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美しいメロディ
 
第1章 美しいメロディとはなにか

もっとも「おいしいメロディ」を聴く
  私はメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」が大好きです。映画「オーケストラの少女」でハイフェッツが弾いていた場面は忘れられませんね。この協奏曲の第1楽章の冒頭のメロディはじつに美しく、優雅で、かつ憂愁に満ちています。あのメロディを聴くと胸をかきむしられるような切なさを感じます。あれが私の考える「美しいメロディ」の1つの典型です。
  独奏ヴァイオリンが冒頭のメロディを演奏しているとき、オーケストラはごく控えめに伴奏しています。弦楽器がさざ波のような8分音符をきざみ、コントラバスが1,4のリズムで、私たちの心をどこかに向かってせき立てるように反響します。第1主題は、このオーケストラの波の上を滑るように、むせぶように流れてゆきます。
  このメロディは、この協奏曲の中のもっともおいしい部分です。このテーマさえ聴けばあとはどうでもよい、という人の気持ちが私にはよく分かります。メンデルスゾーンのヴァイオリン協奏曲にはまだまだ、おいしい部分がたくさんあります。

 たとえば第1楽章の第2主題も天上の音楽のように美しいもので、最初の穏やかな動機が少しずつ盛り上がって、ついには高いAの音に登りつめるまでのプロセスには、ほとんどエロチックなまでの生理的な快楽があります。これもまぎれもなく「美しいメロディ」です。
  第2楽章の主題も美しいものですが、私の好みでいくと最高に美しいメロディが第3楽章のなかばに出てきます。この部分は独奏ヴァイオリンの華やかで細かな動きを伴奏にしてチェロがメロディを歌う部分で、やや牧歌的な流れるような旋律が突然姿をあらわし、切なく盛り上がり、ふっと姿を消します(譜例1)。
  メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」が多くの人々に愛好され、不朽の古典の地位を占めているのは、このように人の魂に訴える美しいメロディを持っているからであり、いうなれば「おいしい部分」が全曲にわたって配置されているからではないかと思います。

 ところでメンデルスゾーンという作曲家をこの「ヴァイオリン協奏曲」によって知った初歩的な音楽ファンが、「メンデルスゾーンとは何とすばらしい作曲家なのだろう」「彼の作品はどれもこんなふうに美しいに違いない」と考えて、他の作品を聴いてみるとします。するとこの人は多少とも失望することになります。
  もちろん「フィンガルの洞窟」も「無言歌」のいくつかも美しいには違いないのですが、あの「ヴァイオリン協奏曲」が与えてくれたような圧倒的な美的感動、身も心も引き回されるような快楽を味わうことができるとは限りません。
  もちろん好みは人によってさまざまですから、「いや私は『ヴァイオリン協奏曲』よりも『フィンガルの洞窟』の方が好きだ」とか、「『春の歌』のメロディは協奏曲の主題にも負けない美しさだ」という人がいるかもしれません。
  好みの話は難しいものです。けれどもあの「ヴァイオリン協奏曲」の甘美な旋律を聴いた後でこれに匹敵するような部分を探そうとしても無理があるのです。

 「音楽作品にはそれぞれコンセプトがあり、そのコンセプトを表現する要素としてメロディやハーモニーやリズムが存在する。だからコンセプトを無視して自分好みのメロディを探そうとすることがそもそも邪道なのだ。それぞれの作品には、それぞれのコンセプトに合致した美しさがあるはずだ。私たちはそれぞれの曲の美しさを発見し、個性を理解しなければならない」。
  おそらくこれが正論でしょう。しかし私たちアマチュア音楽愛好家は一つの音楽を最初から最後まで一貫した注意力で追いかけてはいません。自分好みのメロディやハーモニーが現れると、そこに注意力が集中します。あるいはその「おいしい部分」を期待して待ち受けている、というのが本当のところです。
  オペラでも有名なアリア部分が観客のお目当てです。何かの都合でかりに「恋に生き、歌に生き」や「私の名はミミ」が歌われない「トスカ」や「ボエーム」の公演が行なわれたとしたらどうでしょうか。観客は怒り出し、「料金を返してくれ」といって主催者を責めるでしょう。これらの美しいメロディはオペラの魅力の中心部分をなしているからです。
  これでお分かりのように、一つの作品においても音楽的なテンションや魅力は一様に分布しているのではなく、「もっとも美しい部分」とこれを引き立て、演出する部分とに分かれているのです。私は本書でその「もっとも美しい部分」について、具体的な例をあげながら考えてみたいと思います。

 

ポピュラーなクラシックはすべて美しいか
  メンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」は、クラシック音楽作品の中でももっともポピュラーな作品です。ではポピュラーな作品はすべて「美しい」でしょうか。
  たとえばベートーベンの「交響曲第五番ハ短調」は「運命」の名で親しまれ、メンデルスゾーンの協奏曲に負けないほど有名です。それにまた冒頭のジャジャジャジャーンは、数知らぬほどパロディ化されており、この主題を知らない人はいません。では、「運命」のどの部分が美しいか、といわれると私など答えに窮してしまいます。
  なるほど、この曲は力強く、迫力があり、印象的です。それに第一楽章の第二主題には第一主題の男性的な激しさに対して女性的な柔らかさ、優雅さがあります。これなどはたしかに「美しいメロディ」といっていいかもしれません。

 けれども、このメロディはたえず低音部の、例のリズムによって突き上げられており、落ち着きがありません。そして現れたと思うとまもなく激しいリズムと和音の渦の中に巻き込まれて消えてしまいます。つまり、この第2主題は「美しい」といい切るには不十分であり、不適当な別の要素を伴なっています。
  再現部の第1主題に続いて現れるオーボエのソロを、「美しいメロディ」として推薦する人がいるかもしれません。私はこの意見にやや賛成ですが、なにぶんにもこのフレーズは短かすぎ、付随的でありすぎます。冒頭でメンデルスゾーンの協奏曲を「美しい」と定義して出発した立場からすると、欲求不満が残ります。
  「運命」の第2楽章、第3楽章、第4楽章のそれぞれの主題を「美しい」と感じ、あるいは主張する人もいるでしょうし、それぞれにわたって瞬間的に美しいと感じさせる部分があることも認めます。けれど手放しで「美しい」といってしまうには、あまりにも重々しかったり、力強すぎたり、烈しかったり、意味深長だったりするような気がします。
  私の独断と偏見によれば、「運命」の中からメンデルスゾーンの協奏曲と同質の「美しいメロディ」を抽出することはきわめて困難です。つまり「運命」は音楽として別種のコンセプトと、説得力と、魅力を持っているのであり、何も心をとろかすような「甘美なメロディ」を探す必要はないのです。そのような聴き方をする方が間違っている、ということになります。

 人はそれぞれに、あるいは時に応じて音楽に力強さを求めたり、シリアスな深さや、崇高な憧れを求めたりします。あるいは軽快さや、華やかさや、滑稽さを求めることもあるでしょう。私はここでは他の要素や聴き方をさて置いて、ひたすら感嘆すべき「美しいメロディ」にマトを絞って音楽を聴いてみたいと思います。
  もっとも「美しい」という評価は個人的なものです。私は本書を書き進めるにあたって、できるだけ客観性を心がけたいとは思いますが、自分の独断と偏見を排除することはできそうにありません。このような試み、あるいは私の主張や論旨がどうしてもお気に召さない方は本書を投げ捨てていただいてけっこうです。
  本書作成にあたって、私は世のクラシックファンが「美しいメロディ」をどのように考えているのかを知りたいと思いました。そこで音楽ファン、それに一般の人々を対象にアンケートを実施しました。
  第1のアンケートは、「数あるクラシック音楽のうち、あなたがもっとも美しいメロディだと思う音楽の名前を五曲選んでお答えください」というものです。第2のアンケートは、「音楽を聴いて、あなたの感想をお聞かせください」というものです。

 
 

第1のアンケート結果より
  それではさっそく第一のアンケートの結果からご紹介しましょう。これは「あなたがもっとも美しいメロディだと思う音楽の名前を五曲選んでお答えください」という質問形式になっています。質問用紙には、作曲者と楽曲名だけでなく、回答者がどの部分を美しいと思うかという、その部分を指定して書き込んでもらうことにしました。
  さて、このアンケートを誰にお願いするか困りました。クラシック音楽に興味のない人に尋ねたのでは、質問された人が困ってしまうでしょう。「クラシックが好き」と自称する人でも、音楽鑑賞の体験が乏しい人では、ごくせまい範囲からしか回答をもらえない可能性があります。
  この質問に答える回答者はかなり幅広い鑑賞体験を持ち、数多くの楽曲を知りぬいている人でなければなりません。そのような人をどこでどのように探したらいいか困ってしまいました。私は友人知人名簿をチェックしてクラシックの演奏家、音楽の先生、音楽学校の卒業者、それに程度の高いクラシック愛好家など25人ほどを選び出しました。またこれらの人々にお願いして、その人が推薦してくれる音楽家や音楽愛好家を回答者に加えることにしました。

 このようにして私は50名の回答を得ることができました。アンケートの回答数としてはちょっと少数かもしれませんが、質の高い回答を得ることができたのではないかと思います。
  たとえば回答の内容としては、「ラフマニノフのプレリュード作品23の第4番。15小節目から16小節にかけてのクレッシェンド記号を伴なう部分のハーモニーとメロディ」とか、「チャイコフスキーの交響曲第6番。第1楽章の第2主題、アンダンテになったところ」などと、質問に対する的確な回答が多く寄せられています。アンケートの趣旨をご理解いただいてご回答いただいているものと判断できます。
  ご回答いただいた方々からは、回答と同時に感想やコメントをいただきました。とくに多かったコメントは、「美しいメロディ5曲といわれて、その選定に困った」「選定に悩んだが楽しかった」というものでした。
  あとで聞いた話ですが、ある回答者――この方はとても博識の音楽ファンですが――この方の場合、アンケート用紙に曲を書いたり消したりしているうちに、用紙に穴があいてしまったそうです。そこで別紙にワープロで回答を作って投函していただいたのですが、ポストに投函したとたん「しまった、あの曲があった!」というので、郵便車を待ってその用紙を取り戻そうと思ったくらいだ、とお聞きしました。

 また中には、「5曲という指定であるけれど、とても絞り切れないので10曲あげさせていただいた」といって、10曲のリストを提示された方が2人おられました。回答の中には、楽譜がついていて、そこに「この部分が美しい」というように明確な指定があるものや、「これを聴きなさい」と、録音テープまで送ってくださった回答者もあります。筆者の気まぐれな思いつきに対して、これほど真剣に対応していただいた回答者の方々に心から感謝いたします。
  私はこのアンケート実行にさいして、回答者である音楽の有識者から強い反発を受けるのではないかと内心びくびくしていました。というのは「美しいメロディ」を何ら定義することなく、5曲選べなどというのはいささか乱暴な話だからです。音楽と聴き手の関係は内的、精神的なものです。それをアンケートして、どの曲が何パーセントなどと分析するのは「音楽に対する冒涜だ」などといわれやしないかと恐れていたのです。
  果たせるかなある回答者から、アンケート回答用紙とともに次のような不快感をあらわすお便りが一通届きました。「アンケートの目的に疑問を感じる。一応回答はするが、統計的に何パーセントなどということをやらないでもらいたい」。そういわれるのも当然のことで、この回答者に不快感を与えてしまったことをお詫びしたいと思います。

 しかし何はともあれ、読者の皆さんとしては、そのアンケートの結果がどうであったか知りたいと思われるでしょう。そこでご回答をいただいた楽曲をすべてリストにしましたので、ごらんください(巻末資料)。
  回答いただいた楽曲はのべ261曲あります。50人に対して5曲ですから本当は251曲となるはずですが、回答者の中に10曲回答された方や5曲未満の方もいましたので、このような数になりました。これを同じ楽曲を1曲と数えてカウントすると、全部で218曲になります。回答者の皆さんが「美しいメロディ」をいかに多様に捉えているか分かりますね。
  例の不快感を示された回答者からは、「統計処理をしてくれるな」というご希望がありましたが、やはり全体の傾向を知るには回答数を数えなければなりませんので、まず回答傾向を作曲者別に見ることにします。

 作曲者としてもっとも人気があったのはモーツァルトです。モーツァルトの楽曲は23曲あげられています。これに続いて人気があったのはショパンとバッハで17曲、これにブラームスの16曲が続きます。
  次に同じ曲への回答の集中を見てみます。同じ曲でもっとも人気があったのはバッハの「G線上のアリア」で、7人の回答者がこの曲の名をあげています。これはもともとニ調の曲で、このメロディを19世紀のヴァイオリニスト、ウイルヘルミがト調に移しヴァイオリンのG線だけで演奏するようにしました。そこから「G線上のアリア」と呼ばれているのですね。
  不思議なことに回答はいずれも「バッハ・管弦楽曲第3番、第2楽章」と書いた上で、「G線上のアリア」としてありますので、私としては「一般的に、『G線上のアリア』として親しまれている曲。ただし『美しいメロディ』としてあげるのはニ調の原曲の方」という意味に解釈することにします。いずれにしてもこれが第1位です。

 2位は同点で3曲あります。まずグリーグの「ペールギュント組曲」より「朝」、ついでドビュッシーの「ベルガマスク組曲」から「月の光」、パッヘルベルの「カノン」の3曲で、それぞれ4人の回答者が支持しています。
  グリーグの「ペールギュント組曲」ですが、これはご承知のようにイプセンの劇詩につけられた舞台音楽「ペールギュント」からの抜粋音楽ですね。「朝」と呼ばれている曲は、第4幕の前奏曲で「朝のすがすがしさ」と名づけられた曲です。グリーグという名から、私たちはこの曲を聴くと北欧の朝を連想してしまいますが、劇の内容から判断すると、これはサハラ砂漠に昇る朝日の情景を表現したものですね。
  ドビュッシーの「ベルガマスク組曲」は、ドビュッシーの初期を飾るピアノ小品曲集ですが、中でも幻想的な雰囲気を持つ「月の光」は圧倒的にポピュラーになりました。
  パッヘルベルはバッハよりも古いドイツの作曲家ですが、彼についてはこの有名な「カノン」以外にはあまり知られていません。この曲は今日ではさまざまな編曲で演奏されていますが、オリジナルは4重奏によるトリオソナタです。
  正直のことをいうと、私はパッヘルベルの「カノン」の良さがいまだによく分かりません。しかしこの曲は、グリーグの「朝」、ドビュッシーの「月の光」とともに4名の支持を得て、堂々2位にランクされています。

 3位の曲は3名の支持を得た5曲です。すなわちショパンの「12のエチュード10−3(別れの曲)」、スメタナの交響詩「モルダウ」、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第2番第1楽章」それにシューベルトの「冬の旅より第11曲春の夢」、マスネーの「タイースより間奏曲タイースの瞑想曲」です。
  このほかに2人の回答者が支持した曲が何曲かありますが、残りの191曲あまりはすべて支持者1名による各自の「美しいメロディ」です。考えてみるとずいぶん回答結果が分散していますね。今回のアンケートはわずか50名という数少ない対象者に対するものではありましたが、恐らく調査対象を増やしたとしても、それぞれの回答者が答える曲の数が分散し、同じような結果になるのではないかと思われます。
  とくに回答者がいろいろな作品を知っていて、選択、検討の幅が広がれば広がるほど「美しいメロディ」としてあげられる曲の数が増えるのではないかと想像されます。

 
 

人それぞれの「美しいメロディ」
  私が本書の冒頭で「美しいメロディ」の典型としてあげたメンデルスゾーンの「ヴァイオリン協奏曲」ですが、今回の50名の回答者の中で、この曲をあげた人は1人もいませんでした。もしかしたら、回答者が「メンコンなんて、ポピュラーすぎていまさら書けるかい」というのでこの曲は意図的に外されてしまったのかもしれません。
  アンケートの結果を見ると、音楽家あるいは音楽愛好家が考える「美しいメロディ」は、じつに個性的で多様なものだと結論せざるを得ません。まず音楽作品そのものが数多く多様であり、それぞれに美しさを持っている上に、聴く人の好みや思い入れが入るわけですから、回答が同一作品の同一部分に集中するなんてあり得ないことかもしれません。
  このことは、「美しいメロディ」というものを客観的に規定したり、とらえることができないということを物語っているように思えます。例の「統計処理などしてくれるな」というご意見に従うまでもなく、「あなたにとって美しいメロディとは?」という問いに対する答え自身が、統計的なものの見方を拒否していたと考えていいでしょう。

 ところがそれでも、私は「美しいメロディ」が、はっきり、かなり客観的に存在するような気がするのです。たとえばメンデルスゾーンの作品はどれも美しく申し分なく完成されていると思いますが、彼の作品中でもメロディの美しさという観点から見た場合、「ヴァイオリン協奏曲」の、私が先に申し上げた部分は圧倒的に美しいと思われます。とびきり美しいメロディは、同じ作曲家の作品の中でも、かなり限られたものである、というのが私の主張です。
  私はあるとき名人級のヴァイオリニストが、ふと次のように洩らしたのを聞いたことがあります。「長いこと演奏活動をしてきたが、自分でも満足できる演奏は、これまでに2度しかなかった」。同じことが作曲家についてもいえるのではないでしょうか。
  私たちがクラシック音楽と呼ぶジャンルの音楽は、400年ほど前にヨーロッパで始まり、すでに終わった音楽です。この音楽潮流を支えた音楽家、すなわち作曲家や演奏家はたくさんいましたが、今日私たちが知っている著名な作曲家はせいぜい100人程度に限られています。
  もちろん丹念に探せば、埋もれた天才作曲家や、埋もれた名曲を見つけることができるかもしれません。けれど、私たちが認識できる範囲のクラシック音楽を考えた場合、400年の歴史を支えたのはわずか100人程度の天才たちだったといっていいでしょう。

 
 

「美しいメロディ」は限られている?
  トマス・クーンは、「科学革命の構造」という本の中で、科学の発達、科学の歴史が連続的に一様に進歩してきたのではなく、限られた天才たちの革命的なパラダイムの転換によって、はなはだ不連続になしとげられたといっています。
  私は同じことが音楽の歴史についてもいえるのではないかと思います。つまり、クラシック音楽の歴史を作ったのは、ほんの一握りの天才たちであったということです。その数は多く数えても100人程度ということですね。残りの音楽関係者はこの天才たちの作品を伝え、普及し、模倣したり、評価したり、愛好するという側に回ったのです。
  いまかりにこの100人の天才たちが、1人につき生涯に200タイトルの音楽を作曲したとしてみましょう。すると私たちは現在、約2万タイトルのクラシック音楽を文化遺産として所有していることになります。「そんなに・・」という人がいるかもしれませんが、私は思いのほか少ないのではないかと思います。
  いうまでもなく2万タイトルの作品がつねに均等に演奏されたり、鑑賞されたりしているわけではなく、その中のもっとも名高いもの、完成度の高いもの、演奏家が愛好するもの、そして人々が愛好するものが限定的に取り上げられ、供給されているわけです。
  これらの作品はそれぞれに異なったコンセプトを持っています。だからこれらの作品のどれもが私が主張する意味での「美しいメロディ」を持った音楽とはいえないと思います。ということは、「美しいメロディ」を持つ音楽はおそらく数多いには違いありませんが、限定された作品の中で、さらに限定されるということになります。

 もちろん私たちが日頃耳にすることができる音楽以外にも、きっと埋もれた、美しい作品がたくさんあるに違いありません。けれど専門家でない私たちには、未知の作品にアプローチする手がかりがありませんから、与えられている範囲で自分の好みを選ぶことになります。
  1人の作曲家の中でも、作品の出来不出来があるでしょうし、作品や主題のコンセプトも異なるはずです。このように考えてくると、「美しいメロディ」という音楽のもっともおいしい部分は、人類の資産としては「限定中の限定版」であると思われます。
  さきほど私は、「美しいメロディ」の回答数は、回答者が増え、回答者の見識が高くなり、選択肢が増えるにつれてどんどん増えるといいましたが、あるところで拡大の限度に達し、「美しいメロディ」についてコンセンサスが得られるに従って、楽曲が絞られるに違いありません。

 ところで、「美しいメロディ」探し、というこの私の試みについて、「まるで音楽のメンクイじゃないか」と反論される方もおられるのでしょう。まったくその通りで、私としては返す言葉がありません。男性がとりわけ顔立ちの美しい女性にひかれるというのは事実です。恐らくその逆も事実でしょう。
  人柄や教養に関係なく、顔立ちだけで好みを選択することを「面食い」といいますが、この面食いマインドが美人コンテストや、タレントたちの人気の温床です。私は音楽についてこの面食いマインドを発揮し、音楽における美人コンテストをやろうとしているのです。さいきん「美人コンテスト」については社会的な批判が高まっていると聞きますが、音楽の美人コンテストならかまわないでしょう。
  私は音楽の価値は、部分的なメロディの美しさだけでは決められないことを充分承知しております。そして自分が日頃鑑賞する音楽も、かならずしも「美人」の基準に合致しているものだけではありません。しかし音楽がもっとも美しいメロディの部分にやってくると、心身が恍惚となり、一瞬忘我の状態に陥るということは否定できません。

 フランスの哲学者アランは美しい詩句についてこういいました。「美しい詩句を耳にすれば、人間という生理的存在は、そちらの方へ頭を向けて、そのあいだ儲けのことは忘れている」。また彼は、美しい歌について「叫びは逃げる一匹の動物であるが、歌は天がける。歌は安心させ、堅固にする。歌は保証の使者である」といいました。
  私たちは日頃必死になって食料を追いかけているのですが、美しいメロディが聴こえてくると立ち止まります。そして一時的に食料のことを忘れてそちらに耳を傾けます。食料の狩人でもありながら、美の狩人でもある、これが人間という動物の不思議な特性です。
  私たちが感情にまかせてむやみに声を出そうとするなら、それは「叫び」にしかなりません。叫びを歌にするためには、自分の声をコントロールしなければなりません。つまり、心身を整えなければなりません。そしてよく歌おうとすることは、より美しく歌おうとすることです。 
  「歌は安心させ、堅固にする。歌は保証の使者である」とは、音楽の美が人間を人間らしく落ち着かせ、自分の精神を整えさせ、私たちが獣であることから救ってくれる、ということです。音楽のすばらしさを「美しいメロディ」という側面から考える試みは、音楽愛好家たちの顰蹙を買うかもしれませんが、この点でお許しいただければと思います。

 
 

第2のアンケート結果より
  第1のアンケート「あなたにとって美しいメロディとは?」の結果は、ずいぶん多彩、多様なものとなりました。それは「美しいメロディ」が数多い、ということの証明です。また人によって「美しいメロディ」の基準が違う、ということの証明でもあります。
  たとえば同じ音楽の美しさでも、「若々しく、はつらつとした美しさ」というのと、「神々しい、崇高な美しさ」、あるいは「メランコリックな美しさ」というのでは、ニュアンスが違いますね。ですから「はつらつとした美しさを持つ音楽をあげてください」といわれた場合と、「メランコリックな美しさを持つ音楽をあげてください」といわれた場合では、きっと答えが違ってくるでしょう。
  「いい音楽はすべて美しいのだ。ただ、どのように美しいのかが違っているだけだ」という意見があるとすれば、これも当たっていると思います。

 第1のアンケートで、私は「美しい」という言葉を定義せずに質問を行ないました。回答者は自分なりの好みで「美しさ」の方向を決定し、あるいはそれぞれの美しさのニュアンスを曲ごとに想定しながら回答していただいたことになります。そこで次に「人々はどんな曲を美しいと考えるか」について、調べてみました。
  第2のアンケートはあらかじめテープに録音した同じ音楽を聴いて、聴き手がその音楽をどのように感じるかをいくつかのキーワードの選択によって回答してもらうと同時に、それをどの程度「美しい」と思うか、どの程度「好き」か、を回答してもらうものです。
  このアンケートに答えていただいたのは、第1のアンケートの回答者ではなく、ごく一般の人々50人です。
  回答者にはあらかじめキーワードを書いた回答用紙を手渡し、音楽を聴いて自分の受けた印象や感想を、それにもっとも近いキーワードを選ぶことで回答してもらうことにしました。また同じ曲について、自分が「美しい」と感じる度合い、それに「好き」と思う度合いを5段階のどこかに印をつけて選んでもらうことにしました。私が音楽の感想キーワードとして選んだのは、次のようなものです。

 「神々しい」「静謐な」「幽玄な」「透明感のある」「みずみずしい」「清潔な」「さっそうとした」「うきうきした」「はつらつとした」・・など全部で48種類のキーワードです。もちろん音楽の印象は音楽的なもので、これを言葉に置きかえることはできません。けれども言葉に置きかえなければお互いに印象を情報として共有できませんから、やむを得ません。これは他のイメージ調査などでも同じようにぶつかる問題です。
  さて回答用紙の設計ですが、これらのキーワードをランダムに並べておいて選択してもらうというのでは、答えにくいに違いありません。そこで私は、48種類のキーワードを類似の因子で寄せ集めながら、タテ、ヨコそれぞれ4つの段階を持つマトリクスの16象限を作り、「音楽鑑賞マトリクス」を作ってみました。

 
 

音楽鑑賞マトリクスを尺度とする 
  この音楽鑑賞マトリクスを作るにさいしては、上下の軸と左右の軸をどのように設定するのかを考えてみました。いろいろな軸で試した上、タテ方向に「情念」の軸を、ヨコ方向に「ダイナミズム(音楽の動き)」の軸を取るというのが、もっとも分かりやすく、納得がいくように思われました。
  すなわち、タテ方向については上の方にいくほど人間の個人的な情念から遠ざかり、下の方にいくほど個人的な情念に近づくというように考えました。また、ヨコ軸については左側にいくほどダイナミズムが少なくなり、右にいくほど大きく激しくなる、というように設定しました。

 私の区分によると、人間の個人的な情念からもっとも遠いフィーリングで、かつダイナミズムの少ないキーワード群は「神々しい」「静謐な」「幽玄な」となります。これに少し動きが加わると、「透明感のある」「みずみずしい」「清潔な」、そしてさらに進むと「さっそうとした」「うきうきした」「はつらつとした」というふうに変化します。この段階でもっともダイナミズムの大きいゾーンには、「勇壮な」「堂々とした」「広がりのある」というキーワード群が当てはまります。
  ではもっともダイナミズムの低いレベルで、タテ方向にキーワード群を整理してみます。「神々しい」「静謐な」「幽玄な」というキーワードに、ほんのわずかだけ人間的なニュアンスを加えると「簡素」「おだやか」「単純」となります。これにさらに情念的な要素を加えると「愛らしい」「やさしい」「甘い」となります。さらにもっとも情念的な段階では「なつかしい」「メランコリック」「やるせない」となります。

 ダイナミズムをやや加えた第2の系列をタテ方向に見てゆくと、最初のゾーンが「透明感のある」「みずみずしい」「清潔な」、次のゾーンが「牧歌的」「のどかな」「朗らかな」となります。ついで「優美な」「官能的な」「繊細流麗な」というゾーンとなります。最後にもっとも情念的なレベルのゾーンは「切ない」「感傷的な」「哀傷感のある」となります。
  このような私のキーワードの抽出、分類、それに解釈とレベル設定について、読者の皆さんとしてはおおいに異論があることでしょう。「いや、その言葉は適当でない」とか、「そんな分類はおかしい」とか、「類似というが意味が違うじゃないか」など。それに「そんな言葉遊びに意味はない」とか「客観性がない」といった批判もあることと思います。まったくその通りです。
  「そもそもキーワードがおかしいんじゃないか」などというご意見もあろうかと思います。これまたもっともです。この「音楽鑑賞マトリクス」における尺度はきわめて定性的なもので、さらにあくまで私の独断と偏見の産物であることを認めなければなりません。私は今、何とかして「美しいメロディ」をつかまえようとしているのですが、おそらくそのこと自体が無理なのかもしれません。

 しかしなにしろ乗りかかった船ですから、このまま話を進めさせていただきます。私のキーワードや分類がどうしても気に入らない方は、ご自分で独自の尺度を作ってごらんになることをおすすめします。
  この調査のために選定した音楽は全部で15曲です(表1)。聴いてもらう音楽はそれぞれ冒頭の部分から約1分間、あるいはメロディが出現するところから約1分間としました。
  古典的なソナタ形式の楽曲で考えると、多くの曲は2分程度で「提示部」が終了します。したがって最初の1分の間には第1主題も第2主題も現れる可能性があります。聴いている人にとっては印象はどんどん変化するに違いありません。音楽の鳴り始めの印象をとらえるか、第1主題の印象をとらえるのか、第2主題の印象で考えるのか、それによって回答は違ってくるに違いありません。けれどこの点について、私はいっさい回答者におまかせすることにしました。

 
 

「美しさ」にも色合いがある
  それでは「音楽感想マトリクス」による回答者の反応を見てみましょう。
  第1曲、シューベルトの「ヴァイオリンソナタ・ニ長調」第1楽章の冒頭に対する回答者の反応は図5のようになりました。これでみると、I=「さっそうとした」「うきうきした」「はつらつとした」、J=「軽快な」「切れ味の良い」「ユーモラスな」のゾーンを選択している人が圧倒的に多く、ついで、M=「勇壮な」「堂々とした」「広がりのある」、それにN=「躍動的な」「荒けずりな」「力に満ちた」と、G=「優美な」「官能的な」「繊細流麗な」のゾーンが同数選択されています。

 前記のほかに少数の回答がE、B、F、C、D、Kのゾーンに散らばっていますが、回答は少数です。A、O、H、L、Pのゾーンにはまったく反応が見られません。
  第二曲目はマーラーの「交響曲第5番・嬰ハ短調」第四楽章の冒頭です。この音楽はヴィスコンティの映画「ヴェニスに死す」でも使われたことのある、美しい名曲ですね。第一のアンケートにおいてもこの曲を「美しいメロディ」として推薦している方がいるくらいです。
  この曲に対する反応は、図6のようになりました。驚いたことに、反応は大部分がマトリクスの左側に集中しており、タテ系列で見ると第2列目の反応が強くなっています。ゾーンへの集中傾向を見ると、もっとも回答数が多いのはH=「切ない」「感傷的な」「哀傷感のある」で、次にA=「神々しい」「静謐な」「幽玄な」となっています。
  一見矛盾しているように見えますが、この回答はマーラーの曲の特性をじつにうまくいいあらわしているようにも思えます。いずれにしてもきわめてはっきりしたイメージ・プロフィルを持っている曲ですね。

 つぎに第3曲目、チャイコフスキーの「瞑想曲・作品42」の結果を見てみましょう。この曲は冒頭のハープの前奏が終わった後のチェロのメロディから聴いてもらっています。これまた回答傾向がはっきりしていますね。五〇名の回答者のうち35名、すなわち70%が H=「切ない」「感傷的な」「哀傷感のある」というゾーンを指定しています。この曲はチャイコフスキー特有のメランコリックな旋律が流れるものですが、聴き手はみごとにこの曲のイメージを伝えています。

 第4曲目は、ハチャトゥリアンの「ヴァイオリン協奏曲・ニ短調」第1楽章の冒頭ですが、ここでは聴き手はO=「激情的な」「熱狂的な」「鋭くはげしい」というキーワードのゾーンを選んでいます。また次いでN=「躍動的な」「荒けずりな」「力に満ちた」というゾーンを選んでいます。いずれにしてもイメージ・プロフィルははっきりしています。

 第5曲、グリーグの「チェロソナタ・作品36」の場合は回答傾向がかなり分散していますね。この曲の中にさまざまなイメージの因子が含まれているということでしょう。しかし回答の中心は、L=「わりきれない」「不安定な」「悲痛な」というゾーンに集まっていることが分かります。どちらかというと図の右下側に回答傾向が集まっているパターンです。

 これが第6曲目、バーバーの「ピアノ協奏曲・作品38」になると、もっと極端で、回答のかなりの部分が、P=「不気味な」「悪魔的な」「不条理な」のゾーンに集まっています。

 このようにしてみると、一般の人々が音楽を聴いたときに感じる印象を、音楽感想マトリクス上の回答傾向のパターンとして描き出すことができそうですね。もちろん一つの曲でも印象が次々に変化してゆくということがあります。とくに長い曲の場合には、部分部分が持つ固有の印象やイメージが変化してゆきます。
  そのような場合には、私たちの気持ちはこのマトリクスの上を右から左へ、左から右へ、あるいは右から上にというように、揺れ動いてゆくことになるのでしょうね。

 
 

「好み」と「美しさ」の関係
  さて、第2のアンケートのもうひとつの結果である「好み」「美しさ」を、回答者がどのように答えたのかを見てみることにしましょう。
  曲に対する好みと美しさの判断は、それぞれの回答者に5段階法で回答してもらいました。ちなみに「好きでも嫌いでもない」というのを中間値「0」とします。「やや好き=1」「とても好き=2」とします。反対に「やや嫌い=マイナス1」「とても嫌い=マイナス2」とします。

 手元に集まった合計点から判断すると、準備した15曲のうち回答者がもっとも好きな曲はモーツァルトの「フルート協奏曲・第2番・ニ長調」で、総得点64点となっています。第2位はショパンの「ノクターン第21番」で61点を確保しています。続いて第3位はドビュッシーの「ビリチスの歌」で、これは57点をとっています。
  では嫌いな曲はどうでしょうか。嫌いな曲のナンバーワンはジョン・ケージの「Libnasikon path」で、これはマイナス55点ともっとも悪評はなはだしいものです。嫌いな曲の第2位はシェーンベルクの「セレナード・作品24」です。これはマイナス31点となっています。
  同じ要領で「美しい」と感じる度合いを見てみますと、「美しい」の第1位はやはりモーツァルトの「フルート協奏曲」、第2位はショパンの「ノクターン」となりますが第3位はドビュッシーをおさえてルクーの「ヴァイオリンソナタ」が現れます。
  反対に「美しくない」のナンバーワンは、シェーンベルクの「セレナード」で、第2位がジョン・ケージとなります。つまり回答者は、ジョン・ケージをもっとも嫌いだとしているのですが、音楽の美しさという点ではシェーンベルクよりはましだとしていることになりますね。つまりここでは「好き嫌い」と「美しいかどうか」という判断の間には関連があるが、微妙なずれがあるということになりますね。
  いまタテ軸に「美しさのスコア」を取り、ヨコ軸に「好みのスコア」をとって、それぞれの曲の得点がどの位置にプロットされるか作図してみます。図12でごらんのように、曲は右上がりの直線に沿って分布していることがお分かりでしょう。右上にいくほど、回答者が「美しいと思うし好きでもある」とした曲ということになります。

 このようにしますと、それぞれの音楽の好みと美醜認識の位置関係、距離関係を大づかみにすることができます。ちなみに「美しさ」と「好み」の相関係数(どの程度相互に関係があるかを示す指標)は、0.96となっていますが、これは統計的にいって両軸に非常に密接な関係があることを示します。
  音楽を聴いて「美しい」と感じる人は、同時にその曲を「好きだ」と感じる可能性が高いということになります。

 
 

「美しさ」の色合いは限定されている
  それでは、ここで人々が「美しい」と感じた曲が、音楽感想マトリクス上でどのようなパターンを示していたのか、反対に「美しくない」とされた曲がどのようなマトリクス上のパターンを持っていたのかをチェックしてみましょう。
  このテストで「もっとも美しい」とされた、モーツァルトの「フルート協奏曲」に対する「音楽感想マトリクス」上の回答傾向を見ますと、もっとも反応が集中したのはI=「さっそうとした」「うきうきした」「はつらつとした」というキーワード群で示されるゾーンです。

 この曲に対する聴き手の印象はどちらかというと「非情念」であり、「ややダイナミズムをともなった」というところにあります。人間くさい悩みや、うじうじした感傷を吹き飛ばしてしまうような、生気あふれる男性的な動きのある音楽特性が「美しい」、あるいは「好き」という評価に結びついている、と解釈することができます。
  第2番目に「美しい」とされた、ショパンの「ノクターン」はどうでしょうか。これはモーツァルトの協奏曲とはまったく対照的ですね。もっとも回答が集中しているのは、H=「切ない」「感傷的な」「哀傷感のある」というもので、これにG=「優美な」「官能的な」「繊細流麗な」のゾーンへの反応が続いています。

 さきほどモーツァルトの協奏曲でもっとも集中した「I」のゾーンへの回答は一つも見当たりません。まるでモーツァルトに対する場合のゾーンを避けるようにして回答が集中しています。ここでは静かで物思いにふけっているような、女性的なエレガントさが「美しい」、あるいは「好き」という評価に結びついていることを見ることができます。
  では第3番目に「美しい」とされたルクーの「ヴァイオリンソナタ」はどうでしょうか。この曲に対する反応パターンはまた変わっています。この曲に対する印象はマトリクスの左側に比較的均等に分散しており、特別に集中しているゾーンがありません。あえていえば、C=「愛らしい」「やさしい」「甘い」と、E=「透明感のある」「みずみずしい」「清潔な」のゾーンに比較的回答が多くなっているということでしょうか。

 ここでは情念的には多様で複雑な色彩を示しながら、静かに落ち着いた歩みを持つ音楽の美に対する評価を見ることができます。モーツァルトやショパンにくらべると、ルクーの「ヴァイオリンソナタ」はずっとマイナーで、耳になじみのない曲ではないかと思いますが、聴き手がこの曲を「美しさ」の第3位にマークしているのは、ちょっとした驚きでした。
  以上「美しい」とされた曲の、音楽マトリクス上のプロフィルを見てきたわけですが、このようにしてみると、「美しい」という因子はかなり多様で、かならずしも音楽の印象をあらわす特定のキーワードによっては規定できそうにないということが分かります。
  では次に「美しくない」とされた音楽について、それらがどのようなプロフィルを持っているかを調べてみましょう。「美しさ」評価のワースト1位はシェーンベルクの「セレナード」でした。シェーンベルクには気の毒ですが、結果を見てみましょう。

 この曲に対する回答は、P=「不気味な」「悪魔的な」「不条理な」、L=「わりきれない」「不安定な」「悲痛な」、それにJ=「軽快な」「切れ味の良い」「ユーモラスな」という三つのゾーンに集中しています。この音楽の不条理感と独特の諧謔性が、回答によってみごとに指摘されていますね。
  このような不安定感、不気味さ、それでいて人を食ったような諧謔性、聴き手はこれを嫌ったようですね。もっともシェーンベルクにすれば「私は人々がそのような感情を催すことを狙って作ったのだ」ということになるでしょうから、そうであれば音楽のコンセプト表現には成功しているわけです。しかし聴き手には聴き手なりの拒否権があり、それをここで発動しているわけですね。
  ワーストの第2位は、ジョン・ケージの「Libnas ikon path」で、この曲は「嫌い」のチャンピオンだったものです。この曲に対する反応は、少数派の回答が分散していますが、全体としてはL=「わりきれない」「不安定な」「悲痛な」に集中し、ついでP=「不気味な」「悪魔的な」「不条理な」に集まっています。シェーンベルクの曲から諧謔性を取り除いたようなプロフィルになっています。

 「美しくない」曲の第3位であるバーバーの「ピアノ協奏曲」は、P=「不気味な」「悪魔的な」「不条理な」のゾーンに対する回答傾向がきわめて顕著です(図10)。
  このようにしてみると、音楽マトリクスとの関係で、マトリクスの右下に反応が集まるような曲はおおむね「美しい」とは見なされない、ということが分かりますね。また「美しい」とされる曲がおおむねマトリクスの左半分に分布する傾向があるのに対して、「美しくない」とされる曲はマトリクスの右側に分布する傾向があることが分かります。
  ただし、同じ右側でもモーツァルトの協奏曲のように、不条理感のないダイナミズムは歓迎されています。たとえばベートーベンの「命名祝日のための序曲」などは、圧倒的にM=「勇な」「堂々とした」「広がりのある」のところに回答が集まっているのですが、それでも「美しさ」という点でのスコアはかなり高くなっています。

 「美しい」が多様であるのに対して、「美しくない」は傾向が類似しています。これはおそらく調性に関係があるのでしょう。聴き手がマトリクスの右下に反応するのは、古典的な調性の未解決性に対応するものと考えてもよさそうです。
  全体を通してパターン形成の傾向を見ると、古典的な調性が明快な音楽は図の中央から右側に回答が集中し、ロマン派的な情緒を持つ音楽は中央からやや左に、和声が複雑だったり、調性が崩れつつあるような音楽は右下に集中する傾向があることが分かります。
  この実験はずいぶん主観的な、荒っぽいモノサシを使ったものです。用いたキーワードも不十分で、サンプルの数も少ないとお叱りを受けるかもしれません。それでもこの実験を通して、聴き手が音楽の印象をかなり忠実にとらえ、それぞれの角度から音楽の持っている特性を全体として描き出していることが分かりますね。
  音楽の受け取り方、感じ方は各人各様でいいわけですし、また音楽のどの部分に注意して印象を取り上げるかによっても回答は全く違ってきます。またそれでいいわけです。それでも私たちは誰でもが音楽の特徴を的確にとらえ、かなり共通の基準にしたがって判断しているといってさしつかえないと思います。

 音楽の美しさに対する感覚は時代によって変化しますし、同じ一人の人の中でも変化します。たとえば、バロック音楽が盛んな時代に突然ロマン派の音楽を聴いたような人がいるとすれば、ずいぶん奇妙で、風変わりな音楽だと思い、「美しい」とは感じなかったかもしれません。
  モーツァルトもベートーベンも、ある意味では時代に先んじていた作曲家です。彼らは新しい音楽の時代を作り出した天才です。ですから当時の人々にしてみれば「ずいぶん目新しい」「新しすぎてついていけない」などと思ったかもしれません。
  個人的な音楽体験という面でも同じことがいえます。マーラーやR・シュトラウスの音楽などは、古典的な音楽だけを聴きなれた耳には、ひどく難解に、複雑に聴こえます。そのために始めのうちは「美しい」と感じることができない、ということがあるかもしれません。ところが聴いているうちにだんだん美しさが分かり、古典的な楽曲だけでは物足りなく思えてしまうなどということがあります。

 たとえば正直のところ、私にはこのアンケートにあげたシェーンベルクに代表されるようなウイーン楽派、そしてこれに続く現代音楽の美しさを十分に理解することができません。私としてはこのアンケートの回答結果にはなはだ共感できます。私が現代音楽を理解できないのは、おそらく私の音楽的な鑑賞体験が少ないためと、新しい音組織を受け入れる教養が不足しているからに違いありません。
  私自身の好みを白状すると、このマトリクスの左側からやや右上にかけて分布しています。私はロマン派的な特性を持つ優美で流麗な音楽、人間的な情念を甘美に表現した音楽を「美しい音楽」と感じてしまいます。人の好みはさまざまですから、みなさんもそれぞれに、ご自分なりに「美しい」と感じる領域を確認し、確保されてはいかがでしょうか。

 
   
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