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美しいメロディ
 
第6章 私たちにとって美しいメロディとはなにか

美しいメロディは誰のものか
  近頃テレビコマーシャルでクラシック音楽を聴くことが多いですね。それもかなりの名曲や、美しいメロディ系の音楽がそのままで、あるいはパロディにして取り上げられています。その理由はいくつかあると思います。
  よく知られた、美しいメロディは視聴者の注意をひきつけ、広告効果を高めます。美しい音楽には人々の心に抵抗なく入り、人々を説得する力がありますから、この説得力を商品に結びつけようとしているわけです。人々がその商品を特定のメロディとの関係で記憶すると、たまたまその音楽を他の場所で聴いたときに、商品を思い出すことになります。オリジナルのコマーシャル音楽ではこのようなことは起こりません。
  さらに版権の切れたクラシック音楽を用いるぶんには、広告制作における音楽のコストが安くつきます。かりにオリジナルの音楽を作らせようと思えば、作曲家、演奏家に支払いをしなければなりませんし、そうしてできた音楽もかならずしもスポンサーの気に入るかどうか分かりません。クラシック音楽を使っておけば、無難というわけです。

 広告活動は企業として必要なマーケティング努力の一環であり、すぐれた広告作品は一つの現代文化を形成しています。たとえばデザインの世界では、名画の一部をコラージュしたり、パロディ化するのは一つの確立された表現手段です。
  クラシックの名曲は人類の共通の遺産ですし、私たちはこれを享受し、利用することができます。演奏家が演奏する曲目を選定するのは自由ですし、私たちが選ぶのも自由です。コンサートにおける選曲は、主催者と演奏家のコンセプトを証明しています。
  けれども自分の会社の商品を売るために人類共通の貴重な遺産を、商品に直結させて放送するというのはいかがなものでしょうか。もちろん作曲家本人、あるいは著作権者が同意しているなら話は別ですが、著作権が切れているからという理由で勝手に、どんな目的のためにもこれを用いていいものでしょうか。
  著作権が切れているということは、作曲家が亡くなってかなりの時間が経過しているということですが、作曲家が亡くなって一定の期間が経過すれば、作曲者の意志や意図は無視してもいいのでしょうか。かりに亡くなった作曲家が口をきけたとして、特定の会社の、特定の商品のコマーシャルに自分の音楽が使われることに、賛同し、喜ぶでしょうか。おそらく彼らは断固としてこれを拒否するでしょう。では、これら名曲を残していった死者たちには、もう発言権がないのでしょうか。

 私は死者にも発言権があり、彼らの意思は尊重されるべきであると思います。そしてこれら偉大な芸術家の意思に思いをはせたり、尊敬の念を抱いたりすること、これを「文化」「教養」というのではないかと思います。
  たとえばピラミッドやパルテノン神殿のような、世界遺産的な名所の真ん中に広告塔を立てるとします。すると世界中の人々が、人類共通の遺産を私物化したといって腹を立てるでしょう。ではグリーグのピアノコンチェルトをコマーシャルソングがわりに用いることは、どうしてかまわないことなのでしょうか。
  先日ある大会社が製作したプロモーション・ビデオを見ていました。背景に使われている音楽がどうも気になります。どこかで聴いたことがある曲なのですが、どうも思い出せません。何度か聴き直してやっと分かりました。それはラヴェルの弦楽四重奏曲の第二楽章の演奏テープを逆回転させたものだったのです。

 映画やビデオの背景音楽としては、よくクラシック音楽が用いられます。たとえば名画を紹介する番組で印象派の音楽が流されたり、ヒットラーが登場すると、とたんにワグナーが用いられたりします。映像情報と音楽は切っても切れない関係にあり、音楽のない映像など味や香りのない食べ物といっていいでしょう。
  映像も内容によってはクラシック音楽が効果的です。クラシック音楽をたくみに使った往年の名画も思い起こされます。センスのいい用い方は少しも作品を傷つけませんし、かえって音楽の魅力を改めて紹介することにもなると思います。
  CMの音楽としてはいかにも道義的にどうかと思われることでも、映像作品の背景音楽としては十分に理解できる、ということがあるとも思われます。しかしながら例のプロモーション・ビデオのような用い方について、私は製作者のやり方を卑劣だと思わざるを得ません。
  ラヴェルの弦楽四重奏曲は、どちらかといえば「知る人ぞ知る」の曲ですから、おそらく誰もチェックしないままに作品は納入されたのでしょう。気づく人がいないはずだから何をやっても平気だ、というところがいかにも卑劣なのです。
  もっとも製作者に「テープを逆回転させてどこが悪い。どんな法律に触れるんだ」と開き直られれば、誰にも返答ができなくなってしまいます。これは音楽に関する教養と、道義の問題なのです。

 

趣味の民主主義
  ポピュラー音楽や歌謡曲は多くの人々の共感を得、共有されなければなりませんから、クラシック音楽、それも近代、現代の音楽にくらべた場合、はるかにメロディも和声も単純に作られることになります。単純であることは別に悪くありません。
  しかしながら、単純であることを宿命づけられている音楽に豊かさや水準の高さを期待することは無理になります。もちろんいまさら演歌や歌謡曲を取り上げて、クラシック音楽と比較して音楽の価値を論じるなどというのはいかにも大人げないことです。
  「何を偉そうにいっているんだ。歌謡曲だって立派な音楽だ。好き嫌いの問題じゃないか」とか、「自分の趣味でモノをいってもらいたくない。趣味に優劣も貴賎はない」という反論も聞こえてきそうですね。そこで、この不愉快な議論を避けるために音楽的な教養人は、自分の趣味の優位性をひけらかすようなことになるのを恐れて、この議論には立ち入らないようにしているのです。

 しかし私は、本書において無謀にも「美しいメロディ」を追求し、「美しい音楽」を追求してきました。そして多くの批判を浴び、反論されることを覚悟の上で同じクラシック音楽にも「美しくない音楽」「つまらない音楽」があることを認めました。音楽なら何でもいいというわけにはいかない、ということをはっきりさせたわけです。
  そして少なくとも私たちの耳に入ってくる音楽の分野に、音楽美という点でまったく対象外となる音楽がある、といわなければなりません。
  私は何もここで、あるジャンルの音楽に社会的に存在価値がないというつもりはありません。おそらくは単純で大衆的な音楽のほうが社会生活に役立っているといっていいかもしれません。
  それに、音組織の需要度は各人各様の音楽的な能力とその発達に依存します。私にしても現代音楽の美しさを受け入れ、理解することができないのですから、他人のことなどいえたものではありません。それに民主主義の社会においては、各人の趣味の自由は保障されており、趣味の優劣など論じられるべきではありません。

 けれどもいかに「趣味の民主主義」が不可侵のものであろうと、ジャンルを超えて音楽的価値のレベルは厳然として存在します。音楽の世界ではレベルの高い音楽と、下等で下劣な音楽とが存在するのです。この点を認めなければ私たちは「文化」「教養」「文化的遺産」を考えることはできなくなります。
  私はここでカラオケについて考えます。クラシックの世界にも昔からMMOというメディアがあります。これはミュージック・マイナス・ワンというレコードで、クラシック音楽の名曲が収められているのですが、一つの演奏パートだけが抜けていて、音楽を練習する人がそのレコードに合わせて練習できるようになっています。いってみれば演奏相手のいない、孤独な音楽家のためのメディアです。最近はCDでも売られています。
  もっとも最近ではオペラの練習などにもカラオケが用いられるそうですから、練習用の伴奏マシーンにもそれなりの、効用があるといえばあるわけです。

 ところで、オペラの演奏会の本番がカラオケで演奏されたとしたら、聴衆は怒るでしょう。かりに入場料金をおまけしたところで勘弁してもらえないでしょう。もちろん演奏家たちが承知しないでしょう。クラシック音楽のテンポは曲により、演奏によって大きく揺れます。歌い手がもっとたっぷり音を伸ばしたいところで、伴奏がどんどん先に進んでしまったら、音楽が合わなくなってしまいます。
  MMOの最大の欠陥は「リタルダンド」「アッチェル」「フェルマータ」「ルバート」などという音楽のテンポを任意に動かす指示が機械的に、一通りに固定され、録音されたものにしたがわざるを得ないことにあります。ところが、このようなテンポを揺らすための楽譜上の指示は、音楽のもっとも大切な部分に出現するので、音楽的には大変都合が悪いのです。
  これらのテンポを演奏者に委任して動かすための指示記号は、音楽における重要な要素、即興性をあらわしています。そして即興性は、音楽にとってきわめて重要なポイント、演奏家による音楽の創造、テンポの変化による表情の創造にかかわっているのです。
  かりにMMOを用いる演奏家がいるとすれば、自分が伴奏してもらうのではなく、自分がMMOに合わせなければならなくなります。すると録音されている音楽のテンポに合わせようという努力のために、注意が別のほうに取られてしまう結果になります。これではたとえ練習したとしても、いい演奏をできるはずはありません。音楽におけるソリストと伴奏者の関係は互いの「呼吸」の中にあり、大袈裟にいえば「一期一会」的な関係の中にあります。
  クラシックにおけるカラオケであるMMOが、いまいちメジャーにならないのは、右のような理由によります。これからハイテクの進歩によって演奏者の呼吸を見はからって、自動的に伴奏をするロボットができるようになるかもしれませんが、そうなれば、音楽演奏における合奏の妙味を機械が人間から取り上げてしまうことになります。

 
 

カラオケという名の暴力
  さて、カラオケの話ができるところまできました。カラオケはいずれにしても便宜上の機械でこれが大衆音楽の単純性とうまくマッチしているわけです。
  ところが、この道具が世の中で、おおいに幅をきかせるようになりました。どの飲み屋、宴会場にいってもカラオケは標準的な施設として置かれ、他人の迷惑もいっさいおかまいなしに大声で歌うことが「通常のこと」となりました。
  親しい仲間が寄り合って食事をし、酒をのみ、話し合うのは楽しく、いいことです。ところがこのような場面にカラオケがなければならないことになりました。マイクが順番にまわってきてここで歌わなければならなくなることもしばしばです。これをむげに拒否すれば、「変わり者」ということになります。
  昔も宴会では、それぞれメンバーに何らかの「芸」の披露が強要されたものです。そこで歌が苦手な人は手品やモノマネなど、他の手段でその場を切り抜けたものです。ところがカラオケの席では、「芸」は単一化され、しかも要請はかなり暴力的です。このカラオケという流行現象には、およそデリカシーというものがありません。

 悪筆的な音楽を、粗悪なアレンジと粗悪な演奏で、機械的なテンポで、必要以上に大きな音量で、執拗にガンガンやられる身にもなってください。これに耐えられるためには、かなり粗雑な神経と、粗悪な音楽性を持っていなければなりません。
  ここでカラオケで歌う人間を観察してみましょう。この連中はまるでマイクを舐めるようにして使うのですが、これは要するにタレントたちの、猥雑なスタイルを真似ています。
  私が鼻持ちならないと思うのは、カラオケの演奏に慣れている連中で、のびのびと気分よく自分の才能を発揮しているわけですが、これにはほとんどいうべき言葉がありません。もっとも驚くべきことは、彼らが自分たちの音楽的な趣味や手段について、少しも自分たちを「恥かしい」と思っていないことです。
  私は自分の英語が下手なことを知っていますので、英語が達者な人の前では「恥かしい」と思います。また、自分が不得手な分野に話が及んだとき、自分の教養不足を「恥かしい」と思います。スポーツやゲームについても、誰でも自分の程度を知り、自分よりも上手な人の前では遠慮したり、思わず臆したりします。これが人間の進歩を可能にしている自然な感情です。

 私は自分の低い英語対応能力を「英語にもいろいろある。オレの英語は、これでひとつの分野を形成しているのだ」などとは思いません。ところがカラオケ族は、次のようにいっているように見えます。「音楽にもいろいろある。カラオケは一つの分野なのだ。クラシックが好きな連中はクラシックをやればいい。私はカラオケだ。どこが悪い」。
  私たちは、ほとんどすべての分野でアマチュアであり、粗雑であり、粗悪です。だから他人のそのような面だけを取り上げて非難するのはフェアではありません。しかし、誰にしても自分のレベルの低さを認識し、これを「恥かしい」と思うことが大切です。粗悪であることの上に開き直り、音楽ジャンルとしての同等性を主張するなど、してはならないことです。
  お互いにすぐれたもの、自分を超えたものに対する畏れと敬いの精神が必要です。たとえばスポーツの世界でも、他の技芸においても、ジャンルを超えて高度なもの、すぐれたものが存在します。音楽の世界にもジャンルを超えてレベルの高さ、低さが存在します。

 たとえば洗練されたモダンジャズのハーモニーは、後期ロマン派や近代フランス音楽、印象派の音組織に共通するものがあり、これをオリジナルに、即興的に美しく演奏できるジャズ演奏家は、第一級の音楽的天才に属します。要するにジャンルを超えて「上には上」があるわけで、これを聴き分けて敬意を払う精神が必要です。
  よく電車の中で、大学生や背広を着た若いサラリーマン風の男性が、漫画週刊誌に熱心に読みふけっているのを目にします。これも趣味と権利の問題ですから、他人がとやかくいうべき筋合いのものではありません。ただ、彼らの心のどこかに、「恥かしい」という意識が必要です。 

 
 

暴力としての環境音楽
  JR山の手線を利用すると、駅特有の音楽が鳴り響きます。私のオフィスは五反田に近いので五反田の音楽を聴かなければならないのですが、これがひどい音楽なのです。この駅の音楽はどこもシンセサイザーを音源として作られ、それぞれの駅に固有の音楽が決まっているようです。
  五反田の外回りの発車前になる音楽はオルガン風の電子音で、ドラマのカタストロフィを描写しているような、不気味で不安な音楽です。Cの音で始まり、唐突にDで終わります。もちろんこんなものは音楽などとはいえないし、粗悪も粗悪、最低も最低の音楽です。最低の音楽だから無視すればいいではないかといわれるかもしれませんが、耳から入ってくる音を自分で遮断することはできません。
  大勢の人が利用する駅で、あのような公序良俗に反するような音楽を流すことを決めたのはいったい誰なのでしょうか。私はあの音楽を聴くと、音楽がもたらす必然的な不安感と嫌悪感を感じ、ついで、このような無神経な施策を行なった愚かなJRの上層部と、センスも才能のない作曲家と、このような決定と命令に易々としてしたがっている無神経な駅舎の従業員とに腹立たしさを覚えます。

 最近は環境音楽などと称し、街路や公園の彫刻から音が聴こえたりする装置も工夫されています。もし私たちがその音楽を嫌いなら、その場所に行かなければいいわけです。けれど駅は利用しないわけにいきません。これは音楽的暴力です。
  このように公共の場所で流される音、または音楽を「サウンド・サイン」というそうです。要するに視覚的なサインがあるように、音によるサインがあってもいいだろうということのようです。新幹線の中の案内、各種の電気製品の時計装置、ポケベルの音なども「サウンド・サイン」ということになるのでしょうね。
  ところで、視覚的なサインに対して「サウンド・サイン」という概念を用いるなら、視覚的なデザインにも良し悪しがある、ということを確認する必要があります。かりに絵画の良し悪しはかなり主観的であるとしても、それでも目のある人が「よい」とするものと「悪い」とするものとの間には厳然たる区分があります。

 私たちは日本人ですから、書道作品に接する機会があります。たとえ私たちに書が書けなくても「良い書」と「悪い書」をはっきり区別できます。たとえ書いてある文字を読めなくても書の良し悪しならおよそ判別できるのですから不思議です。
  外国旅行をすると、よく日本人相手のショップの店頭に、稚拙な字で「おみやげあります」などと書いてありますね。誰が見てもあの文字はへたくそです。彼らが日本文字の原則を知らず、練習もしていないのですから仕方がありません。このことから、私たちが下手な英文のロゴタイプ・デザインを作ると、外国人が見たとき、ちょうどあのように見えてしまうということは理解できますね。
  視覚的に訴える看板、サインのたぐいについても同じことがいえます。看板ならどれも同じというわけにはいきません。デザインの品位というものがあり、おのずから視覚的な公序良俗というものがあります。

 そして「公共用のサイン音楽がある」という人々がいるとすれば、その音楽の良し悪しについても、視覚的デザインとまったく同じことがいえる、といわねばなりません。要するに私たちの耳に飛び込んでくる町の音楽にも、「いいもの」「なんとか我慢できるもの」「どうしても我慢できないもの」がある、ということです。
  もちろん私たちが、げんに粗悪な看板を取り締まることができないように、粗悪な音楽を取り締まることはできないでしょう。都市に生活しようと思えば、車の騒音に耐えなければならないように、これらの粗悪な音の洪水に耐えなければならないのでしょう。
  けれど車の騒音はお互いに仕方がないとして、「サウンド・サイン」などと称して得意になっている連中を許す気にはなれません。私はこの不寛容の精神を今後も大切に持ち続けていきたいと思います。私が五反田のあの音楽に慣れてしまったとすれば、私の音楽性が根本においてやられてしまったことになるでしょう。

 アランは「人はその要求するところによって苦しむ。狂った音を聴いて苦しむのは、耳が悪いからではなく、耳がいいからである」といっています。色彩感覚のすぐれた人は、センスのない色彩があふれている光景を見て苦しむでしょう。同じように、音楽的な感性にすぐれている人は暴力的な音の攻勢に苦しむでしょう。
  学問、スポーツ、技術、芸術などの分野の、最先端の、進歩しつつあるプロセスにおいては、「民主主義」や「投票により議決」などということはまったく問題になりません。絵画における良し悪しを判断するのは優れた感性を持つその道のプロであり、音楽の良し悪しを判定するのは音楽的感性にすぐれたプロです。
  凡庸な目と耳しか持たない、センスの悪い、多数派の論理を色彩や音の判定の世界に適用することはできません。私たち大衆は自分の感性の程度を知り、すぐれた天才たちを尊敬するすべを学ばなければならないのです。

 
 

音楽の先生に問題
  ところで、かりにすぐれた色彩の感性が好ましいものであり、メロディや和音に対する感性が好ましいのだとすると、感性を向上させ、磨くことが必要になりますね。たとえば音楽的な感性は、人が持って生まれた資質によって決定づけられますが、本人の意識と環境、そして教育によって好ましい方向に誘導することができます。
  アランはいいました。「いい聴衆になることはいい演奏家になることと同じように難しい」。しかし、かりに私に造形的な資質がないとしても、子供のころにいい先生に学び、いい作品を身辺に置き、これらの作品を知り、尊敬する人々と暮らしていたら、私は造形作品に対して少しはいい鑑賞家になれたでしょう。このように考えてくると、子供に対する芸術的な教育がどんなに大切なものであるか、改めて考えさせられます。
  自分の過去を振り返ってみると、私が小学校や中学校で受けた音楽教育は、当時としては決して悪いものではありませんでした。しかしながら、音楽の授業は決して面白いものではなく啓発されるものでもありませんでした。

 ちなみに、先生は教科書にある歌を教えてくれるのですが、そのさいに最初にピアノで、メロディだけを弾きます。ついで、先生が簡単な伴奏を入れてこのメロディを強調して弾き、子供たちに歌を覚え込ませます。子供たちが完全にこの歌を覚えるまで、先生の簡単な即興的伴奏が続きます。
  最後に子供たちがピアノによるメロディの補助なしに歌えるようになると、先生は始めて教科書に書いてある通りの伴奏をつけてくれます。私は先生が生徒にメロディを教えようとして、両手のユニゾンでメロディを、半ば苛立ちながら強く弾く、あの弾き方に恐れを感じました。はっきりいって音楽の楽しさなどは少しも感じられませんでした。
  ついで先生は右手でメロディを弾き、左手で和音を即興的につけて伴奏するのですが、この伴奏の和音が、すべて主要三和音でできているのです。どんなメロディでも主要三和音の伴奏をつけることができるかというと、そうではありません。

 メロディは固有の和音を想定して作られているのであり、そこに無理やり違う伴奏和音をつけられると、せっかくのメロディが台無しになってしまいます。ところが音楽の先生はそんなことはおかまいなしに「適当に」やってのけるわけですから、その不快さには居たたまれないものがあります。
  やっと生徒たちが歌えるようになって、先生が本来の伴奏をしてくれるときには、もうその曲は仕上がりですから、生徒である私たちが本来のコードで音楽を楽しめるのは、ほんの一度か二度。あれは子供心にも悲しかったですねえ。
  どうかすると、本来の伴奏が難しかったりすると先生は「自前」の三和音で最後まで押し通してしまったりします。私はこれは先生による犯罪ではないかと思いましたよ。
  私が小学校、中学校でこのような体験をしたのは、40〜50年も前のことで、昔は音楽の先生の質が悪かったのだろう、と同情してくださる方がいるかもしれません。私の家はさる小学校の向かい側にあります。
  音楽の授業が聞こえてきますが、教え方の内容は50年前とあまり変わりませんね。私の散歩コースにある別の小学校の音楽の授業にも、ときおり耳を傾けていますが音楽の授業内容にさしたる進歩があるとは思えませんね。

 私がここでいいたいのは、子供たちが音楽的なセンスを身につける初期の段階で、子供たちをあずかる先生たちの、和音に対する恐ろしいまでのセンスの悪さです。どんなものでも主要三和音でやっつけるという粗雑なこの精神、美しい音楽に対する無関心、これはもはや音楽の先生が持つべき特性ではありません。
  考えてみれば、粗雑な主要三和音マインドは、日本人の音楽の底辺をなしている大衆音楽における三和音主義に結びついていることは疑いを入れません。この程度の音楽で満足できる人々を作り出しているのは、誰なのでしょうか。
  主要三和音はいうまでもなく、長調でいえば1(ドミソ)、4(ファラド)、5(シレソ)
の三和音のことです。これは音楽のイロハであり、出発点です。西洋音階ではこれを持たない音楽はありませんが、音楽のレベルが高くなるにつれてこの三和音以外の和音が出現します。

 たとえば私たちになじみ深いハワイアンの音楽は、5の和音に入る前に2(レファ#ラ)の和音をきわめて効果的に使います。これによって音楽に変化と奥行きが現れ、三和音だけでは得られない快感が生じます。この2の和音の使用はファ#―ファ(ナチュラル)―ミという半音進行のオブリガートを生みます。
  また、ハワイアンの音楽は四の音に入る前に一の七度の和音を使います。これはシ―シ♭―ラという短いオブリガートを生み、これまた音楽に美しい彩りを添えます。
  アメリカの歌謡曲、あるいはナツメロともいうべきポピュラー音楽のスタンダードナンバーには、主要三和音だけでコトを済ませている歌はほとんどありません。類型的ではありますが、かならず五〜六種類、多い曲にはもっとたくさんの、美しいコードが出現します。つまり日本人にくらべて外国人のほうがコードに対するセンスがすぐれているのです。
  このセンスの違いは、もとをたどれば民俗的な背景と歴史によるものですから、これをもって日本の大衆音楽をいきなり断罪することはできません。しかし、私は幼児教育、そして小中学校教育における音楽の先生の責任、そして日本の音楽教育のあり方に、強い疑問と不信の念を呈さずにはいられません。

 音楽の先生の音楽的なセンスとレベルを、幼稚園の先生から大学の先生まで並べて比較してみましょう。幼稚園の先生は、音楽大学の先生の前ではピアノを弾いてくれないでしょう。要するに、例外はあるかもしれませんが、音楽的な技術と教養がもっとも低いからです。
  ところが総合的な意味でもっとも重要な役割を担っているのは、幼稚園の先生です。なぜなら子供の音楽的能力を決定づける時期は、幼児期だからです。だから幼稚園の先生は子供たちに毎日美しいメロディと和音の組み合わせを聴かせ、先生自身も美しい演奏を聴かせなければなりません。
  よく、初歩の練習には安い楽器でいい、などといいますが、私はそうは思いません。安い楽器には音程が悪かったり、いい音が出ないという欠点があります。そのような悪い楽器から真の音を聴き分けて進歩できるのは、一握りの子供にすぎません。
  幼稚園の先生は音楽だけを教えるのではなく、いわば総合的に子供たちの幼児教育にかかわります。音楽はその一部です。しかし、音楽の適性は幼稚園の先生を選定するさいの重要な基準になります。

 そこで、私に提案があります。先生にメロディだけ書いてある譜面を渡して、これに即興でコードをつけながら演奏してもらいます。
  このときに粗雑な三和音でしか演奏できないような人物、あるいは自分なりに工夫した美しい和音をつけられない人物は、幼稚園の先生として失格とします。同じことが小学校でも中学校でも、高校でもいえます。メロディと和声の組み合わせを作れない音楽教師がいるとすれば彼、または彼女は職業選択を間違えているのです。
  ここで要求されている能力は、ベートーベンのソナタを丸暗記して、楽譜通りに間違えずに弾くなどという能力ではありません。そのような能力は、子供たちに対する音楽教育とはほとんど関係がありません。
  求められているのは、やさしいメロディにいいコードをつけるという能力です。これはいいかえれば「音楽性」ということです。私は日本の音楽教育者たちに音楽性を期待したいのです。

 
 

音楽の専門教育に問題
  ところで、私は長い間「音楽学校卒業者」に対して強い憧れを抱いていました。私にしてみれば、音楽を専門大学で学んで卒業した人々は、もともとの才能に体系的に磨きをかけた専門家、立派な音楽家と思えたのです。
  ところがいつのころからか、音楽学校卒業者は私にとってかならずしも憧れの人々ではなくなってしまいました。たとえば「芸大のピアノ科を卒業しました」という人に、敬意を払って私が「では、一曲お願いします」といっても、たいてい断られてしまいます。「楽譜がないので」とか「最近弾いていないので」などといわれます。
  私ははじめのうち、彼らは遠慮しているのだと思っていました。けれども最近では彼らは実際に弾けないのだということを知るようになりました。音楽学校といってもピンからキリまであるのですが、ピンに属する人々は稀で、大半は簡単なメロディに即興和音もつけられないような、キリ側に属しているらしいのです。

 あるとき、2人の音大ピアノ科卒業生に連弾を依頼したことがあります。曲はモーツァルトの「アイネクライネ」を連弾用にアレンジしたものでした。練習を聴いていて4楽章のテンポが馬鹿に遅いので、どうしたのかと聞いてみました。すると2人とも、「1楽章は聴いたことがあるが、4楽章は聴いたことがない」という返事でした。これには驚きました。
  声楽を勉強した音大卒業生が、オペラのアリアは歌えるが、そのオペラを知らないなどというのは普通のことです。ある高名な声楽家が、オーケストラの前奏のタイミングを間違えて舞台に進み出てきたことがあります。この人は当該のアリアなら歌えるのですが、オペラの舞台を経験したことがなく、舞台に出るきっかけを知らなかったのです。プロといわれる連中でもこの程度ですからプロになれなかった卒業生など、推して知るべしです。
  音楽の勉強に熱中しすぎて他の分野のことを勉強できなかった、というなら分かりますが、勉強したはずの音楽についても、知っているのはほんの一部分ということがあるとすれば、わが国における音楽教育の根本がどこか間違っている、といわなければなりません。 
  かりに「音楽の勉強に熱中しすぎて他の分野のことを勉強できなかった」という音楽家がいるとして、そのような人がほんとうに価値ある美しい音楽を作り出したり、人々の魂に訴える演奏をしたりできるものでしょうか。他の芸術においてと同様、音楽の勉強は「音楽だけの勉強」にとどまるはずのものではありません。芸術は人間性の全体にかかわっているからです。

 
 

「良い聴衆となること」の難しさ
  小さいときから楽器を練習し、コンクールに入賞するような「天才」たちもたくさんいます。最近のわが国の演奏家の水準はいちじるしく向上しました。しかし私たち聴き手は、彼らを単なる曲芸の上手なお猿さんなのか、本物の音楽家なのかをしっかり聴き分ける必要があります。
  なぜならば、私たちは人類の最高の遺産である「美しいメロディ」の再現を、彼らの手に託さなければならないからです。 
  アランはあるとき「男性が虚栄心を持てばこそ、女性はお化粧にうき身をやつす」といいました。アランによれば、女性がお化粧に熱心なのは男性がこれを喜び、美しい女性を連れて歩くことを自慢に思うからだというのです。かならずしもそれだけではないでしょうが、女性が美しくありたいと努力する行為の本質の一端を突いているのではないかと思います。
  私は同じことを音楽の世界についていいたいと思います。「聴衆が喜べばこそ、いい演奏家が育つ」ということです。

 演奏会の会場に行くと、入り口で山のような、近日公演の音楽会のパンフレットを手渡されます。中を見ると、中には外国からやってくる一流の芸術家のパンフレットもあり、無名の新人のデビューのパンフレットもあります。いずれにしても音楽会は花盛りです。
  日本ではオペラブームだそうです。オペラと名がつけば何万円の入場料でも払って出かける人もいます。そしてお定まりのアリアで拍手をして、満足して帰ってきます。わが国ではどんなにつまらない音楽会でも終われば拍手します。いってみれば、「成功」しない音楽会というものがないわけです。
  かつて一度引退したことのある老ピアニストが来場し、演奏を披露したことがあります。私はこれをテレビで見ましたが、あまりの無残さに三分と見ていることはできませんでした。それはかつてピアニストであったことのある痴呆老人の所作にすぎませんでした。たしかに人生の無常を教えてくれる希有の機会ではありましたが、それは残酷すぎました。
  ところがその後に、「聴いた? やっぱり**は、すばらしいね」という音楽ファンがたくさんいたのにはさらに驚きました。

 先日も小さな立食パーティーがあって、そこで演奏を担当したジャズ・ピアニストが立ち上がり「映画でおなじみのショパンのノクターンを、きょうはクラシックの原曲で演奏します」といいました。よせばいいのに、彼は弾きはじめたのですが、それはひどいなんてもんじゃない。私は食べたものを吐き出しそうになりました。
  ところがこの演奏?が終わると、聴衆は礼儀正しく拍手をしたものです。日本人は何と礼儀正しいのでしょうか。あれは皮肉の拍手だったのでしょうか? それとも引きちぎられ、踏みつぶされ、影も形もなくなった気の毒なショパンへの同情の拍手だったのでしょうか。
  いずれにしても聴衆がこんな調子では、わが国にいい演奏家が出てくるのはなかなか困難なことです。それでも、一握りの、本当に才能のある音楽家は、「国際基準」の仕事をすることができるでしょう。けれども私たちの身近なところには、どのような演奏家、音楽家がいるのでしょうか。
  しかし演奏家のことを責めてはいけません。問題は私たち聴衆のほうです。私たちがいい音楽を聴き分け、いいものを良しとし、悪いものを悪しとする勇気を持たねばなりません。またそれ以上に「音楽性」を聴き分け、評価する耳を持たねばなりません。

 世界の遺産である名曲に対する権利侵害を拒否し、巷に氾濫する暴力的なノイズを拒否し、粗悪な音楽をそれなりの地位に置き、ハートのない曲芸は曲芸として評価しなければなりません。そしてたとえ誰の演奏であろうと、魂に訴える音楽、作曲者のメッセージを伝えてくれる音楽を高く評価しなければなりません。
  まさにアランがいうように、「いい聴き手であることはいい演奏家であること以上に難しい」ということになります。「耳あれども聞かず、目あれども見ず」ではいけません。
  「美しいメロディ」の判定基準は私たちの耳の中に、魂の中にあります。クラシック音楽の遺産は私たちに耳の中の音楽、魂の中の音楽の水準を高め、磨くようにと呼びかけているのです。低いところではなく、高みを狙うようにと誘っているのです。
  私たちはみな「美しいメロディ」のハンターです。いいハンターでなければなりません。各人が美しい音楽、美しいメロディを求めてもっと旅を続けるべきなのです。私たちがいいハンターであろうとすればするほど、音楽家たちは効果的に私たちを誘惑してくれるに違いありません。
  あなたも、あなたの基準に即して「美しいメロディ」の狩猟をお続けください。

 
   
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