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イソップの落ち穂拾い
 
第6章 他人の美徳を羽織ることはできない

ライオンの皮=肩書の図式
  イソップは社会的な弱者ではありましたが、知的実力を持った人材でした。そして彼のように教養もあり、表現力のある人間からみると、実力もないくせに威張ったり、いかにも実力があるようなふりをしている人物は鼻持ちならないものでした。
  アランは「将軍は兵卒を見抜けないが、兵卒は将軍を見抜くことができる」といっています。これは地位の高い方からは下のことがよくわからないが、下の方からは上の人間をたっぷり観察することができ、その本質、実力を測定できる、ということですね。イソップも身分的に最下層であったからこそ、えらそうにしている人物を皮肉をこめて観察できたのです。
  この観察結果が、イソップ物語の中の、かなりの割合いを占める「嘘が横行している」「実力以上を望むのは間違っている」、というコンセプトの作品群となっています。たとえば、「獅子だと思われた驢馬」という物語のエピソードは次のようになっています。

 「獅子の毛皮を着た驢馬が皆に獅子だと思われていました。そして、人々も逃げるし、獣どもも逃げたものです。しかし風が吹いてきて、毛皮が剥ぎ取られ驢馬が裸になったときに、皆が襲いかかって木切れだの棒だので驢馬を叩きました」。
  ロバがライオンの毛皮を着て人をおどす話はもう一つあります。「獅子の皮を着た驢馬と狐」という作品です。ここでは次のようなエピソードが語られています。
  「驢馬が獅子の皮を着て考えのない動物を怖がらせながら歩き回っていました。ところで狐を見ると、そ奴も驚かしてやろうとしました。しかし狐は驢馬に向って言いました(というのは狐は驢馬が声を出すのを予め聞いていたからです)。『いや、請け合って俺も、もしお前が嘶くのを聞かなかったら、お前を恐れたろうがね』」。

 ここにご紹介した第一のエピソードについている教訓は、「もし貧しい一市民であれば、人に笑われたり、危険な目に遭ったりしないために、金持を真似るなということなのです」というものです。これに対して二番目のエピソードには、「こういう風に、教養のない人々のうちには見てくれが立派なためにひとかどの者だと思われているが、自分のおしゃべりでぼろを出す人があるものです」という教訓がついています。
  私たちも「虎の威を借りる狐」とか、「馬脚をあらわす」などということわざで、実力にふさわしくないもの、あるいは見せかけの権威を批判します。私はこの分かりやすい二つのエピソードに共通している「ライオンの皮」を、現代ビジネス社会における「肩書」、と理解してみたいと思います。

 私たちの社会はひどい肩書社会です。たとえばどこかの結婚式に行ってごらんになればすぐに分かりますが、上席を占めているのは、大会社の立派な肩書を持った人物です。わが国のビジネス社会においては、「出世する」とは「肩書をもらう」ことです。だから会社は肩書をエサにして社員をモチベートしているわけです。
  中堅企業の社長は「あの男も、うちの会社にずいぶん長いこといるからな、実力はないが、せめて課長ぐらいにしてやらないと可哀相だな」などといいます。近所のおばさんは、「お隣りのご主人はもう五十近くにもなるのに、まだ課長にもなれないのよ」などといいます。肩書が世の中でどのように考えられているかがわかります。

 そもそも組織における肩書とは何でしょうか。それは担当ポジションの呼び名ではないでしょうか。そうだとすれば、それはその会社の「機能」を表現するものであって、かならずしも社会的なステータスを表現するものではありません。会社の規模によっても、会社の特性によってもそのポジションに与える担当職務は違っているはずです。
  組織の中ではステータスが仕事をするのではなく、人間が情報を受け取り、判断し、決断し、情報を発信し、命令するという機能を果たすのです。
  ところがステータスとしての肩書が一人歩きし、尊重されるようになると、肩書と機能上の実力の不一致が生じます。機能としてのポジションが定められるのではなく、名誉や報奨としての肩書が望まれたり、与えられたりするようになるからです。さらに職能給制度のように、肩書と賃金との関係が固定化されると、不合理の上に不合理が重なることになります。

 「部長」「課長」などと名前はついていても、自分では何一つ判断も決断もできず、つまらないことでもトップの指示を仰がなければ一歩も先に進めないような部長や課長が、それこそ掃いて棄てるほどたくさんいるではありませんか。そして「会議」が開かれると、これらの役職者はたいてい貝のように押し黙ったままでいるのです。それもそのはず、彼らには、発言すべき意見など持ちあわせがないからです。
  こうした連中に限って、部下に「部長」「課長」などといわれると、いい気になり、さも自分が偉くなったかのように錯覚し、ふんぞり返っているものです。これはイソップが描いた驢馬の姿とどこも変わりません。
  こうしてみると、「驢馬が獅子の皮を着て考えのない動物を怖がらせながら歩き回っていました」という一句は、なかなか辛辣なものです。「考えのない動物たち」とは、肩書だけで相手を判断する人々のことです。よく見れば、相手の実力の程度や思考のレベルが分かるのに、機械的に「部長=偉い人」などと判断する人がいるのです。

 そこで「部長」「課長」などという肩書をかぶったロバたちが、これらの肩書に簡単に恐れ入るような連中のところへいって、のっしのっしと歩いてみせ、えらそうに何かいってみたりするわけです。ところがこれらの立派な獅子の皮をかぶったサラリーマンも、これを脱がなければならないときがきます。それは「定年」です。
  もしその人に魅力があり、価値あるなら、たとえライオンの毛皮のマントを脱いでも、彼は関係者にそれなりに尊重され、慕われ、多くの友人を持ったままでいられるでしょう。けれどもマントを脱いだとたんに、誰にも相手にされなくなる人がいるのではありませんか。イソップは、このような人物について容赦なくこういいました。
  「しかし風が吹いてきて、毛皮が剥ぎ取られ驢馬が裸になったときに、皆が襲いかかって木切れだの棒だので驢馬を叩きました」。肩書を失い、仕事を離れたときに感じる「まだ働きたいのに職がない」「孤独」「失意」などという要件は、イソップがいう「棒や木切れで叩かれる」に相当します。私たちは、ゆめゆめ肩書というマジックに引っかからないように注意しなければなりません。

 

実力を錯覚したロバ
  イソップにしてみれば、実力がないのに「自分には実力がある」と考えている連中ほど滑稽なものはありませんでした。「驢馬と雄鶏と獅子」という話は次のようなものです。
  「雄鶏が或るとき驢馬と一緒に草を食べていました。と、獅子が驢馬を襲いましたので、雄鶏が啼きました。そうすると、獅子は逃げ出しました(というのは、獅子は雄鶏の声を恐れるということですから)。しかし驢馬は自分のせいで逃げ出したものと思って、直ぐに獅子を追って駆けてゆきました。もう雄鶏の声が届かないほど遠くまで追っかけていった時、獅子は向きかえって驢馬を食べてしまいました。しかし驢馬は死んで行く時『私は不幸で考えなしだ。兵士を親として生まれたのでもないのに、何のために戦争へなんか俺は出掛けたのだ。』と叫びました。この物語が明らかにしているのは、人間のうちには故意に卑下する敵たちを攻撃し、かくて彼らに滅ぼされる人が多い、ということです」。

 イソップ物語には、ライオンがオンドリの鳴声を恐れるという話が何度か出てきます。本当にそうなのかどうか分かりませんが、強いものにも生理的なニガ手がある、というふうに理解しておきましょう。ここではライオンが襲撃を中断して逃げ出したのを見て、ロバはライオンが自分を恐れて逃げたというふうに解釈します。
  笑っちゃう話ですが、これが、現実にはけっこうよく見られる誤解なのです。たとえばセールスマンが販売に出かけます。たまたまうまく売れると、彼は「オレって、なんて商売がうまいんだろう」という具合に自分をほめ、自信を深めます。ところが実際には偶然の要素が重なっていたり、上司による見えない支援があったり、会社の看板や過去の実績があり、かならずしもそのセールスマンの腕前だけでないことも少なくありません。
  もっとも現実の世界では、こうした誤解が好ましい成功体験となって、そのセールスマンに実力がついてゆく、ということもあります。ところがこの偶然の成功体験で慢心したり、仕事を甘く見るようなことがあると、状況が変わったとき、たちまち化けの皮がはげてしまいます。

 バブル時代の経営者はみなこの錯覚に陥りました。「オレって金もうけがうまいな。もしかしたら経営の天才じゃないだろうか」。そこで彼はどんどん借入を増やし、不動産を買いあさりました。一般の人々でもこの錯覚に取りつかれた人がいます。資金もないのに借金をしてマンションを買ったり、株を買った人など、ライオンを追いかけて走っていったロバとどこも変わらないではありませんか。
  さて物語の中のライオンですが、彼はオンドリの声が嫌いなので逃げていきます。ところが始めのうちは反射的に逃げていたのが、そのうち「あれ、オレは何で逃げているんだっけ?」と気づきます。すると、ライオンには自分を追ってくるロバの足音だけが聞こえるわけですね。ライオンはいいます。「おいおい、オレはロバに追われて逃げているのかい?」。
  そこでライオンが立ち止まり、向き直ってロバの顔を見直した瞬間を思い浮かべてください。ロバにしてもなかば反射的に追いかけてきていますので、自分がライオンをどのようにしとめるつもりなのか、少しもイメージはないのです。ロバはライオンに向き直られて、はじめて自分が何をしているのか気づきます。

 私はここに慣習的に出来上がっている強者と弱者の関係、実際にはほとんど意味がないのに、固定化しつつある二者の上下関係を見ます。たとえば、家庭の中でご主人がいばりちらし、習慣的に奥さんがこれに従っているなどということがあります。もちろんこの逆もあります。ところがそのような強弱関係には、真の力の裏づけはないのです。
  形の上では亭主関白であっても、奥さんがサービスしなければ三日と生きていけない男性がいます。反対にご亭主に対して女王のように君臨しているけれど、夫の収入がなければ生きていけないという妻もいます。人道的な見地からやっと首がつながっているのに、大いばりで社員としての権利を振り回すサラリーマンもいます。わがままな人物の勢力など、たいてい力の裏づけのない、習慣的なものにすぎません。
  ところが、ライオンが向き直るように実際の力関係が明るみに出ると、自分の実力を思い違いしていた連中は目をぱちくりさせることになります。しかし彼がそれを悟ったときには、もうライオンに食われているわけです。

 この物語のロバは、食われながら「兵士を親として生まれたわけでもないのに・・」といっていますが、これは当時の奴隷が戦争にかりだされることがあったということを示していますね。アテネやスパルタなど、当時の国制を見ると、古代ギリシャの都市国家の市民には、基本的に兵役の義務があったことが分かります。
  正当な男子市民は兵士として訓練を受けます。これに対して奴隷は雑兵として用いられたのでしょう。そして中には雑兵らしくもなく、あえて兵士の真似をして手柄を立てようとして命を失う奴隷もいたのでしょう。こうした観察が、イソップの「兵士を親として生まれたわけでもないのに・・」というロバの後悔の言葉につながったものと思われます。
  ここには、「人間のうちには故意に卑下する敵たちを攻撃し、かくて彼らに滅ぼされる人が多い」という教訓がついていますが、ライオンが逃げのポーズを取って敵をおびき寄せ、ロバが調子に乗ったのでやられた、という意味になっています。けれどこの教訓は、かならずしも話の真意を伝えているように思われません。なぜなら、ライオンが逃げ出したのは、本当にオンドリの声に驚いたわけですからね。

 
 

オオカミ効果の本質
  さて、イソップ物語の中でもっとも有名な「嘘つき」の話は、「オオカミが来るぞ!」と叫んで人々を驚かせた羊飼いの話でしょう。この話はこんにちでも、「オオカミ少年」「オオカミ効果」などという表現で、日常的に用いられる概念になっています。原文を読んでみましょう。題は「悪戯をする羊飼」となっています。
  「羊飼が彼の羊の群れを或る村からずっと遠くへ追って行くとき、このような悪戯をいつもやったものです。つまり、大声で助けを村人たちに求めて、狼どもが羊たちを襲ったと言ったのです。二度三度村の人たちは驚いて飛び出して来て、その後で笑われて立ち去ったものですが、とうとう本当に狼たちがやって来るようなことになりました。狼どもは羊たちを引き裂き、羊飼は助けを求めて村の人たちを呼びましたが、村の人たちはまたいつものように彼が悪戯をしているのだと考えて、あまり気にかけませんでした。こうして彼は羊の群れを失うことになりました。この話は、嘘吐きの得るところは、本当のことを言う時でも信ぜられないということである、ということを明らかにしています」。

 このエピソードの真意はごく単純、明快です。末尾の教訓にもはっきり示されているように、いつも嘘をついていると、本当のことをいっても信じられない、ということです。けれど私たちはもう少し物語の中に分け入って寓話のメッセージを考えてみたいと思います。
  この羊飼はどうして「オオカミが来たぞ!」、といって村人をびっくりさせようとしたのでしょうか。もちろん「単なる悪戯だ」「驚かせて他人の反応を見るのが面白いからだ」、ということでしょうね。「もしかしたらこの羊飼は欲求不満で、はけ口が欲しかったのだ」などという、うがった見方もできるかもしれません。
  「はじめはオオカミが来たと錯覚して村人を呼んだところ、反響が大きく面白かったので、病みつきになってしまったのだ」、という解釈も成り立つと思います。私はどちらかというとこの見解を支持します。しかしここで私は、羊飼が「人々を動員することはいいことで、そのためには、大勢の人をびっくりさせなければならない」、というマーケティングの原則のすぐ近くにいたのだと解釈します。

 どんなイベントにしても、ショッピングセンターにしても、あるいは小さな町の売り出しでさえも、地域の人々を同じ場所に動員することができなければ失敗です。大勢の人々が集まるところには、情報が集まり、人間のエネルギーが集中し、経済が活性化します。人々が同じ所に集まるということ、それ自体が人間活動が活性化するしるしであり、原則としていいことなのです。
  そこで企画者は人々を動員するために、次々と人をびっくりさせることを考えます。映画やテレビなど、それに数々のテーマパークなど、多くの人々を相手にする仕事では、恒常的に人々をびっくりさせることが事業成功の条件となります。人々はいつも「びっくり」を待ち望んでいるといっていいでしょう。 
  多くの会社が次々と「新製品」を出します。あれも人々の「びっくり」への期待に応えようとするものです。内容的には旧製品とほとんど差がないのに、モデルチェンジと称して新製品が公開され、発売されます。中には、デザインは新しくなったが、旧製品の良さが失われてしまったなどということもあります。これは単に、見せかけだけの「びっくり効果」だけを狙おうとしたためです。

 では、どうして企業は次々と「びっくり効果」を狙おうとするのでしょうか。それは人々が飽きっぽく、刺激に慣れて、不感症になってしまうからです。イソップ物語の中にも、刺激が慣れっこになるという話がいくつか出てきます。
  たとえば、「まだ獅子を見たことのない狐」という話は次のようになっています。これは「効果逓減の法則」の最大の原因を説明しています。
  「まだ獅子を見たことのない一匹の狐が偶然彼に出遇った時に、最初は彼を見て、すんでのところで死ぬほどびっくりいたしました。しかし二度目に彼に遇った時には恐れはしましたが、以前ほどではありませんでした。そして三度目に彼を見た時には彼に近寄っていって話さえするほど大胆になりました。この話は、馴れ知ると物事の恐ささえも薄らぐ、ということを明らかにしています」。
  このことから、企業が集客のための企画を立てるにさいしては、マンネリに陥らないように、たえず新しい刺激を準備しなければならない、ということが分かりますね。企画力がなく、十年間も同じような形式の展示会やイベントを繰り返しているよう企業の場合、来場客は次第に少なくなり、売上が低下することは避けられません。

 「オオカミが来たぞ!」と叫んでも信じられなかった羊飼の過ちは、同じ手が何度も成功するだろうと信じて、機械的にこれを繰り返したというところにあります。
  彼が最初に叫んだときには「オオカミが来たぞ!」だったでしょう。それでも村人は驚いて飛び出してきてくれました。ところが二度目、三度目になると、彼は「今度は本当にオオカミが来たぞ!」とか、「すごく大きいオオカミが来たぞ!」などと、次第に誇張して表現しなければならなかったはずです。そして最後には一番大きな声で、「今度こそ本当だ!」「本当なんだったら!」と叫んだはずですが、ついに村人を動員することはできませんでした。
  びっくりさせることは、人々を動員するための条件なのですが、「楽しいびっくり」であること、そして「裏づけのあるびっくり」であることが大切なのですね。そうでないと、表現だけをいくら誇張していっても、結局受け入れられなくなってしまうのです。
  北欧のある有名なデザイナーが、「日本のテレビコマーシャルは、私には刺激が強すぎます。長時間見ていることができません」といったのを聞いたことがあります。彼にすれば日本のテレビコマーシャルは、羊飼が「今度こそ本当だ!」と叫んだときのような、そんな感じがしたのでしょうね。
  いずれにしてもこのエピソードは、マンネリ企画の運命を示しています。アランは「人間は同じことを繰り返すときは考えていない」といいました。同じ手を機械的にくりかえすビジネスマンは、知的には眠った状態にあります。いかに効果的な企画でも、それがいつまでも同じように通用すると考えてはなりません。

 
 

「憧れる」と「羨む」の差
  次に「実力以上を望むのは間違っている」というコンセプト群に含まれる、「他人の美徳を真似ることはできない」という小グループから代表作品をご紹介しましょう。このコンセプトはイソップにとってお気に入りのテーマであったらしく、作品の数も内容も充実しています。
  「狐と龍」という話は次のようになっています。「一匹の狐がぐっすり眠入った龍を見て、その長いのが羨ましくなりました。そこで彼と同じ長さになろうと思って、彼のそばに横になって自分の身を引き延ばそうと努めましたが、とうとう余り無理をして知らぬまに裂けてしまいました。自分より優れた者と競争する人々はこんな目に遇うものです。というのは彼らに追いつくことのできる前に自分がすっかり伸びてしまうからです」。
  これに似た話は、「驢馬ときりぎりすたち」「ヒヒンとなく鳶」「やぶ医者」「烏と鳥たち」「駱駝とゼウス」「猿と猟師」「猿と駱駝」・・など、たくさんあります。
  「驢馬ときりぎりすたち」では、きりぎりすの美声をうらやんだ驢馬が、きりぎりすの真似をして露だけを食べているうちに餓死してしまいます。

 「ヒヒンとなく鳶」では、馬のいななきをうらやんだトビが、馬の声を真似しているうちに自分の本来の声を忘れてしまいます。日本でも昔からトビの鳴声は、「ピーヨロヨロ」とか「ピーヒョロヒョロ」ということになっていますが、イソップ物語ではトビが馬の真似をしたという縁起談に仕立て上げています。
  「猿と駱駝」という話では、猿が動物たちのパーティで踊って拍手喝采されます。するとこれを見ていたラクダが「それでは私も」といって踊り出します。けれどラクダの踊りがあまりにグロテスクなので、他の動物たちに袋叩きにされてしまいます。
  「猿と猟師」では、猿が、猟師が川で投網を打つのを見ていて、漁師たちが立ち去ったあと真似をして網を打ちます。ところが網をうまく操ることができず、手足がからまって溺れ死にしてしまうのです。
  「うらやむ」という概念には、いい面と悪い面があります。他人のカッコよさを見て、「うらましいな。私もあんなふうになりたい」といって、勉強したり、努力したりするのはいいことでしょう。他人のカッコよさに対する憧れは、私たちの向上心の素地を作っています。

 「他人をうらやんではいけない」といわれると、私たちはすぐれたモデルを真似て進歩する、ということがなくなってしまうかもしれません。親たちは子供に「他人のいいことはどんどん真似しなさい」というのではないでしょうか。そして他人のうちに「いいこと」を発見するのは、「他人をうらやむ」ということとどのように違うのでしょうか。
  もっとも「他人に対するうらやみ」が嵩じて、ねたみや、そねみとなり、はげしい嫉妬を感じ自分自身が悩む、というようになっては危険です。けれどイソップ物語に出現する「うらやみ」はそれほど深刻なものではありません。
  ご紹介した物語に登場するキツネは、龍の細長い体型に憧れてしまいました。ここに出て来る「龍」というのは、大きなヘビのようなものではないかと思いますが、普通ヘビはとぐろを巻いていますね。この「龍」はどういうわけか、とぐろを巻かずに長々と寝ていたようです。
  キツネはこの龍の傍に来て「なんて優美な姿だろう」と思うわけですね。次に彼は「私がこんなふうに寝そべったら、どのくらいの長さになるのだろうか」と思い、龍と平行になるように草の上に横になってみます。ところが頭の位置を合わせると、足の方がまるで合いません。

 「手足を伸ばしてみたらどうだろう」というので、今度は伸ばした両手の先を龍の頭の位置に合わせ、足の爪先まで伸ばして比較して見ます。こんなふうにしながら無理な姿勢を取っているうちに彼は関節が外れて、体が元に戻らなくなってしまいます。これがイソップでは「とうとう余り無理をして知らぬまに裂けてしまいました」となるわけですね。
  「裂けてしまいました」というと、体がちぎれて、まるで内臓が飛び出してしまったかのような印象を受けますが、「関節が外れてしまった」ぐらいの方が、私たちにとっては納得感があるのではないかと思います。
  ついでのことですが、イソップ物語には「食われてしまいました」とか、「殺されました」という表現、それに「裂けてしまいました」などの、カタストロフィ表現が見られます。けれども惨劇は起こっても、実際に「血」が流れることはめったにありません。また傷口がどうだとか、痛みがどうだ、というような表現も見られません。寓話が決して事物のリアリティを目指しているのでないことがお分かりでしょう。

 
 

他人の美徳を真似るには及ばない
  それでは、現実にこのキツネによって象徴されるような人はどこにいるでしょうか。有名選手を集めたマラソン競技などが行なわれているときに、沿道を一緒になって走っている人がいますね。私はあの人たちの中に、このキツネを見つけます。
  彼らにしてみれば選手と競争するというよりも、「一流選手って、どのくらいの速さで走っているんだろう」というつもりで、ちょっと実験をしているのですが、滑稽といえば滑稽です。これについてもアランも「最初から選手と並んで走るのは健康的でない」といっていますよ。
  もっと危ないのは、スピードを出して走っている車を追いかけるクルマです。うしろから来ていきなり追い越されたりすると、「ちくしょう、やったな」「負けるものか」というので、こちらもこのクルマを追いかけたくなりますね。クルマの性能や腕に自信があると、追いかけずにいることが難しいほどです。これがキツネの正体です。

 「鷲と烏と羊飼」という話も同じ教訓を持つエピソードです。いかにも実際にありそうな話ですし、羊飼いの子供に対するコメントもとても気がきいています。
  「一羽の鷲が高い岩の上から飛び下りてきて、子羊をさらって行きました。これを見た烏は羨ましくなって、その鷲の真似をしようと思いました。そこで烏はぴゅっと大きな羽音をたてながら一羽の牡羊めがけて飛び下りました。だが、彼の爪は羊の捲き毛に絡まって引きぬくことができないので、羽をばたばたさせていました。とうとう羊飼がその出来事に気づいて駆けよってきて、それを捕えました。そしてその羽の端を切り取りました。夕闇が迫ってくると、彼はその烏を自分の子供たちに持って帰ってやりました。すると子供たちがその鳥は何ですかと尋ねましたので、彼は言いました。『お父さんのはっきり知っているところじゃ、烏さ、しかし自分の望んでいるところじゃ、鷲だよ。』このように優れた者と競争しようとすると、何の得るところもないばかりか、ひどい目にあったおまけに物笑いを買うものです」。

 イソップ物語の中で、他人をうらやむ主人公は2つのタイプに分かれます。第1のタイプは、例のキツネやこのカラスのように、「いいな」と思うと、何も考えずにすぐに真似しようとするタイプです。踊るラクダも、網を打つサルもこの部類に属します。これはもともと素質がない上に、訓練もできていないのですからたちまち失敗します。この連中は軽率です。
  会社のトップなどが、講演会で成功企業のケーススタディを聞いて、「なるほどこれはいい、うちの会社でも早速やってみよう」などといって、ろくすっぽ準備もせずにいきなり新しい手法を導入することがありますが、このタイプに属します。
  これに対して第2のタイプは他人の美徳をうらやみ、それにあやかろうとして努力するのですが、考えかたや方法が間違っているために失敗するケースです。たとえばキリギリスを真似ようとしたロバは、彼らの美声の原因が食べ物にあると推量します。そしてキリギリスに「何を食べているのですか」と聞くと、「露です」と答えるので、ロバは以後自分の本来の食物を食べずに露だけを食べつづけます。この話には、なんか、日本民話的な哀れさがありますね。

 けれど女性週刊誌の記事を読んで、タレントとおなじメニューでやせようとする女性などもいささかこのロバに似ているんじゃありませんか。
  馬のいななきをうらやんで、長時間にわたってボイス・トレーニングをしたトビ君もなかなか笑えますね。私としては「ピーヒョロヒョロ」も決して悪くないと思うので、彼の場合失敗ときめつけるのがいいかどうか分かりません。
  アランは「人は隣人の美徳をマントのように羽織ることはできない」といいました。彼はいっています。「鼻や顎の形、皮膚や毛髪や目の色、みんな相互に関係している。なぜなら、これらは一つの不変の栄養体制の表徴であって、それにしたがって彼は大きくなったのであり、病気にもなれば老いもするであろうから」。つまり、もって生まれた性質を変えることはできないということです。

 最近若者の間で髪の毛の色を染めるのが流行していますが、アラン風にこれを理解すると、彼らは自分の身体を本質的に変化させようとしているのではなく、自分の髪の毛を装飾品のようにアレンジしているというべきでしょう。かりに整形外科の技術が発達し、肉体的な条件を変えることができたとしても、その人を構成している本来のものは大部分残ってしまいます。
  アランは、スピノザの言葉を引用しながら「人間は馬の完全さを持つ必要はない」といいました。だからキツネは龍の完全さを真似る必要はなかったのであり、カラスはワシの完全さを真似る必要はなかったのです。人は自分の持ち物で十分戦えるとアランはいいます。
  たとえば筆跡は、顔かたちが違うように、人によってみな違います。ところがおかしなことに悪筆は誰の字もよく似ています。けれどトレーニングすると、それぞれ個性ある美しい字を書けるようになります。基礎的なトレーニングについてアランは次のようにいいます。「この共通の方法は、すべての人を似通ったものにするのが目的ではなくて、反対にそれらの人たちをいっそう違ったものにするのが目的である」。

 また自分の持ち物で十分に戦えるということについて、アランは「小男は、剣道場では人が一歩あるくところを二歩あるかねばならない。そのかわり、身軽だし、表面積も人より小さい」といいました。そしてこう結論したのです。「どんなものでも道具にしてしまう、あの器用な人のようにやることである」。
  つまり、他人が持っている美点などうらやむ必要はない。自分なりの特色を生かして、個性を磨き、自分なりの自己完成を目指せばいいのです。イソップはすでに2600年も前に、アランが指摘したような個性発展の論理を知っていました。そして彼のまわりに見かけたおおぜいの人々、他人をうらやんだり、実力もないくせに背伸びしようとしている人々を笑って見ていたのです。

 
   
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