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ソクラテスのクリスマス
 
第1章 ねじれた恋の物語――ときにはランジェ公爵夫人のように

バルザック亭への招待
  アランは『バルザック論』の中で次のように書きました。「『ランジェ公爵夫人』ほど、すばらしく感動的な物語は、ほかにちょっと例があるまい。この激越なドラマを、私はほとんど一行一行そらんじているくらいだが、いましがたまた改めて読み直してみて、再び心打たれてしまった」。
  アランのバルザック好きはよく知られています。私はアランのバルザック好きを、ちょうどいきつけのレストラン自慢にたとえたいと思います。愛用のレストランを持っている人は、まるで自分がその店の主ででもあるかのように、親しげに予約を入れ、自分のゲストを案内します。
  ゲストを指定のテーブルに座らせ、メニューを見せ、あれこれと料理の説明をしながら自慢をします。そして強引なサジェッションをし、料理が運ばれてくると、ゲストの反応をたしかめ、否定などしようもない話術で、相手に「なるほどここの料理はおいしい」といわせてしまうのです。べつにそれほど熱心に、その店の肩を持ったからといって一文の得にもなるわけではないのにです。

 アランのバルザック好きは、「バルザック亭」に対する愛好に似ています。たとえばアランは『二人の若妻の手記』をまだ読んだことのない読者に向かって、「その人は最大の楽しみを取ってあるようなものだ」といっています。「私もよくやるが、続きのページを、小口から隙見したり、飢えた人が肉パイでも眺めるような格好で残っているページの厚みを眺めたりしている読書子などに、いくたりか出会ったことがある」。
  このようにアランはバルザックを愛好し、作品の一作一作に深い理解と愛情とを示していますが、ここではバルザックの「十三人組」という三作シリーズ小説の二つ目の作品、『ランジェ公爵夫人』についてコメントしているのです。そして、「これほどすばらしく感動的な物語はほかに例はないだろう」、などと手放しで礼賛しています。
  つまり彼は私たちを「バルザック亭」に連れてゆき、そこでメニューの一角を指しながら「きみ、これが絶品だぜ」とすすめてくれているわけです。そこで今回はあくまで小説『ランジェ公爵夫人』にマトを絞って、アランがなぜこの作品にしびれているのか、またそのことが今日の私たちにどのように関係があるのかを考えてみたいと思います。

 すでに『ランジェ公爵夫人』をお読みになっている方も多いと思いますが、まだ作品を読んでいない方のために小説のあらすじをご紹介しておきましょう。
  社交界にはめったに見られない、野生的な魅力を持った軍人モントリヴォが、パリの社交界にあらわれるところから小説は始まります。多くの貴婦人が彼に好意や関心を持ちましたが、中でも絶世の美女で社交界の花形としてほまれ高いランジェ公爵夫人が、「私が彼を誘惑してみせるわ」と決意しました。そしてこの美女はモントリヴォに、あらんかぎりのコケットリーを示すのです。モントリヴォはたちまちランジェ公爵夫人に強く心ひかれるようになります。  
  ところが公爵夫人はモントリヴォを煽り、最高の好意を示すのですが、どうしても最後の一線だけは許そうとしません。彼女はいかにも気がありそうなそぶりをして期待を持たせ、しかし餌を与えないで、男を思いきり焦らすわけです。

 

男は焦らされて復讐する
  モントリヴォははじめ焦らされていることに我慢しているのですが、ついにアタマに来てしまいます。ついに彼は意を決して彼女とつき合わない、という行動に出ることにします。彼は居所を変え、彼女の前にも姿を見せなくなります。彼女が手紙を出しても、まったく封も切らずにほうっておくというように、モントリヴォは彼女に取り合おうとしなくなります。
  こうなると不思議なもので、ランジェ公爵夫人は彼を焦らしたことをはげしく後悔し、今度はなりふりかまわずモントリヴォを追いかけ回すようになります。ところがどうしても彼を取り戻すことはできません。彼女は半狂乱となり、ついに絶望して、厳格なことで名高い修道院に入ってしまいます。この修道院はいったん入ったら最後、還俗できないところです。

 一方モントリヴォですが、彼は彼女がどこかの修道院に入ったことを知ると、冷たくしたことを急に後悔し、自分が彼女を深く愛していたことを自覚します。そこで彼は彼女を求めて方々の修道院を探し回るのですね。ここには恋愛感情のねじれ現象が見られます。
  モントリヴォは最後に彼女を見つけ出すのですが、彼女はもう修道院からは出られません。思いあまったモントリヴォは彼女を修道院から盗み出す計画を立てます。
  モントリヴォは仲間と共謀して「スパイ大作戦」まがいの方法で修道院に忍び込みます。彼らは入り組んだ修道院の中にランジェ公爵夫人の個室を探り当てます。しかし彼らが部屋に入ったとき、夫人はすでに死んでいました。あらすじはざっと上記のようなものです。
  バルザックの作品では最初に修道院の場面が描かれ、そこでモントリヴォがランジェ公爵夫人に鉄格子越しに再会するというところから始まっています。そして過去のいきさつが説明されるという組み立てです。この部分についてアランは次のように評論しています。

 「書き出しはひどく短く、荒っぽく、凄涼とさえしていて、まるで結びのようである。たちまち読者は心そそられ、想像を逞しくし、無性にあとを知りたがる。こうした一種の待ちぶせのようなものから、身をふせぐすべを心得ている読者は、私の知るかぎりでは、およそ一人もない。だが、作者が振り出しに戻って、さて、一席やり出すとなると、サンジェルマン界隈の政治論議にと話がどんどん移って行く・・」。
  これは、この作品が冒険小説的なスタートを切っているのに、たちまちバルザック特有の、社交界の詳しい描写が始まるという意味です。
  これでまだお読みになったことのない方も、どのような小説か、おおよその見当をつけられたことでしょう。いずれにしてもそれほど長い話ではありませんし、バルザックの作品としては比較的独立性の強い、単純な物語で、読みやすいものではないかと思われます。
  この物語をアランがどうしてあれほど喜んだのでしょうか。その理由を考えてみましょう。アランは、「なぜならここでわきまえておかなければならない二つのことがあるからである。その一つは公爵夫人の極度の抵抗であり、他の一つはモントリヴォの極度の猜忌である。こうした二人の感情は、ともに鎮めようがなく、どちらもその極端にまではしって互いに他をば敵視するようになる」といっています。

 私はこの言葉にアランが魅力を感じている理由を見出すことができると思います。つまり、女性的な感情の極端と、男性的感情の極端が描かれ、これによって「人間とは何か」を、純粋な形で観察することができる、ということではないでしょうか。もちろんここで描かれているのは一昔前の大貴族の生態です。しかも、どこをとっても私たちとは縁のない舞台、環境です。
  したがってこの物語は、私たちにとってはいわゆる「お話」の一つに過ぎません。もちろんこの点ではアランにとってもそうでした。しかしアランはこの物語の中に、何か普遍的なもの、そして人間の感情の本質を知る喜びを見出したのです。

 
 

女性がすべてに決定権を持つ
  男と女は互いに求め合うものです。二人の趣味が一致しているならすぐに仲良くなりますし、男女の仲の良さは、慎みや道徳の限界をやすやすと超えるものです。公爵夫人はモントリヴォを気に入りました。モントリヴォも彼女の魅力に抵抗できませんでした。それがどうしてハッピーな恋愛に進まなかったのでしょうか。
  男女関係の最終的な決定権は女性が握っているのではないかと私は考えます。古代ギリシャのポセイドン神は、妻となるべきアンピトリテを踊りの列からさらっていきました。また地底の王ハデス神は、野原で花摘みをしているペルセポネをこわきに抱えると、あっという間に地面の中に消えてしまいました。このように男性の筋力がものをいった時代には、略奪婚に象徴されるような男性の決定権が優位でした。
  そして男性が社会の上位にあるところでは、女性の主体性や好みはないがしろにされていました。「ニュールンベルグのマイスタージンガー」は、職人社会を描いていますが、ここでは職人たちのリーダーが自分の娘をマイスタージンガーの褒美として提供しています。彼女の意志も多少は尊重されますが、やはり社会の経済基盤を作っているのが男性であることが分かります。

 ところで、この『ランジェ公爵夫人』の小説の対象となっているフランス十九世紀前半の貴族社会はどうだったのでしょうか。この時代は政治の時代です。そして政治の表舞台に立っている男性の貴族たちに、強い発言権を持っていたのが身分の高い貴婦人たちです。そしてここでは女性たちの主体性や主導権が発揮される余地が大いにあったのです。
  ところで現代の女性たちはどうでしょうか。もしも今日の男性がポセイドンやハデスを真似ようとすれば、たちまち手が後ろに回るでしょう。女性たちの主権、主体性はもはやいささかも後退することはありません。女性主導の精神は貴族社会とともに確立され、近代をへて一般化し、さらにこれが果てしなく拡大され、裾野の広がる現代につながっています。

 さて、公爵夫人のことに戻りますが、彼女は美貌とコケットリーによってモントリヴォを誘惑しましたが、この努力に匹敵するほどの強い抵抗を示しました。私たちにすれば、どうしてランジェ公爵夫人は熱心に男を誘っておきながら男を拒否するという行動に出ているか、この点がどうも不可解ですね。
  物語の中では、彼女は宗教的徳義の観点から男女の道に外れることはできないというように説明しています。ところが読者には、公爵夫人のこの宗教心は単なるいいわけに過ぎないもので、彼女が本心からそんなことを考えているわけではないことが分かります。だいたい宗教心が本当にあついなら、男性をそのように誘惑するはずがないではありませんか。

 私はランジェ夫人の意図は、自分の力を試すことにあったのだと思います。自分がどこまで相手を引きつけることができるか、また相手を焦らしながら引きつけておくことができるか、彼女はこれを実験していたのです。
  「ずいぶん意地悪な女だ」と思う人もいるかも知れません。しかしこれは少しも珍しいことではありません。恋愛ゲームの綱引は、なにも十九世紀初頭のフランスの貴族社会の独占物ではありません。これは今日でもごく身近に見られるスポーツです。そしてこれは美人を自認するすべての女性にとってのスポーツなのです。
  これがアランが指摘している「公爵夫人の極度の抵抗」です。大抵の場合、はじめはゲームのつもりが自分も深入りしてグチャグチャになったりします。

 ところがランジェ夫人は徹底しています。彼女は自分の力を試すという試みと、自分自身の恋愛感情を峻別しようとこころがけます。この努力がのちに悲劇的な結果に結びつくのですね。
  この女性が行う綱引ゲームについて、アランは次のようにいっています。「気高くもわが身に寄せられたこの偉大な力を試すため、セリメーヌはまずいそいそとして相手の気を損じようとするであろう」。
  またこうもいっています。「自由の精神とは、まずもって反抗の精神である」。これは相手が自分を本当に愛しているなら、自分が反抗する自由さえも認めてくれるはずだということです。こうした男性をテストするためのチエは、女性たちの頭の中に次々とあらわれるようですね。

 
 

女性による雅量テスト
  セリメーヌは、モリエールの劇中に登場する女性です。しかしここでは「恋愛ゲームのさなかにある女性一般」と考えてさしつかえありません。自分に恋をする男性がいると知った女性は、いうなれば売り手市場側にあります。彼女としては男が自分にどの程度の値をつけたのか知りたいと思います。そこで彼女は自分のパワーを試してみるわけです。
  たとえば彼氏との約束を破ってみたり、時間に遅れてみたり、別にどうということもないのにすねてみせたりします。これで男がいきなり怒り出したり、逃げ出すようであれば、男の器量は分かろうというもの。彼の愛は本物ではないわけです。
  セリメーヌはまず恋人アルセストに反抗してみます。アルセストはこのセリメーヌの真意を理解できず、「何て気まぐれなんだ」「よその男にあんなにベタベタしちゃって、むかつくなあ」とか、「下品なやつだ」「なぜもっと二人は親密になれないんだ」などと考えます。

 しかし彼はセリメーヌの魅力からは逃れられませんので、今度は自分が軽蔑せざるを得ないような女性に惚れ込んでしまった自分に腹を立てたりします。要するに彼はセリメーヌを扱いかねているのです。
  ところで、セリメーヌのこの態度はすべての女性に共通する特性で、セリメーヌの専売特許ではありません。男女が仲良くなり、おたがいに男女関係を意識し、女性側から見て「よし、この男は私の魅力のとりこになった」と確認できた瞬間、ゲームが開始されます。
  この女性の気まぐれ、焦らし作戦と抵抗、これは女性が「まだ私はあなたに縛られたわけではありませんよ」ということであり、「私はあなたの雅量を試しているのですよ」というメッセージなのです。男たるものは、いい線まで近づくと、次にこうした試験にパスしなければなりません。いやはや大変ですねえ。

 ランジェ公爵夫人のモントリヴォに対する徹底的な焦らし作戦は、彼女が自分の力をとことん試し、まあ少々やり過ぎたということでしょう。何しろ彼女には、社交界の女王としてのプライドがあります。そしてモントリヴォという男性を立派な騎士と見なしているのですから、その試し方もハンパじゃありません。
  もちろん世の中の女性がすべてセリメーヌやランジェ夫人のように行動するとはいえません。実際にこのような衝動を感じても、男性に試してみる勇気のない女性もいるでしょう。ところが女性がやらなくても男が同じことをやるということに注意する必要があります。
  「この女は自分から逃げない」と分かると、男性は自分の拘束力は「どこまでが限界か」というテストをします。これについてアランは「愛は容易に横暴化する」というアリストテレスの言葉を引いて説明しています。

 またアランは「歳月は日ごとに彼らから少しずつ、かの魔力(初期の愛の感激、初期の感情)をはぎとってゆくのであってみれば、双方がめいめい、自分のつかんでいるいましめの力と自分をつかんでいるいましめの力を毎日少しずつ試してみるという、あの残酷なたわむれが生まれることになる」と書いています。ランジェ公爵夫人はこのたわむれを、限界以上にまで押し進めたのです。
  さて、我慢の限度が過ぎると、今度はモントリヴォは彼女から逃げます。今度はアタマにきた男がよそよそしくする番です。いまや彼は女性を避けることに全力をあげます。ランジェ夫人が社交界の女王なら、モントリヴォも死線をいくどもくぐってきた男です。したがって彼が彼女を避けるやり方もハンパじゃありません。
  このときのモントリヴォの心理構造も、先にアランが説明した「セリメーヌの力試し」「反抗による雅量テスト」「残酷なたわむれ」ということで説明がつきます。要するに意地の張り合いです。

 
 

自由にまさる価値はない
  男女の意地の張り合いっておかしなものですね。お互いによく話し合って、誤解を解消し、素直に愛し合えばいいと思うのですが、そうはいきません。なぜでしょうか。それは各人の「プライド」が安易な妥協を拒むからです。誇りとは自由を求め、自由を宣言する精神です。誰もが、他の誰にも冒されないはずの「自由」の精神を持っているのです。
  アナーキストの父であるプルードンは「自由、平等、博愛」のうち「自由」こそが最上位のものであり、平等も博愛も自由がなければ保証されないと言明しました。そしてもし「自由」をさしおいて、たとえば「平等」が優先するようなことがあれば、人類はとんでもない誤りを犯すことになると警告しました。彼はこうしてアナーキストの結社を作ることさえも拒んだのです。
  さすがに自由を称揚してやまなかったアランも、「プルードンはそのもっとも穏健な考えにおいてさえ革命的である」といっていますから、たしかにプルードンは過激です。しかし例の恋人同士も負けずに過激でした。

 モントリヴォは、自分の誇りにかけて自分が自由であることを証明したいと考えます。彼はどこまでも公爵夫人を避け、あまつさえ無関心を示そうとします。こうした二人の意地の張り合いについてアランは、「他の一つはモントリヴォの極度の猜忌である。こうした二人の感情は、ともに鎮めようがなく、どちらもその極端にまではしって互いに他をば敵視するようになる」と書いたのです。
  ここでランジェ公爵夫人の立場に立って見ましょう。彼女はその魅力によってターゲットの関心をこちらに向けさせ、自分に夢中にさせることに成功しました。しかも相手のいいなりになることなく、完全に主導権を掌握しました。したがってこの時点で「誘惑プロジェクト」は終了しているはずです。

 男が逃げ出していったのは「やりすぎ」の結果によるものですから、これはこれでよしとして彼女は次のターゲットへと向かえばいいわけです。もともと彼女にとってモントリヴォは、一つの力試しの道具だったはずですから、逃げ出したモントリヴォを諦めて、ほうって置けばいいのです。
  ところが彼女は、はじめは自分の力の限界を思い知らされたような気がします。ついで自分が彼を試した分だけ負い目を感じ、後悔します。というのも、彼女にして見れば、彼を拒む客観的な理由などなかったからです。
  「公爵夫人」という肩書きはありましたが、彼女はほとんど独身と同じ状態でしたし、それにこの社会では、恋愛関係など日常茶飯時でした。彼女がモントリヴォを受け入れたところで、彼女を道義的に非難する人などありはしなかったのです。

 彼女は彼を高く評価していました。そこで彼女の次の力試しは、すねている男性を取り戻す、という目標に変わりました。そしてこの行為の中にのめり込み、もはや自分を制御できなくなってしまうのです。この心のプロセスを描くバルザックはみごとです。
  しかし公爵夫人はモントリヴォを取り戻すことはできませんでした。このことによって彼女は「私はあの人を愛していたのだ」と認識します。この認識は敗北の感情に結びついています。彼女は二度と還俗できない修道院へ入りました。
  ゲームは続いているのです。修道院入りで彼女はモントリヴォに対抗しようとしています。ここまでやれば、さすがのモントリヴォも、自分を失ったことを後悔せざるを得ないでしょう。彼女は自分にはげしい責め苦を与えつつ、モントリヴォにも復讐しようとしました。

 そして公爵夫人の筋書き通り、モントリヴォは彼女の失踪を知ってびっくりし、彼女を必死に探索することから開始して、最後には修道院襲撃へと進むわけです。
  この場合彼にすれば、自分が避けようとしている相手がいなくなったのですから、そこでゲームを放棄すればいいのに、課題が困難になったと知るや、ますます執念を燃やして彼女を追いかけようとするのですから不思議です。この二人に共通している特長は「求められれば拒否する、拒否されれば求める」というものです。

 
 

人間だけが限界を超える
  アランは『教育論』の中で「困難な課題を与えよう。これが人間にふさわしい餌である」と書きました。なるほど動物は、どんなにおいしそうな餌でもトライしてムリなら諦めます。彼らの行動にはおのずから限度があり、それを越えることはありません。ところが人間とはこの限度を知らず、問題が難しいほどファイトを燃やすのですから困ったものです。
  バルザックのすごさ、そしてこのストーリーの大きな特長は、二人の恋人の行き違いを助けるような他の障害要因はほとんど発生していないということです。
  通常のメロドラマの場合、愛する男女をすれ違いにさせる物理的な要因が介在します。「君の名は」の主人公は見えざる運命の手によって翻弄され、めぐり会えるはずの二人が会えません。つまり恋人同士には責任のない偶然の要因が二人を引き裂くわけです。戦争を含む社会的な力が主人公を阻害するわけであり、これが人々の涙をいちだんとさそうわけですね。

 ギリシャ悲劇では、登場人物を別れさせたり、結びつけたりする超人間的な要因が堂々と舞台の上にあらわれます。なぜかといえば、当時の人々にとって神とは実在の力だったからです。幼稚な航海術のもとでは、海を支配するポセイドンの意思が、人間たちの航海の安全を支配していると考えざるを得ません。ということはポセイドン神には、私たちが現在考える以上にリアリティがあったのです。
  ギリシャ版俊寛となった弓の名人ピロクテテスは、現代人のように意思明晰です。しかし友人の裏切りによって彼は人間的な情念のかたまりと化していました。彼はトロイへと同行を願うネオプトレマイオスの説得を、最後まで聞き入れませんでした。しかしヘラクレスの亡霊があらわれてピロクテテスを説得すると、彼はこれに従います。このように陰に陽に主人公を動かすのがデキウス・マキナ(機械じかけの神)の存在です。

 ところで『ランジェ公爵夫人』においては、このようなデキウス・マキナはどこにも見当りません。偶然の障害が二人をすれ違わせるということはありません。彼らのすれ違いは、あくまでも彼らの自由と責任の名において発生するのです。このことは、舞台装置がいかに古臭く見えようとも、物語がきわめて近代的な事件だということを示しています。
  作家が勝手に設定した障害によって人物を操るのではなく、作家は人物に、自分の選択と意思によって、極限に至るまで行動する自由を与えているのです。作中人物は、誰の力も借りることなく自分の考えに従って自分の運命の糸を紡ぎます。ここには何者にも束縛されない全き自由の人間がいます。
  これについてアランは「小説の主人公は神々を咎めない。彼は自己の運命を選んだのである」「小説の主人公は錯乱の際にさえ、散文そのもののように、用心深く、慎重で、省察的である」といっています。

 崖のうえの修道院に潜入するなどというのは、いかにも荒唐無稽です。しかしそこには不思議なリアリティがあります。バルザックが描く人間的な意思の迫力がリアリティを作り出しているといわなければなりません。
  ランジェ夫人は、モントリヴォを取り戻すことができないと分かると、自分と恋人を永遠に罰するという道を選びました。これは自由という名の、最後の切り札を使ったということです。モントリヴォは潜入不可能なはずの要塞を突破しました。つまり要塞は、彼の自由を束縛することができなかったということです。
  真の「自由」を愛し、「反抗こそいいものだ」としたアランはこの『ランジェ公爵夫人』に描かれているような、絶対的な精神の自由をこよなく愛したのです。
  さて、私はここでアランに従いながら、この作品にもう一つの読み方があることを述べたいと思います。

 デカルトは「精神と肉体の二元論」を主張したとされています。この「二元論」といういい方には誤解の混じる余地があります。まるで精神と肉体が別物で、それぞれが勝手に動くかのような印象を与えてしまうからです。
  しかし私は、デカルトは精神と肉体が一つにつながっているということをいおうとしたのだと思います。肉体は精神に影響を与え、精神は肉体に変化を与えます。これは切りはなすことができません。そのうえで、デカルトは精神をしっかりコントロールし、全的に自己をコントロールすることが大切だといったのではないでしょうか。
  「二元論」の意味を上記のようにとらえたところで、私は『ランジェ公爵夫人』を、デカルト的に読んでみてはどうかと思います。男女間の関係は肉体的な快楽を求めるものです。ところでこの二人の恋人は精神がどこまで肉体をコントロールできるか、というゲームをしています。ところが二人はそれぞれのやり方で肉体と精神が一つであることを立証します。

 モントリヴォは、彼女の肉体を奪還しようとします。これは完全な一人の人間を得ようとする試みです。精神だけを求める試みでも、肉体だけを求めようとする試みでもありません。これに対してランジェ夫人はどうだったでしょうか。
  彼女は痩せさらばえた、半ばミイラのような状態で発見されました。彼女の精神が肉体の活動を停止させたのです。彼女は自分の意思でそうしたのです。これというのも、彼女はモントリヴォとの肉体的合一を望んだからにほかならず、もしこれを拒否するなら中途半端であってはならないからです。
  彼女があのような嬌態を演じつくした長時日の間というもの、まさしく彼女には自分の考えというものが少しもありませんでした。

 結婚のために、教会のために、王座のために、ずっと戦ってきたものの、それらのことは内心彼女の軽蔑するところでした。それどころか、彼女はそれらについては何一つとて知るところはありませんでした。最初拒んだというので、あくまで拒み続けて、翻意するすべも知らぬ人のように、彼女は百計つくして抵抗を試みたのです。そして彼女は最後には意志の力によって死ぬことを選びました。
  自分の意志によって死を招来する方法については、バルザックの『二人の若妻の手記』にも同じ例が示されています。世の中には「死にたいのに死に切れない」というレトリックがありますが、これらの例を見ると、たいていの人の「死にたい」はウソであることが分かります。

 
 

男たちよ、修道院を襲え
  私はここでデカルトをはるかにさかのぼって、プラトンの「三元論」を用いて、この小説をさらに読み直してみたいと思います。ここにアランの読み方が隠されているように思えます。
  アランはこういっています。「同じひとつの袋の中に一緒に縫いこめられた賢者とライオンとヒドラ、これが人間だとプラトンはいう」。これは人間を「精神と肉体」という二元論的に説明するのではなく、「賢者とライオンとヒドラ」という三つの要素で説明する方法、すなわち三元論です。
  賢者とは「頭脳=冷静な判断力」を意味しています。ライオンとは「胸=情熱」を意味しています。そしてヒドラは「下腹部=食欲や性欲など」を意味しています。つまりプラトンは人間を単純に「精神と肉体」とに区分したのではなく、「精神」に相当するところをさらに「頭脳」と「情熱」に細分化しているのです。

 このプラトンの「賢者とライオンとヒドラ」のたとえ話は、有名な『国家論』の中に出てきます。アランはこの考え方にいたく共鳴し、いろんなところでこれを応用しました。そして「人間は欲望によってよりも怒りによって恐ろしい。欲望は妥協する。欲望は取り引きする。だが、はずかしめられた人とは、誰も取り引きできない」といいました。
  お分かりのようにここではライオンとヒドラの関係が説明されています。人間はヒドラ的な、えげつない部分を持っています。私たちは飲み食いしますし、排泄をします。性欲の力もあらがいがたく強いものです。ヒドラは、私たちが地球上に「生物」として誕生したとき以来の約束として、もっとも奥深いところにインプリントされた欲求を象徴しています。
  一方誰にでも誇りがあります。これは私たちのライオン的な部分です。肉体的な欲望のいくつかは、多少は我慢できます。しかしプライドが傷つけられるとライオンが我慢しません。プラトンに従えば情熱と誇りは胸に住んでおり、これがしばしば人に採算を度外視した、無鉄砲な行動をとらせます。

 では人間は結局どうあらねばならないのでしょうか。賢者、すなわち知恵が人間全体をつかさどり、全体をバランスよくコントロールしなければなりません。これは主として前頭葉の部分を象徴しており、私たちにとってはもっとも新しい能力の一つに属します。これがプラトンの「三元論」です。プラトンの「三元論」の見方からすると、『ランジェ公爵夫人』の物語は、主として情念の物語です。
  アランは「愛の情念にあっては、コケットな女は、ときにはかなり苦労もして、首尾よく相手に欲望させるにいたったものを、こんどは拒むということがよくある」と書いています。これはちょうどランジェ夫人のことをいっているようですね。
  またアランは前の文章に続けて、「何の欲望もない人に十字勲章だのアカデミーの椅子などを持ち出し、相手にその欲望を起こさせて、さてすぐにそのエサを引っ込めてみたまえ。かくのごときが、ときに大臣の見せる媚態であり、つねにセリメーヌの見せる媚態である」と書いています。これは人が「愛の力試し」をしないではいられないということを説明しています。

 ランジェ公爵夫人はモントリヴォを愛していました。そこでエサを与えずにいろいろ試して見ました。これは胸のゲームであり、部分的には頭脳のゲームです。一方モントリヴォは彼女を愛し、彼女の肉体を求めましたが得られず、ついに彼女を避けました。ここには吠えるライオンがおり、満たされぬヒドラがあり、効果を計算する頭脳があります。この恋愛劇には賢者とライオンとヒドラが登場しますが、ヒドラは主役ではありません。
  しかしながら折り合いをつけることを知らないこの二人の中では、賢者は微々たる役割しか果たすことができません。これはライオンの雌雄をかけての戦いであり、東洋風にいうと龍虎あいうつの物語です。
  なるほどランジェ公爵夫人はやり過ぎましたし、モントリヴォもやり過ぎました。人間はどんなに飢えていてもエサの前にプライドを失う動物ではありません。しかしこの二人は、とかく妥協をこととする私たちにしきりに何事をかを発信しているのです。

 ランジェ夫人は女性たちにこう呼びかけています。「あなたの女性としての力を思い切って試してみなさい。恋人が逃げ出してしまうだろうなどと思って、水準の低い妥協をすることはありません。安易な折り合いこそ避けなければならないものです」。
  モントリヴォは男性たちに呼びかけます。「私を真似たまえ。アランがいう通り『肉屋の前で犬のように舌をたれて』泣いたりしてはならぬ。男は欲望の奴隷などではない。欲望を支配するのが君の仕事だ。愛があるなら君の勇気を試せ。そして愛する公爵夫人のために、身を賭してきびしい修道院を襲うがいい」。

 
   
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