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美しいメロディ
 
第2章 賢者たちが美しいと考えた音楽

マルシュアスの「美しいメロディ」
  古今の賢者たちが「美しい音楽」「美しいメロディ」をどのように考えたか、振り返ってみることにしましょう。西洋音楽のおおもとはギリシャ神話にさかのぼることができます。ご存知のようにミュージックという言葉はムーサ(またはムーサイ)、すなわちミューズの女神の名に由来しています。
  ミューズの女神の母親はムシュモネという女神で、この女神は記憶をつかさどっています。文字や楽譜などを持たなかった古代人にとって、記憶力が芸術実践の条件であったという考えが示されています。ミューズの女神の父親は全能のゼウス神です。ゼウスはムシュモネのもとに九晩通い、九人の学芸、音楽の女神が生まれました。この九人セットの女神がミューズです。
  九人の女神にはそれぞれ担当があります。長女のカリオペは叙事詩を担当します。次女のクレイオは歴史を担当します。メルポメネは悲劇を、エウテルペは抒情詩、エラトは恋愛詩、テルプシコラは舞踏、ウラニアは天文と占星、タレイアは喜劇、ポリヒュムニアは音楽と幾何学を担当します。

 これでみると、今日でいうところの純粋音楽を担当するのは末妹のポリヒュムニアで、しかも彼女も幾何学との兼務ということになっています。私たちはミューズの女神というと、まるで純粋音楽だけをつかさどっているように思ってしまいますが、当時の人々は、音楽について各種の「詩」――もちろん叙事詩などは竪琴を伴奏にして朗誦されるわけですが――を中心とする学芸や芸術を総合的にイメージしていたことが分かりますね。
  ギリシャの神々もなかなか音楽好きです。商業の神として知られるヘルメス神は、干上がった亀の甲羅に弦を張り、最初のハープを作りました。彼はこれをアポロン神に贈呈しましたので、アポロン神が「音楽の神」ということになりました。アポロン神が祭られているのは、ギリシャ北部のデルフィですが、この裏山がパルナッソスです。ミューズ神たちはこのパルナッソスの頂上が好きで、いつもここに集まって歌ったり踊ったりしています。

 知恵の女神として知られるアテネ神は、あるときタテ笛を作りました。ところが笛を吹くとほっぺたがふくらむので、「あたしの美貌がだいなしになる」と、笛を捨ててしまいました。この笛を拾ったのは、地上にいたマルシュアスというパンの神(サチュロス)です。
  彼はこの笛を熱心に練習してとても上手になりました。森や川も彼の笛の音にほれぼれと聴き入りました。マルシュアスの評判があまりにも高くなったので、音楽の神アポロンが機嫌を悪くしました。彼は「音楽試合をやろう」といって、いやがるマルシュアスを引き出しました。

 これは音楽コンクールのはしりですが、このコンクールには「賞」というものがなく、敗者に対する「罰」があるだけでした。負けたものは勝ったものにどうされてもいい、というルールです。アポロンもマルシュアスもそれぞれに演奏を披露しましたが、どちらもみごとな音楽で優劣がつきません。
  アポロンは次第に焦ってきました。音楽の神が位の低いサチュロスごときに負けたのでは沽券にかかわります。そこで彼はいきなり竪琴をさかさまに持って音楽を演奏しました。そしてマルシュアスに向って、「お前が音楽の名人というなら、このように楽器をさかさにして演奏して見よ」といいました。
  アポロンが持っていたのは竪琴ですから、さかさまにしても何とか演奏できるかもしれませんが、マルシュアスのはタテ笛です。さかさまにして演奏なんてできるはずがありません。このようにしてマルシュアスは試合に敗北しました。

 アポロンはルールにしたがってマルシュアスの生皮をはぎ、逆さ吊りにするという極刑を課しました。アポロンはマルシュアスの演奏によほど脅威を感じたに相違ありません。
  このコンクールには何人かの審査員が出席していました。ミューズ神たちが主審をつとめていましたが、審判の一人にフリギアのミダス王がいました。彼は最後までマルシュアスの演奏のほうが良かったと主張しました。マルシュアスの哀調を帯びた笛の音が、ミダス王の心をとらえたのです。
  ところがミューズ神たちでさえアポロンの勝ちを認めているのに、一人だけマルシュアスを支持しているミダス王をアポロンは「けしからん」と思いました。アポロンは「音楽の良し悪しを分からぬお前の耳は、ロバの耳だ!」と怒鳴りました。
  するとミダス王の耳はロバの耳になってしまいました。王様は耳を隠して国に帰りましたが、この件は床屋の知るところとなり、ついには国民にも知られてしまいました。
  それにしても日頃端正で理知的なアポロン神も、この件ではやけにわがままで、粗暴という感じがしますね。私としては、マルシュアスがあのときに奏でていた音楽が、「美しいメロディ」に該当するのではないかと思っています。

 

地獄の王を感動させた「美しいメロディ」
  人間としての最初の、最大の音楽家はオルフェウスでしょう。オルフェウスがハープをとって歌うと、鳥や獣や昆虫までもが集まってきました。オルフェウスは美しい妻エウリディケをめとりましたが、結婚してまもなく彼女は毒蛇に噛まれて死んでしまいました。
  当時の人々は死ぬとハデス大王が治める地獄に行きます。オルフェウスは妻を帰してもらうために地獄に出かけました。そして大王ハデスの前で、妻を失った悲しみを切々と歌い、妻を帰してくれるよう嘆願しました。情け知らぬハデス大王も彼の歌を聴いて思わず涙を流しました。
  恐らくこれも「美しいメロディ」だったのではないでしょうか。単純すぎたり、騒々しかったり、激しいだけの音楽ではハデスが感動するはずがありません。地獄の王は異例の処置としてエウリディケを地上に返すことに同意しました。しかしオルフェウスは途中で後ろを振り返ったために、妻を連れ帰ることに失敗しました。

 オルフェウスは、イアソンをリーダーとする「アルゴー船」に、複数の英雄たちとともに乗り組んだことが知られています。メンバーの中には怪力のヘラクレスも混じっていました。一行はいろいろ危ない目にあいますが、オルフェウスは、他の英雄たちが腕力によって解決するような課題を、音楽の奇跡的な力によって解決することに寄与しました。
  ゼウスが人間の女アンティオペとの間にもうけた双子の兄弟にアンピオンとゼトスがいます。アンピオンはすばらしい音楽家で、ゼトスは腕力にすぐれていました。二人は仲良くテバイの王になりました。
  テバイの城門を築いたとき、アンピオンが竪琴を弾くと、石がひとりでに動き出し、設計通りの場所に収まったといいます。恐らくこれも「美しいメロディ」だったのでしょうね。
  腕に自信のあるゼトスも、「どうもアンピオンの竪琴の方が作業能率がいいようだ」と、認めざるを得ませんでした。テバイの町には7つの門があることで有名ですが、この七という数はアンピオンが用いていた竪琴の糸の本数にちなんだものであるといわれています。

 
 

船乗りを破滅させた「美しいメロディ」
  ホメロスは彼の叙事詩の中でたびたび音楽の話をしています。その中でもっとも有名なのは、セイレーンたちの話でしょう。セイレーンは鳥の形をした女性たちですが、断崖絶壁の上に立って美しい声で歌を歌います。
  船人たちが聴き惚れて近寄ってゆくと、船は岩にぶつかって粉々に砕けてしまいます。ですから、岩壁の下は犠牲となった船人たちの骨で真っ白になっていたといいます。「美しいメロディ」の魔力が聴き手を引きつけ、前後を忘れさせてしまったのです。
  英雄オデッセイは故郷に帰還する途中で、この音楽をどうしても聴きたいと思いました。彼は自分をマストにしっかり縛りつけさせ、部下の船員たちには、蝋で耳栓をさせました。そして、自分が何をいってもいっさいかまわずに船をこぎ進めるように命じました。
  やがてセイレーンたちの島の近くにさしかかると、歌声が聴こえてきました。オデッセイは美しい声の方に行こうとして身をもがき、縄をほどくようにいいましたが、それほど「美しいメロディ」の魔力が強かったからですね。
  部下たちはオデッセイにはかまわずどんどん船を進めました。セイレーンたちは、オデッセイに歌をただ聴きされてしまったわけですが、このことをすごく悔しがりました。自尊心を傷つけられた彼女たちは、とうとう海に身を投げて死んでしまったといわれています。

 「オデッセイア」の中にはこのほかにも宴会の席に侍って歌う音楽家が登場します。王女ナウシカと出会った国では、オデッセイは用心のために身分を偽って宴席に出ていますが、そこでトロイ戦争をテーマにした音楽が演奏されると、不覚にも落涙し、身分を隠し通すことができなくなってしまいました。
  その後オデッセイが故郷に帰ると、そこでは無法な求婚者たちが宴会をしていました。この席にも音楽家がいて竪琴を奏でながら歌を歌ってサービスしています。オデッセイは無法な求婚者たちを片っ端から殺してしまいましたが、音楽家の命だけは助けました。
  この時代の音楽は言葉と音楽が不可分です。叙事詩をはじめとする各種の詩を、楽器の伴奏に合わせて歌ったものが中心であったと思われます。日本でいえば義太夫に近いのではないでしょうか。この伝統はかなり長い間保持され、ルネッサンス期になってもまだ「歌詞が音楽においてもっとも重要なもの」とされていた、といいます。
  ガリレオは「・・恋人の悲しみや情熱を泣き叫ぶことでよりも、歌うことで表現し、その恋人に同情の心を起こさせる音楽家のほうが賞賛されるのではないでしょうか。・・さらに音楽家が自分自身は黙って楽器だけを用いて、不協和音と感傷的な音階だけでそれを行なえば、われわれはもっと賞賛するでしょう」と書きました。これは当時としてはなかなか新しい芸術論だったのです。

 
 

プラトンは「いい市民をつくるいい音楽」を主張
  話を古代ギリシャに戻しましょう。紀元前6世紀、古代ギリシャでは音程と音階の研究をした学者がいました。その人の名はピタゴラス。例の「ピタゴラスの定理」で知られている哲学者です。彼は弦の2分の1のところで一オクターブ上の音が出ることを発見し、同様に3分の2のところで5度音程が出ることを発見しました。
  このようにピタゴラスは幾何学的に音律を研究し、5度音程を積み上げていってできる音で音階を作っていったのです。これは「ピタゴラス音律」と呼ばれています。この音律は西洋音階の元祖といっていいでしょう。
  古代ギリシャではすでに、今日の「音階」に相当する各種の旋法が開発されていました。そしてこれらの旋法は、古代地中海地方の名や民族の名前を取って「ドリア旋法」とか、「リディア旋法」などという名前がつけられています。ちなみに日本の演歌が得意とするニ短調は、「ドリア旋法」に近いものです。

 ソクラテスは死刑の宣告を受けて牢屋にいたときに、「音楽の勉強をしたい」としきりにいっていたそうです。ソクラテスの弟子の1人であったプラトンは、精神のトレーニング、すなわち「徳」の涵養にとって音楽が欠かせないものであると考えました。
  彼は「哲学こそ最高のムーサイのわざ」であるといい、ミューズの系列、すなわち教養項目の筆頭に哲学をあげました。プラトンは音楽、哲学を同列の教養とみなしていたのです。彼の主著「国家編」では、あるべき理想の国家条件が検討されていますが、この中に「良い音楽」「悪い音楽」を論じた箇所があります。
  彼は悲しみや嘆きを強調するような音楽について否定的でした。たとえば調性については「混合リュディア調」や「高音リュディア調」は好ましくないとしました。また、「イオニア調」と「リュディア調」などは弛緩した調性であるとして、これを斥けました。同じく複雑すぎるリズムや韻律をも否定しました。彼は理想の国家においては、このような音楽は禁止されるべきだとしたのです。

 プラトンは「優美さ」と「気品」を与える音楽を「よい」とし、これとは反対のものを「みぐるしい」としました。プラトンの音楽や文芸に対する価値判断はかなり過激なもので、彼によるとギリシャ最大の古典「オデッセイア」や「イリアス」も、若者にすすめられるような良書ではない、ということになります。
  プラトンは「将来自分の任務を果たす人間になるために」、つまりすぐれた政治的認識を持ちすぐれた戦士、そしてすぐれた市民となるために、どんな文学に接し、どんな音楽を聴いて育つべきかということを考えたのですね。恐らく彼が「美しい音楽」としたのは、上品で優美で、いささかも退廃的な感覚を伴わないような音楽であったように思われます。
  プラトンの弟子、しかも師匠とは対照的な弟子であったアリストテレスは、音楽の価値判断に関してはもう少し現実的で柔軟でした。彼は少なくとも「良い音楽」や「悪い音楽」を調子やリズムによって分類したり、規定したりはしませんでした。

 アリストテレスは「詩学」の中で独自の芸術論、演劇論を述べていますが、彼はいわゆる演劇が現実の「ものまね」をすることによって、私たちに対して擬似的な精神状態を引き起こしこれによって私たちの魂の浄化作用(カタルシス)を引き起こすのだ、と述べています。これは今日にでも通用する卓見と思われます。
  彼はこの演劇を構成する要素の一つとして「音楽」をあげました。「詩学」の中では音楽だけの美醜や良し悪しは論じられていませんが、前後の文脈から察すると、演劇の効果を総合的に高めるような音楽、あるいは人々の魂を浄化させることに寄与するような音楽を称揚しているものと思われます。
  アリストテレスは、ピタゴラスとその学派が音階を整備し、これを宇宙原理に一致させて説明しようとした点について触れています。そしてピタゴラス学派が音階と宇宙原理を無理やり数の上で整合させようとしているといって批判しています。

 このほかにアリストテレスの音楽論としては「問題集」の中に「音楽的調和に関する諸問題」という1章があります。ここで彼は、「どうして聴き覚えのある音楽のほうが快いのか」とか、「オクターブの協和がもっとも美しいのはなぜか」などという課題を立てています。もっともこの著作は「偽書」とされているそうですが。
  アリストテレスに関してもっとも参考になるのは、彼が「快楽」を肯定的にとらえ、これをもっとも重要な価値の基準とした「ニコマコス倫理学」の一節です。すなわち本当の快楽は人間にとって好ましいものであり、これが人間の幸福に直結している、というのです。これに対して見せかけの、一時的な享楽としての快楽は本当の快楽ではありません。
  アランは次のようにいいました。「先人アリストテレスは深遠なことをいった。快楽は力のしるしである、と」。つまり、快楽を味わい、これを楽しむためには、それを楽しむに必要な素養が必要であり、トレーニングも必要になるということです。

 これをアリストテレス自身の言葉で読んでみましょう。「美しい行為から生まれる快楽は醜い行為から生まれる快楽とは異なり、自ら正しいひとでない限り、ひとは正しいひとの味わう快楽を味わいえず、自ら音楽的でない限り、音楽的なひとの快楽を味わいえず、他の場合についてもこれと同じだからである」。
  アランが指摘しているように、アリストテレスは広い、長期的な意味での「快楽」を肯定し、それを楽しむためには「能力」という「資格」が必要であることを示していますね。そして、ここに「音楽」が登場します。以上のことから、アリストテレスの意見をかなり我田引水的に翻訳すると次のようになります。
1.快楽は幸福を約束する。
2.ただし快楽を享受するには、そのことに通暁していなければならない。
3.音楽は一つの快楽である。
4.美しい音楽の快楽を享受できるのは、音楽の素養を持っている人である。
  アリストテレスは、別に「美しい音楽」や「美しいメロディ」の定義をしているわけではありませんが、理想の音楽を快楽に関係づけていたことは間違いありません。ただ、その快楽が各人の「享受能力」に大きく依存することを明らかにしているといっていいでしょう。

 
 

啓蒙家たちの「美しい音楽」
  ジャン・ジャック・ルソーは思想家でもありますが、同時に作曲家であったことが知られています。彼の「告白」の中には、音楽のことをろくに知りもしないときに、「音楽教師」といつわって、かなりいい加減な個人レッスンをしたことが報告されています。しかし彼は音楽に対するすぐれた感受性と才能を持っていたのでしょうね。
  イタリアに滞在したとき、ルソーはイタリアの舟歌やオペラなど、美しいメロディをたくさん聴きました。ある日、オペラ劇場の桟敷で眠っていたとき、美しいアリアで目をさましました。「そのときのアリアの甘美な階調と、天使のような歌声が私に与えた快感、それを誰がいいあらわしえよう。耳と目とが同時に開いたときの、なんという目ざめ、なんという恍惚、なんという陶酔! 最初、ふと、天国にいるのかと思った」。
  彼はさっそくその曲の楽譜を手に入れました。しかし「紙の上に記されたのでは、記憶のなかのようなぐあいにはいかなかった」と彼は書いています。「なるほど音符は同じだ。しかしそれは同じものではない。この神々しいアリアは私の頭の中でしか奏せられないのだ」。

 ここで言語表現力にすぐれたルソーが、彼の感じた美しいメロディについて、いくつもの重要なキーワードを用いていることにご注意ください。すなわち、「甘美」「天使のような」「快感」「恍惚」「陶酔」「神々しい」など。
  次に、彼は美しいメロディが楽譜の中にあるのではなく、これを再現した演奏の中にあることを指摘しています。これはかなり重要な点です。同じ音楽でも、演奏者が違えば違った感じになり、Aの演奏家がもたらしてくれたような感動をBの演奏家が再現してくれない、ということもしばしば起こり得るからです。
  またルソーは音楽の美しさが、演奏された状況と、それを聴いていた自分の状況の中で実現したことを指摘しています。すぐれて近代的な精神の持ち主であったルソーは、いたるところでバカ正直なほど、ものの真実を明るみに出しますが、彼はここでも音楽の美が、発信者と受信者との関係の中にあることを指摘しているのです。

 ルソーと同時代の啓蒙主義思想家の一人であったディドロは、「ラモーの甥」という不思議な作品を残しました。この「ラモー」は皆さんもよくご存知の、フランスのバロック時代を代表する大作曲家です。このラモーに実際に甥がいたらしいのですね。
  ディドロの作品によると、この甥は音楽の才能に恵まれてはいるのですが、伯父さんほどの天才ではなく、やくざな性格であるところから身を持ち崩して乞食同然の生活をしています。彼は運がいいと、金持の家に出入りして幇間まがいの才気を発揮しますが、おおむねホームレス的な生活をしているという人物です。
  このラモーの甥がたまたま著者ディドロと出会って、彼の哲学とともに音楽の趣味を披露するのです。その場面がなかなかふるっています。ラモーの甥は自分の才能と伯父のラモーを比較して「わしは自分が凡くらなことがいまいましかったんです。今でもそうです。そうだ。わしは凡くらなんだ。・・つまりわしは、伯父を妬いていたんです」。
  彼は自分が自分にもし本物の才能があったら、「歩く時には、お前は顔をしゃんとあげているだろう。お前の良心は、お前自身にむかってお前の手柄をあかしだてしてくれるだろう。ほかの連中は、お前を指してこういうだろう。美しいガヴォットを作ったのはあの人だと」などといいます。そして彼はすぐにガヴォットの曲を歌います。

 ラモーの甥はどこでもかまわずヴァイオリンを持つしぐさをして、音楽の断片を口ずさみながら美しい音楽を演奏しているという格好をしはじめます。
  「彼の右腕は弓の運動をまね、左手とその指は棹に沿ってはい回るようなふりをする。・・彼が激しく動き回り、叫び声をあげるあいまに、保続音、つまり弓が同時にいくつかの弦の上をゆるやかにすべるあの階調的な箇所があらわれると、彼の顔は恍惚とした様子になり、声はやわらかになり、うっとりと自分に聴き惚れた」。
  ところが夢中になってやっている本人はいいとして、これを見守っている人のほうはやりきれませんよね。そこでディドロはいいました。「一生懸命に快楽を描いて見せようとしている人の苦しむ様は、こちらで見ていてつらいものではなかろうか」。そして彼は「もう勘弁してもらいたいな」とラモー氏にいいますが、ラモー氏はいさいかまわずに聞かずに、どんどん演奏を続けます。
  この部分の文章を読むと、ラモー氏が模倣しようとした恍惚的な箇所は、ヴァイオリンの弦を同時に2本弾くダブルの技法で、音階または半音階的なメロディのようですね。

 
 

哲学者たちの音楽観
  音楽美を語る上で忘れてならないのはゲーテです。例のディドロの「ラモーの甥」という書物を、はじめて出版したのはゲーテでした。もちろんドイツ語訳で出版されたわけですが、この原稿の価値を見ぬき、興味を持ったということは、ゲーテの並々ならぬ音楽への関心を証明しています。
  ゲーテはモーツァルトの天才を見抜き、これを高く評価したことで知られています。ゲーテはベートーベンとも接触したことが知られていますが、この2人の巨人はとうとう親密になることはできませんでした。ゲーテは自分でもピアノが弾け、簡単な作曲までしたことがあるそうですが、自分でやるよりも身辺に音楽家を侍らせて良質の音楽を楽しむというライフスタイルを取ったようです。
  晩年のゲーテは、若いメンデルスゾーンを呼んで、毎日自分のために時代順に楽曲を弾かせ、これを鑑賞しました。この時代にはCDなんて便利なものがありませんでしたから、メンデルスゾーンはゲーテのための「人力オーディオ装置」になったわけですね。

 メンデルスゾーンにいわせると、ゲーテは「まるで雷の大神ジュピターみたいに、老いた両眼をぎょろつかせて、部屋の片隅に陣取って」聴いていたそうです。ある日メンデルスゾーンがベートーベンの交響曲第五番を弾くと、ゲーテはすっかりたまげて、「この曲のは、まるで感動なんてものではない。ただびっくりさすだけだ。だが、ものすごい」といいました。そのあとも、しきりにこの曲のことでぶつぶついっていたそうです。
  ベートーベンの「運命」が、ゲーテの考える「美しい音楽」の範疇に入るものでなかったことはたしかですね。ゲーテは「芸術の品位はひょっとして、音楽においてもっともすぐれたあらわれ方をしているのではなかろうか」といっています。
  また彼は「音楽は聖か俗かである」ともいっていますが、こうした観点からしても、ベートーベンの音楽がゲーテのパラダイムに収まりきれなかったことは明白です。しかしゲーテは自分なりの「美しさ」の基準を持っていたからこそベートーベンの異質性に驚くことができたのです。
  私個人としては、ゲーテが音楽の中にもっとも純粋な品位を見、同時に音楽の中に「聖なるもの」と「俗なるもの」の両極があることを認めた考え方を支持したいと思います。ゲーテは「聖」と「俗」の中途半端な混合を嫌いました。彼はまた騒々しい音楽を嫌いました。彼は音楽の品位を大切にし、生命力を持ちながらも趣味のいい音楽を好んだものと思われます。

 ヘーゲルは「美学」の中で、音楽の問題をしっかり取りあげました。彼は「音楽は究極の主観的内面性そのものに訴える。それは心情が直接に心情自身に語りかけるのに役立つ芸術である」と規定しました。そして音楽は他の芸術とちがった独特の効果を心情に及ぼすことができる、と考えました。
  ヘーゲルは音楽を詩と対比させました。詩人が言葉を素材として詩を作るように、音楽家は音という素材を使って詩に相当するものを作っている、というわけです。彼は「音楽の詩的要素たる『心の言語』は心情の内なる苦楽を音に流露させ、この流露において感情の粗野な力を和らげつつ超脱する」といっています。 
  またヘーゲルは、「・・それは内心のありのままな感動を転じて、自己自身を覚知し、自由に自己自身の本領にとどまるものと化せしめ、かくて心を喜びや悩みの圧迫から開放するからである。この音楽の領野における心の自由な反響においてはじめてメロディが成立する」なんていっています。こんなに難しい言い回しをするから哲学者って嫌われてしまうのですよね。

 これを私流にやさしくいい直すと、「音楽は作曲者の感情の表現である。詩人が言葉で詩を作るように、音楽家は自分のメッセージをメロディの抑揚で表現する」となります。
  ヘーゲルは「われわれの国の民衆的なメロディの多くは悲しげで無気力な感じが伴なう」といい、これに対してイタリアのような南方の国々では、もっと豊かなメロディやリズムが聴かれるといっています。そしてこれを国語の特性に関係づけて考えています。少なくともヘーゲルが単調で、形式的で、悲しげで、無気力なメロディよりも、自由でのびやかなメロディを良しとしていたことは間違いありません。
  彼は「美学」の中で、ヘンデルの音楽をすぐれていると評しています。彼はヘンデルの音楽に「荘厳な躍動」「突進の運動」「宗教的な深さ」「牧歌的な単純さ」があり、「感情の豊かさでせまりながら」「ごく親しみぶかく感じられる」としています。
  このほかにヘーゲルが使っているキーワードから察すると、「幽玄な」とか「いっそう深みのある」などのイメージを持つ音楽、あるいはメロディがいい、といっているように見えます。

 
 

ピタゴラス音律から平均律へ
  ところで、紀元前にピタゴラスが提唱した音階の原理には問題がありました。ピタゴラスの音律は純正5度を積み上げていって音階を作る方法ですが、この場合、最後に作る5度を狭くしないと1オクターブに入りきらなくなるという現象が生じるのです。この狭い5度と純粋な5度の音程差は「ピタゴラス・コンマ」と呼ばれています。
  現在用いている西洋音楽の楽器は、ピタゴラスの音律ではなく、1オクターブの間を12に平均的に分割し、調整した音階で、これを「平均律」といいます。これは厳密にいうと純正音程がどこにも出現しない音階で、完璧な音程は得られない代わりに「まあまあ我慢できる」ように調整した調律法のことです。
  この「平均律」という調律法ができて、私たちは今日のような形で容易に、合理的に西洋音楽を楽しむことができるようになりました。これは同時に記譜の技術、移調の技術の基礎にもなっています。それにしてもピアノの調律師さんたちは、完全には合わせないようにしながらオクターブの間を12等分する、という微妙な仕事をしているわけですね。

 ちなみにピアノ音楽についていえば、私たちは音程という点からは「純粋に美しい」音を聴いているのではなく、「まあまあ美しい」音を聴いている、ということになります。 
  マックス・ウエーバーは、「音楽社会学」という本を書き、この中でピタゴラス音律から平均律が確立されるまでのプロセスを研究し、平均律の音階が西欧文化にどのように関係しているかを実証的に示しました。彼は、西欧的な合理精神と平均的に調律された音階システムとが深く関わっていることを証明したのです。
  ここでご紹介したルソーやディドロは、平均律が次第に普及してきたころの人々です。ちなみにバッハが「平均律クラヴィア曲集第1集」を出して、平均律を用いてこんなふうに立派な音楽が作れる、ということを証明したのは1722年、ルソーが10歳のときです。
  私たちが西洋音楽に関して「美しいメロディ」というとき、私たちは要するにバッハの時代に一般化し、普及し、確立された「平均率」による音のシステムを前提としていっていることになります。それにしても社会学者マックス・ウエーバーが、音楽についてこれほどまでに深い知識と共感を持っていたことは驚きです。

 カントは「美しい」というのは主観的な判断に属することであり、趣味判断に属していると考えましたが、同時にそれが他の人にも通用することを認めました。そして美が美として通用するのは所定の形式を持っているからだ、と考えました。また彼は美しいものは快適であり、人倫的に善なるものの象徴であるともいっています。
  彼は音楽の美が人間の生命の営み、健康の感情を増進すると述べています。「音楽においてはこの戯れは、身体の感覚から美感的理念へとすすみ、ついでこの美感的理念からふたたび身体へともどってゆくが、しかし合一されたちからを伴なってもどってゆく」と述べました。私としては、カントが音楽そのものについて、あるいは「メロディの美」についてもっと詳しく述べてくれなかったのが残念でなりません。
  しかしカントの権威者に叱られることを承知の上で勝手に要約すれば、「美しいメロディの判断は個人的な趣味の問題である。しかし美しいものは快適で、身体を健全にするという効用を持つ。美が共有性を持つのは一つの形式を持っているからだ」、ということになりましょうか。

 
 

スタンダールとバルザックの音楽的素養
  アランが愛した2人の大作家、スタンダールとバルザックもまた大変な音楽愛好家でした。スタンダールはヴァイオリンを習ったり、クラリネットを習ったりしたようですが、腕前はあまり上達しませんでした。スタンダールは自分ではまったく音符が書けないくせに、「もしかしたらオレには作曲の才能があるのではないか」なんて思っていたようです。
  彼は「ときどき私のメロディのほうが大家のそれより、高貴で情にあふれていると思うことがあった」なんていっていますから、相当な自信家ですね。
  スタンダールは「声楽のメロディだけが私には天才の作品かと思われる」といいました。また彼の考える「美しいメロディ」ははっきりしていました。それはチマローザのオペラ「秘密の結婚」の中に出てくる「不安なく恋が楽しめるなら」のような曲、それにロッシーニの「ビアンカとファリエロ」の四重唱、「アルミダ」の二重唱のような曲です。
  「美しいメロディ」を研究してゆく作曲家は、必然的にこのような曲に到達するはずだ、とスタンダールは断言しています。
  スタンダールはモーツァルト、チマローザを好みました。彼はいいました。「ほんとうを言えば、私には二人の作曲家チマローザとモーツァルトの歌だけが完全に美しいと思われる。正直にどちらを選ぶか言えと言われるのなら、絞首刑になったほうがましなくらいだ」「よく演じられた『ドン・ジュアン』を聴くためなら、私のもっとも嫌いな泥濘中を歩くことさえあえてして十里の道を行くだろう」。自分の趣味を大切に守り、少しの妥協も知らなかったスタンダールらしい表現ではありませんか。

 バルザックの音楽に対する造詣もなかなかのものです。彼の作品にはプロの音楽家が登場します。たとえば「従兄弟ポンス」に登場するポンス氏はローマ大賞までとったことのあるすぐれた作曲家であり、指揮者なのですね。彼が安アパートで死ぬ間際、彼の美術コレクションをうかがう複数の悪人たちに囲まれながら、音楽家の友人シュムケにピアノを弾いてもらうくだりは何ともいえませんね。
  またバルザックには作曲家を主人公にした作品「ガンバラ」があります。この作品にはロッシーニやベートーベンに関する論評がどんどん出てきます。当時の人々、そしてバルザック自身の音楽に対する評価の概要を知ることができます。

 この中では埋もれた偉大な作曲家ガンバラが、自分の妻に関心を持っている貴族に、自作の未公開のオペラを解説しながら弾いて聴かせる部分があります。このオペラは「マホメット」を主題にしたものです。
  「序曲(ハ短調)はアンダンテ(3拍子)で始まります。恋に満足させられないこの野心家の憂鬱が聞こえますか? 彼が愁訴している間に、関係調(変ホ調、アレグロ4拍子)へ移行してこの癲癇病みの叫びと彼の憤怒と、いくつかの戦闘的な動機が出てくるんです。・・しかし今度は(変イ長調、8分の6拍子)、音楽の一番嫌いな心をもほころばすことのできるカンタービレです。・・」。
  ごらんのようにバルザックは作曲家が弾き語りするプロセスごとに音楽の調整や、拍子について延々と書き綴ります。まるで文章によってどこまで音楽を再現できるかを、自分に試しているかのようです。
  「兵士、奉行、貴族たちが到着する(行進曲の速度、ロ長調で4拍子)。二つの合唱隊の戦い(ホ長調のストレット)、マホメットは(下降減7度の連続で)嵐に負けて逃げる・・」。これで見る限り、バルザックのほうがスタンダールよりも音楽について専門的な知識があったかもしれませんね。

 当時はパガニーニがヨーロッパで大スターとして人気がありました。バルザックは「ヴァイオリンの弦によって自己の魂を語らせたパガニーニも、もし三日間練習せずに過ごしたら、彼のいいまわしを借りるならば彼の楽器の∧音域∨を見失ったに違いない」などと書いて、演奏家の修練についても理解を示しています。
  バルザック自身の好みの「メロディの美」については、明確には分かりませんが、いろいろな作品に散見されるモーツァルト、ロッシーニの名、それに「音楽嫌いの心をもほころばせるカンタービレ」などといっているところから見ますと、やはり詠唱的な美しさを認めていたのではないかと思います。
  ただ、これは私の個人的なカンにすぎませんが、バルザックのほうがスタンダールよりもさらに近代的な、要するにロマン派よりの好みを持っていたかのように思われます。

 
 

音楽を至高としたショーペンハウエル
  音楽を論評した哲学者として忘れられないのは、ショーペンハウエルとニーチェでしょう。ショーペンハウエルは「意志と表象としての世界」という本を書きました。彼はこの中で音楽について熱烈な賛辞をしるしました。
  彼の考えによれば、世界の根底には盲目の「意志」というものがあって、これが私たちを規定しています。私たちはこの意志から逃れることができず、自由であることができません。
  私はショーペンハウエルの「意志」を、自分流に「DNAの戦略」と解釈することにしています。DNAの「生きんとする意志」にとっては、私たち生物の体は単なる「乗り物」にすぎず、私たちの固体が死に、世代が代ってもDNAは生き続けます。私たちはDNAには逆らうことができません。
  しかしショーペンハウエルによると、私たちが天才の芸術によって高められたときには、プラトン的なイデアを認識でき、要するにつかの間の解脱をすることができます。そして彼は、私たちを真実に向けて開放してくれる諸芸術の中で、音楽が特別に最高の役割と位置を持っていると考えたのです。

 ショーペンハウエルはいいました。「音楽はほかのあらゆる芸術からまったく切り離された独自なものである。音楽は世界にある存在物の何らかの模倣や再現とは認められない。それでいて音楽はまことに偉大なまた並外れてすばらしい芸術であり、人間の一番奥深いところにきわめて力強く働きかけてくる」。いかがですか。音楽をやっている人なら、これを読めばすっかりうれしくなってしまうでしょう。
  しかし彼が「たとえこの世界がぜんぜん存在しないとしても、音楽だけはある程度までは存在しうるとも考えられるほどなのである」などといい出すと、さすがの音楽人も「ちょっと過激だなあ」とか、「そこまでいわれちゃ気恥ずかしいなあ」と思うかもしれませんね。要するにいささか過激であることがショーペンハウエルとニーチェの特長であり、魅力なのです。
  彼はメロディについて次のようにいいました。「旋律こそが、いいかえればこの高い、歌う主声部、全体を主導し、なにものにもしばられない自由意志で、一つの思想が終始一貫してとぎれることなく有意義的につながりながら進行し、一つの全体を表現してゆく主声部こそが、意志の客観化の最高の段階、人間の思慮深い生活と努力にあたる・・」。

 これはメロディが音楽の主役であり、重要な意志を表現しているということです。まあまあ納得できる説明ですね。では彼はどのような旋律をよしとしたのでしょうか。彼は音楽が表現している感情は普遍的なイデアとしてのそれなのだから、歌詞が音楽を支配していてはならないと考えました。スタンダールがどちらかというと「歌詞派」であったの対して、ショーペンハウエルは「器楽派」です。
  その上で彼はロッシーニの音楽を称揚しました。ロッシーニのアリアはまるで器楽曲のような趣きを持っていますからね。彼の理論に従うと、音楽が外界の事物を意図的に模倣しようとしているような音楽や旋律は理想から程遠いものです。だからいわゆる表題音楽はダメ、ということになります。

 また彼は、「苦しげな不協和音に陥ったり、多くの小節をくぐりぬけ、紆余曲折を重ねてようやくもとの基音にゆっくり戻るような旋律(たとえばバッハの緩徐楽章)は、満足がなかなか得られない」といい、「基音から大きく逸れない速い旋律(たとえば進軍ラッパのメロディ)というものが美しい旋律なのだ」ともいっています。
  この記述から、いきなり「ショーペンハウエルはバッハの音楽を否定し、軍隊ラッパのメロディのほうをよしとした」と取るのは早計です。彼はおそらく旋律と和声が小節ごとに分かりやすく整合し、しかも主旋律がはっきり現われるような初期ロマン派的な音楽を好んだのではないでしょうか。いずれにしてもショーペンハウエルは音楽に哲学上の特権的な地位を与えてくれた重要な人物です。

 
 

ニーチェとワグナー
  ショーペンハウエルを師として出発したニーチェは、思想において、そして音楽に関して、さらに過激でした。彼は「音楽というものは、あらゆる造形芸術とはまったく違った美学的原理で測られるべきものであり、およそ美の範疇で測られるものではない」といい切りました。
  ニーチェは自分でも作曲をし、ピアノを弾きました。ニーチェの専門は文献学でした。彼は若くしてギリシャ古典文献の権威となり、大学の教授となりました。
  ニーチェの膨大な教養をもとに書かれた初期の思想書に「悲劇の誕生」があります。彼はここでギリシャ悲劇の本質を論じて「悲劇は音楽の精髄から誕生したのだ」と結論づけました。この本の中で、彼は美の側面に「アポロン的なもの」と「デュオニソス的なもの」の二面があると考えました。そして悲劇を形成している条件を、「デュオニソス的なもの」と規定しました。

 アポロンはゼウスがもっとも尊重した息子で、長兄的存在です。彼は美しく端正で、理知的なギリシャ文化を象徴しています。デュオニソスもゼウスの息子なのですが、オリュンポスの閣僚に最後に加わった、いわば末弟です。デュオニソスはローマ名をバッコスといいます。
  彼はぶどう酒を発明し、その製法と楽しみ方を人間たちに教えました。人間たちはこの神のおかげで酒の味を覚え、酔っ払ってハメをはずすことを知るようになりました。デュオニソスは陶酔の狂気と混乱を演出する神だったのです。
  彼は人間の知恵には限界がある、ということを示すと同時に、人間を動かしているのはもっと根源的な力なのだということを教えました。知性万能主義に対する警告の神です。ニーチェはこの神にペシミズムの根源を発見しました。
  デュオニソスの養父にあたる半神シレノスは、あるときミダス王に向って「人間にとってもっともいいことは、生まれてこないこと、生まれてしまった以上は一刻も早く死ぬことだ」と語ったといわれています。これもデュオニソスのペシミスティックな側面を示しています。

 アポロンが人間にとって明るく、肯定的な側面を象徴しているのに対して、デュオニソスは病的、陶酔的で、野蛮で、ペシミスティックな側面を代表しています。アポロンが文明的側面を象徴しているとすれば、デュオニソスは文明以前のエネルギーを象徴しています。
  ニーチェはこの考えを音楽に適用しました。音楽にも「アポロン的なもの」と「デュオニソス的なもの」があることを提唱し、彼は音楽の根源にはデュオニソス的なものがある、と考えました。「苦痛に対してさえ根源的な快感を覚えるデュオニソス的なものが、音楽と悲劇的神話の共通の母体なのだ」と彼はいっています。
  これは大変魅力的な、すばらしい考え方だと私は思います。音楽にもいろいろあるのですからね。十把ひとからげに「音楽」といって片づけてしまうのは乱暴です。そして音楽の中にある麻薬的な陶酔感を、はっきりと定義づけた点でニーチェの功績は大きいと思います。

 さて、「アポロン的」「デュオニソス的」という区分を立てたニーチェが、自分自身の主張の根拠としてどちらを選んだかはお分かりでしょう。彼はデュオニソス的な視点を定立することによって、世界の既成の価値観に対して鋭い疑問を投げかけました。
  人間の奥底に眠っている根源的で、野蛮ともいえる力を肯定することによって、彼は偽善的な美や正当性に対する強烈な批判を行なったのです。
  彼は「今われわれの美学者たちが、彼らに特有の『美』という捕獲網を手にして、・・音楽の精髄を捉えようと、打ちかかったり追いかけたりしているありさまは、何という見物であろう!しかも彼らのそのかっこうは、永遠の美という標準からも、崇高という標準からも、どうにもいただきかねるのだ。これらの音楽の愛護者たちは、倦きもせずに『美! 美!』と叫んでいるがひとつ身近でとくとその顔を見てやるといいのだ」などといっています。

 ニーチェは、彼の哲学をそのまま具現化してくれたかにみえる音楽家を発見しました。それはワグナーです。彼はワグナーに心酔し、尊敬し、ワグナーにはラブレターまがいの手紙を書き送り、ワグナーを讃美する論文をたくさん書きました。「悲劇の誕生」という本もワグナーに献呈されていますし、この本の中で多言を費やしたのちに結論として彼が主張しているのも、「ワグナーの音楽こそすばらしい」というものです。
  「『トリスタンとイゾルデ』の第3幕を、言葉や比喩の助けをいっさい借りないで、純粋に巨大な交響楽の楽章として甘受できるような人で、あらゆる魂の翼をけいれん的にひろげたあげく絶息しないような人間を想像できるか」と彼はいっています。大変な入れ込みようではありませんか。

 ところが、これほどワグナーに入れ込んだニーチェが、しばらくするとワグナー嫌いになってしまうのですから人間は分かりません。彼はしばらくすると自分が熱狂的なワグナー礼賛者として発言したことを後悔するようになりました。そして後半生には、「弁明」ともとれるような論文をしきりに書いているのです。
  「この人を見よ」「ワグナーの場合」「ニーチェ対ワグナー」「リヒャルト・ワグナーに関する諸想」などの書物の中で、彼は執拗ともいえるほどの反ワグナー論を展開します。なにしろこういう人は肯定するときも激しいけれど、否定するときも激しいのです。
  彼がどんなふうにワグナーを否定しているか見てみましょう。「ワグナーの弟子となることは高価につく」と彼はいいます。そして「ああ、この老いたる魔術師よ! なんと彼はあらゆることをして私たちをたぶらかしたことか! 彼の芸術が私たちに提供する第一のものは拡大鏡である。私たちはその中を覗きこむが、おのれの眼を信頼することはない――」といいます。

 またさらに「彼は、彼が触れる一切のものを病気にする。――彼は音楽を病気にしてしまった――」といいます。「そもそもワグナーは音楽家であったのか? いずれにしても彼はそれ以上の何か別のものであった、すなわち比類のない道化師、最大の身振り狂言師、ドイツ人がこれまでに所有したもっとも驚くべき劇場の天才、すぐれて現代の舞台芸術家であったのである。彼は音楽の歴史以外のどこか別のところに属すべきであり、だから彼を音楽史上の偉大な人物と取り違えてはならない」。
  もっともこの文章を書いた翌年、一八八九年ニーチェは発狂し、精神病院に入れられてしまいました。このように、自分自身をも制御不能にしてしまうほどの激しすぎる精神をみると、じつに痛々しい思いがするではありませんか。
  ニーチェがどのような音楽を高く評価しようとしたか、これは「悲劇の誕生」におけるデュオニソス論によって知ることができますね。彼は「自伝集」の中で「人間の主たる使命は何といっても、人間の思想をもっと高い所へと導くこと、人間を高めること、いな、人間を揺り動かすことである」といっています。彼はそのような音楽の理想をワグナーの音楽に発見しました。

 では、どうしてニーチェはワグナー嫌いになってしまったのでしょうか。これには諸説があります。ワグナーがニーチェの音楽的才能を認めてくれなかったこと、ワグナーとともに自分が主要な役割を演じることができなかったこと、バイロイトの祝祭劇場が完成したとき、皇帝や市民に祭りあげられて満足しているワグナーを見て幻滅したことなど・・。
  ニーチェは「すでに一八七六年の夏、最初の祝祭劇場のときの真っただなかで、私はひそかにワグナーから別れを告げていた。私はいかなる曖昧なものとも折り合いがつかない。ワグナーがドイツへ帰って以来、彼は、私が軽蔑した一切のものへと一歩一歩屈していった――」と書いています。

 私の考えでは、ニーチェはワグナーに心酔しすぎ、ワグナーを摂取しすぎてしまったのでしょうね。おいしいステーキだって食べ過ぎればいやになります。彼はついに濃厚なワグナーの音楽にうんざりしてしまったのではないでしょうか。
  ニーチェはメロディについて次のようにいっています。「だからメロディこそ最初の、そして普遍的なものなのだ。・・メロディが自分のふところから詩を生み出すのであり、しかもそれをつねに新たにくりかえしてやまない」。
  彼はハイドンも、モーツァルトも、ベートーベンも愛好しました。ワグナーへの反動からビゼーを好きになったこともあります。いずれにしてもニーチェは本当に音楽の分かる愛好家であり音楽とともに自分の思想をはぐくんだ人だったのです。
  ただ、彼の不幸はワグナーに心酔して自滅したバイエルンの王ルードヴィッヒにも似て、ワグナーに対するあまりに強い傾倒、そして期待だったといえるのではないでしょうか。

 
 

ハンスリックの音楽美学
  ヨーロッパにワグナー熱が始まりかけた1854年、ハンスリックという音楽評論家が「音楽美論」という本を出しました。彼はこの本の中で、一般にいわれている「音楽は感情の発露である」とか、「音楽は感情の表現である」という考え方を痛烈に批判しました。ですから彼はヘーゲルの考えをも批判したことになります。
  ハンスリックは同じメロディに全く正反対の歌詞をつけて歌っても、音楽としての値打ちも美しさも少しも変わらないということを実例をあげて立証しました。よく替え歌というのをやりますが、あの原理ですね。言葉の意味を変えても音楽としての価値が変わらないなら、音楽が固有の感情や情緒を表現している、という論拠が成り立たなくなってしまいます。

 また彼は音楽が健康にいい、などという考えをも攻撃しました。彼は音楽と健康や生理の問題に関してこういいました。
  「ある種の情緒が肉体的な疾患に良好な転換をもたらすことはありうるであろう。ただ音楽によっていかなる時でも希望の情緒を起こさすということは不可能なのである。どうかと思われる前提から出発して、さらにどうかと思われる推論を経て、終わりにもっとどうかと思われる実際的結論を引き出すという点では、心理学的学説も生理学的学説も軌を一にしている」。なかなか痛快な表現ではありませんか。
  ハンスリックは音楽に過剰に感情的な評価を与えたり、心理的な、あるいは生理的な評価を与えたり、要するにもったいをつけたり、理屈をつけて聴くのは止めて、音楽作品そのものだけを問題にしなければならない、といいました。

 彼は「音楽を美的に享受する場合もっとも必要とされる要請は、その音楽作品がいかなるものであろうと、またいかなる理解によるものであろうと、その作品はそれ自身のために聴かれねばならぬということである」と言明しました。これは音楽をやたらとムード的に聴こうとする人に対する警告であり、今日の音楽現象学の基礎にもつながる貴重な発言ですね。
  では、この音楽評論の哲人ハンスリックは音楽の美をどのように考えたのでしょうか。彼は、「音楽を芸術として扱うのなら、感情ではなくファンタジーを音楽の美の極致の根拠としてみとめねばならない」といいました。また「作曲家の表現するイデーは何よりもまず音楽的なものである。彼のファンタジーには一つの決まった美しいメロディが現われる」ともいっています。
  この「ファンタジー」がどのようなものかが分かると、ハンスリックの考える「美しい音楽」「美しいメロディ」がもっとはっきりつかめるのですが、残念ながら彼の「音楽美論」にはこれ以上のヒントはありません。

 ただ、ハンスリックはブラームスを擁護し、ワグナーやブルックナー、R・シュトラウス、ヴォルフなどを攻撃しました。このことから考えると、彼が支持する美しい音楽は「ブラームス的なもの」と解釈していいかもしれません。
  いずれにしてもハンスリックは、「音楽を音楽として聴く」という単純で原理的な方針を提唱しました。これはショーペンハウエルやニーチェがのめりこんでいった、「音楽は哲学的救済である」「音楽は特別の芸術である」という、音楽至上主義の熱を冷ます「一杯の水」といってもいいかもしれませんね。

 
 

音楽家だったロマン・ロラン
  音楽美について語ろうとするときもう一人忘れてはならない大作家がいます。それはロマン・ロランです。彼はベートーベンを念頭に置いた長編小説「ジャン・クリストフ」によってあまりも有名ですが、彼のベートーベン研究もまた有名です。
  今日私たちが持っている「偉大なベートーベン像」は、このロマン・ロランの研究によってもたらされたもの、といってもいいかもしれません。たとえば彼はベートーベンの後期のソナタ、後期の弦楽四重奏曲の価値を神格化した、といっていいほど高い地位に引きあげました。ロマン・ロランの研究は実証的で、科学的であると同時に、文学的にもすばらしい説得力があります。
  ロマン・ロランは作家ですが、自分でもたくみにピアノを弾き、パリ大学などで「音楽史」を教えていました。アンドレ・ジッドは熱心にこの講義を聞いたといわれています。
  私はここでロマン・ロランが「ベートーベンが好きでない一女性への手紙」という短い文章の中から、彼が考えた「美しい音楽」の概念を探ってみたいと思います。この文章の中でロマン・ロランは、ベートーベンの音楽が女性に対してはなはだ無愛想であるという意味のことをいっています。

 音楽には「男性的なもの」「女性的なもの」の両面があり、たとえばワグナーは半分女性で、シューマンは全部女性だといっています。シューマンが聞いたら「オレが女だって?」といって仰天するかもしれませんね。ロランによるとベートーベンの音楽こそすぐれて男性的であり、男性そのものだといっています。
  ロランは「ベートーベンは年老いた競技者であり、人間としてみずからを諦める前に、世間とはげしく戦っていた」と書いています。ロランは男性的英雄性という観点からベートーベンを見直し、聴き直し、評価するようにこの女性を説得しています。
  ロランはこの手紙を、ベートーベンのピアノソナタ作品106の楽曲説明をする形で書き進めています。「(私には、三〇年にわたるはげしい闘いの深い跡のある、波立ったような彼の大きい額が見えるようです。)・・彼はしばらく黙り、涙が少し彼の気持ちを静めます。彼は苦しみによって自分をまぎらわします。そしてそれほどの苦しみのさなかにも、悲しみの微笑に似たものを浮かべます。そのとき、どんなにおだやかさや、女性的なやさしさがあることでしょう。いつも愛を願い求めながら得られずにいる、あの気性のはげしい英雄においては、それはなんと感動的なことでしょう」。

 ロランはベートーベンを実証的に研究することによって、ベートーベンの生涯の各瞬間を自分のことのように実感し、共感できるようになっていたのです。彼はベートーベンの音楽を、愛を求めながら愛されない男性の音楽とし、苦悩の果てにたどり着いた英雄的な内面性にベートーベンの美しさとやさしさがある、としたのです。
  彼がこの手紙で推薦しているのは後期の代表的なピアノソナタ作品106番ですが、ロランが後期の弦楽四重奏曲を好んでいたこともたしかです。ちなみに弦楽四重奏曲・作品132・イ短調の終楽章についてこんなふうに書いています。
  「ベートーベンの音楽の中で、魂の闘争がこんなに激し、こんなに熱したことはかつてなかった。第1ヴァイオリンの美しい不敵なフレーズが、堂々たる雄々しさを持って戦いに乗り出す。そして倦まず,屈せず、絶えず苦戦し、荒々しく息をふきかけてくる第2ヴァイオリンとチェロの切迫した拍動に邪魔されたり、さえぎられたりしながらも、息を切らして戦いを続ける」。

 この曲を私はベートーベンの音楽の中でももっとも「美しいメロディ」のひとつと考えています。けれどここでロランがいっているような、「戦い」のイメージはあまり感じられません。演奏にもよるでしょうが、むしろ美しく流麗で、それでいて決然としている、といった感じを受けます。
  いずれにしてもこのような文章を読むと、ロマン・ロランがベートーベンの音楽のどのようなところに、どのような美しさを感じていたのかを知るための、手がかりを得られたような気がしますね。

 
 

私たちは私たちの答えを持つべき
  現代ドイツの哲学者ガダマーは「芸術は真理を開示する」といいました。彼の考えによれば真理を開示してくれるような規範としての作品が「美しい」ということになります。ところが彼がいう「真理」とはかならずしも作品に固着したものではありません。
  ある時代には「美しい」とか、「価値がある」とされた作品が別の時代には評価されない可能性もあります。また作品はその時代ごとに演奏し直され、聴き直されることになります。演奏の仕方が変り、聴き方も変ります。そこで作品の価値は、音楽に関していえば作品そのものと演奏家とこれを聴く人との関係の中に存在することになります。
  そこでガダマーは、彼は音楽の演奏家について「模範をただ模倣していればいい、という楽な生き方は許されない」といいました。演奏家はその作品を作曲家に対して、自分に対して、時代の聴衆に対して、ベストと思われるものを考え、再現しなければなりません。

 同じことが聴き手についてもいえます。私たちは私たちの責任において音楽を聴き、自分なりに評価し、解釈しなければなりません。「価値ある音楽」「美しい音楽」を選び、決定するのは私たちなのです。このことは同時に価値ある音楽を、心なく捨ててしまうのも、まさに私たちなのだということを意味しています。 
  ガダマーは「要するに芸術の言葉との出会いはすべて完結されていない出来事との出会いであり、それ自体がこの出来事の一部分なのである」といっています。また彼は「美学は解釈学へと解消されなければならない」といいました。

 今日の私たちにとって、クラシック音楽とは一体何でしょうか。それは歌謡曲やポピュラー音楽に対する対等な一ジャンルとしての音楽でしょうか。それとも私たちの精神生活に関係のある芸術あるいは美学の一角をなしているのでしょうか。
  そして私たちに親しいクラシック音楽の中に出現する「美しいメロディ」とは、私たちにとって何なのでしょうか。古代から現代にいたるまでの賢者たちは、みなそれぞれに、立派な答えを持っているようです。しかしこうして概観してみると、どんな賢者の答えも、今日の私の答えと同一ではありません。
  賢者たちの音楽美の認識を参考にしながらも、私たちは私たち自身の「美しい音楽」「美しいメロディ」を探す旅に出かけなければなりません。私たち自らが、自分の考える「美しい音楽」を発見し、解釈し、自分のものにしなければならないのです。

 
   
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