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美しいメロディ
 
第5章 「美しいメロディ」のコレクションより−3

ラフマニノフ「ピアノ協奏曲第2番・ハ短調」
  ラフマニノフは1873年、ロシア、ノヴゴロド州のオネグというところに生まれました。父は近衛隊長でした。母は教養ある人で、ラフマニノフは母親からピアノの手ほどきを受けたといいます。母親が音楽の道への手引きをした点でグリーグによく似ていますね。
  やがて彼はモスクワ音楽院に学び、学生時代からピアノコンチェルトやオペラ「アレコ」を作曲したりして、文字通り抜群の成績で卒業しました。オペラ「アレコ」については、チャイコフスキーが絶賛したことでも知られています。
  チャイコフスキーが、盟友ニコライ・ルービンシュテインの死にさいして、「偉大な芸術家の思い出」というピアノトリオを書いたことはすでにお話しました。ラフマニノフはチャイコフスキーが亡くなったとき、この先例を模倣しました。彼もまたチャイコフスキーに捧げるピアノ三重奏曲「偉大な芸術家の思い出(ニ短調)」を作曲したのです。

 私はこの曲を聴いていませんが、ラフマニノフがチャイコフスキーの例にならったという点に強い興味をひかれます。彼はこのとき20歳でした。チャイコフスキーがニコライのために「偉大な芸術家の思い出」を作曲したのは42歳のときでした。若いラフマニノフは自分をチャイコフスキーになぞらえるほどに、気負いと自信を持っていたのです。
  やがて彼は教師として、作曲家として、何よりもすぐれたピアニストとして活動を行ない、次第に名声を高めてゆきました。
  彼は95年に「第1交響曲」を作り、これを97年に発表しました。ところがどういうわけかひどい不評でした。グラズノフが指揮したそうですが、初演の演奏もまずかったようです。この不評はラフマニノフにとって手痛いものでした。彼はすっかり落ち込み、極度のノイローゼになって、一切の仕事から遠ざかってしまいました。
  今聴いてみれば、「第1交響曲」だって別に悪くないのです。けれど音楽の神童として騒がれほめそやされ、音楽学校ではピカイチの折り紙をつけられ、自分でも大家としての自信と誇りを持っていた彼としては、これが初めて味わった屈辱的な挫折だったのでしょうね。

 幸いなことに、ラフマニノフは著名な精神科の医師の治療を受けて、このノイローゼから立ち直りました。そして1901年、この大傑作「ピアノ協奏曲第2番」を書きました。この曲はあまりにも有名ですから、多言を要しないと思います。第1楽章の第1主題も、奥深い憂うつさで聴く人の心をとらえて離しませんが、私が「美しいメロディ」としてご推薦したいのは、やはり何といっても第2主題ですね。
  第1主題部が、フルオーケストラのフォルテシモで終わると、クラリネットとヴィオラの前奏があって、ここから例の第2主題がピアノによってじつにロマンチックに歌われます。メロディはひとまず高く上がって、それから次第にためらいながらなだらかに下降してくる山型で、ラフマニノフ特有の息の長いフレーズになっています。

 和音は最初がE♭ですが、2小節目は結局のところE♭に対して3度、すなわちGの和音でこれがなんとも切なく、甘い響きを作り出しています。3小節目には再びE♭に戻り、四小節目ではE♭の6度―D、これの半音下の繰り返し、という意外性に富んだ美しい和音展開を作ります。
  よく見ると、この旋律に付帯した和音は1小節おきにE♭に復帰しており、別のキーに飛んでゆくということがありません。このために、用いられている音は一見複雑そうに見えますが、とても分かりやすく、親しみやすいメロディになっているのですね。
  ラフマニノフがこの曲を書いた前年、すでにシェーンベルクの「浄められた夜」が書かれています。ドビュッシーやラヴェルやR・シュトラウスなどが、それぞれに新しい音の響きを作り出していました。
  こう考えますと、ラフマニノフの作品はずいぶんレトロ調であるようにも思えます。しかしこれがラフマニノフが、精神的な悩みを乗り越えて到達した結論だったのです。この古典的な美しさ、抒情的なロマンチシズムは、時代を超え、国境を越えて普遍的なものです。この美しさが人間にとって説得力を失うことは決してないでしょう。

 

ラフマニノフ「パガニーニの主題による狂詩曲・第18番」
  私は手元にラフマニノフ自身がピアノを演奏した録音テープを持っています。曲はラフマニノフが編曲したクライスラーの「愛の悲しみ」です。あの美しいヴァイオリンのメロディを華麗なピアノの独奏曲に直しているのですが、極端に変えているのではなく、原曲をかなり忠実に生かし、いかにもピアノふうにアレンジしているのです。
  このテープを聴くと、いくつかのことが分かります。まずラフマニノフが本当にすばらしいピアノの名人であったこと、それにクライスラーを取り上げていることから推察して、彼が「美しいメロディ」好みの人であったことが分かります。
また曲のアレンジ、あるいは演奏の即興性ということから、いわゆる「変奏曲」がどのようにして作られていくのかを垣間見ることができます。

 私がここでご推薦するのは、ラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」の18番目に出てくるメロディです。題名はご存じなくとも、曲を聴けば「ああ、あの曲か」と思いだされる方もいるでしょう。「まるで映画音楽のようだ」といわれる方もいるでしょう。
  パガニーニは、いうまでもなく19世紀の初頭に活躍した伝説的な名ヴァイオリニストであり作曲家ですが、彼のテーマはどういうわけか作曲家をひどく刺激するらしく、さまざまな作曲家による「パガニーニの主題による変奏」という音楽がたくさんあるのです。
  ここで取り上げられているパガニーニのメロディもその例で、シューマン、リスト、ブラームスが同じメロディを取り上げています。ラフマニノフも過去に多くの作曲家がこのテーマを取り上げていることを承知の上で、この曲を作りました。1934四年、61歳のときです。ラフマニノフはこの曲を変奏曲の形を借りたピアノコンチェルトのような体裁に仕上げ、ピアノの名手としての自分の存在を思い切りアピールできるようにしました。

 パガニーニのテーマは有名なものですから、聴けばすぐに分かります。またこの「狂詩曲」にはパガニーニの主題を補完するためのラフマニノフ自身の主題、それにグレゴリー聖歌として引用の多い「怒りの日」の主題などが登場します。
  24の変奏曲のうち第18番目が私のおすすめですが、ここにはどういうわけかパガニーニの主題もリズムも現れません。専門家が楽曲分析をすればこれも、8分音符のリズムが主題に関連している、などということになるのかもしれませんが、素人の私にはこの18番だけはまったく独立した別個のメロディ、変奏に関係のない別個の音楽であるように思えます。要するに突如として、前後に関係のない美しいメロディが現れるわけです。
  こんなことをいってはラフマニノフにも専門家にも叱られるかもしれませんが、24ページの難しげな研究書の中に、1ページだけ美人のヌード写真が混じっているという感じです。

 曲は変ニ長調、4分の3拍子、アンダンテ・カンタービレという指定があり、1拍が三連音符という構造になっています。まずピアノがみずから2小節の前奏を弾き、2小節目の3拍目からメロディを歌い出します。ピアノが12小節を弾き終わると、オーケストラが同じメロディを引き取って歌いだし、ピアノは伴奏にまわります。
  メロディに呼応する和音の進行を見ると、A♭、E♭m、Fm、G♭、Amの6度に移ってゆくところが何ともいえずスケールが大きく、圧倒されるような美しさがありますね。E♭m、Fm、G♭、Amなどという和音進行は下手にやれば聴き苦しい平行8度になりますが、もちろん大作曲家ラフマニノフがやることですから、ただもう、カッコイイ、のひとことにつきます。
  要するにこの曲には、ラフマニノフ的な憂愁と、ロシアの大地がはぐくんだ雄大なスケールと「これでもか!」というほどの、ロマンチシズムの甘さが貼りついています。いやはや、この曲を聴くときの快感、たまりませんねえ。

 
 

フォーレ「ヴァイオリンのためのアンダンテ」
  フォーレは1845年スイスに近いフランスの町パミエというところで生まれました。彼は9歳のときパリに出てニデルメイエール音楽院に入学し、ここで11年間寄宿生として勉学しました。このときにサンサーンスが先生として赴任してきてフォーレを教えました。サンサーンスとフォーレは生涯にわたる友人となりました。
  フォーレは学校を卒業するとあちこちの教会のオルガニストをつとめるかたわら、作曲活動を続けました。彼は五一歳でパリ音楽院の教授となり、60歳で院長に就任しました。今でもパリの音楽院には「フォーレの部屋」という一室が残っています。彼は50歳代のなかばから耳が聞こえなくなり、ベートーベン、シューマンの仲間入りをしてしまいました。
  フォーレの人柄についてはその音楽が示すように、どこまでもつつましやかで、誠実で穏和であったといわれます。彼は「何事にも決して不平をいわない」を信条にしていました。サンサーンスはあるときフォーレに向って「君はあらゆる才能を持っているが、しかし芸術家にとって絶対に必要な一つのことが欠けている。それは野心だよ」といったといわれます。

 フォーレの作品は知的で、内省的で、それでいて「美しいメロディ」が多いのです。初期に書かれた歌曲群は、ことのほか分かりやすく気品がありますし、「子守り歌」「ドリー」「シシリエンヌ」なども美しいメロディですね。アンケートで何人かの方にご推薦いただきましたが、「レクイエム」の中の「ピエ・イエズス」のメロディ、あれは本当に美しいですね。
  私はここでは、数ある美しいメロディの中からヴァイオリンとピアノのための「アンダンテ」をご推薦したいと思います。この曲は1898年、53歳のときに作られました。
  フォーレは若いときから上流社会のサロンでもてはやされましたが、彼はこのサロンでよくヴァイオリンの名手ジャック・チボーと一緒に演奏しました。チボーは、フォーレの「子守り歌」を「岩をも泣かせるような」音色で演奏したといわれています。
  サロンでの、チボーとのデュエットを想像させる初期の美しいメロディを「子守り歌」とすれば、この「アンダンテ」は後期のデュエットの名曲といっていいでしょう。曲は変ロ長調、4分の2拍子、シンコペーションのかかった2小節のピアノ前奏に続いてヴァイオリンがドルーチェで歌い出します。

 ピアノ伴奏の和音は一見単純そうに見えますが、なかなか複雑なものです。たとえば、前奏の2拍目では左手がE♭、右手がF、G、B♭の音をつかみます。これは同じ右手の中でつかめば3つの2度関係の音からなる不協和音です。
  和声的な変化は、ヴァイオリンが歌い出すとどんどん意外な展開を始め、とくにメロディが一オクターブ上に移ると、あっと驚くような異次元の世界に入り込みます。ところがこのような予想外の、大胆な、モダンな和音の変化が、黙って曲を聴いているときにはそれほど不自然に感じられないのです。何も考えずに聴いているときには、音楽は穏和で、優雅で、なめらかで、夢見るような、ロマンチックなものに聴こえます。 
  これが全般的に見てフォーレの音楽の特長なのですが、この「アンダンテ」ではフォーレ的な特長がみごとに、凝縮して表現されていると思います。これほど複雑でモダンなハーモニーがどうして穏和で優雅な音楽として聴こえるのか、その理由を探してみます。

 その第1は何といってもヴァイオリンの旋律の優雅さと、なめらかさにあります。第2にはピアノの伴奏の中に決まった同音のシンコペーションのパターンが現れ、これが繰り返されることによります。第3には、どんなに和音が変化しても、音の中にかならず半音ないしは全音のオブリガートが隠れていて、音楽をおだやかに流れるものにしているからです。
  恐ろしいまでの音楽的な現代性を、やさしく、かわいらしくさえあるような美しいメロディに包んで、つつましやかにそっと差し出している。これがフォーレの「アンダンテ」です。

 
 

フォーレ「ピアノ五重奏曲第2番・ハ短調」
  1920〇年フォーレ75歳のとき、彼はパリ音楽院の院長職を退きました。フォーレは60歳のときにパリの音楽院の院長になりましたが、就任当時、彼はその不寛容な人事政策によって「ロべスピエール」とあだ名なされたそうです。
  ロべスピエールといえば、ギロチンを思い出しますよね。フォーレのような温厚篤実の人がなぜ、と驚きますが、これもいかにもフォーレらしい人柄の現れです。フォーレにしてみれば音楽学院の中で内弟子に特別にえこひいきをしたり、才能がないのに地位の上にあぐらいかいている音楽教授は不要でした。
  彼は不適当と思われる教授を順次クビにしていっただけのことです。しかしだれも文句はいえませんでした。彼は誠実に仕事をしたのであり、下心も野心もなく、自分の地位にさえ固執していなかったからです。反面、彼ははみ出しもののドビュッシーやラヴェルを認め、擁護し、ほかにもダンディやメサジェなど、たくさんのすぐれた音楽家を育成しました。
  いかにもフランスらしい、ドイツ音楽には真似のできない、香り豊かな近代音楽が花開いたのはフォーレが音楽院に登場し、これを支配していた時代です。フォーレは彼自身が近代フランス音楽の先頭に立っていただけではなく、フランスの近代音楽の特色を目覚めさせ、そのレベルを向上させ、開花させる役割を果たしたのです。 

 ところでフォーレの耳は、50歳代のなかばからどんどん悪くなり始めていました。単に音が聞こえないのではなく、へんな音程の音が響いたといわれます。これはさぞ苦しかったでしょうね。「決して不平をいわない」を信条としていた彼も、さすがに旅先から奥さんに次のように手紙を書きました。
  「ベートーベンを思い出すのは不敬で少なくとも無分別だろうが、彼の後半生は『長い絶望』でしかなかったのではないか! ところが他人の音楽同様、自分の音楽も、今はなにも、なにひとつ聴こえない!」。しかしそれでもフォーレはいつも穏やかに、周囲の人には上機嫌で、規則正しく仕事を続けていました。
  フォーレは生涯に一つのピアノ三重奏曲、二つのピアノ四重奏曲、そして2つのピアノ五重奏曲を作りました。いずれもすばらしい名曲ですが、私はこの中の「ピアノ五重奏曲第2番・ハ短調」の第1楽章のメロディを、「美しいメロディ」としてご推薦します。

 この曲が書かれたのは1921年ですから、パリ音楽院の院長職を辞めた翌年、フォーレが76歳のときでした。第1楽章はハ短調、4分の3拍子、アレグロ・モデラートです。はじめにピアノがぶつぶつひとりごとをいうように16分音符をきざむと、これに乗ってヴィオラが静かに第1主題を歌い出します。このメロディが「美しいメロディ」なのです。
  このメロディはすぐに第2ヴァイオリン、そして第1ヴァイオリンによって歌いつがれ、足元が沈下してゆくようなめまいを経験した後、しばし第2主題の穏やかな休息に入ります。第1主題はこの後も何度か形を変えて登場しますが、このメロディの絶望的な美しさを、どう表現していいか分かりませんね。
  ここには音楽の世界をきわめて、なおも前に進もうとするフォーレの克己的な情熱と、限りない抑制とが同居しています。受け狙いや大言壮語を嫌ったフォーレの、誠実な内面の輝きです。音が聴こえなくなったフォーレの心の中に、こんなに豊かなメロディが流れ、鳴り響いていたのかと思うと、胸がしめつけられるような痛ましさを感じます。

 フォーレの伝記作者である息子のフォーレ・フルミエは、この曲の初演の様子を、まるで「第9」のときのベートーベンのようであったと伝えています。五重奏曲の演奏の最後の和音が鳴りやむと、聴衆はみな立ち上がって嵐のような拍手をおくりました。けれど、フォーレには聞こえませんでした。そばにいた人が彼を前のほうに連れ出しました。
  「彼は頭を振りながら第一列まで出てきた。そして、かつて、ベルリオーズや、ショパンやリスト、ワグナーがすばらしい時を持ったこの光栄ある旧音楽院講堂と、そして、いま感動している聴衆とを静かに眺めた。彼はとても弱々しく重い外套の下ではとくに痩せて見え、よろめきがちで蒼ざめた顔色をしていた」。
  彼はこの後さらに老衰で弱った肉体と戦いながら、「ピアノ三重奏曲」「弦楽四重奏曲」「チェロソナタ」を書きました。そして79歳のとき、家族にみとられて永眠しました。

 
 

リヒャルト・シュトラウス「オペラ・バラの騎士よりオックス男爵のワルツ」
  リヒャルト・シュトラウスは1864年ミュンヘンに生まれました。父親はミュンヘン宮廷管弦楽団ホルン奏者、母親も芸術愛好家の家系だったようで、幼いときから理想的な音楽教育を受けて育ちました。そして早くからすぐれた才能をあらわして人々を驚かせました。
  R・シュトラウスの父親はすばらしいホルンの名手だったそうですが、どういうわけか徹底したワグナーぎらいでした。そこでワグナーがやってきてミュンヘンの管弦楽団を指揮したときにはこのホルン奏者がおおいに反抗してワグナーを困らせたそうです。このように自分の音楽哲学を持った父親は、息子の成長過程でかなりの影響を与えたように思われます。
  R・シュトラウスのモーツァルトをはじめとする古典音楽に対する傾倒や理解は、父親から仕込まれたものに違いありません。けれども彼は、父親の規制の枠にはまるような息子ではなく、さらにスケールの大きな音楽家でした。やがて彼はワグナーを研究し、ワグナー作品の解釈者、指揮者としてもすばらしい仕事をするようになりました。

 R・シュトラウスの作品の中には古典的な要素、ワグナー的な要素、そして無調的な、表現主義的な要素が、まったく無理なく、融通無碍という状態で使い分けられ、あるいは同居していますよね。音楽史の上では一応後期ドイツロマン派の作曲家ということになっていますが、R・シュトラウスはこのような時代区分的な規定を超えた、不思議で巨大な存在です。彼は音楽という言語を用いてどんなことでも表現し、実現できる人だったのです。
  私がここでご推薦する曲は彼のオペラ「バラの騎士」の中で、オックス男爵によって歌われるワルツです。このワルツは独立した楽曲としても親しまれるようになりました。
  オペラ作曲家としてのR・シュトラウスとしての業績は、おそらくモーツァルトと並んで音楽史上最高のものではないでしょうか。「バラの騎士」以外にも「サロメ」「エレクトラ」「ナクソス島のアリアドネ」「エジプトのヘレネ」「ダフネ」「カプリッチョ」「アラベラ」など、文学的にも音楽的にも最高度の作品が揃っています。

 「バラの騎士」は数あるオペラの中で、そしてR・シュトラウスの作品中でも私がもっとも好きな作品です。台本がよく、音楽がよく、扱われているテーマがすぐれています。美しく、変化に富み、大人のしゃれたエロティシズムと深い哲学を秘めています。
  ところで、このオペラに登場するオックス男爵は下品さとあつかましさを一身に引き受けたような、どうにも鼻持ちならない人物です。彼は財産目当てに金持ちの娘ゾフィーと「左手結婚(貴族が身分の低い家柄の娘と結婚すること)」をしようと考えます。ところが若いヒーロー、オクタヴィアンが彼の邪魔をします。
  2人は成行き上決闘することになりますが、オックス男爵は口ほどにもなく弱いので、腕を剣の先でちくりと刺されただけで、「殺される!」などと叫んで取り巻きに介抱されます。ひどくだらしのない場面です。人々が立ち去ると彼は包帯をした腕を吊ってもらい、気付け薬代わりのワインを呑みながらこのワルツを歌います。

 このワルツは本当に美しく、古典的でありながら現代的です。古き良きウイーンの気品と香りをたっぷりたたえながら、突如として意外なハーモニーと転調で聴き手の足元をゆさぶります。要するに、油断のならぬワルツです。
  「一人では昼もさみしい、二人なら夜は短い・・」。オペラの中のもっとも美しいメロディといえば、たいていはヒーローかヒロインのために作られるはずですが、R・シュトラウスはこの最上のメロディを、もっともグロテスクな人物のために作りました。このことを見ただけでもR・シュトラウスという人物が、一筋縄ではいかない複雑なキャラクターの持ち主であったことが分かります。

 彼は音楽家として長生きしすぎたというべきでしょうか、第2次世界大戦を体験し、ナチ政権下でもドイツで活動しなければなりませんでした。もっとも彼はナチにマークされ、ヒットラーに弁明の書簡を出したりしています。このことから、今日R・シュトラウスを批判する人もいるようです。しかしワグナーに対してと同様、私たちが彼の精神構造をおしはかろうとすることには無理があると思います。
  1949年9月、R・シュトラウスが85歳で亡くなったとき、お葬式で彼の遺言が実行されました。「バラの騎士」の第3幕、ゾフィー、オクタヴィアン、元帥夫人の3人で歌われる三重唱、「われ君を愛することを誓う」が演奏されたのです。

 
 

プッチーニ「ラ・ボエームより冷たき手を」
  プッチーニは1858年、代々音楽家の家に生まれました。しかし子供のころには音楽の才能を示さなかったといわれます。けれど音楽家としての勉強をさせられているうちに才能にめざめヴェルディの「アイーダ」を聞いて、オペラ作曲家の道を志したといわれます。
  「ラ・ボエーム」は、「トスカ」「蝶々夫人」とならんで、プッチーニの三大オペラの一つといわれますが、この3つの作品の中ではもっとも初期に作られたもので、1887年、プッチーニ29歳のときに初演されています。
  この作品は、フランスの小説家アンリ・ミュルジェの小説「ボヘミアンたちの生活情景」をもとに製作したものです。この作品のオペラ化にさいしては、レオンカヴァルロがプッチーニに、「これでオペラを作ってみたら」とすすめたことがあったそうですが、プッチーニはこの申し出を断りました。
  そこでレオンカヴァルロは自分で台本を書いてオペラを作りはじめました。ところがプッチーニは「僕は作らない」といっておきながら作曲を始めたものですから、これを聞いたレオンカヴァルロはおおいに怒り、2人は絶交しました。結局同じ題材で2つの作品ができてしまったわけですが、レオンカヴァルロの「ボエーム」も一度聴いてみたいものですね。

 プッチーニの作品にはどの作品にも、特有の甘く美しい旋律があふれており、いわゆる「プッチーニ節」をなしているわけですが、この「ボエーム」にもストーリーの展開とあいまってプッチーニ節が流れ、観客を泣かせてくれます。
  プッチーニの写真を見ると、映画俳優のようにダンディでスマートですね。実際なかなかのプレイボーイだったようで、新しいクルマやボートを試し、新しい小説や演劇を好み、ファッションにもうるさかったようです。女性の口説き方も上手だったに違いありません。
  オペラ「ボエーム」には、もっとも名高い二つのアリアが、第1幕に連続して現れます。「冷たき手を」と、「私の名はミミ」です。好みは、人によってさまざまでしょうが、私はさきに、ロドルフォが歌う「冷たき手を」のほうが美しいと思います。「私の名はミミ」のクライマックスのメロディがやや短く断片的なのに対して、こちらの旋律のほうが息が長く、完成しています。和声的にも変化に富み、たっぷり聴かせてくれます。

 このアリアは大きく3つの部分でできています。最初は変ニ長調、4分の2拍子、ポピュラーソングでいえば「ヴァース」に当たる部分です。ロドルフォはミミが床に落としたカギを既に見つけてひろっているのですが、見つからないふりをして彼女の手を取ります。そして彼女の手の冷たさに驚き、「暖めてあげましょう」といって歌います。
  この前半のメロディもとても美しいもので、窓から冴えた月の光がえがかれているようです。そういえば、ドビュッシーの「月の光」も変ニ長調でしたね。伴奏の和音や雰囲気がとてもよく似ています。
  ロドルフォは自分が決して怪しいものではなく、詩人なのだと自己紹介します。この部分の音楽は4分の3拍子、Fに変わります。古典的なオペラでは、レチタティーボに相当する部分ですね。この中間部は短いもので、すぐに最後のA♭のメロディ部分に入ります。
  ここではロドルフォは詩人としての自分の哲学を語り、ミミに自己紹介を促します。この部分のメロディが私のご推薦する「美しいメロディ」です。この部分のハーモニーには「平行」的に響く危険な個所がいくつもあるのですが、プッチーニのメロディの美しさは圧倒的で、すべて納得させられてしまいます。
  こんなふうに歌いかけることができたら、どんなに冷たい手の女性でも、冷たいハートの女性でも口説くことができるでしょう。ここにはプッチーニの「女性攻略法」が明確に示されているのではないでしょうか。

 
 

クライスラー「美しきロスマリン」
  美しいメロディのすぐれたメーカーといえば、ヴァイオリンの名手であったクライスラーを忘れることはできません。彼のヴァイオリン小品は今日でも数多く親しまれていますが、その理由はただ一つ、メロディの美しさが人々の心に訴えるからです。
  クライスラーの小品はどれも美しく、どれをあげていいか分からないほどです。「ウイーン奇想曲」のワルツも圧倒的にきれいですし、「踊る人形」もすばらしいですね。けれどここでは、私にとって思い出深い「美しきロスマリン」を「美しいメロディ」としてあげます。
  昔この曲はラジオ番組のテーマ音楽でしたが、私は何という曲か知りませんでした。当時の私は、自分が音楽が好きだということさえ知りませんでした。けれど私はこのテーマ音楽を聴くためだけに、ラジオのスイッチを入れました。そのたびに、ほんのつかの間の快楽に酔いしれました。この曲が私に音楽の甘美さを教えてくれたのです。
 
  クライスラーの音楽は甘く、美しく、通俗的といっていいほどですが、よく観察するとなかなかどうしてモダンで工夫されていますね。彼がアレンジした「ロンドンデリーの歌」のピアノ伴奏など、ビル・エヴァンスばりのモダンで美しい和音の連続です。
  ヴァイオリンのメロディも、ヴァイオリンの特性をうまくつかんでいて、他の楽器では模倣しようのない音色を引出すように作られています。彼の作品は演奏家を選びます。くそまじめで、シリアスで、「いきの構造」を持たない演奏家にはクライスラーの曲は演奏できません。たとえ演奏しても、少しも面白くないのです。
  恐らく今日の日本のヴァイオリニストは、技術的にはかつてのクライスラー本人よりも上手になっていると思います。けれど、私は日本人のヴァイオリニストの演奏では一度もクライスラーの曲を聴いて「なるほど!」と感じたことがありません。
  小粋に、甘く、軽く、ややレトロに。これがクライスラーの音楽に関して私が一歩も譲れない条件です。クライスラーを弾くには、恐らくクライスラーがもっていたようなマインドを持たなければならないのかもしれません。

 クライスラーは1875年ウイーンで生まれ、アルファベットよりも先に楽譜が読めるようになったといわれていますから大変な天才ぶりですね。彼はウイーン音楽院とパリ音楽院でヴァイオリンと作曲を学び、演奏家としてスタートしましたが、若いころはかなりボヘミアン的な生活をしていたようです。クライスラーについては逸話がたくさんあります。
  1901年、ベルリンに滞在していたクライスラーは突然呼び出されました。「イザイ(伝説的に著名なヴァイオリニスト)が朝のリハーサルで倒れた。君が代って今夜の演奏会で弾いてくれ」という依頼です。演奏曲目はベートーベンのヴァイオリン協奏曲です。
  このとき彼のヴァイオリンは質に入っていました。というのも、クライスラーの女友達のミミの金遣いが粗く、クライスラーは金を工面しなければならなかったのです。クライスラーは借り物のヴァイオリンで、それもリハーサルなしで弾かなければなりませんでした。しかし彼は協奏曲を立派に弾きこなし、大喝采を受けたといわれます。
  楽器の名人といえば猛練習で知られるものですが、クライスラーは練習嫌いで有名でした。回りの人が心配して「練習しなくていいんですか」と聞くと、「手を洗えば、指は十分しなやかになりますよ」といっていたそうです。もちろん、彼なりにどこかできちんと技を磨いてはいたのでしょうが、なにも練習ぶりを見せびらかす必要はない、というダンディズムと反抗の精神がいいではありませんか。

 いずれにしても今世紀の初め、クライスラーの名声、人気は世界的に高まりました。ある日クライスラーはアントワープで骨董屋に入り、店に展示されているヴァイオリンを見ていました。店主とのやり取りがあって、彼は自分が持っていたヴァイオリンを見せて「これはいくらぐらいになりますかね」と尋ねました。彼がもっていたのはグァルネリの名器です。
  店の主人は何かいったん奥に引っ込みましたが、しばらくすると警察官を連れて戻ってきました。彼はクライスラーを指して、「この男がクライスラーのヴァイオリンを盗んだ泥棒です!」と叫びました。運悪くクライスラーはパスポートを持っていませんでした。
  彼はにっこり笑ってヴァイオリンを取り上げると弾きはじめました。やがて骨董屋は赤面していいました。「『美しきロスマリン』をこのように弾ける人は、ほかにはいません」。
  この曲はBの音から軽やかに舞い上がり、中空をすべり下り、また舞い上がり、下がってきます。軽く、甘美で、流麗です。この曲には、ウインナワルツ独特のリズムの揺らぎと、この曲が持つルバートのかかったリズムの、不思議な相乗作用があります。この曲は、もしかしたら今でもクライスラー自身にしか弾けない曲なのかもしれません。 

 
 

ドビュッシー「シランクス」
  ドビュッシーの音楽は、いつのまにか私たちにとって不可欠のものになりました。「美しいメロディ」のアンケートでも、「月の光」が一致して高い得点をとっています。私も「月の光」が大好きですし、ベルガマスク組曲の中の曲はどれも大好きです。
  また「二つのアラベスク」、それに前奏曲集の中の「亜麻色の髪の乙女」なども、美しいメロディの代表作として忘れることはできないと思います。私はここでドビュッシーが晩年に作った「シランクス」というフルートの独奏曲をご推薦したいと思います(譜例31)。
  これまでご紹介してきた曲は、いずれもメロディが和音の伴奏を伴なっていました。その和音と関連を含めてメロディの美しさを追ってきたのです。ところがこの「シランクス」はフルート一本で、無伴奏で演奏される曲です。ドビュッシーが純粋なメロディの美しさだけで勝負した曲といっていいでしょう。

 シランクスというのはギリシャ神話にあらわれる美しいニンフの名前です。彼女はあるとき半神半獣のパンに恋をしかけられますが、どうしてもいやなので逃げました。ところが相手はどこまでも追ってきます。川岸まで追いつめられた彼女は、川の神に願って自分の身を一群の葦に変えてもらいました。
  彼女を慕って追ってきたパンは、シランクスが葦に変わってしまったのでたいそう悲しみました。彼はいく本かの葦を持ち帰ると、それで笛を作りました。パンは満たされなかった自分の恋心を葦笛の旋律にのせて吹きました。ドビュッシーは、このときにパンが吹いた音楽をイメージして「シランクス」というフルートの独奏曲を作ったのです。
  ドビュッシーの音楽には、古代ギリシャに対する憧憬の念が深く刻印されています。マラルメの詩「牧神(パン)の午後」を題材にした、「牧神の午後への前奏曲」「ビリチスの歌」「6つの古代のエピグラフ」など、いずれも古代ギリシャを題材にしたものです。この曲も一連の「ギリシャもの」の一つといっていいでしょう。

 ところで、フルートという楽器は若い人たちにもっとも人気のある楽器ですが、フルートのための独立楽曲、たとえば「フルートソナタ」とか「フルート協奏曲」という曲はきわめて少なくこれがフルーティストたちの悩みの種です。そこで彼らはヴァイオリンの曲や歌の曲を盗んできてレパートリーに加えています。苦肉の策を取らざるをえないわけです。
  そこで、最初からフルートのために書かれた「シランクス」のような曲は、フルーティストにとっては貴重な宝です。わずか35小節しかない短い曲ですが、難曲ですから、アマチュアには少々無理ですが、プロのフルーティストは大切なレパートリーの一曲として、それこそ掌中の珠のようにいつくしんで演奏しますので、いつもいい演奏が聴けます。

 「シランクス」はカブリエル・ムーレという人の「プシュケ」という劇のための付随音楽として作曲されたそうですが、その後独立した楽曲として演奏されるようになりました。曲は変ニ長調、四分の三拍子ですが、演奏者はなにしろ自分一人ですから、拍子にこだわらずに自由気ままに演奏することができます。
  フルートは演奏技術次第でいくらでも高い音を出せる楽器ですが、この曲はもっとも高い音が8小節目にあらわれる2点E♭の音だけで、あとは肉声に近い、フルートしては低い音域が用いられています。愛するものを失った半神の内面が歌われているのでしょう。
  すべるような半音下降の音形から、私たちは不思議な、異次元の、神話の世界に引き込まれます。情景描写的な8小節が終わると、パンの心境が表現されます。心の中で幾度もシランクスの姿をなぞり、その美しさを思い出し、ひとりつぶやき絶望にうめく様子が、半音階的な、あるいは全音階的なメロディによって、美しく表現されていますね。

 ドビュッシーの初期の作品はロマン派的な親しみやすさを残していますが、後期になるにしたがって難解になり、表現主義的な色彩を帯びるようになります。この曲もずいぶん現代音楽的ですね。けれど独特の香り高いリリシズムを損なわないのがドビュッシーです。物語は古代、表現は現代、そして芯の部分にやわらかい抒情性。「シランクス」はドビュッシーの本質を凝縮して伝えている「美しいメロディ」です。

 
 

ラヴェル「弦楽四重奏曲・ヘ長調」
  ラヴェルは1875年、フランスはピレネー山脈のふもとシブールの町に技師の息子として生まれました。ドビュッシーよりも13歳後輩にあたります。ラヴェル一家は間もなくパリに出てラヴェルは音楽教育を受けました。やがてパリ音楽院に進んだラヴェルは、フォーレの生徒となり、ドビュッシーの友人になりました。
  ラヴェルの音楽は、どれも高度に完成され、洗練されており、およそ駄作がありません。彼の音楽は現代的ですが、同時に美しく、音楽的です。ラヴェルはドビュッシーと並べられて「印象派」と呼ばれますし、一見音の響きがとてもよく似ているように思えます。
  ところがラヴェルとドビュッシーの音楽はまったく違います。ドビュッシーが浪漫的で自己陶酔的であるのに対して、ラヴェルは客観的で、クールです。ラヴェルにとっては音楽はあくまで客体であり、彼自身ではありません。作品と作曲者との間には明確な距離があり、有名な「ボレロ」やオペラ「スペインの時」が示しているように、作品は「発明品」であり、精巧なしかけを持つ装置です。

 ラヴェルには美しいメロディを持つ作品がありすぎて選択に迷ってしまいますが、まずなんといっても1903年、ラヴェル28歳のときに作られ、恩師フォーレに捧げられた弦楽四重奏曲ヘ長調、その第1楽章を、音楽史上最上級の「美しいメロディ」としてご推薦します。
  はじめてこの曲の楽譜を見せられたとき、ドビュッシーは、「音楽の神々と私の名にかけて、この曲にいっさい手を加えてはならない」といったと伝えられています。ドビュッシーから見ても、ラヴェルのこの曲はそれほどまでに完璧に見えたのですね。
  芸術家はいったん作った自分の曲に、どんどん修正の手を加えます。よくなる場合もありますが、オリジナルの良さが失われたり、逆に別の作品になってしまうこともあります。ドビュッシーはこの点を心配して、「君、これは完璧だ。修正するとこの良さがこわれてしまう」といったのですね。
  もちろんラヴェルはこの忠告にはしたがいませんでした。より精緻であること、より完璧であることを信条としたラヴェルは、幾度か推敲を重ね、今日私たちが聴くことができる弦楽四重奏曲ができあがりました。

 第1楽章は柔らかく、ほのぼのとした感じのFのメロディ始まります。最初の四小節はチェロの上昇音階が快く耳をくすぐります。ところが次の4小節に入ると様子が変わり、変化が生じます。新しい和音が響き、自分でも気づかずにいた別の情念が刺激され発動しはじめます。こうして私たちはラヴェルのしかけた罠にはまり、別の世界に連れ去られます。
  全曲を通して、そしてとくに第1楽章には、どこか東洋的な抒情的なメロディが次から次にあらわれますが、それが全音階的な和音や階調とミックスしあって、不条理な幻想の世界を作り出します。ところが雰囲気はあくまで穏和で、磨き上げたような、なめらかな、やさしい表面を持っているのですからたまりません。この第1楽章の全体が「美しいメロディ」です。
  フランスの作曲家の登竜門として「ローマ大賞」という賞が有名です。フランスの大作曲家はみな、この賞を受賞しています。ところがラヴェルは何度もローマ大賞にチャレンジしたのに、そのつど落選し、とうとう受賞できませんでした。今から考えれば不思議なことですが、当時の審査員には、端倪すべからざる作曲家、油断のならぬ作曲家であるラヴェルの特質を正しく評価することができなかったのですね。

 
 

ルクー「ヴァイオリンソナタ・ト長調」
  ルクーは1870年にベルギーに生まれ、1894年わずか24歳の若さで亡くなった天才作曲家です。彼は正式の音楽教育を受けず、独学で音楽の基礎を身につけました。やがて彼は同国の巨匠フランクに認められ、弟子入りしましたが、フランクが二年ほどで他界してしまったのでその後ダンディについて作曲法を勉強しました。
  ルクーの作品としては、私がご推薦する「ヴァイオリンソナタ」がもっとも有名ですが、このほかにベルギーにおけるローマ大賞で2等になった「アンドロメード」、それに「アンジェールの民謡による交響的幻想曲」などの作品があります。ルクーは「ピアノ四重奏曲」を書いていましたが、これを完成しないうちに腸チフスで亡くなりました。
  ルクーは音楽の独習にあたって、バッハやベートーベンなどの大作曲家のスコアを徹底的に読んだといわれています。同じようなやり方で音楽をマスターした作曲家としてエルガーを思い出しますね。ルクーはベートーベンの後期の弦楽四重奏曲を気に入っていて、いつもスコアを肌身はなさなかったといわれています。

 彼はあるときバイロイトまで出かけ、ワグナーの楽劇「トリスタンとイゾルデ」を鑑賞しました。彼は音楽に酔いしれ、あまりの恍惚感のために客席で卒倒してしまいました。回りの人々はさぞかしびっくりしたでしょうね。彼は担架に乗せられて運び出されました。音楽的感受性の強いルクーの特性を示すエピソードです。
  フランクはルクーのすぐれた才能を見抜いていましたが、彼と親交のあったヴァイオリンの名手イザイもルクーの才能に惚れ込んでいました。イザイはルクーにヴァイオリンソナタを書くようにすすめ、ルクーはこの「ヴァイオリンソナタ」を作ってイザイに捧げました。こうして音楽史上でもっとも「美しいメロディ」を持つソナタの一つが生まれました。
  この曲は全編にわたって美しく、古典的で、あるいはロマンチックでありながらなお、みずみずしい近代性をたたえた作品ですが、私はとくに、第一楽章の冒頭の主題をおすすめします。

 曲は4分の4拍子、ト長調、ピアノとヴァイオリンのメロディが同時に弾きはじめます。ヴァイオリンは高いDの音からすぐに下りてきてすべるように穏和でなめらかな、抑制された主題を奏でます。このメロディは聴けば聴くほど美しいものですね。
  どこかドビュッシーのようであり、シューマン風でもあり、フランク風でさえありますが、やはり確乎とした独特の風格を持つ言語であることが分かります。この確信は曲が進行するにつれてますます強まります。
  冒頭のメロディを支えている和音を見てみましょう。重々しくG、Cの6度、Dの9度という具合に進み、和音は私たちのロマン派的な音組織の常識内にありますが、4小節目に入ると突如としてG#の7度の和音が出てきて驚かされます。同じような驚きを私たちは6、7小節目でも体験することになります。

 古典的な調性の枠組みの中で、この音楽は新しい美しさを求め、隙あらば噴出しようとして機会をうかがっているのです。あるいはこういってもいいかもしれません。ルクーは三次元の世界と四次元の世界の境界線を歩いており、ふっと四次元空間に入り込むことがあるのです。ところが本人はそれをまったく意識していないかのようです。
  ルクーからこの曲をもらったヴァイオリンの巨匠イザイは、たくさんの作曲家から曲の献呈を受けたことで知られています。フランク、ショーソン、ドビュッシーがイザイのために曲を書いて献呈しました。イザイは「小鳥が歌うように」演奏したといわれ、そのE線の響きはとくに魅力的であったといわれています。
  イザイはルクーよりも12歳年上でした。彼は才能ある、若い友人の死を心から悼みました。彼は他の大家たちの名曲に加えて、このルクーのヴァイオリン・ソナタをたずさえてヨーロッパ各地を演奏旅行をしました。そしてこの曲が古今の名曲の列に並ぶだけでなく、最上位の美しさと魅力を持っていることを証明しました。こうして、夭折したルクーの魂のメッセージが私たちの心に届くことになったのです。

 以上、いくつか私なりの「美しいメロディ」のコレクションをご紹介しました。もちろん、このほかにも「美しいメロディ」としてご説明したい曲が山のように残っていますが、きりがありませんのでこのへんで打ち切っておきましょう。
  アンケートにご回答いただいた「美しいメロディ」と、自分自身のコレクションの中の代表的な「美しいメロディ」をあわせて振り返ってみると、いずれもクラシック音楽の中の、比較的ポピュラーな名曲の一部であることがはっきりします。
  このことは、人類が美しいメロディを見逃すことは決してなかったのだということ、ポピュラーな名曲は、それぞれに固有の美しいメロディを持っているからこそポピュラーになったのだ、ということを証明しているように思えます。

 「美しいメロディ」に固有の条件をもう少し考えてみますと、「美しいメロディ」は、かなり高い割合で当該の旋律がその楽曲の冒頭に出てくることが多いことに気づきます。冒頭、あるいは第1主題として登場することによって、その音楽の美しさを支配し、明確に印象づける役割を果たしているようです。
  もちろん第2主題が美しいということも少なくありませんでした。また曲の途中に出てくる中間的なフレーズが瞬間的に美しい、という場合もありました。しかし私たちが考える「美しいメロディ」は何らかのまとまりを持ち、コンセプトを持った作曲者からの、明確なメッセージであることはたしかですね。
  私は今回のアンケートと自分のコレクションの「美しいメロディ」の部分を分析すれば、何か共通のパターンを探すことができるではないかと思っていました。しかし無駄な試みを何度かやってみたあとで得られた私の結論は次のようなものでした。
1.美しいメロディを固有のキーや和音によって規定することはできない。
2.美しいメロディを共通のメロディ・パターンによって規定することはできない。
3.美しいメロディを構成している音符の長さにはほどよい長短のバラツキがある。旋律は魅力的な起伏を持っているが、決して機械的、幾何学的なものではない。

 私がご推薦した「美しいメロディ」についていえば、どれも美しい固有の和声とその変化をともなっており、メロディとの組み合わせはほぼ絶対的で他の和声で代用することはできません。また、いつの時代の作品であろうと、どこかに意外性を持っており、平凡な発想を超えた「新しさ」を持っていることも分かりました。
  美しいメロディの音域を見ると、音の高低に関して所定のレンジを持っていることが分かります。このレンジは、結局「美しいメロディ」が、ひとつの「歌」であることを証明しているように見えます。私が選定した「美しいメロディ」は「声音域」に属するものが多く、このこともいっそう美しいメロディが「人間の歌」であることを証拠立てているように思えます。

 なお、メロディは弦楽器で演奏されているものが多くなっていますが、これはおそらくクラシック音楽というものの基本特性に属するのでしょう。ヴァイオリンという楽器があったからこそクラシック音楽が成立した、といってもいいかもしれません。
  いずれにしても「美しいメロディ」は何よりも人間のスケールにおける生理的な快感であることはたしかです。この生理的な快感が私たちの魂のどこかを揺さぶります。私たちはこのメッセージに聴き耳を立て、このメロディとの間に「関係」を打ち立てようとします。おそらく「美しさ」とは、刺激の特性そのもののことだけではなく、私たちと、その作品との関係の中に定立されるものなのでしょう。だからこそ、人によって「美しい」と感じる作品が多様になるのです。
  フランスの哲学者アランは、「要するに美しい形とは、・・すみずみにまで反抗的なものなのだ」といいました。人間の精神の自由を愛したアランにとっては、内部から生じた圧力によって形成され、無心と抑制がバランスしているような芸術、そんな芸術が好ましかったのです。

 私は「美は反抗的なものだ」とするアランの考えは、音楽についてもあてはまると思います。すなわち、内側から突き上げてくるような、あふれる楽興によって形成され、次々と私たちの安易な予測を裏切って進む。これが音楽における反抗です。
  しかしながら、音楽はあくまでも礼儀正しく、魂と生理に対する最適解であることを失いません。音楽の天才たちは、私たちの魂を揺さぶり、私たちの生理を思いのままに引き回すメッセージの作り方を知っていたのです。私としては天才たちの手だてにまんまと引っかかり、代償としてこれを堪能できることをうれしく、ありがたく思います。  
  読者の中には私がご推薦した「美しいメロディ」を気に入らない方もおられるでしょう。「その曲よりも、これ」とか、「あの曲を忘れているのではないか」などと、もどかしく思われた方もおられるでしょう。機会があれば、あなたの「美しいメロディ」をぜひ聴かせていただきたいと思います。

 
   
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