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イソップの落ち穂拾い
 
第8章 知恵の有無が生死を分ける

管理職は年とったライオン
  イソップの大きなコンセプトの一つは、「知恵の有無が生死を分ける」ということです。このコンセプトに含まれる作品の数は多彩で充実しています。このグループは、私なりの分類によれば、「知恵があれば生きのびられる」「提携先を間違えてはならない」「軽率は命取り」「用心に用心を重ねる」「結果を考えて行動する」「対策や方法を間違えない」「機敏に行動する」という小グループから構成されています。
  これらの教訓はこんにちでも十分通用する普遍性を持っています。そこで、上記にご紹介した小グループを代表する作品をご紹介してみましょう。
  「知恵があれば生きのびられる」というグループには、9編の作品が含まれますが、その中に「歳をとった獅子とキツネ」という作品があります。

 「獅子が歳をとって、力ずくでは自分の食物を手に入れることができなくなりましたので、頭の働きでそれをしなければならないと考えました。そこで或る洞穴の中へはいってそこに寝て病気にかかったふりをしていました。こういう風にして、彼の傍へよく見てみるためにやってくる動物を捕えては食っていました。たくさんの獣が殺された後で、狐が彼の手管を知ってやってきました。そして洞穴からほど遠いところに立ちどまって、獅子にお加減はどうですかと尋ねました。と、獅子は、『どうもいけない』と答えて、どうして中にはいってこないのだとそのわけを尋ねますと、狐は『ええ、もし私が中へはいっていったたくさんなものの足跡は見るが、しかし出て来たものの一人の足跡も見ないというのでなかったら、はいって参るのですが。』と答えました。こういう風に、考えのある人間は証拠から予見して危険を避けるものです」。

 この寓話はプラトンの対話編の一つ、「アルキピアデス」という書物の中で取り上げられています。この書名になっているアルキピアデスは、対話の中では政治的な野心を持った一人の若者として描かれています。彼はアテネの名門に生まれた実在の人物で、ツキジデスの「戦史」の中にいくども登場し、活躍しますが、残念ながらペロポネソス戦争ではアテネを敗北に導いた人物の一人であったようです。
  その本の中でソクラテスが次のようにいうくだりがあります。「・・むしろまるでイソップの話そっくりに、狐がライオンに言ったとおり、スパルタへはいって往く貨幣の足跡は、いずれもはっきりとその方向をさしているのであるが、そこから出て来るものの足跡は、誰も見ることができないのである。・・」。
  この一節からは、当時経済的な力をつけ、アテネと対抗するまでになっていたスパルタを、アテネ人のひとりであったソクラテスが、どのように見ていたかを示していますね。もっとも「アルキピアデス」の中では、ソクラテスは、そうやって財貨を蓄積しつつあるスパルタでさえもペルシャの経済力の前ではほとんど無に等しい、ということをこの寓話のあとで説明しようとしているのですが・・。

 イソップの作品に戻りましょう。ここに登場するのは、年とったライオンです。彼は「歳をとって力ずくでは自分の食物を手に入れることができなくなったので、頭の働きでそれをしなければならない」と考えました。この一節はサラリーマンが次第に体力が落ちてきて、昔のように営業の第一線に出ることができなくなり、管理職として部下をうまく使わなければならなくなっている様子を示していますね。
  ところが管理職という立場でうまく部下の力を活用し、部下にやりがいを与えて仕事のできる管理職と、そうでない管理職がいます。つまり、自分では何もせずに部下に仕事をやらせて自分がその手柄を横取りしようなどという、不届きな管理職が登場するのです。これでは部下はやりがいを感じることはできません。ところが管理職本人としてはこれが「頭を使うことだ」と思っているのですから困ります。

 私の知っているある管理者は、報告書や企画書を優秀な部下や外部スタッフに作らせるのですが、これを自分の名前でそっくり書き直してしまうのです。スタッフには「私が多少修正してトップに提出しておいた」ということにするのですが、原稿の丸写しであることは明らかです。これなど、穴の中でうまくやろうとしていた老ライオンに良く似ています。
  最近はOAの普及についていけない老ライオンが増えてきました。そこでハイテク対応能力のある部下を頼りにしなければならないのですが、あたかも自分がやっているかのように見せかけるとなるとちょっと苦しくなってきますね。
  イソップは主人のクサントスに何度も手柄を横取りされました。もちろん部下がその能力によって活動し、主人の役に立つことは、部下の喜びであり、同時に上司にとっても鼻が高いことです。優秀な部下を持っている、ということが上司の名誉になることです。
  管理者は「私はこんなに立派に部下の能力を引き出しています」といえるわけです。さらに部下の能力をほめ、彼のモチベーションをさらに高めた方がいいのです。これが本当は管理者として「頭を使った」ということになるはずです。ところが料簡の狭い上司は部下が自分以上に能力がある、と思われることに我慢がならないのですから困ったものです。
  いわゆるトップも自分の演説の草稿や、マスコミに寄稿する文章をスタッフに作らせたりします。これは少しも悪いことではありません。昔からすぐれたトップはすぐれた祐筆を抱えているものです。ところが自分に何一つポリシーがなく、スタッフが作ったそのままの原稿で間に合わせ、それが評判よければいいほど「自分の能力」と錯覚するようになってはおしまいです。

 

データ感度の良し悪し
  そんなことを続けていると、いい部下が「この管理者の下では、自分の将来は見込みがない」と見限ってしまいます。このエピソードに出現するキツネは、そうした賢い部下の一人です。
彼が遠くの方から洞窟の中を覗き込んで、小首をかしげてライオンに「お加減はどうですか」という様子は、動物的なリアリティと、人間的なリアリティが入り混じった、独特の世界になっていますね。 
  ライオンはこれに対して、たてがみを振って「どうもいけない」と答えるのですが、これなども実体以上に自分の容体を悪く見せたり、相手の同情を引こうとするときの人間の習性をみごとにとらえた瞬間ですね。

 このキツネの賢いところは、洞穴の前の足跡をしっかり観察しているということです。向こう向きの足跡はついているのに、こちら向きの足跡がない、これはビジュアルなデータです。ビジュアルなデータなら私たちも毎日見ています。たとえば売上を示すグラフ、損益状況、顧客ごと商品ごとのトレンド、計画対比のグラフ、クレームや返品、値引きなどのデータなど・・。
  ところがこれらのグラフやデータを目の前にしても、意味するものが何であるのか、どうしても理解できないビジネスマンがいるものです。たとえば会社全体の売上が低下し、同じように粗利益が低下傾向に入っていることを示すデータがあります。これを商品別に見ると、これまで販売ウエイトの高かったある商品の売上が落ちてきています。さらに顧客の動向でみると、ある地域の顧客の売上が軒並み低下しています。
  これだけでも主力商品の一部が、ある地区で苦戦を強いられており、そのために全体の売上傾向にマイナスの影響を与えていることが分かるはずです。しかもその地域のセールスマンからは「ライバルが猛烈なキャンペーンをやっている」とか、「ライバル会社が新製品のテスト販売を始めた」などという報告が入ってきているとします。
  こうなったら会社のトップや本部としては気が気ではありませんね。ところが、多くの会社では、こうしたたくさんの業績不調の徴候に気づきません。要するに不注意のために「足跡」を見落としているのです。会社の業績管理のシステムがいい加減であるために、「足跡」をチェックできない会社も少なくありません。

 最近LANなどのネットワークづくりが大流行ですが、たずねてみると、「社内メールに使用しています」などというくだらない答えが返ってきたりします。要するに足跡、すなわち業績や市場の動向を系統的に、定量的に把握する手段としてネットワークを生かしているわけではないのです。
  自分たちの生死を左右するような情報である「足跡」に鈍感な企業は、かりにそのようなデータが目の前にあらわれてもなお、鈍感です。データの意味を解釈し、自分の置かれている立場を客観的に判定することができないのです。

 ちなみに、キツネ以外の動物たちの中にも、洞窟の前の足跡に気づいた者はいたはずです。けれど彼らは「ずいぶん沢山の足跡があるな」という程度で、それが意味するものを見ていないのですね。「目あれども見ず」、とはこのことです。データを見る目は肉体の目だけではありません。注意し、意味を知る目です。
  企業の将来を予感させるようなデータを前にして、ぼんやり腕組みしている会社は、これらの間抜けな動物たちによく似ています。こうした会社は、業績不調が手のつけられないほど顕著になってきたときになって、はじめて自分の立場に気づきます。それは、動物たちでいうなら、ライオンにつかまったときで、相手の牙が目の前に見えたときにはもうおしまいです。ここでは、データ感度のいいキツネに見習うことにしようではありませんか。

 
 

無神経なパートナーを選んではならない
  次に「提携先を間違えてはいけない」という共通の教訓でくくられる話のグループから、「鼠と蛙」という作品を読んでみましょう。
  「陸の鼠が運悪く蛙の友人になりました。蛙はつまらぬことを考えて、鼠の足を自分の足に結びつけました。そして最初は麦を食べようと思って、陸を歩きました。しかし次に沼の縁に近づくと、蛙は鼠を底へ引っぱりこみましたが、自分では水を楽しみ、クックッと啼きました。しかし可哀そうな鼠は水をたらふく飲まされて死んでしまいました。が、蛙の足に結びつけられたままで浮いていました。これを見て鳶がその爪でひっさらいました。結びつけられていた蛙は一緒に随いて行って、自分の方も鳶の餌食になりました。これは、たといひとが屍になっていても復讐する力を持っている、ということです。というのは、神の正義は凡てのものを見張り、釣合いを量って等しいものを分かち与えるからです」。

 この話は、イソップ自身がデルフィ人に追いつめられて殺されそうになったときに、デルフィ人に語った逸話とされています。つまりイソップは、この場合自分がネズミで、デルフィ人はカエルである。その足は紐でつながれているのだ。私を殺せば君たちもいずれ無傷ではいられないのだぞ、といったわけですね。
  私個人としては、この逸話には少々無理があるような気がします。というのは、人間が生死をかけて追ったり追われたりしているときに、「寓話」を語ったり、聞いたりすることができるかどうかという問題は別としても、「デルフィ人とイソップの足が結ばれている」という設定がわかりにくいように思えるのです。つまり、「互いの足を結ぶ」という行為は、軍事同盟や共同事業や提携を意味しているはずだからです。
  それにしても、ここでネズミと足を結んで、生きているネズミを水の底に引っ張り込むことができたカエルは、そうとうに大きなカエルでなければなりません。あるいはネズミの方が小さくなければなりません。日本にいるイエネズミとアマガエルの組み合わせでは、カエルの方が犠牲者になっていたのではないでしょうか。

 ジャコウネズミのような、小型のネズミがカエルと提携したのでしょうかねえ。いずれにしてもカエルにおける「水陸両用機能」のほうが、ネズミの「陸上専門機能」よりも適応力がある、ということだったのでしょうね。
  このエピソードには面白い特徴があります。それはネズミが最初から被害者として描かれていることです。本当は対等合併のはずなのですが、カエルの方がわがままで、同盟相手を配慮する様子がまるでありません。「自分では水を楽しみ、クックッと啼きました」などというのは、いかにもカエルの憎たらしさを強調していますね。
  このカエルは最初から「ネズミを殺してやろう」、という意図を持っていたのでしょうか。どうもそうではないようですね。ネズミが死んだ後でも平気で足を結んだままでいるところを見ると、カエルはひどく鈍感で無神経であるように見えます。

 作品末尾の教訓は「因果応報」というように描かれていますが、この教訓とエピソードはどうもしっくりしません。カエルとネズミは、何かの機会に出会って互いに意気投合し、「君とは、ウマが合う。一緒に事業をしようじゃないか」ということになったのでしょう。そこでよせばいいのに「友情のしるしに、足を結ぼうじゃないか。こうすれば君と僕はどこへ行くのも一緒だ。もう離れ離れになることはない」。
  こうした共同化の提案はおそらくカエルが主導し、気の弱いネズミは「うん、そうしよう」といって従ったものと思われます。この段階ではカエルには悪意はありません。ところが二人三脚で行動し出すと、カエルは自分勝手に動き回り、ネズミを死にいたらしめてしまいました。
  ところが無神経なカエルは、自分のせいでネズミが死んだということに気づきません。だから足を結んだ紐をほどいていないのです。カエルは一方的に満腹して水の上を漂っているときに、ネズミと一緒にトビにさらわれました。

 
 

弱者だからこそ先を見る目が必要
  このエピソードは右のように理解するのが自然です。すると、「これは、たといひとが屍になっていても復讐する力を持っている、ということです。というのは、神の正義は凡てのものを見張り、釣合いを量って等しいものを分かち与えるからです」という教訓は、死んだネズミの恨みだけを強調していることになってしまいます。
  私の考えでは、よしんばカエルが相当に強引であったとしても、ネズミは自分の責任で同盟関係を結んだのですから、誰にも文句はいえないと思います。それに、しばらくしてから「この相手と同盟したのは間違っていた」と気づいたら、どこかで関係を解消しなくてはなりません。気が弱くていいだせないのだとしたら、結果は自業自得ということになります。
  提携したら最後、途中で解約できない、というような致命的な関係を結ぼうとするなら、ネズミは、なおさら慎重でなければならなかったはずです。たしかにカエルは強引すぎましたし、仲間に対する配慮も、いたわりもなく、無神経すぎました。だから彼がトビの餌食になったのは当然です。

 しかしネズミの視点からものを考えた場合、このエピソードに対する真の教訓は「提携する相手を間違えてはならない」「相手を良く見て仲良くしよう」「共同するにもやり方がある」というものでなければなりません。すなわち、「知恵の有無が生死を分ける」ということです。
  さて、このエピソードを私たちの現実社会に置き換えてみましょう。面白いことにこのカエル的な人物があちこちに見られるのですね。バーのカウンターなんかに、きまって一人はこういう人物が座っているのではありませんか。彼らは磊落で、話がうまく、しかも大声で話をします。そのような人は隣りの席の人物の背中をぽんぽん叩き、「そうだよなあ、うん、まったく」とか「いやあ、君が気に入った」「よし、私が金を出そうじゃないか」なんていってませんか。
  ところがこういう調子のいい人物に限って、あとのフォローが不足しているものです。愛想のいいトップがすぐれたテクノクラートであるということは稀です。いいアイデアマンが、緻密で持続的な実行作業に向いているということも稀です。トップが人材を熱心に口説いてスカウトしてきたはいいが、入社後の処遇や活動にまったく無関心になってしまう、などというのも、じつにカエル的な行動といわなければなりません。

 こうした関係は企業間の合併や提携、それに共同プロジェクトなどによく見られます。またもっと身近なところでは結婚生活、共同生活、マンションなどの近所づきあいなどにも往々にして観察されるところです。
  企業間の提携や共同事業など、関係者はあくまで経済的な計算だけで結びつき、両者の権利と義務の関係によってものごとが進行するように思えます。もちろんそういう面もあります。けれどこうした共同事業の背景やきっかけには、トップ同士の出会いや、交流や、そこでの気分的な高揚感があるのです。トップ同士がすっかり盛り上がってしまって、話がきまってしまい、スタッフがあとであたふたする、などということは普通です。そのトップが最後まで現場をフォローしきれない場合には、どこかでカエルとネズミの関係が発生することもやむを得ません。

 結婚生活は男女が「足を結ぶ」典型的な事例と考えていいでしょう。男が女に夢中になって、調子のいいことをあれこれいって結婚を迫る、ところが、結婚すると自分のいったことなどすっかり忘れてしまって自分勝手に行動する。いかにもありそうなことですね。この場合「トビにさらわれる」というのは、家庭が崩壊すること、と考えてもいいのではないでしょうか。
  マンションやアパートなどの共同生活の現場にも、たとえばゴミ出しのルールや夜間の騒音や自転車やクルマのとめ方など、隣人の迷惑を少しも考えない、無神経な住人がいるのではありませんか。こうした人間関係においては、たいてい神経の細いほうが先にやられてしまいます。カエルと提携したネズミがそうだったのです。

 私たち人間は共同で何かをする動物です。だから共同活動をする場合、相互への配慮やいたわりが不可欠です。共同生活、あるいは共同活動とは、相互の束縛と配慮を引き受けることでなければなりません。カエルにも知恵は足りませんでしたが、こういう場合、弱者の方に先を見る知恵が必要であることはいうまでもありません。
  無神経な人は、自分の無分別のためにまずいことになっても、神経の細い人ほどは悩まないものです。カエルもトビにさらわれて相当にあわてたでしょうが、恐らくはろくすっぽ後悔する間もなく食われてしまったのではないでしょうか。こういう人は最後まで幸福です。いずれにしてもネズミは共同すべき相手を間違えたのです。

 
 

人気と能力を取り違えない
  次にもっと明確に「軽率は命取り」という教訓を教えてくれる作品を取り上げてみましょう。
「狐と王様に選ばれた猿」という作品です。
  「獣たちの集会で猿が踊りをおどって好評を博し、彼らから王様に選ばれました。だが、狐は猿を嫉みましたので、或る罠の中に肉のおいてあるのを見つけたときに、猿をそこへ連れて行って、私は宝を見つけましたが、自分ではそれに手をつけないで、王室の収められるべきものと考えまして陛下のために見張っておりましたと言って、それを取るように猿に勧めました。と、猿は軽々しくそこへ行って罠にかかりましたので、狐に『汝は余を罠にかけおったな』と言って責めますと、狐は『おお、お猿さん、あなたはそのように頓馬でも獣たちの王様なんですかね』と言いました。このように、物事を深い考えなしに企てる人々はひどい目に遇ううえに、笑いをも招くものです」。
  ここではサルの軽率さと、キツネの卑劣さがいちじるしいコントラストをなしています。そして文脈から行けばキツネの悪賢さ、卑劣さが明らかであるのに、むしろこのような「だまし」にやすやすと引っかかるサルの軽率さが強調されるように物語が形成されています。つまり道義的に見てもキツネが悪く、法律的に見てもキツネの詐欺罪は明白なのに、サルの無思慮が指弾されているのです。

 実生活においても、正義のありどころよりも、被害に遭わない知恵の方が重要だということですね。事故にあってしまってからでは、交通違反したクルマを責めても始まりません。この作品では交通違反するクルマの存在を否定するのではなく、不注意を否定しているのです。犯罪を否定するのではなく、不用心を否定しているのです。人間の嫉みを否定するのではなく、嫉みを買う軽率さに警鐘を鳴らしているのです。
  まず「猿が踊りをおどって好評を博し、彼らから王様に選ばれました」とありますね。「王様に選ばれた」といういいまわしから、この獣の世界では民主的な投票が行なわれていたことが分かります。すでにご説明したように、古代ギリシャでは民主制は政治体制としては「ワン・オブ・ゼム」であり、かならずしもこれがベストという見方はされていませんでした。
  彼らにしてみれば、民主制は一方では市民の納得感は得られるものの、一方では衆愚的な障害が見られることが懸念されました。集団を率いる判断力や統率力よりも、人気の方が先行してリーダーが選ばれてしまうことがあるからです。

 わが国でもテレビの人気タレントが代議士として立候補し、高い得票を得て当選するという現象が見られますね。彼らの政治的な手腕よりも、知名度や人気が当選の理由になっているのですから、踊りを踊って好評を博したサルと大差はありません。
  ビジネスの世界でも、実務的な優秀さと社員の人気、あるいは役員会に対する人気という2つの要素はかならずしも一致しません。この2つをかねそなえたリーダーが誕生すればいいのですが、なかには「踊り」の要素、すなわち「他人の好意を得るのがうまい」という理由でトップの座につく人もいます。

 もちろん、他人の好意を得ることができるのは重要です。とくにトップは会社を代表する顔であり、代表セールスマンでもありますから、「人望」「人気」、あるいはお望みなら「調整力」があるのは好ましいことです。ところがこのトップがバランスシートも読めず、投資に対する意思決定もできない、となると問題が生じてきます。「クールな判断力」と「読みの深さ」は往々にして人気のもとになっている「人柄のよさ」と相容れないものがあります。
  このエピソードでは、サルの王位就任に対してキツネが批判的でした。彼は自分こそがその頭のよさで獣たちの王であるべきだ、と考えていたのかもしれません。「狐は猿を嫉みました」とありますが、このねたみは単に羨みが嵩じたものではなく、「ふん、リーダーとしての資格もないくせに」というものであったことはたしかです。

 
 

知的落差を利用する
  このキツネはサルを嵌める機会を狙っていました。彼は罠を発見しましたが、この罠はキツネにはすぐそれと分かり、サルにはそれと分からない性質のものでした。ここで大切なことは、キツネが自分でサルを嵌める罠を作ったのではなく、人間が作った罠を利用したということです。これはキツネのかなりの悪賢さを証明しています。
  ターゲットをおとしめるために自分で罠を作る、という行動に出れば明らかに直接犯です。しかし既成の罠を利用しているのですから、キツネは仲間に対して「自分が手を下したわけじゃない」といいわけできます。つまり事件発生後の対応が可能となるわけです。
  またキツネは自分にはそれと分かった罠が、サルには見破れないだろうと予測しています。彼がここで行なった犯罪は、自分とサルの注意力、判断力の落差を利用したものなのです。キツネにはサルが日頃どの程度軽率であるか、また最近王様になったために舞い上がって、さらに注意力が散漫になっているという点をしっかり読んでいます。
  彼はサルにはリーダーとしての資格がないと考えています。彼はサルには踊りの才能はあるが食い意地が汚くて、注意力が散漫で、軽率であると考えています。彼は自分の仮説を、罠を使って実証してみたのですね。これほど賢いキツネが、その知能をサルをおとしめるためにのみ用いているのは残念なことです。

 私たちの社会でも「サルの王様」が誕生する可能性があることは先ほども指摘しました。ではこのようなキツネが果たして見られるでしょうか。注意して観察すると、この種のキツネが案外多いのですから驚きです。たとえば、自分の仲間が準備不足のために、会議の席上で上司に叱られ、あるいは立ち往生する、ということが最初から分かっているのに、少しも忠告したり援助しようとしない同僚や部下がいます。
  彼、または彼女にとっては会議の場は一種の罠です。上司や仲間がトップに失策をとがめられる一方で、自分の方は評価されるように準備をします。彼、または彼女はこのような機会を存分に利用するのです。
  もっとも競争社会の中ではこれが当たり前です。怠けた方が評価を下げ、準備をしている方が高く評価されるのは少しも悪いことではありません。職場は仲良しクラブではありません。それにまた、仲間同士でお互いに「仲間に負けまい」「抜け駆けしてやろう」と考えるのは、進歩、発展の原動力でもあります。

 けれども能力の格差が明白な状態では、この仲間同士の競争はいささか残酷でアンフェアなものとなります。また上司に対して含むところのある人物が部下となっているような場合、その部下に能力がある場合、その上司はかならずどこかでひどい目にあいます。私の考えでは、能力が高く、しかも陰険な仲間や部下に標的にされた人物はまず犠牲者になる、ということを指摘しておきたいと思います。
  それではサルとしてはどのように行動したらいいのでしょうか。それは明白です。自分に統治能力が不足していることを認め、最初から実力以上の役割を引き受けないこと、かりにその立場に立ったとしたら、自分の能力の限界を認め、有能な部下を味方に引き入れ、彼に敬意を払い、これを厚くもてなすことです。

 この作品に登場するサルは二度軽率な過ちをおかしました。一度目は踊りを踊って獣たちの王に選ばれたとき、「私は踊りは得意ですが、マネジメントは不得意です」といって辞退しなかったこと。二度目は罠にかかったことです。
  ところが現実には、誰しも自分に恃むところがあるものです。自分の能力を知って、「残念ながら、私にはマネジメントの能力はありません」といえる人は少ないのです。おのれの力を知ることができるかどうか、これすなわち「知恵の有無」ということではないでしょうか。

 
   
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