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イソップの落ち穂拾い
 
第1章 イソップの「落ち穂」を拾おう

生きているイソップの価値観
  あなたはイソップ物語をいくつぐらいご存知ですか。「蟻とキリギリス」「狐と烏」「北風と太陽」「田舎のネズミと都会のネズミ」・・など、子供の頃に読んだり、話してもらった有名な物語をいくつか覚えておられることでしょう。
  ビジネスマンはときどきイソップ物語を例に取ります。たとえば「アリギリス」などという言葉がはやったことがありますね。一方では蟻のように働きながらも、同時にキリギリスのように現在を楽しむことを忘れないという、新しいタイプのライフスタイルの人々をさしていたのではないかと思います。
  このような概念が作られたり用いられるのは、誰もがイソップの「蟻とキリギリス」を知っている、という前提にもとづいています。そうでなければ「アリギリス」という言葉はそもそも通用しません。要するに誰もがイソップの教養を持っている、ということです。

 たとえば「兎と亀」の物語があります。これなど、イソップが原典であることが忘れられて、まるで日本古来の民話ででもあるかのように一般化した物語です。この物語の中でウサギは才能にあふれた人材を示しています。これに対してカメは素質に恵まれない努力型の人材を象徴しています。この物語は、たとえどんなに素質に恵まれた人材でも、怠惰であっては努力する人材に負けてしまう、という教訓を示しています。
  この教訓は私たちの日常の価値観の中に深く入り込んでいます。そして誰かが人材評価するさいにも、「彼にはすばらしい潜在能力があるのに、残念ながらウサギのように眠っている」とか「彼はカメ型の人間だ。あの努力を続けていれば、大成するだろう」などといって、自分でも意識しないうちにイソップ的な比喩と価値観を応用したりします。
 
  イソップ物語には時代を超えた普遍性、説得力があります。そこで私たちは「なるほど」と納得したり、「こうすべきだ」「これはまずい」と判断したりします。知らないうちにイソップのものさしを使っているのですね。
  「イソップ物語」になじんでいるのは私たち日本人だけではありません。イソップは世界中に一般化した常識であり、教養なのです。キリスト教が宣教師の力で広められた教義であるのに対して、「イソップ物語」は話の魅力、話の生命力だけで普及した思想であり、価値観です。ちなみにグーテンベルクの印刷術が発明されたとき、「イソップ物語」はまっさきに印刷された書物の一冊でした。

 イソップ物語は単純で分かりやすく、ちょっと面白く、印象が強烈です。本書では私は一般に知られているイソップ物語の壁を越えて、もう少し中に入り込み、そもそもイソップ物語がどんな書物なのか、イソップとは誰なのか、彼がいわんとする真のメッセージは何なのかを考えてみようと思います。
  はじめにお断りしておかなければなりませんが、私は古典文学の研究者でもなく、イソップの研究者でもありません。私は1人のビジネスマンです。だから文学研究者としてイソップを解釈するのではなく、ビジネスマンとしてイソップを解釈したいと思います。
  ビジネスマンとしてイソップを読み直してみると、「キツネ」「ウサギ」「カラス」「ライオン」によって象徴される人物が私たち自身のことであったり、私たちのすぐ身近にいる人々のことであることに気づきます。ウサギやキツネやロバのような同僚を見出したり、ライオンのような、あるいはオオカミのような人物を再発見したりするのは楽しいことです。

 

いろいろな読み方ができる
  「イソップ物語」はいろんな読み方をすることができます。イソップ物語の「教訓」は時代によって、人によって、あるいは立場によって、自由に解釈し、自由に受け取り直すことができるのです。もしイソップが一通りの読み方しかできない書物であったら、イソップはとうの昔に忘れられていたでしょう。読む人が自分流に、多様に、面白おかしく解釈できるからこそイソップ物語には時代と場所を超えた広がりと奥行きがあるのです。
  たとえば皆さんもよくご存知の「酸っぱい葡萄」の話を例にとってみましょう。これは原題では「狐と葡萄の房」となります。私の手元にある岩波文庫からそっくり写してみます。
  「或る飢えた狐が葡萄棚から葡萄の房の下っているのを見た時に、それを手に入れようと思いましたが、できませんでした。そこを立ち去りながらひとり言を言いました。『あれはまだ熟れていない。』こういう風に、人間のうちにも自分の力の足らないために物事をうまく運ぶことができないと、時機を口実にする人々があるものです」。

 この物語は、一般的には「自分にできないときには、人は負け惜しみをいう」というように理解されていますし、この物語の教訓部分でもこのことが説明されています。このキツネはここでは計画に失敗した敗北者です。「ひかれ者の小唄」などということわざもありますが、これに近い概念といっていいでしょう。
  ところがフランスの哲学者アランは幸福論のなかで、このキツネの生き方をすすめています。彼が例にあげているのは「美女にふられた男」です。美女にふられた男は不実な女の完璧な美しさや、裏切りや、不義を思って苦しみます。しかし、アランは男性に次のように忠告します。
  「何かほかのことを考えることができないなら、自分の不幸を別なふうに見るべきだろう。あんな女は、もうみずみずしさのなくなったばかな女さ、とでも自分に言い聞かせることだ。おばあさんになったその女との生活を想像してみることだ。・・気に食わない目、鼻、口、手、足、声音、こういうものは、かならずある。これこそ英雄的な療法だと、私は言いたい」。

 アランはイソップ物語を愛読していました。この幸福論の記述は明らかに「酸っぱい葡萄」を念頭に置いて書かれた文章です。
  アランの考えでは、失敗することは別にどうということもありません。誰でもいろいろな局面で失敗するからです。いけないのは自分の失敗を苦にし、落ち込んで自信を喪失したり、周囲までも憂うつにしてしまうような人です。要するに幸福になるすべを知らず、自分自身の情念をかきむしるようなやり方がいけないのだとアランはいいます。
  だから、アランは失恋から立ち直るために「あんな女は、オレを理解できないバカな女だ」というのは、「英雄的な療法だ」とまでいっているのですね。すると、「あの葡萄はまだ熟れていない」といって立ち去ったキツネは、なるほど企てには失敗したかもしれませんが、自分の気分をコントロールできる、一個の賢者であったことになるではありませんか。

 
 

幸福への処方箋
  ビジネスマンは失敗したからといって、いつまでも暗く落ち込んでいるわけにはいきません。すぐに立ち直って次のことを考えなければなりません。販売に失敗したセールスマンがいるとします。このときに「オレの売り方がだめなんだ。オレはセールスには不向きなんだ」などといっていては仕事になりません。
  この場合、まず「一回余分にセールスのロールプレイをやったんだ」とか、「この商品のすばらしさが理解できないとは愚かな客だ」と考えるほうが健全です。そして次に「理解力のとぼしい相手に、どうやってこの商品の良さを知らせたらいいか」というふうに考えるのです。マーケティングにおける失敗は、「そのやり方では、その商品は売れない」という貴重な情報です。その情報を生かすことが問題なのであって、落ち込むことが問題ではありません。
  「負け惜しみ」は、「負けたことを認めたくない」という気持ちのあらわれであり、「負けん気」という積極的精神のあらわれです。恐らくあのキツネも、葡萄に対する強い執着があれば、「まだ熟れていないな」「まあ、きょうのところは取らないでおいてやろう」などといって立ち去っても、あとで葡萄をとるための工夫をして出直すかもしれません。
  このように考えてみると、「酸っぱい葡萄」という小さなエピソードが、奥行きのある、面白い思考素材であることがわかりますね。

 ところで、イソップの原典には「こういう風に、人間のうちにも自分の力の足らないために物事をうまく運ぶことができないと、時機を口実にする人々があるものです」という教訓がついています。この教訓は、イソップによる読み方指定だと思われるかもしれません。
  ところがエピソードにつけられているこの教訓は、かならずしも私たちに「読み方」を規定するものではありません。というのも、この「教訓」は、イソップ自身の作品とはいえない可能性があるからです。
  イソップ物語の成立については多くの学者が研究をしています。そして今日ではイソップ物語が1人の作者によって書かれたのではない、というのが通説です。いずれにしてもイソップが生きていた頃、まだ書物というものはありませんでした。イソップ物語は長らく「口伝」によって伝えられてきたのです。
 
  ある段階でイソップ物語は「書物」になりましたが、この書物は次々と複数の人々によって筆写されていきました。今日残されているのは、これらの「写本」です。そして「写本」によってみんな内容が違うのです。「教訓」がエピソードのうしろについているのもあれば、エピソードの前についている写本もあります。
  私が今回用いようとするのは、「シャンブリ版」と呼ばれるテキストを底本にした岩波文庫の「イソップ寓話集」です。これはイソップ物語としてはかなり権威のあるものだそうです。それにしても、この本も幾段階もの写本をたどって伝えられたイソップ物語のバージョンの一つであることは間違いありません。
  ですからエピソードの骨格はそのまま伝えられているとしても、「教訓」の部分が写本のプロセスで書き加えられた可能性が高いのです。この岩波文庫の場合でも、「教訓」がついていない寓話もありますし、教訓の書き方にしてもいろいろです。たとえばエピソードをしっかり解説しているものもあれば、単に教訓の対象者を名指しているだけの作品もあります。

 このことから、私は「イソップ物語はエピソードの部分を自分なりにしっかり読んで解釈することが大切であって、教訓や解説に相当する部分は、参考情報として受け止めればいい」と考えることにしたいと思います。
  すると「酸っぱい葡萄」の物語は「人は思い通りにならないと負け惜しみをいうものだ」と読んでもよく、「上手に負け惜しみをいうことは、精神を健全に保つ貴重な知恵だ」と解釈してもいいことになります。少なくともアランは、「負け惜しみ、いいじゃないか。落ち込んでくよくよするよりずっとマシだよ」というように解釈したことになります。

 
 

セールス成功の秘訣を読む
  もう一つ別の例をあげてみましょう。これも岩波文庫からそのまま引いてみます。題は「烏と狐」です。
  「或る烏が肉を盗んで或る木の上にとまりました。狐が彼を見て、その肉をせしめようと思ったので、立ち止まって、彼を恰好がよくて美しいとほめました。その上、鳥どものうちで一番彼が王様にふさわしい、そしてもし彼が声をもっていたら、きっとそうなることだろうけれど、ともほめました。と、烏は声もまたもっていることを狐に見せてやろうと思って、肉を抛り出して大きな声で啼きました。と、狐は駆け寄って、その肉を盗むと『おお烏さん、もしお前さんがまた心ももっていたら、お前さんが皆の王様になるのに何一つとして不足なものはないでしょうがね。』と言いました。この話は、考えのない人によく向きます」。

 この作品ではキツネの狡猾さとカラスの愚かさが鋭く対比させられています。そして、人のおだてに、やすやすと気を許してはならない、という教訓がはっきりしています。
  けれどもよく考えるとこの作品はまた別の真理が隠されているように見えます。それは誰しもおだてられれば、すぐに気を許すものだということです。それほどまでに人は他人にほめられたり、持ち上げられたりすることが好きだ、ということです。
  たとえばこの話のキツネをセールスマン、カラスをお客というように置き換えてみましょう。セールスマンは目的の商品を販売しようとするときに、お客さんのご機嫌を取りますね。そして「すてきなお召し物ですね」とか、「かわいいお嬢ちゃんですね」とか、「結構なお住まいですね」などとお世辞をいいます。

 「お世辞で取り入ろうとするとはけしからん」という人がいるかもしれませんが、世の中からお世辞を取り去ってしまったら、とんでもないことになります。セールスマンがお客さんに向って「変なものを着ていますね」「うるさいガキだな」「この家は普請が悪いね」などといって、それから自分の商品を売ることができるものでしょうか。
  この場合のお世辞は友好のしるしであり、「私はあなたに気に入ってもらいたいのです」ということのしるしです。そしてどんなビジネスも感情的な第一関門をくぐった後で、それから開始されるものです。友好的な人間関係ができないうちはセールスマンは物を買ってもらうことができません。

 であるとすれば、キツネがカラスに向って「あなたは恰好がよくて美しい」「鳥どものうちで一番王様にふさわしい」と呼びかけたのは、なにも非難するには当たりません。
  それにまたカラスが口を開けた、というこの動作はお客さんが「財布の口を開けた」という動作に似ています。カラスはたしかに、せっかくの肉片を落してしまいました。しかし彼は強制的に口を開かせられたのではありません。自分から進んで「それでは私の美しい声を聞かせてやろう」といって口を開けたのです。
  この場合、カラスにしてみれば自分の声を聞かせたいという気持ちが「肉片を保持していなければ」という用心にうち勝ってしまったのです。

 
 

お世辞は自己実現を助ける
  どんなセールスマンも、いやがるお客の財布を無理にこじ開けることはできません。お客が自分で進んで買う気持ちになるように動機づけるだけです。そしていいセールスマンはお客さんを「その気にさせるのがうまい」ということになります。さらにいいセールスマンは、買ったお客さんに感謝され、また次のお客さんを紹介してもらうこともできます。お客さんの自由意志にもとづいて、しかも喜んで買ってもらう、これがセールス活動の大原則です。
  肉を取った後のキツネはひとこと余計でしたね。これはカラスの失敗を際立たせるための語り手の技巧なのですが、こんにちではこの技巧は逆効果です。キツネが肉をくわえて無言で走り去った方が作品としてはるかにいいと思われます。

 ここで汲み取るべきことは、カラスにとっては、自分が完全な鳥であることを証明するために声を張り上げる、という行為が「自己実現」の瞬間であったということ、そして第二には、お世辞が人々の心を和ませ、自己実現を助ける、という真理です。
  物語によると、キツネはカラスの姿をほめました。ここでほめられて「いい気持ちになる」ということは、カラスにも多少の自負、自信があったということです。日頃劣等感にさいなまれている人は、突然ほめそやされても得意になることができません。それどころかそのような人は、自分がからかわれているのではないかと思ってしまいます。
  キツネの賛辞はカラスの心をとらえました。自己認識と他者認識が好ましい方向で合致したからです。そこで「声を聞かせる」ことで彼は自己実現を果たせると思いました。私たちは自己実現を最終目標として生きています。芸術作品を作ったり、仕事で業績や品質を追求しようとする試みは、いずれも他人に認められ、ほめられたいと願う自己実現のためにほかなりません。

 「寝床」という古典落語の中で、義太夫の好きな大屋さんは、店子を集め、自分の費用でごちそうしてまで自分の腕前を披露したいと思います。世の中の「発表会」「おさらい会」はすべてこうした自前の費用による成果発表大会です。その意味するところは、ひとえに他人にほめられて自己実現を果たしたい、という願いです。
  カラスの「声の披露」も、いうなれば即席のおさらい会です。この催しを開催するには自前のコストをかけなければなりません。そのコストこそ本人がくわえていた肉片だったのです。このように考えてみると、改めて「お世辞」というものの偉大な効果に驚かざるを得ません。それは人をリラックスさせ、心を開放するという働きを持っているのです。

 イソップ物語をベースにして「寓話」という作品を書いたラ・フォンテーヌも次のように歌いました。「賞讃は人の心をくすぐり、なびかせる。美しい人の好意をしばしばご褒美にいただける」。キツネはお世辞に対して「肉片」というご褒美をもらったわけです。
  さて、肉片を拾ったキツネの最後の捨てぜりふについて考えます。「おお烏さん、もしお前がまた心ももっていたら、お前さんが皆の王様になるのに何一つとして不足なものはないでしょうがね」というのは、この文字からだけすると、いかにもイヤミに聞こえます。イソップ物語にはこの種のイヤミがたくさん登場します。
  ここで「心」といっているのは要するに判断力ということですね。このキツネの台詞から、カラスに対する嘲笑的なニュアンスを取り去って聞いてみると、「王様になるためには、自分だけいい気持ちになっているだけではなく、ものごとの結果に対する洞察力や判断力が必要だ。そうでなければ集団のリーダーにはなれない」といっていることがわかります。

 ここで私たちは「趣味的な自己実現の喜び」と「リーダーとしての自制力」は、必ずしも両立しないという、もう一つの教訓を得ることができます。リーダーにも個人的な趣味や情熱や目標があります。リーダーがある事業を起こし、これを熱心に推進する背景には、たいてい個人的な関心や情熱が隠されているものです。しかし個人的な喜びと集団の利害がぶつかることもしばしばです。
  ゴルフに熱中して会社の仕事がおろそかになる社長もいるでしょうし、自分の夢である設備投資や新規事業に資金を使いすぎて、バランスシートを破壊してしまうトップもいます。これらはいずれもキツネのいう「心=判断力」のないリーダーということになります。
  もしもキツネが「自己顕示欲も大切だが、リーダーには慎重さが必要だ」という意味で最後の捨てぜりふをいったのだとすれば、キツネはずいぶんいい忠告をしてくれたことになるではありませんか。私は「烏と狐」の物語を以上のように読んでみてはどうかと思うのです。
  この物語にも「この話は、考えのない人によく向きます」という最後の締めの言葉がついていますが、これは誰かが写本の過程でつけた言葉と解釈してもいいし、たくさん考えられる教訓の一つとして受け取ってもいいと思います。

 
 

リーダーだってウサギかも知れない
  さて、もう一つ核心をついていると思われる物語を上げてみましょう。「兎と蛙」というのがあります。これも原文をご紹介します。
  「兎どもが或るとき寄り合って、自分たちの生活は危っかしくて始終びくびくし通しだ、というのは人間や犬や鷲やその他のものどもによって殺されるからだ。こんなことでは一思いに死んだ方が一生涯震えているよりはましだ、とお互いに嘆き悲しみました。そこで死ぬことに話がまとまって、兎どもは一斉に沼の方へ駆け出しました。そこに身を投げて溺れ死をしようというのです。すると、沼のまわりに坐っていた蛙どもがその駆足の音を聞いて、いきなり沼の中に跳び込みましたので、兎どものうちで他のものより分別があると思われているのが言いました。『待った、皆さん、あなた方自身に恐ろしいことをするのはおよしなさい、それ、御覧の通り、われわれよりもっと臆病な動物も他にいるのですよ。』この物語は、不幸なものがもっと悪い目にあった他のものから慰めを得る、ということを明らかにしています」。

 この物語は、まず自殺などしそうもない無害でおとなしそうに見えるウサギたちが、自分たちの被害者としての立場を自覚して一種の集団ヒステリー現象をおこし、「一緒に死んじゃいましょう」と相談をまとめるところがなんともおかしいですね。ドングリの背比べのような集団の議論は、めったにまとまるものではありませんが、ここではかなり過激な結論を出しています。
  次にウサギたちが沼に向って走るところがおかしいじゃありませんか。自殺の方法ならほかにもありそうなのに、入水という方法を選択しているところが意表外であり、滑稽です。兎たちがいっせいに走り出し、それがカエルたちの耳に軍団の襲来のような地響きとなって聞こえたに違いありません。耳を澄ますと、私たちにもその地響きが聞こえそうです。

 愉快なのは、カエルの反応に対するウサギたちの所見です。カエルがびっくりして水に飛び込んだのは要するに反射的な動作です。彼らにとっては水の中も陸の上も変わりません。水の中に入ったのは身を守るためであって自殺しようとしたわけではありません。
  ところが文脈から見ると、カエルがウサギたちを恐れて「死のダイビング」をしたかのようにも受け取れます。ウサギたちはカエルを追いつめ、断崖から落としてしまったかのような、かなり誤った勝利感を味わってしまったようですね。
  つまりこのとき、ウサギたちは自分たちにも他の動物を攻撃し、死にいたらしめることができる、という体験を味わいました。つねに他の動物から追われ、殺されるしか能のなかった彼らにしてみれば、これはとんでもなく新鮮で異常な体験です。

 アランはこの話を次のように解釈しました。「『では、おれをこわがるやつもいるのだな』とカエルが跳ぶのを見てウサギはいった」と彼は書いています。そして次のように続けました。
  「こんなふうにして一段いちだん、臆病者であるもったいぶり屋どもの列はもっとも高いところまで延び、その高みから、どうにかこうにか、いかめしげに支配する。だが、ついには、即興とともにへまが馬脚をあらわす危機のときがくるのはやむをえない」。
  ここでアランはウサギを上司、カエルを部下に見立てているのです。人の上に立っているリーダーなど、さぞかし実力があって、自信にあふれているように思えます。しかし内心は部下に何かいわれやしないかとびくびくしている小心なリーダーだっています。その小心なリーダーが部下が自分に平伏し、自分の権威におびえているのを見たとき、どのように思うでしょうか。
  「では、おれをこわがるやつもいるのだな」というのは、カエルを見て自殺を思いとどまったウサギの心境そのものではないのか、というのですね。ということは、このようなリーダーが現実にいるとすれば、それはかなり滑稽だということです。

 ではそのようなリーダーは現実にいるのでしょうか。「現実にいるどころではない。大半のリーダーはそうではないか」とアランは指摘しています。考えてみればリーダーがリーダーであり得るのは、部下が形式的にたてまつってくれるからですね。リーダーとしてのシンボルや約束事が有効でない場面では、リーダーには何の権威もありません。
  「社長」が尊敬され、恐れられているように見えるのも、彼が社員に対して人事権をもっているからにすぎません。関係ない会社の社長など、ただのおっさんにすぎません。そして部長が課長に対して威をふるうことができるというのも、彼が部下を評価する立場にあるという、そのことによります。

 
 

まだまだイソップの落ち穂がいっぱい
  現実の社会では、権威の秩序が真の実力によって維持されている、というのはかなり稀です。たいていの役職は人が変わっても何とかやれます。誰かに代わってもらった方がずっといいという実力のない役職者はゴマンといます。その連中が自分の肩書や形式的な権威をかさにきて、あるいは単に先輩だからというだけの理由で下位者に威張るのは、じつに滑稽ではありませんか。
  「もったいぶり屋どもの列」とは、実力のない肩書役職者たちのことです。ウサギはカエルの弱虫ぶりを見て安心しましたが、それと同じことで、実力のない役職者やリーダーは、部下が自分に見せる恐れや尊敬のしるしを見て大いに満足します。
  よく考えてみると、部下が実力のないリーダーや上司を本気になって尊敬しているはずはありません。上司を恐れているように見せているだけです。ところが上司はこの見せかけの態度だけで満足してしまいます。それはちょうど水に飛び込んだカエルを見て、「おれたちがカエルをおどし、追いつめてやった」などと誤解しているウサギに似ています。

 部長に威張る社長、課長に威張る部長、係長に威張る課長、平社員に威張る係長・・の序列はアランが「もったいぶり屋どもの列」と呼んだ序列です。そして組織の頂点で恐いものがないはずの社長でも、取引先や政治家や官僚にはペコペコしなければなりません。この世の中は「ウサギ―カエル構造」によって成立しているといってもいいでしょう。
  イソップのウサギは「こんなにいじめられているばかりでは、生きている甲斐がない」などといって集団自殺しようとしました。自分の弱さに対する認識はあったわけです。ところが「ウサギ―カエル構造」の中にはまっている人間たちには、それほどの反省的な意識はありません。それぞれに適当なカエルを見つけ、脅して自己満足しているだけ、という可能性があります。
  学校における「いじめ」が問題になっています。これは教室における「ウサギ―カエル構造」が顕在化したものです。そしてこの構造は大人の社会の中にしっかり根をおろしているのですから、「最近の子供たちは・・」などというのは的はずれです。イソップのエピソードを読んで赤面しなければならなかったのは、大人たちだったのです。

 私たちははじめのうち、「兎と蛙」の原文を読んで思わず笑いましたね。しかしよく考えていくうちに私たちが笑ったのは、じつは私たち自身のことでした。ウサギであり同時にカエルである人物とは私たちのことなのです。
  このように見てくると、イソップ物語はなかなか一筋縄ではいかない素材であることが分かりますね。そしてすでに多くの人がこれを読み、解釈してきたとはいっても、まだまだ別の読み方があり、尽きぬ面白さがあり、発見がある、ということが分かりますね。
  この点についてラ・フォンテーヌは「われわれは寓話を古代ギリシャから受けている。しかしこの畠はいくら刈り取っても、あとから来た者には拾う落ち穂もないということにはならない」といいました。
  私は「イソップ物語」という「畠」に一番最後にやってきた新参者です。けれど、足元を見ると、まだすばらしい「落ち穂」がたくさん散らばっています。それではご一緒にこの落ち穂を拾ってゆくことにしましょう。

 
   
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