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イソップの落ち穂拾い
 
第10章 合理的に、勇気を持って

きわどい話は検閲に引っかかった?
  イソップ物語は分かりやすく、子供たちにも教訓として与えられる作品が多々ありますので、世界中で「子供の本」として普及しました。私たちにしてもイソップ物語に接したのは、子供のときではないでしょうか。子供用の本を編集するためには、「原典」をいくつか抜粋しなければなりません。子供には難しい話、明らかに子供向きでない作品は落とされてしまうことになります。つまり読者対象を考慮して、編集者は検閲を行なうわけです。
  これは私の想像ですが、私たちがいま手にしているイソップ物語ができあがるまでにも、かなりこの手の検閲があったのではないかと思います。
  なぜかといいますと、イソップ物語の中には色恋やセックスを取り扱った作品がほとんどないのです。ギリシャ神話がこうした点でじつにおおらかで、開放的であることを考慮すると、イソップ物語の中に男女問題が少ないのはきわめて奇異な感じがします。

 私は学者ではないので、無責任なことをいわせていただきますが、恐らくイソップは他の話と同様に男女問題も、必要とあれば衆道問題も取り扱ったに違いないと思います。そしてこの世界についてもイソップ独自の鋭い観察と本質直感、たくみな比喩表現がなされていたに違いないと想像します。
  ところがこれらの作品は写本の段階で検閲にひっかかり、一つ一つイソップ物語から抜け落ちていったのではないかと思うのです。なにしろイソップが日本に伝えられたのはキリシタンと一緒です。イソップの作品を伝えたのがスコラの僧侶たちであったことを考えると、あまり教育的でない作品が削られたということは、いかにもあり得ることではないでしょうか。

 ごらんのようにイソップ物語は作品の数を変えても、作品の順序を並べ替えても平気の平左という不思議な書物です。少々のリライトにもびくともしない柔軟で堅固な構造になっているのです。そこで私はイソップ物語の中には、かつてフランス小話風のしゃれた大人のジョークが含まれていたのだ、と勝手に考えることにします。
  岩波文庫版の「イソップ寓話集」には、ほんのわずかですが若干セックスに関係する作品があります。それはなぜかハイエナが登場する作品です。「ハイエナたち」という作品は次のようになっています。
  「ハイエナたちは毎年その性質を変えて、時には牡になり時には牝になると言います。ところで或るとき牡のハイエナが牝のハイエナに対して本性に反する態度を取りました。と、牝の方が答えて『いや、お前さん、そんなことをしてもいいが、やがて同じことをされると思って、なさい。』と言いました。これは、すでに支配の位置に立っている人に対して、彼の次の立とうとする人がなにか間違ったことをされた場合に、言って差し支えないことでしょう」。

 もう一つの作品は「ハイエナと狐」という作品です。「ハイエナはその性質が毎年変って、時には牡になり、時には牝になると言います。ところでハイエナが狐を見て、彼女のお友達になろうと欲しているのに近づいてくれない、と非難しました。すると狐は答えて『いいえ、私でなくって、あなたの本性を咎めてください。そのあなたの本性のために私はあなたを男友達として附き合ってよろしいのか、女友達として附き合ってよろしいのか分からないものですから』といいました。これは曖昧な人に適しています」。
  これはいずれもハイエナが毎年メスからオスへ、オスからメスに転換するということが前提になっています。ずいぶん変な話ですね。たとえばライオンの動作などについて、あれほど的確な観察をしているイソップがハイエナの雌雄の件について、信じ難い伝聞を伝えています。

 そこで百科事典で調べてみます。すると、アフリカ地方にすむブチハイエナは、メスの外部性器がオスに似ていてほとんど見分けがつかないと書いてあります。そのためにこの種のハイエナは両性具有的な、あるいは毎年性転換する動物と思われていたというのです。
  日本では日が照っているのに雨が降ると「狐の嫁入り」といいますが、東アフリカではこれを「ハイエナのお産」というそうです。要するにどっちともつかない性質を代表するような動物、これがハイエナということになりますね。
  イソップ物語が伝えられてゆく過程で、ハイエナの雌雄についてどこまで研究が進んだかは分かりませんが、いわばハイエナという独特の性質を持つ動物が主人公であったために、この二つの作品がイソップ物語の中に残りました。

 

アイデンティティがなければ付き合えない
  それにしても「ハイエナたち」という作品では、「牡のハイエナが牝のハイエナに対して本性に反する態度を取りました」と書いてありますが、どうも曖昧でよく分かりませんね。これはもとの作品ではずばりと書いてあったものを、写本のプロセスで、勝手にいいまわしを変えたためではないでしょうか。
  「牝が牡に対して本性に反する行為」。オスがメスの要求を拒んだ、ということなのか、オスが別のオスを追いかけてしまった、ということなのか、このへんは、映画の中の「ぼかし」と同じようなもので、私たちはただ想像するしかありません。次の、「ハイエナと狐」という作品でも、「彼女のお友達になろうと欲しているのに」などと、やけに遠慮深い表現が用いられていますね。これもいささかリライトの匂いがします。
  ところで「ハイエナと狐」という作品が投げかけている課題は、アイデンティティをはっきりさせないとつきあいができない、ということですね。つまりその人なりの主体性、その人の「らしさ」「人格」というものが問題になっているのです。

同じ趣旨の作品に「烏と鳩たち」というのがあります。あるカラスがハトたちの餌を見て欲しくなり、羽を白く染めてハト小屋にやってきて餌を食べていました。けれど、うっかり鳴声を出してしまったので怪しまれて追放されます。そこでそのカラスは自分の仲間のところへ戻るのですが、羽が白いために仲間と認めてもらえず、ここからも追放されてしまいます。
  この話の教訓として、原典では「欲張りは何の得るところもないばかりか、現に持っているものまでもしばしば失わせることをよく考えて、自分のもので満足しなければなりません」となっていますが、欲張りに対する教訓というよりは、身分を詐称してはならない、というように受け取る方が素直ではないかと思います。すなわち、アイデンティティの問題なのです。

 このほかイソップには、アイデンティティに関わる話がいくつかあります。たとえば野山にすむ半神のサチュロスが、あるとき人間と友達になりましたが、人間が熱いものを冷ますのにも息を吹きかけ、寒い手を温めるのにも息を吹きかけるのを見て、「なんて曖昧で気持ちが悪いやつだ」といい、その人間と絶交するという話が出てきます。
  要するに「どっちつかずで曖昧なものは悪い」というのがイソップの立場です。これはイソップにおける合理性、実利性の出発点ともなる思想です。私はこの「アイデンティティが必要だ」という趣旨の小グループを「実利と合理性を大切にしよう」という大グループの中に含めることにしました。

 
 

占いの不合理を批判
  イソップの時代、神託や占いやかずかずの迷信が強い力で人々を支配していました。戦争では占い師が「軍師」として参加します。占いで「凶」と出ると、どんなに作戦的に有利でも戦いをしません。ペルシャ戦争やペロポネソス戦争では、こうした占い師が大活躍しました。
  このような時代背景を考えると、イソップ物語の中には驚くほどの合理的な精神が見られることが分かります。たとえば「旅人たちと烏」という作品は次のようになっています。
  「或る人々が或る用事のために道を行っていると、眼の片一方をなくした烏が彼らに出遇いました。彼らがそちらへ注意を向け、その一人がこの前兆の意味は引きかえせということなのだから、そうするようにと忠告しますと、他の人がその言葉を遮って言いました。『してどうしてこの烏がわれわれに将来を予言することができましょう。自分の眼を失うことさえ、それを避けるために、予見しなかったのに。』こういう風に、人間たちのうちでも、自分のことに対して思慮のない人々には、また隣りの人々に忠告する資格もありません」。

 このエピソードを読むと、当時の人々の迷信的な行動慣習がとてもよく分かりますね。これに似た行動慣習は、現代人である私たちの生活の中にもまだまだ見られます。たとえば「仏滅」には、いまでも結婚式場はガラガラになります。家を建てるときには方角を気にしたり、名前をつけるときに字画にこだわったりなど、何か大事なことをしようとするときになると、日頃私たちの心の奥底で眠っていた古代人が目を覚まし、にわかに自己主張を始めるわけです。
  このエピソードでも、最初の一人は「烏を見かけたから旅行は中止しよう」といいます。これは「なにも仏滅と分かっていて、その日にすることはない」という主張と同じです。要するに当時の常識にしたがって発言しただけです。これに対して友人は「こんな烏には、お告げの能力はないよ」というのですが、このとき彼はカラスが片目であることを観察しています。

 ここには若干の論理の飛躍があります。カラスは予言能力を持った鳥である、したがって自分自身の危険も予知できるはずだ。しかるに、このカラスは傷ついている。自分の危険も予知できなかったのだから、予知能力はないとみていい、ということですね。イソップにはもう一つ予言能力がないといって、ばかにされる子ガラスの話が出てきます。
  カラスが単に警告のシンボルとして扱われているなら、この論理は成り立たないはずですが、恐らく彼の主張は友人に受け入れられて、なんとか旅は続いたものと思われます。一方にはジンクスや慣習を尊重する意見があり、一方には合理性を尊重する意見があったのです。
  彼らは旅を急いでおり、どうしてもしなければならない用件を持っていました。そこで迷信を打破する理論が必要になりました。そこで彼の観察が生き、断固とした三段論法が組み立てられました。「予言は単に本人がそれを信じるという、ただそれだけのことで実現されてしまう」とアランはいっています。

 カラスのお告げを排除したこの友人も「もしかしたら、たたるのじゃないか」なんて迷いがあったら、結果はどうか分かりません。こんにちでも迷信は気にする人にとっては真実です。ところがイソップの中では、迷信を否定する精神に少しの迷いもありません。この合理的精神はイソップ物語全編を貫いています。
  考えてみれば、迷信は何か失うものを持っている人の恐れの感情ではないでしょうか。というのも、こんにちでも会社の社長やお金持の奥さんなどが、けっこう占いや方角に凝ったりしているのですね。ときとして新興宗教にすっかり入れ込んだりしています。
  現実の中で現場作業に携わっていた奴隷のイソップには、恐れるようなものなどありませんでした。孔子は「鬼神を語らず」といいました。イソップの中にも神は登場しますが、決して「鬼神」「妖怪」として登場するのではありません。イソップは人類にとって合理主義の源流の一つなのです。

 
 

調査結果にもとづいて判断する
  もうひとつ「夫と怒りっぽい妻」という作品を読んでみましょう。
  「或る男が家族の誰にでも余りに怒りっぽい気性の妻を持っていました。彼は妻が自分の父の家族の者たちにもやはり同じようであるかどうかを知ろうと思いました。そこで、もっともらしい口実を設けて彼女を父のもとにやりました。すると幾日も経たないで彼女が帰ってまいりましたので、彼は家の人々のもてなしはどうだった、と尋ねました。妻が『牛飼や羊飼どもが私を見くだしました。』と言いましたので、彼は妻に『そうかねお前、もし朝早く羊の群れを追って出かけ、夜遅く帰って来る人々にお前が厭がられるようなら、まる一日お前が一緒に暮らしていた人々はどうだろう、知れたことじゃないか。』と言いました。こういう風に、しばしば小さなことから大きなことが、また予め明らかなことから明らかでないことが分かります」。

 悪妻といえばソクラテスの妻クサンチッペが有名ですが、この物語に登場するマダムは、どうやらイソップが仕えた哲学者クサントスの妻、主人はクサントスという感じがしますね。主婦はどの家庭でもゆるぎない権威を持っているものですが、それに「怒りっぽい」という性質が加わるとちょっと始末が悪くなります。
  この物語のご主人は、日頃奥方の口やかましさに閉口しています。しかし彼は「もしかしたら私や子供の接し方が悪いのかもしれない」と考え、「彼女は実家でも同じようにふるまうのだろうか」と思います。彼はここで仮説を立て、これを実証しようとしています。
  口実を設けて彼女を実家に行かせた、というのは一つの実験です。文脈から判断すると、彼女は思ったよりも早く戻ってきたようですね。もし居心地がよかったら、彼女はもっと滞在したはずですから、やはり現在の家庭の方がましなので早目に戻ってきたのでしょう。
  そして夫がインタビューしてみると、果たせるかな、彼女は「牛飼や羊飼どもが私を見くだしました」といいますので、彼女の気質がどこでも嫌われるものだと判断したのですね。ここではじめて夫は妻にお説教するわけですが、気の強い妻が何と答えたか、それは分かりません。

 この作品から想像される夫は、日頃妻に頭が上がらない男のようですね。もしも妻の性質が気に入らなかったら、日頃注意しているでしょうし、どうしてもいやなら離婚ということもあったかもしれません。ところが彼は調査をしてからでなければ妻を叱れない、と思います。なにしろ気の強い女性ですから、理論武装しないと対抗できないわけです。
  彼女が怒りっぽいのは、ひどく甘やかされて育ったわがままな性質のためか、あるいは更年期障害など、どこか体調が悪いのか、夫を甲斐性なしだと思っているのか、いずれにしても彼女のあるべき理想と現実が合わないからですね。彼女は怒りの感情を外に出すことによって精神のバランスを保っているわけです。
  夫が彼女を実家に帰して観察しようとしたのも、「もしかしたらオレが稼ぎが悪く、だらしがないから、頭に来ているのかもしれない」なんて、内心反省するところがあったのかもしれません。つまり結果に対して原因は複数あり得たわけです。この複数の原因を仮説に従って絞り込んでゆくところがこの物語の眼目です。

 ところで、仮説に対する調査、実験、論証こそ近代精神そのものではないでしょうか。こんにちでも「雨は上がった?」という問いに対して、外を見もしないで「もう上がりましたよ」なんていう人はたくさんいます。ちょっと窓の外をのぞけばいいのに、調査せずに憶見でものをいうわけです。
  「数字の列を信用してかかる会計係はいない」とアランはいいました。現代ではコンピュータがまず間違いのない計算をしてくれますが、それでも数字をうのみにするのはビジネスマンとしてふさわしくありません。原データが信頼できるかどうか分かりませんし、入力ミスもあり得ます。またプログラムのアルゴリズムが間違っていないともいえません。そして数字にあらわされている在庫や債権などが本当にその価値を持っているかどうかは一番怪しいのです。
  新製品の企画や発売という場面では、仮説検証の精神がもっとも必要になるものですが、たいていの場合、冷静な調査よりも、乗りかかった船の当事者の、入れ込みや憶測の方が先行しがちです。しかしアランは「あらゆる事業は、要するに少しも自分を信じようとせずモノのまわりをいちいち回ってみる、こうした調査担当者ゆえに成功する」といっています。

 この物語に出てくる気の弱い夫は、「妻がなぜ怒りっぽいか」ということに対する答えを持ってはいましたが、十分な確信を持つことができませんでした。自分の仮説にこだわらなかったところが彼の長所といえるでしょう。彼は自分の仮説にすら懐疑を抱いたわけで、その理由は、根拠なしに妻を非難して、もっとひどい目にあっては大変だったからです。
  恐らく今の世の中でも、この物語に出てくるような夫婦関係はいくらでも見られることでしょう。けれどもいきなり単純な夫婦喧嘩を始める前に、2600年前に生きていた、この穏和で気の弱い夫の態度を見習うのもいいのではないでしょうか。実証の精神こそが大切なのです。

 
 

花より団子
  イソップの合理精神は品質思想にもあらわれています。たとえば「牝獅子と狐」という作品では「量より質」という概念が示されています。
  「或る牝獅子が、狐に、たった一匹きりしか産まないと非難されて『一匹だが、しかし獅子だよ。』と言いました。これは、値打は数ではかってはならない、むしろその徳をよく見なくてはならぬ、ということです」。
  この作品の教訓部分でいっている「徳」は、この場合「品質」と考えるのが適当です。私たちは「徳」を「人徳」と考えますが、ギリシャ語の「徳」は「そのもののすぐれた特質」を意味しているようです。プラトンの対話編にも、「馬の徳」「靴職人の徳」などといういいまわしが随所に出てきます。

 量より質、に類した話としては「産の軽い重いを言い争う牝豚と牝犬」「器量争いをする燕と烏」などがあります。「産の軽い重いを言い争う牝豚と牝犬」では、お産のスピードよりも、生まれてきた子供がどの程度完成しているかの方が重要だ、ということが論議されます。また「器量争いをする燕と烏」では、春だけ美しい燕よりも、四季の変化に耐えられるカラスの頑丈さが優位であるという結論になっています。これらはいずれも合理精神を示した作品です。
  また名目よりも実質が大切だということを示す作品群も少なくありません。その中から「百姓と木」という作品をご紹介しましょう。
  「百姓の所有地に一本の木がありましたが、それには実はならないで、ただ雀ややかましく啼く蝉どもの避難所にすぎませんでした。百姓は実がならないのを見て、それを切り倒そうと思いました。そこで彼は斧を手にとって一撃打ち下ろしました。と、蝉や雀たちは彼らの避難所を切り倒さないで、そのままにしておいて下さい、そうしたらその木で歌を歌って、お百姓さん、あなたを喜ばします、とお願いいたしました。しかし彼は彼らのことなど、ちっとも構わないで、二撃、三撃と打ち下ろしました。そして木に穴をあけた時に、蜜蜂の巣と蜜を見つけました。彼はそれを舐めると、斧を投げ出して、その木を神聖なものであるかのように尊んで大切にしました。これは、人間は生まれつき、利得を追求するほどには正義を愛し尊びもしない、ということなのです」。

 これはラ・ロシュフコーばりの辛口の批判精神が生きている作品ですね。同じ樹木でも「雌雄同株」なら、健康な成木は花をつけ、やがて実をつけますが、「雌雄異株」の場合のオスの木は花も実もつけません。日本ではいちょうの木がその典型ですね。この百姓の敷地に生えていた木も「雌雄異株」のオスだったようですね。
  ギリシャ神話にはドリュアスとかハマドリュアスという木の精霊が登場します。教訓中に「正義」という言葉が使われていることからも分かるように、当時からみだりに樹木を切ったり、傷つけたりすることは好ましくないという価値観があったのです。けれどもこの百姓は、「実=利益」という図式にしたがってこの木を処分しようとしました。

 彼は鳥や蝉たちの「芸術」にはまったく関心がありませんでした。斧を少なくとも3回打ち込み、木に切り口をあけたところで彼は蜂蜜を発見します。打ち下ろした斧の衝撃で、蜂蜜がたれてきたのでしょう。ということは、この木は、かなりの樹齢を持った大木であることが想像できます。彼にしてもこの木を切りたくて切ったのではなく、新しい耕地、または日照が欲しかったからでしょうね。ところが彼は蜜蜂の巣を発見し、そこではじめて樹木のメリット、すなわちギリシャ風の「樹木の徳」を見出します。
  さっきまで無用の長物だった樹木が、今度は彼にとって崇拝の対象になります。手のひらを返すような態度の変化ですが、実質的なメリットがあれば率直に評価するというところは、合理主義、実利主義のいいところですよね。要するに「花より団子」というわけです。

 
 

実利一辺倒でいいのか
  ところで、この話の中にあらわれる百姓の実利主義が賞讃されているかというと、かならずしもそうではないようですね。彼が小鳥や蝉の願いをまったく無視しているところは冷酷ですし、蜜蜂の巣が見つかったら急に斧を投げ出して木を崇拝するようになる、というのも、なんかあさましい感じがしますね。
  もちろんこの話では合理精神が否定されているわけではありません。この話が伝えているメッセージはむしろ合理主義、実利主義一辺倒に対する批判であり、バランスの悪さです。この百姓には何かが欠けているのです。では、彼に欠けている要素は何なのでしょうか。
  アランは「美しい詩句を耳にすれば、人間という生理的存在は、そちらの方に頭を向けて、そのあいだ儲けのことは忘れている」といっています。このことからお分かりのように、彼に欠けているのは、「美に対する感度」であり、小鳥や蝉の音楽に象徴されるもの、心を豊かにしてくれる文化に対する不感症なのですね。

 要するに状況に対する冷静な計算と判断、そして生活基盤を支える食糧調達意欲、あるいは富に対するあくなき情熱、これだけでは人間としては不完全なのですね。
  日本のビジネスマンは勤勉であるといわれます。豊かになることを目指して働くのは結構なことです。では豊かになる、とはどういうことでしょうか。働いて生活に困らなくなったときに、人々はどのようなライフスタイルを作るのでしょうか。この百姓にしても、十分に収入が得られるようになったら、涼しい木陰のベンチに腰を据えて小鳥や蝉の声に耳を傾け、若いときからの勤勉の勝利を祝うのではないでしょうか。
  ところで、この作品にはもう一つ見逃せないポイントがあります。それは環境問題という視点です。地球環境の保全が問題になっています。森林資源についていえば、一方の国では森林がどんどん焼かれたり伐採されたりし、一方の国ではこれを非難したり、抑制しようとしたりしています。

 緑の保護に対して熱心な人々がいます。これらの人々はおおむね行き過ぎた文明に対する批判論者でもあります。「自然を支配しようとしてきた人間は、いまや自然のきびしい報復を受けている」とこの人々はいいます。
  私が毎朝散歩するコースに5本のみごとなけやきの木が立っています。そのうちの3本は根元の直径がゆうに一メートル以上あります。ところが、この木を見上げると、高さ10メートルぐらいのところで地面に水平に幹が切られているのです。
  どの木も枝分かれ直前、あるいは枝分かれしかけたところで切られていますので、このけやきには小枝も葉もありません。おそらくこの木は枝や葉が茂って日照の妨げになるので切られてしまったのでしょう。直立した太い幹ですので、けやきはまるで廃虚の列柱のように見えます。
  これは人間でいえば、手と首を切り取られてそのままさらしものになっているようなもので、その異様さとむごさに驚きます。このような事例を見ると、人間はたしかに自然に対してじつに身勝手で残酷な生き物だと思わざるを得ません。ですから私は環境保護を支持し、緑を守る側に立ちたいと思います。

 けれどよく考えてみると、私たちが緑を守らなければならないと考えるのも、身勝手な都合からなのですね。つまり緑がなくなると私たちは酸素を失い、資源を失ってしまうからです。つまり私たちはようやく緑そのものが、例の百姓にとっての「蜂蜜」と同じものであることに気づいたという次第なのです。
  樹木の存在が邪魔で、住宅地や日光こそ蜂蜜だと考える人々は容赦なく枝を切り、株を掘ります。アマゾンの森林をどんどん焼き払っている人々は、彼らなりの蜂蜜を求めているのです。そして私たちが緑の木々を崇めるというのも、私たちの考える蜂蜜を大切にしたいからです。
  だとしたら、私たちはかりに環境保護論者であったとしても、蜂蜜を見つけたとたんに、急に樹木を崇めはじめた例の百姓とどこも違わないではありませんか。

 要するにどの蜂蜜が大多数の人々にとって大切なのかを議論せずに、環境保護を絶対的な教義として振りまわすことはできないということです。また実利主義、合理主義はしばしば自分だけの欲深さに結びついていることに気づかなければなりません。また「美に対する崇拝」、すなわち文化を基礎におかなければ、人間の文明は罪深さから脱却できなくなるということです。
  「百姓と木」という作品の中で、イソップは文化と文明についても論じているのですね。合理主義者イソップが合理主義そのものについて考えた作品といってもいいかもしれません。

 
 

一寸の虫にも五分の魂
  では次にイソップが、弱者として何ができるかを述べている作品をご紹介しましょう。「鷲と甲虫」という作品があります。やや長めですが原文をご紹介します。
  「一羽の鷲が兎を追っかけていました。しかし兎を助けに来てくれるものはいませんでした。が、兎は折よく甲虫がたった一匹そこにいるのを見つけて、これに救いを求めました。と、甲虫は兎を励まして、鷲が近くにやって来たのを見ますと、自分に救いを求めている兎を奪い去って下さいますなと頼みました。だが鷲は甲虫の小さいのをあなどって彼の見ている目の前で兎を食べてしまいました。甲虫はこの時からこれを遺恨に思って怠らず鷲の巣を見張っていました。そして鷲が卵を産むと、いつでも、甲虫は空高く舞い上っていってその卵を転がしては割るのでした。鷲はどこへ行っても追っかけてこられるので、とうとうゼウスのところに逃げこみました。(というのもこの鳥はゼウスの神鳥でしたから。)そして自分の子供を産むのに安全な場所をお授け下さい、とこの神様にお願いいたしました。ゼウスはその膝の上で卵を産むことを鷲にお許しになりましたが、甲虫はこれを見ていましたので、糞の丸い塊を作ると飛び上がって、ゼウスの膝の上に来た時に、そこへその塊を落っことしました。ゼウスは糞をふるい落そうとお思いになって立ち上られたとたんに、うっかりして卵を地上に抛り出してしまわれました。この時から甲虫の現われる季節には鷲は巣を作らないと言われています。この話は、どんなものでも顔に泥を塗られて、いつか自分でその仕返しのできないほど無力ではないということをよく考えて、何ものでも馬鹿にしないように、ということを教えています」。

 この話の前半はカブトムシが逃げ込んだウサギのために命乞いをするのですが、ワシはこれを無視してウサギを食ってしまうというものですね。弱者の気持ちを理解するのは弱者です。しかし弱者には弱者を救う力がありません。
  カブトムシはここで「侮辱された」と思います。話の後半はカブトムシの復讐の執念を描いています。面白いのは強いはずのワシが正面からカブトムシに対抗せずに、ゼウス神を頼って駆け込むところです。これは強いはずの町のやくざが、自分の親分に所属し、さらにそれが上部の親分に属しているなどという構造を思い起こさせます。
  つまり強者も単独で強者なのではなく、しかるべき組織を背景として強者なのであって、正論にぶつかるとたちまち「組」の名や親分の名を出さなければならなくなるということです。だから純粋な弱者とは、こうした力のネットワークを持たない人間のことなのです。
  政治的な組織や労働組合なども要するに力のネットワークをめざす集団です。政治家をかついで後援をしている人たちも、要するに強者の列に連なりたいと願う人です。これら「親分」を持つ人々をはたして強者と呼ぶべきなのか、弱者と呼ぶべきなのか、よく分かりません。

 ところで、例のカブトムシは弱者ではありますが組織を作りません。彼はあくまでも単独で戦いを続けます。ワシとまともに戦ったのでは勝ち目がありませんから、彼は卵を狙います。彼の攻撃目標は一貫していて変わりません。このように弱者でも目標を一点に絞って集中的に実行すればなかなか効果的です。
  ゼウスが膝の上に落とされた糞を払い落とそうとしてワシの卵まで落としてしまう、というのは愉快ですね。全能全治の神がうっかりミスをしてしまったわけで、ここには人間的な欠陥を持つギリシャ神話の神々の特性と、寓話としての誇張とがミックスされています。
  ここで注目すべきことは、ゼウスが自分のシンボルバードであるワシをかばうために、カブトムシを遠ざけようとしたり、カブトムシを罰しようとしているわけではないということです。ワシもカブトムシもゼウスにとっては「子供」であり、「家来」ですから、そんなに極端な差別をすることはできません。

 それにゼウスは、ワシがカブトムシの願いを無視してウサギを食ってしまったという経緯を知っていますので、カブトムシの執念を理解できないでもありません。しかし膝に糞をされたので困ってしまいました。そこで思わず立ち上がってしまったわけです。
  もうひとつ注目すべきことは、カブトムシがゼウスに「ワシが私の顔に泥を塗りました」などといって訴えようとしていないことです。つまりカブトムシにとってはゼウスの存在は問題になっていないのです。彼の問題はワシに傷つけられた自分の誇りであり、権威者の力を借りて問題を解決してもらうことなど少しも考えていません。
  要するにカブトムシにとってはゼウスは自然そのものであり、敵でもなければ味方でもありません。アランは「人間の力であれ、宇宙の力であれ、力というものは、すべておなじ方向にむかうものではなく、そしてこれがために、勇気ある心はついによく通路を見出しうる」といっています。また彼は「勇敢な愛と強固な意志は、支離滅裂な諸情念をつらぬいてすすみ、よくその目的に到達することができる」ともいっています。

 私たちの意思や欲望には短期的なものと、長期的なものがあります。たいていの場合そのときだけの希望や、欲求や、選択にしたがって行動しています。けれど長い間思い続け、あるいは願いつづけて、長時間かかってようやく達成するような目標もあります。何年、何十年にもわたる一貫した意思、欲求、これを「信念」「志」といっていいのではないでしょうか。二三度やってみてだめだから諦める、などというのは志ではありません。
  カブトムシにとって、傷つけられた誇りの回復は明確な「志」となりました。彼は山を越え、谷をとび、オリュンポスにまでやってきました。この間彼は何回も卵を落としたはずですから、行動は何年にもわたっているわけです。弱者といえども「志」をもってのぞむならば、「何事かなさざらん」、「一寸の虫にも五分の魂」というわけですね。
  この話は最後の部分では「縁起談」としての特性をも示しています。いずれにしてもこの話でイソップは、弱者の味方はほかならぬ自らの意志と勇気であり、「志」には外的な障害を貫いて進む力があることを示しているのです。

 
   
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