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リーダーのためのアラン哲学
 
第5章 通念への抵抗

 より業績を上げようとするとき、工夫や発明が必要となります。マンネリは仕事の大敵です。同じことを続けていれば、いつかは顧客に飽きられ、ライバルにも追い越されてしまいます。新しい商品、新しいサービス、新しい仕事の仕方を開発する必要があり、仮説を立て、検証することが必要であり、要するにイノベーションが必要なのです。そのためには先入観を払拭し、伝聞に惑わされず、事実をありのままに見る必要があります。競争下にある組織にとっては、「先入観」「通念」「過去へのこだわり」が、きわめて高くつきます、アランは、人が同じことを機械的に繰り返すとき、人は眠っているといいました。前進しようとするリーダーにははっきり目を覚まし、常識を疑い、通念に抵抗する精神が必要なのです。

 

41.予告されていない提案は必ず斥けられる。(思想と年齢「声」)
 どんな動物もいちばん嫌うのはびっくりすることです。それはたいてい身の危険と結びついているからです。鳥や獣たちは耳をそばだて、ちょっとした物音や物陰にも逃げ出します。アランは「いきなり馬の尻にさわってはいけない」といいました。馬に接するときには、声をかけながら近づかなければなりません。さもないと驚いた馬に蹴飛ばされる危険があります。
  私たち人間も動物です。だから暗闇でいきなり声をかけられたりするのは苦手です。私たちは驚かされるとたいてい頭にきて、つい攻撃的になってしまいます。町のチンピラたちが暴れるきっかけも、たいていは彼らが「驚かされた」「不安を感じた」ときです。

 このような「びっくり―反撃」「びっくり―否定」の構造は、会議の場にも見られます。会議の席上でプレゼンテーションをする人は、プレゼンテーションの効果を高めるために、提案内容を秘密にしておき、その場でみんなをびっくりさせてやろうと思うかもしれません。ところが、このような受けを狙った企画は、内容のよし悪しにかかわらずたいていボツになります。
  私たちは「根回し」という言葉を使います。もし会議で大多数の出席者の承認を得たいと思ったら、その件について事前に根回しをしておくことが必要です。提案の趣旨についての根回しと賛同を得た上でのプレゼンテーションの上手な演出、これが提案成功のカギなのです。
  このことは私たちがいかに「びっくり」を恐れているか、「意外性」に対して強い拒否反応を示すかということを示しています。そして「意外性」を恐れる心は、現状に対する満足、繰り返しに対する安住の精神と深く結びついています。それは同時に改革に対する恐れであり、進歩に対する恐怖でもあります。

 予告されていない、意外な、しかも革新的な意見を突然聞かされたとき、人々は「それはいいね」とは決していいません。いえないのです。提案が革新的であればあるほど、あるいはそれが効果的であればあるほど身構えます。また、改革の方向が自分の不得意なことや知らないことである場合、答えは「ノー」以外ではなくなります。保守性は基本的に動物的なものであり、動物としての私たちの深いところにあって容易に抜き難いものなのです。だから、改革に対する柔軟性は反動物性のしるしといってもいいでしょう。
  人間社会は数多くの進歩と改革を遂げながらこんにちにいたりました。そして一つの集団も本当に発展的に生き残ろうとする限り、進歩と改革を実践してゆかねばなりません。そのためには、私たちは自分自身の中に眠っている動物的保守性と戦わなければなりません。少なくともリーダーは、改革的な提案に対しておびえる馬のような反応を示してはなりません。

 
 

42.数字の列を信じてかかる会計係はいない・・すべての仕事は不信のしるしのもとで行なわれるのである。(人間論「知ることと信じること」)
  コンピュータ発達による最大のメリットの一つは、計算の手間が大幅に縮小された、ということでしょう。もっともコンピュータで打ち出された数表でも、正しいとは限りません。入力をミスしていれば、どんなコンピュータを使おうと間違った数字が出力されます。
  けれども演算のプロセスは信頼できるようになりました。少なくとも「検算」という手間はかなり不要になりました。アランは「数字の列を信じてかかる会計係はいない」といいましたが、検算に関しては、会計係はいくぶん不信の念から開放されたといっていいでしょう。
  では、有能なビジネスマンは果たしてアウトプットされた計数を、そのまま信頼するでしょうか。有能な会計係、あるいは監査担当者は、おそらく計数の実体に吟味を加えるでしょう。たとえば「資産の内容は実体に一致しているか」とか、「この売掛金は本当に回収できるか」、あるいは「簿価と実勢価格の違いはどうか」と考えるでしょう。

 彼が必要と思えば「調査」を行なうでしょう。たとえば「売掛残高照合」の通知を出したり、関係先に電話で問い合わせたり、あるいは実際に倉庫にいって現物を確認したりするでしょう。「調査する」ことは、「疑う」ということです。
  デカルトは、「はっきり真であることがわかるまで、いかなることをも真であるとして受け取らない」という方針をわがものとしていました。だからすぐれた仕事師はみなデカルトの弟子である、といっていいのです。
  ところで、あなたが作った書類を誰かが目の前で検算したり、綴りの間違いについて辞書を引いて調べたり、内容について問い合わせをするとします。すると、あなたは「私を信用できないのか」といって不快を感じるでしょう。同じようにあなたが部下の書類をチェックするとき、部下は「リーダーは私を信用していない」と思うかもしれません

  しかしデカルト的な「懐疑」、客観的な調査の態度は、「モノ」に対する不信であって、「人間」に対する不信ではありません。この点を区別することが大切です。調査とは現にあるモノについて、その確実性、妥当性を確かめることです。
  およそ調査をともなわない仕事はありません。そこで調査に際して、何を調査するのか、何を疑い、何を確かめようとするのか、これをはっきりさせることが大切です。リーダーが優秀な仕事師であるためにも、また優秀な仕事師を育成する上でも、「調査とはモノを疑うことだ」という客観性のコンセプトをしっかり維持することが大切です。

 
 

43.懐疑は精神の塩である。また懐疑の切っ先がなければ、あらゆる知識は腐らされる。(知恵について「赤い驢馬」)
  職場の中には不合理な習慣がたくさんあります。過去には合理的な理由があったしくみや習慣が、現在でも形骸化して残っているからです。その代表的な例として年功序列式の賃金制度があります。かつては伝統的な職人芸に見られるように、経験の積み重ねがすぐれた商品作りや、すぐれた仕事の品質の裏づけになっていました。むかしは、経験があることが人材の価値を意味していました。年功序列は、この点では合理的なやり方だったのです。
  ところが、こんにちでは活動条件が変化しています。職場のOA環境の例を見れば分かるように、今では変化に対するすばやい対応能力、新しい状況への対応能力が人材価値を決定づけます。
  こうなると積み重ねた経験があまり有効にならないばかりか、経験は過去のやり方へのこだわりを意味し、仕事の上の障害となることもしばしばです。しかし多くの会社が、依然として経験や年齢を主体にした賃金制度を採用しています。新しい仕事のし方と、新しい賃金のあり方が合致しないのです。

 従来の通念や常識に逆らって「これでいいのだろうか」「どうも変だな」と考えるためには、問題意識が必要であり、勇気が要ります。この「疑う勇気」こそ、精神の精神たるゆえんです。眠っている精神はいざ知らず、目覚めている精神は、つねに「現状は本当にこれでいいのか」と考えなければなりません。
  たとえば、わが国では多くの会社が退職金を支払っています。退職金の支給基準は多くの場合、退職時の基本給です。果たしてこれでいいのでしょうか。まず退職金とはそもそも何でしょうか。給与が支給時に清算されずに退職時まで残されることは果たしてフェアなのでしょうか。また退職時の基本給を基準に支払うことは果たしてフェアでしょうか。
  このように、大部分の会社が無反省に踏襲しているナンセンスは、数えあげればきりがありません。ビジネス・リーダーは誰よりも工夫する人でなければなりません。工夫するためには現状に疑問を持たねばなりません。
  デカルトは自分に対して「明証的に真であると認めることなしには、いかなることをも真であるとして受け取らぬこと、すなわち、よく注意して即断と偏見を避けること」といういましめの原則を作り、これを守りました。
  人が受け入れているからといって安易にそれを受け入れず、先入観を排していったん自分の頭で判断してみる、リーダーにはこのデカルト的態度が必要なのです。

 
 

44.考えるということは、否ということだ。(宗教論「外見の前の人間」)
 電車の中で居眠りをしている人がいます。眠っているうちに頭が前の方に下がって思わず「こっくり」となります。これは「はい」の動作によく似ています。
  どの国でも「はい」という承認の動作は頭を前に下げて、うなずくしぐさです。どの国でも「ノー」を意味する動作は首を左右にふるものです。言葉も習慣の身振りも異なる国々で、この点だけは共通なのです。どうしてでしょうか。
  アランはこの動作の原形を赤ちゃんがおっぱいを飲むときの動作に見出しました。積極的におっぱいを飲んでいるとき、赤ちゃんは「うん、うん」といってうなずいているように見えます。赤ちゃんは生命を育む天の恵みを無条件で受け入れ、承認しているのです。

 これに対して赤ちゃんがおっぱいに飽きると、首を左右に振ります。すると乳首が口から離れます。これが「いいえ」のしるしです。赤ちゃんでなくても、いやなもの、苦いものが口に入ってしまったときには首を左右に振ります。これが拒否のしるしです。
  ところが私たちが物事を受け入れ、承認するとき、私たちが本当にそのものをしっかり確認し、疑問の余地がない状態で「はい」といっているかどうかが問題です。そこでアランは、電車の中で半分眠っている人が「はい」のそぶりを示すことに注目しました。
  たとえば私たちが眠くてしようがないとき、何かを聞かれたらどう返事するでしょうか。「何でも構わないから、適当にやっておいてくれ」というでしょう。これは物事を未検討のまま承認したことになります。もしも、そのときに「ちょっと待ってくれ、その件は・・」といって検討を始めるなら、私たちは目を覚ましているはずです。
  また、多忙で頭が回らないとき、立て続けに「これやってもいいですか」「よろしいでしょうか」などと聞かれると「好きなようにやってくれ」「適当に頼む」などといってしまいます。これは眠りながら「こっくり」やったのと同じです。

 私たちは知性的な判断の限界に来ると、否定するのではなく、自動的に承認を与える危険があるのです。「めくら判」などという言葉がありますね。あれなど「眠り判」といったほうがいいかもしれません。私たちにとって目を覚ましているということは、検討し、確認しているということです。つまり疑っている、ということです。
  正しく考えようとすることは、見かけにだまされないように注意し、根拠にもとづいて「ノー」ということです。ビジネス・リーダーも正しく考えようとするなら、電車の中で眠っている人のように、習慣や先入観の上に眠っていてはなりません。

 
 

45.不信心は厳格な信仰に属する。「汝の寝床をとりて歩め」。(宗教論「外見の前の人間」)
  新約聖書のヨハネ伝に次のような話があります。エルサレムの町はずれに不思議な池がありました。その池の水はときどき風もないのに動き出すのです。その水が動いたときに池の水につかると、どんな病気でもたちどころに治ってしまうと信じられています。
  ですから池の周りには各地から大勢の病人や体の不自由な人々が集まって、キャンプを作っていました。池の水はいつ動くか分かりませんので、何日も待っていなければなりません。
  近くをキリストが通りかかると、1人の病人が池の側で寝ていました。この人は池の側で38年間暮らしている病人でした。キリストは聞きました。「治りたいのか」。病人は答えました。「そりゃ治りたいですよ。だからここにこうしているんです。けれど私は自分で歩けません。池の水が動くと、みんなわれがちに池に入ってしまって、私はいつも置いてけぼりです。誰も私を水に入れてくれようとしないんです」。

 キリストはいいました。「おまえの寝床を片づけて、自分で歩きなさい」。するとこの病人はむっくり起き上がり、寝床を片づけて自分の足で歩いて立ち去ったと、聖書は伝えています。
  キリストは方々で病人を治しましたが、この物語もキリストの治癒パワーを示す奇跡の一つとして知られています。しかし私は、キリストはこの病人の「思い込み」を矯正したのだと思います。またキリストはこの病人の中に巣食っていた他者依存の生活態度をも矯正したのです。

 この病人が本当に38年もそこに寝ていたのか、それは分かりません。けれども長期間ここに寝ていられたということは、この人は相当丈夫な人だったに違いありません。それにまた「奇跡の池」というのが曲者です。大勢の人波を押しのけて、われがちにタイミングよく池の中に入れるような人が、果たして病人でしょうか。池の水で治ったと考えた多くの人々は、最初から健康だったのではないでしょうか。
  私たちは、「自分にはあれができない」とか「自分には向いていない」「きっと病気だ」などという思い込みをしています。自分たちの会社や仕事についても「こんなもんだ」とか「どうせやっても無駄だ」という思い込みをしています。おまけに、それができないのは、誰それが協力してくれないからだ、などと思っています。
  アランがいう「不信心は厳格な信仰に属する」とは、与えられた状況について徹底的に疑ってみることは、精神を持つ人間の義務である、ということです。問題は別のところにあるのかもしれません。先入観や偏見が私たちの可能性を限定し、可能なことを不可能にしているのです。まず私たち自身が、「寝床をとりて歩む」必要があるのです。

 
 

46.およそ話というものは、みなおとぎ話なのである。(人間論「信じること」)
  会社では毎日のように会議を行ないます。会議では意見を述べたり、その意見の背景や根拠となっている事実を説明したり、確認することが重要になります。そうしないと出席者の納得が得られない、これが原則だからです。
  アランは「およそ話というものは、みなおとぎ話なのである」といいました。つまり、客観的な裏づけを持っていない意見には価値がない、ということです。けれども現実の会議の席上で、客観的なデータや、証拠や根拠がかならずしもメンバーを納得させるとは限りません。会議ではまた別の力学が働きます。

 私はあるとき、ある会社の知名度に関する市場調査の結果を、その会社の役員会の席で報告したことがあります。私が調査データを説明していくと、上席のあるメンバーから突然意見がありました。「当社の知名度はそんなに低いはずがない」というのです。
  彼は反論の根拠として「うちの娘など、学校では誰もが当社のことをよく知っている、といっている」といいました。すると、この意見に同調する意見も出てきました。「うちの女子社員もこういっていた」とか、「家の近所でも」などというように、めいめいが自分の経験にもとづいた実感と調査結果との違いを指摘しました。もちろん実感や直感は大切なものです。けれどもここでお断りしておきますが、この役員会では調査方法や、サンプリングの方法、データの解析方法が不備だ、という意見が出されたわけではないのです。

 この会議場での力学は次のようなものでした。第1に、調査の方法やデータの客観性よりも、主観や個人的な実感の方が重要視されたということです。第2に、有力者の意見に同調者が出現し、会議の大勢が決定づけられたということです。
  先日も、ある会議の席上で若い社員が傾聴に値する正論を述べました。すると上席者がかさにかかるようにいいました。「おい、そんないい方はないだろう」。この一声で正論は退けられ、もう2度と議論の対象にはなりませんでした。
  このように会議の場では権力の秩序が「話」の流れを作ります。そこで話される内容にはかならずしも客観的な裏づけはありません。「話はすべておとぎ話である」というのは、単に根拠のない話は信用できない、という意味だけではなく、会議の場はうっかりすると「おとぎ話の場」になるということをいっているのです。
  「私はこれがいいと思う。なぜなら私がいいと思うからだ」。リーダーは自分では意識せずにこのようないい方をしている可能性があります。

 
 

47.どこの国でも、会議は、もっとも単純な普遍的な実験にも反対の決議をする結果となる。猟人、水夫、鍛冶屋の技は、つねに孤独の中で、言語も神話も用いずに、そして完全に発見されたのだ。(文学論「言語がまず第一に事物を述べることを目的とするとすれば」)
  会議とは何でしょうか。それは責任のがれをする場ではないでしょうか。なぜなら会議で決まったことだといえば、誰の責任にもならないからです。私の考えでは、会議を開きたがるリーダーは弱いリーダーです。自分としての考えを持っていないか、自分の結論を会社のものとして実行させる力がないのです。リーダーは自分が最高責任者でありながら、その責任を取りたくないのです。
  では、会議の席上で列席者はどのように反応するものでしょうか。少しはましな会議でも発言者は決まっています。発言シェアを調べてみれば、出席者の少数が大部分の時間を占有してしゃべっていることが分かるでしょう。たいていの場合、発言シェアの大部分を取ってしまうのは、リーダー自身です。これはどの会社でも「独演会」と呼ばれています。

 この独演会型のリーダーが「部下が発言しない」といって文句をいうのですから驚きです。それほど僭主専制的にやりたいなら、リーダーは最初から会議を開かずに命令すればいいのですが、そうしません。リーダーが責任を背負い込みたくないからです。いいたいことだけいって、責任を誰かに押しつけることができればこれにこしたことはありません。だから、リーダーはそれをやっているだけです。
  一方、「会議で決まるのはベージュ色」といわれています。かりに会議が本当の意味での合議であったとしても、そこで得られる結論は折衷的、中間的になりがちです。革新的で大胆な結論は会議の所産にはなりにくいのです。

 すぐれた発明や発見は、個人の成果に所属しています。一〇〇人が同時に同じすばらしいアイデアを思いつく、などということはありません。発明は個人的なものであり、異色のものであるからこそ発明として価値があります。いいアイデアは大多数の人々に理解されず、それゆえ反対される運命を担っているともいっていいでしょう。
  そこでリーダーの役割は、この少数派であるすぐれたアイデアの価値を見抜くことであり、これを擁護することであり、これを育てることです。もちろんどうしても会議が必要なことは認めることにしましょう。しかしここで必要なのは価値あるアイデアを平均化したり、骨抜きにしないということではないでしょうか。価値ある会議を開催することは、価値あるアイデアを生み出すこと、あるいはそれ以上に困難なことです。

 
 

48.人はインスピレーションは非意志的だ。それは待たねばならないというかもしれない。しかしそこにこそ、ある投げやりな意見があるのだ。(知恵について「無意識な犯罪」)
  私たちの仕事や課題は、すぐれたアイデアによって解決し、前進し、進歩します。だから私たちはいつも新製品の開発や問題解決に結びつく、いいアイデアを探しています。しかしそうはいっても、すぐに都合よくアイデアが湧いてくるものではありません。
  アルキメデスは王冠を破壊することなく、金と銀の比率を測定するという課題を解決しなければなりませんでした。彼はこの課題を考え続け、ついに入浴中に解決法を思いつきました。彼はアイデアに夢中になり、裸でいることを忘れて町を走ったといわれています。
  このようにすばらしいアイデアは、何かの偶然で発見されるもので、いくら思いつこうとして本人が努力しても、かならずしも成果が得られるとはかぎりません。そこですばらしいアイデアは「天啓」とか「ひらめき」といわれるわけです。

 このことから、「アイデアは出そうと思っても出るものではない」とか、「時間をかけ、待っていなければいい着想には恵まれない」という意見が生じます。しかし、アランは「いいアイデアを思いつくまでは待っていなければならない」という考え方に反対し、「それは怠け者の、投げやりな意見だ」としました。
  アランはいいアイデアがほしいなら、その課題を熱心に考え続けなければならないと主張しました。不思議なことに、ある課題を明確にし、それについて解決方法を考え続けると、関連する情報がやたらと目につくものです。いままで気づかなかったような新聞の記事、テレビの番組、ニュースなどが目につくようになります。向こうから情報がわざわざ飛び込んでくるように思えるほどヒントが集まってきます。改めてクリッピングしてみると、あっという間に分厚いファイルができてしまいます。

 「アルキメデスは風呂の中で自分の体が軽くなることに仰天した」と、アランは書いています。彼がその問題をずっと考え続けていたからこそ、ずっと前から知っていた現象と課題との関連に気づいたのです。私の考えでは、アルキメデスは風呂に入らなかったとしても、別のところで別の方法で課題を解決する方法を発見したに違いありません。
  課題を自分のテーマとして考え続ける人は、待っている人ではなく、追っている人です。だからその人はかならず解決を見つけるのです。リーダーは待っている人ではなく、追っている人でなければなりません。そして課題のとらえ方、そして課題に対する執着、そしてアイデアの産出力という点でもリーダーは第一人者、つまり「リーダー」でなければなりません。

 
 

49.あらゆる発明は一つの新鮮な精神を必要とする。そして発明は一撃で成就するかまったく成就しないか、どっちかだ。(文学論「反省という仕事は観念を痩せ細らす」)
  むかしの人は「賢い」とか、「頭がいい」という意味で、「発明」という言葉を使いました。「お宅の息子さんは頭がいい」というとき、「息子さんはご発明ですね」といいました。
  そもそも「頭がいい」というのは、あまりいい表現ではありません。いま問題になっているのは頭の形ではなく頭の中身だからです。しかし頭脳の働きにもいろいろあります。記憶力がいい人もいれば、創造性の豊かな人もいます。また論理的に考えることが得意な人もいれば、直感にすぐれている人もいます。
  「ご発明」という言葉には、アクティビティの高い、はつらつとした知性、というニュアンスが感じられます。私たちの社会において価値があるのは、かならずしも記憶力ではなく、新しい付加価値を生み出す創造的な能力なのだ、といっているように思えます。
  先日ある会議の席上で、若い社員によるすばらしい発明、工夫の報告を聞きました。彼は原価率をいきなり一〇%もダウンさせる方法を思いつき、現場でこれを実行し、成果を上げたのです。会議の席上で、私は彼の発明は大いに賞賛されるに違いないと思いました。おそらく彼自身も得意に思い、認められ、ほめられることを期待していたのではないかと思います。

 ところがリーダーからは次のようなコメントがありました。一つは、「どうしてもっと早く提案しなかったのか」という叱責、次に「この原価率のダウンによって今期どのくらいの増益を期待できるかを計算すること、また計算結果をもとにしてすぐに事業計画を作り直して提出すること」という指示でした。
  せっかくの発明の結果が叱責と、計画値の積み増しという方向に進んだのです。この場合、せっかくの工夫、発明は当然のこととして受け取られ、既定の事実として処理されてしまったわけです。このような処遇を経験した社員が、再びいいアイデアを提案してくれるかどうか、私は心配です。またこれを見ていた他の社員が発明に意欲的になるかどうかも心配です。

 新しい付加価値の創造は発明、発見、工夫の中にしかありません。新鮮な目、規制にこだわらない自由な精神が必要です。創意工夫を賞揚し、これを高く評価し、ほめる風土を準備しなければなりません。リーダーは「乗せ方」がうまくなければならないのです。
  いいアイデアは一瞬の知性のきらめきです。だから、アイデアは導き出すよりもつぶす方が簡単です。あなたはアイデアをつぶすリーダーになってはなりません。あなた自身も新鮮な視点からアイデアをどんどん産出できるリーダーでなければなりません。

 
 

50.だから決して仕事せずに思考してはいけない。(知恵について「働く方法」)
  「リーダーは人使いがうまくなければいけない」とか、「自分でやるのではなく、人にやらせなければだめだ」といわれます。「あの人は、何もかも自分でやっているから、リーダーとしては失格だ」などともいわれます。
  先日もある人から、「友人の会社の社長になってくれと頼まれている」という話を聞きました。「仕事のことは分からなくていいから、社員を管理してくれればいいんだ」といわれている、という話でした。つまり、ここではリーダーは仕事を直接知らなくてもいい、自分では何もする必要がないのだという考えが適用されているわけです。本当にそうでしょうか。

 もしこの人が、仕事の中身を習得する考えを持たずに引き受けるとしたら、たとえ彼の名刺の肩書は「社長」であったとしても、少なくとも「リーダー」ではありません。彼の仕事は社員の勤怠管理と金銭管理に限定されているわけですから、彼の仕事は実質的にはスタッフにすぎず、好意的に見ても総務部長といったところです。
  この場合、金銭の管理といっても、仕事の内容を知った上で投資の意思決定をするわけではありませんから、重要なことは自分では何一つ決められません。結局彼に仕事を依頼したオーナーにお伺いを立てるか、あるいは部下のいいなりになるしかありません。それでも自分の限定された役割を承知しているなら結構ですが、「私は社長だ」と思っているなら滑稽です。

 仕事が分からないトップは、会社の仕事や商品を改革し、仕事を進歩させてゆくことができません。進歩に関与していないようなリーダーがいるとすれば、それはリーダーではありません。リーダーは集団の進歩を「リードする人」なのです。
  要するにトップは会社の仕事の本質を熟知していなければなりません。このことは、かならずしもトップが現場で機械をいじっていなければならないとか、セールスに飛び回っていなければならないということではありません。アランは「人間の発明に関する最高の法則は、人は仕事をすることによってしか発明し得ないということである。まず職人でなければならない」といいました。これはビジネスマンは、どのような立場にいようとも商品や現場と疎遠になってはいけないという意味です。
  トップによる発明とは、トップ自身が納得して行なう投資行動を意味します。これは未来のために、積極的にお金を使うということです。もちろん失敗すれば大きな損失です。だからこそトップ自身が責任を持って意思決定する必要があるのです。これができないトップは、発明できないトップであり、進歩を阻害するトップです。

 
   
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