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落語からのメッセージ
 
第7章 替り目――笑われる人は幸いである

 志ん生は、その自伝的な「びんぼう自慢」という本の中で、「『替り目』てえはなしがあります」と書いています。そしてこの話のあらすじと、とくに終わりの部分を紹介して、「・・てえんですが、ここんとこを演るたびに、こいつあ、あたしがウチのかかァにそういっているんだという気になりますよ。身につまされるはなしてえと、このくらい身につまされる落語(はなし)ってありませんよ」といっています。
  この落語はこんにちでは古典に違いありませんが、時代はおそらく大正か、昭和の始め頃ではないでしょうかね。別名を「元帳」といったとあり、また、志ん生が話を終わった部分以後にも話の続きがあり、別の噺家は先をやったとあります。
  残念ながら私の手元には二種類の「替り目」の録音しかありませんので、これをもとに話を進めてみたいと思います。この作品にはいくつか矛盾があり、どうしても理解できないところがあります。また「替り目」という題の意味も私としてはいまだによく分かりません。

 けれどこの落語は私にとって特別の感慨を与えてくれる作品です。私にとってももっとも身につまされる話なのです。私の父はひどい酒飲みで、よく母を泣かせました。父は酔って帰ってきて、さらに家で飲み直さないと気が済まないという、この落語に登場するのとまったく同じタイプの、始末の悪い酒飲みで、どうかすると大暴れをしたりします。
  ですからこの酔態をうまく表現した落語は、私にとってとても他人事ではなく、これを聞くたびに昔のわが家を見るような、懐かしく、切ない思いがするのです。
  この落語の枕は「酒」の話から入っています。私が持っている一方の録音では「春は酒というもので・・」というように、酒の讃美から話が始まっています。そして喧嘩の仲直りには酒を用いるが、おしるこを使って喧嘩の仲直りをすることはできない、という話が披露されます。
  もうひとつの録音では、酒飲みにもいろんな「上戸」があること、それから酒に弱い人の話が紹介されます。「『・・ああ、あたしぐらい酒に弱い者はありませんよ。いま酒屋の前を通って酒のにおいがプーンとしたら酔っちゃったんですよ』というと、『あーあ、そうですか・・』てんで、聞いていた人が真っ赤になっちゃった」。

 

酔っ払い家に帰る
  いま落語の主人公である一人の男が、ご機嫌に酔っ払って道を歩いてきます。「さあ、矢でも鉄砲でも、持ってこい。逃げちゃうから・・」「・・なんだって、おれの顔を見て逃げやがるんだ・・女め。酔っ払いに食い殺されたものがあるか、何にもしやしねえや、ただ、ほっぺた舐めるだけだ・・」。往来を酔っ払ってふらふらしている人は困りますよね。女性が逃げてゆくと、わざとそっちの方によろけていったりする。
  北原白秋の歌に、「そこ通る女子とらへてはだかにせう、というふたれば皆逃げてけるかも」というのがあります。白秋も名うての酒飲みでしたから、酔っ払って道路をふらふらし、あわよくば通りがかりの若い女性に抱きつこうなんて気持ちになったことは、いくらもあったに違いありません。

 さて、先ほどの酔っ払いがふらふら歩いてゆくと、「大将、大将・・」と呼び止める者がいます。道路わきに客待ちをしている人力車の車夫です。するとこの酔っ払いは「大将とはナンだ、おれがいつ戦に行った?」などといいかえします。
  「クルマさし上げましょうか?」「そんなに力があるなら差し上げて見てくれ」「持ち上げるってんじゃありません。乗っていただきたいんです。・・かえり車です。安くやりますよ」「いやだよ、そんなあぶねえクルマ、ケガしちゃう」「ひっくりかえるってんじゃありませんよ」・・などというおかしなやり取りがあった後、酔っ払いは「そんなに頼むなら乗ってやる」というので、車に乗り込みます。
  クルマ屋が「危ないですから気をつけてくださいよ」というと、酔っ払いが「何いってやんでえ、たかがじんりき、あぶねえも何もあるもんか・・」。

 私が子供のころ、街の中をまだ人力車が走っていました。学校に行く途中にクルマ屋さんがあって、そこに何台か駐車してありましたので、いたずらした経験があります。人力車はたしかに不安定な乗り物で、梶棒が降りた状態と梶棒が上がったときの座席の角度が大きく変わります。それも不意に変わるのです。
  当時は一般庶民がふだん乗るにはちょっと贅沢で、これに乗るのは病院に行くときとか退院するときとか、そんな特別のときであったように思います。いつだったか母親が退院したときにクルマに乗ってきたことがあります。母が青白い顔をして、崩れるようにクルマ屋さんの肩を借りて降りてきたときの印象が鮮明です。
  今では人力車など博物館ものでしょうが、人力車の人間的なやわらかさ、福祉性に改めて着眼してもいいかもしれませんね。

 さて酔っ払いはクルマに乗り込みました。「どこへ行くんです?」「・・おれの方からおめえを呼んだんじゃねえや、おめえが勝手に乗っけたんだろうよ。どこへでもつれて行ったらいいじゃねえか」「どっか行くとこあるでしょう?」「行くとこねえんだ・・」「どっか行きたいね」「じゃ、おめえんとこへ行こう」「あたしんとこ来たってだめだよ、狭いんだから」「狭くたっていい。おめえと寝よう」。
  車夫がいっている「どっか行きたいね」というのは、「吉原とか、銀座とか、そっちの方に行きましょうか」という意味です。酔っ払って気が大きくなっている人を煽って、長距離を走ってもらおうという作戦ですね。しかし客はこの誘いには乗ってきません。
  「おめえんとこへ行こう」などと、とんでもないことをいい出します。「狭くたっていい。おめえと寝よう」というのも、ブキミでなかなか愉快ですが、車夫の「あたしんとこへ来たってだめだよ。狭いんだから」という、この生活のリアリティが、さらに愉快ではありませんか。ここに普通なら出てくるはずのないプライベートな情報が出てくるのです。

 
 

酒にはバッコスの魔力がある
  要するに車夫とお客の関係はオフィシャルなものです。ところが酒に酔った人間は、オフィシャルなカベを突き破る魔術的な力を持つにいたります。一緒にコーヒーを十回飲むよりも、酒を一回飲んだ方がずっと親しくなるというのは、この原理によるものです。女性を口説こうと思ったら、飲みに連れて行くのが一番だというのも、男性がこの魔術的な力を獲得するためです。
  ところで人力車は明治時代に発明された乗り物ですが、このドライバーの多くは地方からの出身者でした。彼らは道具一式を借り、着るものまで借りて活動をしていたといいます。彼らの住居も決して恵まれたものではなかった、といわれています。ここで「あたしんとこへ来たってだめだよ。狭いんだから」という言葉には真実味があるのです。

 さて、行き先についておかしなやり取りがあった末に、酔っ払いは車夫に向かって、「ここのうちを『こんばんわ』って、ひとつ、たずねてくれやい」と、目の前の家を指さします。車夫はいわれるままに「こんばんわ」と戸をたたき、出てきたおかみさんに「この親方が、お宅に寄ってくっていうんですよ」。
  すると中から出てきた女性は、「お宅に寄ってくったって、あたしんとこの人だよ」「あ、そうですか」「どっから乗っけてきたの?」ということになります。車夫は困って、「どっからってねえ、・・このお宅の戸袋んとこで乗っけたんです。ええ、・・まだクルマが動いてねえんですよ」。
  これでこの酔っ払いが、「おれは、どこにも行くとこがねえ」といっていたわけが分かりましたね。車夫は本人の家の前でお客を拾って、すっかりからかわれてしまったのです。事情をのみこんだおかみさんは気を利かせて、いくらかを車夫に手渡します。「いやいや、いいですよ、・・お宅の前で乗っけてお金なんぞもらっちゃあ・・」「まあいいから、とっといてよ。・・またお願いするわ、ああ、そこ、閉めといてくださいよ」。
  私はこの部分のやり取りが大好きです。旦那の悪ふざけに気づいてクルマ屋に心づけをしようとする奥さんも立派な大人としての常識を持っていますが、クルマ屋の方もいったんは遠慮していますね。彼にも仕事師としてのプライドがあり、しかも善良なのです。私は近ごろこのような日本人を見なくなったような気がしてなりません。

 さて話の前半はこのクルマ屋とのおかしな対話ですが、後半は家の中に入った酔っ払いと奥さんの対話になります。奥さんはこの旦那が相当に酔っているので、何とか早く寝かせてしまおうとします。ところが酔っ払いはいうことを聞きません。
  「いやあ、おれは、寝ねえ」「寝ないでどうするの」「ちょいとこんなことやるてえんだ」と男は杯を傾けるしぐさをします。奥さんは承知しているのですが、白ばくれて「なんだい、それは?」「こうやりゃ、酒だよぉ、こうやって硫酸なんか飲みやしねえよ」。
  酒飲みの男を家族に持っている場合、家族としてはいかに早く寝かせるかがもっとも重要な課題になります。私の親父の場合もずいぶん苦労しました。酒飲みは最後までサービスする人間を必要とします。そのサービスが並大抵のことではありません。

 酒がなくなればお代わりが必要ですし、サカナを要求します。それに水を持ってこいだの、何を持ってこいなどといいつけ、それにまた話し相手が必要なのです。うっかり気に触るようなことをいえば怒り出します。その場で飲みつぶれてしまえば、今度は洋服を脱がせて布団の中に入れなければいけません。こんなことも一年に一回ぐらいならガマンできますが、毎日のように同じパターンが繰り返されるとなれば、奥さんも身構えます。
  「ちょいと、こんなこと」という亭主のしぐさに対して「なんだい、それは?」という奥さんの質問は、酒飲みの世話をする大変さを知っている女性の当然のリアクションです。奥さんは次のようにいいます。「そんなに酔って帰ってきて、また家で飲もうったって・・、あたしゃ飲ませませんよっ!」。

 
 

亭主、お説教を始める
  これに亭主はカチンときます。「飲ませませんよ? 飲ませませんというほどの、おめぇは、この家で権利があんのか? なんだ、てめえは? この家のかかあじゃねえか、かかあのくせしやがって、女房の女。うー、おれはここのうちの主(あるじ)だぞ。一軒のうちじゃ主が一番えれえんだから。嘘だと思ったら区役所に行って聞いてみろ」。
  この発言はこんにちでは相当な問題を含んでいますね。この落語が成立した頃とこんにちの男女関係、夫婦関係は大きく変わっているのですね。
  ここで亭主に反撃された奥さんは、一軒のうちで一番偉いのが主人なのか女房なのか、それを区役所で教えてくれるのかどうかという問題にはあえて立ち入りません。「えらくないとはいってやしないよ。だけどもう飲めない!」。すると亭主は「いや、飲める、口から飲めなきゃ、鼻から飲む」なんて力みます。

 ここで男は女房に説教を始めます。「おれが酔って帰ってきたときに、『お帰りなさいまし、ずいぶん召し上がっているようですね、でも、外は外、うちはうちですから、私のお酌じゃおいやでしょうが、一杯召し上がったらどうぉ・・』とこういわれりゃ、『いやおそいからもうよそうよ』とこうなるんだ。そいつをてめえが『飲んじゃいけねえ』って百万年前のトカゲみたいな顔をしやがるから、おれの方も『飲むー!』とこうなるんだ」。
  すると彼女は「そういや飲まないの?」と聞きます。「そういやぁ気の毒だ、飲めなくなっちまわぁ」。そこで奥さんが「そうかね、そらね、あたしぁ支度はしてあるんだよ・・」といい、亭主に教えられた通りに、口調を真似して「・・一杯召し上がったらいかが?」といいます。すると亭主は「じゃ、飲もうか」。

 奥さんはだまされたと知ってくやしがります。結局飲むことになり、亭主は「つまみもの」を要求します。奥さんは「鼻でもつまめば」などといっていますが、亭主は今朝の食べ物の残りものをよく覚えていて、次々に名指しますが、彼女はみんな「食べちゃった」といいます。ここで亭主はまた説教を始めます。
  「食べちゃったぁ? なぜそう口をパクッとあくんだよ。大きな口だね。おれはいまてめえに飲まれちゃうかと思った。・・『あれをどうした・・』と聞いたらな、『あれは、いただきました』って、どうしていえねえんだ。女というものはな、口のききかたで器量をよく見せるんだ。・・『いただきました』っていえば顔が動かねえ、そいつを『食べちゃったあ』・・って」。

 酒飲みの相手というのは、こういうのが大変なんです。相手は理屈を言いますからね。そこで奥さんは「ああ、うるさいね。じや・・いただきましたよ」「うん、いただきましたっていわれりゃ、その言葉についておれは我慢をする。シャケがあったろう?」「シャケいただきました」「ラッキョウがあったろう?」「ラッキョウいただきました」「よくいただくねえ、おまえは。ずーっといただいているねえ、そいじゃあね・・」という亭主の言葉にかぶせて、「いただきました」。
  こうした会話の後、奥さんは結局横丁のおでんを買いに行くことになりました。彼女は出がけの身だしなみのために鏡台の前に座ります。すると男はいいます。「また何をしてんだよ。鏡台の前に座りやがって、えー、忍術を使うような目をしやがって、・・おまえなんぞ、頭なんかなくって手と足だけあればいいんだよ・・」。

 
 

聞かれてしまった愛情告白
  男はますます調子にのって、「・・こんないい亭主を持ちやがって・・もったいねえくらいのもんだ。・・ぐずぐずするてえとうちに置かないよ。・・女なんざ世間にいくらもいるんだ。おまえなんぞいなくても、ほかからいくらもようすのいいのがくるんだ、ざまあみやがれ、早く買ってこい、このオタフクめ」。
  奥さんが出ていったことが分かると、亭主は反省のひとりごとをいい始めます。ひとりごとも酔っ払いの特性のひとつです。「うへへ、行っちまいやがった。・・だけど女房なればこそ、この飲んだくれの用をしてくれるんだよ。・・世の中に何が何だって、てめえの女房ぐらい夫を思ってくれるものはねえんだから、あのかみさんにも苦労をさした」。
  「・・ね、女っぷりだって悪かねえんだからね。近所の人もそういうよ。『あんたんとこの奥さんは、あんたには過ぎものですよ』って、うふっ、おれもそう思うんだ。けど、そんなこといっちゃっちゃしょうがねえ。『出てけ、このオタフク』なんていっているけども、腹ん中じゃすまないと思って、・・こう手を合わせて『ああ、おかみさん、すみません。あなたのような美人はね、私が持っちゃバチが当たるくらいです。・・こうして心の中でわびてますよ・・』」。  ところが男が気がつくと、奥さんはまだ出ていかずにそこにいるではありませんか。「あ、まだ行かねえのか、おめえは!」。亭主の告白はふすまの陰ですっかり聞かれてしまいました。これが「替り目」という落語のあらましです。

 この落語からのメッセージを分析する前に、いくつか気になる疑問をあげてみます。まずこの夫婦が何歳ぐらいなのかということです。もしこの夫妻に子供がいるとすれば、二人の会話の中に子供の話が出てこないという点が気になります。同居している子供がいれば、女房は「子供が目を覚ますから」とか、「勉強の邪魔になるよ」というように、かならず子供に関係した発言をするはずです。
  ところが会話から察するに、このご夫婦は二人暮らしであるように見えます。これに対して亭主は、もちろん「女っぷりだって悪かねえんだからね」といって奥さんの女性としての価値を認めています。八十歳になった夫が七十五歳の妻を評して、「女っぷりが悪くない」ということも可能ですが、会話の調子からはもっとずっと若々しく見えますね。
  しかし一方では「あのかみさんにも苦労さした」といっていますから、かなりの年季が入っていると考えることができます。以上からこの夫婦は子供の数が一〜二人で、その子も学校や職場に出て心配がなくなっている、と理解すべきでしょう。

 初老というには早すぎるけれど、子育てのヤマ場は過ぎて円熟期に入った夫妻という感じでしょうか。次にこの酔っ払いは、この日どこで飲んできたのでしょうか。つとめ帰りに仲間と一杯やったのでしょうか。そうとも思えますが、そうでないようにも思えます。
  なぜなら、クルマ屋とのやりとりを見てください。クルマ屋をからかうところがいかにも落ちついていて、悠揚迫らぬものがあります。この酔っ払いは、酔いの余韻を楽しんでおり、少しも帰宅を急いでいません。どうも仕事に関係した酔いではなく、休日に仲間の会合に出てきた、という感じがします。
  結婚式の帰りなど、パーティがはねた後ということも考えられますが、そうであれば何か手に持っているはずですし、女房との会話にもそのことが出てくるはずです。いずれにしても彼は気分よく、相当に酔っ払っていることが察しられます。
  それにまた奥さんが亭主にいわれて、「そりゃ、あたしは支度はしてあるんだよ」。というところですが、「支度はしてある」というわりには食べ物が不足しています。すべて「いただきました」となって、お新香のストックすらないので、酔っ払いが苛立って、「・・じゃ(野菜を)生で食うー! そして糠食って、塩舐めて、頭に石乗っける」というところがあります。
  ごらんのように、この落語には現実の家庭生活との間の微妙な不一致があります。それはこの話が、最後のおでん購入に向けて、そして「あ、まだ行かねえのか、おめえは!」に向けて収斂してゆくための、前置きとして設定されているからによります。

 
 

交流分析を適用すると・・
  さてここで私は、有名な心理分析の手法である「交流分析」のやり方を、この酔っ払いとその奥さんに適用してみたいと思います。交流分析においては、人間のパーソナリティの側面を三つに分け、C=チャイルド、P=ペアレンツ、A=アダルトと呼びます。すなわち人間の中にある子供っぽい側面はCであり、指導的に、教条的にふるまう側面はPであり、いうなれば分別をわきまえ、感情的な欲求を抑制して合理的にふるまおうとするときにはAの側面が発揮されると考えます。
  このように見ると大人になっていてもC型の行動様式を持っている人もいますし、若くてもA型的な行動様式を持っている人もいます。また私たちは子供のころの両親の教育によって、何がしP的な価値観に束縛されています。
  人間同士の関係は固定的なものではなく、あるときには他の人に対してCの役割を果たし、友人が彼に対してP的役割を果たすということも、その逆もあり得るわけです。要するに、その時と状況に応じて最適の役割を柔軟に演じ分けられるのがよく、それが求められているときにA的に判断したり、行動できればいいというわけですね。

 ところで、酔っ払いは酒の力によってC型人間になっています。かれはクルマ屋に呼び止められます。クルマ屋はA型的に対応しています。酔っ払いはいたずらっ子になりきってクルマ屋をからかいます。酔っ払いは「おめえんとこへ行こう」などといい出します。「あたしんとこは狭くてだめだよ」などといいます。この一瞬、クルマ屋からA型的なものが消え、ちらりとP的要素が顔を出します。
  さて、奥さんとさし向かいになった酔っ払いは、奥さんに対してむき出しのC型人間になっています。これに対して奥さんの方はP型対応をしています。彼女はクルマ屋に戸を叩かれて、そこに酔っ払った亭主を発見し、「まあまあ、だらしない格好しちゃって、・・ほらほら火鉢につまずいて危ないわよ」などと世話を焼きます。このように世話を焼いたり、アドバイスする立場がP型の特色です。
  そして「わたしゃ、飲ませません!」というのも、明らかにP型対応です。これに対して「おれはここのうちの主だぞ!」などというのは、C的な応酬ですね。

 ところで亭主は「おれが酔って帰ってきたときに・・」といって、理想の女房のふるまいかたを説明します。このとき酔っ払いの方がP型人間に変化します。「そういえば飲まないの?」といって、亭主の意見を受け入れるとき、奥さんは分別ある大人になっていますから、A型です。
  ところが夫が「じゃ、飲もうか」といってだまされたと知ったとき、彼女は「まあ、この人ったら、インチキ!」とやり返しますが、まじめに聞いていたら相手がやはりCだったので、こちらも負けずにCになってしまった瞬間です。
  次の段階で亭主は奥さんの「食べちゃった」に文句をつけ、「いただきましたといえ」と説教を始めます。このとき亭主はふたたびP型人間に変身します。

 「女は口のききかたで器量をよく見せるんだ。いただきましたといえば顔が動かねえ」などという意見には、それなりに説得力がありますね。意見はもっともですが、偉そうにお説教していますから、このときの亭主はPです。ここで奥さんは、逆らえば逆らうことができたかも知れませんが「ああ、うるさいね。じゃ、いただきました」といって、亭主の意見を受け入れます。この部分はA型対応です。
  このようにこの落語では、わずか二人の登場人物がC、P、Aという役割をめまぐるしく演じ分けるわけです。登場人物が二人しかいないのに観客を飽きさせるどころか、笑いの渦の中に巻き込んでゆくのは、落語の台本がこうした面でよくできているだけでなく、志ん生が異質のパーソナリティ側面に含まれる特質や微妙なニュアンスを、みごとに表現しているからにほかなりません。

 
 

日本人の男性は「愛している」なんていわない
  ところで、奥さんがおでんを買いに出たと亭主が思った後、亭主はひとりごとをいい始めますね。この部分の亭主はどれに相当するでしょうか。
  「思えば女房にも苦労をさした」という述懐を含めて、この部分は亭主がA型的に思考している部分です。つまり彼は、自分が奥さんに対して日頃からC型的にふるまい、甘えてきたことを反省し、奥さんの価値を改めて見直し、感謝しています。全体状況を正しく認識した、分別ある大人として思考しているのですね。この部分には憎めない酔っ払いの、もっとも美しい精神が輝き出ています。
  最近の男性はどうか分かりませんが、これまでの日本人の男性は自分の女房に向かって「愛している」などとはいいません。たとえそう思っていても、照れくさくてそんなことをいえないのです。この酔っ払いのように「・・おれもそう(女房が自分には過ぎものだと)思うんだけど、そんなこといっちゃっちゃしょうがねえ」となります。

 相手の価値を認め、相手に依存していることを認めながらも、これを決して口に出していわない、むしろ強がりをいってタテマエ上の権威を保とうとする、これが日本人の男性の特質です。 西欧人からすれば、ずいぶんややっこしい精神構造だと思われるかもしれませんが、親しいものへの愛や尊敬が秘められているだけに、より真実であるという美意識は、なかなかすてきなものではないでしょうか。日本人の男のくせに、自分の女房に「愛しているよ」などといわなければならなくなったら、もう世も終わりですよ。
  ところで、この酔っ払いは秘められた真実を、うっかり口にしてしまったわけですが、奥さんはまだふすまの陰にいました。「なんだ、おめえ、まだ行かねえのか!」といったときの男の驚きを察してください。
  さっきまで「女なんざナ、世間にはいくらもいるんだ」、といっていた男が、「女っぷりだって、悪かねえんだから、・・おかみさん、すみません・・」なんていうのを聞かれてしまったのですからね。彼はCに戻るべきか、Pでいったらいいのか、それともAにすべきか、要するにどのパーソナリティに戻るべきか、分からなくなってしまったというところでしょう。

 以上、ご愛敬までに私は「交流分析」の概念をちょいと借用してみました。けれど私自身はこのような心理分析のテクニックを好きでありません。これで人間を語れるとも思っていません。
  たとえば酔っ払いがクルマ屋をからかうときの、ゆとりのある子供っぽさを、単純に「C型」などと決めつけるのは、どうかなと思います。しかしこのように単純化された図式を借りて「替り目」を鑑賞するという趣向も、ちょいと面白いではありませんか。
  ところで先にも述べたように、私はこの落語の題である「替り目」という意味がよく分からないのです。おそらく最後の部分、すなわち亭主が女房がいないと思い込んで独白する部分を境にして、亭主がギャフンとなる、形勢が逆転する、ということを意味しているのではないかと思います。
  けれどもしかしそこで何が替わるのか、どう替わるのかがよく分かりません。そこで私は「交流分析」的に考えて、二人の間で多様なパーソナリティの交代が見られるという意味に解釈してみることにします。この方が「替り目」という題がぴったりするようにも思えます。

 
 

笑われることがどうして恵まれることか
  フランスの哲学者アランは「尊大ぶろうとすると必ず滑稽になるという人はめぐまれている」といっています。
  「おれは偉いんだぞ」などとそっくり返っている人は沢山います。しかし、いつでもどこででもそっくり返っていることはできません。アランは、偉ぶろうとする人が、その言葉やしぐさなどが滑稽だといって周囲の人に笑われるようなら、その人は、幸いだといっているのです。なぜでしょうか。それは笑われる人は、自分を反省する機会を持つことができるからです。
  「尊大ぶろうとすると必ず滑稽になるという人はめぐまれている」というこの言葉は、新約聖書の中でキリストがいう「幸いなるかな貧しきもの・・」という一句を思い出させてくれます。
  貧しいものには社会的なオブリゲーションがありません。金持ちには沢山のオブリゲーションがつきます。貧乏な人になら許されることでも、社会的地位を持つ人や、経済的にゆとりを持つ人には許されない、ということが沢山あります。だから社会的なメンツや義務から開放されている貧しい人は幸いなのです。

 同じことで、自分の滑稽さを笑われるような人は、批判にさらされている人であり、自分自身を反省する機会を持っている人です。金持ちで、社会的な地位があり、偉そうにしている人、このような人でも、人に滑稽だといって笑われる機会があれば、それなりに謙虚になることができます。
  ところが「おれは偉いんだぞ」とエバって、それが滑稽なのに、周囲のだれも何もいってくれず、笑ってももらえないとなると、この人は反省することができません。
  豊臣秀吉は「猿」といって笑われ、馬鹿にされているときにはこの上なく賢明でした。しかしだれも彼を笑わなくなり、だれもが彼を恐れるようになると、すっかり判断の正常さを失いました。自分が兵を動かせば戦に負けるはずはないと信じ、朝鮮がどのような国かを確認もせずに出兵しましたが、じつに愚かな意思決定です。

 幸いなことに、普通の人はどんなに偉い人でも、おそらく自分の家庭では外部ほど権威を持っていないものです。外では大社長、大学者、大芸術家などと崇められるような人でも、家庭では容赦なく、手荒く扱われるものです。
  つまり着ているものがおかしいとか、しぐさが滑稽だとか、だらしがないとか、・・妻や息子や娘に批判されたり、笑われたりするわけです。しかしこのような批判が彼を正常に戻してくれるわけで、これでいいのです。家庭においてまで神様扱いされたのでは精神構造が狂ってしまいます。
  さてわが酔っ払いは、奥さんを相手に「おれはここの主だぞ。一軒の家じゃ主が一番えれえんだから」などといい、さかんに女房に説教をします。つまり彼は尊大ぶろうとするわけです。けれど奥さんの方もさる者で、「つまむものはねえか」と聞かれると、「さっきまで油虫がいたんだけど・・」「鼻でもつまめば・・」などといって、適当にあしらいます。
  彼女は、酔っ払いを必要以上に刺激しないように注意しながらも反撃し、亭主をからかっているわけです。これによって彼女は亭主の思想を正常に戻しつつあるといっていいでしょう。ここからして「女房にバカにされ、笑われるような亭主はめぐまれている」という金言を引き出すことができるかもしれません。

 
 

健全な人間精神は分析を逃れる
  さて、彼は例の独白によって奥さんに「秘めたる真実」を聞かれてしまうわけですが、亭主の告白を聞いた奥さんはいったいどのように感じたでしょうか。
  彼女にしてみれば、おかしかったではあるでしょうが、驚きはしなかったでしょう。これはいまさら新しい発見ではありません。彼女は亭主が自分に依存していることを充分承知しているのであり、亭主が荒っぽい言葉を使ってはいても、それは見せかけだけの強がりであることも先刻承知なのです。
  「ぐずぐずしているてぇと、家に置かないよ。・・女なんざぁナ、世間にいくらもいるんだ。・・ざまあみやがれ、このオタフクめ」と亭主は怒鳴ります。
  この言葉を、女性の方がまともに受け取ってはたまりません。「オタフクとは何よ」「それじゃ、世間の女を連れてきたらいいでしょ」ということになります。要するに売り言葉に買い言葉は、ちょっとした相手の失言をわざとシリアスに取るゲームです。けれどこの賢い奥さんは「オタフクとは何よ」などとはいいません。

 この夫婦は、所定の限度内で言葉のゲームをやっているのであり、亭主もどれほど酔っていても、限度をわきまえています。ただ、この男の場合、たまたまバッコスの神がのりうつっている関係上、日常の限度を超えたもうひとつの外側の限度のところまで自分のわがままを試し、相手の愛情を試している、と見たほうがいいでしょう。
  男は試しに「このオタフクめ!」などといってみました。けれど奥さんは軽く受け流してくれました。そこで彼は分かってはいたのだけれど、改めて自分たちの絆の強さを確認し、彼女の包容力を感じ、そこで「世の中に・・何がなんだって・・てめえの女房ぐらい夫を思ってくれるものは、ねえんだから・・」という告白になるわけです。
  モリエールの「人間嫌い」に登場するセリメーヌは、恋人のアルセストの雅量を試すために、わざとわがままをいいます。アルセストはセリメーヌのわがままをシリアスに受け取り、結局二人は幸福になることができません。これに対してわが酔っ払いとその女房は十分に幸福な夫婦です。彼女は夫の反省を引き出すことに成功しました。

 「交流分析」もなかなか面白いのですが、人間を必要以上に単純化しているところがいけません。酔っ払いが示しているC型的側面は、じつは計算されたC型であり、その内面にA的な分別と判断を隠しています。彼が妻にお説教するときも、ふるまいは一見P的にみえますが、彼はなかば冗談で、妻をからかいながらいっているC的行為なのです。そうだとすると、AとかCとかという区分に意味がなくなってしまいます。
  まあ、ことのついでに暴言を吐いてしまいますが、心理学とか精神分析学という学問ぐらい、いいかげんな学問はありませんね。実際に生きた人間の精神はつねに彼らの張った図式の網の目を逃れ、カウンセリングや治療の手の届かないところで彼らの学問を笑っているのです。この落語がすぐれているところは、平凡な心理学の分析を超えた、現実の人間が生き生きと描かれている、ということではないでしょうか。

 
 

「大喜劇」としての落語
  私はたった今、「現実の人間が生き生きと描かれている」といいました。しかしよく考えてみます。ここで描かれてるような酔っ払いは現実に存在するでしょうか。
  すなわち、女房に買い物をいいつけ、女房が出ていったとみるや、すぐさま反省し始め、べらべらと心の中を告白し、「この通り手を合わせてわびてますよ・・」などという亭主が果たして現実に存在するものでしょうか。
  これについてアランは、「喜劇どおりの守銭奴が存在するのではない」といっています。つまりここで登場するような人物が現実に存在するわけではない、ということです。たしかにそういわれれば、たとえば酔っ払いが自分の家の前でクルマにのり、クルマ屋に自分の家の門を叩かせるなど、現実にはありっこないですよね。
  しかしアランは「喜劇どおりの守銭奴が存在するのではない。ただ吝嗇の動作、推理、閃きかたが万人のうちにあるのだ」といっているのです。すなわち、ここに登場する酔っ払いは酔っ払いのモデルであり、酒を飲んで酩酊する人は多かれ少なかれ、この酔っ払いに似た側面を示すにいたるのです。
  また酔って帰ってきた夫を迎える妻との会話は、あらゆる夫婦の会話のモデルです。この落語はどこかの誰かを描写したものではなく、万人に対するモデルとして提示されているものです。私たちがこれらの典型に似ているのであり、そのためにおかしいのです。同じく与太郎や、ご隠居さんや、八っつあんや、熊さんもすぐれたモデルです。彼らの中に私たちがいるのです。だからこの落語が、現実の生活との間で微妙に食い違い、抽象化されていていいのです。

 ところで私たちがこの落語を聞いて抱腹絶倒するときに、自分を笑っているとか、他人を笑っているとかという意識はありません。
  これについてもアランは次のようにいっています。「だから笑いは、自分は他人を笑っているという考えや、他人が自分を笑っているという考えのために、そこなわれるようなことはない。だから(大)喜劇は、笑いによってわれわれを情念から開放するというのは厳密な意味において真実なのである」。
  アランは上記の文章を、彼が「大喜劇」として評価するモリエールのような、古典的な、すぐれた喜劇について語っています。アランはこのような喜劇を、誰かをおちょくっただけの「パロディ」とはあきらかに区分して評価しているのです。
  私はアランを下敷きにしながら、この「替り目」に代表されるすぐれた落語が、アランがいう「大喜劇」に匹敵するものであることを認めます。
  私たちがこうした落語を聞いておおいに笑うとき、私たちは情念から開放され、精神の正常さを取り戻します。もしも心に疲れを感じる人がいて、精神分析医をたずねようとするなら、私はその人に止めるよう忠告します。そのような人は、まず落語を聞くべきなのです。

 
   
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