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ソクラテスのクリスマス
 
第2章 ロドリーグから遠く離れて――ときには騎士のように

「馬の人」の特性
  「なるほど、少しも騎士らしさのない人は尊敬に価しない」とアランは述べています。では、「騎士らしい人」とはどのような人なのでしょうか。またそもそも「騎士」とは何なのでしょうか。また「尊敬に値する」とか「値しない」というのはどういうことでしょうか。
  騎士といえば、私たちはアーサー王物語に代表されるような中世の騎士を思い出します。しかし、ここでいわれている「騎士」という言葉には、他の軍人、武士にはない、何らかの特性が込められているように思います。それはどのような特性なのでしょうか。
  この謎を解くカギとして、アランが騎士のことを指して「馬(シュヴァル)の人、とはいい得て妙である」といっていることに注目したいと思います。フランス語で騎士をシュヴァリエといいます。漢字にも「騎」という字に馬が含まれています。つまり騎士が人馬一体となって行動し戦いに出るときには馬を伴うということを意味しています。彼は馬に関するプロフェショナルだということです。

 ホメロスの作品の中でも、ある種の戦士や英雄を表現する言葉として「馬を飼い馴らす」という枕詞や、「ゲーレンの騎士ネストール」というような表現が見られます。もっとも、ここでいっている「騎士」は二頭立ての戦車を操る人のことです。「馬を飼い馴らす」という表現も「騎士」とほぼ同義語です。
  これで「馬の人」という意味は分かりました。次に「いい得て妙である」といっている理由を探ってみましょう。これは騎士が馬とともに行動しているので、彼が馬の性質を熟知し、馬の心を知り、ついに彼自身が馬の特性を持つようになった、ということを意味しています。

 では騎士は、馬のどのような性質を持つようになったのでしょうか。騎士の先祖は古代の騎馬兵です。陸上戦では、騎馬兵の役割は歩兵と相互補完をなしています。平原に水平に展開した敵兵の戦線を一気に切り裂き、相手の陣形を突き崩すのが騎馬兵の役割です。その後を歩兵が手堅く攻めることになります。このことから騎馬兵はつねに先陣をつとめます。
  兵隊は誰でも勇敢でなければなりませんが、とりわけ騎馬兵には勇敢な突撃精神が必要とされます。自分の安全など少しも顧みない勇敢さと国や王に対する忠誠、こうした点で兵士のお手本ともいうべき人、これが騎士の原形ということになるでしょう。
  もっとも敵に向かって進撃するに際して、ゆっくりやっていては勢いがつきません。それに、あれこれものを考えながら、それでいて勇敢でいるということは難しいものです。そこで一気に駆けることのできる乗り物が兵士のつまらぬ分別を吹き飛ばし、彼をいっそう勇敢にする、ということが考えられます。それにいったん駆けだしたら、立ち止ったり、方向転換することが難しいということもきわめて重要なポイントになります。

 こうして見ると、騎士が持っている馬の特性とは、一般的に見て、勇敢で、駆けだしたら止らない、というところにあると見ていいでしょう。
  次に騎士の戦闘能力について考えて見ましょう。容易に想像できることですが、武装して馬に乗った兵士は歩兵の何倍もの破壊力を持っています。騎士の数と技術力とモラール、これらが戦争の勝敗を決定づけることが考えられます。してみれば、騎士が強いプロ軍人のモデルということになります。
  十字軍に見られるように、武具が次第に発達し、行動半径が長くなるにつれて、騎士の社会的地位が次第に向上しました。そして彼らは大いにもてはやされ、ロマンス文学の主人公になっていったのです。
  初期の中世騎士は世襲ではありませんでした。騎士の子供として生まれても、本人にその資質がなければ騎士にはなれなかったのです。個人的な心、技、体がそろわなければ騎士になれないということは、まさに実力主義による称号ということになります。このことから、騎士はもっともカッコいいプロフェショナルとして存在するのであり、このカッコよさもまた騎士の特性の一つと考えなければなりません。

 子供たちがあこがれるテレビアニメの主人公は、何がしかこの中世騎士の面影をとどめています。よく見ると、主人公の行動様式や闘争のパターンも、中世騎士をモデルにしていることが分かります。たとえば主人公の兜の形状、兜の前立て、全身をおおう鎧、槍や剣を見て下さい。これらの武具は何らかの形で古典的な騎士の特長をヒントにしています。ときには悪玉のライバルも騎士的なイメージを持ってあらわれますが、これには何の不思議もありません。
  子供たちの主人公を注意して見ると、善玉のヒーローは単に無制限に戦うマシーンなのではなく、何らかのモラルによって行動が規制されていることが分かります。これは「騎士道精神」の何かを継承するものです。

 私のオフィスの近所に、暴力団と称される人々の事務所がありました。ガラス越しにこわごわ中を覗いて見ると、室内に中世騎士の鎧兜が装飾品として飾ってあります。彼らにとっても騎士が一つのお手本なのであり、強さとカッコよさの象徴なのです。以上のことから、テレビアニメも暴力団のメンバーも、かつて中世騎士がそうであったように、ロマンス形式の文学の世界を構築し、まさにここに生き続けようとしているといっていいでしょう。
  このように「馬の人」である騎士は、多くの歴史とニュアンスを背負っており、これが騎士の外面的な「徳」を準備していることが分かります。

 

ロドリーグは恋人の父と闘う
  では、ここで私たちは騎士の内面的な特性、ここから生じる行動パターンを観察してみることにしましょう。
  騎士のモデルはいくらでも上げることができます。ここでは、アランが好んで引用するコルネイユの劇中の主人公、『ル・シッド』のロドリーグと、『ポリュウクト』のポリュウクトという二人の騎士を取り上げて、その行動様式を観察しましょう。
  一般のビジネスマンは、よほど演劇に関心のある人でなければ、ロドリーグとポリュウクトという二人の騎士の名をご存じないでしょう。そこで簡単にご紹介しておきましょう。
  コルネイユはモリエール、ラシーヌなどと並んで有名なフランス十六世紀の戯曲作家です。ラシーヌが繊細で女性的な人物作りで知られるのに対して、コルネイユは男性的で、骨太なキャラクターを作ることで知られています。そして『ル・シッド』『ポリュウクト』もコルネイユの当たり狂言として好んで上演されました。

 『ル・シッド』に登場するドン・ロドリーグは、昔大活躍したスペインの老騎士の息子です。彼にはまだ実戦の経験はありません。その彼がある日父親からこういわれました。「自分はある伯爵から侮辱された。とても我慢できない。本来なら自分で決闘して決着をつけたいのだが自分にはもう体力がなく、戦うことができない。そこでおまえが代わりに決闘をして私を侮辱した伯爵をやっつけてくれ」。
  このとき、父がロドリーグに向かっていうせりふが「ロドリーグ、おまえには勇気があるか」というものです。アランはこのせりふがよほど気にいったものと見えて、いろいろなところで繰り返し使っています。アランの人間論には、「『ロドリーグ、おまえには勇気(クール)があるか』これはなにも、ロドリーグが虚弱か、空腹か、臆病かなどとたずねているのではない」という文章が登場します。
  「おまえには勇気があるか」の勇気(クール)という語は、フランス語では「心臓」という言葉と同じです。そこでアランは、上記の父親の質問について「これは何もロドリーグが虚弱か、空腹か、臆病かなどとたずねているのではない」といいました。
  つまり、このクールという言葉は、最初から勇気や気概を指しており、これは人間の胸の部分にあるということです。

 さて、決闘による仇討ちを委嘱されたロドリーグですが、彼は勇気に関しては、いつでも父親の期待に応えられる状態にありました。しかしここに一つ大きな問題がありました。それは、彼が決闘すべき伯爵の娘が、じつは彼の最愛の恋人だったのです。二人はすでに愛を誓い合い、近々結婚することになっていました。
  ですから彼は実父に忠ならんとすれば、近々義父になる人を殺さなければなりません。それどころか相手はひとかどの英雄ですから、決闘の際にこちらがやられてしまう可能性もあります。
  こちらがやられてしまえばモトも子もありませんし、恋人の父を手にかけたとなれば、その恋が成就することはもはやあり得ないでしょう。だいいち恋人の父親と敵対して剣を交えるということが、そもそも穏やかではありません。それだけでも破局的です。
  あなたがロドリーグの立場に置かれたらどうしますか。もちろんいまどき、やれ侮辱だ、決闘だ、仇討ちだなどというのははやりませんよね。ちょっと現実ばなれしていて考えにくいかもしれません。

 ここで考え方は二つの道をたどります。昔から庶民は決闘などしなかったという考え方と、今でも同じようなことをやっている、という考え方です。
  まず最初の「昔から庶民は決闘などしなかった」という考えの道筋をたどってみましょう。昔も今も世の中の大多数を占めていた庶民は貴族や騎士や英雄とは別種の人間、つまり弱者に過ぎませんでした。だから毎日えらい人に侮辱されるのは当然のことであり、そんなことでいちいち腹を立てて、「名誉が汚された」などとはいわなかったのです。もちろん、決闘など、バカげたことです。侮辱に腹を立てて決闘するというのは騎士の物語なのです。
  そこで、もしも現代の庶民の一人として、私がロドリーグだったらこういうでしょう。「お父さん、侮辱されたのはお父さんなのだから、決着は自分でつけて下さい。私まで巻き添えにしなくてもいいじゃありませんか。それに少々侮辱されたってどうということもありませんよ。いいたいやつにはいわせておけばいいんです。お互いに命はもっと大切にしなくちゃ」。しかし、これでは私には騎士の資格はまったくないことになります。

 
 

臆病者といわせない
  ここで騎士の大切な特性が一つ明らかになります。侮辱されて怒らないようでは騎士ではありません。敵を見て戦わないのは腰ぬけです。彼らにはそもそも自分の命のことなど眼中にありません。彼らにとって命よりも大切なもの、それは名誉です。その名誉も、勲章やタイトルではありません。「勇気あるもの」という評判です。誰にも自分を卑怯者、臆病者といわせないことです。
  騎士が決闘するということについて、もう一つの別の考えをたどってみましょう。この考え方は、昔から人間は決闘が好きで、結局これに明け暮れていたのだ、という考え方です。これは人類とともに続く戦争の原因を説明する考え方でもあります。
  私たちは、私たちの権利を侵害したり、利益を損なったり、価値観を脅かすような人々の存在を我慢することができません。何とかして相手を説き伏せ、従わせ、どうしてもそれができなければ、相手をやっつけてしまおうとする暴力的な衝動を感じます。

 キリストが活動していた時代のユダヤ人社会では、ローマ的政治の価値観が、伝統的なユダヤ人の宗教的価値観とはげしく対立した時代でもありました。過激なユダヤ人たちはゲリラ組織を作り、ローマ体制に直接対抗しただけでなく、ローマ体制に友好的と見られる自分たちの仲間をテロの対象として殺害しました。
  要するにテロリズムは、ある種の暴力による意思表示であり、ある主義主張の究極的なスタイルを示しています。そこで、もしも私が過激なロドリーグ青年だったら父親に向かってこういうのではないでしょうか。
  「お父さん、決闘なんてなまぬるいじゃないですか。確実に、徹底的に相手をやっつける必要があります。毒薬でも刺客でも何でもいい、相手を葬りましょう。できたらこの際、あの一家を根絶やししましょう」。しかしお分かりのように、これはまったく騎士にふさわしい言葉ではありません。

 ここで騎士に関するもう一つの重要な特性が明らかになります。それは名誉を重んじて戦うためには、フェアにやらなければならないということです。勝つこと、あるいは相手を葬ることが問題なのではなく、戦い方や勝ち方が問題となるのです。
  極端ないい方をすれば、戦い方のほうが勝利そのものよりも重要になります。スタンダールのジュリアンは決闘で負け、腕に怪我をしましたが大いに満足でした。名誉に関する問題に正式なやり方で決着をつけた、ということが彼を満足させたのです。このように、アンフェアな方法で戦って勝っても、騎士の名誉をまっとうすることはできません。そこで決闘には作法があり、判定人が立ち会うというように、形式化が進むわけです。

 さて横道にそれてしまいましたが、ロドリーグは結局父の依頼を受けて決闘することになりました。「孝」のほうを優先したわけです。予想に反して、彼は首尾よく伯爵を倒すことができました。しかしこうなると、彼の恋は絶望的です。恋人の父親を殺しておいて「君を愛している」なんていえませんからね。
  そこでロドリーグは、恋人のところへやってきてこういいました。「どうぞこの剣で、お父上の仇である私を刺して下さい」。カッコいいではありませんか。
  ロドリーグがもし決闘には破れれば、彼は恋人の父親に殺されることになり、問題は解決します。もしも彼が勝てば自分を仇として恋人に殺してもらえばいい、という具合で、彼は名誉を守りつつ、恋人に対する愛と信義を裏切らないという道を発見したわけです。まだこの話の続きはありますが、これでアランがいう騎士の概略をつかんでいただけたと思います。

 
 

ポリュウクトは殉教を選ぶ
  コルネイユのもう一つの戯曲『ポリュウクト』から騎士、ポリュウクトをご紹介しましょう。ポリュウクトについてアランは次のようにいっています。「ポリュウクトは一個の人間だ。恐らくは攻撃に逸りすぎた人間だ。しかし受けた愛を常に超えようとすることは、この愛を考えることにすぎず、正しい動きなのであって、すべての人がポリュウクトなのである」。
  また次のようにもいっています。「ポリュウクトは超人だといわれるかもしれない。しかしそれならば戦場の勇士もまた超人だ」。いったい、ポリュウクトはどんな人物なのでしょうか。
  ポリュウクトは、キリスト教がローマ帝国に承認される以前の時代に、地方知事を勤めていた人の息子です。時代はだいぶ古くなりますが、同じ作家が扱っていますので、騎士としての精神構造はロドリーグにあい通ずるものがあります。すなわち誇り高く、高潔なのです。彼はロドリーグと違って剣を抜いて戦ったりしません。

 ポリュウクトの時代は、ローマではギリシャから継承された伝統的な宗教が国教として支配的でした。つまりゼウス神を主神とする多神教です。ユダヤ教をベースにして始まったキリスト教は、幾多の迫害をへて民衆の中に徐々に浸透していましたが、まだ「異教」の一つに過ぎませんでした。「クリスチャン」とは、当時の人々の間では「油を注がれたもの」という意味で、これは軽蔑を込めた、今日流にいうと差別用語でした。
  ところがキリスト教は次第に上流社会にもその信奉者を広めつつありました。感受性が強く、理想主義的な青年たちが、古くさいゼウス神よりも、愛を説くキリスト教のほうに魅力を感じたということもあったのではないでしょうか。
  ポリュウクトもそうした青年の一人でした。彼は友人の勧めに従ってキリスト教に改宗しようとしていました。しかし、普通の青年が改宗するならいいのですけれど、ポリュウクトはローマの知事の息子です。知事であるポリュウクトの父親にしてみれば、息子がキリスト教に改宗するというのは好ましくありません。なぜなら地方のまつりごとの責任者として、中央に対して申し開きができなくなってしまうからです。

 そこで父親はポリュウクトを説得して何とか考えを変えさせようとしますが、息子はいうことを聞きません。具合の悪いことに、そのときローマからは一人の高官がこの地方に視察に来ていました。しかもこの高官、何とポリュウクトの妻ポリーヌの古い知り合いで、ポリーヌを慕って会いたいといってきたのです。ここに問題が重なってしまいました。
  一つはポリュウクトの改宗問題、これがローマ皇帝の寵臣(これが腕の立つ騎士なのです)である高官に知られてはまずいということ。第二はその高官がポリュウクトの妻におぼしめしがあって、これをすげなく断われば知事一家は彼に睨まれてしまうということです。
  このような状況のさなかに、ポリュウクトはさらにバカなことをしでかしました。彼は祭の日に、キリスト教に対する宗教的な情熱にかられて、わざわざゼウス神殿に出かけていって、祭壇をめちゃくちゃに壊してしまったのです。
  これには日頃温和な父親もすっかりアタマに来て、息子を捕らえ、牢につなぐという次第になりました。事件は当然ローマから来ている高官にもバレてしまいます。

 宗教問題がからんでいるので考えにくいのですが、あなたがポリュウクトの立場だったらどうしますか。私ならポリュウクトがやったようなことは一切やらないでしょうね。黙っていれば、知事の息子としてそれなりの地位を継げるのですから、おとなしくしています。宗教のことなどどうでもよろしい。かりに私がキリスト教に共鳴したのであれば、「隠れキリシタン」よろしくひっそりと信仰しますよ。
  自分の妻に関心を持ったローマ高官が訪問してくれたというのは大歓迎です。私なら妻をだしに使って、自分の立場を大いにPRしますね。私なら妻に「大いにサービスしてやってくれ」と頼むところです。
  これにくらべてコルネイユのポリュウクトは、まるで反対のことをやったりいったりします。「自分の宗教的な信念はこのようなものである。さあ自分を逮捕して、死刑にしてほしい。自分の妻は、かねてより彼女を慕っているローマの高官と結ばれるのが順当である」。ごらんのように、ポリュウクトは自分の破滅を願い、最悪の状況に向かって突進しようとしているのです。
  そこでポリュウクトの真意を知った父親も妻もともに大いに悩み、彼を説得しようとします。ところがどうしても彼の決心は固く、説得できません。そこでやむなく父は死刑の判決を下し、ポリュウクトは首を切られて死んでしまいます。

 この劇は、初期の、普及期のキリスト教への情熱が主題です。したがってポリュウクトが殺されると、残された人々は彼の宗教的な信念に感化されてみなキリスト教徒になる、という筋書きになっています。
  自分の宗教的な情熱を、体制に対する反抗の形で示したあげく、自分の死をもって所信表明のあかしとする、しかも親を悲しませ、妻をも悲しませる、このようなやり方は現代人にはどうも理解できません。しかし、これがコルネイユの時代の人々の心を打ったらしいのですね。つまりこれこそ騎士道精神の表現である、と人々が思ったのです。一体なぜでしょうか。
  騎士は選ばれた人々です。彼らは大抵は貴族の子弟ですが、原則として彼らは、武勇面で実力があることを証明しなければなりません。ということは勇敢で、信念のために一直線に進む人、自分の命をやすやすと投げ出すことができる人ということです。
  これは日本の武士にも通じることですが、いったん武士として生まれたら、あるいは武士としての運命を選んだら、いつ、どこででも死ねる覚悟が必要です。このことは死に場所が見つかったら、自分の命には拘泥しないということを意味しています。

 
 

「健康で長生き」という価値観との差
  彼らが自分の命を軽んずるのはこのためです。彼はいずれ戦って死ぬことになっているのですから、長生きのために努力する必要はありません。彼らの価値観は「健康で長生き」という現代人の価値観から、大きくかけ離れているのです。
  自分の命が惜しいということ、それに死ぬのは怖いということ、これは今の人も昔の人も変わりはないはずです。けれども、現代人の方は命への執着と人生の価値観が一致しています。ここに違いがあります。
  ロドリーグの場合、そしてポリュウクトの場合を見ていただいてお分かりのように、騎士は自分の命に執着しません。それどころか、大袈裟にいえば騎士は死にたがっています。宗教のため愛のため、仁義のため、忠義のため・・名目は多様ですが、彼自身が納得できるなら何でもいいのです。
  これは知らない高速道路を走っていて、出口が見つかったらどこでもいいから下りるというのに似ています。いずれ高速道路から下りなければならないのですから、適当そうに見えればどこでもいいわけです。

 騎士は誓いを立て、その誓いを破らないことを身上とします。彼らはよせばいいのに、きわめて軽率に、取り返しのつかない誓いを立てます。これは「どこか知らないが、今から三つ目の出口で下りよう」という誓いに似ています。
  オペラの主人公たちのことを考えてみましょう。マノン・レスコーのデ・グリューは立派な騎士です。エウゲニー・オネーギンも騎士です。ドン・ジョバンニも、トリスタンも、ジークフリートもすぐれた騎士です。
  彼らは義のため、愛のため、あるいは倦怠のために、いともやすやすと自分の命を投げ出そうとします。とくにジークフリートの誓いは哀れです。彼は敵の利益になる致命的な誓いを立ててしまうのですからね。彼らに共通しているのは誓いを取り消したり、謝罪したり、妥協したり、交渉したり、要するに未練なマネは絶対にしようとしないということです。

 騎士道精神は、日本の武士精神にも通じるものがあります。日本の武士も名誉を重んじて散りぎわを大切にします。わが国の理想的な武士もあくまで潔く、いいわけがましいことを一切いいません。
  西洋の騎士と日本の武士の大きな違いは、どうやら切腹にあるように思えます。騎士は潔く、むしろ喜んで死地におもむきますが、あまり切腹をしません。
  トロイ戦争の英雄アイアースは、剣を地上に突き立て、このうえにダイビングしました。またオセロも自分で自分を刺しました。しかしこれらは日本の武士の切腹のように「作法化」されたものではありません。日本の切腹は作法化されている分だけ、情念の衝動から遠ざかっており、いっそう内面的で美しいものです。
  わが国で切腹の概念を応用した最後の戦略は、「特攻隊」であり、「人間魚雷」でした。諸外国の人々は、これらの手段を、狂信的な国粋主義教育、洗脳の成果と考えたかも知れませんが、これは日本の武士道精神の最後の輝きであったと理解すべきでしょう。
  戦争が終り、日本の武士たちも散ってしまいました。そしておそらく今日、切腹の概念ほど現代の日本人からかけ離れている価値観はありません。

 
 

ファルスタッフの現代性
  私たちはさきほどオペラの騎士たちを見ましたので、同じく騎士のすばらしいパロディである『ファルスタッフ』のことを考えてみましょう。コルネイユとほぼ同時に活躍したシェークスピアは、この異色の人物を通して騎士の本質に迫りました。
  ファルスタッフは、これまで私たちが見てきたようなシリアスで真面目な騎士とは正反対の、反騎士的な特長をかね備えたキャラクターです。まず彼はデブの大男で馬に乗るにはもっとも不適当な体型です。彼は大食らいで、好色で、自分のふくれた腹を大切にしています。これは彼は「胸の人」ではなく、文字どおり「腹の人」であることを示しています。シェークスピアはプラトンをきちんとおさえているのです。

 彼は「騎士の徳」を打ち出して自分を売り込みますが、金の袋を見ると目の色を変えてこれに飛びつきます。そして暗い夜の森におびえ、子供たちの仮装を前に、「妖精を見たら死ぬ」などといって腰を抜かしてしまいます。これほどみごとな反騎士はありません。
  これはおそらく現実に数多く見られた、堕落した騎士のパロディであると同時に、真の騎士のありどころを示しています。しかしながら、ファルスタッフの中には、騎士の徳のむなしさ、庶民的良識の健全さも同時に示されているのです。ファルスタッフは、ある意味では私たち現代人の先取りされた姿なのです。
  ファルスタッフが散々コケにされてから、状況を理解し、立ち直り、自分自身を取り戻す「すばやさ」にも注目する必要があります。本来の騎士である「馬の人」にはあの急回転はできません。ファルスタッフはあのふくれた腹、鯨のような体格にもかかわらず、器用に、あっという間に体制をたて直し、「私が死んでは、この世に真の男はいなくなる」と歌いました。

 こうしてみると、改めて本来の騎士の、特異なキャラクターが明確になります。彼は誇り高く馬とともに駆ける人なのです。彼が恐れているのは逡巡であり、傷つくことではありません。彼が恐れるのは妥協であって、生命を失うことではありません。
  ここにはもはや、人生を達観するファルスタッフ的な思想や諦念さえもないのです。ロドリーグもポリュウクトもいずれ劣らぬ直線的な情熱の持ち主であり、およそ妥協を知らぬ騎士の典型です。彼らは最初から損得を考えることを拒否しているのです。
  さて、ビジネスマンは騎士ではありません。騎士であってはならないのです。騎士をまねるビジネスマンなどお笑いぐさでしょう。そんな人がいるとすれば、彼は名誉と自尊心を尊重して頭を下げることを知らず、難儀している人を見れば損益を度外視して奉仕し、突進や攻撃を繰り返し、すべてをメチャメチャにするでしょう。

 ビジネスの本質は交渉にあります。そして交渉とは妥協にあり、妥協とは自尊心を眠らせることです。よくいわれるように、マネージとは「うまくやること」です。恥をかこうが、侮辱されようが、儲かればいいのです。ファルスタッフは金袋を受取りながらいいました。「金はすべてのものの指揮官ですぞ」。
  現代のマネージャーたちも同じ感慨を、もっと散文的な調子で語ります。アランは「欲望は妥協する」といっています。また「悪徳はことなかれ主義のもので、おそらく本質的には意気地なしのものでさえある」ともいっています。
  ビジネスマンの徳は、アランがいう悪徳にきびすを接するものであり、本質的に意気地なしのものです。私たちは自分の血が流されるのを恐れるように、ムダなコストが流出することを恐れます。それはファルスタッフが、自分の腹を財産と考え、自分の腹から血が流れることを恐れたのと同じです。
  私たちはロドリーグやポリュウクトから遠ざかりました。それにごらんなさい。「特攻隊」や「人間魚雷」はつい先ごろのことなのに、今の私たちはこんなにも彼らから遠く隔たっているのです。

 
 

ビジネスマンと騎士の差
  ところで、あなたは「承知で恥をかくのも勇気の一つだ」というでしょう。それに「新規のビジネスに投資したり、新しい商品を開発しようとするときには勇気が必要だ」というかも知れませんね。また別の人は「人を信じるということにも勇気が必要だ」というでしょう。また別の人は「事業の撤退にこそ勇気が必要だ」というでしょう。何しろアランも「勇気はどこにあっても試される」といっていますからね。
  けれども騎士の勇気、騎士の徳の本質は「名誉」を利益と考えるところにあります。そこから自分の命を軽んじるという自己矛盾が発生するのです。なるほど騎士は勇敢だし力もあります。しかし名誉と命を引き換えにするには、どうしても軽率でなければなりません。この点を突いてアランは、「純粋な騎士特有の知性は首のつけ根より上へは登って行かない」といったのです。

 それに騎士とビジネスマンの違いをもう一つ。それはプロフェショナルであるということ、実力主義ということです。騎士は自分の運命を自分の馬さばき、剣さばきに賭けます。へたな騎馬術、へたな剣術は命取りです。またこの自己の技術への信頼が、彼らの「誇り」「名誉」の直接的な裏付けとなっています。
  ところで、ビジネスマンにもなにがしの技術者がいること、プロが存在することは認めましょう。しかしながらビジネスマンは概して年功序列的です。
  とくにサラリーマンといわれる種族にあっては、「個」の確立は望むべくもありません。かりに「実力主義」などといえば、労働組合なるものが大声で反対するでしょう。「ベースアップ」「同一労働同一賃金」「一律賃上げ」「定年延長」などという旗印を見て下さい。
  彼らだって、自分の職業は自分の考えにもとづいて選んだはずなのです。そして、職業選択は誰でも軽率にやるものなのです。しかし、たとえ騎士でなくても、自分の軽率さの支払いは自分でするのが当然です。

 「ヴェニスの商人」のシャイロックは典型的な、悪意に満ちた、あこぎな金貸しです。けれど彼の目論見が失敗し、自分の財産を没収されるという最後の判決が出たとき、こういいました。「命でも何でも取るがいい。お情けは要りませぬ」。誰からも同情されることを知らぬこの非情の男も、自分の軽率さをどのように償うべきかを知っていたのです。
  したがって、自分がもともと軽率であるうえに雇用の保証を要求し、何かといえば徒党を組んでさわぎ、都合の悪いことは全部他人のせいだとする考え方、これほど騎士的でない考え方はありません。
  ましてや自分が他人に多大の迷惑をかけながら、はじめは「何も知らぬ」といい、次に「部下がやったかもしれない」といい、次に「行き違いがあった」とか「誤解があった」といい、動かぬ証拠の前では「やむを得なかった」というなどは、騎士的潔さの尺度でもっては、おしはかることができないものです。

 あのファルスタッフでさえ、最後には自分の過ちをいさぎよく認め、その上で自分の存在意義を改めて主張しました。少なくとも彼は、自分が自分の舞台上の主役であるという誇りを持っていたのです。だからファルスタッフは「反騎士的」であり、私たちは「非騎士的」です。
  さて、非騎士的な現代人精神風土の成立の原因は何でしょうか。それは医薬の発達、年金制度によって裏づけられた長寿社会でしょう。もはやジュリアス・シーザーが望んだような「意外な死」、そして騎士たちには日常茶飯事だった「決闘による死」も「戦争による死」も見られません。いまや平和による長寿こそが喜びであり、価値であり、すべてなのです。
  ではアランがいう「なるほど、騎士らしさのない人は尊敬に価しない」という言葉が、私たちの胸にこたえるのはなぜでしょうか。私たちは「尊敬に値する人物」を、一体どこで見出すことができるのでしょうか。

 
   
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