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ソクラテスのクリスマス
 
第4章 奴隷の話法――ときにはイソップのように

集団ヒステリーに陥ったウサギ
  「では、おれをこわがるやつもいるのだな、とカエルが飛ぶのを見てウサギはいった」とアランは書いています。これはアランが伝えるイソップ物語の例です。すなわち、もったいぶってはいるけれど内実は小心な暴君が、自分よりもさらに臆病な廷臣がいることを知って安心し、喜ぶというものです。これは権力や権力者を嫌ったアランらしい、皮肉な表現です。
  ここで引用されているイソップ物語の原形はどのようになっているのでしょうか。
  ウサギたちはあるとき寄り合って相談しました。「自分たちは地上でもっとも弱い存在ではないか。つね日頃ライオンや狼に追われ、結局強者の餌食になるだけだ。年中びくびくして逃げ回るみじめな生活を続けている。こんな暮らしをしているよりも、いっそ死んでしまった方がましではないだろうか」。

 そこで、ウサギたちは集団入水自殺をしようとして、沼に向かって駆け出して行きました。するとその足音に驚いたカエルがびっくり仰天して先に水に飛び込みました。これを見てウサギたちはいいました。「なんだ、私たちよりずっと弱いものがいるんだ」。そして気をとり直して平常の生活に戻った、というものです。
  この原作には滑稽なところがたくさんあります。まずウサギが自分たちの弱さを集団で自覚するところです。さらに話し合いの結果、自暴自棄の結論に達し、いわば集団ヒステリーに陥るところです。
  次にもっともおかしいのは、カエルが飛び込むのを見て、自分たちが与えたインパクトを自己評価するところです。しかもカエルが水に飛び込むのと、自分たちが水に飛び込むのを、意味的に同一視していることが分かります。カエルが水に飛び込むのは何も自殺するためではありません。ところがウサギが水に飛び込むのは自殺を意味しています。ここに微妙な誤解があります。

 カエルが複数のウサギの足音に驚いて水に飛び込んだのは、ウサギの強さを恐れてのことではありません。これはいわば反射運動であって、これをもって「カエルは私たちを恐れている」と結論をすることはできません。ところがウサギは自分たちがカエルを威嚇できたと考え、このことに満足しています。
  また次におかしいのは、よしんばカエルが弱い存在であるとしても、そのこととウサギの弱さの間には関係がないのに、「一番ビリではない」という認識だけでウサギたちが大いに安心できたということです。

 私は子供の頃からかけっこが遅くて、いつもビリか、ビリの一人手前かを争っていました。私にとっては優勝とか、一番とか二番など、まったくの別世界のことがらでした。私にとっては、私とビリを争う子との勝負がすべてでした。そして私がビリにならずに、つまりビリから二番目になれたときには、私はじっさい、チャンピオンになれたよりもうれしかったのです。
  アランはこのイソップの話をどのように応用したのでしょうか。「では、おれをこわがるやつもいるのだな、とカエルが飛ぶのを見てウサギはいった」という記述はイソップの原作をふまえていますが、この場合ウサギは「単数」になっています。このことは、ウサギによって象徴される人物が、自分よりも弱い人間はいないと思って、たえずビクビクしていたということをあらわし、しかも自分の弱さを孤独のうちに自覚していた、ということになります。これが「複数のウサギ」から「単数のウサギ」への変換によって生じるニュアンスの違いです。

 次にこの人物は誰を見て「おれをこわがるやつもいるのだな」と考えたのでしょうか。それは自分の部下です。私たちは常識的にいって組織の上位者のほうが強いと考えます。ところが強い人間もいれば弱い人間もいます。また強さに自信を持っている人もいれば、自信を持てない人もいます。
  会社の経営者は労働争議を恐れています。働く人がいなくなったら事業はおしまいです。労働組合のない会社でも、経営者は「オレ一人ではとてもやっていけない」と考えます。これは自分の弱さの認識です。人がうらやむ大会社の社長のポストも、外から人が見ているほど強力なものではありません。ケースによりますが、微妙な人的関係のバランスの上にやっとひっかかっているような経営者やリーダーも少なくないのです。
  そこで、「私は偶然このような組織の頂点に立っているが、その基盤はもろいものだ」と認識し、いっそう謙虚になって仕事に精励する経営者もいます。自分の立場を失うことを恐れて、過剰防衛的に反応する経営者もいます。何も考えず得意満面の人物もいます。

 アランが「単数のウサギ」によって代表しようとしている人物は、弱さを自覚していますが、あまり謙虚ではありません。むしろ彼が弱いのは自分の立場にしがみつこうとするからです。その彼が、自分よりも弱者を発見して喜ぶという心理は、かけっこでビリから二番になって喜んだ小学生の私と、どこも変わりません。これが暴君の実態だというのがアランの主張です。

 

埋もれた人材だったイソップ
  アランはイソップ物語をはじめとする寓話やおとぎ話に強い関心を示しました。彼はここに権力に対する理性の知恵、しかも横目づかいの知恵を見ました。
  イソップとはどのような人だったのでしょうか。寓話作家イソップ(ギリシャ名ではアイソポス)は前六世紀の人で、ギリシャ人の奴隷であったといわれています。歴史家ヘロドトスによれば、イソップはサモス人イアドモンの奴隷であったといいます。これに対してラ・フォンテーヌはプラヌデスの『イソップ伝』を紹介して、イソップがフリギア人であり、サモスのクサントウスという哲学者の奴隷であったと伝えています。
  ヘロドトスとプラヌデスの説明は、イソップがサモスで奴隷身分にあったという点で一致しています。
  大多数の人々が無学文盲の時代にあって、イソップのような教養レベルの高い奴隷がいたことにびっくりしますね。けれども奴隷は都市間の戦争の戦利品として確保されたことを考えれば、いくぶん事情を理解することができます。時代はずっとさかのぼりますが、トロイ戦争の顛末を見ると、敗戦国の男は殺され、女性たちは奴隷となったことが分かります。

 ギリシャ悲劇の一つ、エウリピデスの『トロイアの女たち』の中には、プリアモスの王妃ヘカベや娘のカッサンドラ、それに息子の妻アンドロマケ、そして沢山の侍女たちが、ギリシャの大将たちに戦利品として割り当てられた様子が描かれています。
  こうして見ると、奴隷の身分にかかわらず優秀な人材がいたとしても不思議はありません。フリギアはトロイ戦争で有名な小アジア北部を指します。またサモス島も小アジア側に近いところにある島です。ギリシャと周辺諸国の間にはしじゅう戦争がありましたから、サモス島にフリギア人の奴隷がいてもおかしくないのです。
  ラ・フォンテーヌがプラヌデスの話として伝えるところによると、イソップの容貌は大変醜く奴隷としてもほとんど商品価値がなかったそうです。しかしこれはイソップの知恵、表現力を際立たせるための誇張かもしれません。一家の主人であるクサントウスが奴隷市でイソップを買って帰ると、彼があまりに醜いので、奥さんが怒りだし、夫婦げんかになってしまったそうです。

 ご存じかもしれませんが、イソップ物語には天文学者の話が出てきます。ある天文学者は空にばかり気を取られていました。そして足を踏みはずして井戸に落ち込んでしまいました。彼が穴の中で叫んでいると、通りかかった人が話を聞いて、「君は空は見ていても地上を見ていないんだね」といいました。
  ディオゲネス・ラエルティオスによると、ミレトスのタレスが星を観察するために老婆を伴って家の外に出ましたが、溝に落ちてしまいました。そこで老婆に「タレスさま、あなたは足下にあるものさえ見ることがおできにならないのに、天上にあるものを知ることができるとお考えになっているのですか」といわれたとあります。
  前六世紀といえばタレスの時代と重なります。この話のモデルは案外タレスのことかも知れませんね。
  もう少しイソップの情報をたずねておきましょう。ヘロドトスは、イソップが神託で有名なデルフィ人を怒らせ、殺されたと伝えています。イソップは、デルフィ人に盗みと涜聖の罪で追われ、懸命に抗弁しましたが、それもむなしく崖から突き落とされて殺されたそうです。

 
 

イソップ物語は裏街道のホメロス
  あなたはイソップ物語をいくつ、どんな話を覚えていますか。「北風と太陽」「酸っぱいぶどう」「キツネとヤギ」「ワシのまねをしたカラス」「アリとかぶと虫」など・・・有名な話が沢山ありますね。イソップによって開発されたこうした小さな寓話は、ギリシャ全土に流布したものと見え、紀元前からいろいろなところに引用、応用されています。
  たとえばプラトンの『パイドン』の中では、弟子の一人がソクラテスに向かって、あなたはイソップの物語を詩の形に直したり、アポロン神への讃歌を作っているのはどうしてか、などと尋ねる部分が出てきます。また『アルキピアデス』の中には、ソクラテスが「まるでイソップの物語そっくりに、狐がライオンに言ったとおり」などという表現が出てきます。
  またソクラテスは「もしイソップがこのことを知っていたら、きっと寓話を作ったにちがいない」などと語るところも出てきます。どうやらソクラテスはイソップを好んでいたようですね。

 ギリシャ喜劇の作家アイスキュロスにもイソップが登場します。劇の中で、息子が父親に向かって「(仲間の会合に出て)何かしゃれた小話をしてはいかがですか。たとえばイソップの話とか・・」などという場面が出てきます。これで見ると、何か軽いたとえ話をしたり、雑談をするときに好んでイソップ物語が引き合いに出されたということが分かります。
  ホメロスが「フォーマルな教養」であったとすれば、イソップは「インフォーマルな教養」であり、もっとおおげさにいえば、イソップは裏街道版のホメロスだったともいえるでしょう。そのくらい古代ギリシャ社会で流通していたものと思われます。
  今日のビジネスマンも、ほとんど自分でも意識しないままにイソップを引き合いに出したりします。ひとときは、現代の消費者の特性を表現するために「アリギリス」などという言葉が作られたことがあります。もはやアリは勤勉の象徴であり、キリギリスが享楽の象徴であるというのは通り相場です。日常的に活用されている典籍としていまやイソップは最古の、しかもホメロス以上に全世界的なものとなったのです。
  すでにご紹介したラ・フォンテーヌは、イソップを下敷きにした『寓話集』の序文で、「イソップは楽しいことと有益なことを結びつける技術を発見した」と書きました。そして自分は、イソップをベースに帝王学としての寓話集をまとめたのだといっています。すなわち「楽しみながら、王者として知らなければならないすべてのことを学べるようにした」といっているのです。これは、経営者のためのマインド・マニュアルといっていいでしょう。アランが「ウサギとカエル」の話で示そうとしているのも、ある種の帝王学のエッセンスです。

 ところでアランは、イソップは「すべてのおとぎ話と同じように、現実にはあり得べからざる仮構の上に、現実の、ありのままの姿を描いた」と指摘しています。これはどういうことでしょうか。またこのことが寓話という暗示的なコミュニケーション方法の本質をどのように解き明かしているのでしょうか。
  カラスやキツネが人間と同じように対等に口をきいたり、観念を披露しあったりする、これは実際にはありえないことです。ところが寓話、お伽話では、動物は擬人化され、種の違いを越えて話し合ったり、相互に行動したりします。そしてこのことを、物語を読む私たちは少しも不思議に思いません。
  たとえば3才の幼児に「きつねさんとライオンさんがお話をしました」といっても、幼児はこれを少しも疑問としません。これはきつねが何であり、ライオンが何であるかをまだ知らないからです。

 ところが子供が5才になり、8才になっても、10才になっても、きつねとライオンの間にコミュケーションが成立するのか、という本質的問題は提起されません。このことは彼らが動物園にいったり、図鑑を見たりして動物を学習した後でも変わりません。
  すなわちはじめにきつねとライオンの対話を受け入れた3才の未知の状態から、私たちは一足飛びに「これは寓話なのだ」という了解へと跳躍します。そして種間コミュニケーションが成立するかどうか、などというバカげた疑問を度外視してしまうのです。
  また寓話が寓話としてリアリティを持つ大きな理由の一つに、種が持っている特性がお話の中に何らかの形であらわれる、ということがあります。たとえばライオンは強く、どう猛であり、きつねはずる賢い、あるいは鳥は飛んで逃げることが可能だ、という具合です。

 
 

寓話における虚構とリアリティ
  アランは寓話について「一瞬、一瞬、仮構がありのままの姿を示す。一瞬、一瞬、事物の必然性がありのままの姿を示す」といいました。これは、私たちが寓話を受け入れたときから、寓話を成り立たさせているあらゆるムリ、たとえば種間コミュニケーションなどということを度外視し、たとえ話に必要なリアリティだけを注目するようになる、ということです。
  「烏は狐に耳を傾ける。烏はチーズをくわえている。ここに間違いはない」とアランはいいます。これは、たとえばイヌや鳥が外部の物音や状況を観察するために小首をかしげる、様子を示しています。佐藤春男の詩に「鳩よ、けげんな鳩よ」という一句があります。別に鳩は詩人の話を疑ったり、人間的状況に関心を持っているわけではありませんが、ハトの首をかしげるしぐさを「けげんな」という言葉でみごとにとらえていますね。

 これと同じことで「烏は狐に耳を傾ける。烏はチーズをくわえている。ここに間違いはない」となります。つまりここでは現実のリアリティが模写されています。また「烏は大きなくちばしを開き、チーズは落ちる。ここにも間違いはない」。ということになります。
  カラスといえば、道路で生ごみの袋をつつき、道路一面に生ごみをまきちらすカラスの害を何とかすることはできないものでしょうか。彼らはクルマや人が近づく距離を見計らっていて、ギリギリのところまで仕事を続けています。逃げる距離も最小限度です。
  カラスのこうした憎たらしい特性は、最近生じたものではなく、おそらく紀元前の、イソップの時代にも見られたものでしょうね。カラスは人間の住いの近く、あるいは畑などに出没し、何千年来いつも餌を狙っていたのです。
  そこで、カラスが人家の裏から残り物の肉片やチーズをくわえてきて木の枝にとまっているという光景は、いかにもありそうなことですね。また、くわえた餌のサイズがくちばしの形状に合わないために、これを取り落とすということもいくらでも見られます。ですからこのイソップのカラスに関する表現は、今日の現実と、どこも抵触していません。

 ところで、そこにキツネがやって来ます。ここから現実の自然世界は、一挙に人間的な世界に相を変えます。次元が変わり、宇宙が変わるのです。この宇宙においてはさっきまで二種類の生物だったものが、二つの純粋な人格として機能し始めます。
  キツネは、カラスを鳥の中でもっとも美しい鳥とほめ、その美しい外観に見合った美しい声を聞きたいものだとおだてあげます。キツネはカラスをいい気分にし、くちばしを開けて声を出さざるをえない状況を作り出すのです。ついにカラスはくちばしを開け、鳴きます。
  このプロセスにおいては、動物としてのキャラクターは捨象されます。セールスマンはお客に財布の口を開けさせようとするとき、客をおだてないでしょうか。あるいは客に関するほめ言葉をいわないでしょうか。

 
 

セールスマンはキツネ、お客はカラス
  もしもセールスマンが、お客のことをあしざまにいったり怒らせたりすれば、商談は成立しません。すなわち買い手の財布の口は開きません。だとすれば、キツネがカラスのくちばしにあるチーズを狙っている以上、カラスをほめるのは人間力学に関しては、必然的なのです。つまりこのプロセスは少しも虚構ではないのです。
  では、お客はどうしてセールスマンにほめられた程度でやすやすと警戒感をゆるめ、交渉に応じるのでしょうか。それはお世辞というものが、人間の生理をくつろがせ、生理的に気分を良くする作用があるからです。これに反して、攻撃的な言葉や態度は、たとえそれが本心でないと分かっているようなときでも、私たちの生理のどこかをこわばらせます。
  もしもセールスマンがうまくポイントを突いて、そのお客がほめてもらいたいと思っていることを的確にほめるならば、お客はそこで「自己実現」を果たすことになります。これを見て「客は虚栄心を満足させた」などといってはなりません。だれしも評価されることを目標に人生を励んでいるからです。

 「人がみなわれをよろしと云ふ時はさすがうれしゑ心をどりて」「人がみなわれをわろしと云ふ時はさすがさぶしゑ心ぼそくて」と北原白秋も歌っています。
  デパートで徘徊しているある種の老人がいます。彼、または彼女は最初から商品を買う気はありませんし、金も持っていません。しかし、彼らは熱心に売り場を歩きます。これらの老人にしてみれば、店員やマネキンが自分を捕まえ、自分に話しかけ、何かと大切に扱ってくれるならそれでいいのです。ですから彼らはいかにも商品を買うようなそぶりをします。こうして彼らはつかの間の「自己」を取り戻すのです。
  このように考えてみれば、セールスマンはこの道、すなわち客の生理を開放し、気分を良くするという道を通ってしかビジネスできないのであり、キツネが象徴している行為こそ、人間という動物におけるもっとも普遍的な真実といわねばなりません。

 「一瞬一瞬、事物の必然性がありのままの姿を示す。烏は狐に耳を傾ける」というのはこのことです。そしてアランはこういいます。「虚栄的な人は、おだてられれば盗人にも気を許しかねない烏に似ている」。これは何も特別な事例をいっているのではありません。私たちはおだてられると用心を忘れます。私たちはもっとも善良な部分を無防備に露呈します。
  もちろん誰もが盗人なのではありません。けれど、もしも何らかの「目的」を持っている人がいるなら、善良な人物を相手にしたほうが仕事がやりやすくなります。そして、お世辞に特別に弱いような人がいるとすれば、詐欺師など大いに仕事がしやすくなるでしょう。そして会社の社長や幹部など、抜け目のないはずの勢力者たちも、結構それ以上に抜け目のない取り巻きのキツネや弱いカエルたちを所有しているものです。
  また親譲りの潤沢な資産を持ちながらも、取り巻きの連中に経営の才覚があると信じさせられたあげくに、全部なくしてしまう人だっています。こうしてみるとカラスとキツネの話は、人間的世界の現実そのものによって組み立てられていることが分かります。
  アランは「カラスは大きなくちばしを開き、チーズは落ちる。ここにも間違いはない」と書いています。

 すなわち、私たちが一瞬人間世界の現実と思ったものは、よく見るとやはり自然世界の現実でした。ハシブトガラスのくちばしは、特別に大きく、頑丈なものです。あの強いくちばしは、どんなゴミ袋でも食い破るでしょう。
  そしてくちばしを離れたチーズは、距離の二乗に比例する加速度を伴って地上に落ちます。ここにあるものは自然の世界の現実以外のものではありません。
  イソップは私たちに自然の世界を見せ、ついで手品師のように人間的な世界を見せ、再び動物と落下の自然の世界を見せます。私たちが人間世界の現実にこだわるなら、イソップは「あなたが見ていたのは、動物の世界ですよ」というでしょう。
  そしてもし私たちが動物世界の現実に固執するなら、イソップは「あなたは人間が動物たちに似ていることに気づかないのですか」というでしょう。ここにはタネもしかけもないのですが、どこかに不思議な位相の転換があります。そのために、私たちは虚構の中に真実以上の真実を見るように仕向けられてしまうのです。

 
 

イソップにおける弱者の潔さ
  このようにイソップは人間性の核心をついているわけですが、ここでイソップに出現する弱者について改めてその特質を見てみたいと思います。たとえば、イソップの弱者はひどく愚かだったり、だまされたりして強者のエジキになります。ここには過酷な自然淘汰の描写があり、教訓があるのですが、この弱者たちが、ある種の共通特性を持っているのです。
  私が指摘したいのは、彼ら弱者がじつに往生際がいいということです。たとえば、足にひもがついたまま人間から逃げ出したカラスは、そのひもを枝に引っかけて死にますが、そのとき「ああ情けない。辛抱して人間たちに仕えていれば良かったのに、辛抱できずに命を落とすことになった」といいます。ここには反省があり、現実に対する諦めがあります。
  またミルテの実をついばんでいて逃げそこなったつぐみは、「私はかわいそうなものだ。食べ物がおいしいので命を落とすのだから」といいながら鷹に食われてしまいます。彼は現実を知っており、反省しています。しかしここには澄み渡った諦めさえあります。
  キツネはカラスからチーズをせしめて、捨て台詞を残して立ち去りますが、もはやカラスは失ったチーズについてはとやかくいいません。彼は自分の愚かさをかみしめ、権利を放棄します。ここでは強いものは強く、弱いものは弱く、いっさいの過ちは補償されません。そして弱者は甘えることなく破滅の運命に身をゆだねるのです。

 このようなイソップにおける弱者の「潔さ」はどこからくるのでしょうか。それは当時の社会にあっては力関係によって、弱者の生命がごく淡泊に消費されていたということを意味します。それだけに用心が必要であり、策略が必要であり、弱い者は弱い者としての「分」を知る必要があったのです。
  このことはイソップ自身の運命の中にも、まったく同じ構図を見ることができます。イソップはクロイソス王の怒りに対してはみごとな話法で応酬し、これを切り抜けることができました。しかしデルフィ人に対してはうまく行きませんでした。プラデヌスによれば、彼はデルフィ人に無実の罪を着せられ、追われて神殿に逃げ込みました。

 当時神殿は追われたものの非難所であり、どんな犯罪者も神殿に逃げ込んだ場合、これを捕らえることはできないとされていました。ところが、デルフィ人はイソップを捕らえました。そこでイソップはいいました。「あなたがたがこの神殿の権威を無視するなら、あなたがたはどうやってこの神殿の権威を維持するのか」。しかしデルフィ人たちはこの言葉を聞き流し、イソップを崖から突き落としました。
  この時代の弱者にとって幸運以外の保険はありませんでした。これが弱者の潔さの理由でありイソップにおけるリアリティの理由です。イソップが語っているのは、粉飾のない世の現実の過酷さです。メルヘンの世界では、弱くてもよいものはかならず助けられ、悪は懲らされます。しかしメルヘンは容赦のない現実のきびしさを犠牲にして物語を作ります。

 
 

奴隷の話法としての寓話
  さて、アランは「謎、たとえばなし、寓話は姉妹であり、三者とも奴隷のようにかがみ込んでいる」といっています。すなわち寓話は決して強者、支配者の立場から物を見るのではなく、上目づかいに、あるいは横目で事物を見ているということです。
  現代人は、言論の自由は自分たちの特権だと考えています。しかしいつの世でも言論の自由は保障されていたのです。けれども同時に、いつの世でも発言の責任は取らなければなりませんでした。そして今日でも自分の発言に責任を取ることなく、何でもいいちらかすことができると思ったら、それは大きな間違いです。
  弱者が自分の発言に責任を持つとは、いつの世でも、今日でさえも、自分の生命を差し出すということです。自分を助けてくれる人をあからさまに侮辱するような発言すれば、あなたは別の庇護者を見つけなければならないでしょう。けれどもそこでも同じようなことをするなら、あなたには生きてゆく道が見つからなくなります。

 ところが誰しも「おべっか」「ゴマスリ」だけでは、どうしてもガマンできなくなるときがあります。どうしても相手に本当のことをいいたくなることがあるものです。そこで、権威者に何事かをいうとすれば、発言の技術が問題となります。
  イソップは大勢の中で発言の機会を与えられたとき次のようにいいました。「主人と奴隷との間に名誉をかけた論争がおこったとします。奴隷は、まずいことをいえばぶたれるでしょう。しかし奴隷が主人よりも立派なことをいえば、やはりぶたれるでしょう」。このようにして、彼は聞き手に寛容の「態度」を求めたのです。
  アランは「この術は知られ過ぎるほど知られている一つの事柄が、いよいよいわれる瞬間を心して遠ざけ、延期するように思われる」といっています。つまり、いきなりいいたいことを発言するのは賢明なやり方ではありません。オデッセウスも乞食のイーロスと喧嘩をするとき、周囲の人々に手出しをしないように誓わせました。

 どんな世の中においても、弱者と強者が存在します。これを否定するユートピアを描くことはできません。もちろん人間の特性はいずれにしても平均に帰するものです。人間の身長や体重が平均に帰するように、人間の能力、権力についても平均を想定することができます。しかし、平均的な人間が社会や集団のイニシアチブを取るのではありません。
  ここには例外的な強者と例外的な弱者がおり、平均的な人々とは弱者側に連なります。どんなに言論の自由が保障される社会においても、いいたい放題ストレートに発言するようでは弱者も先は長くありません。
  では、弱者は発言できないのかというと、まったくそうではありません。お手本はイソップです。彼はいつどうされても仕方のない例外的な弱者に属していました。ところが彼は、ことの本質を見失わないようにしながら発言できる条件づくりを行い、それから「面白いお話」にすり替え、そして発言しました。
  要するに状況づくりと、スマートな戯画化、抽象化そして本質を隠して表現する技術こそが、イソップの武器だったのです。

 プラトンは奴隷が賢明にも主人の心をうかがうことを指摘しました。ヘーゲルは奴隷が主人の心を見抜き、先回りし、主人を操ることによって主人となることを示しました。どちらがどちらを支配することになるのでしょうか。アランはこの弁証法を好みました。
  すなわちアランは、この奴隷の理性のうちに、思想というものの初期の姿、哲学の萌芽を見たのです。精神は判断し、先を考えます。感じたことをそのままいったものかどうか。要求をストレートに口に出したものかどうか。

 
 

より賢い奴隷への道
  もしあなたが弱者なら、口にしたいことをそのままいってはいけません。あなたの安全は保障されません。しかし、あなたが弱者だとしても、阿諛と追従ばかりでは精神が満足しないでしょう。誰もが真実を表現したいという、やむにやまれぬ欲求を持っているからです。どんな奴隷も奴隷根性に甘んじていることはできません。こうして最初の思想、最初のレトリックが生まれます。つまり熟考された言葉が誕生するのです。
  「思想が謎であるのは、単に弱者の策略によることではない」とアランはいいます。弱者の思想は「謎」の姿で示されます。奴隷が「寓話」を示し、主人が悟ればよし、悟らなければそれはそれでよしということです。なぜなら悟らない主人は、真意を悟ることができないほどに愚かなのですから。これが寓話の本質です。

 私たちもまた権力者に仕える奴隷です。私は「奴隷ではない。私は王だ」と主張することもできます。しかしそれでは、あなたは仕事にありつけないでしょう。仕事とはどんな仕事も他人を喜ばせるための奉仕であり、誰かのわがままを満たすためのものだからです。しかし私たちは奴隷としてのあり方を選択することができるはずです。
  近ごろ「してほしい」といういい回しをよく聞きます。テレビやニュースの表現にまで、この「してほしい」が出現します。与党は野党に「協力してほしい」、警察は市民に「してほしい」国民は政府に何とか「してほしい」といいます。またニュースキャスターや解説者が「してほしいものです」を連発します。

 イソップ物語の中に、窪地に馬車を落とした信心深い農夫がヘラクレス神に「助けてほしい」と祈る話があります。ヘラクレス神は「祈るばかりでは験(しるし)は何もないぞよ」と答えます。つまり、「してほしい」という言葉を連呼するだけの人間は、奴隷以下の奴隷、努力せずに祈るだけの、真の、もっともみじめな奴隷だといっているのです。 
  アランの弁証法にあらわれる奴隷は「主人以上にいつわるのであり、それによって自分の情念を克服する時、(彼は)他人の情念を発見」します。会議の席で怒り狂っている社長を見れば、ゆとりのないスタッフは冷汗をかき、失禁さえしかねません。イソップならばここに吠えるライオンと腰を抜かしたウサギを見たことでしょう。
  「支配する身になれば、支配されるものよりもなお一層愚かになる」とアランは呵責なく告げています。
  本人は自分を少しも奴隷であると思わず、「してほしい」と泣きわめく本物の奴隷なら沢山見かけます。けれどいさぎよく賢い奴隷、己の身分をわきまえ、上目づかいに権力者を見ながら、発言の許しを得て、寓話にことよせて真実を話す、あの奴隷はどこへ行ったのでしょうか。

 
   
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