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リーダーのためのアラン哲学
 
第4章 部下の育成

リーダーとは部下を持つ人のことです。そして部下の人材資質によってリーダーとしての業績は大きく左右されます。したがってよい部下を調達するだけでなく、部下をよりよく指導するのがリーダーの大きなつとめです。では、部下との関係はどうあればいいのでしょうか。どのように部下に接し、どのように育てればいいのでしょうか、これはリーダーにとって永遠の課題です。アランは教育者としての見地からリーダーの教育者としてのあり方を考えました。そして部下育成のポイントは、リーダーの人間理解のし方、期待のし方にあることを明らかにしました。まず相手に期待をすること、これがなくては部下の育成は始まらず、進みません。

 

31.自分が指導すべき人をとがめる人は、自分自身をとがめているのである。(人間論「信頼と信仰」)
  リーダーは部下を持ちます。部下が一人ということもありますし、何百人あるいは何千人ということもあります。いずれにしてもリーダーの価値は部下との関係によって決まり、部下の力によって決定されます。
  ここで世のリーダーたちに、「あなたは自分の部下の能力や仕事ぶりに満足していますか」というアンケートを行なったとしましょう。この場合、「大いに満足している」という回答は何パーセントぐらいになるでしょうか。
  おそらく「よくやってくれてはいるが、かならずしも満足とはいえない」という回答が多いのではないでしょうか。中には自分の部下の仕事ぶりに大いに不満で、ことあるごとにグチをこぼしているリーダーも見かけます。これはリーダーの期待水準と、部下の仕事の水準が合致していないということです。

 アランはリーダーが部下に対するあり方としてもっとも戒めなければならないのは、「人間ぎらいの態度」であるといいました。彼は「いかにとるに足らぬ使用人もなお何ものかの主人であり、誰かの主人である。たとえば、使い走りのボーイは問い合わせをすることができなければならぬわけだが、これは人を自分のために役立たせることである。そして彼は自分が統御されるようなし方で、人を統御することになる」といっています。
  どんな部下も、いいつけられた仕事をしていればいいわけではなく、どこかで誰かと接触し、誰かにものをいいつける立場に立ちます。そのときにあなたの部下が、ほとんど無意識のうちにあなたのやり方、考え方を真似してしまうということです。
  よく若い社員が発注先の年配者をつかまえて、横柄な口をきいているなどという見苦しい場面に出会うことがあります。これを恥じなければならないのは上司です。彼はリーダーのやり方を模倣し、代弁しているに過ぎません。

 アランはこういいました。「人間ぎらいの態度で統御することは、地位の上下をとわず、不成功の手段である」。「暗い考えをし、人々のことをこぼすような人はよく思うなということである」。これはリーダーにとって有益な、実践的なチエを示してくれています。
  そこでリーダーは部下と接するに際して、明るく、開放的で、人間を信頼し、肯定する態度をとっていなければなりません。期待水準なら、何とか調整は可能です。しかしながら「人間ぎらい」の態度や考え方は、ビジネスマンとしての基本姿勢とどうしても相入れません。

 
 

32.鞭の下におる人は、その人のかくあるべき姿のものではない。(知恵について「汝自らを知れ」)
  リーダーは部下に「のびのびやれ」といいます。ところが部下が本当に「のびのび」やっているかどうか、これは疑問です。「のびのび」ということは、「叱られることを恐れないで」という意味です。これはリーダーが「叱らない」ということを部下に約束しない限り実現しません。
  ではリーダーとしては、部下を叱らないということを約束できるものでしょうか。それにまた叱らないリーダーは果たしてリーダーといえるのでしょうか。
  リーダーが部下を叱るか叱らないか、これは部下のプロとしての成熟度とリーダーの気質にかかっています。部下があまりにも幼稚な間違いを次々とおかすようであれば、リーダーとしては「注意」しないわけにはいかないでしょうし、この「注意」というものが、「叱る」という行為とほとんど同じなのですね。

 たびたび注意を受ける部下は、叱られることに対する「身構え」をするようになります。つまりムチに対する「受け身」を、行動パターンとして獲得するようになります。この場合、注意や叱責に対する「受け身」の型にもいろいろあります。「聞き流し型」「いいわけ型」「反抗型」「自責型」「自虐型」など。しかしこれらはどれも「のびのび」とは縁の遠いものです。
  部下を叱るリーダーにしてみれば、「叱り」が効果を上げることを望んでいます。まず効果的に叱るためには、強いインパクトを与える必要があります。そこでどうしても「叱り」は威嚇的にならざるを得ません。
  「叱り」が有効であったということは、部下は恐れ入ったということです。そこでアランは、「神でさえも脅すなら臆病者をつくることしかできない」といいました。強い調子で叱り、相手を脅すこと、これは相手を臆病者にすることであり、囚人にすることなのです。

 いい奴隷、いい囚人とは、リーダーのいいつけに何でもハイハイといって盲従し、なるべくリーダーを怒らせまいとして気を配るような、そのような監獄の中の優等生を指しています。あなたはこのような、奴隷的、囚人的な部下を作ろうとしているのでしょうか。それでいて一方では「のびのびやれ」といった場合、部下の精神状態はどうなってしまうでしょうか。
  囚人的な部下をよしとしているようなリーダーは、どっちにしても大したものではありません。彼は部下の自主性の芽を摘み取り、主体的には活動できない指示待ち人間を作り出しているからです。彼は部下が持っているポテンシャルを完全に殺してしまっています。「叱り」を脅しにするか教育にするか、リーダーにとっての最大の課題です。

 
 

33.もっとも偉大な人間的事実とは、奴隷は思考するということである。寓話というものがこれを実証する。(神々「イソップ」)
  部下はどうしてもイヤなら会社を辞めることもできますし、覚悟をきめてリーダーに抵抗することもできます。リーダーに抵抗したからといって別に命まで取られるというようなことはありません。けれども、実際には抵抗することはまれです。
  ある限定された条件の中ではリーダーは部下に対して絶対的な権限を持っています。どうしても主従の関係が出現します。このようなとき、部下は何を考えているのでしょうか。
  アランはこれについて「もっとも偉大な人間的事実とは、奴隷は思考するということである」といいました。部下はリーダーに従い、いわれるがままになりながら、ひそかにリーダーを観察し続け、批判し続け、場合によっては軽蔑しているのです。

 イソップ物語で名高いイソップは古代ギリシャ時代の奴隷でした。彼は他の奴隷たちと一緒に市に売出され、仲間よりもずっと安い値段で哲学者の家に買われていきました。というのも、イソップはひどく醜い顔をしていたからです。しかしご存じのようにイソップは、一個の高い知性をそなえた「考える人間」だったのです。彼の「寓話」はこうした環境下で生み出されました。
  有名なイソップ物語に「カラスとキツネ」があります。これは餌をくわえたカラスからその餌をだまし取ろうとしたキツネが、カラスを「一番美しい鳥」とほめあげ、うれしくなったカラスに口を開けさせて餌をとり落とさせるというものです。

 イソップがこんな現場を見ていたのではないでしょうか。つまり、日頃ケチな自分の主人が望外の金を手に入れたところ、言葉たくみな取り巻きがやって来て、自分の主人をおだて、その金を使わざるを得ないようにしてしまったのです。
  人間は何しろお世辞には弱いですからね。だからどんなセールスマンもお客さんのご機嫌をうかがい、ほめられるものは何でもほめ、それから仕事に入るのです。いい気分になれば、カラスでなくても、つい財布のヒモをゆるめるということになってしまいます。
  重要なのは、イソップという冷静な観察者が主人のやることを見ていた、ということです。カラスである主人には、自分がやっていることの不合理は見えません。自分がカラスで、キツネにおだてられているということが分かりません。しかしイソップにははっきり見えます。
  部下はイソップです。あなたは部下を観察しているつもりでいますが、向こうもあなたを観察しています。部下が大勢になると一人一人に対するあなたの観察力は落ちます。そこでアランは「兵卒は将軍を見抜くが、将軍は兵卒が見抜けない」といったのです。

 
 

34.気みじかな主人は使用人のための実習の期間を長くするがいい。(人間論「信頼と信仰」)
  生涯を学校の先生として過ごしたアランは、教え子たちが卒業し、就職し、仕事を習得してゆく過程を見守っていました。そして彼らが行った職場にも注意を払いました。
  アランは会社の経営管理者をある種の「教育者である」と考えました。「使用者が、教育者の長いしんぼうを示しえぬことは理解できる。使用者にはその暇がない。だがしかし、ある意味では教育者なのだ」と彼はいっています。けれどもアランは会社の上司や経営者が「人間を作る」という口実で、実際には人間をダメにしていることもある、ともいいました。

 これから就職しようとする若者はポテンシャルのかたまりです。伸ばし方によってはどのようにでもなる、すばらしい人材の卵です。ところが40年たって、定年退職を迎えるとき、多くのサラリーマンが、ほとんど再生利用不可能なクズ人材として会社から排出されてきます。
  40年もビジネスをやってきた人なら、ビジネスのプロのはずです。だから、彼は一人になっても体さえ丈夫ならビジネスの技術で生きられるはずです。ところが彼は再就職したくてもできません。どうしてでしょうか。
  前の職場での知識や技術など、社会では何ほどのことでもなく、「商品」としてはほとんど通用しないからです。おまけに彼は妙な先入観やクセや考えを身につけてしまっています。ポテンシャルのかたまりだった人材を、会社が長い時間をかけてダメにし、へんな鋳型に入れてしまったのです。これはもはや犯罪ではないでしょうか。
  そしてこのような犯罪を実行したのはリーダーたちなのです。はっきりいってしまえば、リーダー自身も、定年後はよそでは使い物にならないクズ人材の一人なのです。

 アランはモールス信号を笛で練習して習得するケースをあげて、教えるほうが「はじめからやいやいいっていたのでは、覚えることもできなくなってしまう」といっています。ルソーの教育論は有名ですが、ルソー自身は「つきっきりで教えてもらった勉強は何も身につかなかった」と告白しています。ルソーは教えられたものは覚えず、自分で学ぼうとしたことだけを覚えたといっています。職場の教育についてもまったく同じことがいえるのではないでしょうか。
  ああだ、こうだと指図される教育、半ば強制的な集合教育、これらは間違った教育です。またビジネスの本質を教えない教育、これは教育ではありません。
  アランは「気みじかな主人は使用人のための実習の期間を長くするがいい」といいました。これは部下にテーマを与え、「自分から学ぶ」意欲を出させ、時間を与えなさいということです。リーダーはとかく気みじかな主人になりがちだからです。

 
 

35.怠け者と見られてしまえば、進み出て人のために働くことは、まだ不可能だ。なぜならば彼には空間が欠けているから。(思想と年齢「性格」)
  リーダーは部下の特質、特長をつかんで仕事を与えます。適材適所、これが好ましい人事であることは分かっています。しかし「彼にはこれができるだろうか」「おそらく無理だろう」「どうせあいつにできっこない」などと、リーダーの心の中では部下に対する期待と評価が行ったり来たりします。アランはこの点について、「人からバカだと思われたばかりにバカになってしまう、そうした人たちを私はたくさん知っている」といいました。
  このことは、リーダーが自分の部下について「どうせできないだろう」と思ってはいけないということを示しています。アランによると、人間には恐ろしいまでのサービス精神があります。誰かが「ダメな人間」という烙印を押すと、その人は「ダメな人間」という役柄を演じ続けてしまう、というのです。
  泥棒は「どうせオレは信じられていない」といいます。信じられていない以上、やることをやるまでです。彼は人に見られている通りに、役柄をこなす以外に道がないのです。こうして犯罪歴のある人が、なかなか更生しにくい理由が明らかになります。

 ところがアランは前科者を集金担当として採用し、一度もトラブルのなかった薬局経営者のことを報告しています。要するにこの経営者は、部下に何の疑いも抱かず、信頼して仕事を任せました。部下は一度も間違いを犯しませんでした。全面的に信頼されたこの部下は上司を裏切ることができなかったのです。
  部下に立派な、有能な仕事師としての役柄を与えるか、それとも無能者の役柄を与えるか、それはリーダーの考え次第です。あなたが疑ってかかれば、彼は裏切るよりほかに道がなくなってしまいます。この考え方をたどっていくと、優秀な部下を作るか、ダメな部下を作るか、これはリーダーが部下に期待するし方、役柄の与え方にかかっていることになります。
  「そうはいっても、結局ダメなヤツはダメだ」という意見があるでしょう。私もこの意見に賛成です。けれど、それでも最初からダメときめつけるよりは、いいことを期待したほうがトクだとアランはいっているのです。

 アランは、「人間を知るには大胆さがなくてはならない」と主張します。これは部下を否定的に見るのはイージーな見方で、期待を持って見るには大胆さが必要だということです。これは難しいかもしれないが、部下を信頼し、その可能性に期待するという点で、大まかで、太っ腹におなりなさいということです。

 
 

36.私は犬を訓練するにはどうすればよいかを知っているし、もっとも完全な訓練は犬をもっとも犬らしくすることを知っている。(教育論「2」)
  アランはここで犬の訓練の話をしています。しかしアランが、犬を訓練するように部下を訓練すればいい、といっているのではありません。私たちは人間を人間らしくする教育、人間のための訓練ということを考えなければなりません。
  アランの考えによると、人間のトレーニングに二つのやり方があります。一つは「学校式」のもの、もう一つは「徒弟式」のものです。学校での訓練は生徒に考えることを要求します。教室では紙やチョークやエンピツが消費されますが、これらのコストは問題にされません。

 これに対して徒弟式の訓練では、つねにコストが問題になります。なぜならコスト・パフォーマンスを問題にするのが職場だからです。新入社員が叱られるのは主として時間や資材をムダにしてしまったようなときです。
  伝統的な職人の訓練では、「なぜこうしなければならないか」ということは説明されません。弟子は、黙って親方のいう通りにやればいいのです。徒弟の教育は実践的なものであり、具体的な、経験的なノウハウの習得に力点が置かれます。これに対して学校の教育は原理や法則に力点が置かれ、学び方や考え方のトレーニングが主眼となります。
  職場におけるリーダーは部下に対する教育者です。もちろんリーダーは学校型の教育をするわけではありません。職場の教師として、リーダーは親方に相当します。OJTは、原則として徒弟型の教育の実例です。しかし、「なぜ」を問題にしない伝統職人風のやり方そのままというわけにはいきません。

 純粋に徒弟式の教育では時間がかかり、一般の職場では技術の進歩が早いからです。そこで職場のリーダーは原理を教え、「なぜか」を教えた上で、具体的な技術を教えることになります。「学校式」と「徒弟式」の両面のバランスが求められるのです。
  アランは、あまり早くから徒弟としてのトレーニングを受けすぎると、彼は一種の機械になってしまうといっています。世にいう「指示待ち族」は主体的に考えたり、行動できない、できそこないの徒弟たちのことです。このような人材を作った責任はリーダー側にあります。
  つまり、考えながら行動できる部下を作るためには、考えさせ、試させ、自ら発見させるという教育、人間を人間らしくするトレーニングが必要なのです。リーダーには、人間らしい人間を作る義務と責任があり、そのことが結局リーダーにとって頼りがいのある部下を作ることにつながっています。

 
 

37.本物の種子をまきたまえ。砂粒ではなしに。(教育論「5」)
  リーダーの力量は、その個人としての仕事量によって決定されるのではなく、リーダーが率いる集団の仕事の質と量によって決定されます。そこでリーダーとしては、当然部下が優秀であることを望みます。ここで「優秀な部下」というのは、主体的に高度の判断をし、計画に対して期待されている実績を保証するような人材ということです。
  リーダーに求められている機能とは、ある集団の業績、その業績の保証にほかなりません。だから自分を助け、それぞれの分野で業績保証をしてくれる部下がいれば、リーダーは全体としてレベルの高い仕事をすることができます。
  それはちょうどオーケストラにおける指揮者とプレーヤーの関係と同じです。プレーヤーの技術が未熟ではたとえ指揮が上手でも、指揮棒に従うことができません。リーダーにとって部下はプロでなければなりません。同時にリーダーは部下をプロとして育成しなければなりません。

 指示待ち族や、意欲のないアマチュアはいただけません。どうしても強力なプロ集団を作らねばなりません。人間は結局仕事をする動物である以上、生涯アマチュアであることは許されません。この場合プロを育てることが「人間らしい人間を作る」ことなのです。
  ところが、ここに一つの問題が生じます。それは、指示待ち族や主体性のない社員のほうがリーダーとしては御しやすい、ということです。腕の立つプロ演奏家の集団の上に立って指揮棒を振るからには、指揮者はそれなりの実力を持っていなければなりません。
  そこで自分に自信を持てない、力のないリーダーは、自分よりもいっそうダメな部下を集め、彼らの上に君臨することで満足することになります。そしてことあるごとに自分の部下がいかに無能であるか、いかに主体性がなく、指示待ち族であるかを嘆いていれば、自分の相対的な優秀性を誇示できますし、業績不振のいいわけもできます。

 ときには、このようなダメな部下をかばったり、いたわったりすることで、自分自身の男気に満足するリーダーも少なくありません。しかし残念ながら、ビジネス集団としてはこれは二流、三流の集団です。このような集団は、環境が良ければ何とか存続できますが、きびしい環境のもとでは生きのびられません。これは「本物の種子」をまかず、本物の苗を育てようとしないリーダーへの当然の罰です。
  アランは力強く「本物の種子をまきたまえ。砂粒ではなしに」といっています。これは、自分に勝るような人材、やがては自分を越えて行くような立派な人材を部下として調達し、育成しなさい、ということです。これが「人間らしい人間を作る」ことだとアランはいいます。

 
 

38.火薬もまた、なまやさしいものではない。そして恐れるにたらぬような味方がなんの役に立とうか。(人間論「権勢の肖像」)
  原則として部下の能力が向上することは好ましいことです。ところが部下のスキルや判断力が向上するにつれて、リーダーの部下への依存度が高まり、部下の発言権は次第に増してきます。部下の批判精神が旺盛になり、リーダーに対する恐れも薄れてきます。
  場合によっては、部下がリーダーにあからさまに反対したり、リーダーに対する敬意を示さなくなるということすらあります。またそれだけではなく、リーダーとしての地位が危なくなったり、部下がリーダーを追い越して上位のポジションを手に入れることも十分にあり得ます。
  一部の部下にやたらと気を遣い、まるではれものにでもさわるように部下のご機嫌を取っているようなリーダーも見かけられます。また一方では、このようなリーダーシップの逆転が生じることを恐れて、部下を教育する必要はないと考えている経営者も少なくありません。自分の部下の無能をののしりながらも、事態を改善しようとしないリーダー、つまり「本物の種子」をまこうとしない人は、おおむねこのケースに当たります。

 そこでリーダーとしては、すぐれた業績を上げることが自分の願いなのか、それとも無能な部下の上に君臨することが自分の願いなのかをはっきりさせなくてはなりません。生まれたときからリーダーという実力や切符を持っている人などありません。なぜならリーダーはあくまでも組織における「機能」にすぎないからです。
  実力のないリーダーがむりやり集団を指揮し続けると倒産や、赤字や、業績不振、事故などの障害が発生します。実力のないリーダーは交代する、これは組織運営のもっとも根源的な約束です。リーダーは、自分に機能が果たせなくなったときには、その立場を退くという覚悟をしなければなりません。リーダー就任はリーダー退任とセットになっているのです。

 あなたが、心底から「彼のパワーはすごい」「こいつを敵に回したらコワイ」というほどの力を持った部下がいて、その部下があなたを「リーダーは尊敬、信頼できる」「この人についていきたい」というふうに考えているとしたら、それが理想の組織でしょう。そのためにはリーダーは自分をまず教育しなければなりません。
  「恐れるにたらぬような」部下を前に親分風を吹かしていることが自分の人生の目的なのか、それとも事業目的の達成が目的か、自分に問い直してみるべきでしょう。かりに凡庸な部下の上で威張ることがあなたの目的なら、部下の無能を嘆くには及びません。

 
 

39.人は勝てば、やがて勇敢になる。(情念論「鼻」)
  紀元前333年、アレキサンダー大王は当時最強を誇っていたペルシャ帝国を破り、その後ギリシャ世界の版図を拡大しました。彼が征服した地方にはヘレニズム文化がひろまりました。アレキサンダー大王は若いリーダーでしたが、部下育成の名人でした。
  あるとき、彼はある都市を攻撃しようとして部下の占い師に卦を立てさせました。むかしは戦争をするときには、かならず勝敗の占いを立てました。「負ける」という卦が出たときには、彼らは戦闘を休みます。そのために占い師はあたかも参謀スタッフのような形でかならず戦争に同行していました。

 このとき占い師は、当日が月末の30日であったにもかかわらず「今月中に、この城町を攻略できる」という占いをみんなの前で王に披露しました。
  これを聞いていた同行の兵士たちがどっと笑いました。部隊は少人数だし、城町の規模は大きいし、今日中にここを攻略するなど、いくらなんでも不可能だと知っていたのです。兵士たちに嘲笑されて、この占い師はすっかり困惑してしまいました。
  占い師が困っているのを見てアレキサンダーは部下にこういいました。「いいか、よく聞け、今日は30日ではない。27日だ。私がそういうんだ、分かったな。予言通り、われわれは今月中にこの城町を落とす。攻撃にかかれ!」。
  すぐさま合図のラッパが鳴りわたり、部隊は勢いづき、はげしい攻撃にかかりました。結果的に、この都市はその日のうちに陥落してしまいました。予言は的中したわけです。

 アレキサンダーはこの件を通して、部下に2つの成功体験を与えました。一つは占い師に自信を持たせたことです。これはきわめて重要なことです。占いの信頼性が落ちると兵士の士気に影響が出ます。大王としては、占いが本当に当たるものかどうかは別として、占いの権威を維持しておく必要がありました。これはシンボルに実体としての権威を与える、という作業です。
  また兵士たちには「良い結果を信じて、協力して全力をあげればできる」ということを体験させました。これまた貴重な勝利体験でした。また王の指示に従って活動すれば失敗しないということも実証しました。
  アレキサンダーが戦利品を独り占めにせず、兵士たちに鷹揚にふるまったこと、敗戦国にも過酷な処置をとらなかったことは有名です。アレキサンダーは遠征に出発するとき、かならずしも最初から強力な軍隊を連れて出たのではありませんでした。彼は現場におけるOJTを通して、自分の部隊を強くしながら進んでいったのです。

 
 

40.アレキサンドルが砂漠を横切っていったとき、誰かが水のいっぱい入ったかぶとをくれた。彼は感謝したが、全軍の前でそれを地面に流してしまった。(定義集「魂」)
  これも偉大なリーダー、アレキサンダー大王の話。そのときアレキサンダーは砂漠の中をペルシャ王ダリウス三世を追って進軍していました。飲料水がなくなり、一行ははげしい喉のかわきに悩まされました。このとき一部の兵士が遠くの川から水を汲み、ラバにのせてきました。
  兵士はアレキサンダー大王をみとめ、さっそく水をかぶとに移して大王に献上しました。アレキサンダーは自分もかわきに苦しんでいたので喜びましたが、水を飲む前にその兵士にたずねました。「この水をどこへ持ってゆくのだ」。
  すると兵士は「自分の子供らにであります」と答えました。これで見ると、一部の兵士は家族を連れてきていたようですね。アレキサンダーが見たところ、水は少量で、残りの兵士たちの飲料にはまったく不足していることが分かりました。自分がもらったこのかぶとの分も、苦労して手に入れた兵士の子供の飲み水です。そこでアレキサンダーは「子供はどうするのだ」と聞きますと、兵士はこう答えました。「大王がご存命でおられるかぎり、たとえ子供を亡くしても私たちは別の子供を作れます」と答えました。

 さて、大王が水を飲もうと思って周囲を見ると、同じように喉のかわきに苦しんでいる大勢の将兵が首をのばして、自分たちの大王が水を飲む有様を見つめています。そこでアレキサンダーは水を飲まずに、その兵士にかぶとを返しました。
  この逸話はプルタルコスの「英雄伝」の中のエピソードです。アランの言葉も、このプルタルコスからのものと思われますが、アランによると「全軍の前でそれを地面に流してしまった」となっています。いずれにしてもアレキサンダーは、部下とともに労苦を分かち合うという考え方をはっきりさせたわけです。

 プルタルコスは次のように書いています。「騎兵たちは彼の自制心と度量を見て元気を出し、お伴させてくださいと大声で叫び、馬を駆りたてた」。アレキサンダーがダリウス王にみごとに勝つのはこの直後のことです。
  部下はたえずリーダーを値踏みしています。本当にこのリーダーは信頼に足る人物かどうか、自分はリーダーについていくべきかどうか。おそらくアレキサンダーが水を飲んだとしても、将兵は不服をいわなかったでしょう。彼は大王だからです。けれど、アレキサンダーがこれを自制したことで上下の一体感が生まれ、普通の兵士が勇猛な兵士に変化しました。部下育成のテキストは、リーダー自身の志と生きざまそのものなのです。

 
   
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