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リーダーのためのアラン哲学
 
第3章 シンボルの本質と応用

たとえば名刺の役職名の肩書、「肩書」とは一体何でしょうか。それは「しるし=シンボル」です。リーダーはそれなりの実力を持っているはずです。実力があればリーダーとしての肩書など不要かもしれません。けれど、肩書は人間の集団の中で重要な機能を果たします。名刺の肩書によって相手の対応が違い、結果も違います。だから誰もが肩書を求めるのです。人間社会はたくさんの「しるし=シンボル」に満ちています。そこでこれを上手に活用するのも、リーダーとしての実力のうちです。けれども「しるし」には、実体がありません。「しるし」を裏づけている実体が崩れ、形骸化すると秩序が崩れます。リーダーは「しるし」の本質を理解していなければなりません。「しるしを誤用せず、しかも頼り過ぎず」、これがリーダーに求められる大切なポイントです。

 

21.徴が服従を得なければ、組織が何の役に立とう。それで再組織というものは、実際いつでも徴を立て直すことに存するのである。(思想と年齢「人間の世界」)
  リーダーには権限があります。権限がなければリーダーとはいえません。その権限のうちもっとも強いのは、部下の罷免権です。これに準ずるものとして人事権、評価査定権があります。これは伝家の宝刀です。この宝刀は日頃は隠されています。しかしリーダーの持つ権限やパワーや影響力は、別の形をとって組織の中を流通します。
  たとえば秘書は、遠くに社長のクルマを見かけるとすぐに緊張します。クルマが秘書に対してキケンなわけではありません。クルマが意味するものが秘書に緊張を与えるのです。この場合、「社長のクルマ」は社長のシンボルです。昔の王様にとっては王冠や笏や長いガウンなどが王様の象徴でした。ところが、王冠や笏やガウンなどには物的機能があるわけではありません。

 代表取締役のハンコは、たしかに重要な機能を担っています。これがなければ小切手も手形も通用しませんし、契約も借入れもできません。ところがこのハンコが代表取締役の「しるし」として機能するかどうかは、手続きと約束にかかっているのであって、ハンコの形や文字のデザインに依存しているのではありません。
  リーダーの権威、機能の多くは、いちいち実体によって示されるものではなく、たいていの場合、「しるし=シンボル」によって示されるのです。「部長」「課長」というリーダー職名に権威がなければ、仕事は大変やりにくくなります。肩書がシンボリックに用いられ、これで用が足りるわけです。

 以上のことから、シンボル操作のヘタなリーダーは、たとえ実力があってもリーダーとしての権威を保ちにくいことが分かります。反対にシンボル操作が上手であれば、たとえ実力はなくてもリーダーとしての権威をある程度維持できます。いずれにしても「しるし」が何であるかを知らなくてはリーダーとしてはあまりに素朴です。
  リーダーにとっての「しるし」はまず肩書であり、デスクであり、ハンコであり、名刺です。これらのシンボルを大切にしないリーダーは自分自身でシンボルを否定することになります。しかし「大切にする」とは、デスクを磨いたりハンコのゴミを取ったりすることではありません。
  「しるし」を大切にするということはそれに期待されている機能を果たす、ということです。自分がハンコをを押して承認したルールを、自分から破るようでは「しるし」を大切にしているとはいえません。「しるし」は権威に裏づけられた約束です。だからリーダーは自分がいったことや決定したことを忘れてはならず、自分の作ったルールを無視してはなりません。

 
 

22.武器は実際に効果のあるものだ。しかし武器の使用は徴に依存する。(思想と年齢「人間の世界」)
  ここに核ミサイルの発射ボタンがあるとします。これが発射されれば、狙われた都市は壊滅します。発射命令はその国の最高指導者が出します。命令はどんな形で出されるでしょうか。おそらくサインした文書ということになるでしょう。この場合、文書は一つのシンボルです。
  重さのないシンボルが一つの都市という実体を吹き飛ばしてしまう仕組みは、一枚の辞令が家族ぐるみの海外転居をさせたり、一枚の契約書が土地の姿や山や川の姿を変えたりする仕組みと同じです。結果は大きいのに、原因となる命令の信号はいとも軽く小さいものです。だから、シンボルを支えている権威体系がひとたび崩れてしまうと、命令や指令という重さのないシンボルはまったく無力になります。非常事態になるとこの傾向が強くなります。

 暴君として悪名高いローマ皇帝ネロは、じつにきまぐれに、ささいな原因で人を殺しました。彼がちょっとアゴをしゃくるだけで無実の人が引き立てられて、たちまち首を切られました。ところがネロの悪政に対してついに反乱が起こりました。
  クーデターが起こると警護の兵士はいなくなり、ネロの身辺はごくわずかの側近だけになりました。ネロは残った側近に命令しますが、彼らもいうことを聞きません。追いつめられたネロは、今まで自分が命令していた側近たちに「いさぎよく自決しなさい」などといわれてしまいます。
  ネロはナイフで自殺しようとしますが怖くてどうしてもできません。彼は部下の一人に「おまえが手本を示して死んで見せてくれ」などという始末です。権力を支えていたシンボル体系が崩れていくとき、リーダーがどのような素顔を見せるものか、歴史が語っています。

 リーダーは、部下との関係ではつねに多勢に無勢という状態で仕事をしています。学校の先生もそうです。部下や生徒に大勢で打ちかかられたら、リーダーも先生もひとたまりもなくやられてしまいます。つまり何かがリーダーの立場を救い、保証しているのです。それがリーダーを支えるシンボルです。
  組織におけるシンボル体系は、ある約束の体系です。すなわち、部下がリーダーの命令権を認め、これに服従するという約束です。部下が服従しなければ、リーダーはリーダーであり続けることができません。
  たしかにリーダーには人事権という宝刀があります。しかし日常の権威は複数のシンボルによって守られているだけです。シンボルには物理的な重みがありません。それは限界的な状況の中では機能しない、ということをリーダーは承知しておかなければなりません。

 
 

23.騒ぎと情念の中に議論を投ずるよりは、うやまわれている徴によって群衆を説得する方が容易なのだから。(人間論「外的秩序と人間的秩序」)
  ジュリアス・シーザーがローマの主導権を取ったとき、ローマの暦は実際の季節から三カ月もずれていました。当時ローマでは誤差のひどい太陰暦が使われていました。そこで真冬に秋の収穫祭をやるというような、とてもおかしなことになっていました。
  シーザーは「何とか暦を改正しなくてはならない」と考えました。そこで彼はエジプトから天文学のコンサルタントを招聘しました。当時のアレキサンドリアは世界でもっとも知識、情報が集約された学問都市で、すぐれた学者が揃っていました。
  天文コンサルタントはローマにやってくると、シーザーに一年を365日をベースとし、4年おきに閏年を挿入する新しい暦法を進言しました。彼らはすでに「冬至」「夏至」を知っており1年が365日と4分の1であることまで知っていたのです。
  このときに採用された暦はシーザーの名を取って「ユリウス暦」と呼ばれています。こんにち私たちが使っているのは「グレゴリー暦」ですが、その基本形は今から2千年前に作られたユリウス暦です。ジュリアス・シーザーが私たちの生活に関係があるなんて不思議ですね。

 暦は種蒔きや航海などの実生活にとって大きな指針となります。正しい暦を持つということは、実生活の秩序と生産性向上にとって限りない重要性を持っています。暦を知って種蒔きや収穫を行なうことは計画生産、安定生産を意味しています。
  ところがシーザーも暦作りについて1つだけ大きなミスをしました。それは1月1日をいつにするかについてです。本当からいえば冬至を1月1日にするのが合理的です。しかしシーザーはその年の冬至の数日後にやって来る新月の日を待ちました。当時の人々にとっては、月は「神格化」された存在であり、大きなシンボリックな影響力を持っていたのです。このときシーザーは民衆を説得しやすい道を選びました。

 ところがご存じのように太陽の運行と月の動きは別々ですから、翌年の新年は新月にはなりません。さすがのシーザーも、最後まで合理性を貫くことができませんでした。この場合、過去通用してきた太陰暦の習慣をいっさい無視することが危険に思われたからです。
  あのときシーザーは過去の習慣に妥協しました。リーダーは合理的でなければなりませんが、合理性だけで何もかも通すことはできません。シンボルの操作は合理的なものではありません。これを考えるための実例が「暦」の中にあります。アランはこの逸話をふまえて、「うやまわれている徴によって群衆を説得する方が容易なのだから」といったのです。

 
 

24.こんにちでもなお、事物の真実よりもむしろ人々の意見を重んじる人たちのことを祭司と呼ぶ。そして人間の条件によって、めいめいだれのうちにも祭司の部分がある。(人間論「外 的秩序と人間的秩序」)
  会社の中でカレンダーを管理しているのは誰でしょうか。それは総務部長です。会社の年間行事、盆暮れの休み、社長の公式スケジュール、主要な会議日程、それらはトップの決裁をへて総務部に集約され、総合的に管理されます。だから、総務部長はむかしでいえば神官、ないしは祭司ということになります。
  総務部長の仕事は人間的な秩序の管理です。ここにあるのはハンコであり、届出書類であり、規則集です。ここには前例があり、冠婚葬祭があり、社長室との往復があります。これらはいずれもシンボル体系の操作と保全に関するものです。

 ここで私たちが考えなければならないことは、「外的秩序」と「人間的秩序」です。外的秩序とは物理学的な、あるいは科学的な法則で説明される世界のことです。研究開発における基礎研究や、コンピュータ担当者たちの仕事、それに工場生産の現場、物流の現場は科学の世界、あるいは技術の世界です。ここではシンボルは何の働きもしません。
  工場ではロボットにアイドルの名前をつけたりします。また熟練した技師が担当の機械に向かって「さあ、きょうも頑張ってくれよ」などと、まるで人間を扱うように激励したりする光景を見ることがあります。けれどもこれは人間側のエピソードにすぎません。機械にお辞儀をしたり、お世辞をいっても機械がうまく動くわけではありません。人間の思惑や約束などが入り込むことのできない世界、これが「外的秩序」の世界です。

 これに対して「人間的秩序」の世界では、人々はしるしに反応し、しるしによって動きます。
人間の肩を叩き、親しく「さあ、きょうも頑張ってくれよ」といえば、いわれたほうはその気にになります。人間的秩序を動かしているもの、それがしるしなのです。
  私たち人間は物理学的な存在です。だから外的秩序を知り、これに沿って仕事をし、外的秩序を利用して成果をおさめなければなりません。しかしその仕事にたずさわっているのは人間たちです。人間のほうは、物理学的な法則だけでは動きません。人間を動かすのはシンボルです。
  会社の総務部長は人間的秩序を代表し、工場長は外的秩序を代表しています。原則として工場長の主張が優先します。どちらが大切かといえば、それは外的秩序の方です。しかし人間的秩序のバランスを忘れることはできません。リーダーは「外的秩序」と「人間的秩序」の2つの要素の舵取りする人のことです。

 
 

25.ある人の肖像が当人に似ている。もし諸君が肖像をなぐれば、よく似ている以上、諸君はその人を傷つけたことになる。(精神と情熱に関する81章「空しい弁証法」)
  西洋人にとって握手は友好と親愛のシンボルです。互いに相手を尊重しあうという約束のしるしであり、小さな儀式ともいえます。ですから握手を拒むということは、「君とは友達になりたくない」ということ、あるいは「宣戦布告」のシンボルとなります。
  わが国では出会いの挨拶は頭を下げることです。こちらが頭を下げているときには相手を攻撃することができません。これは服従と尊敬のシンボルとしてこんにちにまで残ったのです。このように見てみると、私たちの日常の「おはよう」や、「こんにちは」「おやすみ」などの挨拶はみな、習慣化された友好のシンボルであることが分かります。

 動物もそれなりのやり方で互いにコミュニケートしていますが、人間はコミュニケーションの中に複雑なシンボルを持ち込んで、これをうまく機能させる方法を開発したのです。リーダーはこの人間集団の「長」ですから、シンボル操作の技術がとりわけ重要となるのですね。
  リーダーが部下との関係で用いることのできるシンボルとして、「言葉」「声」「目つき」があります。それに握手したり、相手の肩を叩いたりするしぐさも重要です。威嚇的なシンボルよりも友好的な、親愛のシンボルのほうが相手をモチベートできることが分かっていますが、むやみに友好的な信号を出しすぎるのは考えものです。それはリーダーは部下に依存しすぎ、部下がリーダーを操れることを示してしまうからです。
  会議やセレモニーの開催、会議で座る席や位置、スピーチ、優秀社員の表彰やインセンティブなども重要なシンボルです。とくに賞状やトロフィーや盾などはシンボル中のシンボルです。なぜなら、賞状やトロフィーには一切機能がないのですから。

 そして写真や肖像画も重要なシンボルです。ある国では、国家元首の写真が掲載されている新聞がくずかごに捨てられていたというので大問題になりました。シンボルも場違いだったり、乱発したり、提示のし方が悪かったりすれば、逆効果になります。だれでもお金をもらうのはうれしいものです。しかし侮辱的なお金の与え方があります。たとえば口汚くののしられ、お金を投げつけられたような場合はどうでしょうか。これらはいずれもシンボル誤用です。
  リーダーは自然で心のこもったいい握手、暖かい握手ができるように考えるべきです。同じように自分のしかめ面や、言葉の調子にも検討を加えてみる必要があります。意識的に行なわれた演技のようなしぐさは滑稽ですし、効果的でありません。リーダーはコントロールされないままに、悪いシンボル・メッセージを送りだしてはなりません。

 
 

26.着物を売る人は説得する。裁縫する人は説得しようとは思わない。(思想と年齢「プロレタリア」)
  アランによると人間は大きく2つのタイプに分かれます。1つは外的秩序に強い人。もう1つは人間的秩序に強い人。アランは第1のタイプの人を「プロレタリア」、第2のタイプの人を「ブルジョワ」と呼びました。
  この定義によると科学者、技術者、各種の職人はプロレタリアで、これらの人はモノを相手にする仕事に才能を発揮します。これに対してブルジョワは人間を相手にする仕事が向いています。たとえば学校の先生、僧侶、セールスマン、弁護士など。ブティックでお客さんの相手をするマダムはブルジョワで、裁縫師はプロレタリアです。

 プロレタリア型の人は、取り扱っているモノがうまく機能しさえすればいいのですから、人とうまくやることは二の次です。一見ぶっきらぼうで、とっつきの悪い人もいます。たとえ少々感じが悪いように見えても、優秀な人は優秀です。
  ところがセールスマンは、ぶっきらぼうでは仕事になりません。概してブルジョワ型の人は如才なく、人当りがよく、相手の顔色を見ながら話をするコツを心得ています。ブルジョワに関しては、相手の気持ちを察し、これに対応できるということが優秀ということと一致しています。要するに、ブルジョワ型の人はシンボル体系に敏感なのです。
  会社の中にも2種類の人材がいます。販売担当者、セールス・マネージャーはブルジョワ型人材の代表です。工場の現場で働く人、技術者、研究所の所員はプロレタリア型の代表です。では会計担当者はどちら側でしょうか。もちろんプロレタリア側の人です。なにしろ数字を説得することはできませんからね。例外はいくらでもあるでしょうが、会計担当は決して人好きがする、口達者な人ではありません。ところが彼は「数字」という、誰にもどうすることもない外的事実を代弁していますから、彼のいうことには説得力があります。

 ビジネスを第一線で進めるのはセールスマンですが、セールスマンに販売すべき商品を手渡しお金を勘定しているのはプロレタリアです。セールスマンがいなければ交換、流通ができなくなりますが、プロレタリアがいなければモノが作れず、私たちは生活実体を失います。
  ではビジネス・リーダーはどちらのタイプに属するのでしょうか。いうまでもなくブルジョワです。リーダーという仕事の本質は人を説得する仕事です。おそらくリーダーはトップセールスマンであるはずです。リーダーはその組織の内部にプロレタリアとブルジョワの両方の人材を擁し、彼らの特性を発揮させることによって社会的な付加価値を創造するのです。

 
 

27.およそ労働は、衣食住の獲得を目的としなくなるが早いか、交換や約束や信用に厳しく従えられてしまう。だから説得的な人が万事を運び、経済は政治に依存することとなる。(思想と年齢「人間の世界」)
  会社には発展段階があります。最初は事業を旗揚げする段階です。このときには会社の規模は小さく、組織も未分化です。仕事が順調に推移すると、次第に会社としての形が整ってきます。オフィスは都心部に移動し、工場の立地も設備もずっと整ってきます。
  創業期の会社にあっては、全員がプロレタリア的な特性を持っています。現場で機械をいじったり、図面を描いたりする連中はもちろんのこと、セールス担当者でさえ、自分で図面に何かを書き込んだり、荷物や部品を担いだり、物流の現場で指揮をするというように、モノに密着した仕事を行なっています。
  ところがこんな段階でも、セールス担当者がお客さんの前に出るときには、ネクタイを結び直したり、洋服のちりを払います。このとき、彼はブルジョワとしてのカオを取り戻すのです。いずれにしても創業期の会社は全体的にプロレタリアの色彩が濃厚です。
  私たちは衣食の面で追いつめられるとプロレタリア側に移動し、生活にゆとりができるにつれてブルジョワ側に移動します。

 ベンチャービジネスとして出発した会社も大きくなり安定してくると、立派な社長室ができます。役職者には大きな背もたれのついた椅子が支給されるようになります。あの背もたれがなければ仕事ができないというのではありません。要するにシンボル体系が充実してくるのです。
  ベンチャー企業が発展すると、「店頭公開」とか「上場」などという話が出てくるようになります。この傾向が強まると、どこからともなく偉そうな役職者が現われて突然組織図のうえに名を連ねたり、書類作りの専門家などが出現し始めます。
  こうして、その会社が創業期から保持してきたなにかしら家庭的な雰囲気が一掃されると、その会社はいよいよ「パブリックな会社」になります。社長と一社員の距離はこれまで以上に縁遠いものになり、総務部や管理部などがやたらとハバをきかせるようになります。現場を知らない「説得的な人(=ブルジョワ)が万事を運ぶ」ようになるのもこのときです。

 完全にブルジョワ型の会社というものはありません。もしあれば潰れてしまいます。なぜならその企業の固有技術を支える現場の人(=プロレタリア)がいなくなれば、事業を運営できなくなってしまうからです。大きく発展し、組織的な体裁を整えようとする会社のリーダーは、いつもブルジョワ的傾向の行き過ぎに注意してください。

 
 

28.花束でも受け取るように、小切手を受け取ることはできない。(経済随筆「第38章」)
  金銭はビジネスの目的です。金銭はこんにちの社会では財産の実体であり、信用秩序が正常に機能しているかぎり、もっとも確実な財産です。だから私たちは金銭を求めようとし、そのための組織や有能なリーダーが必要となるのです。
  ところで、誰でも「金は欲しい、しかし簡単に金は手に入るものではない」と思っています。しかしよく考えると、私たちは誰でも金を手に入れることができるのです。たとえば私は十億円の現金を手に入れることができます。もしも私がその現金に見合う担保を差し出せばです。要するにそれに見合う反対給付があればいいわけです。 
  私たちは子供のころ「おこづかい」をもらった記憶を持っています。これなど反対給付なしにお金をもらった体験のように思えます。しかし子供らしい愛らしさとか、親と知人との関係とか、日頃いい子にしていたとか、そのおこづかいに見合う反対給付が存在していたのです。幸福なことに、当時私たちはそれに気づきませんでした。

 普通のビジネスマンは金銭に対する反対給付として商品の交換とか、一定時間の労働などを想定します。もちろんビジネスとは「交換」のことなのですから、これが順当です。
  では次に人々が考えることは何でしょうか。それは「いかに少ない反対給付でたくさんの金を手に入れるか」ということです。合理化やコスト削減の努力もまた利益に対する反対給付です。問題は効率の差です。詐欺師や泥棒は、反対給付なしで金銭を手に入れようとしているかもしれません。しかし彼らの仕事は逮捕されるかもしれないという恐怖と危険を伴ないます。
  ところで、正当な取引結果として得られた現金は財産の実体ですが、手形や小切手は社会的に通用している一種のシンボル的領域にあります。手形が財産であることを保証しているのは「信用」という不可思議な、形のないものです。つまり、手形や小切手については、まだ債権債務関係が清算されておらず、決済という反対給付が支払われていないのです。

 債権、債務の「債」という字には、お金に関する「責任」という意味が込められています。責任という言葉の中に、金銭を示す「貝」の字が入っていることに注目してください。この文字は反対給付の清算が行なわれておらず、取引がまだ途上にあることを示しているのです。
  アランは「花束でも受け取るように、小切手を受け取ることはできない」といいました。これは「未決済の債権債務関係を、単なるシンボルと見間違えてはいけませんよ」という大切なメッセージです。わが国には「タダより高いものはない」という名言があります。ビジネス・リーダーはこのメッセージを決して忘れてはなりません。

 
 

29.ルイ一四世は側近のものたちに対して驚くべき威力、それも一見説明のつかないような威力を持っていた。‥それは彼が定めたあらゆる規則から生じたものだった。(幸福論「儀式」)
  新興宗教の教祖が仲間を使って仲間を殺させるという事件が起こりました。彼はしるしを使って部下の力関係を操ったわけです。命令に従って自分の仲間を殺した人間は、「もし殺さなければ自分がやられると思った」といっています。これが権力者の強制力の出どころです。ボス一人だけの物理的な力など知れています。それに最大の権力者が特別に勇気や知恵を持っているとも限らないのです。何が彼の命令力を保証する要因になっているのでしょうか。
  第1の要因は説得力です。それは言葉によって賛同をかちとる力です。
  第2の要因は側近です。権力者の周囲には側近がいます。この側近はたいていの場合、権力者と利害を共有しています。権力者の権力が高まるほど自分たちが利益を得られるようになっています。この構造が組織全体に及んでいるとき、その組織は原則として一体化し、強くなります。自分にもっとも身近な味方に対する説得力を欠いているようでは、リーダーとして権力を発揮することはできません。リーダーには側近の信任が必要なのです。

 社長が社員の前で演説をしているとき、重役や幹部社員はうなずきながら聞いています。これは社長のいうことを是認しているということです。重役や幹部がバカにしたようなそぶりをすれば、説得力は失われ、シンボル体系は崩れてしまいます。
  アランは権力維持のために第3の要素をあげています。それは「細かなルールを定める」ということです。アランはルイ14世が宮廷生活における細部にわたってルールを定め、これを厳格に守ることを要求し、これによって彼は驚くほど高い威厳、いうにいわれぬ権威を保つことに成功していたといっています。
  サン・シモンはルイ14世について、「一つの暦と時計とがあれば、三百里離れていても王のしていることが分かる」といいました。要するに彼は宮廷生活に関するしきたりを作り、自らもこれを守り、人々にもこれを守らせました。

 わが国でも将軍綱吉の「生類憐みの令」が有名です。彼は、このほとんどバカげたルールの施行と確立によって、ただの暗君では保ちえなかったような権威を保持しました。
  もしあなたが自分の権威をいま以上に高めようと思ったら、細かなルールをたくさん定め、これを厳格に運用すればいいわけです。あなたは自分の定めた規則を忘れてはなりませんし、自分がその規則を進んで実践しなければなりません。もっともこれによって組織がはつらつと、自由な雰囲気になるかどうか、それは保証のかぎりではありませんが。

 
 

30.アリはめいめい、アリのなすべきことを心得ている。だがわれわれの知るかぎり、だからといってアリが、昔死んだ傑出したアリといったようなものに対して、敬意を示すということはない。(人間論「記念」)
  シンボルの原形はお墓にあります。私たちの墓には遺骨を収納しますが、遺骨が入っていない記念碑としてのお墓も少なくありません。骨は長い年月の間に風化して土にかえりますから、墓の本質を遺骨の保存だけで説明することはできません。
  墓は先祖供養のシンボルであり、先祖崇拝のシンボルなのです。私たちは観光旅行で各地の遺跡を見て、昔の人々の事跡に感心します。このとき私たちはある意味ではお墓を見ているのであり、歴史に名高い墓に参り、先祖に対する尊敬の念をあらわしているのです。

 会社には創業者の胸像や写真が置かれていたり、ぶ厚い社史が編纂されていたりします。これは立派な先輩に対する敬意のシンボルであり、ある意味では「墓碑」です。父親を亡くし、若くして社長業を継いだ二代目社長は、とりあえず「先代」「父」の名を使って仕事をします。
  墓を作るのは人間だけです。アリやミツバチは、人間社会に似た共同体を作ることが知られています。しかし墓は作りません。古い巣が残ることはあります。しかしその巣がアリの礼拝の対象になったり、観光客となったアリが古い巣へやって来て、その回りを回って感心するなどということもありません。純粋なシンボルには機能がありません。そこで人間以外の動物たちはこれにまったく関心を示さないのです。

 アランは「ホメロス崇拝とは何とすばらしい崇拝だろう」といっています。私たちが祖先の英雄や偉人たちを追憶し、これに敬意をささげるとき、私たちは先輩から最良のものを学び、そのことによって私たちが進歩するのだ、といっているのです。アランは、私たちが文化や文明を受け継ぎ、これを発展させることができたのは、先輩を尊敬し、その衣鉢を継ごうとする「子たるものの敬虔」を持っていたからだ、といっています。
  ですから、会社の応接室に飾られている創業者の胸像や写真などにも意味がないとはいえません。勇気ある創業者や先輩を知り、尊敬することは、先輩に見習いたいという気持ちを少しは持っているということを意味します。だから無視されたり、バカにされている胸像など、ガラクタ以上に無意味な、形骸化した、場違いな存在です。
  リーダーは自分たちを励ますような、好ましいシンボルが何かをわきまえ、これを仕事や組織の中にうまく活用しなければなりません。またリーダーは何が形骸化したシンボルなのか、どうするとシンボルの形骸化が発生するのかを知らなければなりません。

 
   
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