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イソップの落ち穂拾い
 
あとがき

 聞くところによると、チンパンジーと人間の遺伝子の99.9パーセントは共通なのだそうです。ということは、イソップ物語に登場する動物たちの遺伝子も、私たちのものとそう変りはないということですね。
  私たちと彼らを隔てているほんのわずかな遺伝子の壁は、イソップ物語ではまったく取り払われています。つまり寓話における動物たちは、私たち自身のことなのです。もっとも人間の代名詞に用いられた動物たちが、それを名誉なことと考えているかどうかは分かりませんが。

 ガリレオは地動説を支持したために宗教裁判にかけられました。ガリレオを弾劾した宗教家たちは、地動説が聖書の記述に反するものであると考えました。ところが当のガリレオにしてみれば、自分は聖書を否定するつもりはありません。神を否定する意志もありません。彼は望遠鏡をのぞいて創造主の偉大な力に驚嘆していたくらいです。
  ガリレオにしてみれば、聖書が記しているのは一つの寓話であり、考え方であり、科学的な発見とは別に矛盾しないのです。だからガリレオの宗教裁判は「寓話を寓話として受け取ることができる人」と、「寓話を寓話として受け取ることのできない人」との戦いであったと考えることができるでしょう。

 この戦いはこんにちまでも続いています。イソップの中に人間的リアリティを発見し、メッセージを見出すことができる人は「寓話を寓話として受け取ることのできる人」です。これを単にばかばかしい話の群としてしか受け取れない人は、「寓話を寓話として受け取れない人」です。要するに「話せない人」です。生真面目で、何でもテキスト通りに受け取らないと気が済まない人がいますからね。
  このような人は自分がオオカミであったり、ロバあったりすることを認めることはできないでしょうし、そんなものに自分がたとえられてしまったらきっと怒り出すでしょう。要するに遺伝子の最後の0.1パーセントを飛び越えることができないわけです。

 アランは「比喩は読者の心を奪い、読者を高める。世界を拡張拡大する。われわれを、いわばわれわれの複雑な本性にふさわしい領土へと投げ出すごとく、比喩の世界へと投げ出し、そこでさまよわせる」といいました。比喩、寓話は文芸の母であり、思想の父です。これを楽しむことができない人は文芸と思想をともに拒否することになってしまいます。
  アランはイソップを次のように評しました。「奴隷は欺かれも媚びられもしないから、奴隷独自の考え方が幾分生まれざるをえなかったが、生まれたその思想は真実な思想であった」。またアランは「忘れてならないのは、あのイソップ的精神である」ともいっています。
  イソップが奴隷であったということ、そしておそらく気に入らないでしょうが、私たちもまたいくぶん奴隷なのだということをふまえて、私はイソップを見習いたいと思います。すなわち、どんなに拘束されながらでも自由な思索の権利を手放さず、事態を冷静にとらえ、ときには自分自身をも含めて事物を楽しく批判し、何かに対比させるという、このゆとりある精神を持ちたいと思うのです。

 要するにイソップが教えてくれているのは「観察し、考え、なぞらえて話す」という精神の自由です。またこの「なぞらえ」を心から楽しむ自由です。この自由は人間だけの01.パーセントの中に含まれているのではないでしょうか。
  私は以前からイソップ物語をもう一度読んでみたいと思っていました。きちんと読めたかどうかは分かりませんが、私なりに再読できたことは収穫でした。皆さんにもイソップの再読をおすすめします。本書がそのためのきっかけになれば幸いです。
  本書制作にさいしては、岩波文庫「イソップ寓話集(山本光雄訳)」、ならびに岩波文庫「寓話(ラ・フォンテーヌ、今野一雄訳)」を原本として参考にさせていただきました。また書名をあげませんが複数の書籍を参考にさせていただきました。ここにお断りとお礼を申し上げます。本書編集に助力してくれた田中晴美さんと柴田和枝さんに謝意を表します。

                    1997年4月    著者

   
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