トップエッセイ音楽作品アラン経営関連リンク
 
リーダーのためのアラン哲学
 
第7章 暴君の構造

リーダーは組織の中で強い権限を持っています。中には会社で絶対的な、権限を持っているトップもいます。リーダーのカリスマ性はときには好ましい結果に結びつきます。けれど、リーダーとしての立場や権限はリーダーを暴君にする可能性が高くなります。自分では相当に自制しているつもりでも、部下に必要以上に恐怖を感じさせたり、自分勝手な、わがままな言動をとっていることがないとはいえません。アランは、リーダーという職掌そのものの中に、暴君になる構造が含まれていると指摘しました。アランはまるでリーダーが暴君となることは避けられない、と考えていたかのようです。少なくともリーダーが思い上がった、愚かな暴君とならないために、アランの忠告が役に立ちます。

 

61.皆誰でも王であるかぎり愚者となろう。自分の代わりに人に仕事をさせれば、その度合い に応じて人は愚者となる。(裁かれた戦争「権力」)
  リーダーは自分で何もかもするのではなく、部下に命じて仕事をさせる人です。リーダーとは、そのための権限を持っている人のことです。部下に命じて仕事をさせる、あるいは部下にある行動を禁じる、このようなとき、リーダーはある種の「力」を用いるわけですが、この力の使い方がまずいと、リーダーは「暴君」となる可能性があります。
  アランがここでいっている言葉の趣旨は、「リーダーは他人に仕事をさせるとバカになる」という意味です。またここでいっている「愚者」とは「暴君」という意味でもあります。しかしアランがいうように、他人に仕事をさせると「バカ」になるというのではたまりませんね。言葉通りに取ると、リーダーはみなバカということになってしまいます。

 アランの真意はこうです。他人に命じて仕事をさせると、少なくともその現場からは遠ざかります。顧客や市場の様子、物流上の問題点、セールスマンが抱える障害や悩み、などが見えなくなる危険があります。プロセスが見えなくなり、結果でしか判断できなくなるのです。
  しかしリーダーは部下を評価しなければなりません。すぐれた部下を高く評価し、だめな部下をそれなりに評価できればいいのですが、かならずしもそうはいきません。ゴマスリを高く評価し、有能の士につらく当たる、ということが生じないとはいえません。なにしろ現場を見ていないのですから判断ミスは避けられません。
  リーダーは、ことがまずくなってきたとき、部下の責任を追及する立場に立ちます。本当はリーダーの人選が悪かったり、計画が悪かったりする可能性があるのですが、リーダーは「自分が悪かった」といわなくなり、いえなくなってしまいます。

 このようにして、現場を知らず、次々に判断ミスを冒し、自分の責任を棚に上げて部下を叱責するリーダーができあがります。このようなリーダーはアランがいうところの「愚者」でなくて何でしょうか。あるいは「暴君」でなくて何でしょうか。このような構造はリーダーという職務にいやおうなしに内在するもので、誰がやってもある程度は避けられないという側面を持っています。だからこそアランは「皆誰でも王であるかぎり愚者となろう」といったのです。
  リーダーは自分の影響力や支配力を当然のことと考えるようになります。正しい判断ができる部下よりも、リーダーは強い発言権を持ちます。どこで部下のすぐれた意見を取り入れ、どこで自分の意見を押し通したらいいか、リーダーはこれを見失います。こうして自分の支配力や発言力に陶酔している愚かなリーダーをいたるところで見かけるようになるのです。

 
 

62.この間の事情については「憎まれれば、なおさら朕の箔がつく」などという粗暴な格言に事欠かない。だが暴君はおのれが何を望んでいるかを知らないのだ。(情念論「恋と野心」)
 領主や王様の絶対的な権力が認められていた時代、組織の頂点にあった人々は容易に暴君となる可能性がありました。古事記にあらわれる天皇にも相当な暴君の例がありますし、ローマの皇帝ネロ、カリグラ、チベリウスなどの暴君ぶりも想像を絶しています。
  ちなみに、シーザー以後、コンスタンチヌス帝までの約400年ほどの期間におけるローマ皇帝の暗殺率はなんと40%近くにも達します。ローマ皇帝はもっとも典型的な憎まれ役であり、ほとんど暗殺したくなるほど憎まれていたことが分かります。
  そこからアランが指摘しているように「憎みたければ憎むがいい。おかげでハクがつく」などというやけくそな発言が生まれる可能性もあります。これを私たちのビジネス社会のいい回しにあてはめてみると、「トップはしょせん孤独なもの」「リーダーはしょせん憎まれ役」「憎まれるくらいでないといい仕事はできない」といういいまわしになります。

 どうしてリーダーは憎まれるのでしょうか。それは彼の仕事が個々の社員や部下を愛することにあるのではなく、目的達成にあるからです。また彼は権限を持っていますが、その権限をすべての部下の気に入るように使うことはできないからです。
  では、計画の達成だけがリーダーの望みなのでしょうか。そうではありません。その反対です。組織の階段を登っていく人は、他人の評価に敏感です。人間は誰でも人に評価され、称賛されることを好みますが、リーダーになろうという人はその意欲がとくに強いのが普通です。だからこそリーダーへの道を進んできたのです。
  立派に仕事の目的を達成して関係者に称賛され、尊敬されることがリーダーの最終的な願いであるとすれば、「憎まれるぐらいでちょうどいい」「何も部下に好かれる必要はない」という発言はまったく矛盾していることになります。

 リーダーは仕事で成功し、その上関係者の間で自分の評価を高め、信頼され、称賛され、尊敬されること、この両方を望んでいるのです。ところが、この二つはかならずしも両立しません。それどころかリーダーが持っている権限のために憎まれるまでになってしまいます。
  私の見るところ、会社の社長や力のある上司が職場にあらわれると、たいていの場合社員たちは緊張し、身構えます。もうこれだけでも不利な材料です。それからリーダーが部下に向けて、たとえ理屈に合ったことであろうとも叱責や責任追及をやりだせば、ここにたちまち暴君の図式ができ上がってしまうのです。

 
 

63.暴君は、いかに喜劇役者であっても、シラクサのディオニシウスがやったように、いつになってもプラトンを招くだろう。(人間論「野心家のたわむれ」)
  シラクサは、ギリシャ時代からシシリー島で栄えた都市国家です。ここでアランが述べている「ディオニシウス」とは、紀元300年ごろシラクサを支配していた僭主ディオニシウス二世のことです。
  シラクサではディオニシウス一世が功績を上げて王座につきました。その後、息子の二世が王位を継承しました。この人は少しばかり学問知識を身につけ、少なくとも自分では相当のインテリであると自認していたようです。このディオニシウス二世の友人に、プラトンの弟子になったディオンという人がいました。

 ディオンは、プラトンがかねてから理想の政治に関する研究をしていることを知っており、ディオニシウスに「プラトンを招聘して、政治についてコンサルティングしてもらってはどうだろうか」と持ちかけました。ディオニシウスは「それがよかろう」ということで、アテネからプラトンを招聘することになりました。
  このとき三人の関係者に三通りの思惑がありました。まずディオンはプラトンという権威を招いて、無軌道なディオニシウスを教育してもらおうと思いました。
  ところがディオニシウスは、プラトンがどの程度のものか試してやろう、自分がいかに知的にすぐれているかを見せつけてやろうと思いました。プラトンはプラトンで積年の研究結果をシラクサで実験し、すばらしい政治のモデルケースを作ろうと考え、張り切ってやってきたのです。こんなに思惑が違っていては、三者がうまくかみ合うはずがありません。

 プラトンがやってくるとディオニシウスはさっそく接見して自分の知識と考えを披露しました。アランはいっています。「自分が雄弁であり、魅力があり、深遠であり、賢明であり、そしてすべてであると信じるがゆえに、彼らはほかならぬプラトンとひと勝負やりたいと思うのだ」。
  ところがプラトンはディオニシウスがわずかの知識を鼻にかけた、つまらぬ小僧であることを見抜いてしまいました。けれど相手は自分の雇い主です。礼儀は尽くさなければなりません。プラトンは適度に相手の顔を立てて引き下がりました。
  結局プラトンとディオニシウスの関係は気まずい結果に終わりました。プラトンはしばらくシラクサに留め置かれましたが、王はその後プラトンを呼ぶこともなく、プラトンは失意のままアテネに帰りました。同じことがもう一度繰り返されましたが、結果は同じでした。いまもむかしも、暴君は傲慢のゆえに、すぐれた人材からチエを引き出すことを知らないのです。

 
 

64.大王の目に美しくてめずらかに映ったもの、それを手に入れようとしたやり方自体のためにそれをだいなしにしてしまったのである。大王はふたたび、人民を支配し見下す苦い仕事にもどった。(情念論「恋と野心」)
  プラトンのような大学者を自分の宮殿に呼びつける、これは権力と経済力がなければできないことです。権力と経済力のある人はありふれたものでは満足しません。他の人が手に入れられないようなものを手に入れ、自分の力を誇示することを望みます。      
  プロシャのフリードリッヒ大王はヴォルテールを招聘しました。スエーデンのクリスチーナ女王は軍艦をさしむけてデカルトを呼びつけました。いずれも当代最高の知識人、学者、つまり世にも珍しいものを「自分のもの」にしたいと思ったからです。
  これらの権力者たちには共通点があります。それは自分を開明的であり、賢明だと思っている点です。彼らは「自分なら、相手が大学者であっても使いこなせる」と思っています。それにまた「金を出せばよかろう」と思った点でも共通です。しかしこれらの試みはみんな失敗しました。思い通りになる相手ではなかったのです。

 どんな人にとっても認められたり、金が手に入るということは歓迎です。芸術家も学者も決して例外ではありません。それに権力者に認められることは、自説PRのチャンスにもなります。そこでヴォルテールにとっても、デカルトにとっても、プラトンにとっても宮廷に招聘されることは決して悪いことではありませんでした。
  しかしこれらの知識人と権力者との間でコミュニケーションが成り立ちませんでした。なぜでしょうか。一方は自分の思うがままに支配しようとしたのに対して、一方は自由を確保しようとしたからです。学問の真理は権力者の自由になるものではありません。
  デカルトは、スエーデン滞在中にクリスチーナ女王を賛美する詩を作りました。調子を合わせるためにせいいっぱいのリップサービスをしたのです。しかし権力者が一流の学者から手に入れることができたのは、せいぜいその程度のものでした。

 どんな権力者も、自由な精神を持つ人々を拘束することはできません。相手が一流学者だからそうなのではなく、原則として誰が相手でもそうなのです。権力者が権力や威厳に訴えれば訴えるほど、逆効果になります。
権力者とは他人を支配できる人のことです。けれど誰をどの程度支配できるかは、相手によります。権力に頼るしか手だてのない、平凡なイエスマンなら全面的に支配できます。アランは、あのフリードリッヒ大王も結局イエスマンを支配する仕事に戻った、といっているのですね。

 
 

65.暴君は一度に二つのことがらを要求する。『あなたがたは私に何も隠さないでほしい。しかしまた失礼なことは何一つ言わないでほしい』と。(知恵について「嘘の上のいろんな微妙さ」)
  古代ギリシャの哲学者ターレスは、「この世でいちばん簡単なことは何ですか」と聞かれて、「人に忠告を与えることだ」といったと伝えられています。人の欠点が気になり、自分の欠点を棚に上げて人に忠告したくなる、という人間の性向をうまくついていますね。
  会社の経営者はコンサルタントを招聘して次のようにいいます。「私は会社の業務を改善したいと思っていますので、悪いところがあったら何でも正直にいって下さい。私たちは忠告を受けるためにあなたをお願いしたのです」。この言葉にはほとんどいつわりはありません。
  けれどコンサルタントが「あなたの会社のここが悪い」「この点を改善しなければだめです」などと忠告したとします。ターレスがいう通り忠告は難しくないのです。すると経営者は喜びません。さっそく理由を説明したり、弁明を始める経営者もいます。もしコンサルタントが「あなたの考えが間違っている」などといったら大変です。たちまち追い出されてしまうでしょう。

 普通の友人関係でも相手の欠点をうんぬんすれば気まずくなってしまいます。だから部下のほうから上司に忠告するというのはかなりの冒険になります。たとえ自分で問題に気がついていても、人からズケズケと指摘されればいい気分はしないものです。お金を出して忠告者を雇った場合でさえも欠点を指摘されれば不快になるのですから、頼まれもしないのに上司に忠告をすることほど愚かなことはありません。 
  部下側からすると、リーダーの欠点は拡大され増幅されて見えます。そこで勇気のある部下は少しでも状況を改善しようと考え、リーダーに忠告がましいことをいいます。この部下はリーダーにうとまれ、憎まれるでしょう。彼がポイントを突いていればいるほど具合が悪くなります。

 「なるほど、私が間違っていた。これから改めよう」といえるリーダーはほとんど皆無です。なぜならリーダーは命令する立場にあり、忠告者を裁ける立場にあるからです。リーダーは冷静に対応できた場合でも「忠告は当たっているか」「彼の真意は何か」「彼にはそもそも忠告者としての資格があるのか」と考えます。
  ついで「私は彼に指図される立場にあるのか」「彼のいいなりになって今後もリーダーとしての地位を保てるのか」と考えます。リーダーがいかに他人の忠告を受け入れにくいか、ましてや部下の忠告を受け入れにくいかこれでお分かりでしょう。うまく立ち回ろうとする部下は、たとえ上司に欠点があっても決して忠告などしません。これは組織の基本構造なのです。

 
 

66.もし神が王の王としてあらわれたら、神には確かに宮仕えの侫人たちしかないだろう。(知恵について「内部生活」)
  アランがここでいっている「もし神が王の王としてあらわれたら」とは、「神様がかりに人間たちのリーダーになったら」ということです。神様には何でもできます。ですから、いうことを聞かない部下を金縛りにしたり、頭をおかしくしたりすることもできます。反対に自分の気に入った部下には、望みのものを何でも与えることができます。
  古代ギリシャのゼウス神は八百万の神々のリーダーでした。大会社の社長、オーナー会社の社長など、その会社では全能に近い力を持っていますから、ある意味ではゼウス神です。ゼウス神は雷電の神です。こんにちでも私たちは「雷が落ちた」などといいます。

 トップが怒り狂うのは恐ろしいものです。そこで部下は、トップを怒らせまいとしてご機嫌ばかり取ることになります。アランがいう「神には確かに宮仕えの侫人たちしかないだろう」とは、何でもできる恐ろしいリーダーには、結局「ゴマスリ」の部下しかいなくなるだろうということです。これによってリーダーはますます暴君らしくなってきます。 
  暴君の大きな特徴は、自分が決めたことを実行しないという点にあります。つまり、自分の都合のいいように次々とルールを変え、自分だけは特例として認めさせるということです。組織の中では自分を罰するものがいないのですから、「リーダー特権」を拡大するのはいとも簡単なことです。だからこそリーダーは容易に暴君に変わってしまうのです。
  リーダーは部下を処罰できますが、部下はリーダーを処罰できません。このことから「なぐり返せない相手をなぐる」ということも生じます。こうなると暴君も本物です。たとえ神様でも、リーダーになったら自分に対してフェアであることが難しくなるのではないでしょうか。

 部下は身の安全を考え、リーダーのルール違反や無軌道を指摘しません。リーダーは自分の支配下にある事柄については何でも知りたがります。しかし考え深い部下はトップの機嫌を損ねるような情報は提供しません。かりに提供する場合でも、自分にとばっちりがかからないように用心し、言葉を選んで報告します。
  それに人間には本能的に「サービスの精神」があります。いつもトップやリーダーに上機嫌でいてもらいたいのです。そのためにはお世辞やウソの一つや二つ、どうということもないではありませんか。そこでここに「リーダーとゴマスリの関係は実質的な権限に比例する」という一般公式が成り立つことになります。リーダーが権威を持つことは必要ですが、保身をはかるゴマスリだけを侍らせて、どのようにいいマネジメントをすればいいでしょうか。

 
 

67.人間をあたたかくしてくれるのは、この人間の毛皮だけであるに、暴君はこれをあがなうほどにはじゅうぶんゆたかではない。(人間論「野心家のたわむれ」)
  リーダーは部下との人間的な交流を求めています。権威を維持したいとは思いますが、一方では部下に慕われたり、尊敬されたり、愛されたいと思います。あなたは部下に冗談をいったり、うちとけた態度を示したり、気前よく食事や酒をふるまったりします。そうでなければ、部下はリーダーを恐れ、敬してこれを避けるという態度をとるでしょう。なにしろリーダーは部下に対して生殺与奪の権限を持っているからです。
  アランは四六才のとき、一兵士として志願し、出征しました。彼は四六才という年令にもかかわらず、もっとも過酷な現場として定評のある重砲兵を選び、しかもチャンスを与えられたのに将校など高い地位につくことを拒否しました。あくまで「部下側」に立つことに徹したのです。

 アランの肩書きは「伍長」でした。そこで彼が所属していた部隊には何人かの将校や上官がやってきて、アランとその仲間を指揮する立場に立ちました。上官の中にはアランのことをよく知っていて、アランと親しくなりたいと考えるインテリ将校もいました。
  それはそうでしょう。当時のヨーロッパ最高のインテリの一人がいかに戦時下とはいえ、一兵卒として自分の部下になっているのですからね。そこでこの将校はアランを自分の部屋に呼びつけ、芸術や思想について意見を求めました。
  これはちょうどディオニシウスがプラトンを招聘した、あの図式に似ていますね。アランは、「一番近付きになった将校は、頭は良かったがおそろしい気むずかしやであり、私はこの人との間でプラトンとディオニシウスの喜劇をこっそり演じていた」と書いています。

 ところがアランが対等の立場で自分の意見を述べ、相手の意見をたしなめたり、知識の間違いを指摘し、あるいは理論的な矛盾を論破したりすれば、この将校はたちまち怒りだすのです。そして自分がここではアランに命令する立場にあるということを思い知らせようとします。彼はアランを独占し、しかも自分に柔順な部下にしておきたいのです。相手がアランでなくても、これは難しいことです。
  戦争が終わってからこの元将校はアランの家を訪ねてきました。しかしアランはこの元将校との交際を拒否しました。彼は自分と一緒に泥の中をはいずり回った、無学な兵士仲間に愛情を持ち続け、彼らの安否を気づかいました。例の元将校は戦争が終わってからも、アランと親しく文学論を語りたかったのでしょう。しかしこのかつての暴君はついに「人間を暖かくしてくれる毛皮」を持つことはできませんでした。

 
 

68.良識はいたるところにある。ただしてっぺんにはない。(経済評論「第33章」)
  組織の頂点にあるような人は、ある意味では良識をわきまえ、それ以上に判断力にすぐれ、普通の人以上に洞察力がある賢い人だと思われます。これはある程度まで事実です。ところが人の上に立つ人は、「大衆」に比較すると多少とも例外的な存在です。
  たとえば成功したようなビジネスマンには、普通の人には奇妙に見える癖があったり、普通の人と違った厳格なライフスタイルがあったりします。しかしここでアランがいおうとしている「例外性」は、トップ自身の、キャラクターとしてのアブノーマルさではありません。地位が高いところに共通する「落とし穴」がある、ということです。

 たとえばトップクラスの人々の収入は普通の人々の何倍にもなります。そこで金銭感覚が狂ってきます。バブル期のもっとも好ましくない側面は、この金銭感覚の狂いに見られました。美術が好きでもなく、価値も分からないのに美術品を買いあさったり、三カ月おきに高級車を買いかえるなどというのは、明らかに良識からの逸脱です。また金銭感覚の狂いは、手段を選ばずに利益を上げようという指向となってあらわれることもあります。
  「公私混同」という言葉があります。けれど公私混同がすべて悪いわけではありません。たとえば会社でやり切れない仕事を持ちかえって家でやるというのも、ある種の公私混同です。そして中小企業の経営者にとっては公私混同は一つの事業目的でさえあります。
  ところが組織が大きくなり、リーダーとしての影響力が強くなるにつれて、ちょっとした感覚の狂いが大きなインパクトを伴うようになります。普通の人だったら笑って許されるようなことが、立場が上になると許されなくなります。ところが、立場が上になるにしたがって行使できる権力が大きくなり、使える資金量も増えます。影響力も強くなります。本人がそれほどと思わなくても、世間からすると非常識、逸脱と見えるようなことがいくらでも出てきます。

 総会屋と大企業や大銀行トップとの癒着、不正な資金の提供など、誰がどう考えても非常識です。けれど頂点にいる人にはこの不正はさほど不正に感じられません。「どんな世界にもオモテとウラがある」「清濁合わせ飲んで、その難しいところをマネージするのがトップだ」という常識のほうが優先します。だいいち「私は不正なことは絶対にしません」などといい切るような人物は融通のきかない人物であり、そのような人はトップになれません。
  デカルトは「良識はすべての人に与えられている」といいました。しかしパスカルは「われわれがこの世で幸運にも身分が高くなればなるほどわれわれは真実からいよいよ遠ざかる」といっています。良識の欠落と勇気の欠落、リーダー人材の落とし穴です。

 
 

69.組織というものは、上に立つものの虚栄のゆえに、人を散々こき使ってあげた利益の一切をよそへ持っていってしまう。(経済随筆「第43章」)
  トップ、あるいはリーダーを良識から逸脱させ、暴君化させてしまう最大の動機とは何でしょうか。それは権力に対する愛好であり、利益への強すぎる執念であり、あるいは部下をはじめ関係者に弱みを見せたくないという見栄であったり、強がりであったりします。
  ある大会社の社長は大変な女性マニアです。彼はいつも新しい、しかも美しい女性と親しくなることに全力をあげています。このために、彼はかなりの「交際費」を支出します。この社長にとっては、これが仕事から得られる報酬の一部であり、仕事の目的なのです。トップが政治マニアというケースもあります。こうなると「交際費」もずっと多くなり、通常の交際費の枠ではとてもおさまらなくなります。

 「日本人は借金を返済するために借金をする。欧米ではこういうケースは少ない」といわれます。私の考えでは、金に困った人が友達に「貸してくれ」といわれて貸すような場合、貸し手側にある種の「見栄」があります。「君に貸す金はない」とか「金はない」といえばいいのに、「断わり切れなくて」友人に金を貸すのです。
  ところが「断わり切れない」のではなく、彼は自分に金があり、友人に貸せるということを示すために貸しているというケースが少なくありません。それに自分が善良で親切な人間であることを見せたい、という見栄もあります。そして借りたほうも借金してまで返すというように、借金の構図の中に「見栄」が入り込んでいるのです。

 自分の資金の範囲、自分の力量の範囲で仕事をし、生活しているなら、誰も借入れなどする必要はありません。だから私たちは借入れをしようとするとき、実態以上に自分を大きく、豊かに見せようと努力していないかどうかチェックをする必要があります。
  ときとしてこの「見栄」の誘惑がビジネス・リーダーを襲います。事業投資への意欲は別としても、この人を頼ってくる親戚、困った友人、それに経営者仲間での調子のいい投資ばなし、各種の寄付、政治家への献金、そして豪壮なわが家の建築、家庭における固定費水準の増大、そして女性たちへのお手当など。
  会社の「倒産」の背景には、どんなに控え目に見てもリーダーの過剰の「見栄」「プライド」があります。会社の金をごまかしたり、使い込みをしたりする社員連中も全く同じ構造で動いています。彼らも彼らなりに誰かに「いいところ」を見せたいと思ったのです。だから「自分の限度を知る」ということが、自らの暴君化をいましめる一つのキーポイントなのです。

 
 

70.何となれば、どんな王冠といえども何人の頭上にもとどまっていないからだ。(経済随筆「第16章」)
  リーダーとしての地位はボス猿の地位と同じです。年令とともに、あるいは力量の衰えとともに世代交替を迎えます。独裁国の君主が、神にも等しい敬意を受けながら死んでしまうこともありますし、創業オーナーのように、リーダーの地位を極限にまで高めたまま、死んでしまうという例も少なくありません。しかしこのような場合、たいていは次世代に課題が持ち越されているわけで、次期リーダー、あるいは体制がそれなりに苦労することになります。
  ボス猿の場合、体力の衰えという客観的な事実が問題になりますが、「象徴」を用いて仕事をする人間の場合、本人の体力はかならずしも客観的な交替条件とはなりません。それどころかリーダーが相当ヨレヨレになっているのに、周囲が依然としてシンボルとしてのリーダーをあがめ、その権威に盲従するということが見られます。

 しかしもっとも通常に見られるのは、本人が「引き際」を見失って、リーダーとしての地位にしがみついている、というケースです。このような場合、企業は新しい時代に対応できず、経営者、リーダーとともに年老いて、活力を失っていくことになります。私の見るところ、中小、中堅オーナー経営者は引退の時期が5年から10年ぐらい遅いように思われます。彼はずり落ちそうな王冠を手でおさえているわけです。 
  トップが引き際を知らないとどうなるでしょうか。ここに老暴君が誕生します。その集団では、老暴君に対する恐れから、あるいは敬意から、あるいはいたわりから、必要以上にトップの気持ちを忖度し、一種の膠着状態が発生します。たとえば、「トップが会議の途中で席を立った。社長はこの案件には興味がないのだ」と重役や管理職が勝手に想定します。ところが、トップはトイレが近くなったので立ったまでのことです。

 老暴君が支配している会社では、次世代のマネージャー、あるいはリーダー格の人材の育成が遅れます。幹部は自分が実地に冒険して失敗する貴重な経験の代わりに、老暴君のご機嫌を取って、ひたすらガマンし続ける経験を積むのです。
  「どんな王冠も何人の頭上にもとどまっていない」という言葉の真意は、リーダーはつねに謙虚でありなさいということですが、次のように解釈したいと思います。すなわち、永遠にトップとして頑張るつもりかもしれないけれど、いずれは王冠を譲り渡さなければならないのだから、早目に政権交代したほうがいいですよ、という意味です。どんなリーダーにも、引き際について、もっとも困難な良識的判断が求められるのですね。

 
   
←第6章へ 目次へ 第8章へ→
 
 
Copyright (C) 2006 Kunihiro Kato All Rights Reserved.