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ソクラテスのクリスマス
 
第3章 石像の招待――ときにはドン・ジュアンのように

「ドンファン」は死語か
  最近あまり聞かなくなった言葉のひとつに「ドンファン」というのがあります。どうしてでしょうか。それはもちろん女性と男性の関係が対等化しているからでしょう。かつて男性が攻撃的で、女性が受け身であるということが一般的な時代にあっては、男性が女性を次々と誘惑し、それを次々と捨ててゆくということは道義的に許されない、という観念がありました。
  そこで道義的に許されないことを、なかばなりわいのように、生きざまの一つとして行動している男性は、逸脱者の一つの典型として面白かったのです。男性にしてみれば、自分の妻や娘が被害者であっては困りますが、同性としてある種の英雄であり、女性にとっては危険ではあるが魅力的な男性像の一タイプということであったのです。

 ところが、今日のように男女の対等関係が築かれつつある社会においては、このような人物は滑稽な存在となり、ほとんど無意味な存在となります。なぜなら今日の女性は男性に一方的に誘惑されるなどということはなく、あくまでも自分の主張と好みによって選択するのであり、その関係を継続するか、打ち切るかについては二分の一の決定権を留保することになるからです。
  したがって男女関係においては加害者も被害者もないということになります。無理に性的な関係を強要するような男がいれば、これについては「セクハラ」ということで立派に犯罪が成立します。今日では女性は誘惑されることはなく、男性も女性を誘惑することはできません。男女の関係はすべてその時点での、合意のうえでの結びつき、あるいは離別ということになります。
  次々と相手を替えてゆく男性がいるならば、一方に次々と相手を替えてゆく女性がいてもいいわけで、そのことは当人たちにとってはなにがしかのドラマではあっても、すべて相互の合意が前提となっている以上、社会的、道義的に誰かが文句をつける筋合いではありません。したがって「ドンファン」というような、これまで私たちがある種の感情を込めて呼んできたようなキャラクターは地上から消え去ったと考えていいでしょう。

 私としては、もはや死語となったこの名を懐かしみながら、私たちのふるまい方について考えてみたいと思うのです。
  私たち日本人からすると、「ドンファン」の呼び名は国によっていろいろです。「ドン・ジュアン」「ドン・ジョバンニ」などという呼び方もあります。ここではアランとモリエールの日本語訳に敬意を表して「ドン・ジュアン」でいくことにしましょう。
  アランは「ドン・ジュアン」というひとつの独立したプロポを書いています。このプロポはアンドレ・モーロワがいたく気にいって、次のようにいっています。
  「アランの中にはひとりの小説家が潜在していた。それは、彼がスタンダールやバルザックの芸術について語るとき、感取されることだ。・・そして語録は散文詩となる。その一例を省略なしに挙げてみよう。これが四十年前の『ラ・デペーシュ・ド・ルーアン』紙上に出て以来、私が愛しつづけたのはその文体なのだから」。

 モーロワは『アラン論』の中で、ついにこの「ドン・ジュアン」の全文を紹介した上でこういいました。「かくのごときが寓話である。では思想は何か。思想は読む人の好き好きだろう。ただ、この文章が文体を持つこと、それを誰が否認しようか」。
  私はここではアランの全文をご紹介するのはやめにして、カギになるいくつかの文章を取り上げながらドン・ジュアンの本質を考えてみたいと思います。
  アランはこのプロポの中でこういっています。「ドン・ジュアンは、人を軽んじる能力をやすやすと行使してきた」。これはどういうことでしょうか。私たちは人を軽蔑したり、尊敬したりします。ここでアランがいっている「人を軽んじる」とは、尊敬するという意味ではありませんね。その反対です。

 私たちは対人関係で、たとえ心の中では相手をどう思っているにしても、ビジネスの相手を尊敬するというポーズを取っています。そうしなければビジネスはうまく行かないからです。できるなら、相手に対する尊敬はホンモノであるほうが好ましいのです。なぜなら心の中で軽蔑していると、どういうわけかそれが表面化するものですからね。
  人間は自分で思っているほど役者ではありません。軽蔑すればその考えは、微妙に相手に伝わるものです。そうするとうまく行くはずのことでも調子が狂ってきたりします。
  そこで私たちは必要な相手、あるいは恩恵を受けることになる相手を心から尊敬しようとします。私たちは本気になって取引先の社長の美点をさがし、これに惚れ込み、敬意を払います。しかしこれはまだ前提に過ぎません。こちらが示す尊敬だって、やりかたが悪ければこちらが軽蔑され、事態を悪くしてしまいます。
  ところで、アランが規定するドン・ジュアンは人を軽蔑する能力を持って、行使しているというのですね。すると彼はどうやらビジネスマンではないようです。

 

社会は弱者を容赦しない
  バルザックの『谷間の百合』の中で、モルソフ夫人は話者である「私」に対して、きわめて重要な処世訓を書き送ってくれました。この処世訓の中には、今日の人々にも当てはまるものがいくつもあります。
  その処世訓の中に次のような趣旨のものがあります。「相手に対する尊敬をあらわそうと思って卑屈にふるまえば、足げにされるでしょう。なぜなら社会は弱者を容赦しないからです」というのがあります。こうしてみると、ドン・ジュアンはビジネスマンではないが、社会的な弱者というものでもなさそうですね。
  ドン・ジュアンのお目当ては女、それも美しい女です。ドン・ジュアンの中に「女性の美」の基準が確立されているということは、女性たちを誘惑する場合の重要な要件になっています。女性たちにしてみれば、ドン・ジュアンというものがもしいるとしたら、誘惑されないことのほうが恥ずかしいことになってしまいますからね。

 ところでドン・ジュアンは女性たちに瞬間的に取り入り、彼女たちに自分を愛させる技術を持っています。ところが彼はモノにした女性を惜し気もなく捨ててしまいます。どうも困ったものです。もっともドン・ジュアンにしてみれば、仲良くなった女性との関係を全部維持し続けてゆくことは不可能です。わが朝の、光源氏のケースでもお分かりのように、複数の女性と、メインテナンスの原則は両立しないのです。
  さて、ドン・ジュアンは女性たちを尊敬しているのでしょうか。もちろん、そうでしょう。ドン・ジュアンが彼女たちの美しさを尊敬していることは確実です。しかしドン・ジュアンは自分がねらった相手を「軽んじて」いることもたしかです。というのは、いずれにしても女が彼のものになることは予定の事実だからです。だから彼には、難攻不落な相手に対して抱かなければならない畏敬の念を持ちようがないのです。

 どんな貞操堅固な女性も、ドン・ジュアンの手にかかればいちころです。モリエールによれば美しいエルヴィールは修道院に入っていました。あろうことか、ドン・ジュアンはその修道女を誘惑し、捨ててきたのです。だから今ではドン・ジュアンは彼女の兄から命をねらわれる身となっているのです。
  ごらんのようにモリエールのドン・ジュアンは人を軽んじているだけではなく、神をも軽んじていることが分かるでしょう。このドン・ジュアンが活躍したのは少なくとも一六〇〇年以前のことですが、彼は早くも現代的な無神論者の風貌を示しています。必要とあらば彼は神ともひと勝負やる用意ができていたのです。

 ドン・ジュアンにしてみれば、女を畏敬の念で見ていたのでは彼女たちを誘惑することはできません。女たちに対するうっとりするようなお世辞の数々は、相手を軽んじ、相手をのんでかかっているからこそスムーズに出てくるのです。
  役者は観客を大切に思いますが、同時に観客の頭をかぼちゃの頭と思います。そう思わないと緊張のあまり呼吸できなくなり、せりふをとちり、へまをしでかすからです。それと同じように女性の前に出たドン・ジュアンは、相手がどんなに立派な、美しい女性であっても緊張して立ちすくんだりはしないのです。
  そして女性にしたところで、男が顔面蒼白になったり、あるいは真っ赤になって口がきけなくなったりというのでは、正常なコミュニケーションができません。うつむきながら、とぎれがちに、シリアスに愛を告白されるほうが好きな女性もいるかもしれませんが、ドン・ジュアンのように堂々と、小粋に、しかも艶っぽくやってもらった方が数倍も嬉しいということがあります。それにドン・ジュアンの場合、相手の好みを察知し、相手の好む方法で対応できるのです。

 このさい男の愛が本物であるかどうかは二の次です。セールスマンは、まず受付嬢を突破しなければならないのです。どんな場合も、はじめにすぐれたプレゼンテーション能力が求められていることがお分かりでしょう。
  「ドン・ジュアンは、人を軽んじる能力をやすやすと行使してきた」とアランがいっているのは、彼がプレゼンテーションに際して、自分の心身を自由にコントロールできたということを意味しているのです。ここから私たちは、度胸のすわった、一人の優雅な騎士のすがたを想像すべきでしょう。

 
 

ドン・ジュアンは胸の人
  話は変わりますが、モーツアルトの「ドン・ジョバンニ」の台本は、「フィガロの結婚」の脚色で知られるダ・ポンテによるものです。ダ・ポンテがこの作品を脚色した時には、すでにモリエールの作品が出されていましたから、当然お手本にされたはずです。ただしモリエールの『ドン・ジュアン』も、彼の純粋なオリジナルではありません。たくさんの既存のドン・ジュアン物語のモリエール風アレンジです。
  ごらんになればお気づきと思いますが、モーツアルトのドン・ジョバンニは、重要なところでモリエールの思想を取り入れています。そしてその部分があのオペラを手応えのある重厚なものにし、内容の軽薄さを救っているのです。すなわち誇り高い、騎士としてのドン・ジュアンのキャラクターは、この二つの作品にとって不可欠の要素といっていいでしょう。

 ドン・ジュアン物語といえば、バイロンの叙事詩を忘れることはできません。しかしバイロンのドン・ジュアンは残念なことに、いかにもドン・ジュアン的な持ち前の特性を出し切る前に、話が未完に終わってしまっています。
  しかしバイロンは、モリエールの作品でも、ダ・ポンテの作品でも分からないドン・ジュアンの生い立ちについて、かなり詳しく説明しています。バイロンによれば、ドン・ジュアンは仲の悪い夫婦の子供でした。母親は記憶力抜群の才女であったということになっています。
  ドン・ジュアンは大変な美少年でした。やがて十六才のときに人妻と関係し、美しい女にめぐり会いながら放浪と冒険を繰り返すことになっています。バイロンの場合も、ドン・ジュアンは知性と勇気を持った騎士として描かれています。この点では他の文学作品と一致しています。こうして私たちは騎士としてのドン・ジュアンにたどり着きました。

 では騎士の特性とはどのようなものでしょうか。アランは「騎士とは胸の人である」といっています。これは体の部位を「頭」「胸」「腹」の三つに分けて、その内の「胸」が騎士の特性を決定づけるということをいっているものです。
  「頭の人」の代表選手は頭脳プレーをする策士、あるいは瞑想する賢者、研究に打ち込む学者などです。これに対して「腹の人」とは、食欲や物欲、性欲を中心に行動する人のことで、大食漢、大酒のみ、強欲な商人などが該当します。これに対して「胸」が意味しようとしているのは「情熱」「怒り」「誇り」などです。騎士は「情熱と誇り」を特長とする人々というわけです。
  もっとも「ドン・ジュアンは女の尻を追いかけているのだから胸の人ではない、下半身の人、すなわち『腹の人』ではないか」という意見もあると思います。なるほどそういわれれば、それも理屈です。しかしドン・ジュアンは何も性欲に取りつかれ、これを最優先しているのではありません。

 ドン・ジュアンをよく観察してごらんになれば分かりますが、彼が望んでいるのは強姦ではありません。彼にはいやなものを無理強いする考えは毛頭ありません。
  この点、歌劇「トスカ」の中の警視総監スカルピアは、「私はあなたに無理強いをするつもりはありません」などといっていますが、同時に「あなたがここから出て行けば、あなたの最愛の人は死刑になるでしょう」といいます。つまり彼は人質をとって肉体関係を強要しているのですから、強姦と同じことです。このように卑しい取引きを持ちかけるスカルピアの輩と、ドン・ジュアンを一緒にしてはなりません。

 話はまた脱線しますが、最近子供たちの「いじめ問題」が社会的な問題となっています。私はここに騎士道精神の欠如を見ます。弱いものをいじめるのは卑劣です。また弱いものいじめを見て、見ぬふりをしているのも卑劣です。そして自分の名誉を守るために、たとえ弱いながらも立ち上がるということをしないいじめられっ子もまた卑劣です。これらは三重の卑劣ゲームです。
  そしてこのような卑劣ゲームが横行しているのは、騎士道精神がすたれ、騎士の徳がすたれているからです。小スカルピアのような卑劣な大人や、平凡な大人が寄り集まって、「いじめ問題を何とかしよう」などといってもしょせん愚かなことです。そもそも大人に「騎士の徳」を賛美する精神がなければ、子供たちにこれを説得し、伝えることはできないのです。

 
 

誇りは逃亡を許さない
  さて、ドン・ジュアンが「胸の人」であることは一応証明できましたが、それではドン・ジュアンとしては何が喜びで女性を追いかけるのでしょうか。それは逃げる相手を説得し、嫌がる相手にこちらを向かせ、自分の魅力を認めさせ、夢中にさせ、ついには女性に自分を愛することを選択させるという点にあります。
  ドン・ジュアンがねらっているのは彼女たちの自由な愛であり、主体性のある愛です。これこそ彼の真の獲物なのです。このことは、ドン・ジュアンが、肉体関係の事実によって規制される愛、強制される絆の愛、権利としての愛、義務としての愛、押しつけられる愛、要求される愛を忌み嫌っているということです。彼がもっぱら花から花へと飛び移るのは、まさにこの理由によります。こういうドン・ジュアンのふるまいを指して人々は不道徳、不誠実とするわけです。

 バルザックの『従弟ポンス』にあらわれるポンス氏は、ちょっと目には「腹の人」です。なぜなら彼は文字通り餓鬼道に堕ちた人だからです。彼は音楽家でありすばらしい美術愛好家です。しかし彼はとんでもない美食家でした。そして彼はおいしいものを食べるためにあらゆる屈辱を耐えねばならなかったからです。
  彼の本領は美の追求にありました。彼は美しい音楽を愛し、美しい美術を収集するように、その日その日の美しい糧、つまり美味を求めたのです。ポンス氏を果たして「腹の人」と定義できるものでしょうか。
  ドン・ジュアンにとっては、女性からの自由な愛は彼の作品でありました。ただ、美しい花のように、それはある瞬間に咲き誇り、すぐに消えて行くものだったのです。「従弟ポンス」は、かわいそうに女性に愛されることを神に禁じられている醜男でした。しかし彼は美術品を見る目を授かっていました。ドン・ジュアンはといえば、女性に愛されなければならない別種の美術収集家だったのです。

 さて、ドン・ジュアンが「胸の人」であることが分かると、いろいろな謎が解けてきます。たとえば決闘のことを取り上げてみましょう。ドン・ジュアンは自分の命にさほど執着しません。自分からあえて戦いをしかけるということはしませんが、誰かに挑戦されれば、躊躇せず、さらりと剣のさやを払います。
  また道ばたで暴漢に襲われて難儀をしている人を見れば、すぐに駆けつけて助けてやります。彼の剣さばきは鮮やかなもので、ドン・ジュアンも自分の腕前には自信を持っています。しかし彼の剣術は決して友愛や徳義のためのものではありません。彼は自分の技を誇示したり、人を傷つけて楽しむことはありません。彼は武器の限界を知っており、できるだけ荒っぽいものを使いたくないと思っているのです。
  ただし彼に自衛の必要があるとき、あるいは彼の支援が有効なとき、要するに彼の胸が情熱にふくれ、彼に「今だ。剣を取って戦え」と命じるときに、彼は剣を抜いて戦うわけです。

 こう考えてみると、ドン・ジュアンがどうして「石像からの晩餐招待」を受けざるを得なかったかということが理解されるでしょう。本当のことをいえば、さすがのドン・ジュアンも石像が口をきくのを聞いたときには、薄気味悪くなってしまいました。彼は自分をおし潰さんばかりの超自然的なパワーを感じました。
  しかしこのように自分の勇気が試される段になると、ドン・ジュアンの胸は一層大きくふくらみ、一歩も後に引けなくなってしまうのです。彼は従者がさかんに引き止めるのも聞かずに石像の招待を受諾します。
  もしドン・ジュアンが色事だけを好む「下腹部の人」だったとしたら、石像の招待は受けなかったでしょう。彼は話を聞いただけで一目散に逃げ出したにちがいありません。臆病と貪欲は兄弟だからです。ごらんになれば分かるように、ドン・ジュアンならば逃げ出すチャンスはいくらでもありました。
  そして最後の幕切れの場面にしても、彼は何も石像と握手する必要はなかったのです。彼は石像と握手をすれば、自分の身が地獄に引き込まれ、破滅するということをほとんど予知していたのですからね。

 ドン・ジュアンは結局自分の力を信じ、運命に挑戦し、これに勝とうとしたのです。彼は武運つたなく破れ去りました。そして彼が孤独のうちに、自分だけを信じて、助ける友もないままに地獄落ちするあの場面を見て、私たちは決して快哉を叫んだり、笑ったりしません。
  私たちはドン・ジュアンが地獄落ちするのは、因果応報だと思っています。ですから、モーツアルトのドン・ジョバンニが悲痛な叫びを上げながら業火に焼かれ、石像とともに奈落に沈んでゆくところを、何ら同情することなく見ています。
  しかしあの場面を見たときの重苦しく、やり切れない感情は否定できません。バカバカしく、非現実的な舞台設定なのに、不思議なリアリティを感じます。それはなぜでしょうか。私は、それは自分の理性と意志と能力を信じて戦った男が、その限界において敗北するところを見るからだ、と思います。

 
 

恋をしたドン・ジュアン
  さて、アランに戻りましょう。アランの描くドン・ジュアンは、石像の騎士に引きずられて地獄落ちするという筋書きから少しはずれています。アンドレ・モーロワがいっているように、アランのプロポは要約することができないもので、本当は全文を、あの文体でとらえなければならないのですが、ここで読者のためにあえて要約することをご容赦ください。
  アランのドン・ジュアンは、なんと絶望のあまり首つり自殺をすることになっています。なぜなら、「それまで、ドン・ジュアンは人を軽んじる能力をやすやすと行使してきた。ところが今度は、それができない」からです。アランによれば、今回ドン・ジュアンは彼の才能にもかかわらず、美しく貞淑なエルヴィールをどうしても口説き落とすことができませんでした。

 アランは次のように書いています。「エルヴィールがまじめな人柄であり、そのしっかりした考えと健康な美しさは何ものの力をもってしても変えることができぬものであることを、ドン・ジュアンがはっきりと知ったとき、彼は魔力を失ってしまった悪魔のように、地獄の奈落のどん底まで落ちて行く思いがした」。
  そこで彼は、自分自身が作り出した情念の炎に焼かれる思いを抱いて家に帰りました。自分が口説いても落ちない女性がいるのですから、あきらかに自分の負けです。それどころか、ドン・ジュアンは彼女を本当に愛してしまっているのです。もう絶望です。そこでドン・ジュアンはもはや惜しくない命を捨てるために、天井から丈夫な綱をたらして輪を作り、その中に首を差し入れました。

 ところがそのとき、彼は別の女性を見つけました。その女は何と窓越しにドン・ジュアンに向かって投げキッスを送ってくるではありませんか。そこでドン・ジュアンは首つりをいったんおあずけにして、その美女を口説きました。これは成功しました。彼はすぐにこの女性をモノにできたのです。ドン・ジュアンは自分の能力を再確認し、いささか満足感を味わいました。
  ところがこの女性はただの女ではありませんでした。この第二の女性は日頃家のものから監視されている色情狂だったのです。この女性にしてみれば、男なら相手は誰でもよかったのです。これを知ったドン・ジュアンははげしいショックに襲われました。
  アランはこの続きを「ドン・ジュアンは一切を悟り、おのれの全生涯を裁く。自宅に帰り、しかけたままの綱の輪を見ると、すばやく首を通す。そして今度は本当に首をくくってしまった」と書いています。

 ドン・ジュアンは何を求めていたのでしょうか。もしも彼が性の快楽だけを享受するつもりなら、ふらふらさまよい出てきた色情狂でも何でもかまわないはずです。ところが、そんなことはドン・ジュアンの美学には含まれていません。彼は困難を求めているのであり、自分の力を試したいのです。イージーな報酬で満足するほど騎士道の精神に反することはありません。
  アランはここで「ドン・ジュアンは一切を悟り、おのれの全生涯を裁く」といっています。これはどういうことでしょうか。それはドン・ジュアンが、これまで大勢の女性を彼の魅力で征服してきたと、自慢に思っていたのですが、もしかしたら一人残らず、この女性のような色情狂の同類ではなかったのか、という点に気づいたということです。
  彼はたった今まで、自分がたぐいまれな才能によって困難を克服し、女性の自由な愛を享受してきた、と信じていました。ところが逆に、彼が女性たちの一時の慰みものとして利用されていただけかもしれないのです。彼にそれができたということが、この仮説の論拠となるかもしれないのです。だとすれば、これまでの彼の人生とは一体何だったのでしょうか。

 アランはこのプロポの中で、女性を二種類に大別しています。一つはエルヴィールに代表される女性です。このタイプの女性は、ドン・ジュアンには口説き落とせない人物です。もっともモリエールのドン・ジュアンはなかなか強烈です。彼ならうまく行くかもしれません。彼はなにしろ修道院の中で修行中の女性を口説くことに成功しましたからね。
  しかしアランは、最初からドン・ジュアンには歯が立たない女性がいることを想定します。エルヴィールはどんな誘惑や甘言にもつられないタイプの、自由人としての女性を象徴していると見ていいでしょう。
  もう一方の女性のタイプは色情狂です。彼女たちは男はドン・ジュアンでなくてもいっこうに構いません。体裁よくつくろってはいますが、実のところ見さかいなしに男をあさっているのです。彼女はこの意味で自由な女性ではありません。自制がきかないという意味で自由でない女性といったほうがいいでしょう。

 ドン・ジュアンが求めているのは、自分の自由意志で主体性をもって相手を選ぶ女性です。たとえこちらが「誘惑」という手段を使うにしても、ドン・ジュアンにとっては、相手が自由意志で自分を選択してくれる、ということに意味があるのです。
  エデンの園で、蛇に姿を変えたルシファーはイヴを誘惑します。しかし蛇は彼女にリンゴを強制したわけではありません。リンゴを食べたのはイヴです。ヴァレリーは「蛇の素顔」という詩の中で、自ら蛇となってこう歌いました。「動物の中で最も狡猾な蛇の俺とて、おお もろもろの悪を孕んで邪心ある女よ、実は 濃緑の葉陰の一つの声にすぎない・・」。要するに、蛇の言葉に耳を傾け、その言葉を採択したのはイヴ自身だということです。

 ところでエルヴィールの主体的な拒否に出会ったアランのドン・ジュアンは、自分には相手の自由意志を動かすだけの力がなかった、ということを知っただけではありませんでした。彼がその直後にモノにできたのは、「そのようにしか行動できない、自由のない人間の、選択の余地のない行動」としての女性のレスポンスでした。
  そして彼が「一切を悟った」ということは、つまり、自分はこれまで女性たちをコントロールできたと思っていたが、それは彼女たちを「選択の余地のない状況に追い込んだからに過ぎなかったかも知れない」ということを知ったということです。
  ここまで分かれば、胸の人たるドン・ジュアンは首をくくるより仕方がありません。もとより生には執着しない彼のことです。彼の人生は、「相手の自由意志に訴える」という点で志はよかったのですが、結果は明らかに間違っていたのです。こうしてドン・ジュアンは首をくくり、私たちの前から姿を消しました。

 
 

私たちの問題はどうなったか?
  さて、今度は私たちの問題が残されています。幸いなことに私たちはドン・ジュアンではありません。私たちが、いや失礼。私がいくつかの基礎的条件、女性たちを引きつけるはずの条件が欠けているということについては、この際触れないことにしましょう。
  しかしまず私たちが果たして「胸の人」であるかどうかが問題です。情熱の名において困難であればあるほど課題に挑戦するあの志についてはどうでしょうか。
  私たちはまず不可能そうに見えるような何かの目標を明確に設定しているでしょうか。またそれを自分の才能と楽しみの両方にかけて、自分のライフワークと考えているでしょうか。その目標に向けて日夜たゆみなく努力を続けているでしょうか。
  かりに私たちにそのような目標があると仮定して見ましょう。では、そこで私たちは関係者を軽んずる力を発揮しているでしょうか。私たちは、つまらぬプレゼンテーションに際しても震えたり、すくんだりしているのではないでしょうか。私たちの運命を左右することができる人の前で、私たちは恐怖のあまり口もきけなくなっているのではありませんか。いずれにしても私たちは相手の心を貫き、同意を奪いとるような説得力を発揮している、といえたものでしょうか。

 では石像の晩餐招待の件について考えてみましょう。私たちはあのパーティの招待を受けるでしょうか。かりにパーティに行ったとしても、最後まで逃げ出さずに踏み止まって、自分の最後の力を試すことができたものでしょうか。どうも自信がありませんね。いや、私たちの逃げ足の早さときたら、自分の目にも止まらないほどなのではないでしょうか。
  ドン・ジュアンを道義的に非難することは自由です。しかし彼には名誉心がありました。彼は自分の名誉を守り、力を越えるものにさえ抵抗を示しました。ところで、私たちにもっとも縁のないもの、それは名誉なのです。
  では、ここで再びアランのドン・ジュアンについて考えてみることにしましょう。私たちが難攻不落のエルヴィールに出会ったら、私たちは自分に何というでしょうか。「いやはやお固い女だ」というのではないでしょうか。そして「本人があれほどいやだといっているのだから、あきらめるしかない」「なあに、女なんていくらでもいるさ」「あれはきっと不感症なんだ」。

 つまり私たちは自分の思いが遂げられないとき、それを相手のせいにします。ところがドン・ジュアンは、「おれの才能に限界があったのだ」「おれにも不可能があったのだ」というように絶望します。幸いなことに私たちは自分の才能には絶望しません。なにしろ最初から自負を持っていないのですから、絶望しようがありません。だからこそこうして生きていられるのです。
  だが、不都合なことを何でも他人のせいにし、たとえ自分の不徳、才能不足、努力不足、さらには自分の不注意さえも他人のせいにして、可能なら裁判まで起こそうという、この私たちの根性は一体どうなっているのでしょうか。
  さて、アランの描くドン・ジュアンは一回目の首つり寸前に色情狂の女を認め、これを手に入れました。ところがことの真相を知って、前よりももっと深い絶望に陥りました。私たちならこのような絶望を感じることはまずありません。「一回余分に遊べた」てなものです。何しろ私たち自身が、どんな女にも負けないくらいに色情狂なのであり、相手ならだれでも構わないわけですから。

 このように考えてきてみると、私たちがなぜドン・ジュアンという一人の騎士を葬り去ろうとしているのかを改めて理解することができます。
  つい先ごろまで、私たちはドン・ジュアンを非難していました。つまりドン・ジュアンは「女の敵」というわけです。ところがよく考えてみると、彼は女の敵ではありません。彼の標的にされることは女性にとって名誉なことです。しかも、女性は最終的な選択権を持っているのですから、何人ものドン・ジュアンに首をくくらせることもできるわけです。
  しかし、目標も持たず、目標に対する情熱もなく、説得力もなく、自分に対する誇りも名誉心もない人々が、平気で弱いものいじめをしている今日の社会にあって、ドン・ジュアンのような存在は、彼のお国のもう一人の老騎士と同じように、はなはだ場違いで、滑稽で、ナンセンスなのではないでしょうか。

 もし彼らがナンセンスでないのだとしたら、私たちがあまりに卑劣な、虫けらのような色情狂にすぎないということになってしまいます。女性たちにしてみても、世の中にはましな男は一人もいない、ということになります。
  ということで、私たちはドン・ジュアンの地獄落ちを、多少は割り切れない気持ちを持ちながらも、冷静に見届けます。また一方では、アランのドン・ジュアンが、はりの下にきちんとぶら下がっているかどうかを確かめます。やれやれこれでもう安心です。現代人の私たちは、私たち流にやることにしましょう。

 
   
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