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リーダーのためのアラン哲学
 
第1章 経済原理をふまえる

 ビジネス・リーダーの最大の役割は、集団の利益を好ましい方向に誘導することにあります。会社を発展させ、賃金を支払い、さらに内部留保をすることがリーダーのつとめです。そのために会社は世のため人のために働かなくてはなりません。リーダーはこの経済原理を組織的に実践するプロフェショナルです。先の見通しもないままに資金を使ったり、バランスを無視した事業を始めたり、ムダの垂れ流しに気づかないリーダーでは困ります。アランは人間活動の原点に経済原理を置きました。経済は人間活動の原点であるだけでなく、生物活動としての原点でもあります。これを知らない人はリーダー不適格です。

 

1.人間性全体の基礎は経済的である。(思想と年齢「商人」)
  赤ちゃんは経済の原理を知りません。子供も知りません。人間は成長するにつれて経済の仕組みが分かるようになります。人間として大人であるかどうかは、経済原理がどの程度分かっているか、お金の重要性がどの程度分かっているか、ということによってきまります。 
  ということは、アランのこの言葉、「人間性全体の基礎は経済的である」をどの程度理解できるかがその人の「大人度」を知るバロメーターになります。
  ここでアランが「人間の基礎」といわずに「人間性の基礎」といっている点に注意してください。これは人間としての活動の総体が経済にかかっている、ということです。経済から縁が遠いように見える人間的な側面、文化や友情や平和など、アランはこれらも含めて人間性、あるいは人間生活の全体が経済原理の上に成り立っている、といっているのです。

 地球上では、まず植物が太陽エネルギーを固定化し、これを他の生物が食べます。さらにその生物を他の生物が食べます。私たち人間は、この食物連鎖の終着点にいます。
  私たちは食べるために、つまりエネルギーを摂取するためにコストを必要とします。いまのところこの代謝の活動をするための交換媒体としてお金を用いているのは、人間だけです。けれども動物たちの生存にもコストが必要です。コストは生物が死ぬその日までかかります。
  生活するために必要となるコストを、個人レベルでは「生活費」、集団レベルでは「固定費」といいます。この固定費をまかなうことができないと集団活動は行き詰まり、個人生活は破綻します。だから私たちはいつも固定費から出発しなければなりません。
  会社は必要な固定費を調達するために売上を上げ、利益を上げるのです。会社が成り立つとは、固定費と同額、あるいは固定費を上まわる粗利益をうみ出すことを意味しています。

 子供は毎日家で食事できることを少しも不思議に思いません。それは彼らが子供だからです。ところで、月末になれば、会社の業績に関わりなく、あるいは自分の働きに関わりなく給料がもらえると思っている人々はたくさんいます。経営の仕組みを知らなくても人は年をとります。そして損益計算書もバランスシートも知らないままに定年の日を迎える人もたくさんいます。彼らは年だけいった幼児なのです。
  人の上に立つリーダーがこの種の子供では困ります。リーダーは経営の仕組みを動かして、つねに所定の利益を保証できる人でなければなりません。リーダーは一個の大人として、まず最初にこの損益原理を実践する人です。大人とは、固定費をまかなうに足る付加価値をうみ出せる人のことです。リーダーが大人でなければならないのは当然のことです。

 
 

2.いかに偉大な賢者でも、日に三度は食卓につく。(人間論「プラトンの袋」)
  「カスミを食って生きてゆくわけにはいかない」。これをアラン風にいうと「いかに偉大な賢者でも、日に三度は食卓につく」となります。食べ物はお金によって調達されます。そこでリーダーは金銭についてはっきりしたコンセプトを持つ必要があります。
  私たちは「金銭に執着するのは醜い」とか、「金もうけ主義は好ましくない」という価値観を持っており、汚職や脱税、詐欺などを批判します。その反面「金がないのはクビがないよりつらい」とか、「金がなければ何も始まらない」という実感を持っています。そして多くの人はタテマエ的には拝金主義者を批判しますが、ホンネでは金銭に対してかなりの執着を示します。
  このタテマエとホンネの矛盾にどう折り合いをつけるかが、各人の人生のあり方を規定します。本気で「おれは金に無縁でいい」という人は、そのような人生を生きますし、「やっぱり金だ」という人は、それなりの人生を生きているはずです。

 このタテマエとホンネの関係について、アランは「だから賢者は蓄えあることをのぞみ、欠乏をおそれる」ともいいました。これを会計学的にいうと「賢い人はバランスシートを健全に形成維持することを望み、自己資本の減少を恐れる」となります。借金に借金を重ね、次の世代にまで借金を残すような国家のリーダーは少なくとも賢者とはいえません。
  会社においては会社の自己資本を蓄積し、その額と比率を高めるには利益を上げ、不必要な投資や借金をしないようにしなければなりません。個人生活でいえば収入を安定させ、不必要な消費をおさえて蓄財をはかることが大切です。アランはしっかりホンネ論を取っているわけです。
  アランは人間には「上部構造」と「下部構造」があり、どんなに偉い人でも下部構造を忘れて生きることはできないといいました。下部構造とは、すなわち食物の摂取、排泄を中心とする人間の生理機構です。そしてこの下部構造を支えているのが、人間の経済活動です。

 人間の上部構造とは理性であり、精神であり、志であり、徳であり、文化や教養であり、いい意味での情熱です。アランはこの上下構造の関係について、「下部のものが支え、上部のものが照らす」といいました。つまり経済的な安定が人間の下部構造の安定性を保証し、同時に上部構造が人間としてのあるべき姿、好ましいあり方を規定しなければならないというのです。
  だからどんな場合も下部構造が先、すなわち金銭の確保が先です。けれど下部構造だけでこと足れりとするなら、それはエサを探す動物と同じです。人間の集団を率いるリーダーは、動物ではなく、全体として完成した人間でなければなりません。すなわち、まず下部構造をしっかり確保し、それから上下のバランスを取らなければなりません。

 
 

3.食事がつねに神への供物であることにご注意願いたい。(情念論「人間のない首」)
  私たち日本人が神様を祭るとき、神前にお神酒と食べ物を供えます。外国の古い習慣では牛や羊をいけにえにして供えたことが知られています。旧約聖書の世界や古代地中海の世界では、神殿に生きている子羊を引き出して、いきなり刃物で首を斬ります。これは私たち日本人からするとずいぶん血なまぐさい習慣に見えます。しかしこれらの意味は、その地方でもっとも普遍的で代表的な食物を神様に捧げているのであって、私たち日本人が神前に大根や昆布やするめを供えるのと変わりません。
  神様はこれらの食べ物を食べるのでしょうか。こんなことをいうと、読者のみなさんに、「何をいっているんだ。それは豊作、豊漁の祈願の象徴じゃないか」といってバカにされてしまいそうですね。けれど、実際に神様は供物を食べるのです。

 私たちの気分や精神構造は、私たちの健康状態に依存しています。疲れていれば気分が悪く、寝不足だったり熱があったりすると怒りっぽくなります。私たちの健康と精神状態は食物に依存しています。そして飢餓こそ私たちがもっとも恐れるものです。なぜなら飢餓こそ争いや離散、戦争など、人間性を喪失させる最大の原動力になりますから。「胃の腑」を満足させることが私たちの最大の願いなのです。
  私たちは空腹のときいらいらします。私たちの中に空腹になると暴れて、どうにも手がつけられなくなるような何者かがいるようです。古代人はこれを「神」と名づけました。どうしてもこの「荒ぶる神」を鎮めておかなければなりません。そうでなければ、私たち自身の安定と平和を確保することができません。

 もちろんそのためには五穀豊饒が必要であり、温和な気象が必要です。私たちが供物を捧げて祈っているとき、私たちが自然を支配し、自然をコントロールする神に祈っていることはたしかです。しかしこれらの要件が満たされないとき、私たち一人一人の内部にあって、私たちに直接クレーム信号を発し、私たちを苦しめるのは「胃の腑」の神です。
  「食事がつねに神への供物であることにご注意願いたい」とアランがいうとき、彼は食物の安定的供給は、私たちの精神活動の基礎であるといっているのです。私たちが飢えに苦しむとき、私たちは自由にモノを考えたり行動できる一個の人間ではなくなります。もし、飢えがやってきたら、私たちは約束もモラルもない原始の動物に戻らなくてはなりません。だから私たち自身の身体と心を健全にしておかなければなりません。神への祈願とは、実体のないものではありません。すなわち食糧こそ、私たちの精神への最大の供物なのです。

 
 

4、生産と交換の安全があってはじめて、人格の権利が確認され、方式化されたのである。そしてこれは自然な秩序なのだ。低次のものが高次のものを支えこれを規制さえするのである。(思想と年齢「商人」)
  チャップリンの「黄金狂時代」という映画では、金鉱掘りに山奥に入った連中の食料がなくなり、極度の空腹に悩まされる場面が出てきます。チャップリンは自分の古靴を煮て食います。そしてついに空腹のあまり頭がおかしくなった仲間の目に、チャップリンが大きな鶏に見えてしまうという場面が出てきます。彼は銃を持ってチャップリンを追いかけまわします。
  人間が食べ物を得られなくなって極限状態になると、人間の肉、それも仲間の肉や子供の肉さえも食ってしまうということが知られています。私たちの精神構造をまともにしておくためには安定した食料の生産、供給が必要であり、個々人には富が必要であることが分かります。
  まともな付加価値生産を可能にする社会的な条件とは、決して戦争や混乱ではありません。

アランは、「経済は平和を好む」といいました。たとえ「死の商人」といわれる武器の生産販売者でさえも、購買者の安定した支払能力を必要とするのですから、経済活動にとって戦争は大敵です。外交的にはまだ不安定な関係であっても、あえてビジネスマンたちは、国境を越えてビジネスをしに出かけます。ビジネスの使節は正式の外交の使節に先立って、平和を先取りしようと努力さえするのです。
  アランは「生産と交換の安全があってはじめて、人格の権利が確認され、方式化されたのである。そしてこれは自然な秩序なのだ」といいました。アランの考えでは戦争を引き起こすものは情念の働きです。ビジネス的な見地から考えれば、戦争は引き合わないのです。

 「お互いにメリットのあるビジネスをしよう」という意志は、「仲良く平和に、互いに平等を認め合ってやろう」という意志に直結しています。考えてみれば、これが当たり前のことです。その根底にあるものは、「お互いに飢え死にするようなことはすまい」というごく自然な考え方です。だから私たちは、食糧確保という「下部構造」「低次構造」が確保されることによって、人間らしくなります。
  「低次のものが高次のものを支えこれを規制さえするのである」、これは私たちがまずもって経済活動の基盤をしっかり安定させることによって、私たちの精神をより高度に発展させることができるという意味です。経済によって代表される「食事」「健康」という日常的の確保が、社会的なルールや、友愛や、文化や、学問の基礎になるということです。そして、動物的生存の安定が私たち人間の精神を健全な方向に向けてゆくという意味なのです。

 
 

5.三度の食事にも事欠くような男は、弓を飾ってのうのうとしていることはあるまい。狩りに出かけるだろう。(経済随筆「第25章」)
  私たちは原則として1日3回食事をします。2回で済ませている人もいますし、4回の人もいます。中には、時折断食をする人もいます。では、私たちはどのくらいの間食べずに生きられるでしょうか。いずれにしても何ヵ月というわけにはいかないでしょう。
  アランがここでいっている男は、昔の狩人のようです。狩人にとって弓矢は生活の手段です。狩人が弓矢を持っているかぎり、彼は座って飢えを待つということはないはずです。現代人にとってはこの「弓」に相当するのが仕事の能力です。健康な体を持ち、言葉が話せ、計算したり、読んだり、判断したりすることができる、これが現代人の「弓」です。

 「白鯨」に出てくるクイークエッグは、鯨の銛打ち、それも相当に優秀な銛打ちでした。彼は言葉は達者ではありませんでしたが、その腕前を買われ、何も取り柄のない私、イシュメルよりもはるかに良い条件で採用されました。私たちは彼らと同じように仕事にありつきます。
  学校を卒業した人間は、さっそく自分の「弓」を持っていろいろな企業を訪問し、採用試験を受けます。また何かの事情で職を失った人も履歴書を書き、職安に行ったり、会社を訪ねたりします。これが現代人における「狩り」の最初の行動です。
  彼らは職場で仕事を与えられるでしょう。そして本当に自分の「弓矢」、あるいは「銛打ち」の腕前が役に立つかどうかを試されることになります。このように考えると、学校を卒業した平均的な若者が、平均的な能力で、平均以上の職場や待遇を求めようとするのはそもそも間違っていることが分かりますね。

 さて、一個の集団のリーダーにとっての弓矢とは何でしょうか。それは自分の判断力や実行力であると同時に、自分の部下、そして部下が持っている能力の総体を指します。それは大きな獲物を追って狩りをする集団そのものであり、リーダーはその集団の指揮者です。リーダーの指揮や判断が悪ければせっかくの獲物を取り逃がす可能性があります。
  「白鯨」のエイハブ船長は乗組員にむかって情熱的に語り、まずもって彼らの人心を掌握しました。船内の秩序を維持し、情報を収集し、モービー・ディックが出現する海域を予想し、そこへ向かってまっすぐに船を進めさせました。彼にとっては船全体を一つの研ぎ澄ました「銛」のように先鋭なものにする必要があったのです。
  ビジネスはひとつの狩猟です。そしてリーダーとは集団狩猟の頭目のことです。怠惰な狩人、怠惰な頭目が生きのびる方法はありません。

 
 

6.仕事は富を与える。これには例外がない。(知恵について「それを欲したのはお前だ」)
  ビジネスとは食べ物を確保することであり、いうなれば狩猟です。昔の人は食べ物を手に入れるために狩りをしました。そして「戦争」は「狩り」の発展形でした。
  昔の人々にとってビジネスに3つの手段がありました。それは「戦争」「交易」「栽培」です。人類が「戦争はコストが合わない」「戦争は総合的には損失だ」「戦争はビジネスではない」ということを理解するようになったのは、ごく最近のことです。
  リーダーはビジネスと食物、食物の蓄積分である富との関係について正しく理解しておく必要があります。リーダーは、部下を正しく指導するためにも「人は何のために仕事をするのか」、という根源的な問題に対する回答を用意しておかなければなりません。食物を得るための行動はたしかに「狩り」にはちがいありませんが、単なる「狩り」ではありません。

 「人は何のために仕事をするのか」という問いに対して、アランは明快に「仕事は他人に役立つためにするものである」と述べました。つまり仕事に関するアラン哲学を端的にいえば、仕事とは他人の喜びに奉仕するために実践するものであり、売上や利益はその商品やサービスに対する交換代価です。したがって仕事がその目的にかなっているかぎり、必然的に仕事をする人に利益をもたらします。これが「仕事は富を与える。これには例外がない」という言葉の意味です。
  自給自足が行なわれていた大昔、仕事は自分、あるいは自分の家族のためだけにするものでした。しかし交換経済が普及した現在、「仕事をする」とは、「交換の対象となる商品を作り、あるいは調達すること」「商品を貨幣と交換すること」として定義されます。
  仕事の結果をなぜ他人が喜ぶのかといえば、自分では作ったり調達しにくいものをコスト安に提供するからです。たとえば私が洋服を作ろうとして、糸を紡いだり、布を織ったり、洋服を仕立てたりしようと思えば、やってできないことはないかもしれません。しかし実際にやろうとすればとんでもないコストがかかり、時間がかかります。買ったほうが安いのです。

 付加価値は商品と貨幣が交換された瞬間に発生します。交換が成り立つということは、相手が商品にその価値を認めた、ということです。他人の喜びを介して報酬がもたらされ、富が形成されるという原理が明快になります。またあらゆる仕事において、交換を担当し、付加価値を生む「交易」すなわち、「セールス」活動が、ビジネスの中心であることがはっきりします。
  私たちの個人資本そして社会資本は、長年にわたって形成された付加価値の積み重ねであり、それらの総体です。他人が喜ぶ仕事をするとき、それは付加価値を生産するのであり、その富は相手方とこちら側の双方にもたらされるのです。

 
 

7.買い手を固定するのは難しい。その代わりそっぽを向かせるのは簡単だ。(経済評論「第13章」)
  どんな種類の仕事でも、ただやりさえすれば相手を喜ばせることができ、お金になるのでしょうか。もちろん違いますね。自由主義経済の原則は、誰がどんな仕事をしてもいい、というものであり、買い手は自分が好むものを選んで買っていいというものです。
  このことは、仕事の種類の選択や扱うものの選択は自由だが、買い手もまた選択の自由を持っている、ということです。自由主義経済のもとでは「競争」が認められ、促されています。競争が相互の利益と進歩につながるという大原則が認められているのです。
  「買い手を固定するのは難しい」という原理は、同じ商品を取り扱っている会社同士のケースで考えると分かりやすくなります。けれどもデスクに座って事務をしている個々のビジネスマン同士や、会社の中の部門同士のことになると分かりにくくなります。

 ビジネスマンは一人一人が自分自身の売り手です。試験によって会社に採用されるということは、他人と競争して、自分自身を給料分の値段で売ったということです。これを雇う側の立場で考えると、リーダーが買い手であり、メンバーが売り手、ということになります。そしてリーダーがある部門の長であるとすれば、その部門の売り手は部門長であり、買い手は社長です。
  会社は人材という資源を買い入れ、この人材に直接原価に相当する材料を加工したり、アレンジしてもらったりして販売します。商品やサービスは人材資源が形を変えたものです。リーダーは人材資源の買い手であり、これらの人材をうまく活用して付加価値を産出し、利益を上げなければなりません。付加価値を確保できないと私たちは死滅してしまうのです。

 ある部門が赤字を出し続けているとすれば、部門長は人材集団の買い手であるトップに対して品質の悪い労働を販売していることになります。すべての部門が赤字を出し続けているような会社があるとすれば、その会社はまもなく潰れます。そのような部門、そのような会社には、人材に競争力がなく、買い手にそっぽを向かれているのです。
  そこで人材の買い手であるトップとしては劣悪な労働を拒否し、良質な労働を調達する権利があります。同じくリーダーには悪い人材を排除し、いい人材を確保する権利があります。
  もちろん現在の労務制度の下では、「キミは働きが悪いから辞めてください」と簡単にいうことはできません。けれども悪い人材は、リーダーの信頼を失います。悪い部門リーダーは社長の信頼を失います。つまりそっぽを向かれます。もし悪い人材や悪いリーダーを許容するような会社があれば、今度はユーザーである買い手にそっぽを向かれることになります。

 
 

8.破産するにも規則がある。(経済評論「第48章」)
  買い手にそっぽを向かれると、商売は行き詰まり、破産してしまいます。そうならないために、どうしたらいいのでしょうか。アランは「破産するにも規則がある」といいました。また彼は、「破産とはいい言葉だ。損失というものは商人につきもので、いつも商人を引っぱっているからである」ともいっています。
  アランの真意は次の通りです。「ビジネスはつねに損失の方向に向かって進んでいる。同じ商品を販売し続けていれば、マンネリに陥り、機材や施設などは古くなり、サービスや品質は劣化する。またライバルが次々に工夫するので、こちらが工夫を怠っているとたちまち駆逐されてしまう。一方、社員に対する福祉や待遇の向上が求められるので、固定費は放置しておくと無制限にふくらむ。だから、とくにテンションをかけない状態で推移するなら、事業はおおむね売上低下、利益低下、損失拡大の方向に進む」。

 アランは商売上の損失傾向を、地上における「重力の法則」と同じようなものと考えました。重力があることは悪いことではありません。ちなみに無重力状態の宇宙空間では、人間の筋肉が萎縮してしまうということが分かっています。これと同じことが、かつての国営企業に生じました。つまり、無競争でできるビジネスは、そこで働く人々の正常な競争感覚や、サービス感覚を麻痺させてしまうのです。
  ビジネスマンは重力を意識し、これに抵抗して筋肉に力をつけなければなりません。成功へのキーワードは競争力のある「固有技術」です。買い手を満足させるその会社固有の魅力、固有の商品やサービスを持ち、これを適切に提供する、ということです。固有技術を維持するためには所定のテンションを維持しながら研究、開発を続けなければなりません。

 自分の会社を支えている技術が、いつ開発され、いつ改良されたものであるかを考えて見てください。20年も前に作られた商品をそのまま売っていることはないでしょう。おそらく商品は改良され、さらに開発、改良されているでしょう。そうでなければ、あなたの会社は沈滞と破滅に向かっているはずです。
  「買い手を固定する」とは、たえず固有技術を発揮し続けるということであり、「そっぽを向かせる」とは、マンネリ商品をマンネリ価格で供給するということです。固有技術とは、発明する技術のことであり、優位性を作り出す技術と努力のことです。業績不振とは顧客が満足していないことの証明です。リーダーはもっと冒険と発明を促し、顧客に新しい満足を提供すべくリードしなければなりません。リーダーとは固有技術のリーダーです。

 
 

9.金持ちになりたい人は誰でもなれる。(幸福論「野心家への演説」)
  ビジネスの目的は「利益を得ること」です。これをもっと平たくいえば「金持ちになること」です。ビジネスにおいては、「会社が金持ちになる」ということがまず第一です。会社が金持ちになればビジネスマンは自分も金持ちになることができます。
  「買い手を固定化させることは難しい」ということが問題になるのも、買い手を作り、これを固定化させることができなければ、「経済的に成功することは難しい」「会社は金持ちになれない」、したがって自分も金持ちになれない、となります。これは困りますね。
  ところがアランは「金持ちになりたい人は誰でもなれる」といっています。アランは「人」といっていますが、これは「会社」に置きかえても事情は変わりません。すると「買い手を固定することは難しい」といったり、「誰でも金持ちになれる」といったり、アランは矛盾することをいっているように見えます。

 けれどアランが、「誰もが金持ちになりたがるわけでもない」といっていることに注意しなければなりません。企業はどの会社も経済的成功を目指し、個人は収入の増加をめざす、これは当然のことのように見えます。ところが、かならずしも利益を追求しない人も企業もあるのです。
  たとえば、誰かが私に「君には、このような欠点がある。これを直してくれればもっとサラリーを上げられるのだが」とか、「こういう業績を達成すれば、これだけのボーナスを出す」といったとします。けれど私にしてみれば、どうしても実行できないことがあり、さらには実行したくないことがあります。実行しないということは、給料が上がる方法を知っているのに、それをやらないということです。

 会社でも同じことで、「こうすれば儲かる」とか、「この無駄を省けば利益が出る」と分かっているのに、実行しない会社がいくらでもあります。分かっているのにそれを実行しないということは、「誰もが金持ちになりたがるわけではない」ということですね。
  「金があったらなあ」というのは単なる願望であって、本当の志ではありません。アランは、「意志は一貫した行動によって知られる」といっています。金持ちになろうとしないで「金が入ってこない」と嘆くのは筋違いなのです。
  会社とは、金持ちになることを目的とする集団であり、会社のリーダーはその指揮をとる人です。「ビンボウ会社」というのはまったくナンセンスです。そこでアランの言葉に従うなら会社という主体者もまた、金持ちになるための手段を選ばなければなりません。そしてリーダーは、「金があったらなあ」などといっているような人では、話にならないということですね。

 
 

10.銀貨の重み、とくに金貨の重みは、手に対する警告のようなものであった。(情念論「書体」)
  日比谷公園の一角に、どこかの国から送られた大昔の石の貨幣が展示してあります。とても簡単に持ち運びできるようなしろものではありません。けれどあのように大きな石でさえも、「貨幣」として用いられたのは、その社会で、物々交換が限界に達していたからです。
  すなわち交換するものが多様になり、レートが複雑になり、物資の鮮度が変化するなど、取引をより客観的な基準で固定する必要があったのでしょう。そこで物々交換を媒介する貨幣が登場し、ここから付加価値生産のスピードが加速度的に速まっていったのです。
  貨幣は金貨、銀貨、銅貨などをへてついに紙幣になりました。そしてこんにちではクレジットカード、プリペイドカードとなり、ついに電子マネーが登場しようとしています。貨幣の形が小さくなるにつれて、次第に「お金」の概念、質が変化してきていることにお気づきでしょう。

 「パーキンソンの法則」で指摘されている通り、私たちは数字の単位にマヒする傾向があります。10万円、100万円の単位なら実感値として分かるのに、何千億円などとなると、実感がなくなってしまいます。バブル経済期には、多くのビジネスマンの金銭感覚がマヒしました。
  アランがここで「銀貨の重み、とくに金貨の重みは、手に対する警告のようなものであった」というのは、ビジネスマンはどんなときでも正常で、健全な金銭感覚を持っていなければならないということです。これはとくにビジネス・リーダーに要求される大切な条件です。

 貨幣は付加価値の分量、しかもモノに換算された分量を示しています。ビジネスの世界で取扱う数値はすべて四則演算の範囲、すなわち分量の問題です。たとえどんなに計算が電子化され、電子マネーが主流となっても、財は決して単なる記号ではありません。
  それは私たち人間はまず肉体という分量を持つ「モノ」だからです。私たちの肉体というモノを支え、成立させるためには食料というモノがなければなりません。私たちは情報を食べることはできません。情報だけでは、たとえ一グラムの物体を持ち上げることもできないのです。
  貨幣は歴史の進展につれて形を変え、ビジネスのあり方を変えてきました。しかし仕事の原点は「物々交換」にあります。リーダーはこの点で地道な、ぎりぎりの生存条件を考えなければなりません。実質的な価値が大切であり、実質的な資産が重要なのです。
  情報化社会が進展し、貨幣の形が記号化するにつれて、私たちの金銭感覚は狂ってしまう危険があります。たとえば近年カード破産する人が急増していますが、これは一つの警告です。リーダーであるあなたは、どんなときでも金貨の重みを知る人でなければなりません。

 
   
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