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イソップの落ち穂拾い
 
第5章 イソップ物語は何をいおうとしているか

物語をコンセプト別に分類する
  イソップ物語は、独立した、短い物語の集積体です。ですから、この中には矛盾したコンセプトを持つ話がいくつも含まれています。たとえばオオカミにねらわれたロバが、オオカミを引き寄せて油断させておいて、思いっきり蹴飛ばし、うまく逃げるという話があります。これは弱者でも頭を使えば危険を脱出できる、という教訓を示しています。
  ところがこれに対して、カワセミが人間に襲われるのを避けて断崖に巣を作ったのに、高波が押し寄せて巣をさらっていった、という話が紹介されています。これはどんなに工夫して対策をとっても万全でない場合がある、ということを意味しており、先ほどのオオカミを撃退したロバの話とは反対です。
  「知恵によって危機を乗り越えることができる」というコンセプトと、「いずれにしても運命を変えることはできない」というコンセプトは相反します。よく読んでみると、イソップ物語には、このように矛盾した話が混在しているのです。

 「沢山の写本ができる過程で、雑多な物語がつけ加わったからだろう」というご意見があるかもしれません。けれど私は、イソップ自身がその時々に応じて物語を作った結果、一見矛盾するようなコンセプトを持つ寓話を複数書いたのだと思います。またそれが人間社会の真実を写しているのだとも思えます。
  では、イソップ物語は互いに関係のない物語の雑多な寄せ集めか、というと、かならずしもそうとはいえないようです。全体を通して読んでみると、たしかに底辺を貫いている思想があり、メッセージがあるように思えます。そこで統計的な読み方とは別に、「イソップはいったい何がいいたかったのだろうか」を考えることにしました。
  これを知るために、私は岩波文庫の358編のエピソードごとの教訓を、それぞれ別々のカードに書き出して、自分なりに整理してみようと思いました。これを私は「カードワーク技法」と呼んでいます。私は仕事で定性情報を集約するとき、よくこのカードワークを用います。

 ところがはたと困りました。それは一つの物語の中に含まれている教訓は、かならずしも一つとはいえないからです。たとえば、先ほどのロバがオオカミを蹴飛ばした話は、ロバの視点で考えると「弱者でも知恵があれば危機を切り抜けられる」という教訓と受け取れます。けれどオオカミの立場に身を置いてみると、「弱者とあなどって油断すると、ひどい目にあう」という教訓になります。
  主人公のどちらの立場を取るかによって教訓の内容が変わります。またさらに別の視点を取れば、もっと違った解釈や教訓を引き出すことができるかもしれません。しかし、やたらと教訓のバージョンを広げていくと全体を整理することが難しくなってしまいます。

 そこで私は358編のイソップ物語の教訓をカードワークで整理するにさいして、次のような原則を立てることにしました。
1.原典の末尾に示されている教訓をひとまず尊重すること。
2.物語の真意を素直に解釈して、最初に得られる教訓を優先的に採用すること。
3.第一登場人物の視点からの教訓を尊重すること。
4.その教訓が現代社会に当てはまるかどうかは、とりあえず問題にしない。
  物語の末尾に示されている教訓について「ひとまず」と考えたのは、話の内容と文章末尾の教訓が、かならずしもぴったり合っていないように思える作品がいくつかあるからです。たとえば「隣り同士の蛙たち」と題する次のような作品があります。

 

教訓の真意を素直につかむ
  「隣り同士の二匹の蛙がありました。一匹は深くて道から遠い沼で暮らし、一匹は道の上の小さな水溜りで暮らしていました。ところで沼に住んでいる蛙は他の蛙に自分のところへ引っ越してくるように、そうすればもっと善い、もっと安全な暮らしができると勧めてみましたが、彼は住み慣れたところから離れるのは、どうも心づらいと言って従いませんでした。そしてとうとうそこを通りすぎる車に圧しつぶされるようなことになりました。こういう風に、人間においても下らぬ仕事で日を過ごしている者は、もっと立派な仕事に向かわぬうちに滅びるものです」。
  私の考えでは、前記のカエルのエピソードは、カエルたちのすまいの環境の違いをいっているのであって、「沼」と「道の上」を、立派な仕事と下らぬ仕事と考えることには少々無理があるように思えます。
  それにまたこの物語では、道の上に住んでいるカエルは最初から移住する気がありません。ところが教訓の中にある「もっと立派な仕事に向かわぬうちに・・」という文章は、文脈上、「しようしようと思っているうちに日が過ぎて・・」というようにも受け取れます。
  このような作品については、私は文末の教訓を棄てて、自分なりの教訓を採用することにしました。たとえばこの作品の場合は、「なじんでしまうと、劣悪な環境からでもなかなか出られなくなる」という風に解釈することにしました。

 次に困ったのは、イソップ物語のエピソードには、末尾に教訓が明確に示されていない作品がいくつもあるのです。たとえば「去勢された男と祭司」という物語は次のようになっています。
  「或る去勢された男が祭司のもとへ赴いて、子供の父となれるように、生贄を自分のために捧げて下さいと頼みました。と、祭司は『生贄の方を見る時には、私はあなたが子供の父になれるようにと祈りますが、しかしあなたの姿を見る時には男とさえあなたは見えません。』と言いました」。
  この話には教訓的なメッセージがどこにもついていません。このような物語については、私はごく素直に解釈して「無理なものはしょせん無理」、という教訓が含まれているものと解釈しました。

 イソップ物語の中には、現代の価値観では納得できない作品も含まれています。たとえば「ヘルメスと職人たち」という作品は次の通りです。
  「ゼウスがヘルメスに、職人には一人残らず嘘の薬を注ぎかけよとお命じになりました。彼はその薬を擦ってちょうどいい加減にこしらえて、同じずつめいめいのものに注ぎかけてゆきました。しかし、後、大工一人になった時、薬は沢山残っていましたので、その薬を全部とって彼に注ぎかけました。こういうわけで職人たちは皆、しかし皆のうちでもとりわけ大工は嘘をつくようになりました。この話は嘘をつく人には適切なものです」。
  この物語がいいたいことは何でしょうか。ちなみに、この文章の末尾に示されている「この話は嘘をつく人には適切なものです」という文章は、教訓とはいえませんね。

 
 

現代の価値観を適用しない
  このようなタイプの話は一種の縁起談です。具体的な事件や対話の記録ではありません。ゼウスは、ギリシャ神話中最高の権能を持つ父神です。ヘルメスはゼウスを主神とするオリュンポスの12神の一人で、商業と泥棒の守り神です。ヘルメス神はたくみな嘘でアポロン神さえもだましたことがあります。昔の人々は商人と泥棒との間に関連があると思っていたようです。
  ここから素直に読み取れるもっとも素直な解釈は、「職人はみなうそつきだ」「とりわけ大工はうそつきだ」というものですね。現代社会でこんなことをいったら、とんでもない名誉毀損になってしまいますが、大昔の物語、ということでご容赦願うことにします。ここで「現代社会に当てはまるかどうかはとりあえず問題にしない」、という方針を採用したわけです。
  おそらく昔は職人たちが仕事を請負っても、工程管理、品質管理の技術が幼稚であるために、なかなかお客さんの期待に応えられなかったのでしょう。引き渡しの期限になっても仕事が出来上がらず、お客さんに「すぐにできます」「もうすぐです」などといっていたのではないでしょうか。おそらく大工の仕事は請負う範囲が広く、納期も不確定になりがちなので、とくに槍玉にあがっているのでしょう。

 これによく似た話として「ヘルメスの車とアラビア人」というのがあります。これもはやりヘルメス神が登場します。ヘルメス神が嘘やかたりをいっぱい積んだ車を駆って世界中に少しずつばらまいていましたが、アラビアに来たとき、この車がこわれてしまいました。
  アラビア人が寄ってたかって車の積み荷を持っていってしまいました。いらいアラビア人は世界中でいちばん嘘つきになったというのです。これなど、アラブの人々にとってはずいぶん失礼な話ですよね。けれどこれも現代の価値観では判断しないことにします。
  この話は当時のギリシャ人たちがアラブの人々と接触があったこと、習慣や物の考え方の上で両者の間に相当なギャップがあったことを示していますね。哲学命題として有名な「クレタ人はうそつきだ」などという一句も、クレタ島が商業の中心で、ビジネスマンが多かったことと関係しているのではないでしょうか。

 同じく「ゼウスと人間たち」という作品では、ゼウスがやはりヘルメスに命じて人間たちに知恵の薬を注ぎかけてゆきます。薬は定量的に作ってありますので、体の小さい人間は薬で満たされますが、大男には薬が全身にゆきわたりません。そこでとかく大男には今日でも知恵が不足している、というのです。いわゆる「大男、総身に知恵が回りかね」というやつです。
  これも体格のいい人には、ずいぶん失礼な話です。日本人も最近はどんどん身長が伸びて体格がよくなっているのですから、これに反比例して知恵が不足している、なんていうことになっては困ります。こうした教訓は、そのまま受け入れることはできないのですが、「その教訓が現代社会に当てはまるかどうかは、とりあえず問題にしない」ということにしました。

 
 

似ているもの同士を集合
  このほかにも作品によっては解釈がひどく難しい作品がいくつかありますが、そのようなものは私の独断と偏見で処理することにしました。以上のように私は358編の作品の一つ一つに対応する教訓を358枚のカードに書き出しました。そして「内容的に似ている」と思うものを分類してみました。するとかなり似ているカードがたくさんあることが分かりました。
  たとえば、「人殺し」という作品は、人殺しをした人間が追われて逃げまわり、最後にはナイル河のワニに食われてしまうというという話で、「悪人はどうやっても逃げられない」ということを教訓としています。

 「鷲と狐」という作品では、ワシとキツネが同盟しますが、ワシはキツネを裏切ってその子供を食べてしまいます。あるときワシが火のついたままの供物を巣に持ち帰ったために、巣から自分のひなを落としてしまいますが、下にいたキツネがこれを食ってしまいます。ここでの教訓は「裏切り者は罰せられる」というものです。
  これに似た話としては「人間と狐」「牡山羊と葡萄の木」「獅子と狼と狐」「羊飼と狼の仔ども」などがあります。これらの教訓は、それぞれ「残酷なことをすると報いがくる」「無法な加害者はいつかは罰せられる」「人をおとしめようとすれば報いを受ける」「悪だくみは成就しない」などで、いずれも似ています。
  これらの話は共通して「悪には報いがある」、あるいは「悪はいつかは罰せられる」「因果応報」という共通因子を持っているように思えます。私はこのような共通因子を持つグループをひとくくりにし、とりあえず「悪には報いがある」というタイトルをつけることにしました。
  私の分類によると、「悪には報いがある」というグループの中には、イソップ物語の中の11話が属することになります。

 別の似ている話として、「本性違わず(ゼウスと狐)」「悪意のあるものを助けるには及ばない(庭師と犬)」「自分に害をなすものを助けることはない(怪我をした狼と羊)」「小さくても悪いものは悪い(蚤と人間)」「悪いものを助けて殺されても文句はいえない(雌鶏と燕)」・・などがあります。
  そこでこのような、ほぼ同じコンセプトを持つ十話を集合して、「悪いものはどこまでいっても悪い」という共通のタイトルのもとにくくることにします。
  このようにして、私はイソップ物語の358話を全部、似ているもの同志に近づけてグループ分けをしてみました。中にはどうしてもどのグループにも属さないものがありますが、これはそのまま単独カードとして取り扱うことにしました。するとこの単独カードを含めて、類似の共通因子を持つ小グループが80個できあがりました。
  私はさらにこの八十のグループのタイトル同志の共通性を目安に、次のレベルのグループ分けをしてみました。

 たとえば先ほどの「悪には報いがある」という共通因子を持つ小グループは、他の小グループ「悪者はどこまでいっても悪い」「悪は汚染する」「この世には悪が横行している」「人間のいるところには不正がある」などに似ています。つまり、これらはいずれも「悪」という点で共通しています。
  もちろんよく考えれば、「悪には報いがある」というのと、「悪者はどこまでいっても悪い」というタイトルの言葉上の意味は違います。「悪には報いがある」というのは、「悪いことはできないものだ」ということですからね。これに対して「悪者はどこまでいっても悪い」というのは、悪者ははびこり、悪が横行しているということですからね。
  そこではじめに私は、これらをくくって「悪には報いがあるが、なくならない」という大グループのタイトルを作ることにしました。けれど「悪には報いがあるが」は、言外の意味として伝わりますので、これをさらに短縮して「悪はなくならない」としました。

 もう一つ別のグループの例をあげてみます。「駄法螺吹き」という作品では、ある五種競技の選手が自分の町ではどうしてもいい記録を出せないので、旅に出たというエピソードが紹介されています。
  彼はしばらくして自分の町に帰ってくると、方々の都市の競技に参加して、すばらしい成績を収めた、と自慢しました。そしてロドス島ではオリンピックの選手を打ち負かした、と自慢しました。すると町の人が「ここがロドス島だと思って実際にとんでみたまえ」といったので、彼はギャフンとなってしまったというものです。
  これは「自慢に値するのは目に見える実績だけだ」という教訓を持った話です。そしてこの話は、私の分類では「嘘はそもそも通用しない」という小グループの中に、他の十六の話とともに含まれることになります。知的実力者であるイソップは、大言壮語や嘘をよほど嫌っていたらしく、「嘘は通用しない」というコンセプトを持つ作品がとても多いことに気づきます。

 さて、「嘘は通用しない」という小グループは、「人をだますことは難しい」「仲間に嘘をつくことは許されない」「生来の嘘つきがいる」「真意を確認しなければならない」「嘘つきは信じてもらえない」などの小グループと共通性を持っているように思われます。これらの小グループはいずれも「嘘」という点で共通性を持っています。
  意味的に考えれば、「嘘は通用しない」ということ、「生来の嘘つきがいる」ということは一見矛盾しますが、嘘つきが横行するからこそ嘘の道義性が問題になるわけで、これは事実の表裏を指摘しているように思えます。そこでこれらのグループをまとめる大グループのタイトルとして、「残念ながら嘘が横行している」というまとめをすることにしました。さらに、これを簡潔にして「嘘が横行している」としました。

 ここでお断りしておかなければなりませんが、このような共通因子の見つけかたや、タイトルづけの操作は、人によって当然異なります。百人の人がカードワークをやれば、百人とも違う結果になるでしょう。ですから、ここでやっている「似たもの同志」の分類は、あくまで私なりの独断と偏見の産物であることをご承知ください。私の概念把握や分類が気に入らない人は、ご自分でやってごらんになることをおすすめします。

 
 

358話を15グループに整理
  さて、80の「小グループ」をもとにした中グループづくりを私なりに行なってみると、「大グループ」は15個に集約されます。その「大グループ」のタイトルを列挙すると以下の通りです。なおタイトルの後ろにある数字はこのグループに含まれる物語の数です。
1.世の中は不条理だ。29
2.人間は自分本位なものだ。32
3.価値は相対的なものだ。33
4.悪はなくならない。30
5.嘘が横行している。40
6.実力以上を望むのは間違っている。41
7.過ぎたるは及ばざるがごとし。15
8.自分が自分の不幸の原因である。23
9.無名は気楽。5
10.いいリーダーを選ばなければならない。7
11.弱者にもある程度の勇気が必要だ。7
12.知恵の有無が生死を分ける。41
13.実利と合理性を大切にしよう。32
14.勤勉が基礎だ。10
15.穏和で誠実であれ。13

 ちなみに最初の「世の中は不条理だ」というタイトルをつけた大グループの中味をご紹介すると、「運命は変えられない」「無理が通れば道理引っ込む」「正義は社会共通の貨幣ではない」「持てるもののみが失う」「宮仕えに苦労は絶えない」「恩を仇で返す」「所詮は無常」「人間は完全でない」、というタイトルを持つ8つの小グループが含まれています。
  一例として「運命は変えられない」という小グループの中味をご紹介すると、先にご説明したカワセミのエピソードを含めて、以下の7話が含まれています。
1.カワセミは安全な所に巣を作ったつもりだったが、巣は波にさらわれた。「翡翠」
2.小鳥が飼い主から逃げ出したが、足の紐が枝に引っかかって死んだ。「逃げ出した烏」
3.ライオンに殺されると予言された子供を親は室内で育てていたが、子供がライオンの絵をなぐったので、トゲが刺さって死んだ。「子供と描かれた獅子」
4.カラスに殺されるだろうと予言された子供が、カラスのくちばしの形をした錠前に当たって 死んだ。「子供と烏」
5.嵐から助かった人々が祝っているのを見て、船長が最後まで運命は分からないと警告した。 「航海をする人々」
6.放っておかれたサルの子は育ったが、可愛がられた子は死んでしまった。「猿の子供たち」
7.燕は安全と思って裁判所に巣を作ったが、不当にも蛇に巣を襲われた。「燕と大蛇」
  以上は、私が「運命は変えられない」という、共通のコンセプトを持っていると判断した作品群です。

同じように、「無理が通れば道理引っ込む」という小グループの中味をご紹介すると次のようになります。
1.イタチはオンドリの弁明は聞いたが、食ってしまった。「鼬鼠と雄鶏」
2.カラスは自分を憎んでいるアテナ神に犠牲を捧げるのをためらわなかった。「子烏と犬」
3.ライオンがロバとキツネと一緒に狩りをし、獲物をほとんど独占した。「獅子と驢馬と狐」
4.オオカミは子羊の弁明が正当だったにもかかわらず食ってしまった。「狼と子羊」
5.馬子は崖に落ちそうになったロバを助けようとしたが、ロバが暴れるので手を放した。「驢馬と馬子」
6.金属の壷と土壷が川を流れていた。二つが触れれば土壷は壊れることになる。「壷たち」
  分類の結果を全部をご説明するわけにはいきませんので、大グループ、小グループの関係のご紹介はこの程度にしておきます。
  いずれにしても、私が「世の中は不条理だ」という共通コンセプトでくくった作品は、どれもペシミスティックなもので、奴隷の身分で苦労したイソップのホンネが表現されているように思えます。

 
 

逃げた友人は薄情なのか
  2番目の大グループ、「人間は自分本位なものだ」という共通コンセプトの中味も、なかなかきびしい教訓を持つ作品の集合体です。ここではグループ全体を代表するような作品を一つだけあげてイソップの真意をご説明することにしましょう。みなさんよくご存知の「旅人たちと熊」を読んでみましょう。
  「二人の友人が同じ道を歩いていました。すると突然熊が彼らの前に現れましたので、一方の方は急いで或る木にのぼって、そこに隠れていましたが、他の一人は、掴まりそうになりましたから、地面に倒れて死んだふりをしていました。熊は彼に鼻を近づけて嗅ぎまわりましたので、彼は我慢して息をはかずにいました。というのはその動物は屍体には触れないということですから。しかし熊が立ち去ると、木から下りてきた男は彼に、熊が耳もとに何を言ったかと尋ねました。と、彼はいいました。『今後、危険の際に傍にいてくれないような友人と一緒に旅をするなって。』この話の明らかにしているのは、友人たちを災難が試して本当の友人を示してくれる、ということなのです」。

 これはとても良くできた作品です。地面に倒れた友人は自分だけ木に登った友人に対して、みごとな寓話を語っているのですね。これは直接話法で「君は友達甲斐のないやつだな」と非難するよりも、ずっと相手の胸にこたえるはずですね。
  ところで、私はこの話を読むといつも「木に登った友人と倒れた友人が入れ替わっていたら、どうしたろうか」と思います。危急のときに友達甲斐がないといって相手を非難した友人も、おそらく、しっかり木につかまって息を殺し、熊が匂いを嗅いでから立ち去るのを見ていたのではないでしょうか。
  つまり立場が違えば、自分も同じような行動をとった可能性があるのです。あながち木に登った友人を非難できないということになりますね。一方が木に登り、一方が地面に倒れる、という動作は熟慮された行動ではなくて、瞬間的な反射運動だったに違いありません。気づいてみると一方は地面に倒れ、一方は木の上にいたのです。

 だとすると、木の上の友人が他方を助けるためには、木の上から大声を出すなどして熊の注意を引かなければなりません。その間に地上の友人が立ちあがって逃げるわけですが、これはリスキーな作戦といわなければなりません。一方が死んだ真似をしていたのは正解であり、木の上で息を殺していたのも正解だったということになります。困っている友人を助けるにもいろいろなやり方があるということです。
  この寓話が意味するものは深刻です。なにしろ地上の友人が「助けてくれなかった」といって相手を責めているそのマインドも、かなり自己本位的なものなのですからね。
  私はここから「非常時には本当の友人がわかる」という教訓を引き出し、さらに他のカードと合わせて、「非常時には他人はあてにならない」、という小グループに入れることにしました。これが「人間は自己本位なものだ」という大タイトルの中に入るわけです。

 
 

蚊に降参したライオン
  第3の大グループは「価値は相対的なものだ」というものです。この大グループの代表作品をひとつご紹介しましょう。「蚊と獅子」という作品です。
  「蚊が獅子のところへやって来て言いました。『僕は君を恐れないし、また君は僕よりも強くはない。そうでないというのなら、君の力は何かね。爪でひっかいたり歯で咬んだりすることだというのかね。そんなことなら女だって男と喧嘩するときにはやるよ。僕は遥かに君より強いんだ。お望みなら、戦争だってやるよ。』そして蚊は喇叭を吹きならし、彼は鼻のまわりの毛のない面を咬みながら、攻撃を始めました。獅子はというと、自分の爪で自分をかきむしって、とうとうやめてくれと頼みました。蚊は獅子を打ち負かして、喇叭を吹き、凱歌を奏して飛んでいました。そして蜘蛛の巣にひっかかって食われながら、一番強いものと戦ったのに、けちな動物の蜘蛛なぞに亡ぼされるのは、どうしたことかと、痛く嘆き悲しみました」。

 奴隷の身であったイソップは、権力者と弱者との関係をクールな目で見ていたものと思われます。そして、ある側面では優位に立っているようにみえるものが、他の側面ではもろかったり、不得意があったり、状況が変わると立場も変わる、という現実を見ました。そこから多くを学んだのではないかと思います。
  この物語は、最初に弱者であるはずの蚊の方から、強者であるライオンに戦いをしかけているところが面白いですね。おそらくライオンは蚊のことなど、気にもとめなかったでしょう。ところが蚊の方では、一方的にライオンに敵意を燃やし、功名心に焦っています。
  これはチンピラなどが強さで定評のある相手を倒して、自分の名を上げようとする、あの欲望を表現しています。あるいは相手の弱みを握って、これをネタにゆすりをしようなどという連中の心理にも通じるものがあります。この連中が不用意な相手の弱点を攻めて、相手が辟易すると「勝った、勝った」などと喜ぶわけです。

 この蚊は、たとえば人質をとってたてこもり、人質を材料に交渉しようとする犯罪者やゲリラの立場にも似ています。本質的に相手にダメージを与えるわけではないのですが、局所的に有利な材料を握って、局所的な勝利を収めるわけです。ここには、たとえ弱いものでも、相手の弱点を知れば有利に渡りあえる、という相対性の原理が示されています。
  この話の中でさらに面白いのは、ライオンの攻撃パターンが人間の女性の攻撃パターンにたとえられていることですね。蚊としては、ライオンを人間の女にたとえて、彼を挑発しているわけですが、二六〇〇年も昔から男女関係に変わりがないこと、女性の攻撃パターンが変化していないということを知るのも愉快ですね。
  さて、蚊はライオンをやっつけて引き上げますが、「喇叭を吹き、凱歌を奏して」というところがいいじゃありませんか。勝ちにおごった弱者の意気揚々たる心理と同時に、当時の兵士たちの戦闘や凱旋の習慣をも想像させますね。ところがこの蚊は不運にも蜘蛛の巣につかまってしまいます。彼は嘆き、愚痴をこぼしながら食われていきます。

 この物語は全体を通して、「強さ、弱さは相対的な関係であり、絶対的な強さなどというものはない」ということを示しています。このほかにも、これによく似た話として「獅子とプロメテウスと象=誰にでも苦手がある」「蚤と牛=サイズが違えば得意不得意がちがう」「庭の雄鶏と鷲=強いものにも上がある」・・などがあります。これらは総じて「ものごとの尺度は相対的なものだ」という小グループを形成することになります。
  この小グループはさらに「あちらを立てればこちらが立たず」「劣等者を見れば慰められる」「被害も程度次第」「状況によって立場も変わる」「ものもいいよう、考えよう」「馴れれば辛さも我慢できる」・・などの小グループと一緒に「価値は相対的なものだ」という大グループを形成することになります。

 イソップは奴隷でしたから、主人には頭が上がりませんでした。しかし知恵を活用する段になると、主人に対してだんぜん優位に立つことができました。ところがイソップの頓智も主人の奥さんのヒステリーには通じませんでした。
  そして周囲を良く見ると、「これが絶対」などというものは何もなく、こちらで「良し」とされることがこちらでは「だめ」、今日いいことが明日はだめ、というように、関係の変化とともに力も価値観も揺れ動くということがわかるわけですね。イソップはこうした社会の現実をいくつもの寓話に託したのです。

 
 

イソップからのメッセージ
  さて、このように大グループの中味のご説明を続けていても仕方がないので、ここで、「イソップは結局何をいいたかったのか」ということについて、おおづかみな結論を出したいと思います。私の考えでは、それは、以上カードワークの操作を行なって抽出してきた「大グループ」の十五のタイトルをつないで文章化してみると良く分かるように思われます。
  イソップいわく。「『世の中は不条理だ』。生まれてみたら、奴隷と市民が分けられているというのもおかしなことだし、かならずしも正義が通用するわけでもない。それにまた『人間は自分本位なものだ』。他人のことなど考えられないのだ。それに、この世には絶対ということはないらしい。『価値は相対的なもの』であり、物の尺度は力関係や状況の関係で決まっている」。

 「また『悪はなくならない』し、『嘘が横行している』のは困ったことだ。そもそも世の中の人々が『実力以上を望むのは間違っている』ということに気づいていないらしい。また『過ぎたるは及ばざるがごとし』ということも心得ていないようだ」。
  「それにしても人間は外部の圧力によってだけ不幸になるわけではない。不幸な連中を見ていると、『自分が自分の不幸の原因である』ことが多い。自分自身の情念にふりまわされてはならない」。
  「こうして見ると、つくづく『無名は気楽』ではないか。それにいいリーダーが指導者でいてくれれば、弱者も安心できるというものだ。だからこそ、『いいリーダーを選ばなければならない』のだ。とはいっても『弱者にもある程度の勇気が必要だ』。そうでなければ、強者にやられっぱなしになってしまう。結局この世を生きのびてゆくためには、知恵が大切だ。『知恵の有無が生死を分ける』のだ。『実利と合理性を大切にしよう』。それに『勤勉が基礎だ』。幸福になれるかどうかは、自分の心がけしだいだ。『穏和で誠実であれ』、これがわたしの結論だ」。

 いかがでしょうか。このようにしてみると、イソップが358編の物語を通していいたかったことを、何となく理解できるような気がするではありませんか。
  もちろんご紹介したような読み方は、私の読み方です。同じ15の大タイトルを用いても、これらをどのように並べて説明するかで、結論は変わってきます。たとえば「穏和で誠実であれ」しかし・・というように話を始め、最後にそれでも「世の中は不条理だ」というように、しめくくることもできます。
  15のタイトルの組み合わせは、全部で15×15、すなわち225通りあります。無理に組み合わせれば同じタイトルを使っても、225通りの読み方、解釈ができるわけです。私がここで行なった操作は、イソップ物語の解釈から始めて、タイトルの作り方、その並べ方にいたるまで、まったく恣意的なものです。なんども申し上げますが、私のやり方がお気に召さない方は、ご自分なりのやり方をやってごらんになったらよろしいと思います。
  しかしどのような読み方をするにしても、およそ次のようなことを結論できるのではないかと思います。すなわち、イソップが社会の弱者であったこと、すぐれた現実主義者であり、合理主義者であったこと、社会の矛盾や圧力に対して、明確な批判精神を持っていたこと、そして弱者ながらも精いっぱい知恵を働かせて、まっとうに生きのびようとしていたことです。

 
   
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