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美しいメロディ
 
第4章 「美しいメロディ」のコレクションより−2

ブラームス「ヴァイオリンソナタ第1番・ト長調」
  ワグナーはかねてから「交響曲はベートーベンで終わった」といいきっていました。しかし一八七六年、ブラームスは第1番の交響曲を完成させ、ワグナーとは何かと因縁のあるハンス・フォン・ビューローが初演の指揮をしました。ブラームス43歳のときです。ハンス・フォン・ビューローはこの作品を激賞し、ベートーベンの「第9」に続く「第10番」と呼びましたが、これはもちろんワグナーに対するあてつけを込めてです。
  このころのブラームスはすでに「ドイツ・レクイエム」でも成功し、大作曲家としての定評を得て非常に充実していました。たくさんの歌曲、第1番に続く第2交響曲、大学祝典序曲などが書かれたのもこのころです。
  このころブラームスは友人に充てて次のように手紙を出しました。「ペルチャッハは信じられないほど美しいところだ。青い空と澄んだ空気、緑の木陰が私をとり囲んでいる。この処女地では旋律が次々に生まれてくるので、散歩のときにはそれを踏みつぶさないように用心しなければならないほどだ」。

 このペルチャッハというのはオーストリアの南の、イタリアの国境に近い小さな避暑地のことです。ブラームスは1877年から3年間、夏になるとこの村を訪れました。そしてここで次々と美しい楽想を引き出し、美しい音楽を作りました。その中の作品の一つが1878年に作られたこのヴァイオリンソナタ第1番です。 
  この曲のメロディをお聴きになると、「散歩のときにはそれを踏み潰さないように用心しなければ」とブラームスがいった通りの、野の花のように繊細で美しいメロディに驚かれるでしょう。この曲は、第3楽章の冒頭が彼の歌曲「雨の歌」と同じメロディであるところから、よく「雨の歌のソナタ」といわれますが私がご推薦するのは、第1楽章の第2主題です。

 この曲は4分の6拍子です。ピアノが重々しくGの和音を鳴らすと、ヴァイオリンがためらいがちに美しいメロディを奏でます。このメロディもきれいなのですが、あまりにも断片的で、その後のピアノが作り出すブラームス特有の音の渦の中に巻き込まれてしまいます。
  しばらくするとヴァイオリンによる第2主題がはっきりと現れてきます。これは控えめに登場しながらも、次第に確信を持って上昇してゆくメロディで、青い空に向けて鳥が飛び立つようなさわやかさと優美さを持っています。最初の四小節では伴奏もやや禁欲的ですが、ヴァイオリンが一オクターブ上に移ると、ピアノのバスに、D、C#、B、A、G、F#と下降する旋律が現れ、その盛り上がりには幸福な切なさ、といったものが感じられます。
  第2主題をひとまず歌い終わるとピアノが単純な1、2、そして4、5のリズムで伴奏を始めヴァイオリンは第1主題の変形を弾きます。このピアノの和音はE、A、D、Gというように繋留音を残しながら5度ずつ変化してゆくもので、恐ろしく流麗な快感を伴う美しい断片です。
  第2主題が始まってからここまでのメロディは、ブラームスのもっとも幸福な時期と、美しい自然環境とが期せずして生み出した、高水準の「美しいメロディ」といえるでしょう。

 

ブラームス「交響曲第4番・ホ短調」
  お恥ずかしいことですが、私は若いころに音楽家に憧れ、作曲家になりたいと思ったことがあります。ちょうど20歳の誕生日、ラジオからブラームスの「クラリネット五重奏曲・ロ短調」のメロディが流れてきました。私はその美しさに感動し、震えました。そして思いました。
  「こんなにすごい曲が世の中にあるのだから、自分がいまさら音楽の世界ですることなど何もない」。この結論は間違っていなかったと今でも思っています。このクラリネット五重奏曲を聴くとき、あるいはへ短調のピアノ五重奏曲を聴くとき、私は自分の進路決断に誤りはなかったと確信します。
  しかしそれ以上に絶対的な絶望感、そもそも生きていることさえ間違っているのではないかと思われるような気持ちにさせられるのが、交響曲第4番です。私はこの曲の第1楽章の1主題を、数あるブラームスの美しいメロディ中の「美しいメロディ」としてご推薦します。

 この曲は1884年から85年にかけて、シュルツシュラークという避暑地で作られました。ブラームスはすでに52歳になっていました。シューマンが亡くなって30年近くが過ぎ、クララとの穏和な、遠距離間交際は続いていました。ブラームスの宿敵とされていたワグナーは、3年前に亡くなり、ブラームスはドイツを代表する最高の作曲家として、人生の極点にありました。すでに作った彼の交響曲はどれも好評で、彼はハンス・フォン・ビューローとともに自作の演奏旅行を続けていました。
  こんな状況の中で作られた第4交響曲が、どうしてあんなにメランコリックな表情をたたえているのか一見不思議にも思えます。私はブラームスがきわめて頭のいい人であったことに注目します。
  彼が内気で、不器用であったことは伝えられていますが、同時に鋭い皮肉屋でもありました。彼が生涯独身であったことはクララに対する恋愛感情とともに語られますが、クララとしても結婚相手としてのブラームスには問題があると感じ、ブラームス自身にも自分自身の問題点や結婚後の成行きが読めていたのではないでしょうか。

 そのブラームスが人生の最高の時期にあって、人生のむなしさ、栄誉のはかなさが分かるだけ冷静であり、現実的であったのではないかと思います。そうした彼の率直な思想や感情が、思わず吐息のように出てきたのが、この交響曲の第1楽章ではないでしょうか。
  メロディは第1と第2ヴァイオリンのオクターブのユニゾンで、弱起で始まります。これを他の楽器が伴奏する形を取ります。メロディはまるで吐息そのもののように、上から下に、下から上に、途切れ途切れに吐き出されます。メロディはやがてつながり始めますが、下向きのトレンドが支配的で、気が滅入るような、絶望的な印象をぬぐうことはできません。
  ハーモニーはEmで、Eのベースのまま強引に進みますが、6小節目に入って、突然CからGへと進みます。この和音の響きは突然現れる曙光、希望といったものを感じさせますが、その後Dm、Amというようにめまぐるしく変化し、ブラームス特有の重苦しい騒がしさへとつながっていきます。
  音楽家ブラームスはある意味では自己中心主義者で、通常の社会人から見れば風変わりな人であったかもしれません。けれど芸術家としては理性と感情のバランスが取れた人でした。彼は人に誤解されたり、憎まれたりすることもありましたし、喧嘩することもありました。彼はヨアヒムとも、ハンス・フォン・ビューローとも気まずくなりましたが、ちゃんと和解することも知っていました。
  栄光の座にあったブラームスが悟った悲しみと諦め、その全人類的な感情の真理を、ふと洩らしてしまったのがこのメロディなのではないでしょうか。

 
 

フランク「ヴァイオリンソナタ・イ長調」
  フランクは1822年にベルギーで生まれた作曲家です。父は銀行家でしたが、フランクをピアノの名手にしようと考え、フランスで音楽を学ばせました。しかし彼は、父の意志に反してピアニストにはなりませんでした。とうとう彼はスポンサーである父と気まずくなってしまいました。彼は経済的に苦労しながら勉強し、やがてオルガン奏者になり、ついにはパリ音楽院のオルガン教授になりました。
  フランクは50歳を過ぎるまで作曲家としては無名でした。というよりほとんどフランクらしい作品を書いていなかったのです。彼が本格的に作曲し、作品を発表し出すのは五〇歳以降ですが、それでも始めのうち作品にはあまり注意が払われませんでした。
  当時でもそうでしょうが、今日の私たちの感覚では50歳すぎといえば人生の終盤ですね。彼は人が仕事を終える頃から本格的な仕事を始めた大器晩成型の作曲家なのです。

 このヴァイオリンソナタは1886年、フランクが64歳のときに作曲されました。けれどこの曲の価値は人々に理解されませんでした。また彼は67歳のとき、「交響曲ニ短調」を発表しました。この交響曲の初演が行なわれたとき、聴衆はあくびをし、演奏する楽団員は肩をすくめていたといいます。
  彼が69歳で「弦楽四重奏曲」を発表したとき、聴衆ははじめて好意的な反応を示し、初演の会場でさかんに拍手を贈りました。フランクはたいそうこれを喜び、「世間の人たちがやっと私を理解しはじめた・・」といったといわれます。ところがそれから1ヵ月後、彼は馬車の梶棒に打たれて亡くなりました。
  このヴァイオリンソナタは、ベルギー生まれの大ヴァイオリニスト、イザイに、結婚のお祝いとして捧げられています。私が推薦するのは、この曲の冒頭に現れるヴァイオリンによる第1主題です。

この曲はイ長調ですが、4小節のピアノの前奏、そしてヴァイオリンが出現してからの3小節間ずっとEの9度の和音によって構成されています。この和音はとても耳新しく、神秘的です。
  私は、フランクはフランスの音楽家の系列の中では異例にドイツ的であり、ブラームスにも似たところがあるように思いますが、この音楽の主題の神秘的な新しさはブラームスにはまったく見られないものであり、現代音楽を予感させるものです。ヴァイオリンのメロディもこの9度の和音の分散になっていますが、ピアニシモで弾き出されるこの旋律はじつに幽玄で、奥深いものがありますね。
  和音は8小節目に入ってようやくAとして解決しますが、これもたちまちF#の減、Fの七度というように次の和音展開に入ります。私たちはフランクが魔術師のように操る調性の不思議な世界を一巡りする、といった感じです。

 ご存知のように、この曲には美しい抒情的なメロディがふんだんに盛り込まれています。たとえば、第2楽章の第2主題、第3楽章の中盤にあらわれるメロディ、そして第4楽章の冒頭にあらわれるロンドの主題、どれをとってもみずみずしく、のびやかで、美しさには甲乙つけがたいほどです。けれど、私は第一楽章の冒頭のメロディを、その独自性、神秘性、深みの観点から推薦することにしました。
  この曲はまるでフランクの人生そのもののようだと私は思います。はじめ静かに沈潜していた彼が低く、歌いはじめ、重々しく響かせ、次第に甘く、美しく発展し、そして最後には若々しくはつらつと自己を発展させ、最後にはまるで自爆し、はじけるように終わります。フランクという作曲家も一つの謎ですが、この作品も一つの美しい謎です。

 
 

ボロディン「弦楽四重奏曲第二番・ニ長調」 
  ボロディンは1833年にペテルスブルグで生まれたロシアの作曲家です。彼はタタールの血を引くロシアの貴族の庶子でしたが、実父母の元で育てられました。彼は子供のころから音楽の才能を示しましたが、同時に化学に熱中し、ペテルスブルグの医科大学、薬学科に進みました。その後彼はハイデルベルク大学に留学し、周期表で有名なメンデレーフと親交を結びました。またこのころ、生涯の伴侶となる女性プロトポポヴァにめぐりあいました。
  やがて故郷に帰ると、彼はペテルスブルグ医科大学の教授になり、有機化学の研究と教育に打ち込み、すぐれた業績を残しました。お分かりのようにボロディンの本職は科学者であり、彼は多忙な仕事の合間を縫って音楽活動をしていたのです。
  1862年には、ボロディンはバラキレフなどの仲間といわゆる「ロシア五人組」を結成しました。彼は1869年ごろからオペラ「イーゴリ公」の作曲に取りかかりましたが、なにしろ本業が多忙で、その合間を縫っての活動ですから遅々として筆は進みません。結局「イーゴリ公」は未完のオペラになってしまいました。

 このオペラは、ロシアと異民族ポロヴェッツ人との戦いを描いたイーゴリ英雄叙事詩を題材にしたものです。この中にあらわれる「ダッタン人の踊り」の音楽は広く知られ、愛好されていますね。本書冒頭のアンケートで、この音楽を「美しいメロディ」として推薦された方もいるくらい美しい音楽です。
  私はこのオペラに登場するイーゴリ公の貞淑な妻、そして異民族首領のイーゴリ公に対する太っ腹な対応などの中に、ボロディン自身の何かが投影されているように思えてなりません。すなわちイーゴリ公の妻にはボロディンの妻の姿が、タタール人の音楽には彼の体に流れている民族の血の名残のようなものを感じてしまいます。
  前置きが長くなってしまいましたが、私がここでおすすめする「美しいメロディ」は、ボロディンが1881年8月から9月にかけて作曲した弦楽四重奏曲第2番の第3楽章、通称「ノットルノ」として親しまれている名曲です(譜例15)。彼がこの四重奏曲を書いたときは48歳の働き盛りでした。多忙な彼としては珍しく手早く完成した曲といっていいでしょう。

 「ノットルノ」とはノクターンのイタリア名です。日本ではノクターンのほうは「夜曲」と訳され、セレナードはなぜか「小夜曲」と訳されていますが、「大」も「小」も関係なしということにしておきましょう。要するに夜間、恋人の窓辺で演奏する恋歌ということでしょう。
  ヴィオラと第二ヴァイオリンが静かにシンコペーションを伴なった和音を奏でる中を、チェロがまずこのメロディを弾きますが、この美しさを何と表現したらいいでしょうか。音はチェロとしては高いAの音から始まり、次第に下降してゆきますが、リズムはとても自由で、所々に装飾音符すなわちコブシが入るところはエキゾチックで、しかもエロチックです。
  このメロディはふたたび第1ヴァイオリンでも弾きなおされますが、異国的なものと西欧的なものが入り混じったえもいわれぬ、不思議な情緒をかもしだします。この曲を聴いていると夜の窓辺に咲くバラの香りがただよってくるような感じさえします。私はこの曲を音楽史上第一級の「美しいメロディ」と考えます。ボロディンはこのノットルノを持つ弦楽四重奏曲を愛妻プロトポポヴァに捧げました。ボロディンはこの曲を書いて6年後、54歳で亡くなりました。

 
 

チャイコフスキー「オペラ・エウゲニ・オネーギンよりレンスキーのアリア」
  チャイコフスキーは1877年、37歳のときに結婚しました。これはきわめて不幸な結婚でした。2人の関係は早くも3ヵ月後に破綻し、チャイコフスキーは自殺未遂をした後、妻のもとを逃げ出しました。ちょうどこのころ、チャイコフスキーはプーシキンの叙事詩による「エウゲニ・オネーギン」のオペラ制作に取りかかっていました。
  この物語に登場するエウゲニ・オネーギンは美貌で、ニヒルなインテリ青年です。ヒロインのタチアナはオネーギンを一目見て好きになり、徹夜でめんめんとラブレターを書きますが、オネーギンはタチアナに肘鉄を食わせてしまいます。その後彼は、友人を決闘で殺して逐電します。チャイコフスキーは「私はオネーギンを嫌いだ」といっていたそうです。
  チャイコフスキーの結婚相手はミニューコヴァという女性でしたが、彼女は要するにチャイコフスキーのファンで、彼あてにラブレターを出したのです。その手紙が機縁で、チャイコフスキーは彼女に出会いました。そのときチャイコフスキーは、自分をタチアナからラブレターをもらったオネーギンのように感じたに違いありません。

 彼はオネーギンがやったように、女性ににべもない、酷薄な対応をすることを恐れました。軽率にも、彼は彼女と結婚することを決めてしまいました。このように、いきなりほとんど知りもしない女性と結婚してしまったのは、チャイコフスキーが「オネーギンのようになりたくない」という気持ちのせいであり、オペラに入れ込んでいたせいではないかと思われます。
  結婚すると、たちまち性格の不一致が明らかになりました。もともとチャイコフスキーはホモの傾向が強かったといわれます。チャイコフスキーも自己中心的でしたが、それ以上に相手の女性も相当の俗物であったようです。
  家を飛び出したチャイコフスキーは旅先で作曲を続け、オペラ「エウゲニ・オネーギン」を仕上げました。この年から彼はフォン・メック夫人の経済的な支援を受けるようになりました。それで彼はあちこちに逗留しながら作曲活動に専念できたのです。

 さて、私が推薦する「美しいメロディ」は、このオペラの中で決闘で殺される若い詩人レンスキーが、決闘の直前に歌うアリアです(譜例16)。オペラの中の「ここ一番」のアリアは、たいてい主人公によって歌われるものですが、このオペラでは途中で死んでしまう登場人物が歌います。

 レンスキーはオネーギンが自分の恋人を横取りしようとしていると誤解し、決闘を申し込みます。彼は約束の場所に立ち、到着が遅れているオネーギンを待ちながらこの歌を歌います。この歌の中で、彼は自分の死を予感し、恋人に自分の墓を訪ねてくれるように頼んでいます。
  メロディはまず短いレチタティーボで始まり、すぐにメロディが始まります。キーはEm、甘く、悲しく、官能的です。歌のメロディの合間を木管の三連音符が、まるで雪原の上の鳥のように吹き抜けてゆきます。このメロディはテノールのための全オペラアリア中の白眉です。
  「エウゲニ・オネーギン」を書いたプーシキンは、自分の妻にいい寄った近衛仕官と決闘するはめになりました。プーシキンは刺され、38歳の若さで死にました。この才能豊かな詩人は、作品中のレンスキーの中に自分の近未来を予告したのでした。

 
 

チャイコフスキー「ピアノ三重奏曲・イ短調・偉大な芸術家の思い出」
  ルービンシュテイン、ルービンスタイン。名前がよく似ていますね。一方は一九世紀に活躍した偉大なロシアのピアニスト、一方は今世紀を代表するポーランド生まれの偉大なピアニストです。19世紀のルービンシュテインは兄弟で、両方ともピアノの達人でしたから、私たちにとってはさらにややこしくなります。兄のアントン・ルービンシュテインは作曲家でもあり、「天使の夢」や「ヘ調のメロディ」などの曲で有名です。
  この2人の兄弟はそれぞれペテルスブルグ音楽院、モスクワ音楽院を創設したことで知られています。チャイコフスキーがここで「偉大な芸術家」といっているのは弟のほうのニコライのことです。チャイコフスキーはニコライの招聘でモスクワで教鞭を取ることになりました。

 ニコライとチャイコフスキーの関係は、師弟的でもあり、友人的でもあります。チャイコフスキーが変ロ短調のピアノコンチェルトを書いたとき、ニコライに聴いてもらって批評を求めました。ところが、ニコライはこの曲をピアノに不向きだとか、独創性がないとかいって激しく罵倒したといわれています。チャイコフスキーはがっかりし、当初ニコライに献呈するはずであったこの曲を、ハンス・フォン・ビューローに献呈しました。
  ハンス・フォン・ビューローはこの曲の価値を認め、アメリカで初演するなど、各地でこの曲の良さを紹介しました。はじめこの曲をけなしていたニコライも価値を認め、チャイコフスキーに謝罪するとともに、自分自身のレパートリーに加えました。いらい、チャイコフスキーとニコライとの友情が深まりました。

 1881年3月ニコライが四五歳の若さで、パリで客死したという知らせを受けたとき、チャイコフスキーはニースに滞在していました。彼は取るものもとりあえず帰国して葬儀に参列しました。このときニコライの後任としてモスクワ音楽学院の院長候補にチャイコフスキーの名があがりました。けれど彼はこれにまったく興味を示さず、さっさとローマに発ってしまいました。
  ピアノ協奏曲の件でお分かりのように、チャイコフスキーとニコライの関係は平坦なものではなく、ときとして過激なものがあったようですね。それでも互いに才能を認め、尊敬しあっていたのでしょう。チャイコフスキーはニコライの死に強いショックを受けたようです。
  彼はローマに着くとすぐにこのピアノ三重奏曲を書き始めました。当時チャイコフスキーはスランプで悩んでいましたが、このときにはあふれるように楽想が湧きだしたといわれています。翌年になるとこの曲が完成しました。チャイコフスキーは42歳になっていました。彼はこの曲に「偉大な芸術家の思い出」とタイトルをつけました。
  私が「美しいメロディ」として推薦するのはこの曲の第1楽章Amの第1主題です。このメロディは明らかに、すぐれた友人を失った悲しみと哀悼の念を表現しています。

 トリオの編成は、ヴァイオリン、チェロ、ピアノで、はじめにピアノが静かにAmの分散和音を静かに奏でるとすぐにチェロが悲しげな、すすり泣くようなメロディを弾きます。チェロが四小節を弾き終わると、ヴァイオリンが同じメロディを四度上のDmで弾き、四小節後にはチェロが加わって2人が対話風な発展を繰り広げます。
  このメロディの悲しさ、美しさをどう表現したらいいでしょうか。ここには流れるような優雅さと、気品と、肺腑をえぐるような絶望感が同居しているのです。チェロとヴァイオリンの対話は男女の語らいのようにも聞こえますが、一方はこの世から嘆きを送り、他方があの世から応答しているようでもあります。
  その応答はまことに未練がましく、切々たるものがあります。これほど胸を突かれるような悲しみの音楽はほかにないのではないでしょうか。これを聴くと私はしばらく他人と口をきく気がしなくなるほどです。
  いずれにしても、このヴァイオリンとチェロの応答の中には、――実際はどうであったかは別として――ニコライに対するチャイコフスキーの通常の、同性の友人に対する以上の思い入れがあるように思えてなりませんが、おそらく、こういう聴き方は間違っているのでしょう。

 
 

サンサーンス「オペラ・サムソンとデリラよりデリラのアリア『あなたの声に心は開く』」
  サンサーンスは1835年にパリに生まれ、85歳の天寿をまっとうした作曲家です。彼はフランス・ロマン派を代表し、近代音楽へのみちすじを作ったもっとも重要な人物です。彼はニデルメイエール音楽学校の教授をつとめたことがありますが、このときにフォーレを教えたことは有名です。彼はまたピアノ、オルガンの名手でもありました。
  サンサーンスの音楽は親しみやすく、分かりやすいのが特長です。ヴァイオリンのための「序奏とロンドカプリチオーソ」や「動物の謝肉祭」の中の「白鳥」、交響詩「死の舞踏」などは、美しいメロディを持つポピュラーな曲として毎日のようにどこかで演奏されています。またヴァイオリン協奏曲もよく演奏される名曲ですね。
  サンサーンスは生涯に12曲ものオペラ作品を作りました。その中でもっともよく知られているのは「サムソンとデリラ」でしょう。この曲は1868年に作られ、リストの助力によって1877年に初演されました。このオペラは旧約聖書の中の「士師記」に登場する英雄サムソンの物語をかなり忠実にオペラ化したもので、おおいに楽しめるオペラです。

 私が推薦する「美しいメロディ」は、このオペラの第2幕、第3場でデリラによって歌われるアリアです。英雄サムソンは、怪力を持つイスラエルの英雄であり、リーダーでした。彼らに敵対していたのはペリシテ人でした。いうまでもなく、この「ペリシテ」という言葉は今日の「パレスチナ」であり、物語の舞台も問題のガザ地区です。
  ペリシテ人たちはサムソンがあまりにも強すぎるので、その強さの秘密を探るために美女デリラに命じてサムソンを誘惑させます。サムソンはデリラの官能のとりことなりますが、三たび嘘をいって秘密を守りました。けれど四度目には本当のことをしゃべってしまいます。

 サムソンはデリラが自分の秘密を知ろうとしていることを知っています。この危険な女には近づかないほうがいいのです。けれどサムソンはどうしても愛と官能の誘惑には勝てません。デリラのほうはサムソンを引きつけ、自分のためなら何もかも捨ててもいいと思わせなければなりません。誘惑にも気合いが入ります。なにしろそこで歌われるメロディですから、心をとろかすような美しい音楽となるのは当然のことです。
  このアリアは2回同じように歌われますが、伴奏の形が違います。またアリアは4分の3拍子の前半部分と、後半の4分の4拍子の部分とに分かれています。私がとくに美しいと思うはこの4分の4拍子の部分からで、半音下降を伴なう冒頭のメロディも美しいのですが、9小節目から7度ずつ上に跳躍し、クライマックスのG♭の音にいたるプロセス、そしてその直後のB♭mの和音の小節、この流れが大好きです。

 前半の3拍子の部分は第一コーラス目では、さざなみのような8分音符に支えられて出てきます。第2コーラス目には、この伴奏はクロマチックな下降する6連音符に変わります。この3拍子部分はいうなれば前戯のようなもので、4拍子部分からが本番です。7度の音の跳躍はその時に発せられる声であり、次第にクライマックスに向けて盛り上がって、B♭mの小節でがっくりくる、このプロセスについては何も説明を要しません。
  要するにこのアリアは、デリラがサムソンを誘惑するために、自分とのセックスの楽しみをかなり露骨に表現しているわけで、サムソンがこれに抵抗できず、何もかも喋ってデリラの膝に屈してしまったのは仕方がありませんね。
  音楽は昔からセックスに関係があるといわれてきましたし、R・シュトラウスのようにその場面を意図的に表現した作曲家もいましたが、サンサーンスのこのアリアも口説きとしての音楽、あるいは歌の本質をみごとに表現した音楽です。私たちがこの音楽に心をとろかされてしまうのも、これまた仕方がありません。

 
 

ビゼー「オペラ・カルメンよりセギディリア」
  女性が男性を口説く音楽をもうひとつあげましょう。ビゼーによるオペラ「カルメン」はあまりにも有名ですが、ここにはカルメンがホセをはっきり誘惑する音楽が何回か登場します。
  オペラでは、ホセはこのカルメンの誘惑によって運命を変えさせられます。彼が優秀な伍長から密輸業者に、そして最後には犯罪人へと身を落としてゆくのは、ひとえにカルメンの口説きの音楽に魅せられるがためです。
  最初の誘惑の音楽は、たばこ工場から出てきたカルメンが歌う「ハバネラ」です。この歌ははじめはカルメンのキャラクター紹介のようなもので、カルメンのターゲットはまだホセには限定されていません。ところがカルメンは歌い、踊っているうちにいかにも純情そうな、田舎出の伍長を見つけます。

 メリメの原作ではドン・ホセは、たばこ工場から出てきたカルメンのセクシーな姿に仰天します。彼はいいます。「これがわたしの故郷なら、こんな風体の女を見たら、人は魔除けに十字のしるしを切るはずです」。ところがホセはカルメンが投げた花、すなわち花の弾丸にみごと心臓を射抜かれてしまいます。
  二番目にカルメンがホセを口説くのは、喧嘩をして捕らえられたカルメンが護送にあたるホセに逃がしてもらおうとするときで、このときに歌われるのが私がご推薦する「美しいメロディ」である「セギディリア」です。

 この曲の中でカルメンは「リーリャス・パスティアの酒場へセギディリアを踊りに、マンサニーリャを飲みに行こう」と歌います。セギディリアはスペインの3拍子の舞曲。マンサニーリャは辛口のシェリー酒のことです。ここで彼女はホセをデートに誘っているわけです。
  3番目にカルメンがホセを口説くのは、第2幕、ホセが懲罰監禁を終えてカルメンのところにたずねてきたときです。ここで演奏されるのが「カスタネットの歌と踊り」の音楽で、ホセはカルメンに愛されるはずでしたが、そのとき帰営のラッパが鳴り出します。
  カルメンは帰営のラッパを聞いて帰ろうとするホセに「さっさとお帰り」というのですが、実際には彼を引き止めています。このときの歌は帰営のラッパにからんでカルメンのセクシーさがことさら際立つように演奏されます。

 このように単純に見てもカルメンは3回、ホセの情念を思いのままに引き回すわけですが、そのつどごとに2人の関係が深まっていることがお分かりでしょう。
  私がご推薦する「セギディリア」で、カルメンは「私を逃がしておくれ、あとでデートしてあげるよ」といっているのですが、それは「私とデートすれば、いいことがあるよ」という暗示です。この段階のまじめな伍長にはこの程度の誘惑が効果的です。これ以上刺激が強いと、ホセはかえって用心してしまうかもしれません。
  このメロディは、フルートの前奏で始まり、弦のピッチカートによる伴奏に乗って歌が現れます。曲全体のキーはBmですが、はじめはF#、そしてEm、A、Dというようにめまぐるしくキーが変化し、Bmの和音が再現するのは13小節目になります。この意外性に飛んだ和音の変化は、いかにもエキゾチックで、幻想的です。

 メロディもわずか十数小節の区間に三連音符、スラー、スタッカート、アクセント、装飾音符を伴なう8度の跳躍などを含んでおり、とても一筋縄ではありません。つまりカルメンは技巧の限りを尽くしてホセにすりよっているわけです。ホセが「デート」を当てにしてカルメンを逃がしてしまったのも、これまたやむを得ませんね。
  オペラ「カルメン」が完成したのは、1874年、初演は1875年3月です。初演に対する聴衆と批評はひどく冷淡なものだったいわれています。聴衆はこの新しいオペラを評価できるほど成熟していなかったのです。ビゼーはその年の6月に、カルメンの本当の成功を知らないままに急逝しました。37歳でした。

 
 

ドヴォルザーク「スラヴ舞曲・作品46・72・第10番・ホ短調」
  ドヴォルザークは1841年、プラハ近くの村にある肉屋の長男として生まれました。父親はドヴォルザークの教育にとても熱心でした。ドヴォルザークはオルガン学校を卒業し終わるとプラハで劇場のヴィオラ奏者となりました。
  父親の商売があまりうまくゆかなかったため、ドヴォルザークは親の援助を受けられず、大変な貧乏をしながら音楽家としての修行時代を過ごしました。作曲家としてのドヴォルザークはまだ知られていませんでしたが、たくさんの作品を書きまくりました。
  やがて彼はオーストリア文化省が主宰している奨学金を受けられるようになりました。この奨学金の対象を審査していたのは、ブラームスとハンスリックでした。ドヴォルザークはこの2人に才能を見出されることによって成長し、やがて大音楽家の列に加わることになったのです。ドヴォルザークにとってブラームスは恩人でした。彼はブラームスを尊敬し、そのアドバイスにしたがいました。

 ブラームスはあるとき、ドヴォルザークに「収入になるから、連弾用の舞曲集を書いてみたらどう」といわれました。きっかけはブラームスが彼に紹介してくれた出版社からの依頼だったともいわれています。いずれにしても、当時ブラームスは連弾用の「ハンガリー舞曲」のシリーズで大ヒットを飛ばしていました。そこでドヴォルザークは早速ブラームスの真似をして連弾用の「スラヴ舞曲集」を作って出版しました。
  テレビやラジオ、それにカラオケなどのなかった当時、音楽好きのヨーロッパの家庭では、ピアノの連弾が大きな楽しみの一つでした。そこでオリジナルの連弾曲もたくさん出版されましたが、親しみやすいオーケストラの連弾用編曲版なども出版されました。これらはほとんど音楽好きのアマチュアのためのものでした。
  今日でもピアノ連弾用にアレンジされた楽譜が出版されています。モーツァルトの「アイネクライネ」や「フィガロの結婚」、ウエーバーの「舞踏への勧誘」、それにチャイコフスキーの「くるみ割り人形」など。これらを週末、夕食後、親しい友人同士、あるいは親子で、兄弟で連弾するのはどんなにか楽しいことでしょう。私の考えでは、たとえ演奏者の腕前がどうであろうとカラオケよりははるかに上等だと思います。

 さて、ドヴォルザークの「スラヴ舞曲」は大ヒットしました。のちにこれらの曲は管弦楽曲にアレンジされました。皆さんが通常お聴きになるのは管弦楽用の曲のほうでしょう。「スラヴ舞曲集」は全部で16曲でできています。中でも私は16番の変イ長調と、ここでご推薦する第10番ホ短調が大好きで、こよなく美しいメロディだと思います。
  リズムは8分の3拍子、冒頭のメロディはロから始まる半音階のためらいといったもので、同じパターンを繰り返しながらメランコリックに下降してきます。16小節の繰り返しを過ぎるとメロディのパターンは決然と半音階の上昇傾向に変わりますが、頂点まで達すると力を使い果たしたかのように、再びメランコリックな下降型に戻ります。

 私がこの曲でとくに魅力的だと感じるのは伴奏の和音の進行で、一小節ずつ、Em、F#の減七、Emの六、Amの6度、F#の7度、Em、Bの7度、Cというように、バスが上昇をオブリガートを伴ないながら変化します。メロディはほとんど通俗的といえるほど親しみやすいものですが、この和音進行は通俗音楽の遠く及ぶところではありません。
  とくにBの7度からCに移るところは、とても美しく、意表を突かれます。これに似た効果がブラームスの交響曲第4番の冒頭部分にも見られますね。16小節を過ぎたあとの、和音進行も変化と意外性に富んでいて、驚くほどです。
  このような音楽は作ろうと思って作れるものではありません。ドヴォルザークが血の中にいかに音楽を持っていたか、ということを示してくれるものです。このような貴重な遺産を共有できる私たちは幸せです。

 
 

ドヴォルザーク「弦楽四重奏曲・ヘ長調・アメリカ」
  作曲家がすぐれた演奏家であることは珍しくありませんが、同時にいい音楽の教師であるということはなかなか難しいようです。チャイコフスキーなどせっかく音楽院の教授の地位をもらいながら、ろくに生徒を教えた形跡がありません。しかしドヴォルザークは大作曲家でありながら演奏家であり、同時に立派な音楽教育者でした。
  1891年、彼は50歳のときにプラハ音楽院の教授となりましたが、さらに彼は音楽教育者としての見識を買われて51歳のときにアメリカに渡り、足掛け4年間滞在してナショナル音楽院の院長を務めました。渡米して2年目に作られたのが有名な「交響曲第9番・新世界」です。また渡米3年目に作られたのが例の「チェロ協奏曲」です。
  「新世界」も美しいメロディに満ちていますし、チェロ協奏曲の主題も「やみがたい望郷の念をあらわしている」といわれ、めちゃくちゃに美しいものですが、私がここでご推薦するのは、「新世界」と同じ年、すなわち1893年に作られた、弦楽四重奏曲第12番「アメリカ」の第1楽章に登場するメロディです。

 ドヴォルザークは晩年には作曲家兼指揮者として大活躍しましたが、若いときには金にピーピーしながらオーケストラでヴィオラを弾いていました。彼は、ワグナーの指揮下で演奏したこともありますし、スメタナの「売られた花嫁」の初演のときにもヴィオラのパートを弾きました。彼は生涯に14曲も弦楽四重奏曲を書いています。おそらくヴィオラ奏者としての経験が生きているのでしょうね。
  この弦楽四重奏曲「アメリカ」はどの部分をとっても分かりやすく、美しい旋律に満ちていますが、第1楽章はとくに明快です。第1主題も親しみやすく、いきいきとした美しいメロディで私は大好きです。まもなく第2主題がイ短調であらわれますがこれは、メランコリックでありながら、動きが速い、美しい旋律です。
  この第2主題にともなうはげしいリズムが次第に消えてゆき、流れが落ち着きます。ここにpppの記号とともにイ長調で、コデッタ主題と呼ばれている、ゆるやかなメロディが第1ヴァイオリンによって歌われます。

 コデッタというのは、コーダ(終結句)の小さいもの、という程度の意味です。文字通りに取れば音楽的な「おまけ」のようなものかとも思われますが、この「アメリカ」の中ではおまけどころではありません。きわめて重要で、印象的な役割を果たしています。
  かりに第2主題の印象を、カウボーイが一人砂漠を馬で駆け抜けていく様子にたとえると、この主題は突然視界が変わり、目の前に美しい花々が咲き乱れるオアシスがあらわれた、というような印象を与えます。ほのぼのとした愛らしさと、幸福感と、空間的な広がりを同時に感じさせる本当に美しいメロディですね。
  メロディは、ヴァイオリンでちょうど歌声に相当する中音域で歌われますが、このヴァイオリンは、自分では抑えようとしているのに、本来ヴァイオリンが持っている軽妙な装飾性がどうしても出てしまう、というように書かれています。
  そのためにこのメロディには美しさだけでなく、いたずらっぽい愛らしさがともなっているのですね。ドヴォルザークの研究家として知られる音楽学者オタカール・ショウレックは、このメロディ部分について「ドヴォルザークのもっとも喜ばしいアメリカのモチーフの一つである」といいました。
  いずれにしても「アメリカ」の中には、エスニックな感興が濃厚に現れていますが、それは私たちがドヴォルザークが持っていたチェコ人としての特性の上に感じるものと、ドヴォルザークがアメリカに見出して表現しようとしたエスニシティとの混合物です。
  このメロディはアメリカ的でもあり、スコットランド風でもあり、東洋風でもあり、日本風でもあります。私はこのメロディを聴くと、アメリカ・インディアンの祖先たちであるモンゴロイドが、氷河期にアラスカ海峡を超えて新大陸に移り住んだという話を思い起こします。一方ではモンゴロイドはスラヴ平原にも足を伸ばしたのだろうな、などとも空想します。
  要するにこの音楽はどこから見てもエスニックなのに、まるで自分たちの民族の音楽であるかのような親近性を感じさせます。不思議なメロディですね。

 
 

グリーグ「ピアノ協奏曲・イ短調」
  グリーグは1843年ノルウェーのベルゲンというところで生まれました。母親がすぐれたピアニストで、グリーグも小さいときから母親の手ほどきを受け、音楽家としての勉強をしながら成長しました。彼はライプチッヒ音楽学院に留学し、ドイツロマン派音楽の基礎を身につけましたが北欧人としての自覚を持ち、民族的な感性を大切に作曲活動を続けました。
  グリーグの作品には印象的で美しいメロディを持つものがたくさんあり、私たちにとっても親しみやすい曲が多いですね。本書冒頭の「あなたにとっての美しいメロディは?」のアンケートでも、グリーグのペールギュント組曲の「朝」に人気が集まっていましたね。
  私はここで、あの有名なピアノ協奏曲の第1楽章の第2主題を「美しいメロディ」としてご推薦します。

このコンチェルトは、1868年に作曲されました。グリーグは前の年の67年に従姉妹にあたるニーナと結婚し、コンチェルトが完成した年には子供が生まれています。彼の人生の中でもっとも幸福で充実していた時期ではないでしょうか。
  グリーグ夫人ニーナは美しいソプラノ歌手で、グリーグは夫人のためにたくさんの歌曲を書き、夫人もグリーグ作品の紹介につとめました。そういえば、アンデルセンの詩につけた「君を愛す」も珠玉のように美しいメロディですね。
  名曲というものは初演のときには理解されないことが多いものですが、このピアノ協奏曲は初演のときから熱狂的に迎えられたといわれます。この曲を献呈され、コペンハーゲンで初演したピアニストのエドムン・ネウペットは、「第1楽章のカデンツアの後で拍手の嵐が爆発した」とグリーグに書き送っています。オペラの有名なアリアの直後みたいに、曲の途中で拍手されたようですね。

 グリーグがリストにこの曲を見せたとき、リストはすぐに初見で弾き、第3楽章について「G! G#でなくG! これが本当の北欧だ」といって賞賛したといわれています。これはAmの場合、G#が音階の最後の音として使われるはずのところ、グリーグがGの音を効果的に多用していることに対する批評です。
  日本の音楽でもラシドレミファソラ、のソがナチュラルで用いられることが多いですね。リストはこのナチュラルのソの音にグリーグ独特のエスニシティを見て取ったというわけです。
  曲はご存知のように、冒頭のはげしいピアノのカデンツァ風のソロに始まり、深い憂愁を感じさせる第1主題から、霧の中を透かしてみるようなものうい経過のパッセージ、そして華やかなピアノの装飾というように美しいメロディが次々と現れます。
  第2主題はハ長調、4分の4拍子で、まず静かにオーケストラで4小節歌われます。このメロディが私が推薦したい「美しいメロディ」です。動機は最初の1小節と2小節目の1.5拍目までで、残りの2.5拍は動機を受けての伴奏です。3小節目から再度同じパターンの動機を転調しながら歌います。また、残り2.5拍が伴奏します。うしろ2小節の転調が新鮮で、恐ろしいほど美しいのです。
  もっと近寄って和声を観察してみましょう。最初の動機部分でC2拍、ついでF、Fmと変化し、2小節目の伴奏部分にDの和音が入ってGに戻ります。3小節目はCm、Gmそして3拍目にはすでにA♭の属七であるE♭7に入ってA♭に移りますが、すぐにDの和音を聴かせてGに戻ります。

 これを聴く瞬間は、まるで夢の中で仙女に魔法にかけられたような感じです。この美しさを言葉でいい現そうとすることは絶望的です。この主題をピアノが変奏しながら引継ぎ、発展させ盛り上がってゆきます。
  グリーグのこのコンチェルトについては、グリーグのもっとも幸福な時期の作品であることから、彼の「みずみずしさ」「新鮮さ」「躍動する幸福感」などと形容されますが、私はあまりそうは思いません。私には深く閉ざされた憂愁と、冬の木漏れ日のような、つかの間の希望と、自暴自棄にいたるような悲しみのメッセージを受け取ります。
  いずれにしてもグリーグはそのナイーブな精神によって、汎北欧人的な魂の憂鬱を、いうなれば世界語で今日も発信しつづけているのではないでしょうか。

 
 

グリーグ「ヴァイオリンソナタ第3番・ハ短調」
  グリーグは生涯に3曲のヴァイオリンソナタを作りました。第1番、第2番のソナタは若い時代に作曲されたもので、それなりの新鮮な魅力を持っていますが、この第3番がもっとも内容的に充実しています。私がご推薦したいのはこのソナタの第2楽章です この曲がいつ作られたのかについて、正確な日付は分かっていないようですが、一八八七年の年初であったろうといわれています。かりに一八八七年とすれば、グリーグが四四歳のときであり、作曲家として社会的にも成功し、もっとも油の乗り切った時期ということになります。
  グリーグはこのころ、夏になると多くの外国からの音楽関係の来客を迎えていました。お客さんたちは、避暑を兼ねてグリーグをたずねてきていたのでしょうね。この曲ができる前年の夏、グリーグ家にはイタリアの二〇歳の魅力的な女性ヴァイオリニスト、トウア嬢が泊りに来ていました。グリーグは彼女が奏でるヴァイオリンの音を大変喜び、彼女を「トロルの丘のフィッドルの精」と名づけていたそうです。

 「トロル」というのは、グリーグが住んでいたトロルドハウゲンを意味すると同時に、ノルウェー伝説に出てくる妖精の名を意味するそうです。フィッドルとはヴァイオリンのことですね。「屋根の上のヴァイオリン弾き」は、「フィッドラー・オン・ザ・ルーフ」ですものね。つまりグリーグは彼女のヴァイオリンを聴いて、その美しさを「妖精のヴァイオリン」にたとえていたのでしょう。資料によると、グリーグは彼女の魅力的な演奏に触発されてこのヴァイオリンソナタを書き進み、完成させたということです。
  ヴァイオリンソナタは3つの楽章から成り立っています。第1楽章はハ短調、第3楽章もハ短調ですが、なぜか第2楽章はホ長調で、ハ短調に対してまったく関係調ではありません。第1楽章と第3楽章の印象は似ていますが、第2楽章はまったく似ていません。要するに突然2つの楽章の間に置かれた異質の音楽空間、といった様相を呈しています。
  もちろん全体を通して聴いてみれば、それなりに統一感はあるのですが、それでもこの第2楽章には何か異質な別世界を感じさせるものがあります。ではこの第2楽章に近寄って、音楽を聴いてみましょう。

 第2楽章は4分の2拍子、ピアノのソロで始まります。このピアノの前奏は44小節も続くもので、まるまる歌のワンコーラスを独奏して、さらにコーダまでついているという念の入ったものです。メロディは弱起で始まり、2小節おきにタイで結ばれ、音を残します。そのメロディがタイで残っているうちに、和音が半音または全音のオブリガートによって変化します。
  ピアノのソロが終わると、ヴァイオリンが同じメロディをピアノよりも1オクターブ低い、人間の声音域で弾きます。ピアノが高い音域で弾き、同じ旋律をヴァイオリンが低い音域で弾くというのもなかなかいいですね。

 トリオ部分に入ると、ピアノのシンコペーションのリズムに乗って北欧の、舞曲風のメロディが現れますが、これまた美しく、とくにジャズ的な「こぶし」が入るところなど何ともいえません。トリオが終わるとピアノの三連音符の伴奏で冒頭のメロディが出現し、メロディは予想外の転調を重ねながら、限りない憧れを乗せて天空高く飛び、静かに消えてゆきます。
  夏のある日、北欧の作曲家がハ短調で仕事を続けていると、突然美しい妖精があらわれ、作曲家に音楽的な霊感を与え、さらにあでやかに一節舞い、高く舞い上がって青空の向こうに消えていった。作曲家はふとわれに帰ると、またハ短調で仕事を続けた。こんな物語を作れそうな、この世のものとは思えない美しいメロディ、それがこの曲の第2楽章です。

 
   
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