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イソップの落ち穂拾い
 
第9章 価値あるリーダーとは何か

リーダーがラクダの糞では困る
  イソップは奴隷の身でしたから、自分の上にはつねに上司、つまり主人がいました。そこで彼は主人たちのリーダーシップを観察する機会がありました。主人も部下や奴隷の忠実さや有用さを観察していますが、下からも上を観察することができるのです。
  紀元前六世紀当時のギリシャの都市国家は規模の小さなものでした。そこで行なわれる政治は関係者にとって身近で大変分かりやすいものでした。もちろんイソップは奴隷ですから、政治に参加することなどできません。けれど自分の立場から、政治家のリーダーシップがどのようなものかを見ることはできます。
  イソップのリーダーたちに関する観察結果は、ライオンやオオカミが登場する物語に色濃く反映されています。けれども直接リーダーシップだけに限定して、「組織にはいいリーダーが必要だ」というコンセプトに該当する作品数は案外少なく、私の分類では全体でわずか7編しかありません。けれど、これらはどれもなかなか面白く、現代の私たちに参考になります。

 ちなみに「河の中に糞をした駱駝」という作品があります。「駱駝が烈しく流れている河を渡っていました。彼が糞をして自分の直ぐ前をその糞も流れの烈しさに押し流されているを見たので言いました。『こりゃ何だ、わしよりも後のものが、今わしの前を進んで行くのを見るぞ。』この物語は、一番終りの考えのない者が一番初めの考えのある人に代って力を得ている国に当てはまります」。
  一見ユーモラスなこの物語は、悪いリーダーシップに対する痛烈な皮肉に満ちています。この短い物語の中で、「河の流れが烈しい」ということが2度にわたって記述されています。これは水が乱流になっている状態を示しており、「社会が乱れているときには」ということを暗示しています。
  ラクダが泳ぎながら糞をするのかどうか、そのへんは分かりませんが、イソップ物語ではラクダはおとなしい動物、鈍感な動物、あるいは愚鈍なキャラクターの代表とされています。たとえば「はじめて見られた駱駝」という作品では、人間たちは最初にラクダを見たときには胆をつぶしましたが、だんだん慣れてきて、しまいには「くつわ」をはめて、子供に管理をまかせるまでにラクダを軽蔑するようになった、と説明しています。

 ですから先の物語では、ラクダは「おとなしい民衆」を代表していると考えられます。民衆がふと気づいてみると、それこそ「クソ」みたいな奴がリーダーになっていた、おやおや、ということですね。何しろラクダは穏和な動物ですから、「自分よりも後のもの」が目の前にプカプカ浮いて流れていても、いきなり怒ったりしません。
  プラトンは「国家論」の中で、どのような人物が国家のリーダーとしてふさわしいかを論じました。彼はいわゆる政治のプロや、みえすいた野心家がリーダーになるのは好ましくないと考えました。プラトンが国家のリーダーとしてふさわしいと考えたのは、哲学の道を究めた「賢者」でした。けれど、そのような賢者は、自分から「おれはリーダーになりたい」などといったりはしないでしょう。
  それどころか、「リーダーになって下さい」といわれても、断るだろうというのです。民衆はそのような立派な賢者を見つけ出し、拒む相手に、たって懇願しなければなりません。
  プラトンは、「その国において支配者となるべき人たちが、支配権力を積極的にもとめることの最も少ない人間であるような国家、そういう国家こそが、もっともよく、内部的な抗争の最も少ない状態で治まるのであり、・・」といっています。私はプラトンのこの文章を読むと、わが国の国会議員とその選挙のことを考えてしまいます。なぜなら、代議士はその国家のリーダーたちにほかなりませんから。

 ろくにものを知らないくせに、また誰も頼みもしないのに、自分から臆面もなく立候補してやたらと金をばらまき、朝から晩までスピーカーで自分の名前を連呼して歩くような連中、あれが果たして民衆のリーダーとしてふさわしいのだろうか、と私は思います。わが国の指導者たちがラクダの糞というのでは困りますからね。
  類似のコンセプトを持つ作品に「蛇の尻尾とその他の部分」という作品があります。あるとき蛇の尻尾が、「いつも後ろばかりついていくのはいやだ」「私がリーダーになる」といい出しました。蛇は尻尾を先頭にして進み始めますが、なにしろ先が見えませんから、盲滅法に行動し、ついに穴に落ちて怪我をしてしまいます。
  これなども、その資格がないのにリーダーになると結果が悪くなる、という話で「河の中に糞をした駱駝」の続きのようなものです。もっともこのエピソードには、「人にはそれぞれ生まれついての役柄があるのだ」、というニュアンスが混じっていますね。

 イソップが生きていた当時、地中海沿岸の国家やポリスでは、さまざまな政治体制が試行錯誤に行われていました。あるポリスでは共和制が指向され、一方では専制政治が、あるところでは王権が認められ、またそれぞれの方法が組み合わせられたりしていました。
  イソップの時代は、アテネではソロン、スパルタではリュクルゴスという歴史に名高い立法家が活躍した時代に重なっています。すでにご紹介したように、プルタルコスによると、ソロンはリディアの王クロイソスのところでイソップと出会って話をしたことになっています。
  ところで、ソロンとリュクルゴスは、それぞれ別々に個性の強い国政制度を作りました。しかもその両方ともかなり民主的な性格の強いシステムを作り上げたことで知られています。今日私たちは「議会制民主主義」を実践しているわけですが、このシステムの原形を、当時の政治制度にまでさかのぼることができるわけです。

 いうまでもなくこの2人は、立派な立法家であり、リーダー的特質を持っていました。そこでそれぞれの国で絶対権を持つ指導者になるように要請されましたが、2人ともこれを断っています。ソロンは、「僭主の地位は美しいが、そこから降りる道がない」といって断ったといわれています。
  なお、ソロンはアテネの法律を制定した後、「法律が定着するまで自分が国内にいない方がいい」、といって10年間の旅に出ました。つまり法律を制定した自分が国内にいると、いろいろな関係者が法律を変更するように自分に要求するだろう、そのいうことを聞いていたら、せっかく作った法律体系が壊れてしまう、と彼は考えたのです。彼はこの旅の途上、クロイソス王のところに立ち寄ったというわけです。 
  このように、政治体制やリーダーのありかたが多様な時代でしたから、イソップはたまたま資格のないリーダーが政権を取っている国を見て、「これはいかん」と思ったり、「やっぱり、生まれつき指導者というものの役柄があるんだ」などと思ったのでしょうね。
  リーダーといえば、会社の社長や管理職も私たちに身近なリーダーです。このリーダーたちがラクダの糞というのでは困ります。実力があってリーダーになった人はいいとして、世襲による二代目、三代目リーダーなどは要注意ですね。

 

棒切れの方がマシ
  集団が組織的に、しかも有効に活動をしようとする場合、いいリーダーが必要です。この場合のリーダーは機能としてのリーダーです。もちろんリーダーを迎える関係者は原則として彼に従わなければなりません。当然リーダーには人事権を背景とした強制力や、これにともなう権威が付帯します。けれどリーダーが暴君になっては困ります。
  「王様を求める蛙たち」という作品では、カエルたちがゼウスに「私たちの王様を下さい」と願います。ゼウスは一本の棒切れを沼の中に落としてやりました。カエルたちははじめはびっくりしましたが、そのうちに棒切れが動かないので、ばかにしてしまいました。そして再びゼウスに「この王様はちょっとのんきすぎるので、別の支配者を与えてください」と頼みました。
  ゼウスは今度はミズヘビを与えました。この恐ろしい王様は、やってくるといきなりカエルたちをみな食ってしまいました。これは先にご紹介した、「木どもとオリーブ」と同じコンセプトを持つ話です。しかし「暴君よりは棒切れの方がマシ」というところに、イソップ独特の、人を食った鋭いアイロニーがありますね。

 アランは「杖の上にかけられた象徴的な帽子も、そんなに悪い王様ではない」といいました。「杖の上にかけられた象徴的な帽子」というのは、「ウイリアム・テル」の話に出てくる悪代官ゲスラーの帽子のことです。ゲスラーは柱の上に自分の帽子を引っかけ、地元の人々にこの帽子にあいさつするように強制しました。住民たちは代官の威光を恐れてこれに従いましたが、ウイリアム・テルはこれを拒否しました。
  アランは「杖の上にかけられた帽子も、そんなに悪い王様ではない」といっていますね。これはアラン風の皮肉です。つまり、柱にかけられた帽子ならば、何もしないから、もっと悪いリーダーよりもまだマシだといっているのです。リーダーによっては、下手に命令したり、動きまわったりせずに、じっとして、つまり象徴的な存在でいてくれた方がいいような場合があります。

 とくにリーダーよりも優秀な部下がそろっている組織、あるいは有能な官僚的な機構がしっかりできあがっている組織では、無能なリーダーのまずい動きが、せっかくの機能をそこなってしまうことがあります。
  判断力のないリーダー、感情的で暴力的なリーダー、限度を超えて私利私欲に走るリーダー、こんなリーダーよりも柱の上の帽子、あるいは、沼の中に浮かんでいる棒切れの方がよっぽどマシではありませんか。
  それにしても、なんとか自分たちだけでワイワイやっていればいいのに、カエルたちはどうして「王様を与えてください」などと願ったのでしょうか。それは、彼らがひとかどの組織として体裁をつくろってみたかったからではありませんか。

 わが国には200万社以上の会社があるといわれますが、一口に「会社」といってもいろいろです。中には「会社ごっこ」といった方がいいくらいの幼稚な集団がたくさんあります。何人も社員がいるわけでもないのに、やたらと部門名を整えたり、役職の肩書を作って、れいれいしく名刺に刷り込んだりしている会社は、体裁を欲しがったカエルたちに似てきます。
  ゼウスは彼らの愚かぶりを判断して棒切れを落としてやりますが、カエルたちはこれでは満足しませんでした。どうしてでしょうか。それは、カエルたちがリーダーに強い指導力を期待したからです。カエルたちはリーダーにすぐれたビジョンを示してもらい、自分たちをもっといい方向に引っ張っていってもらいたかったのです。
  これもよく見かける光景ですが、社員たちが「うちの会社にはビジョンがない」とか、「トップにはポリシーがない」などと不平をいっているのを聞くことがあります。彼らの尺度ではトップを理解できないのかもしれませんし、実際に彼らのトップにビジョンやポリシーがないのかもしれません。

 かりにトップにビジョンがないのだとしても、このような不平を並べている社員たちは、棒切れをもらったカエルたちとどこも変わりません。強い指導力を当てにし、リーダーから恩恵だけを得ようとする「その他大勢」が多いものです。なにしろその方が楽ですからね。不平不満をいいながらでも、その会社で働かなければならない「その他社員」は、自分のことを棚に上げてトップ批判をしているわけです。
  ゼウスは、カエルたちの二回目の要望にもとづいてミズヘビを送りました。これは、容赦知らぬやり手の経営者を象徴しています。新しい経営者にしてみれば、ろくな仕事もしないで、ただ上からの指示を待っているだけの社員など不要でしょう。だから「食ってしまった」ということは、クビにしてしまったということです。
  「やり手」と過酷さはきびすを接しています。社員はいいリーダーからは手荒く扱われることを覚悟しなければならないのです。だからこそ強い社員が育つともいえるわけですね。「ぬるま湯沼株式会社」の社員であるカエルたちは、リーダーが棒切れであるからこそ自分たちが存在できたのだということを忘れていたのです。

 
 

弱者にやさしい理想社会
  イソップ物語にはリーダーシップの理想を描いた物語が一つ入っています。それは「獅子の王位」という作品で、次のようなものです。
  「或る獅子が怒りっぽくもなく残酷でもなくまた無道でもなく、人間のようにやさしく正しい王様になりました。そして彼の御代に動物全体の集会が催されて、狼は羊に、豹はかもしかに、虎は象に、犬は兎にといった具合に、それぞれ償いをしたり、されたりすることになりました。と、猿がいいました。『弱い者が無道なものに恐い者と見えるように、この日を見ることを切に祈っていました。』これは、正義が国に行なわれ、凡ての事が正しく裁かれれば、弱い者も安穏に世を過ごせる、ということなのです」。
  全体的にアイロニーに満ちたイソップ物語の中で、この作品だけは理想的な平和を実現し、それを単に叙述しているだけです。内容的にいっても、記述の仕方から見ても異色です。もしかしたらイソップ自身の作品ではないのかもしれません。しかし私たちはあくまでイソップの作品とみなして、作品の中から参考になるメッセージを拾ってみましょう。

 まず「ある獅子が・・人間のようにやさしく正しい王様になりました」とあります。これについて「皮肉がきついな」、と感じる人があるかもしれませんし、「こんなことはあり得ないことなのだから、この話自身がアイロニーなのだ」、という人がいるかもしれませんね。
  要するにここには「人間なら、やさしく正しくあるのが当然だ。残酷だったり無道だったりするのは人間ではない」という考え方が示されています。もっとも、動物たちに口がきけたら「残酷だったり無道だったりするのは、人間の方じゃないか」というかもしれませんが。
  この理想の王国では、まず加害者から被害者への賠償が行われます。おそらく言葉の上では謝罪が、損害に対しては補償が行なわれたものと思われます。そのさいにサルが弱者を代表して、「弱いものが恐れられるようになることを願います」といいます。
  これは、弱者の立場が尊重され、配慮される、福祉型社会の実現と継続を希望する、ということです。つまりここでいう理想社会とは、強者が弱者の方を上に立てて、手厚く遇するような社会のことです。そして理想からほど遠い社会とは、弱者が虐げられ、弱者がいつもびくびくしながら暮らさなければならないような社会です。

 これを現代に引き寄せて考えてみましょう。弱者が優先される社会とは、たとえば老人や病人や身体障害者が、安心して暮らせる社会ということになります。道路はあくまで歩行者優先であり、車椅子がどこでも自由にらくらくと通行でき、みんな手話ができ、病院で病人が待たされることはない、ということになりますね。
  私たちの社会はこの意味で、とても十分とはいえません。けれど大昔にくらべればずいぶん理想の状態に向けて改善されてきていることが分かります。そしてこのイソップの物語において、リーダーにとっては、「弱者にやさしい社会」を作り上げることが任務だとされているのです。
  読者のみなさんは「その通り、その通り」とおっしゃるかもしれません。わたしもまったく同感です。「弱者にやさしい社会」の実現を心から望みたいと思います。

 
 

弱者が強者になるとき
  ところがヒューマニストであるアランは、「私は弱者を恐れる」といいました。これはどういうことでしょうか。それは弱者が「私は弱者ですよ。だから保護され、いたわられる権利があるのです」と主張するとき、弱者という名の強者が誕生してしまう、と指摘したのです。
  つまり弱者の特権が認められると、その特権の上に安住し、その特権をあたかも武器のように振り回し、周囲の人々にどこまでも奉仕を強制し、それを当然と思うような人物があらわれてしまうということです。しかもこのような人々は、誰に対しても義務を負わず、働く必要もなく、ただ、面倒を見てもらう権利があるだけなのです。
  もちろんすべての弱者がこの例に該当するとはいえません。本人に何の責任もないのに、弱者の立場におかれ、虐げられ、ろくに救いの手も差し伸べられないでいる人がそれこそたくさんいるでしょう。けれど、福祉の充実と弱者の保護だけでは、この手強い問題は解決しません。

 一般的に見て、弱者は付加価値生産機能がないか、ごく少ないのが普通です。ですから一人当たりのコストと収益の関係でみると、強者は損益がつりあっているけれど、弱者の方はコストがかかりすぎて損益的にマイナスになります。社会全体が弱者で構成されているような社会があるとすれば、その社会は大赤字となり、経済的に成り立たなくなるでしょう。
  福祉予算のために大幅な国債を発行しなければならず、国債を減らそうとすれば、福祉予算も減らさなければならないどこかの国は、社会全体の生産力と弱者のためのコストがつり合わなくなっていると考えていいでしょう。世界中の先進諸国がこぞってこの問題に直面しています。
  この観点からイソップの「獅子の王位」という物語を読み直してみると、サルの願いにもかかわらず、この王国はさほど長続きしないことが分かりますね。オオカミにとってはヒツジが、イヌにとってはウサギが食料ですから、食料調達の手段を失った強者は弱者の立場に転落します。「弱者保護」というポリシーを維持しようとすると、この弱者を救済するために何かしなければなりません。その「何か」とは何でしょうか。
  もしかしたらこの王国では、不満分子がクーデターを起こすかもしれません。ライオンはこれらの利害関係者のいいぶんをうまく調整して、福祉国家のポリシーを貫けるでしょうか。

 ここから汲み取ることのできるメッセージは、リーダーはこのような、ほとんど不可能とも見える困難なマネジメント課題を処理する任務を負っている、ということです。リーダーとは実現不可能な課題を抱える人である、といってもいいかもしれません。
  この作品の末尾についている教訓は「正義が国に行われ凡ての事が正しく裁かれれば」とあります。この仮定法には、「しょせん無理なのだが」という響きがありますね。私たち読み手は、この「しょせん無理」が、なぜ無理なのかを考えてみる必要があります。
  「弱者福祉の原理」は人倫的理想として無理なことではありません。しかし「経済原理」という、容赦のない原理を超えて理想を実現することはできません。経済原理は生物原理です。「群として生きること」が先であり、「弱者福祉」はその次なのです。
  これを会社に置き換えて考えてみましょう。どの会社でも社員福祉が大きな課題です。しかし赤字をたれ流しながら社員福祉を実現することはできません。リーダーは業績と社員福祉の釣り合いを取らなければなりません。「私は弱者だから保護される権利がある」などという社員を一緒につれて先に進むことはできません。「獅子の王位」は、じつは、このようにとてもやっかいな作品であったのです。

 
 

リーダーズ・ペナルティが高くつく
  さて、リーダーとは、このように難しい問題を抱え、なおかつ他人の批判を浴びたり、謀反やクーデターに直面する危険にさらされています。そこでイソップの「漁師と大きい魚どもと小さい魚ども」という短い作品を読んでみましょう。
  「或る漁師が海から漁の網を引き上げましたときに、大きな魚どもは捕らえることができて、これを陸の上に並べました。しかし小さい魚どもは網の目から海の中に逃れました。普通の身分の人々は容易に助かるが、しかし名声の高い人々は、危険を免れることの稀なのがわかるでしょう」。
  この作品のコンセプトは明快です。小物であること、無名であることにはそれなりの気楽さがあります。高い地位についた人にはそれなりのストレスにさらされます。
 
  シラクサの王ディオニシウス一世の廷臣に、ダモクレスという人がいました。彼が王の地位と財宝と権力をたたえて、「王様は世界でもっとも幸福なお人です」といいますと、ディオニシウス一世はダモクレスを食事に招待しました。
  ダモクレスが宴席にやってきて見ると、王様の頭の上に細い羽毛で結ばれた鋭い剣が釣り下がっています。この糸が切れると、剣は落ちてきて王様の頭を刺すことになります。細い糸は今にも切れそうです。ディオニシウス一世はこうして、人のうらやむ王位が、じつはつねに危険と紙一重のところにあることを示したのです。この話は「ダモクレスの剣」として知られています。
  今日でも一国の指導者がダモクレスの剣によって命を落とす例が見られます。ケネディ大統領暗殺やイスラエルのラビン首相暗殺事件などは、その典型です。

 暗殺とまではいかなくても、スキャンダルが指導者たちの命取りになる場合もあります。わが国では、さいきん高級官僚の汚職などが大きな話題になりました。けれど、お気づきのように、官僚が受け取ったとされるわいろの金額は、さほど巨額ではありませんね。
  所得隠しや脱税や不正融資などで話題になる金額にくらべたら、ほんの「はした金」といっていいくらいです。しかしそのはした金で彼はさんざんマスコミに叩かれ、職を追われました。というのも中央の官僚は、文字通り国民のお手本となるべき指導者ですから、そのような人々が不正をするのは許されないわけです。これも別種のダモクレスの剣といっていいでしょう。
  無名の、普通の人がやって許されるようなこと、あるいは笑って済まされるようなことでも、政治家や、高級官僚や、有名人や、大会社の社長など、指導的地位にある人には決して許されないことがあります。リーダー特有のハンディキャップです。これをリーダーズ・ペナルティといいます。

 イソップは弱者の立場でしたが、リーダーズ・ペナルティ、これに伴なうリーダーズ・ストレスをよく承知していました。その上で彼は弱者の立場を楽しんでいた、といってもいいかもしれません。「漁師と大きい魚どもと小さい魚ども」の中では、網の目からこぼれる小さな魚と、網に引っかかる大きな魚というたとえを使っていますが、じつに明快ではありませんか。
  たとえ物質的に恵まれていても、ストレスにさらされる不幸を描いた作品には、みなさんよくご存知の「田舎の鼠と都会の鼠」があります。この物語は韻文の形式で書かれています。都会のネズミに招待された田舎のネズミは、さっそくご馳走を食べようとしますが、そのたびに人間があらわれて、逃げなければならないという体験をします。彼はついに友達に次のようにいって都会を立ち去ります。

 「では さようなら お前さん、/たらふくたんと 召し上れ/喜びと危険と それからたくさんの恐怖を 添えて/それらをば 楽しみなさるが よろしかろ/しかし 憐れな私は 大麦小麦を かじりつつ/どなた様をも 疑わず心配なしに 暮らしましょう」。
  「どなた様をも 疑わず」という言葉が印象的ですね。所有する人、失うべきものを持つ人は誰かを不可避的に疑うことになります。世の中には、資産家と呼ばれる人がたくさんいますが、彼らのところには、毎日のようにおいしい投資話が持ち込まれています。
  資産家にしてみれば、世の中の人間がこぞって自分の懐を狙っているようが気がするのではないでしょうか。そこで資産のない私たちは、あの賢明な田舎のネズミのように、「お持ちの方はお気の毒」といって自らを慰めることにしましょう。

 
 

幸いなるかな無名の者
  「名もなく、金もなく」のメリットを説明したもう一つの作品に「樅と木苺」という作品があります。読んでみましょう。
  「樅と木苺とが互いに口論していました。樅は自分を賞めて言いました。『私は美しい、すらりと丈は高く、神殿の屋根や船に役立つのだ。して君は私にくらべてどうなんだ。』と、木苺は『もし君が君を切る斧や鋸のことを想い出したら、君もかえって木苺になりたがるだろうよ。』と言いました。これは生きている間は評判のことで高ぶってはならない、ということなのです。というのは、謙虚な人々の生活は危険がないからです」。
  この末尾の教訓は、自分の美点を鼻にかけてはいけない、ということに力点を置いています。しかし自慢した樅が切られ、謙虚な樅が伐採を免れるということはありません。すなわち樅は自慢をしようとしまいと切られる可能性があるのですから、教訓はむしろ「人はその美点のゆえに滅びることがある」と考えるべきでしょう。この作品においても、無名であることの気楽さが確認されています。

 もう一つ、「馬を仕合わせ者と言う驢馬」を読んでみましょう。「驢馬が、自分は藁さえ充分には持たない上に非常にたくさんな骨折り仕事をするのに、馬は贅沢に丁寧に飼われて、仕合わせ者だと言いました。しかし戦争の時がやって来たので、武装した兵士もその馬に乗って四方八方へそれを追いまわし、敵の真只中へも駆け入れました。そして馬は打たれて倒れました。それらのことを見て驢馬は心を変え馬を気の毒に思いました。この物語が明らかにしているのは、支配者たちや金持を羨むには及ばない、かえって彼らにつきまとう嫉みと危険とを能く考えてその貧しさに満足しなければならない、ということです」。
  アランは「賢者は水瓶には二つの取っ手があるといっている。どんなものごとにも二つの側面があるのだ」といっています。つまり高い地位を占め、あるいは資産を多く持っているような人は、なるほど人を支配したり、贅沢な暮らしをすることができるかもしれない、しかしそれにはそれなりの危険があるということです。無名で貧乏であることは、みじめですが、持てるものの悩みを経験する必要はありません。
 
  この物語で注意すべきことは、人間の兵士と同様に馬にもまた兵役の義務があったということですね。これは高い地位にあるものの当然の「義務」を象徴しています。支配的な地位にある役職者は、重い責任を持っています。いったん部下に不祥事があれば、自分が直接にかかわっていなくても、責任を取らなければなりません。
  ある職場で、部下が上司にひどく叱られ、その部下が復讐を決意しました。彼はわざと仕事上の大きな失敗をしでかした上、自分から会社を辞めました。この失敗はしばらくしてからわかるようにしかけてありました。事件はまもなく発覚し、例の上司は部下の監督不行き届きということで懲戒免職にされました。この場合、失うものが大きかったのは上司の方です。

 リーダーズ・ペナルティについてキリストは次のようにいいました。「はっきり言っておく。金持が天の国に入ることは難しい。重ねて言うが、金持が神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」。同じく彼は有名な「山上の垂訓」の中で、「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる・・」とありますね。
  これはまさに強者には社会的なオブリゲーション(義務)があり、弱者にはオブリゲーションがない、だから弱者は幸福なのだ、という意味でなくて何でしょう。
  ロバははじめ自分が差別待遇を受けていると思って屈辱を感じ、悲しみました。ところが彼は慰められ、かえって倒れた馬に同情するまでになりました。弱者には弱者の利点があるのだ、とした点でイソップとキリストは共通しているではありませんか。

 リーダーであることは、「力を持つ」という点ではすばらしい地位ではあるけれど、反面神による報いさえ期待できないほどの、リスクの多い立場だということです。だからプラトンの「国家論」では、賢者は「リーダーになってください」といわれても固辞するわけですよ。
  こうしたことを念頭において、再度スピーカーで自分の名前を連呼しながら、町中を走り回る連中のことを考えてみましょう。彼らにたずねてみれば、「私は世直しのために、やむにやまれぬ情熱に駆られてやっているのだ」というでしょう。恐らくきっとそうでしょう。
  けれども彼らが「支配者」になることを希望している以上、彼らがたとえ「ラクダの糞」でないとしても、彼らの頭上に「ダモクレスの剣」がぶら下がり、ささいなことでもリーダーズ・ペナルティが課せられ、いったん変事があるときには、まっさきに駆け出していって槍に貫かれ、死んでもなお天国に入れる見込みがない、ということを覚悟しているかどうか、これをたずねてみる必要があります。
  この原理は会社の経営者や役員や役職者についてもいえることで、およそ人の上に立つ人は、無能であれば笑われ、業績が悪ければ責任を追及され、部下に過酷であれば怨まれ、ちょっとしたことでスキャンダルを指弾されという、ひどくワリの合わない仕事をするわけですね。

 
   
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