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イソップの落ち穂拾い
 
第7章 人間は情念の生き物

人間は手加減を知らない
  イソップは作品の中で人間がかならずしも合理的な生き物ではなく、情念的な生き物であること、そのために自分で自分の不幸を招いてしまうものであることを明らかにしました。こうしたコンセプトの代表作品をいくつか読んでみたいと思います。たとえば「海豚と鯨と鯊(はぜ)」という作品は次のようなものです。
  「海豚たちと鯨たちとが互いに戦をしていました。その仲違いは長びいて烈しくなりましたので、一尾の鯊が浮かび上がってきて(これは小さな魚です)彼らを仲直りさせようとしました。と、海豚のうちの或る一疋が口を切って彼に『いや、君を仲裁人にたてるよりも戦って互いに殺され合った方がわれわれにはまだ我慢ができるよ。』と言いました。こういう風に、人間の間にも一文の値打ちもないのに、世の乱れに際会すると、自分をいっぱしのものだと思う人々があるものです」。

 私たち人間社会においては争いがたえません。困ったことです。この物語ではイルカとクジラが争っていますが、動物たちの種間の争いは食物連鎖にもとづくもので、一方が餌であり、一方が捕食者であるというように相場が決まっています。ですから動物の食餌行動には、意地や恨みなど情念的なものは含まれません。
  種内競争、たとえばライオン同士、あるいはシカ同士がメスをめぐって争う、などということもありますが、この場合殺し合いになるような闘争はめったにしません。というのもメス争いは種族保存が目的ですから、種族保存のために同族を殺してしまってはDNAの戦略は矛盾に陥ってしまうのです。そこで、メス争いに負けた一方のオスは敗北のサインを出して引き下がり、一方は手加減をします。これで一件落着となります。
  ところがこの物語ではイルカとクジラが長期的に、ますます烈しくなる戦いを演じています。これは明らかに人間同士の闘争パターンです。だからイルカとクジラというのは人間たちの仮りの名であることが分かります。人間なら誰でも争いや戦争は好ましくないということを知っています。そして人間はどの動物よりも高い知性を持っています。それなのに、どの動物もしないような不合理な、しかも互いに手加減のない戦いをするのはなぜでしょうか。

 「情念は一個の予言であり、いわば人間の体からたちのぼる神託のようなものである」とアランはいいました。これは人間が自分の発言にこだわり、そのために自分からわざわざ求めて不幸に陥ってゆくことがある、ということです。
  巨大な魚たちが両陣営に分かれて戦争をしていると、小さなハゼが浮かび上がってきて「この喧嘩待った。私が仲裁をしましょう」と呼びかけました。これに対してイルカが「お前なんかに仲裁してもらうよりは戦って死んだ方がマシだ」「邪魔だ。そこをどけ」なんていったのではないでしょうか。「戦って死んだ方がマシだ」というイルカの発言は、「私は戦って死ぬだろう」ということを意味し、あえて「戦って死ぬ方を選ぶ」ということを意味します。ですから、この自滅的な未来に関する発言は、発言の内容それ自身とその発言によってもたらされる一種の反響効果によって「予言」「神託」のようなものになります。

 私たちも何かの拍子につい頭に来て「あいつをぶっ殺してやる」などと、おだやかでない発言をすることがあります。幸いなことにさまざまの規制があって、この予言は実行されません。けれど、相手に対する悪意や恨みの感情はこの言葉とともにこだまし、残ります。
  本当は頭に来てもそんなことを口にしなければよかったのです。そうすれば忘れてしまったかもしれません。口にしてそれをいうことで、自分にも周囲の人にも約束し、固執することになります。大勢に向って「われわれはテロの脅しには屈しない」といってしまうと、その発言の手前相手と妥協することができなくなります。これが、情念の一つの力学です。
  動物は最初から何もいいませんから、勝負に対するこだわりがありません。仲間との喧嘩に負けたことを苦にして自殺する動物なんていません。要するに人間の情念を支えている最大の要因は「プライド」であり、「メンツ」なのです。たとえハゼが小さな魚であったとしても、その主張がもっともなら、耳を傾ける方が賢明です。ところが大きな魚が小さな魚に従うなどというのはメンツが許さないのですね。

 このイルカとクジラの戦争を現実に適用するのは、じつに容易ですね。すべての戦争、紛争、裁判など、多かれ少なかれこの二者の戦いとまったく同じなのです。境界線のことで裁判所で争っている地主は、互いに自分こそ正しいと主張します。「こうなったら徹底的に戦う」、と当事者の双方がいいます。裁判に勝って得る利益よりも、訴訟費用の方が高くつく、などということはざらです。やむにやまれぬ闘争心が彼らを駆り立てているのです。
  アランは「訴訟をはぐくむのは情念である」といっています。もしも世の中の人々が各自の心の中にある小さなハゼのいうことに耳を傾け、無益な闘争をいっさい止めたら、弁護士さんたちが失業するでしょう。結局各自の内部にある情念がトラブルの種なのです。

 

ケンカの本質
  喧嘩の本質に関して次のような「ヘラクレスとアテナ」という作品があります。
  「狭い道を通ってヘラクレスが旅をしていました。地の上に何か林檎に似たようなものを見て踏みつぶそうとしました。しかしそれが二倍の大きさになったのを見ましたので、もっと力を入れて踏みつけ、それから鉄の棒でなぐりました。すると、それは大きく脹れ上がって道を遮りました。彼は鉄の棒を投げ捨てて、びっくりして立っていました。と、アテナがお現われになって彼におっしゃいました。『およしなさい、お兄弟よ、それは喧嘩口論です、人が相手にしないで放っておくと、最初のままで止っていますが、相手にして争うとこのように脹れ上がります。』これは、争闘や喧嘩は大損害の原因であるということは誰にも明らかである、ということなのです」。
  ご存知のようにヘラクレスはギリシャ神話中最強の英雄です。彼はゼウスが人間の女性アルクメネに生ませた子供です。アテネ神はゼウスの子供ですから、アテネがヘラクレスに向って「お兄弟よ」と呼びかけていますね。

 ゼウスの正妻はヘラです。ヘラはとても嫉妬深いことで有名です。彼女はゼウスが人間の女と浮気をしてヘラクレスを作ったことを怒りました。彼女の憎しみは罪のないヘラクレスに向けられました。ヘラクレスは生涯ヘラによる「いじめ」を体験しますが、中でも「12の難行」として知られる逸話があります。
  これは常人には不可能な12の難題をヘラクレスが独力で解決しなければならない、というものです。たとえば「ネメアの獅子退治」「水蛇退治」・・「ヘスペリデスの金の林檎を取ってくること」「地獄の番犬ケルベロスを捕らえてくること」などという、むちゃくちゃな難題です。
  こうした難題を解決する旅の途上で、彼はアンタイオスというめっぽう強いレスラーの挑戦を受けました。このレスラーは大地の子供で、ヘラクレスが地面に投げ飛ばすと、そのたびに大地からエネルギーをもらってますます強力になってヘラクレスに打ちかかってくるのです。
  はじめのうちヘラクレスは相手の力の仕組みが分かりませんでしたが、そのうちに、アンタイオスが地面に接触するたびに力を得ることに気づきました。そこでヘラクレスはアンタイオスを高々とさしあげ、そのままの姿勢で絞め殺してしまいました。

 いかがですか。このような神話をふまえて「ヘラクレスとアテナ」という作品を読むと、この物語が「ヘラクレスとアンタイオス」のパロディになっていることがお分かりでしょう。
  「ヘラクレスが旅をしていました」というのは、私たち日本人でいえば「宮本武蔵が旅をつづけていると・・」というのと同じように、古代ギリシャ人にとっては、何の違和感もない約束事の一つです。ただしここでは「狭い道」と断り書きがしてありますね。これはあとで、りんご状の物体がふくれあがって、「道を遮りました」となるための伏線です。これが左右に制限のない広い野原では、相対的なサイズ感覚がわからなくなってしまいます。
  まず道の上にりんご状のものが落ちているのですが、はじめ小さな物体が力を加えるたびに大きくなってゆく、というこのSF的なアイデアはすぐれてます。ヘラクレスがこれを踏みつけたり、棒で叩いたりすることが仲裁に入ることを意味するのか、喧嘩口論の中に入ってしまうことなのかは分かりませんが、いずれにしても事件に巻き込まれることを意味しているのは間違いありません。

 お母さんが泣いている子供をあやそうとすると、子供はなおのこと強く泣き叫んだりします。この情念の原理は大人になっても直りません。大人たちの喧嘩もお互いにいいつのることで、相手だけでなく、われとわが身を興奮させ、事態を手のつけられないものにしています。離婚にまで至るような夫婦喧嘩の多くは、自分たちがいいだした発言の意地を通そうとする一種の誠実さによって実現してしまいます。
  大きな戦争も最初は小さなできごとがきっかけです。両陣営に屈強なヘラクレスたちがいて、小さなきっかけをどんどん踏みつけて拡大します。その結果鉄砲や大砲が登場するようになるのです。イソップはこうした原理を見抜き、明快に図式化しました。そして大切なことは喧嘩口論には立ち入らぬことだ、という処世訓を示しました。 
  イソップは知恵の神であるアテネに、「およしなさい、お兄弟よ。それは喧嘩口論です。人が相手にしないで放っておくと、最初のままで止っていますが、相手にして争うとこのように脹れ上がります」といわせています。

 議論においてもお互いに激昂するようなときがあります。しかし会議の結論を誘導してゆくのは、かならずしも興奮してしゃべっている人ではありません。アランはこんなことをいっています。「集会のキツネとは、みんなが議論している間は眠っていて、他のものたちがそろそろ長靴を脱ぐことしか考えなくなった頃、まだかなり元気でいる、そうした連中のことである・・彼らの術とは喧嘩に立ち入らぬということなのだ」。
  これはたとえ私たちが一時は興奮して大騒ぎをやっても、疲れればいつかは静かになる、ということです。どんなに元気な人でもいつかは休息し、眠らなければなりませんからね。そして政治的な手腕に長けている連中は、元気な連中が喧嘩に夢中になっているときには黙ってエネルギーを温存していて、興奮した連中が疲れて静かになった頃、自分たちのいいように結論をまとめてしまう、ということですね。
  アランは「議論は願い下げだ」といいました。結局論争で相手を説得できるわけではないからです。情念の力が私たちを引き回し、説得もただ相手に負けまいとするだけの努力に変わってしまうのです。私たちも喧嘩口論が始まったときには、しばらく圏外に出ている、という技術を学んだ方がいいかもしれません。

 
 

有益な人は被害者になる
  情念のもっとも典型的な作用として、「自分が自分を傷つける」というのがあります。人間の観察家であったイソップはこの作用を見逃さず、いくつかの含蓄ある寓話を作りました。たとえば「槲(かしわ)とゼウス」という作品は次のようなものです。
  「槲がゼウスを非難して、『われわれがこの世に生を享けたのは無意義なことです。というのはわれわれは他の凡ての植物以上に容赦なく切られるのですから。』と言いました。と、ゼウスはおっしゃいました。『お前たちは自分自身がこのような自分たちの不幸の原因なのだ。というのは、もしお前たちが斧の柄を産しないなら、また大工や百姓の仕事に有用でないなら、斧はお前たちを切り倒すことはないだろう。』或る人々は自分が自分の不幸の原因でありながら、考えもなく神に非難を加えるものです」。
  カシワの木はゼウスに、「なぜ私ばかり切られてしまうんですか」と文句をいいます。するとゼウスが「お前が斧の柄になるからじゃないか」といいます。これは一見ばかげた問答です。斧の材料ならほかにもたくさんあるでしょうし、斧は単なる手段にすぎません。不幸の本当の原因はカシワの木の有用さです。ところが、この作品では、わざと手段と原因のとりちがえが行われています。

 あなたがゼウスなら、カシワの木をどのようにいって説得しますか。「どんな木にも寿命がある。お前のように人間の役に立つ木は名誉なことだ」なんていうんじゃないでしょうか。ところがこの作品では「お前が不幸の原因なのだ」といっていますし、末尾の解説もこのコンセプトをことさら強調するようになっていますね。
  考えてみると、社会でワリを食っているのは有能な人です。会社の中でも、いわゆる「できる人」は、「できない人」の10倍から20倍の仕事をします。できる人とできない人の人材価値の差はおそらく100倍以上にもなるでしょう。ところが、給料は10倍どころか1.5倍にもなりません。ひどい場合には「できる人」の給料のほうが低かったりします。「できる人」は単位時間当たりの仕事の密度が濃く、しかもこれを長時間持続することができます。コンスタントにハードワークをしているのは、どちらかというと「できる人」で、役に立たない人は時間になるとさっさと帰ってしまいます。もっとも残っていても仕方がないのですから、これでいいといえばいいのです。

 社会には福祉の対象となるべき人々がいます。人間としての尊厳の名において、弱者は保護され、手厚い福祉を受けなければなりません。ということは、「できる人」は身を粉にして働いてこれらの人々に奉仕しなければならないということです。無能な人が働いてもろくに付加価値を生産できない以上、実力ある人が頑張らなければならないのです。
  この場合、「できる人」はいうなればカシワの木です。だから結局のところ「お前が斧の柄になる材料を提供しているからだ」というゼウスの回答の真意は、「お前が有能だから犠牲になるのは当たり前なんだよ」「お前は自分自身の能力の犠牲者なのだ」ということになりますね。
  アランは「戦場では勇者ほど先に倒れると予言してもよい」といっています。戦場では先陣を切って戦う兵士、もっとも危険な任務につく勇敢で、実行力のある兵士がまっ先に死にます。このようにして人類はもっとも勇敢で、正直で、優秀で、祖国愛に満ちた人材を戦争で失ってきました。現在の人類はもしかしたら臆病で、日和見的な兵士たちの子孫ばかりかもしれません。
  要するに優秀なものは、社会の中でワリを食うことが宿命なのであり、力のないものを面倒見るべくゼウスによって命じられている、といってもいいでしょう。これをキリストふうにいうと「幸いなるかな才能貧しき者」「幸いなるかな能力乏しく、それに気づきもしない者」ということになるわけですね。

 
 

人は自らの想念によって傷つく
  ところでこの作品で「槲」といっている木は、字義通りに解釈すると「カシワモチ」の葉をつけるカシワの木、ということなります。これはもちろん建材として有益な木ですが、この物語のニュアンスでは日本の「樫(カシ)」に近い感じがしますね。
  これらの木の仲間には炭の材料になるコナラ、それに家具の材料などになるクヌギ、そして木刀やハンマーの柄などにも用いられる各種のカシなどが含まれます。要するにブナ科、コナラ属に含まれる植物です。日本ではコナラ、カシワ、それにカシなどはきちんと区別されていますがこれらを英語の辞書で調べると、驚いたことにどれもみな「OAK」です。
  これはカシの木の仲間が西欧に少ない、ということなのでしょうか。学者の分類や研究という点ではどうか分かりませんが、一般の人々のレベルではコナラ属の樹木の認識に関する限り、欧米人の認識は、かなりおおざっぱだといわざるを得ません。だからこの「槲とゼウス」のカシワも、かならずしも日本の「カシワモチ」のカシワと考える必要はないかも知れません。

 ところで、この物語をもう一度よく読み返してみましょう。するとこのカシワとゼウスの対話は、さらに深刻な内容を含んでいることに気づきます。それはゼウスが、「おまえたちは自分自身がこのような自分たちの不幸の原因なのだ」といっている点です。カシワの木に訴えられたゼウスは、カシワを少しも慰めようとせず、「不幸の原因はお前自身ではないか」と突っぱねているのですね。
  このカシワの木は被害者意識に悩んでいました。自分たちだけが選別されて伐採されるのは理不尽だと思ったのです。おそらくカシワは、この件では何年ものあいだ悩み、苦しんできたのですね。
  陽光が降りそそぎ、涼しい風が森を渡るときには、カシワの木はひときわ枝を広げ、背筋を伸ばして自分自身の姿に満足していたことでしょう。ところが自分でもほれぼれするような成木になると、どこからともなく人間たちがやってきて情け容赦もなく切り倒します。
  斧が幹に食い込む音が森に響き渡ると、仲間のカシワたちは次はいったい誰の番だろうといって、自分たちがカシワの木であることを悲しむ、こんな状況ではなかったでしょうか。彼らは実際に切り倒される以前に、切り倒されるだろうという恐怖によって苦しんでいたのです。

 アランは「恐怖とは恐怖についての恐怖である」といっています。私たちは死を恐れます。いくら恐れても死を免れることはできないのですが、「もしかしたら死ぬんではないか」という心配のために眠れなくなったり、ノイローゼに陥ったりすることもあります。
  アランは「苦痛がひどくなるのは、私たちがそれについてなにやかやと理屈を考え、そうすることで、いわば急所にさわるからに違いない」といい、「人間は自分で自分を傷つけることのできる危険な動物だ」ともいいました。
  こうして見てみると、この作品で象徴されているカシワの木は人間であり、それもかなり優秀で、自意識もはっきりした、やや神経質な人間であることがわかりますね。カシワの木が「われわれがこの世に生を享けたのは無意義なことです」といっている点に注意してください。彼は人生の意義をうんぬんするほどに知的なのです。なるほど彼にとっては立派に成長したとき、外部からやってくる人間に無理やりに切り倒されるのはつらいことでしょう。
  彼は自分が切り倒されるだろうという想念によっても苦しんでいるのですから、二重の苦しみです。さらにゼウスはこれに追いうちをかけるようにして「お前が人間の役に立っているから切られるんだよ」といっていますね。これではますますたまりません。

 しかしこのことは、「自分の想念によって自分を苦しめる必要はない」という、新しい考え方の境地を切り拓くものではないでしょうか。切り倒されるかどうかは別としても、どんな生物にとっても死は不可避です。この点ではみんな平等です。だからゼウスは死については触れていないのです。ゼウスがカシワの木にいっているのは「お前の考えが、お前を傷つけているんだよ」ということではないでしょうか。すなわちゼウスの警告は、情念の力によって自分自身を苦しめてしまう人間に対する警告です。
  死や病気を恐れるのも当然、不平等に不満を持つのも当然、失恋して苦しむのも当然・・、けれど、限度を超えて、自分自身の中で苦しみを反芻したり、自分の考えによって自分を追いつめたりするのは、賢明ではないよ、とゼウスはいっているのではないでしょうか。

 この「槲とゼウス」の話によく似た「樵夫たちと松の木」という物語があります。
  「樵夫たちが或る松の木を割っていました。それも、その松の木から楔を作っておいて容易に割っていたのです。で、松の木は『私から産れた楔ほどには私を切る斧を非難しません』と言いました。これは、人が他人からうけたひどい仕打ちは身内からのほど堪えられないことはない、ということなのです」。 
  ここでは松を割っている材料が「楔」と「斧」という二つの材料であることが示され、楔は松材で、斧は別の材料で作られていることが前提になっています。この松は自分の運命を受け入れてはいますが、楔を身内の裏切りとして怨んでいます。ここにも「お前は身内なのに、私を傷つけるのか」、という情念の働きが盛り込まれていますね。

 しかしながらこの松の木の精神は比較的単純です。自分が斧によって切り倒され、割られることは「しかたがない」と思っているのです。彼は自分に仇をなす身内を怨んではいますが、「私から産れた楔ほどには私を切る斧を非難しません」という口調からは、やはり楔に対しても「ひどい奴だが、しかたがない」という感じが伝わってきますね。
  この比較的さばさばした松の木に対して、先ほどのカシワの木のほうはずっと深刻です。彼は「われわれがこの世に生を享けたのは無意義なことです」なんて難しいことをいっていますね。ここには、自分の精神によって自縄自縛になり、ノイローゼにおちいったインテリの姿が見えてくるではありませんか。

 
 

忘れっぽさは美徳か
  人間的な情念のエネルギーを伝える作品の一つとして、「百姓と彼の子供を殺した蛇」という物語を読んでみましょう。
  「一匹の蛇が這って来て百姓の子供を殺しました。百姓はこのために痛く嘆き悲しんで、斧を手にとると蛇のいる穴へ押しかけて、出て来たらば一打ちにしてくれようと、注意を怠らずそこに立っていました。蛇が這い出て来たので、斧を振り下ろしましたが、蛇を打ち損なって傍の石を真二つに切り割りました。その後百姓は蛇の仕返しを恐れたので、蛇に自分と仲直りするように勧めました。しかし蛇は『だが、私としては切り割られた石を見れば、あんたを好く思うことはできないし、あんたとしても、子供の墓を見れば私をよく思うことはできまい。』と答えました。この話は、烈しい敵意は容易に仲直りをしない、ということを明らかにしています」。
  沖縄をのぞいて日本にいるヘビは比較的おとなしく無害です。マムシはたしかに危険ですが、諸外国の毒蛇にくらべればまだかわいらしい感じです。けれどイソップに登場するヘビは基本的に毒蛇で、致命的な殺傷力をもっています。

 イソップ物語の中に「ゼウスと蛇」という作品があります。これはゼウスが結婚したとき、結婚式のお祝いにいろいろな動物が贈り物をするのですが、ヘビが花をくわえてやってくると、ゼウスは「お前からの贈り物はまっぴらだ」といってこれを拒否します。旧約聖書に登場するヘビも根源的に悪賢いキャラクターということになっています。ミルトンの「失楽園」では、このヘビは堕天使ルシファーの化身です。このように、ヘビは悪役のイメージが強いですね。この作品に登場する蛇も、なかなか一筋縄ではいかないようですね。
  彼はまず百姓の子供を殺します。これはむろん一方的な犯罪です。百姓はこれを知って怒り狂い、はじめのうちは復讐だけを考えて行動します。ところが、その後ヘビの仕返しを恐れて和解を申し入れます。これでおわかりのように百姓の行動は、そのときどきの気分によるものであり一貫性がありません。
  これに対してヘビは二つに割れた石を見、百姓が子供の墓を見るだろうということを予測し、両者の和解が長続きしないということを予知しています。彼は、百姓がいまは和解を口にしているが、子供の墓を見ると、むらむらと復讐心がわいてくるに違いない、というように、人間の情念の働きを読んでいるのです。

 このように、人間の情念はなかなか癒しがたいものであり、平和と和解は望ましいものではあるけれど、人間同士の関係においては真の平和を確立することが難しい、ということをイソップは教えているのです。
  ところで平和といえば、国家の間ではいまだに戦争のつぐないが問題になります。日本人は平和だ、国際交流だ、経済進出だなどと、無邪気にアジアの国々と無条件でおつきあいできるつもりでいますが、相手が日本が過去において行なった行為を忘れて、水に流してくれているかどうか、これは定かではありません。
  日本人は古い過去の記憶、苦い過去の記憶について、世界中でも格段に淡白な国民ではないかと思われます。この意味では日本人には、この作品のヘビが示しているような老獪な先読みの精神がありません。そうかといってこの百姓ほどの直情性な行動力もないようです。

 私たちは自分が忘れていることについては、相手も忘れているだろうと思っているのです。これが大臣たちの歴史認識とか、不用意な発言につながっているのです。大臣たちに歴史認識がないのではなく、私たちに歴史認識がないのです。要するに、彼らはごく一般的な日本人の代表にすぎないのであり、残念ながら特別にすぐれた日本人ではないからです。
  日本人が過去のいやなことをすぐに忘れられる、というのはすばらしい美徳です。けれどこの美徳は、後に登場するキツネにはめられたサルの軽率さにも通じるものがあります。過去の苦い教訓を忘れないということについて、イソップには「鶯と燕」という作品があります。
  「或る燕が或る鶯に、自分のように人間たちと同じ屋根の下に住んで、彼らと一緒にお暮らしになりませんかと誘いました。すると鶯は『私は私の身に昔起こった不幸の苦しみを思い出したくありません。私がこの人里離れたところに住んでいるのもそのためですわ。』と言いました。これは、或る不運によって苦しみを受けた者はその苦しみが起こった場所をさえ避けたがるものだ、ということなのです」。

 地震学者に話を聞いたことがあります。日本では100年に1度ぐらいずつ大地震が発生する。だから誰でも一生に一度は大地震に出会うと覚悟して用心しておいた方がいい、というのでした。
  阪神淡路大地震の直後には、各地のデパートで耐震用の用品が飛ぶように売れ、アンケートでも各家々で地震の備えをしているという答えが多く聞かれました。ところが二年も過ぎると、被災地からは熱狂的なボランティアが姿を消し、耐震用品も用心も忘れられる、という具合になります。
  日本人の忘れっぽさという美徳もどうやら、単なる痴呆的美徳であり、苦い経験が教訓を抽出して実行することができない、ということになりそうですね。私たちは、イソップの老獪なヘビの長期的な知恵や、せめてこのウグイスぐらいの歴史認識を持つべきではないでしょうか。

 
 

恋するライオンは一切を捨てた
  恋の情念を扱った「惚れた獅子と百姓」という作品を読んでみましょう。
  「獅子が百姓の娘に惚れ込んで、彼女を嫁に望みました。しかし百姓は娘を獣にくれるなんて我慢がならないし、いやと言うのも恐ろしくてできないので、こういうような工夫をしました。獅子が彼に絶えず詰めよるので、彼は君が娘にふさわしい花婿であると思うが、しかし他じゃ君にくれてやれない、もし君がその歯を引き抜き、その爪を切りとるのでなくちゃ、何故と言って女の子というものはこんなものを恐がるのだからね、と言いました。獅子は恋ゆえにどちらのこともやすやすと承諾しましたので、百姓は獅子を見くびって、彼の傍にやってくると、棍棒で獅子をなぐって追い払いました。この話は、近所のものたちをたやすく信ずる者は自分の長所を脱いで裸になった時、以前には恐れを抱いていた人々にやすやすと打ちとられる、ということを明らかにしています」。

 一見あわれなこのライオンの物語は、いかにも当時のポリス間の軍備、これをめぐって行われた外交交渉などを想像させますね。こんにちでも核兵器やミサイルなどは、ここでいうライオンの牙や爪に相当するものでしょう。外交政策はこれらの脅威を減少させたり、移動させたり、無力化させたりすることを主眼としています。
  ところでこの物語の主人公であるライオン君は、どういうわけか人間の娘を好きになってしまいました。恋はとんでもない情念ですから、昔の人々は強い恋愛感情を神々のしわざと考えました。エロスの神がこのライオンにも恋の矢を射たに違いありません。
  この場合、ライオンは圧倒的に強いのですから、好きになった娘をさっさと連れていってしまえばいいのですが、そうせずにまともに父親に求婚しました。大昔は強い男は好きな娘を暴力的にさらいました。「略奪された七人の花嫁」というミュージカル映画をごらんになりましたか。略奪婚の痕跡は、ギリシャ神話におけるポセイドン神の嫁とり、ハデスの嫁とり物語にしっかりと残っています。
  けれどイソップの時代はすでに文化や風習が進歩しています。ライオン君もまともに父親に求婚しなければなりません。

 この物語には娘は登場しません。娘の意志に関係なく、父親が一切を取り仕切っているわけですが、これはいかにも当時の習慣を伝えているように思われます。民主主義発祥の古代ギリシャ社会においても、女性の社会的な地位は低く、表のカオはつねに男性でした。ですからこの物語が意味するところは、ライオンにしてみれば恋愛と社会的な規範との葛藤でもあるわけです。
  ところで、この父親の「百姓は娘を獣にくれるなんて我慢がならない」という一句は、娘を持った父親の一般的な感情をうまく表現しているのではないでしょうか。すなわち、父親にとっては、娘にいいよる男たちはいずれにしても野蛮な獣に見えるわけです。この点で父親の態度は最初から決まっています。
  彼はライオンと条件交渉を始めるのですが、交渉にさいして、相手の武器を放棄するようにいい、その理由として「何故と言って女の子というものはこんなものを恐がるのだからね」といっています。「牙や爪のある男と親戚になるわけにはいかない」というのではなく、娘の感情を前面に押し出して交渉しています。これこそ惚れた弱みにつけこんでいるわけで、「君だって娘に愛されなければ結婚しても、意味がないだろう?」ともちかけているのですね。

 このように表向きの交渉は男性が行なっているのですが、女性の気持ちが無視されているわけではありません。じつは男社会にあっても、男は女の気持ちに従わなければならないのです。この間の事情をもっともうまく表現しているのは、ギリシャ喜劇作家として名高いアリストパネスの「女の平和」「女の議会」などの作品です。
  ここでは日頃男性の支配下に置かれている女性たちが反乱を起こし、議会を占拠したり、セックス・ストライキなどをやって男性たちを大いに困らせるものです。要するに男女の関係においては、男性は表向きの威厳は保っていても、女性に頭が上がらないということです。さらには、惚れた女性を前にしては、威厳も理性もなくしてしまう、ということです。
  このライオンも、物語には顔も出さない女性に惚れ込み、その女性に愛されようとして父親の計略にひっかかります。この物語の末尾には「近所のものたちをたやすく信ずる者は自分の長所を脱いで裸になった時、以前には恐れを抱いていた人々にやすやすと打ちとられる」と記されていますが、これはちょっとしたナゾですね。ということは、「近所の人」というのは、私たちの考える近所の人ではなさそうだからです。

 これは日頃の多少の交流関係があるライバル、ということでなくてはなりません。ライバルはかねてこちらが持っている武器や優位性を恐れているのですが、先方が交渉を申し入れて来たときに、武装解除させ、骨抜きにしてしまう、ということです。これは大阪冬の陣と夏の陣の間のつかのまの和議と、濠埋めのエピソードを連想させますね。
  「自分の長所を脱いで裸になった時」という部分は、「風呂場の長兵衛」のエピソードを思い出させます。幡随院長兵衛は、自分が行けば殺されると承知で招待に応じているのですから、これはミエのために殺されたようなものです。もっともこのライオンも「やすやすと承諾した」とありますが、本当のところ次のように考えたのかも知れません。
  「娘の父親は歯と爪を抜け、という。だがこの武器を捨ててしまったら、私は無防備になる。そうすれば攻撃されて打ち取られるかもしれない。しかしここで私がためらえば、娘は私の愛情を疑うかもしれない。ままよ、だまされてもかまわない、娘がわたしの愛情が本物だと分かってくれるなら殺されても本望だ」。

 恋は思案のほかといいます。けれど恋する人、情念の人もけんめいに思案はしているのです。いちばん思案するのは、情念に取りつかれた人だといってもいいくらいです。ただその思考が客観性を失い、過度に陥ってしまう、ということでしょう。過度に陥らないのだとすれば、それはまだ恋ではなく、単なる計算ということになってしまいます。
  私としては牙を捨て、爪を捨てて、そのために娘の父親に棍棒で追われ、命からがら走っていった若いライオンを考え、破れた恋の悲しみに同情することにします。

 
   
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