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ソクラテスのクリスマス
 
第8章 文体の英雄――ときにはスタンダールのように

「自己の心に語る」とは
  「スタンダールの主人公の一番美しいときは、主人公がユリシーズのように、自己の心に物語るときである」とアランは書いています。
  スタンダールの主人公とはいうまでもなく『赤と黒』のジュリアンであり、『パルムの僧院』のファブリスであり、『リュシアン・ルーヴェン』のリュシアンであり、『カストロの尼僧』におけるブランチフォルテです。それに私としては『アンリ・ブリュラールの生涯』の「私」をこれにつけくわえなければなりません。
  私はいまスタンダールの作品に現れる男性の主人公ばかりをあげましたが、ヒロインたちにも共通の特性があります。レナール夫人も、マチルダも、公爵夫人も、クレリアも、シャストレール夫人も、エレーナもみな共通の特性を持っています。
  注意してみると、スタンダールの小説では、ワキ役に多様なキャラクターが配置されていますが、主人公はみな共通です。考えようによっては、あれだけ同じタイプの人物を並べて、よくもあれだけいくつも面白い物語が書けると感心するくらいです。

 アランが「スタンダールの主人公の一番美しいときは」といっているのは、これらの主人公たちに共通特性があるということと、彼らの美しい特性もまた共通しているということをさしています。そして彼らの共通特性の一つは、アランがここで指摘しているように主人公が心の中で独語をいうことなのです。
  私たちも朝から自分自身と対話をしながら暮らしています。「そろそろ起きないと仕事に遅れるぞ」から始まって、「きょうの女房はご機嫌斜めだぞ。こんなときには触らぬ神にたたりなしだ」とか、「これを買いたいが、チト値段が高いからガマンしよう」などなど。これがアランのいう「自己の心に物語る」ということです。
  読者諸氏はどうか分かりませんが、私が自分の心に物語るものは、ごらんのようにあまり美しくありませんし、自慢できるものではありません。私が心の中で物語るものは、たいてい私自身が現実とどのように折り合いをつけるか、ということについてです。
  ところがスタンダールが描くヒーロー、ヒロインたちの心中の独語はとても美しい、とアランはいっているのですね。どのように美しいのでしょうか。

 その前に、アランが「ユリシーズのように」といっていることにも注意しておきましょう。ユリシーズはホメロスの主人公「オデッセウス」のことです。彼はギリシャ神話中のヒーローの一人で、トロイ戦争に参加し、帰還の途中10年間も地中海近辺をさまよいました。彼は沢山の冒険に出会いましたが、持ち前の知恵と勇気と辛抱強さを資源として難局を切り抜け、故郷で待ち構えていた最後の困難も立派に解決しました。
  オデッセウスはサバイバル能力にすぐれていました。彼は人が軽率に行動するようなときに、「ちょっと待てよ」と自分に話しかけました。そして相手をよく観察したり、自分の身分を偽ったり、ウソの話をして相手の反応を確かめたりしました。

 たとえば彼がひどい嵐のために難破して、ある島に流れ着いたときのことです。彼は海岸の枯葉の堆積に身を埋めて一夜を過ごしました。翌朝気づくと離れた海岸のところで女性たちの声がします。無人島だと思っていたのが人のいる島だったのですね。普通の人間ならここでいきなり飛び出してゆくところですが、彼は次のように独語しました。
  「やれやれ、何ということ。今度はまたどのような人間どもがすむ土地へたどり着いたか。おおかたはまた乱暴非道なやつらのうえに野蛮で掟も知らない者か、それとも客に親切で神を恐れる心を持する族であろうか・・」。
  オデッセウスはこのように自己の心を物語るのですね。彼は状況を冷静に観察し、自分自身に問いかけ、行動戦略を引き出します。これが「ユリシーズのように」というアランの指摘に相当する部分の例です。オデッセウスの心中の独語は、状況分析型であり、戦略構築型ですね。

 

独語は価値観の確認
  では、スタンダールの主人公たちはどのように自分の心に語っているでしょうか。『赤と黒』のジュリアンの例で見てみましょう。レナール家に家庭教師として住み込んだジュリアンはレナール夫人が自分を意識していると気づくと、闇にまぎれて彼女の手を握るのが自分の義務だ、というヘンな強迫観念に取りつかれます。
  彼の場合、動機はほとんど色恋ではありません。自分が考えたことについて自分が臆病であると認識することに耐えられないのです。彼は心の中でこう独語します。「十時が鳴り出すと同時に、やってのけよう。一日中、今夜やろうときめていたじゃないか。でなけりゃ、部屋に引き返して、ピストルで頭をぶち抜くんだ」。これがアランのいう、スタンダールの主人公が「自分の心に物語るとき」の例です。

 もう一個所、これはアランも引いている部分ですが、ジュリアンが貧民収容所長の家に呼ばれてごちそうになっているとき、収容所の中で下品な歌が聞こえました。所長は人をやって強制的に歌を止めさせました。そのときに所長は「乞食どもを黙らせるようにいいつけましたからな」といいます。
  ジュリアンはこれを聞いて、歌を歌った連中が、所長の部下にひどい目に会わされたことを知ります。「この言葉はジュリアンにはこたえすぎた・・緑色のコップで涙を隠そうとしたが、ライン葡萄酒をぐっと飲みほすことは、とうていできなかった」とスタンダールは書き、その後にジュリアンの独語を続けています。「歌わせないようにする、か! 何ということだ! だが、お前はそれを黙って見ているのか!」。
  この内面の独語はジュリアンのキャラクターをみごとに表現しています。このように彼が自己の心に語りかけるときは、自分自身の価値観を確認しているときです。置かれている状況と自分の価値観を比較し、自分の価値観をはっきりさせる、というやりかたで「自分の心に物語る」のです。アランはこの点を「美しい」といっているのですね。

 
 

ヒーローの敵は気怯れである
  ジュリアンがレナール夫人の手を握ろうとしたときのことを考えて見ましょう。私たちは「あの女性を口説きたい」と思っても、「でも、きっと相手にされないだろう」とか、「恥をかかされるのは困る」「セクハラだと騒がれたらどうしよう」などと思います。すなわち気怯れです。この気怯れはジュリアンにもあったものです。ところが彼は自分の気怯れと戦うことが自分の使命である、という観念に取りつかれます。
  私たちにとっても、いま誰かよその女性の手を握る、という行為を実行するとしたら、そのときにはものすごい勇気が要るだろうと思います。ですからそのようなバカげたアイデアは頭の中から追い払ってしまいます。私たちの心の独語は、どうしても障害と折れ合う方向、より無難な方向に進みます。

 私たちにとって、勇気を出すことに対するストレスと、恥をかくかもしれないというリスクはコストに相当します。そして相手の女性が示してくれるかもしれない好意がすなわち報酬です。私たちにとっては、女性の手を握るというような行動はコストと報酬のバランスが見合わないものです。そこでこのような馬鹿げたふるまいはしないのです。
  街を散歩していたところ、電柱に貼ってあるバーのポスターが目につきました。若い女性をセクシーに描いた絵のわきに、「さわりたい放題。****円。」とあります。ここでなら、女性にさわりたいという欲望とそれに対するコストの関係が明示されており、要するに利益とコストがバランスしています。私たちはここでなら安心して女性の手を握ることができるでしょうし、もっと大胆なことも可能というわけです。

 私たちがいきなり女性の手を握ろうとする行為は、投機性の高いものです。ジュリアンにとってもリスクについての認識は同じです。彼が夫人の手を握る寸前には、緊張のあまり真っ青になり、何を話しているのか分からなくなってしまうほどです。
  ところがジュリアンと私たちの間に大きな違いが一つあります。それはジュリアンにとって、リスクをおかし、コストを支払わないということが「卑怯」であり、「腰抜け」のしるしなのです。彼にとって報酬とは「勇気を証明すること」であって、女性から受けるかも知れない好意は二の次です。いや、恋愛そのものが彼にあってはほとんど問題にならなくなってしまうのです。

 『パルムの僧院』の冒頭に現れるファブリスは、ジュリアンから知性と教養を差し引いてイタリア人にしたような若者です。彼は何やら霊感を受けて、ナポレオンの軍が戦っている戦場に勝手に入り込み、ともかく「戦争をした」という経験を得たいものと、次々にバカげたことをやります。
  彼は戦場で幾人かのフランス兵と一緒になります。彼がフランス軍の退却を「羊が逃げるようだ」、といったのをフランス兵が聞きとがめました。そこでこう思います。「フランス人に向っては、虚栄心を刺激するような本当のことをいってはならない。だが、彼らの意地悪そうな態度をおれは軽蔑してやる。それをはっきり彼らに分からせてやらねばならない」。これがアランのいうスタンダールの主人公が「自己の心に物語る」です。
  ファブリスはこの後、わざとフランス兵を怒らせようとして「国道を逃げてゆく連中はまったく羊にそっくりだ・・。おどかされた羊の群れ見たいに歩いてゆくよ・・」といってみます。幸いなことに彼の試みは徒労に終わり、彼の発言はフランス兵に無視されてしまいました。

 私たちは自分ではその気がないのに、言葉のいい回しが悪いために相手を怒らせてしまうようなことがあります。このときに、「ははあ、あの人はこういうことが気に障るんだ」と了解します。そうと分かれば、私たちはその人の気に障るようないい方をしないように注意します。
  ところがファブリスはわざと相手を怒らせようと努力するのです。その理由はこの部分の表現「おれは軽蔑してやる。それをはっきり彼らにわからせてやらねばならない」の中できちんと説明されています。

 アランは『リュシアン・ルーヴェン』の中の父親のルーヴェンについて、次のようにコメントしています。「彼はあらゆる国と取引きのある銀行家で、何物も信ぜず、ただ彼が妻を愛し妻がリュシアンを愛しているという理由から、戯れに内閣反対を試みる」。
  ここにもスタンダール的な登場人物がいるわけです。彼は成功した身で、何不足ない立場にあるのですが、ほとんど遊びに近い動機から、国会でとんでもない演説をします。このようにスタンダールの登場人物は、私たちのコスト感覚、対人関係の常識をぶち壊すような特色を持っており、そこに魅力があります。
  彼らはみな上品で、信じられないほどお人好しですが、どこまでも誇り高く、恐れを知らず、自分が思い込んだら絶対に後に引かないという性質を持っています。そのような性質を持っている主人公たちが、社会や周囲との関係の中で、ひそかに自分自身の価値観を点検し、再確認し、決意する、これがアランのいう「自己の心に物語る」なのです。

 
 

スタンダールに音楽が書けたか
  ではどうしてスタンダールはこのような主人公ばかりを描いたのでしょうか。その理由は明白です。それはスタンダール自身がこれらの主人公に多少とも似ていたからです。作家の中に主人公の特性が内在していたからです。そしてスタンダール自身のこうしたロマネスクぶりは、彼の自伝に相当する『アンリ・ブリュラールの生涯』の中でいかんなく説明されています。
  スタンダールの作品には『イタリア絵画史』があり、彼が美術評論家としてもすぐれていることが知られています。また彼は音楽についてもなかなかの趣味人でした。『アンリ・ブリュラール』の中に、音楽に関する次のような、面白い記述があります。
  「私はほとんど音譜を知らなかった。(マンシオンは私のヴァイオリンはものにならないといって追っぱらった)。しかし私は自分で、音譜はただ想を書く手段で、根本問題は想を持つことだと思った。そして私はそれを持っていると信じている」。

 ごらんのように、スタンダールはヴァイオリンを習いましたが、先生に相手にされませんでした。クラリネットも練習したようですが、まあ、だめだったでしょう。
  アランも音楽好きで知られるところです。かれはスタンダールの音楽好きについて、「音楽は彼のお気に入りの芸術であるが、それは彼が諸感情の完全な一覧表を作るため、あらゆる方向に行なった探求の中心をなすものと思われる」といっています。アランはスタンダールの音楽愛好をかなり好意的に見ていることが分かります。
  しかし私はスタンダールの音楽に関する記述から、彼自身の音楽的な資質についていささか疑問を感じます。スタンダールが相当不器用であったこと、これは客観的事実としましょう。
  彼は何によらず不器用だったようです。自分でも「私は日常生活のことについて少しも器用ではなかった」といっています。このことは、彼が生前33通もの遺書を書いた、という事実からもおしはかることができます。環境との不適応というこの不器用さは、彼の作品の主人公たちの身の処し方にうまく表現され、置き換えられています。

 スタンダールはそれでも自分には音楽が分かり、しかも作曲の資質さえあるのだと主張しています。なるほど、彼のオペラ評論や当時の作品に対する感想には見るべきものがあります。彼が音楽について鋭い感受性を持ち、いい趣味を持っていたことはたしかです。
  けれども彼がいうように、自分に音楽的アイデアがあり、もし音譜を書ければ表現できたのだという件についてはそのまま信じることはできません。スタンダールに倣ってアラン自身も同じようなことをいっていますが、本人がそう思うことと、そうであることは別です。スタンダール自身がジュリアンについて、「ジュリアンはこれという根拠もなしに、自分の眼識を誇っていたが、実際に多少でもそういうものを持ちあわせていたら、・・」と書いている通りです。
  音楽においては、楽想と表現技術はある程度相関しているものです。やむにやまれぬ音楽的な情熱があれば、多少の不器用さや技術的な困難を克服することができます。そして音楽表現のレベルは、彼が持っている技術的なレベルによって大きく規定される、これもまた事実なのです。

 もちろん演奏技術があったからといって、豊かな楽想に恵まれるとは限りません。まれに、演奏技術をまったく持たない作曲家がいることもたしかです。けれども彼に記譜法の技術がなければ、彼に楽想があることをどうやって証明したらいいのでしょうか。この点では行動と思想の一致を認めたアランも、音楽的な感興について思い違いをしています。
  普通の人が自分の楽想だと思うものは、たいていすでに聞き覚えた楽曲の断片、あるいは記憶ちがいの断片にすぎません。スタンダールは自己の音楽的な資質を信じましたが、それを客観的に証明することはできませんでした。私はスタンダールに作曲家的才能があったかどうかは疑わしいと思います。
  しかしここで私はスタンダールの音楽の才能を否定したいのではありません。そうではなく、彼の音楽に対するレベルの高い趣味判断と、音楽的実践能力とのアンバランスを指摘したいのです。すなわち「高貴な志と日常的な不器用さ」「英雄的な情熱と世渡り技術のまずさ」の、ひどいアンバランスを見るのです。これがスタンダールの特質であり、彼の主人公の特質なのです。

 
 

「駿馬」と書くことを拒否する
  音楽的な才能はともかくとして、スタンダールには文章の才能がありました。彼はこれを磨きました。「もし私が1775年頃に、物を書きたいという私の企てを話したら、だれか良識のある人間が私に言ってくれたことだろう―――『毎日2時間ずつものを書きたまえ、霊感があろうとなかろうと』。この言葉は霊感を待つために愚かしくも消費された私の生涯の10年を利用させたことであろう」と書いています。このことは、彼が文章に関して最初の10年以降は精進を続けた、ということを意味しています。
  この文章はアランをいたく喜ばせました。私はアランの5000点をこえるプロポを生んだ原動力は、このスタンダールの一句にあったのではないかと思うほどです。

 では、文章家としてのスタンダールはどのような人だったのでしょうか。これについてはアランがたくさんの言葉を残しています。その中からとりわけ美しい言葉を拾ってみましょう。アランは「スタンダールはわれわれを狙ったりしない。彼は読者狩りをやらない」といっています。
  これはスタンダールが読者に喜ばれようと思って余分なサービスをしない、あるいは理詰めの説明で読者を納得させようとしない、ということを意味しています。
  またアランは「コルネイユの筆致は簡潔である。美しい素描のあらわな筆に比ぶべきである。スタンダールはこの種の一息の、筆をつくさず、訂正しない偉大さを絶えず追求した」といっています。アランも文章を書き直ししなかった人ですが、彼がこの面でスタンダールをお手本にしていることが分かりますね。

 言葉の使い方について、アランはスタンダールの言葉を引きながら次のように指摘しました。「誇張は彼の敵だ。証拠は無数である。『私は馬の代りに駿馬と書くのを嫌った。私はこれを偽善と呼んだ』」。
  じっさいスタンダールの文章は簡潔で、誇張や飾りがありません。そっけないといっていいでしょう。これは装飾的な表現にまだ値打ちがあった19世紀の前半においては、勇気のあるコンセプトであり、時代の先取り精神を示しています。
  今日ではどんな分野の文章でも「簡潔に書く」というのが当たり前のことですが、その私たちでさえも、「馬」のほかに「駿馬」という言葉があるからには、それなりの理由があるのではないかと思ってしまいます。
  馬の中には駄馬もいるでしょうし、駿馬もいるでしょう。いい方の馬は「駿馬」でいいのではないか、それに「駿馬」という言葉自体がカッコいいのではないかと思ったりします。ところがスタンダールはこのような月並みな、雅語めいた、ようするにフリル飾りがついた言葉そのものに偽善を感じたのですね。

 では、いい馬が出てくる場面をスタンダールは具体的にどのように表現したでしょうか。『パルムの僧院』のファブリスは、戦場で新しい馬を買おうとします。馬を引いてきた男は「五フラン! 冗談もいいかげんにしな。もうすぐナポレオン(金貨)五枚で売れようっていう将校馬だぜ」といいます。ファブリスはこの馬を買いました。「今買い取ったばかりの馬は、背に旅行鞄を感じると、すぐに後脚で立ち上がった。馬術に得意なファブリスも、それをおさえるのに必死にならなければならなかった」「彼の馬はいななき二、三度つづけざまに後脚でたちあがって、ひきつけている手綱をぐいぐい頭で引っ張った」「馬は自由になるとまっしぐらに駆けだして将官につづく護衛兵にくわわった」。
  いかがですか。前記の表現でファブリスが入手した馬が、どのような馬かお分かりでしょう。また前の文章のどこにも「駿馬」という言葉を挿入する余地がないことがわかるでしょう。無理に「駿馬」という言葉を使おうとすれば、右の文体が持っている臨場感、いきいきとしたダイナミズムが失われ、せっかくの馬が死んでしまいます。

 
 

山場になるほど圧縮される文章
  ふたたびアランがスタンダールの文体について評する言葉を聞いてください。「この文体は声が低い。恐らく慣れない読者は平土間の見物がどなるように『聞こえないぞ』と叫びたくなるだろう。・・が理解できなかったものは構ってもらえない」。
  誰でも大切なところ、強調したいことを大きな声でいいます。たいていの人は話をするとき二度ずつ繰り返していっています。音楽の主要なモチーフもかならず二回、同じところで繰り返されます。
  けれども文章の記述においては、二度ずつ書く必要はありません。しかし書き手が強調したいときには、書かずにはいられません。そこで言い回しを変えたり、たとえばなしを出したりして強調すべき部分を際立たせようとします。中には傍点をつけたり、かぎカッコを使ったり、ゴシック書体を用いたりすることもあります。

 この点について、スタンダールは文体における節制と禁欲を徹底しておし進めました。彼の文章は肝心のところに来ると、どんどん短くなります。接続詞、形容詞、副詞など余分のものがすべて取り払われてしまうのです。
  『カストロの尼僧』の中で、ヒロインのエレーナが思いつめていることは読者には十分分かっています。ですから、エレーナがどのように自分と闘いながら最期の瞬間を迎えるかを予期しています。読者は作家が最後の部分でどのくらいうならせてくれるか、どのくらい納得させてくれるかを期待しています。しかしあれほど沢山のページを使ってすすめられてきたこの物語の末尾は次のようになっています。
  「ウゴーネはでかけた。そしてすぐにとってかえした。エレーナは死んでいた。短剣が心臓を貫いていた」。
  はっとする間もなく話は終わり、後には白いページが残っているだけです。注意を払っていない読者は面食らいます。そこでアランは「この文体は声が低い。・・が理解できないものは構ってもらえない」と書いたのです。アランはまた「真の思想が決して強制せぬように、真の散文はひきつけ、また捉えることを拒む」と書きました。要するに、スタンダールはアランが理想とする散文のスタイルを持った作家だったのです。

 スタンダールは俗物的な読者を嫌いました。別にそんなことをいわなくてもいいのに、「私は大多数の人々に本を閉じてくださいとお願いしよう。われわれがこれ以上いくら知り合っても、ますます気が合わなくなるにきまっているから」といいました。
  この文章はモンテーニュの序文の最後にある「あなたが、こんなつまらぬ、むなしい主題のためにあなたの時間を費やすのは道理に合わぬことだ。ではごきげんよう」という文章を思い起こさせます。そしてまたこの表現は、あの気難しいピラール神父の、「・・わしは残念なことに癇癪もちで、どういうことで君とわしとはお互いに話をしなくなるかもしれないからな」という言葉を思い起こさせますね。

 スタンダールは読者に離縁状を突きつけただけでなく、彼の時代の読者にまったく期待していないことを、あからさまに表明してしまいました。『赤と黒』の末尾、そして『パルムの僧院』の末尾にも、謎のような献辞「TO THE HAPPY FEW」が記されていますね。あれは彼が、自分の小説を楽しめるのが少数の読者であること、また少数の幸福な読者以外相手にしていないことを表明したものでなくて何でしょう。
  『アンリ・ブリュラール』の中で、彼は「私はといえば富くじを買う。当たりくじは『1935年に読まれる』という富くじ」と書きました。
  つまり彼は同時代の読者を見捨て、100年後の読者に期待をかけたのです。彼が予言したときからすでに60年以上がたちました。スタンダールの作品が古典として定評を得ていることはまちがいないとしても、スタンダールの真の読者がどれだけ、どのように出現したか、何ともいえませんね。

 
 

ジュリアンとしての作家
  このように彼は、作家として自分独自の趣味を守り、読者に迎合しようとしなかったばかりかわざと読者を怒らせるかのような、倣岸な態度を取りました。この点を指摘してアランは「絞首刑にされるには、ずいぶん不寛容でなければならない」といいました。私たちはジュリアンにその気があったなら、彼が助命されたことを知っています。
  『カストロの尼僧』のブランチフォルテも、敵が待ち構えていると知りながら攻撃をかけました。こうした非妥協の精神、これをどのように評価したらいいのでしょうか。アランは、「他人は考慮されない。他人は審判者ではない。彼の主人公は決して他人に気をかけない男ばかりである」と書きましたが、お分かりのようにスタンダール自身がジュリアンであり、ファブリスであり、ブランチフォルテだったのです。

 私たちは妥協をこととして生きています。気がつかないうちに私たちは他人と折れ合って生きているのです。なぜなら私たちは快適を好むからです。たとえその場に不愉快な人物がいたとしても、その人物とことを構えないのは、喧嘩によって雰囲気を悪くするよりも、ガマンしたり、妥協している方がまだしも快適だからです。
  子供のうちは妥協を知りません。彼らの快楽追求は直線的です。彼らがあまりにも周囲に気を使うようであれば、私たちは「子供らしくない」といってとがめるくらいです。ところが大人が直線的に自分の快楽を追求すれば、今度は「大人らしくない」「あまりにも子供だ」といってとがめることになります。
  私たちはとかく他人と折れ合ったり、妥協したりできる程度に応じて「大人である」と評価されます。そして一見妥協ばかりしているように見えるのに、いつのまにか自分の欲しいものを手に入れているような策略家をさして「成功者」と呼んでいるのです。

 私たちは自分の趣味という点でも、自分の好みばかりで生活しているとはいえません。だいいち環境がそのようなことを許してくれません。わが国のくだけた宴席では、順繰りにお得意の歌を披露するのが習わしです。今日ではこれにカラオケのテクノロジーが絡みます。カラオケを歌わずに済ますことは至難のワザです。
  私は一人の男性を思い出します。宴席で演歌を歌う順番が回ってきたとき、彼はすっくと立ちあがり、無伴奏で、ドイツ語で、「冬の旅」の第1曲目を歌いました。これは勇気ある態度でしたが、宴席の雰囲気を盛り上げるには役立ちませんでした。
  彼があそこで「冬の旅」を歌えたということは、彼が宴会の本質を知らず、音楽についても無知であったということ、彼が他人との適合という点でひどく不器用であり、他人の気持ちを察することができなかったということを意味しています。私はここにスタンダール的なものを認めます。私たちは何もこの種の勇気を披露しようとは思わないのです。
  アランは「私はただわが作家がまったく彼一個の理由から憤激し、見物にかまわず、ぴったりと画面に向かい合っている点に注意を望むだけだ。恐らく文学者において無双の勇気である」と書きました。

 
 

負債があっては勇気は出ない
  それではスタンダールの主人公たちはどうしてあれほど自分の情熱に対して率直に、勇敢にふるまうことができたのでしょうか。私は彼らが社会や周囲の人々に何一つ負債を負っていないからだ、と考えます。
  もちろんジュリアンもファブリスも周囲の人々の好意に支えられて出世するのですし、そのためにのびのびと行動できます。ファブリスの最初の冒険には、母や伯母たちのダイヤモンドが役に立ちました。しかしファブリスが、この与えられた財産を「負債」と思っていたフシはどこにもありません。
  ジュリアンにもそれなりの実力はあるのですが、周囲の好意と幸運のめぐりあわせによってことが進んでゆくのです。ピラール神父が、ジュリアンにはっきりいっているではありませんか。「君なんかより学問もよくできるのに、ミサで得た15スーとソルボンヌの宗論で得た10スーとだけでパリで幾年も暮らした貧しい僧侶が幾人あっただろう!」。

 また彼はラ・モール侯爵に強い恩義を感じています。そこでマチルドの暴走をなだめようとするくらいです。けれどもジュリアンは侯爵に対する恩義を負債と受け取っているフシはありません。彼の平民感情を差し引いても、侯爵は侯爵、自分は自分、提供されているものと負債はまったく別物です。彼には負債はありません。
  げんにジュリアンは牢屋の中で、自分自身に対してきっぱりといいます。「人類社会にたいして、ちゃんと支払いをすまして死ぬのだ。おれは果たさぬ義理がのこっているでもなし、誰にも負債はない」。
  ところが一般的にいえば、運命に感謝するということ、自分の現在に満足し、誰かに感謝するということ、これは負い目を感じることであり、負債を意識することです。私たちは、自分一人ではやっていけないということを知っており、自分を引き立ててくれる人に対して感謝すると同時に負い目を感じます。

 すると私たちはその恩人たちを裏切ったり、不愉快な思いをさせてはならないと思います。よく考えてみると、私たちが「心の中で自分に語る」というのは、これであることが分かります。「あの人に世話になっているからな。ここでたて突いてはまずい」「あの人を怒らせてしまってはモトも子もなくなる」「一応義理を立てておこう」。
  私たちが妥協的であるのは、何も私たちの精神が軟弱なためではないかもしれません。私たちは負債を負っており、貸し主に義理を欠いてはならないと思い込んでいるのです。要するに義理と人情のしがらみがあるということは、債権債務関係が多様に絡み合っているということでしょう。私たちはこの債権債務の計算において、はなはだ「やくざ的」です。そして小市民的「器用さ」を発揮しようとしているのです。

 私たちは「感謝の心を持つ」という生き方はいいことだなどと思っています。これは処世的であると同時になにがし宗教的な感慨でもあります。
  ピラール神父は僧籍にある人間としては、極端に潔癖な合理主義者です。その彼でさえもジュリアンに浮世の義理を教えようとしました。ところがジュリアンは問題にしません。これがファブリスになるともっと程度がひどくなります。
  彼らが受けている好意という負債は、彼らがその率直さや、美貌や才能のゆえに受けているライバルからの憎しみや反感によって帳消しにされている、と考えることもできるでしょう。しかしよく読むと、スタンダールの主人公たちは、この負債の観念が完全に欠落し、スケールアウトしていることが分かります。

 これがスタンダールの描いた彼の主人公たちであり、なにぶんにも彼自身の特性を反映させた「英雄」たちの実像です。彼の価値の尺度に見合う敵が、現実社会には存在しないという点ではドン・キ・ホーテふうに古典的ですが、自分自身の中にある敵を見据えてこれに直面しようとしている点でははなはだ現代的です。
  しかしいずれにしても私たちは、このような「英雄」にはまったく縁がありません。私たちはあの英雄の真似をすることもできません。しようとも思いません。にもかかわらず、私たちがあの主人公たちの「非妥協の徳」にひかれるのは一体なぜなのでしょうか。

 
   
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