トップエッセイ音楽作品アラン経営関連リンク
 
イソップの落ち穂拾い
 
第3章 寓話って何?

仮構の中の事実
  イソップ物語には人間も登場しますが、キツネやオオカミなど動物たちが数多く登場します。これらの動物たちは、それぞれに固有の、典型的な性質を持っています。これについて、ラ・フォンテーヌはイソップに文句をつけました。
  「どうしてイソップはキツネにずる賢い動物という性質を与えてしまったのだろうか。オオカミだってよく見ればキツネと同じくらいの知能程度を発揮するかもしれないないのに」なんていっています。もちろんこれはラ・フォンテーヌの冗談ですが、お互いに問題がそんなところにないことはよく分かっています。
  アランは、イソップについて「すべてのおとぎ話と同じように、現実にはあり得べからざる仮構の上に、現実の、ありのままの姿を描いた」と指摘しています。

 考えるまでもなく、カラスやキツネが人間と同じように対等に口をきいたり、観念を披露しあったりするということはありません。ところが寓話やおとぎ話では、動物は擬人化され、種の違いを越えて話し合ったり、相互に行動したりします。
  「獅子と驢馬とが互いに組んで狩りに出かけました」とイソップは書きます。これは奇妙な組み合わせです。ライオンにとってはロバは餌食にするはずの動物であって、一緒に仕事をする相手ではありません。まあ、「一緒に狩りに行った獅子と驢馬」という作品をお読みください。
  「獅子と驢馬とが互いに組んで狩りに出かけました。彼らは野生の山羊どものはいっている或る洞穴にやってくると、獅子はその出口に立って出てくる奴を見張っていました。しかし驢馬は中にはいると、彼らを逃げ出させようと思って彼らの中を跳ねまわって嘶きました。獅子が大かた捕えた時に、驢馬は出てきて彼に、自分は勇ましく戦って山羊どもを駆り出したかどうかと尋ねました。と、獅子は『ええ、ほんとうに僕だってもし君が驢馬だということを知っていなかったら、君を恐れただろうよ。』と言いました。こういう風に、知った人々のところで法螺を吹くものは当然笑いを招きます」。

 このエピソードの中には不可解な点がいくつもあります。ライオンとロバは連合して狩りにいったとあります。「互いに組んで」ということは、連合が対等であることを強調しています。しかしヤギはロバの餌ではありません。ヤギはライオンの食物です。だとすれば、ロバには最初から共同作業のメリットはないわけです。
  次にライオンはヤギの洞穴の前で待っているのですが、ライオンが穴の中に入れないわけではありません。なにしろこの穴にはロバが入って行けるほど大きいのですからね。おそらくライオンにとっては、穴の入り口で待ち構えていた方が獲物を残らず捕えやすい、ということに違いありません。
  次にロバは穴の中でヤギを逃がそうとした、とあります。これはもしヤギを救おうとした、という意味なら、仲間であるライオンに対する裏切り行為になります。単に穴から追い出そうとしたということなら、ロバの役割は「勢子」ということになり、ライオンはロバの大きな声を買ってロバを起用したことになります。おそらく「逃がそうとして」というのは、「走らせようとして」という意味でしょうね。

 しばらくして、ロバは鼻息も荒く穴から出てくると、ライオンに向って「自分は勇敢に戦ったか」という間抜けな質問をします。ロバにとって「戦う」ということは、「相手をびっくりさせて走らせる」という程度の意味なので、これを聞いてライオンは思わずニガ笑いをし、皮肉をいうわけですね。
  ここでロバの目的が明らかになります。彼は自分が勇気があり、立派に戦える動物であることを立証し、これを権威者に認めてもらうことがねらいだったのです。ライオンはこうしたロバの気持ちを見抜いて、「互いに組んで狩りをしよう」と持ちかけたのですね。
  ここで寓話は、動物のある種の典型的な性質を用いてはいるけれども、別の性質はまったく無視して話を進めていることが分かります。イソップはここではロバの大声と愚鈍さを要素として用いています。しかしライオンとロバは基本的に連合できない、あるいはロバは肉食動物ではない、という性質を無視してかかっています。
  どんな性質を活用し、どんな性質を無視するかは、作品によって自由自在に変化します。たとえば、同じくライオンとロバが狩りをするもうひとつの話、「獅子と驢馬と狐」では次のようになります。

 

動物的リアリティと人間的リアリティの交錯
  「獅子と驢馬と狐が互いに組んで猟に出かけました。たくさんの獲物がありましたので、獅子は驢馬に命じて彼らのためにそれを分けさせました。驢馬はそれを同じように三つに分けて獅子にそのうちからお選びなさいと勧めましたので獅子は怒って、彼に跳びかかって食ってしまいました。それから狐に分けよと命じました。狐は皆を一つの方へ寄せ集め自分には少し残して彼にお取り下さいと勧めました。で、獅子は狐に誰がお前にこういう具合に分けるのを教えたかと尋ねましたので、狐は『驢馬の災難です。』と答えました。この話は、近所の人々の不幸を見て人は賢くなる、ということを明らかにしています」。
  ここでもロバの愚直さが強調され、これが彼の命取りになった、ということが示されていますね。前のエピソードではライオンはロバを皮肉った程度ですみましたが、ここではあっさり食われてしまっています。ここではロバはライオンの餌になるという性質が用いられています。

 ところでこの話にもナゾがあります。それはライオンが腕力を用いて好きなように獲物を分配することができるのに、まずロバに配分を命令し、次に狐に配分を命じているという点です。ライオンが子分に雑用を命じたと解釈することもできるかもしれませんが、それ以上に彼が業績に対する実力貢献度を、子分たちがどのように見積っているかを知ろうとしている、という趣きが見て取れます。
  それに共同作業の目的はこの配分の段階で終了しつつあります。ロバを勢子として使い、キツネを斥候として使い終わったいま、ライオンはチームを有利に解散する口実を探していた、といっていいでしょう。ところがロバはこの狩猟プロジェクトを、てっきり「共同事業だ」と思い込んでいますから「獲物を等分にする」という愚をやらかして、ライオンに怒りと攻撃の口実を与えてしまいます。

 この話で笑えるのは、ライオンがキツネに「誰がお前にこういう配分方法を教えたのだ?」と聞くところですね。これはライオンがキツネの配分結果に満足していることを示しています。これはライオンの、キツネに対する精いっぱいのほめ言葉です。
  キツネが小さくなって震えながら「それは・・ロ、ロバの災難です」と答えるところもいいじゃありませんか。彼はこのときに、共同する相手を間違えてはならないということ、もはや「共同事業」「対等連合」などという美しい言葉にだまされてはいけない、ということを実感していたのですね。

 もう一つこれに似たきびしい話があります。「獅子と驢馬」という作品です。
  「獅子と驢馬とが獣を狩りに出かけました。それは獅子は力が強く、驢馬は足が速いためでした。いくらかの動物を狩りとった時に、獅子はそれを三つの部分に分けて、それを並べて言いました。『一つの部分は、王様だから、第一人者として、第二の部分は同じような協同者としてわしが頂戴しよう。その第三の部分は、もし君が逃げ出そうとしないなら、お前に非常な不幸を齎すだろう。』これは、何事につけても自分を自分の力通りに測って自分より力のあるものと附き合ったり交わったりしないのは立派なことだ、ということなのです」。
  ここでも、ロバは性懲りもなくライオンに誘われて狩りに出かけていますね。この話ではロバとライオンの機能的な違いが先に説明され、しかるべき役割分担があったことが暗示されています。つまり、ロバもそれなりに多少は役に立ったわけです。
  ここではライオンが自分で獲物を3分割していますね。ここが面白いところです。なぜなら、ライオンが最初から獲物を1人占めするつもりなら、なにも3分割などという面倒なことをしなくてもいいからです。そこで次のような解釈が成り立ちます。ライオンは狩りがすんだ段階で、3分の1をロバにやるつもりでした。いくらロバでも、多少の貢献はあったからです。

 けれども獲物を分割しているうちに、ライオンは獲物をやるのが惜しくなってしまいました。「なにもこんな奴に分けてやる必要はないんだ」「重要な仕事はみんなオレがやったんじゃないか」「考えてみれば、おれはロバを食っちまうこともできるんだ」。こうして獲物を分けおわったとき、ライオンの胆はきまりました。ライオンの共同事業者としてのせめてもの情けは、ロバにいきなり飛びかかることをせずに逃がしてやったことです。
  ここでもロバが肉食動物でないことが無視され、ロバの人の良さとライオンの強さというリアリティだけが採用されていますね。

 寓話の大きな特長は、登場する動物のある側面には生物学的な、あるいは動物学的なリアリティがあり、ある側面にはまったくない、ということです。ところが動物学的リアリティの欠落を埋めているのは人間的リアリティ、あるいは社会的リアリティです。
  アランは「一瞬、一瞬、仮構がありのままの姿を示す。一瞬、一瞬、事物の必然性がありのままの姿を示す」といいました。つまりアランが「事物の必然性」と呼んでいるのは「動物学的なリアリティ」です。「仮構」といっているのは「人間的リアリティ」です。寓話はこの二つの要素の組み合わせによって成り立っているのです。
  ですから、ここで今度は人間的リアリティ、という側面に注意しながらロバとライオンの物語を読み直してみましょう。最初の物語はロバとライオンが一緒に出かけていって洞穴の中のヤギを駆り出す物語です。

 
 

明るみに出る力の論理
  いうまでもなくロバはだまされやすいお人好しを象徴しています。ライオンは実力者をさしています。実力者はお人好しに「共同事業をしよう」ともちかけます。共同事業などといっていますが、その成果はロバにとっては意味のないものです。
  けれどもロバは、日頃他人からバカにされている自分が、恐れている実力者に声をかけられたということがうれしくてなりません。そこで「僕は何をしたらいいんでしょうか」といいます。実力者は「君は声が大きい、ひとつ店先に立ってお客を呼び込んだり、来客を誘導する仕事をしてもらおう」とか、「宣伝係として腕をふるってもらおうじゃないか」などといいます。具体的な担当部局を与えられてロバはますます喜びます。
  彼は自分の損得など忘れて仕事に打ち込み、息せき切ってボスのところへやってきます。「僕の働きを見ていただけましたか」。するとライオンは心の中で苦笑しながら、「いやあ、よくやってくれた、君がうちの社員だと知らなかったら、私までつられて商品を買うところだったよ」などといいます。ところがライオンは、ロバ程度の人材なら、安い賃金でいくらでも調達できることを知っているのです。

 これが人間的リアリティに重点を置いた寓話の読み方です。同じくロバとライオンとキツネの話をどう読むことができるでしょうか。私はこれを実力の異なる3人の創業者による事業にたとえたいと思います。
  仲のいい友達同志が誘いあって事業を開始する、というのはよくあることです。創業期には誰もが同じように苦労をしますが、活動を続け、事業規模が拡大するにつれて次第に経営能力、仕事の執行能力に格差があらわれてくるのはやむを得ません。
  たとえばそのうちの1人は、利益に対する貢献度がいちじるしく低いとします。ところが本人はそのことに気づきません。あるいは気づいているにしても、「対等に出資しあって事業をはじめたのだから、対等に報酬を受ける権利がある」などと思っています。

 ある日、仲間割れが始まります。ライオンに相当する筆頭実力者は、対等を主張するロバ的な友達に「もう、おれたちは一緒にやってゆくことはできない」といい渡します。ロバ的な友人は株式を処理し、すごすごと会社を立ち去ることになります。このありさまを第3の、キツネ的な友達が見ています。
  キツネ的な友人はライオンの友人に向っていいます。「もはや君の実力は明らかだ。今後は私を友達としてではなく、部下として処遇してくれ。君が余分に給料を取っても私は少しも文句をいうつもりはない」。まあ、これほどはっきりいわないまでも、キツネ的な友人は何らかの態度や行動によって右記の考えを表現することになります。
  友達同志が語らって対等関係で会社を作る、というのはよく見られることですが、最後まで何年にもわたって対等の地位が維持される、などということはありません。事業の発展がいちじるしければ、それだけ仲間同士の確執がはげしくなり、スピンアウト、または権力の序列づけが明確になります。

 これまたよく見られることですが、成功した会社で、創業時のメンバーが年功序列的に役員など高い地位を占めていることがあります。ところが彼がその地位を保持できているのは、単に創業時に社長と一緒に苦労したことがある、というただそれだけの理由によるものなのです。
  すでに時代は変わり、彼の能力も忠誠心も現在の事業推進にとって役に立たなくなっているにもかかわらず、彼はその席に座り続け、ヘタをすると会社発展の障害要因となり続けています。これはひとえに、ライオンがロバやキツネを憐れんでいる状態にほかなりません。イソップは、このような人間関係をすでに寓話の中で喝破しているのです。

 
 

怠惰なライオンも事実
  「烏は狐に耳を傾ける。烏はチーズをくわえている。ここに間違いはない」とアランはいいます。これは外的事実としての、あるいは動物学的に見た場合の記述です。カラスが木にとまっていることはあり得ることです。「狐に耳を傾ける」というのは、やや人間的な表現です。けれども今日的にこれを表現するなら、カラスが道路にいる猫を見ていたり、吠える犬の方に首をかしげているということはあり得ます。
  またアランは「烏は大きなくちばしを開き、チーズは落ちる。ここにも間違いはない」といっています。カラスが道路のごみ袋をつつき、中からいろんなものを取り出しています。先日も私は1羽のカラスが大きな発泡スチロールの弁当箱をくわえて飛び立ち、さすがにこれを取り落としたのを目撃しました。
  彼らはくわえたものをめったに取り落としませんが、それでも何かの拍子に取り落とすことはあり得るわけです。めったに落とさず、しかも落とすこともある、この事実が「烏と狐」の寓話の生地を作っていることを忘れてはなりません。

 私たちが取り上げたライオンとロバに関していえば、動物学的な事実の記述は、その動物が持っている典型的な特性の範囲に限られています。すなわちロバはいななき、足音が大きく、ライオンはヤギを狩り出してとらえるということです。
  それにしてもどうしてライオンがロバと共同して狩りをすることになるのか、私は不思議でなりませんでした。ところがある日、野生のライオンの生態を紹介したテレビ番組を見ていて思い当たるところがありました。ライオンはたしかに瞬発力にすぐれ、破壊力もすごいのですが、長距離を走ることは苦手なのですね。
  ライオンはつとめて労力を惜しんでいるように見えます。つまり、彼らはなかなか勘定高く、費やされるエネルギーと獲物との関係において、無駄のない行動をしようとしているように見えます。狩りの成果は行動に対する一種の歩留まりとして規定されますので、ムダな動きをしているとエネルギーの消費量の方が多くなってしまうのです。見方によってはライオンは怠け者であるようにも見えます。
  おそらく紀元前の人々もライオンのこうした行動特性を見逃さなかったのです。その観察がライオンがお人好しのロバを手先に使う、という寓話の組み立てにつながったものと思われます。

 イソップ物語の中には、年をとって狩りに出かけられないライオンが、病気見舞いに来る他の動物たちを、穴の中で待ち伏せして食うという話が出てきます。これなどもライオンが行動を節約するという動物的な特性に対する観察結果であるように思われます。
  このように、寓話の一つの側面は外的事実によってしっかり組み立てられていますが、もう一つの側面は先ほどご紹介したような人間的な事実を暗示しています。どちらが重要なメッセージであるかといえば、もちろん人間的な事実の側面です。そして人間的な事実の側面は、一般論として提起されているというよりも、その場の個別のケースに対する一つの解釈、評論として提起されている、と考えた方が適切でしょう。

 
 

喧嘩すべき相手かどうか考える
  たとえば「兎たちと狐たち」という作品では次のような短いエピソードが語られます。
  「兎たちが或るとき鷲たちと戦争をしていましたが、狐たちに同盟者になってくれるように頼みました。と、彼らは言いました。『もし諸君が誰であるか、また誰と戦っているかをわれわれが知らなかったならば、諸君をお援けしましょうけれどね。』この話は、より優れたものとの争いを好むものは、その身の安全を蔑ろにするものだ、ということを明らかにしています」。
  この物語では、お分かりのようにウサギは弱者をあらわし、ワシは強者をあらわしています。弱者が強者と争っているわけです。ウサギがワシに楯突いているところを見ると、おそらくウサギにも、それなりのいいぶんがあったのでしょう。そしてこの場合のキツネはウサギに同盟し、加勢を頼まれている中間的な集団を意味しています。
  他の動物ではなく、キツネというキャラクターが選ばれていることは、キツネのウサギに対する回答ぶりで良く分かりますね。彼はこの戦いはウサギに勝ち目がないと見ており、同盟は自分たちにとって不利であると踏んでいるわけです。

 この物語は、おそらくイソップが見聞した都市国家間の争いを評論したものではないでしょうか。ペロポネソス戦争のてんまつを記録したツキジデスの「戦史」などを読むと、当時の地中海地方では、都市国家間の争いが絶えなかったことが分かります。そこでポリス間の合従連衡が日常茶飯事的に行われていました。
  プラヌデスの伝記にも描かれているように、強大な軍事力を持つ国やポリスは、小さなポリスを自分の属国や植民地にしようとしたり、難題を吹きかけては朝貢を要求したりしました。
  そこで小さなポリスが強いポリスにいじめられて、あわてて近隣の国に応援を要請する、ということもあったものと思われます。そこで応援を要請された国では、自国の安全と利害という観点から同盟関係を検討することになります。この「兎たちと狐たち」というエピソードは、実際の事件を象徴的にいいあらわしている可能性があります。
  もしかしたら、こんな事件が起こったのかもしれません。職場でいじめ、または不正が行なわれ、使用人=奴隷が主人に反抗しようとしました。しかし自分たちだけではかなわないので、仲間に応援と同盟を頼みました。しかし頼まれた方は、その反抗には勝ち目がないと知って、これを断ったという具合です。

 イソップがこの話を作ったとき、彼がキツネの側にいたのか、単なる傍観者だったのか、それとも第三者的なアドバイザーの立場にいたのか、これを想像してみるのも楽しいことです。
  もしもこれが国家間の事件を取り扱ったものだとしたら、イソップはテレビのキャスターや新聞の論説員のように、この寓話で事件のポイントを要領よく説明したことになります。もしもこれが職場の事件だとしたら、イソップは当事者から相談を受けて、これに寓話で答えた、などというのがいかにもありそうなことです。たとえば血気にはやった若者たちがやってきて彼に相談します。「イソップさん、私たちはもう我慢がなりません。うちの社長はあまりにも横暴なんです。これから更に別のグループに呼びかけてストライキをやるつもりです。どう思いますか」。
  そこでイソップは「まあ、私の話を聞いてから、落ち着いて考えてごらんよ」といって、この「兎たちと狐たち」の寓話を聞かせます。若者たちは話を聞いているうちに、一時の興奮もさめて、自分の立場にあきらめと得心を得て帰ってゆく、こんなことがあったかも知れませんね。

 
 

品の良さは急には身につかない
  また「ゼウスと狐」という話は次のようになっています。
  「ゼウスは狐がもの分かりがよくて如才ないのをお愛しになって、彼女に考えのない獣たちの王の位をお授けになりました。ゼウスは運命が変ってその貪欲な心もまた変ったかどうかを知ろうと思われて、彼女が轎で通っている時に、甲虫を彼女の眼のそばにお放しになりました。と、彼女は甲虫が轎のまわりを飛んでいるものだから、我慢ができず飛び出して、身だしなみも忘れそれを捕えようとしました。ゼウスは彼女に腹を立てられて、再びもとの位にお貶しになりました。この話は、つまらぬ人間どもは、たとい前より華やかな装いをこらしても、少なくともその本性は変えるものではない、ということを明らかにしています」。
  この寓話では、狐は商才に長けた人間を象徴していると考えていいでしょう。この人間は仕事がとんとん拍子にいって金持になりました。現代流にいうなら、彼はベンチャービジネスで成功して大きな会社の社長になり、所得も資産も増えた、ということですね。

 こうなると彼は「名士」です。そこであちこちのパーティに出かけたり、セレモニーなどでは特別席に座ったりするようになります。上品な、教養ある人々との接触も増えてきます。ところが彼は急に高いところに上りましたので、「身だしなみ」「品のよさ」「教養」という側面が追いついていません。
  それにまた彼はビジネス一辺倒でやってきましたので、ビジネス以外のことには興味がありません。まったく別の会話が行われているところに割り込んでいって、「その話は金もうけにつながりますかな」などとやってしまいます。これが「身だしなみを忘れて甲虫を追いかけた」ということですね。

 一般的にいって日本の成金的な人士が、海外ではあまり高く評価されていないことはご存知の通りです。分かりもしないのに高価な名画を買いあさったり、不動産を買いまくったり、売春ツアーをやったり、・・これらの行為はいずれもカネは持ってはいるが、教養という面では下品だということを示しています。
  イソップ物語を知っている人にしてみれば、もしかしたら日本という国そのものが、「経済の才覚によって王の位についたキツネ」という風に見えるかもしれません。これは恥ずかしいことですね。ここではキツネは女性になっていますが、これは「身だしなみを忘れて」という部分を強調する上で効果がありますね。
  イソップ物語には、人間の若者に恋をしたネコが、美しい女性の姿に変えてもらって若者と結婚するエピソードがあります。ところが彼女は初夜のベッドの中で、床をはいまわっているネズミを発見します。彼女はわれを忘れてネズミを追いかけてしまいます。これなども、「ゼウスと狐」と同じコンセプトの作品と考えていいでしょう。

 
 

間接化機能と防御機能
  いずれにしても寓話には、現実の人間関係に対する批判があり、教訓があります。ではこれらの人間関係に対する批判や教訓をイソップはなぜ寓話という手段で表現したのでしょうか。もしもいいたいことがあるなら、それをはっきり、直接にいえばいいではありませんか。
  たとえば「力量の違う相手と共同事業をしてはならない」とか、「勝ち目のない相手に対抗してはならない」とか、「品性を向上させなければ、金持になっても見苦しいだけだ」といえば用は足りるはずです。わざわざロバやライオンなどを登場させるには及ばないように見えます。
  しかし寓話はちゃんとそれなりの機能を持っているのですね。それは第一に、「間接化機能」「婉曲化機能」という機能です。イソップは奴隷でしたから、主人に直接批判がましいことをいうことはできませんでした。

 かりに主人が口先のうまい商人におだてられ、だまされて、つまらないものに大金を払おうとしているようなとき、「そんなものを買うのは、およしなさい」といえば、イソップは主人に命令したことになってしまいます。そのようなとき、イソップが「烏と狐」の話をしたとします。キツネがカラスをおだてて、肉片をかすめとる話です。
  すると主人は、自分がしていることを第三者的に見直すことによって、「なるほど、これはまずい」と思うかもしれません。もっとも寓話の暗示を理解しないままに、突っ走ってしまうかもしれません。そのときには仕方がありません。
  あるいは自分があてつけられたことを知って、主人はひどく怒るかもしれません。するとイソップは「いえ、ご主人のことをいったわけではありません。私が申し上げているのは、あくまでもキツネとカラスの話でございますよ」ということができます。

 つまりここで寓話の第二の機能が明らかになります。すなわち、批判対象を特定しないことによる「防御機能」です。これによって寓話が含んでいる毒を隠し、相手の切っ先をかわすことができるのです。
  イソップが「ご主人のことではありません」と逃げたときに、主人が「いいや、お前はおれをあてつけていったのだ。お前の考えでは、おれはカラスなのだ」といい張ったとしたらどうでしょうか。それでは、かえって自分で自分を滑稽にしてしまいますね。だから寓話で皮肉られたときには、当事者は下手に反論できなくなってしまうのです。

 この意味で寓話は弱者の話法であり、奴隷の話法です。あからさまにものがいえない立場の人間が、それなりにいいたいことをいう手段、それも高度に知的な手段なのです。寓話の毒は、相手が本気になって怒れば怒るほど相手の体内にまわります。なにしろ表面上はカラスとキツネのことなのですから、ムキになるほうが大人げない、ということになってしまいます。
  「一瞬、一瞬、仮構がありのままの姿を示す。一瞬、一瞬、事物の必然性がありのままの姿を示す」とアランがいっているのはこのことです。カラスとキツネと見えたものは、お客とセールスマンの関係でした。ところがそうだと思ってみると、そこにいるのはキツネとカラスです。一瞬の間に位相が変わり、世界が変わります。「こん畜生」と思っても、つかまえたのがキツネとカラスの物語では拍子抜けしてしまいます。

 
 

図式化機能と敷延機能
  寓話の第3の機能は「図式化機能」によるエピソードの単純化であり、原理の明確化、そして印象の強化です。キツネは狡猾な人物の象徴です。ロバは愚鈍な人物の象徴です。ライオンは強者の象徴です。狡猾なものが愚鈍なものをだまし、強者が弱者を食う、これほど明快な構図はありません。そして話の中に登場する主人公は多様多彩ではありますが、いずれも身近なところに見られ、誰でもが知っている動物や人物です。
  2600年前にイソップによって選ばれたエピソードの主人公は、こんにちでもごくありふれた動物や昆虫ばかりです。オオカミやライオンなどはさすがにテレビや動物園でしか見られませんが、これらについては現代の子供たちだってよく知っていますよね。
  つまり、誰にでもよく知られ、そのキャラクターが一つの典型を持っているような主人公たちが寓話の中で活躍するのです。このことは主人公のキャラクターが、話し手と聞き手の間の共通の約束事になっているということを意味します。このような約束事を「象徴」といっていいでしょう。イソップ物語においては、話の本質を表現するのにもっとも都合のいい、象徴としての動物や昆虫や人間が選ばれます。

 たとえばウサギは「俊足」を象徴し、カメは「遅足」を象徴しています。その遅足のカメが油断しているウサギを追い越す、という図式は誰にでも分かりやすく、イメージが鮮明です。そして一度聞いたら忘れられなくなります。これがイソップ物語が2600年をへて、まだ脈々として生き続けている理由の一つでもあります。
  「ウサギとカメ」ときいただけでも、いかにも俊敏そうなウサギと、のろのろしたカメの姿が目に浮かび、ついで原っぱが見え、向こうに小高く盛り上がった丘が見え、ウサギが一休みすることになる涼しい木陰が見えるような気がするではありませんか。これが典型的なキャラクターにもとづく象徴と図式化機能の効果であり、イメージ喚起の効果です。
  ところで寓話の持つ第四の機能、これに私は「敷延機能」という名を与えたいと思います。ウサギは俊足をあらわし、カメは遅足をあらわします。この能力を拡大解釈すると俊足は、優秀性を、遅足は平凡以下の能力をあらわすことになります。またさらに、ウサギが俊足であることを「もって生まれた素質のよさ」と解釈することもできます。

 このように「ウサギは足が速い」ということをどこまで拡大解釈して受け取るかによって、物語の内容にふくらみと奥行きがでてきます。これを足の速い、遅いだけに限定してしまっては、教訓の幅が狭くなります。
  これを「たとえ素質がよくても、怠けていてはだめだ」というダイレクトな教訓にしてしまうと、話が抽象的になり、印象が希薄になります。なぜなら、たとえ優秀でも怠惰であってはならぬ、ということは誰でも知っていることだからです。ところが「ウサギとカメ」の形にしておくと、寓話の読み手の程度によって、どこまでも自由に敷延し、応用できます。
  はじめは「ああ、そうか」という程度の認識が、しばらくすると「ああ、そういうことだったのか」に変わり、「まったく、その通りだ」という具合に変わります。寓話の真意や意味が深い次元で分かるようになるということは、その人の人生経験が豊かになり、精神活動がより高度になる、ということを意味します。いわゆる格言や寓話のエネルギーの秘密はここにあります。

 キリストも聖書の中でたくさんの寓話を用いて話をしています。「種をまく人のたとえ」とか「放蕩息子のたとえ」「ともし火のたとえ」など有名なものがたくさんありますね。弟子が先生はどうしてたとえを用いて話されるのですか、と聞くと、キリストは「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々にはすべてがたとえで示される。それは『彼らが見るには見るが、認めず、聞くには聞くが、理解できず、こうして、立ち帰って赦されることがない』ようになるためである(マルコによる福音書)」といっています。
  これではキリストがまるで聞き手を混乱させるために寓話を語っているようにみえますが、実際には、寓話の真意を聞き分ける人を選別している、といった方がいいかもしれませんね。ここには、寓話のもつ「間接化機能」「防御機能」「図式化機能」「敷延機能」がすべて含まれているように思われます。
  寓話が敷延可能だということは、「間接化機能」、あるいは「防御機能」によって、必然的に寓話がひとつの「ナゾ」になるということです。聞き手はこのナゾを解かなければなりません。自分でなぞを解くことができると、そのとたん理解が深まるのです。

 
   
←第2章へ 目次へ 第4章へ→
 
 
Copyright (C) 2006 Kunihiro Kato All Rights Reserved.