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落語からのメッセージ
 
まとめ

 大好きな落語をつぎつぎとご紹介していけば、いつまでたってもきりがありませんので、とりあえずこのへんで筆を置きたいと思います。
  私は志ん生が大好きですが、その中でも「郭もの」には特別に魅力を感じます。たとえば「五人回し」「首ったけ」「幾代餅」「子別れ」「品川心中」など、いいですねえ。「五人回し」では、一人のおいらんが、順繰りにお客をまわってくるのを待っている五種類の男のキャラクターが示されています。
  昔の吉原では、お金を払ってもおいらんがやってこないで、振られてしまうことがあったようですね。「振られて帰る果報もの」という言葉には、支払った金額と商品との整合性にかならずしもこだわらなかった当時の人々の、精神的なゆとりすら感じられます。

 「幾代餅」では、みかけの愛情や経済力ではなく、真実の男の愛情を見抜く幾代太夫の見識が物語られています。このように吉原を知らない私には大きな憧れがあるわけですが、それにしても志ん生の語りの中には、「少々研究しすぎちゃいまして・・」という人だけが表現できるリアリティと郷愁があるように思えます。
  直接郭を舞台にした落語でなくても、郭の遊びに関係した話がいくつかあります。たとえば、「唐茄子屋政談」や「お初徳兵衛」「六尺棒」など、直接郭の場面が出てくるわけではありませんが、郭での遊びの度が過ぎて勘当される若旦那の話です。

 「唐茄子屋政談」の若旦那徳三郎は、おいらんのお世辞をあてにして家を飛び出しますが、金の切れ目が縁の切れ目と突き放され、空腹のまま街を放浪したあげく、橋から身投げしようとするところを伯父さんに助けられます。
  彼は伯父さんのはからいで「とうなす売り」になりますが、昔遊郭で遊んだときのことが忘れられません。天秤棒を担ぎながら足が自然に吉原の方に向いてゆく、いつのまにか小唄を口ずさんでいる、というように、男の「懲りない」側面が示されています。
  郭ものといえば、たいこもちの話があります。志ん生のたいこもちはじつにうまい。噺家の話術とたいこもちの話術には類似点と相違点があります。その双方をみごとに示してくれます。ちょっとグロテスクですが「たいこ腹」、それに「うなぎの幇間」「富久」などの名作が思い返されます。これらは郭周辺の話題ということになります。
  なぜ郭、あるいはこれに関係する話が面白いのでしょうか。ここに男女の情愛、男女間の永遠の戦略が含まれているからですよね。そしてここにかならず経済問題が絡んできます。つまり底辺に経済問題があって、そこに情念にふりまわされてゆく人間の全体的な姿、虚飾を取り去った後の人間の姿があざやかに浮かび上がってくるからです。
  私は落語のもっともすぐれている点は、バルザックの小説と同じように、決して経済問題を忘れない、ということにあるのではないかと思います。例の「花見酒」など、経済用語にまで出世しましたよね。人間をトータルにとらえようと思えば、「金」の問題を度外視して進むことはできません。童話やおとぎばなしでは、経済問題の切実さはほとんど問題になりません。文学も二流、三流の作品になると経済問題が穴だらけです。この点すぐれた落語には、しっかりした経済的リアリティが備わっているのです。

 今回ご紹介したいくつかの落語も、すいぶん経済問題を考えさせてくれました。「火炎太鼓」では、ビジネスにおける付加価値の原理が示され、富が人間の幸福や人間性の向上に関係していることが示されています。反面「水屋の富」では、だれもが金銭の主としてふさわしいとは限らないこと、そして金銭がかならずしも幸福を保証しない、という真実が描かれています。
  「付き馬」では、ビジネスのきびしさ、債権回収の難しさが示されました。ビジネスマンもアマチュアでは通用しないということが、あざやかに示されているのです。

 ビジネスの現場にあるプロのお手本としては「中村中蔵」がありました。この話の主要なポイントとして、中蔵の工夫にボーナスで報いた伝九郎を思い出していただきたいと思います。伝九郎は金の使い方を知っていたのです。
  金の溜めかたを知ってはいても金の使い方を知らない人物の例としては、「三軒長屋」の伊勢勘がいました。彼はお妾さんの住宅について妙なけちをしたために百両を失いました。
  「替り目」の中には直接経済問題は出てきませんでしたが、一応暮らしぶりが整った庶民の夫婦の情愛を通して、幸福の実体が示されていました。ここにも経済基盤のリアリティが無言のうちに語られているように思えます。
  「落語はなにも経済理論じゃない、笑って楽しめばいいんだ」という声も、どこからか聞こえてきそうですね。けれど人それぞれの楽しみかたがあっていいのですよ。私は多くの方々と同じようにビジネスマンの端くれですから、ビジネスマンの視点からものを見ています。どんなものを見るときも、このスタンスから一歩も離れようとは思いません。
  そして自分の視点を固定してみると、すぐれた作品からは尽きぬ奥行きと味わいが感じられるようになるのだ、といいたのです。

 落語は私たち日本人の庶民の芸術です。だから落語に登場するような人物が決して落語の中だけにあらわれるのではなく、案外自分の身近なところにいたり、ときとして自分自身が登場人物の一人であることに気づくのは楽しいことです。あなたも、改めて落語の楽しみを満喫されてはいかがでしょうか。
  なお、本書執筆にさいしては、立風書房の「志ん生文庫」、PONY CANYONの「古今亭志ん生傑作選」、日本コロムビアの「聞きたい落語家ベストシリーズ」、筑摩書房・ビクターエンターテイメントの「ちくまカセット寄席」を参考にさせていただきました。塩味夫妻に譲っていただいたテープも貴重な参考となりました。心から感謝申し上げます。

                   1996年12月    著者

   
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