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リーダーのためのアラン哲学
 
第2章 リーダーシップの本質

リーダーとは部下を集合し、組織を作り、これを動かす人のことです。リーダーには部下を見分ける能力、組織を設計する能力が必要になります。また実際の仕事に当っては部下に具体的に任務を与え、自分がお手本を示さなければなりません。リーダーには正しい判断と、自信ある意思決定が求められます。意思決定にさいしては、部下の意見をどこまで聞くかも大きなポイントになります。アランはリーダーシップのポイントを適切に指摘しました。アランは、民主的でものわかりのいいリーダーをかならずしも理想のリーダーとは見なしませんでした。結果として組織の安全とサバイバルを保証できること、これをもってリーダーシップとしたのです。

 

11.統治するなら農夫としてやらねばなるまい。(経済随筆「第74章」)
  集団のリーダーにとってもっとも大切なことは何でしょうか。それは事業の根幹をなしている活動の現場を熟知しているということです。この点、多くのリーダーが思い違いをしています。組織を作ったのは、それぞれの現場を部下に担当させるためだと思い込み、それについて知っている人間を配置させ、担当させればいいと思い込むのです。
  彼は、自分は結果さえ見ていればいい、結果がうまくいっていれば、自分のリーダーとしての職責は果たせると思います。こうして社長は社長室に閉じこもり、部長は部長の椅子にどっかと腰をかけて、部下の報告を待つだけとなります。
  同じ事業結果が得られるなら、本当はできるだけ小人数で事業を行なうのが一番いいのです。たとえば、無人の工場を1人で運転し、所定の量を所定の品質で生産できればこれにこしたことはありません。販売にしても同じことです。事業主がごく小人数で百人分、千人分の売上を上げられるならこれにこしたことはありません。多くの人が必要になり、組織が必要になるのは、事業主1人では仕事をやりきれないからで、あくまで仕事を手伝ってもらうためです。集団が形成されるのは、集団の方が付加価値生産高が大きくなり、効率がよくなるからにほかなりません。

 人が増え、部門が増えると職務と職位が分岐し、ここに「リーダー」という専門職掌ができあがります。だからリーダーという仕事は多くの部下の上に君臨し、睨みをきかすことが仕事の目的ではなく、より生産性を確保し、保証するための機能上の役割にすぎません。これをあたかも「えらさ」のしるしだと思うところから誤解が始まるのです。
  組織における役柄は原則として機能です。もともと仕事は、農業活動にもっともよく象徴されています。それは労働を意味します。リーダーが自分自身の持ち分を耕したり、施肥を行なったりする方が収穫が多いか、それとも耕し方を教えたり、施肥の仕方を教える側にまわったほうが収穫が多いか、それは規模と仕事の性質によって決定されることです。ただし、農業を知らない農業のリーダーはまったく考えられません。

 なるほど事業主、上級職は部下に対してある種の権威を持ちます。それは集団を維持する上で、指導、指揮をする必要上発生するものです。資本保有の優位性、意欲と責任感の優位性、知識の優位性、実力の優位性がリーダーの権威を作るのであって、リーダーという肩書がリーダーの権威を保証するのではありません。
  いずれにしても、「農夫として統治する」とは、現場における実力の優位性がリーダーとしての仕事を支え、その成果を決定づけるということを示しています。

 
 

12.まぐさ刈りや取り入れのときには主人も作男も見分けがつかない。どちらも痩せこけて、日にやけている。雨が降りそうな気配になると、どちらも同じ動作で、仕事を早める。よく見ると、主人のほうがよけいに骨を折っている。(人間論「農民的構造」)
  ここでアランは「農夫として統治する」ということを、さらに具体的に説明しています。この文章で表現されているのはひとむかし前の農村での小地主と、そこに雇われている作男の関係です。現在の日本でいえば、中小企業の経営者とその従業員という関係でしょうか。
  リーダーはオーナーであると否とを問わず、仕事の量の面でも、質の面でもメンバーのお手本となるのが当然です。もちろんこれは、リーダーがつねに部下とまったく同じ仕事をしなければならないという意味ではありません。しかしどの仕事についても、あるべき標準を示すのがリーダーの仕事です。リーダーは自らお手本を示すことによって、社員を教育し、せきたて、目的を思い出させ、動機づけ、要するに仕事へのテンションを与えるわけです。

 ここに主人Aと作男Bという2人の農夫がいるとします。AもBも、一個の人間という点ではほとんどちがいがありません。場合によっては作男の方が体格にすぐれ、農業活動に向いているかもしれません。ところが、AとBは体格以外にどこかがちがっています。
  仕事の経済効果についてクリアな認識を持っているのはAのほうです。この仕事でどれだけ儲かるのか、損益分岐点はどこか、赤字になった場合どのような障害が発生するのか、これをよりよく知っているのもAのほうです。したがって経済的なロスに対する危機感が強いのもAです。仕事の品質、仕事が顧客に及ぼす反応や評価について敏感なのもAです。彼は市場やライバルについてもシャープな認識を持っています。

 もし作男Bが、業績や、市場や、品質についてAよりもすぐれた認識を持っているなら、作男Bは、やがて主人Aを追い越すでしょう。その部下は現在の上司のもとにいつまでも留まっていないでしょう。というのもリーダーシップは、肩書きや年令によって規定されたり、保証されるものではありませんから。そもそもすぐれた作男Bが、凡庸な主人Aにいつまでも縛られることなく、独立して一個のリーダーになることができる社会、私たちはこれを自由主義社会と呼んでいるのです。
  こうしてみると、リーダーシップとはAとBの体格的ちがいのことではありません。それは中味のちがい、すなわち意識のちがいであり精神構造のちがいです。強い目的意識、業績に対する関心、業績向上をはかるための知識やアイデア、行動に対する信念、野心、情熱こそ、リーダーであること、あるいはリーダーになり得ることを保証する条件なのです。

 
 

13.最良の水先案内人が当然のこと航海を指揮し、最良の漁夫が漁師を指揮し、また、最良の目とは陸地を告げ知らす目である。(人間論「夫婦」)
  複数の人間が集合して経済活動を展開しようとする場合、役割分担を定めます。あまり例は好ましくありませんが、数人のグループで銀行強盗をすることにしてみましょう。すると銀行を下見したり、侵入や脱出のルートを決める担当者、金庫を破る担当者、見張りをする担当者というように互いの担当を割りつけることが必要になります。
  この割りつけが「人事」です。そして人事権を持つのがボス、すなわちリーダーです。何をやらせてもドジという仲間では使い道はありませんが、それぞれの得意技に応じて人事をするほうがうまくいきます。たとえばコンピュータに細工をする仲間はコンピュータに強いメンバーでなければなりませんし、警備員をやっつける仲間は腕っぷしが強くなければなりません。
  リーダー自身についていえば、総合的な判断力があり冷静沈着で、はっきりした指示命令を出せること、しかもメンバーから信頼されていることが必要です。リーダーは、仲間に「この人に従って行動していれば安全性が高く、成果達成が確実だ」と思われることが大切です。

 これはすべての組織における大原則です。ところが通常の会社の組織が、この原則からはずれていることが珍しくありません。それは組織計画をすすめる人々が、業績確保、あるいは業績保証という目的から離れて、年功序列的な人事、報奨的な人事、学歴的な、あるいは学閥的な人事、折衝的な人事を行なおうとするからです。
  かりに船の乗組員の役割分担というような、お互いの生死にかかわるギリギリの人事だったらどうでしょうか。ここでは学閥や年功序列などは問題にならないでしょう。実力のないものがリーダーになれば、全員の命があぶなくなります。
  だから、すべて人事は船の上を旨とすべし、また適材適所を極限まで押し進めるべきだ、というのがアランの考え方です。

 アランはまた、「大海にある船の上では、重要な部署が、これを得んとて泣き叫ぶものに与えられるとは考えられない。さもないと船は沈没するだろう」ともいっています。出世したいという本人の意欲は結構ですが、仕事は結果によって決まります。船でいえば安全航行が何よりも重要です。本人の希望だけでは人事は決められません。
  リーダーは組織を作る人であり、組織設計という点でプロフェショナルであることが求められます。組織設計にあたっては「メンツ」や「年齢」などに惑わされることなく、あくまでも組織の目的と担当の機能、その機能に対応する実力判定が基礎でなければなりません。

 
 

14.民主的な国家というものは、このものの似姿であるがここでは見られるように、ロバや子犬までもが同じように何かを要求する。(人間論「プラトンの共和国」)
  私たちの社会では「民主主義」が採用されています。これは古代のギリシャの政治制度をモデルにしたものですが、こんにちではこれに数多くの改良が加えられ、普通選挙、議会制民主主義が政治における「最良の方式」ということになっています。
  わが国には戦後、民主主義思想が入ってきました。そして私たちのものの考え方や行動のあり方に、深く根をおろしています。たとえば会社では「民主的経営」、家庭では「民主的な家族会議」、グループや会合などでは「民主的運営」という具合です。そして「民主的」という考え方に反対することはいまでは大変難しくなっています。

 かつて宗教裁判や魔女狩りなどが行なわれていた時代には、「異端的」な考えを述べたり行動するには勇気が要りました。ガリレオは地動説を支持して獄につながれました。教会の指導原理に逆らってはならなかったのです。民主主義は、現代におけるほとんど絶対的な指導原理です。これに反対を唱えることは、かなり異端的なことであり、勇気が要ります。
  けれど、はっきりいって民主主義にはかなり欠点があります。プラトンは民主主義が行なわれていた時代に、民主主義の本質的な欠点を突いて、「民主主義の社会ではロバや子犬までが何かを要求する」といってこれを批判しました。プラトンの考えでは民主主義は悪い政治体制です。ソクラテスはプラトンの先生です。ソクラテスは民主主義による投票の結果、「死刑」に処せられました。文字通り衆愚政治の犠牲となった人です。

 プラトンが理想とする国家とは、賢者による統治が行なわれる社会です。完成した人間にはしっかりした頭脳があり、その頭脳が体全体を指揮しています。そして頭脳は手足の勝手な欲望やふるまいを規制することができます。プラトンによれば、国家の指導者はこの頭脳に当たる人でなければなりません。手足が集合して、てんでに自分に都合のいいように投票して意思決定を行なうなどというのは、まったくナンセンスではないかと彼はいいます。
  もちろん現在では国の運営を1人の賢者にまかせるということはできません。民主主義の制度がこれを不可能にしています。では会社の経営についてはどうでしょうか。「民主主義」を適用すべきでしょうか。いいえ、その必要はありません。
  会社は経営を知らない社員の投票で運営できるようなものではありません。将来よりもいまの自分の給料の方が大切という人に経営を任せることはできません。リーダーは文字通りプラトン的な賢者でなければならず、また現代においてもそれが可能な組織なのです。

 
 

15.相談づくでことを決めるような者は世界に対して何事もなさぬ。(海辺の対話「第八の対話」)
  たとえば社員旅行についての相談は、社員による民主主義によって決定したほうがいいテーマです。けれど難しい数学の問題の答えを多数決で出すとか、専門的な知識を要する課題に素人が集まって答えを出すなどというのはまったくナンセンスです。学校の先生は1人で40人、50人を教えます。民主主義は万能薬ではありません。
  民主主義は特定の人が正解を持っていないようなとき、あるいはどちらの答えを選んでも間違いでないようなものを選ぶとき、そして選択の結果を関係者が納得しなければならないときだけ有効なのです。ところがどの会社でも重要な意思決定をするために朝から晩まで会議をやっています。これはどうしたわけでしょうか。

 このことは第1に、リーダーが専断的に決定すべき事項と、民主主義的に決定すべき事項を区別できないためです。第2にリーダーがはっきりした答えを持っていないためです。そのためにこれまたはっきりした答えを持っていない連中を集めて相談をせざるを得ないのです。これはまったく時間の浪費であり、社会的なコストの無駄使いです。中には、そうやって何度も会議を開いているのに決断を下せない情けないリーダーもいます。
  リーダーは目的遂行と生産性を向上するためにその任についています。烏合の衆では、目的を持った行動を計画的に実行することはできません。複数の人間の集合に秩序を与え、所定の目的にむけて生産性を確保するのがリーダーの仕事です。

 したがって目的の遂行が先であり、会議は必要悪です。もしもリーダーの専断、専決がすべて正解であるなら、メンバーを集めて会議を開催するのはムダです。会議が好ましいのは、会議によって目的達成の加速や生産性向上が期待できるからにほかなりません。
  アランは、「会議の席に4歳の子供がただ1人いるだけで、すべての人々が4歳になる」といいました。会議体の中に幼稚なレベルのメンバーがいると、その人に事情を分からせようとする努力のために、全員がそのレベルでものを考えたり発言するようになるということです。どうかするとその4歳児が余人ならぬリーダー自身であったりします。
  誰にでも分かることは、別に相談するまでもないことです。みんなが分からないことは、相談しても解決できるわけがありません。このことはリーダーは勇気をもって専断、専決しなければならないということを意味しています。リーダーはおおむね会議の主催者です。リーダーは何について会議を開けばいいのかを知らなければなりません。

 
 

16.隊長はまず自分を信じ、それから自分を隊長として信じ、自分を隊長として知る。これを数学によって証明することはまったくできない。(宗教論「枢機卿たち」)
  「一個の賢者であること」、これがリーダーの要件です。これについて、頭が良くなければビジネス・リーダーになれない、と考える人がいます。しかし頭の良し悪しにもいろいろあります。たとえば記憶力がよかったり、論理的思弁の能力ということでいえば、大学の先生はみな立派なビジネス・リーダーということになります。発想力が豊かであったり、独創的であるということは、ある意味では頭がいいということです。この点では芸術家や発明家が有利ですが、芸術家や発明家がビジネス・リーダーに向いているかどうかは分かりません。
  ビジネス・リーダーの特質は、人材の能力を発揮させながら目的地に進んで行くというところにあります。そこでリーダーに求められる頭の良さは、単なる記憶力や独創性ではなく、総合的な判断力ということになります。しかし総合的な判断力があるからといって、かならずしもリーダーに適しているかどうかは分かりません。

 いい判断をすることができても、それを部下にうまく伝えられなかったり、実行に結びつけられなければ何にもなりません。判断力は、部下を動かし、目的に有効に向かわせる指令や管理の力と一体になってはじめてリーダーにふさわしいものとなります。
  しかし正しい判断を、集団としての有効な行動に結びつけるための要因は何でしょうか。それは「心のあり方」です。「心のあり方」とは「オレはリーダーなんだ」という自覚であり、「目的を果たす」という使命感です。そして「オレにはそれができる」という自負、自信でなければなりません。これをアランは、「隊長はまず自分を信じ、それから自分を隊長として信じ、自分を隊長として知る」といういい方で表現しているのです。
  「自分を信じる」とは、「意欲する」ということです。「どうやったら意欲が出るのだろう」「どうしたら自分に自信が持てるのだろう」「意欲が湧く方法を教えてほしい」などという人がいます。このような人は、「意欲しない」ことを先に決めている人です。

 アランは「意志は一貫した行動によってのみ証明される。それゆえ、何よりも意欲しなければならず、いわば無償で意欲しなければならない」といいました。リーダーとしての自覚は、そこから受けられる恩恵や利益によってもたらされるものではありません。
  リーダーとしてのあなたの意欲は、あなたの方から一方的な出し前で、リクツや証明なしに、持たねばならないものなのです。自分に対する信念は他人が与えてくれるものではありません。リーダーとしての「心のあり方」は自分で決定するものなのです。

 
 

17.もっとも偉大な将とは、自分の考えや計画にさまで固執せず、状況とともに駆けつつ、他の考えにはいっさいわずらわされぬ人である。(人間論「女性の思想」)
  アランがここで念頭に置いている「もっとも偉大な将」とは、歴史上の人物であり、トルストイの「戦争と平和」の中に登場するクトゥゾフ将軍のことです。彼の戦略行動は当時の皇帝アレクサンドル一世にさえ理解されませんでした。しかし彼の戦略はヒットしました。ナポレオン軍はモスクワを占領したにもかかわらず敗退し、史上最大規模の軍隊を失いました。
  クトゥゾフ将軍は、作戦会議の最中は居眠りをしていたと伝えられています。しかし彼がロシアを救った最良のリーダーだったのです。彼が居眠りをしていたのは、結論が見えているのに、分かりもしない連中が会議などやっても無駄だと思っていたからであり、現場ではその場、その時の判断の方が重要であることを知っていたからでしょう。それがアランのいう「状況とともに駆けつつ、他の考えにはいっさいわずらわされぬ」ということです。彼は戦争のプロのリーダーとしての自分の本能の方を信じていたのです。

 ビジネス・リーダーは一個のマネジメントにおける職人、プロフェショナルです。そうでないとすればビジネス集団はアマチュアの手に委ねられているのですから、いかに事業の志は高邁であってもムダな失敗を重ねなくてはなりません。
  もちろん生まれつきのプロなどというものはありません。どんな仕事においても学習が必要であり、訓練が必要です。それにまた才能やセンスも必要でしょう。しかしビジネス・リーダーという仕事に関しては、学習のプログラムが決まっているわけでもなく、訓練の場が標準化されているわけでもありません。そこでプロの基準があいまいになります。自分では大いにプロのつもりでも、実際にはアマチュアということもあります。
  ビジネス・リーダーのプロとしての要件は二つあります。その一つは「人間のコントロール能力」であり、もう一つは「計数のコントロール能力」です。リーダーとしての仕事の大部分は、「人間のコントロール」です。しかしもちろん計数に弱いリーダーは失格です。

 「人間のコントロール」には資質、センスがものをいいます。「計数のコントロール」はおおむね勉強によって身につけることができます。「リーダーなどその立場になればできるものだ」などと考えないでください。計数コントロールを知らないリーダーは知的怠け者です。
  他人にとってプロセスをどのように見ようとも「業績」「結果」を保証できるのがプロフェショナルとしてのリーダーの仕事です。なるほど会議、手続き、コミュニケーション、書類・・どれも大切です。けれどきちんと「業績」「結果」を出せなければリーダーではありません。

 
 

18.精力的な人は、しばしばその気性によって統御する。彼はちょうどいい時機に怒りを爆発させ、またかくして無気力のかたまりのような部下たちをうごかす。ナポレオンは、自分の恐るべき気性のうごきを利用するすべをよく知っていた。(人間論「性格」)
  リーダー人材にもいろいろなタイプがあります。使われる人の立場に立ってみると、自分たちの話をよく聞いてくれ、ものわかりが良く、やさしく、温和で円満な人が好ましいと思います。そしてその反対のタイプは、「横暴」とか、「ワンマン」と評されます。
  このように「リーダーの人格」が問題になる場合には、たいてい「気性」が問題になっています。そこで多くの人は、自分の好ましくない特性を直さなければならないと思っているようです。ところがアランは「気性も性格も直すには及ばない」といいます。
  アランにいわせると気性とは、人間の体質のようなもので、色白とか、縮れっ毛とか、背の高さと同じように変えることができないものだといいます。その上でアランは「人は自分の性格から自分の欲することをなし得る」といいました。
  リーダーは仕事上の目的を持っています。アランはその目的のために利用できるものなら、自分の性格や気性を利用すればいいではないかといっているのです。すなわち短気な人は短気であることを利用して先手先手と進めばいいのですし、慎重な人は慎重さを、温和な人は温和さを武器にすればいいのです。

 ナポレオンははげしい気性と雄弁の持ち主でした。あの小さな身体で、命知らずの猛将たちをふるえあがらせ、闘志を奮い起こさせ、命などいつ投げ出してもいいと思わせました。
  アレキサンダー大王やシーザーやナポレオンが、戦場のもっとも危険なところに平然として身を置いたことはよく知られています。おそらく彼らは恐怖に鈍感だったわけではなく、強がっていたのでもないでしょう。彼らの性格の激しさが恐怖よりも強かったのです。こうして彼らは不利な戦局の中でもよく兵の能力を引き出しました。「精力的な人は、しばしばその気性によって統御する」とアランがいっているのはこのことです。
  よく「一人殺せば殺人者、何十万人も殺せば英雄」といわれます。しかしナポレオンは部下に生きがいを与える方法を知っていました。アランは「ナポレオンの軍隊がいままでおそれた唯一のことは、自分たちにふさわしい、かつ何も容赦をしない一人の首領を失うことであった」といっています。部下が求めていたのは、リーダーのエネルギーだったのです。
  自分の特質をわきまえ、それがどのようなものであろうと、武器として、あるいはエネルギーとして使えることができるとき、その人はリーダーの条件を持つのです。

 
 

19.暴君であることもできねばいけない。(知恵について「働く方法」)
  歴史に名高い暴君がたくさんいます。秦の始皇帝やカリグラ、ネロなど。暴君は権力を持ったいきすぎたワンマン、あるいは自分勝手なワンマンということです。これはリーダーとしてはあってはならない状態です。
  ところが、ここでアランは「暴君であることもできねばいけない」といいました。またアランは、「わがままなところが少しもない人には、勢力もまたない」ともいいました。あまりにも人がよすぎて、ものわかりがよく、柔和で穏健、それだけというのは、リーダーとしては説得力も影響力もないということです。
  いつも部下の人気やご機嫌を気にしているようなリーダーでは、イザというとき頼りにならないだけでなく、部下にナメられます。権威を失ったリーダーは力を発揮することはできません。このごろどういうわけか腰の弱い、権威のないリーダーを多く見かけるようになりました。彼らは部下に何かいわれるとすぐにその意見を取り入れなければならないと思います。

 また「指示しても部下がやってくれない」などといって、自分で何もかも背負い込んで呻吟しているリーダーがいます。リーダーとしては自分が苦労している姿を見せれば、部下が同情して少しは気がつくのではないかなどと思っているのですが、部下は少しも同情も感動もしません。リーダーは仕事が好きで、勝手にやりたいことをやっているだけだ、と思っています。
  リーダーが部下に対して持っている強制力とは何でしょうか。それは究極的には人事権です。これはむかしでいえば気に入らない臣下の位階を剥奪したり、牢に入れたり、死刑にしたりという力に相当します。この権限を持っていることがリーダーの権威を保証しています。

 けれど部下を強制するのに、いちいち人事権を振り回しているようでは話になりません。だいいちそれでは仕事がスムーズに進みません。リーダーの権威はあくまでも仕事に対する総合的な見識、判断の優越性、圧倒的なスキルや知識ということによらなければなりません。
  もっとも好ましいのは、部下との間にしっかりした人間的なコミュニケーションが成立していることです。また、部下がリーダーと同じだけの判断力を持っていることです。けれども視点のちがいや持っている情報のちがい、洞察力のちがいによってどうしてもリーダーと部下の考えに食いちがいが生じます。このようなときリーダーが自信をもって意思決定できるためには、「暴君であることもできねばいけない」となるのです。
  すなわち、確信を持って部下に命令し、強制し、その結果について評価し、結果が悪ければはっきりそれを指摘し、部下に二度と同じ過ちをさせないようにしなければなりません。

 
 

20.運命は彼の袖を引いて、彼が王位にあるのは何も楽しむためではないことを彼に思い出させる。というよりもむしろ、彼は彼自身の権能の奴隷なのである。(神々「シーザー」)
 たいていの部下がリーダーに対して抱いている最大の不満とは何でしょうか。それはほとんど例外なしに「意思決定が遅い」ということです。
  部下は上司の判断や許可を求めます。意欲的な部下がつらい思いをするのは、取引先で「その件に関しては会社に帰って上司に相談してご返事します」といわなければならないことです。彼が会社に帰ってみると、リーダーが不在だったり、報告や相談をしてもすぐに意思決定してくれないということがままあります。中には本当に優柔不断なリーダーもいます。
  リーダーは意思決定を遅らせているつもりは少しもないのに結果的にぐずぐずします。それは状況や事情を知るための時間が必要だからであり、判断材料が少なく、実際に迷うからであり、最終的に自分の意思決定に責任が取れるかどうか、自分でもかなり怪しいからです。

 リーダーが「意思決定を迫られる」という状態を指して、アランは「彼は彼自身の権能の奴隷なのである」といいました。リーダーの機能とは、責任をもって意思決定するということです。これは「自由に意思決定できる」ということと同時に、「意思決定しなければならない」ということを意味しています。
  私の見るところ、優秀なビジネスマンは、たいてい自分に与えられている以上の権限をすでに行使しているものです。またこのことが彼自身の働きがいとも、喜びともなっているわけです。
  このように意思決定の自由を行使することは人間としてもっとも楽しいことです。ところが、自分に得意なこととか、好きなことだけ意思決定できるというわけにはいきません。また意思決定した結果に責任を取らなければなりません。どんな場合にも、「自由」と「責任」はセットになっているのですが、リーダーの責任は、ときにはリーダーが持っている「自由」よりもはるかに大きいことがつねなのです。

 リーダーになったことがない人は、上の人間を見て「あんなふうに好き勝手やれたら、さぞかし楽しいだろう」と想像します。それにリーダーになろうとして頑張った人たちも、リーダーという立場の優越性を楽しみにしたかもしれません。
  ところが「意思決定」の自由は驚くほどきびしいものです。それはときとして自分の生活を含めて社員の運命を左右するほどのインパクトを持ちます。それなのにリーダーにはゆっくり考える時間すら与えられていないのです。そこでアランは「運命は彼の袖を引いて、彼が王位にあるのは何も楽しむためではないことを、彼に思い出させる」といったのです。

 
   
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