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イソップの落ち穂拾い
 
第2章 イソップはどんな人?

イソップは実在したか
  イソップは紀元前六世紀ごろ生きた、プリギア地方生まれのギリシャ人で、身分は奴隷であったとされています。ギリシャ名をアイソポスといいます。
  イソップという人物は実在しなかったのではないか、という人もいるようですが、ヘロドトスが書いた「歴史」という書物の中にイソップのことが記されています。ヘロドトスは、ロドピスという遊女の話に触れて次のようにいいました。
  「ロドピスというのは、右に述べたピラミッドを残した諸王よりも遙かに後の人物で、生れはトラキア人で、ヘパイストポリスの子イアドモンというサモス人に仕えた奴隷女で、かの寓話作家アイソポス(イソップ)とは朋輩の奴隷であった。アイソポスがイアドモンの奴隷であったことは確かで、それには次のような有力な証拠もある。すなわちデルポイ人が神託に基きアイソポス殺害の補償金の受取人を求めて、幾度も触れを廻した時、出頭したのはこのイアドモンの孫で同名のイアドモンただ独りで、他には誰も現われず、このイアドモンが補償金を受け取ったというわけで、アイソポスは確かにイアドモンの奴隷であったのである」。

 この文章から次のことが分かります。イソップが実在したらしいこと、ヘロドトスの時代(紀元前5世紀)には寓話作家として知られていたということ、イソップがロドピスという女奴隷と同輩として働いていたこと、その主人がイアドモンという名であったこと。
  またイソップは何らかの事件によってデルフィ人に殺されたこと、その後にデルフィにおける神託によって、イソップ殺害に対して補償金が支払われることになったこと。しかし補償金の広告を出したのに、誰も受け取りに来るものがなく、イアドモンの孫が受け取りに来て、唯一の相続人として補償金を受け取ったこと。
  補償金を受け取ったのはイアドモンの孫といいますから、イソップの死後50年ぐらいたっていてもおかしくありません。ヘロドトスから見てこれはひどく古い話ではない、ということになります。
  なおヘロドトスは先の文章のすぐ後に、ロドピスという遊女は、女流詩人として有名なサッポーの「兄に身請けされた」と書いています。ですから、イソップはサッポーと同時代の人であったということが分かります。

 またディオゲネス・ラエルテスは「ギリシャ哲学者列伝」という本の中で、「キロン」という古い哲学者についてふれ、その中で「キロンは第52回オリンピック大会期(前572〜569年)の頃には年老いていたが、その頃寓話作家アイソポスは人生の盛りであった」と記しています。「人生の盛りであった」ということは、少なくとも年齢的には青年から壮年期にあったこと、しかも寓話作家として広く知られ、評価されていた、ということを意味しますね。
  プルタルコスの「英雄伝」の中の「ソロン(アテネの立法者)」の項にも次のような記述があります。「寓話作家のアイソポスは、たまたまクロイソスに招かれてサルディスに来て尊敬されていたが、ソロンがいっこうに歓迎されぬのを見て心を痛めた」。
  以上のような断片的な情報から、イソップはどうやら実在の人物であるらしいことが分かりますね。ところが、イソップ自身の生涯については詳しいことはほとんど分からないのです。

 一番困ったことには、イソップが自分で原稿を書いたわけではないらしい、ということです。紀元前六世紀の古代ギリシャではまだ、文字が定着しておらず、書物という情報編集形式がありませんでした。したがってイソップは「寓話作家」とされていますが、文筆活動によって作家として認められていたわけではなく、「話術」「語り」によって作家だったわけです。
  のちの人々が「イソップがこういった」といった小話を集めて「イソップ物語」を構成したのです。口伝で散在しているイソップ物語を最初に編纂したのはパレロンのデメトリウスという人で、編纂の時期は紀元前四世紀の末であろうといわれています。
  さらに紀元一世紀に入ると、ローマの開放奴隷ファエドルスという人がこれをラテン語に訳しました。またバブリウスという人がイソップ物語を韻文で翻案したことも知られています。こんにち残されているのは、これらの系統をひくたくさんの編者、文人の手によって書き移され、書き直されてきたイソップ物語の「写本」です。したがってイソップ物語には世界中に無数のバージョンがあるわけです。

 日本にイソップ物語がわたってきたのは1500年代のことです。イソップ物語はキリシタンとともに渡来した文化でした。いらい日本には「イソポのハブラス」「伊曾保物語」という立派なバージョンが定着しています。
  さて、残された作品でさえこのような状態ですから、今からさかのぼってイソップとはどんな人だったのかを知ることは、とうてい不可能といっていいでしょう。

 

ニセの伝記を信じよう
  ところがわかるはずのないイソップの伝記を書いた人がいます。その人の名はプラヌデスといいます。この人は、ビザンチン帝国の僧侶で文学研究家ですが、ベネチア訪問使節団のメンバーにも選ばれたインテリで、古典作品や古典の資料研究にすぐれていました。この人が「イソップ伝」と「イソップ物語」の編纂を行ないました。
  ラ・フォンテーヌはこのプラヌデスの「イソップ伝」について次のように語っています。「わたしの知るところでは、プラヌデスがわたしたちに残している伝記を信じがたいと考えない人はほとんどいない。この著者はその主人公に、その寓話にふさわしいような性格とできごとをあたえようとしたのだ、と人々は思いこんでいる」。

 つまりプラヌデスが書いた伝記は、はなはだマユツバだと思われている、ということですね。そして、ラ・フォンテーヌ自身もはじめのうちそう思っていたというのです。ところが自分なりにイソップの生涯と人物像に迫ろうとしたラ・フォンテーヌの考えは次のように変わりました。
  「(たとえ私が)それをどんなに真実らしいものにしても、誰も信用してはくれまいし、どちらもつくりばなしなら、読者はやっぱりわたしのつくりばなしよりプラデヌスのつくりばなしを採ることになるだろう」。
  ラ・フォンテーヌは、かりにプラヌデスの伝記が作り話だとしても、それをそのまま受け入れてどこが悪いのか、どのような不都合が生じるのか、といっているのです。
  アランは「古い典籍に属する作品の場合、その真偽がどうであったかよりも、伝えられている話を真実であると受け取ったほうがいい」といっています。また彼は「問題はそれが真であるかどうかを知ることではなくして、むしろいかにそれが真であるかを知ることである」ともいっています。

 ということは、イソップという人物がいたのかどうか、作品がどのように変えられてしまって実体のないものになってしまったのか、プラヌデスがいかにでたらめを記述したのかどうかを詮索するよりも、文学を鑑賞する態度としては、作品とイソップという人物を信じ、げんに残されている作品を認めてかかった方がいいのではないか、ということです。
  「昔古代のギリシャにイソップという賢者がいた」「のちに彼が語った話が編集されて書物になった」「プラヌデスがイソップのプロフィルにせまり、伝記を書き残した」。これらをひとまず事実として受け止めた上で、私たちはこれを頼りに彼の作品を自分たちに引き寄せて読む、これでいいのではないかということですね。

 幸いなことに私たちは学者ではありません。書物の真偽や来歴にとらわれずに、目の前にある作品を通して考えればいいのです。アランは「私は何よりもまず、大作家に対する礼儀として、彼らをいつも是認する作法を覚えた」といっています。
  そこで私たちも賢者イソップを是認し、プラヌデスの伝記を是認するという方法で進みたいと思います。プラヌデスの生涯をラ・フォンテーヌの要約から、さらに要約してお伝えすると次のようになります。

 
 

市で二束三文で売られる
  イソップはプリギア地方のアモリウムというところに、第五七オリンピア紀のころ生まれました。プリギア地方というのは、現在のトルコ領北方で、トロイ戦争で有名な地方です。彼はやっと人間の姿をしているという程度の、恐ろしくみにくい男で、おまけにある時期までは口がきけませんでした。
  イソップははじめのうち畑仕事に使われていましたが、口がきけないながらも知性の片鱗を示していました。ある日旅人に親切にしてやったことがあって、旅人におおいに感謝されました。そんなことがきっかけでイソップは口がきけるようになりました。
  けれど彼が口がきけるようになったために、不正な上司にうとまれ、駄獣を買いに来た商人に売られることになりました。商人は「こんなやつを買えなんて、からかう気かね。革袋みたいなものじゃないか」などといいましたが、イソップは「私を買いなさい。子供をしつけるときに、私を利用しておどすことができるでしょうよ」といいました。商人は笑って彼を買い、「ありがたいことだ。たいしたのものは手に入らなかった。だから、たいして金もかからなかった」といいながらイソップを連れて行きました。

 彼の立場は奴隷でした。つまり雇われ人です。大昔のサラリーマンです。「おいおい、奴隷とサラリーマンを一緒にしてくれるな」といわれるかもしれません。けれどもモーリス・ドップはその著書「賃金論」の中で、最初の賃金は奴隷に対するもので、それは現物の食事の形として支払われた、と書いています。要するに奴隷=サラリーマンという図式です。
  奴隷には主人がいます。彼は主人に命じられたことをしなければなりません。彼は労役によって、つまり彼が生み出す生産価値、あるいは交換付加価値によって評価されました。こんにちのサラリーマンとのちがいは、彼らには自由に移動したり、職業を選択したりする権利がなかったということです。ですから私たちが2000年をかけてかちとってきたものとは、社会人としての自由だったのですね。
  ところでイソップは見かけがひどく悪く、口もきけなかったといいますから、人材としては劣等者とみなされてスタートしました。彼の潜在的な知性と屈折した劣等感が、言語障害に結びついていたのかもしれません。そして彼が仕事の上で自信を取り戻したときに言語障害が直ってしまったと解釈することにしましょう。
  彼は奴隷仲間である上司に憎まれて、いじめられました。そして売りに出されることになりました。彼はこれを因循姑息な職場を去るいいチャンスと考えました。

 さて、プラヌデスの物語に戻ります。イソップは同じ奴隷である文法学者と歌手と一緒にサモスの市で売りに出されることになりました。文法学者や歌手がどうして奴隷なのか、といわれるかもしれません。これは当時都市国家の間で始終戦争が行われ、戦勝国は敗戦国の国民を奴隷として調達したことによります。ですから一国の王妃や王女でさえも他国の奴隷となる可能性があったのです。
  兵士や、兵士になり得る男性は危険ですから、戦争のときにはたいてい殺されてしまいます。主として女性が奴隷として連れられてきます。そこで人畜無害な文法学者や歌手などは、女性並みに扱われたのかもしれません。彼らが初代の奴隷である可能性もありますが、二代目、三代目の奴隷ということもあり得ます。

 
 

野育ちの野菜はなぜ生き生きしているか
  イソップがしばらく定着することになるサモス島というのは、地中海のトルコ領よりの島の一つです。この島の対岸にミレトス、エペソスなど、この時代に大いに発展した都市があります。ピタゴラスもサモス島の人であったといわれています。この時代に活躍した有名な哲学者タレスは対岸のミレトスに住んでいました。サモス島はギリシャ文化圏の中で当時もっとも先進的な地域の一つだったと考えていいでしょう。
  さて、市場に売りに出されたイソップと二人の奴隷ですが、イソップをのぞく二人にはきれいな服が着せられました。しかしイソップには汚い袋がかぶせられました。これは残りの二人を引き立てるための販促作戦でした。彼は2人の奴隷に対する「おまけ」だったのです。

 クサントスというケチな哲学者がいました。彼はイソップを格安と思ったので、買って帰りました。クサントスには口うるさい奥さんがいました。奥さんはイソップの顔を見て、「こんな怪物を自分のところに連れてきたのは、あたしを追い出すためにちがいない。主人はずっと前から私をいやになっているのだわ」といいました。彼女は我慢がならないので、離婚するなどといい出しました。クサントスとイソップがしきりになだめてその場はなんとか収まりました。
  クサントスが価値ある人材を買った、と気づくようなできごとがありました。クサントスが野菜の栽培業者に、「野に生えている野菜のほうが栽培している野菜よりも生命力が旺盛なのはなぜでしょうか」とたずねられたことがあったのです。
  この当時の哲学者は自然科学者と人文科学者を兼ねたような、要するに物知り博士のことでしたから、クサントスはこの生物学的な質問に答えなければなりませんでした。彼は答えに窮して「それは神の摂理によるものだ」などといい出しました。イソップは主人の袖をひいて、こういいました。「こんな問題は私が答えるまでもない、うちの奴隷を残しておくから、やつに聞いてくれ、といいなさい」。

 主人が立ち去るとイソップは野菜の栽培業者に次のような説明をしました。「大地と植物の関係は母と子供のような関係にある。母は実の子を可愛がるが、継子には冷たい。栽培されている野菜は継子のようなもので、実母実子の関係にはかなわないのだ」。栽培業者はこれを聞いておおいに感心し、納得しました。そしてイソップに畠にあるもので好きなものを何でも持ってゆくようにといいました。
  これに近い話がイソップ物語の中に記されています。岩波文庫からご紹介します。
  「野菜に水をやっている庭師の傍に或る人が足をとどめて、彼に何故野菜のうち野育ちのものは活々としてしっかりしているが、家で培うものはひょろひょろして萎びているのかね、とそのわけを尋ねました。すると、その庭師は『土地は一方のものの母ですが、他方のものの継母ですからね。』と答えました。こういう風に、子供でも継母によって育てられる子供は、母をもっている子と同じようには育ちません」。
  ここでは、イソップがいったはずのことが、庭師が答えたようになっていますが、話の趣旨は同じものと考えていいでしょう。このようにイソップ物語は、自分がいったこと、見聞したことを含めて立体的に物語が構成されたのでしょう。

 当時の栽培技術がどの程度のものかは分かりませんが、今日的にいえば肥料をやりすぎたり、農薬をまきすぎたりした野菜と、外的に対して抵抗力のある有機野菜といった比較になるのでしょうか。
  アランはフローベルの小説「ブヴァールとペキュシュ」を例に取りながら、こういいました。「小麦畑には平べったい石がちらばっている。かのブヴァールとペキュシュは、大金をかけてこれらの石をとりのぞかせたのだが、だが、実は、この鉱物質のこやしが小麦の茎に力をあたえ、また、石は恐らく排水に役だっていたのである。二人はふんだんに肥料をやったわけだが、みのりはふやふやの茂った草になってしまい、取り入れた小麦ももちが悪かった」。
  家族のなかでも虐待と同じように過保護もまた問題児を作ります。イソップはこの点を指摘したわけですが、栽培業者としては「なるほど!」と腑に落ちるところがあったのでしょう。この場合恐らくイソップは、いい野菜を作りたいという栽培業者の知的関心の程度を知って、的確な答えを打ち込んだ、と解釈してみましょう。「神の摂理」を持ち出して何とかお茶を濁そうとした哲学者の主人とは大きな違いです。

 
 

自由の身をかち取る
  あるときクサントスはひどくよっぱらった勢いで、友達に「海を飲んで見せる」といい出しました。彼は賭けのしるしに自分がはめていた指輪を友達に渡しました。翌日になって彼は指輪をなくしたことを不審に思いました。けれどまもなく、自分が「海を飲む」という約束をしてしまったことを知って驚きました。
  約束の日がくると、サモスの人々は哲学者が恥じ入って降参する様子を見に海岸に集まってきました。クサントスは勝ち誇っている相手と集まっている人々に向かってこういいました。「諸君、私はたしかに海を飲み干して見せるといった。しかし海にそそぐ川の水まで飲むとはいわなかった。だから賭けの相手は川の流れを変えるべきだ。そうすれば私は約束を実行する」。これには賭けの相手もギャフンとなってしまいました。
  もちろんこの答えは、イソップが主人に対して行なったアドバイスによるものです。イソップは褒美として主人に「私を自由の身分にしてください」と願いました。当時「開放奴隷」という制度があり、実績や貢献度次第で奴隷も自由の身になることができたのです。しかしクサントスにしてみれば、イソップは自分の思いのままになる「秘蔵のブレーン」ですから、そうやすやす手ばなすわけがありません。イソップは何度も手柄を立てて主人に役立ちましたが、ますます重宝がられて拘束されたままでいました。

 サモス島に不思議な事件が起き、イソップの出番がやってきました。一羽のワシが、国家の印章をさらってそれをある奴隷の胸の上に落としたのです。サモスの人々は「いったいこれは何の前兆なのだろうか」といぶかしがりました。今から考えればどうということもない偶然にすぎませんが、昔の人にとってはこれは大きなナゾの事件でした。昔は「鳥占」が盛んでした。また中でもワシはゼウス神のシンボルとされていました。
  ホメロスの「オデッセイア」や「イリアス」においても、ワシの飛び方が吉凶を占う重要な決め手になっています。イソップ物語にも鳥占の話が出てきます。たとえば小さなカラスが気取って鳴いてみせ、旅人に「お告げ」を与えようとしますが、旅人が「なんだ、こんな小さなカラスが鳴いたって、どうってことないよ」などという話です。
  古代ギリシャでは占い師は鳥の飛び方やふるまいを見て、その意味を人々に解き明かす能力があるとされていました。こうしてサモス島の人々はこのナゾを解いてもらうために哲学者=賢者クサントスを招聘することになったのです。

 けれどもクサントスには、このナゾを解く力はありませんでした。けれど「占いは私の専門ではありません」などともいえなかったのですね。このときイソップはわが身を開放するための計略を考えました。そして主人に、自分が答えるから広場に連れ出して欲しいと頼みました。クサントスは渋りましたが、「成功すれば主人の名誉だし、失敗してもつまらぬ奴隷のいうことではありませんか」というので、イソップを連れ出しました。
  イソップが壇上に上がると、人々は笑いました。あまりにも容貌がみにくいので、こんな男の口から立派な答えが出てくるはずはないと思ったのです。イソップは「みなさん、壷の形にではなく、壷の中に入っているものに関心を持たねばなりません」と呼びかけました。すると人々は今度の事件をどう考えるかとイソップに問いただしました。
  ところがイソップはぐずぐずして答えようとしません。「私には勇気がありません」と彼はいいました。そして彼は「たまたま、主人と奴隷の間に名誉をかけた論争が起こったとします。奴隷はまずいことをいえばぶたれるでしょう。主人よりも立派なことをいえば、やはりぶたれるでしょう」といいました。

 サモス島の人々はイソップが奴隷の身であることに気づきました。そして、重要な情報をもたらそうとする彼の立場を保証するために、クサントスにイソップを奴隷の身分から開放するよう要求しました。クサントスは渋りましたが、サモス島の長官が口をききました。ここに晴れてイソップは自由の身となりました。
  上司と部下の関係は、ある意味では主人と奴隷の関係と同じです。部下の手柄は主人の手柄です。よくできた上司は部下の手柄を明確にしてくれますが、クサントス型の上司は才能ある部下のスタンドプレーを喜びません。
  クサントスはイソップの才能を横取りし、自分の手柄として誇示するタイプの上司だったようですね。そこでイソップ物語の中には、他人の美徳や才能を横取りしようとするものの話が数多く出現します。たとえば「烏と鳥たち」という物語は次のようになっています。

 ゼウスが、鳥たちの中からもっとも美しいものを王様にするために鳥の仲間を招集しました。カラスは自分が美しくないので、どうも具合が悪いと思いました。そこで他の鳥たちのきれいな羽を拾い集めて、のり付けにして身を飾り立てました。ゼウスがこの珍種の美しい鳥を王様にしようとすると、他の鳥たちが怒ってめいめい自分の羽をカラスから剥ぎ取りました。こうしてカラスはもとの姿に戻ってしまいました。
  この物語には次のような教訓がついています。「こういう風に、人間でも人にものを借りている人は、他人のものを持っている間は一かどのものと思われていますが、しかしそれを返してしまうと前身をさらけ出すものです」。
  この物語は、いかにもイソップがクサントスのことをあてつけて作ったような物語です。いずれにしても「こんな主人のもとで長く働いていてもどうしようもない」とイソップは考えたのでしょう。そこで機会をうまくとらえ、公衆の面前で、後戻りしない状況を作った上で自由の身をかちとったわけです。まあ、いずれにしてもイソップの才気は、クサントスが抑えておくことができるような程度のものではなかったようですね。

 
 

サモス島を代表してクロイソスの宮殿へ
  ところで、問題はワシの一件です。イソップはワシの事件を人々の前で次のように解釈しました。「サモス島の人々はいま隷属の危険におびやかされています。印章をさらったワシは、強大な権力を持つどこかの国王を意味しているのです」。
  果たせるかなその後まもなく、小アジアに強大な勢力を誇っていたリディアの国から、使者がやってきました。そしてサモス島の人に「貢ぎ物を出せ、さもなければ武力で強制する」といってきました。当時のリディアの王はクロイソスという人で、彼は世界史における著名人の1人です。
  私の手元に愛用の歴史年表があります。これを見るとクロイソスの治世が始まったのは紀元前560年のことですが、その同じ年にイソップが死んだことになっています。ところがプラヌデスの物語では、イソップがサモス島を代表してクロイソス王をたずねることになっています。
  まあ、このぐらいの誤差で驚くようではお互いにイソップの話はできません。私たちは歴史年表よりも、プラヌデスの物語の方を尊重して先に進むことにしましょう。

 イソップを見たクロイソス王は、彼があまりに貧相なのでびっくりしました。しかしイソップは持ち前の才気を発揮して寓話を紹介し、クロイソス王の心をとらえました。そして王のサモス島に対する野心を思いとどまらせることに成功しました。イソップは寓話のいくつかを書物に記し、これをクロイソス王に献呈したということです。
  恐らくイソップはクロイソス王の話し相手としても、重宝がられたのではないでしょうか。そしてプルタルコスが伝えているように、イソップとアテネの立法者ソロンがここで出会ったということになるのでしょう。

 クロイソス王はその後ペルシャと戦争をして敗北し、捕らえられました。彼はすんでのところで火あぶりに処せられるところでした。ところが、ちょっとしたことで彼の言動がペルシャのキュロス王の注意をひき、助命されました。その後キュロス王はクロイソスを親しい話し相手として、いうなれば国王付きのコンサルタントとして厚遇しました。キュロス王はクロイソスの知性に富んだ、含蓄のある助言をとても喜んだといわれます。
  私はこのことを思うと、クロイソス自身がその全盛期にイソップの話を聞いて楽しんだときの様子を思い浮かべます。クロイソスがイソップに対してやらせたような役割を、今度は自分がキュロス王のために演じたわけですね。

 
 

クイズ外交に手腕を発揮
  さて話は元に戻って、イソップは立派に平和使節の役目を果たしてサモス島に帰ってきましたが、その後彼は諸国漫遊の旅に出ました。彼はバビロンを訪れ、国王リケルスの厚遇を得ることになりました。当時国家間では互いに難しいクイズを出し合い、負けた方が他方に朝貢する、あるいは罰金を払うというゲームがはやっていました。リケルス王はイソップの助言でいつもクイズに勝つことができました。
  イソップはこの地で結婚をし、養子をもらいました。ところがこの養子がイソップのことを国王に告げ口しために、彼は死刑を宣告されました。しかし同情した役人の1人が、イソップを処刑したことにしてひそかにかくまってくれました。
  しばらくするとリケルス王は、イソップを失ったことをひどく後悔するはめになりました。エジプトの王ネクテナボがリケルス宛てに、「空中に楼閣を建てる建築師と、どんな問題にも答えられる者を送れ」という難問をぶつけてきたのです。王は国中の賢者を集めて協議しましたが、みな首をひねるばかりで、有効な解答を出すことができません。改めてイソップの必要性が認識されました。

 私はこのエピソードの中にも、時代を超えた不易の現象を見ます。会社の中でも本当に創造的で、本質的な問題解決ができる人物はほんの一握りしかいないのです。その人物が何らかの理由で会社を去ると、しばらくは慣性力で会社は動いていきますが、次第に沈滞し、生命力を失っていきます。
  会社の寿命30年といわれますが、それは会社の推進力、あるいは決め手になる固有技術、あるいはマネジメント力が、どんな集団でもごくわずかの個人の才能に依存している、ということなのです。その他大勢側の人間にとっては面白くないでしょうが、これは事実ですから仕方がありません。
  なお私の世界史年表によると、バビロンの国王、エジプトの国王の名としてリケルス、ネクテナボの名は残念ながら見当たりません。しかし私たちはいさいかまわず、プラヌデスにしたがって進むことにしましょう。

 例の役人は、困っている国王のためにかくまっていたイソップを連れてきました。イソップはさっそく課題解決に取組みました。彼は子ワシを手に入れさせ、これを仕込むことにしました。子ワシは小さな子供を入れた籠を持って空中でホバリングするように仕込まれました。
  イソップの一行がエジプトに到着すると、早速クイズに対する解答が示されました。子ワシは子供をのせて空中に舞い上がると、子供が空から「モルタルと、石と、材木を持ってこい」と叫びました。これにはエジプトの王様も降参してしまいました。
  この回答パターンは、以前にクサントスが「海を飲み干すから、川の流れをせき止めてくれ」といったときと同じものですね。相手が出す不可能な要求に対して、「それはできない」というのではなく、これを実行するために同じ不可能な条件を相手に要求する、これがイソップの解答法の一つでした。

 このあとイソップは、エジプト王とその側近の学者が出す数々の難問にみごと答え、ついにはエジプト王の賛嘆と尊敬をかち得ることができました。彼は沢山の土産物とリケルス王に対する友好的なメッセージを携えてバビロンに帰りました。喜んだリケルス王はイソップの功績をたたえ、彼の彫像を建てさせました。これはさしずめ「国民栄誉賞」というところでしょうかね。
  しかしイソップは旅に出ることにしました。やみがたい知的好奇心が、彼を旅にいざなったのです。彼はギリシャ本土にわたり、デルフィの地にやってきました。ここはアポロン神が祭られているところで、地中海地方最大の「神託センター」として知られていたところです。

 
 

デルフィ人に殺される
  ところが、デルフィの人達とイソップはあまり気が合いませんでした。イソップはデルフィ人に軽蔑されて気を悪くし、次の寓話を語ったといわれています。
  「旅人たちが或る海岸に沿って行くうち、或る見晴らしの利く処へ来ました。そして其処から薪が遠くに浮いているのを見て、大きな軍船だと思いました。それだから彼らは船が今にやって来て船がかりするものと思って待っていました。しかしその薪が風に運ばれていっそう近くに来た時に、彼らが眺めているものはもやは軍船ではなくて荷船だと思っていました。が、岸へ打ち上げられると、それが薪であるのを見て、お互いに『つまらない、われわれは何でもないものを徒らに待っていたものだ。』と語り合いました」。

 これは「天下の名所デルフィ」と聞いてあこがれてやってきたのに、遠くで想像するのと現実に見るのとは大ちがいだ、近くで見るとつまらない、けちな土地柄ではないか、というイソップの失望感を表明したものですね。この皮肉は高いものにつきました。
  デルフィ人はイソップが立ち去るときに、彼の荷物の中に神聖な壷を隠しました。そして追いかけてきて、この壷を証拠に彼を犯罪人にし、彼を死刑にすることにしました。彼は無罪を主張し、警告の寓話をいくつか話しましたが、デルフィ人は聞き入れませんでした。イソップは最後に小さなやしろに逃げ込みました。当時神殿は犯罪者たちの最後の避難所で、ここに入れば、どんな権力者にも手出しはできないとされていました。
  しかしデルフィ人はイソップをやしろから引きずり出しました。そこでイソップは「あなたがたが神殿の権威を踏みにじるなら、どうやって神殿の権威を主張できるのか」と抗弁しました。けれど抵抗もむなしく、イソップは高い崖の上から突き落とされ、殺されてしまったのです。

 このイソップが殺された話には、とりわけリアリティがあるように思われます。イソップはおそらくバビロンで手柄を立て、多少とも有名人になって、各地で講演をしたりしながら旅をしていたものと思われます。彼にも自らの能力に恃むところがあり、それなりに自負心も高まっていたに違いありません。
  ところがデルフィ人にはデルフィ人としてのプライドがありました。彼らはアポロン神に仕える巫女の集団を抱え、もっとも権威のある神託センターであることを自慢していました。じじつデルフィにはギリシャ各地からだけでなく、アフリカ、ペルシャ、小アジアなどの各地からも王侯貴族や金持が毎日のように訪れ、熱心に寄進をしては巫女の「お告げ」を受けていたのです。
  デルフィ人にとって、自分たちが真理を教える側であり、他人から教えてもらうには及ばないと思っていたのです。もっとも「お告げ」の能力を持っているのは巫女であって、土地の人々はただの人です。それが「神託センター」のおかげで経済的にも豊かになっていたためもあって、「自分たち」と「デルフィの権威」を一体化していたのでしょう。

 よくあることですが、人に敬われる社長の秘書が「虎の威を借りる狐」となって、お高くとまっているということがあります。会社のネームバリューと自分の能力を一緒にして、思い違いしている社員もいます。イソップはこのような「見かけ倒し」に対してはじつに辛辣でした。
  そこで彼はデルフィにやってくると、彼らの精神構造を見ぬいてしまったのです。そしてよせばいいのに、いろんな寓話で彼らをチクリチクリ刺したに違いありません。デルフィ人は、すっかり自尊心を傷つけられてしまいました。こうしてイソップは自分の発言の代償を命で支払うことになったのです。
  イソップに対するリンチが行われてからどのくらいたってからでしょうか、デルフィの町に原因不明の疫病が発生しました。こういうときには「神託」に頼るのが古代人の常套手段です。デルフィは神託センターですから、いわばお手のものですね。お伺いを立てると巫女は「イソップのたたりじゃ!」。

 これはデルフィの人々の「うしろめたさ」からでたものなのか、巫女がうまく人々の心理をついたものなのか、そこのところは分かりません。イソップの霊にはあらためて謝罪と供養が行なわれました。そしてイソップ殺害に対しては、デルフィ市から補償金が支払われることになりました。
  ここで、最初にご紹介したヘロドトスの「歴史」の中の記述に戻ってみましょう。
  「すなわちデルポイ人が神託に基きアイソポス殺害の補償金の受取人を求めて、幾度も触れを廻した時、出頭したのはこのイアドモンの孫で、同名のイアドモンただ独りで、他には誰も現われず、このイアドモンが補償金を受け取ったというわけで・・」。
  ということで、プラヌデスのイソップ伝はヘロドトスの歴史的な記述と合致していることがお分かりでしょう。
  私たちはイソップが奴隷として出発し、才知を働かせて開放され、寓話作者として、あるいは知恵者として活躍したことを知りました。また諸国を遍歴し、その冒険の途上で、彼の才気がもとで落命したことを知りました。脱サラを果たしたコンサルタントが、ひとまず一つ実績を上げたが、そののち業なかばにして倒れた、といったところでしょうか。

 
   
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