雨になってきました。中蔵は近くのそばやに駆け込みました。ここで中蔵がかけそばを食べていると、一人の浪人が入ってきました。この浪人の姿を見て中蔵は驚きました。自分が探し求めていた定九郎にぴったりのイメージなのです。
  「はッ、これだ! 定九郎はこのなりだ。これでなくてはいけねえ、これだっ、うーん、うーん」。すると浪人は、中蔵の方を見て、「何だその方は? なにゆえあってみどもの姿を見て、うなっているかっ?」。

 このときの浪人の姿を志ん生は次のように説明しています。「五分月代という頭、着ているものはってえと、黒羽二重の、その裏を引っぺがして、夏に間に合わしている。白献上の帯を締めて、大小をさして尻を高くはしょって、スッと入ってまいりました。さしていた蛇の目の傘を向こうへぱーっと放っておいて、『そばぁくれぃ』」。
  「この月代の濡れているやつを、向こうにパーッとなぜあげておいて、立って、このたもとをこう絞っておりますが、色の白いところへ羽二重が濡れているためになお黒く、その配合のいいといったらない。年ごろ二十六七。鼻筋の通った、目元にギョロリと凄みがある、いい男でございまして・・」。
  中蔵は「定九郎」のことで頭が一杯になっているので、目の前に自分の探しているモデルを発見して飛び上がったわけですが、何でもしっかりテーマをもって追求している人は結局ヒントをつかむことができるのですね。これがテーマなしにぼんやりしていれば、目の前にモデルがあらわれても見過ごしてしまいます。

 中蔵はこれこそ「妙見様の御利益!」と思いますから、目の前の浪人も他人とは思えません。早速間近かにいって衣裳のディテールを確認し始めます。
  「えー、お召し物は羽二重でございますか・・。はっ、失礼ながら、羽二重の・・表を? はあ、そうですか。へえ、御帯は・・、はっ、琥珀ですか。あたくしはてっきり博多だと思いました。え、お刀は、鞘は蝋色ですか」。
  これに対して武士の方は「何でそういうことを聞くんだ、その方は、古着屋か?」と迷惑顔です。中蔵の方は委細かまわず「おつむりは・・お月代はどのくらい伸びておりますか」などと聞きますので、「分かるか、そのようなことが、なんだっ!」ということになります。中蔵の関心は浪人の持っていた傘に移ります。
  武士は「浪人と侮って、こんな破れた柄漏りのする傘を貸した。・・そんなもの、見るな」といいますが、中蔵は傘を手に取ってまたディテールを確認します。「ちょっと拝見、なるほど、ここが、こう破けている。これを、こうかついで、えー、どうもいい傘ですね」ということになる。武士のほうは「そんな傘、どこがいい?」。

 
 

観客おどろいて声も出ず
  こうして観察がすむと、中蔵はこの浪人の装束をヒントに定九郎の衣裳を整え、だれにもいわずに初日に備えました。
  初日は旧暦七月十日だったそうです。中蔵は破れ傘を水を入れたたるに漬けておき、自分は湯殿へ行って頭から数杯の水をかぶります。なにしろ、彼が出るところは雨の場面なのです。
  五段目の前半は早野勘平が街道で偶然千崎弥五郎と出会い、自分なりに軍敷金を用立てするから、それを仇討ちの資金に役立ててくれるように頼む場面です。そして後半が勘平の義理のおやじ与一兵衛が、娘が身を売って作った五十両の金を持って街道にさしかかる場面です。ここでは雨が降ったり止んだりしています。床の浄瑠璃が歌います。
  「デデンデンデン・・またも降り来る雨の足、人の足音とぼとぼと、道の闇路に迷わねど、子ゆえの闇に突く杖も、直ぐなる道の堅親仁、一筋道のうしろより・・」と、ここで定九郎の登場です。定九郎は花道の奥から登場します。

 「チョーンと揚げ幕があくと、『おおーいッ』通ってまいりましたそのときの中蔵は、こわれた蛇の目の傘ぁ水ぃつけといて、こいつをピヤーッと開いて、グルグルーっとまわしながら舞台にかかってきた。そうして上手にいく与一兵衛を、下手へサーッと蹴倒しておいて、そしてこの破れた蛇の目の傘を担いで、ぬれねずみになって見得を切った」。
  中蔵としては、「この定九郎はどうだ」という気持ちで、演技をし、プレゼンテーションをしたのですが、このときの観客の反応はゼロ、だれも何にもいわない。そこで中蔵は「これは、やりそこなったな」と思うのですね。
  このときの観客の状態を志ん生は次のように説明します。
  「これはやりそこなったんじゃない。中蔵の定九郎があんまりいいんで、客がほめる度を失ってしまったんですな」。「・・客は弁当幕だから、なんだってんで、食べて見ていなかったんだけれども、ターッと水がかかってくるから、何だろうと思ってヒョイと正面を見るてえと、いつもの定九郎と違うその定九郎なので、『ああーっ』ってんで順に息をのんで、何もいわない。だから中蔵はやりそこなったと思った」となります。

 中蔵は「ああ、おれはこれが桧舞台の踏みおさめだ」と思うから、やることは充分やって家に帰ってきました。そして女房に「定九郎でやりそこなった。これから夜逃げだ。家のものを片っ端から売って、旅に出る」といいます。
  そこで道具屋を呼びにやって家財道具一式の買い値を見積もらせます。道具屋がやってきて見積もると、家財道具一式で、「二分」だという話、中蔵は「何とか三分で買ってくんねえ」と交渉しますが、道具屋は「とんでもない。金目のものは何もない。いやならあたしも無理に買わなくてもいいんだ」というニベもない返事。

 そこへ師匠の伝九郎から中蔵に「すぐに来るように」という知らせが入ります。しかたがありませんから、道具屋を待たせたまま彼は親方のところへ駆けつけます。
  てっきり叱られると思って中蔵がコワゴワ入ってゆくと、伝九郎は「今日は暑かったろ、・・あの、茶を持ってきてやんな、さあ、布団敷きねえ、布団敷きねえ」という、いつにないねぎらいのあいさつです。中蔵が「師匠の前で(布団の上などには座れません)・・」と遠慮すると、伝九郎は「いいや、今日は敷いてくれ」といい、「今日の定九郎は、あらぁどうしたんだ」と切り出します。

 
 

伝九郎、中蔵をほめる
  中蔵は自分がやりそこなったと思っていますから、「へえ、どうも申し訳ありません。どうあやまっても、おっつかねえんでございます」と謝罪します。
  これに対して伝九郎は「何が申し訳ないんだ。え、中蔵、いーい定九郎だったな。あらぁ、おめえが考えたのか」と中蔵には思いがけない賞賛の言葉を述べます。そして「え、おらぁ、なんだか知らねえが、客があんまり変だから、またおめえがやりそこなったんじゃねえかと思って、揚げ幕からヒヨイと舞台を見て、おれが驚いた。客なんてものは、まるで唖然としちゃって、気をのまれて、言葉が出ねえや」。

 ふだん小言ばかりいわれているきびしい親方から、思いがけないほめ言葉をもらって、中蔵は大感激です。この伝九郎が次のようにいう言葉を聞いてください。
  「なるほど・・。斧九郎兵衛のせがれが零落をして、斬り盗り強盗、武士の習い、山崎街道にでるなぁ、あのなりでなくちゃいけねえ」。中蔵が工夫した定九郎は、ある意味では論理的な帰結です。具体的な解決のヒントは偶然得られたものですが、着眼点には論理性がありますから、親方も、そこを評価しているわけです。
  「よくあすこまで、おめえは踏ん切ってやってくれたなぁ、礼をいうよ。な、このなりは歌舞伎へ残さぁ。おめえの苦労をなぁ。この煙草入れな、おれが大事にしているんだ。これをおめえにやる。それからここに金が二十五両ある。これはおれがやるんじゃねえ、役者一同が、おめえがその定九郎のなりを考えてくれた礼だ。取っときねえ」。

 伝九郎が中蔵を呼びにやったのは、おそらくまだ忠臣蔵の劇が進行している最中だったに違いありません。さすがに伝九郎は人をほめるタイミングを見失いませんでした。彼は五段目が終わるとすぐに楽屋に戻ってきて「中蔵を呼べ!」といったのですね。
  伝九郎は中蔵が考えた装束が歌舞伎の型として残せるものと判断しました。劇の装束に関するアイデアはソフトウエア中のソフトウエアです。まして著作権も意匠権もなかった当時、これに価値を認め、料金やボーナスを払うということがどの程度一般的なことだったのか、私には分かりません。
  しかし伝九郎はその価値を認め、評価し、「礼をいうよ」といいました。そしてさらに愛用の「煙草入れ」を与え、自分個人がどの程度中蔵の工夫を喜んでいるかを表現しました。その上で「役者一同」という名目で、二十五両のボーナスを出したのです。

 ちなみに当時の立作家の年収は約百両だったといいます。中蔵の家財道具は全部で二分ですから、二十五両は破格の賞与です。しかし伝九郎には、この「定九郎が評判になって芝居が成功する」、というビジネスマンとしての見込みがあったのでしょう。
  忠臣蔵は当時としてはまだ比較的新しい作品でしたが、すでに「ロングセラー」としてのゆるぎない地位を築いていたのです。
  いま私の手元には二代目尾上松緑が演じた「定九郎」の写真があります。この定九郎は紋付きの黒羽二重、尻を高くはしょり、口には縞の財布をくわえ、血刀をもって見得を切っています。頭はすっかりのびた月代で、ややさんばらぎみ。顔は白く、悪党とはいっても若々しく色気のある山賊です。中村中蔵が工夫した型が今日にまで脈々として継承されていることが分かります。

 
 

だれもが中蔵でなければならぬ
  では、この落語「中村中蔵」からのメッセージを整理してみましょう。
  それは何よりも中蔵の仕事への取り組みの態度です。与えられた仕事と、自分の仕事の違いは自分独自の工夫を加えようとするかどうかにかかっています。人が「やらされている」と考えているとき、その人は工夫しようとしていないと考えていいでしょう。
  仕事が面白いか、面白くないかということも「与えられた仕事」か「自分の仕事」かによって大きく変わります。自分の仕事は面白く、他人の仕事はどうでもいいのです。
  中蔵は「あるべき定九郎像」に迫りました。自分独自の工夫といっても「一人よがり」では値打ちがありません。中蔵の「定九郎像」は、定九郎の生い立ちから想定して必然的に帰結したものでした。だから観衆は虚を衝かれたのです。つまり月並み化し、定型化された山賊イメージを否定した、その論理回路を観衆はたどらなければならなかったのです。
  工夫が果たして一人よがりのものかどうか、これを決定するのは結局「顧客」です。顧客の反応は、中蔵の初回のプレゼンテーションにはついてくることができませんでしたが、いずれにしても中蔵の工夫は観衆の注意を引きつけ、肯定的にびっくりさせました。

 リーダーとしての伝九郎についても考える価値があります。彼は日ごろは口やかましい親方でした。口やかましいということは、要求水準が高い、ということです。アランは「人はその要求するところにしたがって苦しむ」といっていますが、小言ばかりいっているリーダーは、あるべき水準に照らして苦しんでいるのです。
  ところが伝九郎は、ひとたび自分が考える以上の成果を部下の中に発見したときには、すばやく文句なしにこれを賞賛しました。つまり「いいものはいい」「悪いものは悪い」で、はっきりしていたのです。世の中には、いいものも悪いものも判別できず、年中どっちつかずの態度を取っているリーダーが多すぎるんじゃありませんか。
  仕事の「いい、悪い」は、最終的には損益の形を取りますが、そのプロセスで仕事の質を判断するのはリーダーの仕事です。瞬間的に仕事の質を判断できるからこそ、リーダーには確たる権威があるのです。

 伝九郎は観客のただならぬ沈黙の気配を察知して、揚げ幕から舞台を覗きました。つまり部下に仕事を任せはしても、注意を怠らなかったのです。もし彼自身が「定九郎」を自分の目で見ていなかったら、初日に彼を正しく評価することはできなかったでしょう。
  この落語は、中村中蔵自身が書いた「手前味噌」というエッセイに取材した話です。今から二百年も前の実話がもとになっているわけですが、こんにちの私たちに「仕事とはなにか」を教えてくれます。私たちはだれもが中蔵、あるいは伝九郎でなければならないのです。

 
   
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