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リーダーのためのアラン哲学
 
第8章 情念をどう統御するか

 自分の敵は自分自身であるといわれます。冷静に考えればもっと別ないい方法が見つかるのに、激情に駆られてむちゃなことをやったり、いったり、相手を侮辱してしまったり、わざわざ損をするような意思決定をしたりします。理性的になろうとつとめながらも、感情がたかぶって止められなくなることもしばしばです。理性に反するような、このような心の働き、激しい喜怒哀楽を、アランは「情念」と呼びました。人間は誰でもそうですが、とくに仕事上の目的を持つリーダーは、「情念」をうまくコントロールしなければなりません。もちろんリーダーはいい意味で情熱家でなければなりません。けれど勝敗にこだわりすぎたり、プライドが高すぎたり、人に対する愛憎が強すぎたりすると、リーダーは仕事の目的を見失い、自分自身をも見失ってしまいます。

 

71.人が飛行機の操縦に適しているかどうかを知るためには、その人にいろいろ不意打ちを食わせてみる。頭のうしろでピストルをうつ。足の下でタラップを上下に動かす。‥つかの間の国王であろうと否とをとわず、およそ国王というものを、この種の試練にかけてみるのもいいかもしれない。(人間論「臆病者」)
  アランはリーダーシップのテスト方法を提案しています。彼はここで「飛行機の操縦に適しているかどうか」といっていますが、これはジャンボ機の機長や、大型船の船長を想像すればいいでしょう。また「つかの間の国王であると否とをとわず」といっていますが、これは会社の「社長」、あるいは現場の「リーダー」についても同様ということです。
  アランは適性検査として、突然びっくりさせるという「しゃっくり止め」みたいな方法を提唱しています。これは「ものに動じない」という人物特性を見るためのものです。ささいなことにいちいち飛び上がり、あわてて命令を発したり、取り消したりするような人、ものごとに感情的に反応する人がリーダーでは困ります。
  あわてものの機長が操縦する飛行機には乗りたくありませんね。このような人はおそらく飛行機の操縦士としてのライセンスは取れないでしょう。ところがビジネス・リーダーはライセンスなしで仕事に当たることができるのですから困ったものです。

 ここでアランが提唱している少々滑稽な方法は、私たちの肉体に対する初期の刺激、それも不意の刺激ということです。このときの反応が問題です。不意に驚かされれば誰でもびっくりします。びっくりしない人は鈍感なのです。しかし肉体的な「びっくり」を、その後精神がどのように引き受けるのかが問題です。肉体的な反応がそのまま意思決定に直結しているというのでは、理性や知性が働いているとはいえません。
  「冷静沈着」とは、刺激に対して鈍感ということではありません。びっくりしたあと、事実や原因をたしかめ、次の行動を決定するに際して「冷静沈着」だということです。
  「びっくり刺激」はクレームの発生や、事故や、予想外の事態についての第一報であったり、関係者の感情的な反応であったりします。このようなとき、リーダーはいかにすばやく自分自身をたて直すかが試されているのです。   
  最近何かと「危機管理」が話題になります。これは危機的な状況が発生したときの事業体としての対応方法を万全化するということです。もちろんこれはこれで必要なことです。しかしもっとも重要なことは、リーダー自身の「精神の危機管理」です。これがリーダーに対するライセンス条件となるべきものでしょう。

 
 

72.生活のための猟師は、動作を節約して猟をする。だが怒りのための猟師は、自分自身を消費することに酔う。(情念論「怒りと欲求」)
  いまここに2つのタイプの猟師がいるとします。第1のタイプを「生活型」、第2のタイプを「情念型」としておきましょう。
  第1のタイプの猟師は生活のために猟をするわけですから、無益な殺生はしません。一時期にあまり集中的に猟をしすぎると資源が枯渇してしまいますから、ほどほどにやります。これに対し「情念型」の猟師は「猟をすることそのもの」に情熱を感じます。
  かりに熊に襲われて死んだ父を持つ猟師を考えてみましょう。彼は熊を「父の敵」と考えてどこまでも追いかけるわけですが、この猟師は「情念型」です。彼には追跡にかかるコストの概念はありません。危険な崖も、吹雪も、食料不足もなんのそのです。生活よりも復讐の方が目的になっているからです。これが小説や映画のテーマです。

 仕事はそもそも生活のためにするものです。それに仕事ではなによりも合理性が求められます。だからビジネスマンは「情念型」にはなり得ない、と思われるかもしれません。ところが多くのビジネスマンが「情念型」の猟師によく似たふるまいをします。
  たとえば「あいつにだけは負けたくない」とか、「何がなんでもナンバーワンになる」とか、「大金持になって見返してやる」などという動機は、ビジネスマンの仕事への重要なエネルギー源になります。むしろ「情熱のないビジネスマンにはたいした仕事はできない」といっていいかもしれません。
  「ナンバーワンになってやろう」「**王といわれるような地位を築こう」、という意志には合理的な理屈はありません。それは情熱であり、その人なりの生きがいであり、他の人には分かってもらえなくてもいい到達目標です。じじつ、こうした目標がある人の方がビジネスマンとして魅力的なのです。

 汚職や脱税など手段を選ばず金をもうけようとする人々は、ある意味では大変な情熱家です。しかし後になって背任や追徴課税などで責めを負うようなやり方は、コスト高についているといわねばなりません。つまり情熱を持つことは大切なのですが、コストと手段の関係を忘れてしまうほど熱狂的になることがいけないのです。
  ビジネスへの「情熱」はとても重要です。しかしほかのことが見えなくなってしまう「情念」はいけません。リーダーは情熱家でなければ魅力的ではありません。しかし「情念型」のリーダーは危険なリーダーです。

 
 

73.だから私は、一高射砲兵が測距がひどく間違っているから、何もならないのだと注意されても、勇壮に「それでも撃つんだ!」と叫んだという話をいくども援用する。(知恵について「唯物思想の効用」)
  アランは一砲兵として戦場に出ました。上空に敵機が飛んできます。そこで高射砲の砲手は、敵を狙って撃ちます。しかし敵機が不意にあらわれたときには、迎え撃つ方もあわてていますから、ねらいが定まりません。そこで何でもいいから盲滅法に撃つということになります。盲滅法にやっていれば、まぐれで当たることがあるかもしれません。けれども弾が当たる確率は飛行機の位置と高射砲の射程距離によります。
  アランが紹介しているこの砲手の場合は、「距離の測定が間違っているから敵には当たらないよ」といわれたのに、当たらないのを承知の上で「それでも撃つんだ!」と勇敢に叫んだというのですね。バカげたはなしです。けれど、このケースはやむにやまれぬ情念のはたらき、じっとはしていられない焦燥感を表現しています。

 たとえばライバル会社が競争商品を原価を割って安売りした、というような場合のことを考えてみましょう。いろいろな思惑があってのことでしょうが、これに対して「当社も対抗上値下げをしよう」「負けてはいられない」「こちらにもメンツがある」などというように、みすみす自分も損になるような、バカげた行動をとることがあるとします。するとこの場合、担当者やマネージャーは例の砲手と同じようなことをやっているわけです。
  車で走っているときうしろから乱暴に追い越されたとか、電車の中で足を踏まれたとか、部下や同僚や顧客がひどく失礼なことをしたなどというとき、私たちはなぜか「メンツが立たない」と思い、「血がたぎり」「やむにやまれぬ闘争心」を感じます。
  ところがこの「メンツ」がなかなか高いものにつくわけで、中には相手にはまったく痛痒を与えないのに、こちらだけ興奮して無駄な動きをするということがあります。リーダーは、このような興奮やエネルギーを上手に鎮め、生産的な方向に導かなくてはなりません。

 この場合大切なことは、「本来の仕事の目的は何だったのか」を冷静に考えるということです。時間通りに目的地に到着することが目的なら、追い抜かれたからといって別にどうということもありません。ビジネスの目的は事業計画に定めた業績を達成することであり、顧客に満足を与え、これを通して関係者自らが自己実現を図ることです。結果に対して意味あるものだけが大切なのです。何か損失や費用を伴う意思決定をするときに、リーダーは「自分はもしかしたら、メンツにこだわっていないか」と自問してみる必要があります。

 
 

74.だが、こころみに海をぶってみたまえ。現実的なことがら、かくも緊密、かくも不動、かくも盲目なことがらのなかで、一個の勇者が果たしてよくなにをしでかしうるか、想像できるだろう。人々が逃げることさえできないとき、こわがらせたとてなにになろうか。(人間論「交渉する人」)
  リーダーはメンバーに対して殺傷与奪の権限を持っています。そこからリーダーはしばしば暴君になりやすくなります。職場では「役に立たない人間は会社を辞めてしまえ」というような罵声が聞かれるものです。この罵声は苛立ったリーダーから発せられるものですが、この罵声の中には「なるほどもっとも」と思われる部分と、そうでない部分が混在しています。
  どんな会社も実力主義によって運営されなければなりません。なぜなら一般の会社は外部のライバル会社と実力競争をしているからです。したがって実力のないメンバー、努力しようとしないメンバーが多い会社は競争から脱落します。だから会社の中でも自然淘汰が行なわれなければならないことは、いわば当然なのです。

 「役に立たないやつは会社を辞めてしまえ」という苛立ったリーダーの罵声は、この意味でホンネなのであり、彼は弱いメンバーを強いメンバーに入れ替えたいのです。
  このような人事の方針、人材の入れ替えによる質の向上、これを「非人間的だ」といって非難することはできません。どこでもいわれることですが、会社は慈善事業をやっているわけではないからです。しかしながら、リーダーが自分の人事方針を苛立った罵声にのせてところかまわず発表すべきかどうか、これには一考の余地があります。
  私の考えでは、力のないメンバーを辞めさせるつもりがないなら、その人物に「お前は役立たずだ」ということを教えてみても、何の意味もないからです。リーダーが入れ替えの方針を持っているなら、それを実行すればいいだけです。もしそうでないなら、リーダーはメンバーを指導し、実力を強化する以外にありません。

 どんな人間も決して決定的に無能だということはありません。どこかにいいところがあります。しかしながらメンバーの全員に突出した天才を期待するのは間違っています。大部分のメンバーは海の水と同じように、どこでも平均に期するものです。その平均をつかまえて、脅したりぶったりしても状況を変えることはできません。
  リーダーは自分が扱っている素材がごく平均的なものか、それ以下なのか、それ以上なのかを知る必要があります。部下を平均的だ、といって叱ることはできません。ただしすぐれたリーダーは、平均的な素材を使いながらそのレベルを引き上げ、非凡な事業をなしとげるのです。

 
 

75.征服者が切望するところは、廃虚の上に立って富むことだ。(経済随筆「第64章」)
 H.G.ウエルズは「タイム・マシン」という作品の中で、80万年後の人類を描きました。それによると、未来のエリート人類たちは夢のような楽園を築きましたが、その結果仕事をせず、努力することを知らず、危険に対する防衛の方法さえも忘れた子孫を残すことになりました。彼らは退化し、絶滅しつつあります。競争のない社会が、努力を知らない社会を作ったのです。
  もしもライバルがいないオリンピックが開催されるとしたら、新記録は期待できないでしょう。「敵国のある国は発展する」といいますが、よきライバルを持ち、互いに切磋琢磨することは、自由競争のもっとも大切な原理です。しかし「ライバルに勝ちたい」という感情も度が過ぎると、「ライバルを潰したい」「完全な独占状態を実現したい」と思うようになります。ご存知のように市場のシェアが高まるほど利益を占有する機会が高まります。

 これに対して、限度のある市場内での競争は、かならず価格の低下、粗利の低下を招きます。そこで経営者としては「どうしてライバルは、あんな採算を無視した価格で売るんだ?」というように、ライバルの行動を怪しむようになります。そしてついにはライバルに対して強い敵意や憎しみを感じるまでになります。そこで「そっちがやるなら、こっちもやってやる」、というような粗暴な結論も出てくるわけで、最後には「あのライバルさえいなければ」、などという情念と呪いの経営活動が進行してしまったりするのです。
  そこでアランは「征服者が切望するところは、廃虚の上に立って富むことだ」という、警告を与えたのです。この警告は、ライバルを強く意識して、攻撃的になっている経営者や、社員や取引先の関係者を苦しめながらでも目的達成を急ごうとする、ややサディスティックな経営者について当てはまります。

 「価格破壊」については考えるべきことがあります。なるほど流通上のムダを省いて良品をできるだけ安い価格で提供することは企業として当然のつとめです。しかし、限度以上の価格競争に陥っている商品は、すでに価値のない過去型の商品であり、過剰供給型の商品です。
  「価格で対抗する」という考え方の中には、「新規のすぐれた商品の開発」というもうひとつの、企業家として当然のつとめが忘れられています。どんな場合でも、真の打開は技術革新によってもたらされます。イノベーション以外、人類には経済的進歩の方法がありません。
  ライバルとの戦いは、すぐれた商品の開発における戦い、あるいはすぐれた発想や、新しいビジネス視点の発見における戦いでなければなりません。それで負けるものは仕方がありません。リーダーは自分のファイトを社会的な付加価値の創造の方向に誘導しなければなりません。

 
 

76.なるほど、富への執着には限度がないといわれる。それにしても承知すべきは、往々にして金持ちは自ら中庸を得た金持ちにとどまる力がないということだ。(経済随筆「第60章」)
  アランは「金持ちになりたいものはなれる」と明言しました。そのためには「金持ちになる」という自分の意志をはっきりさせなければなりません。「いや、人生は金ではない」というなら、あなたは自分が金持ちになれないことに不満を持ってはなりません。
  けれどもどの程度の金持ちになればいいのか、これが問題になります。ある週刊誌が、各界の名士に「どの程度の金を持っていれば金持ちといえるか」というアンケートをしたことがあります。これによると、金持ちの定義は人によってさまざまで、「現金で10億円」という人もいれば、「100億円」という人もおり、答えはさまざまでした。

 「金持ちになりたい」という野心を持ち、これをみごとに実現した人の例として、私はハインリッヒ・シュリーマンをあげます。シュリーマンは、子供のときにホメロスの「オデッセイ」や「イリアス」を読んで感激し、トロイの遺跡を発掘しようと決心しました。
  しかし発掘を実行するには資金が必要になります。そこで彼は「金持ちになろう」と心に決めました。彼はまず小さな雑貨店の見習いとして働くことから始めました。やがて勉強をしながら商社の簿記係になりました。ついで商社の重役になり、独立しました。彼は独立後わき目もふらずに働きながら、語学や考古学など、必要な勉強をし続けました。
  「1858年にはもう充分資産ができたと思えたので、事業からすっかり手を引くことを考えた」とシュリーマンは書いています。そのとき彼の資産がどのくらいだったのか、彼がいくらを目標にして、「これでよし」としたのか、それは分かりません。けれど彼は「もう充分に資産ができた」といえる基準を持っていました。

 このように、自分の能力に合った蓄財目標を知ることはかなり重要なことに思えます。またシュリーマンは「私は商人としては並外れて慎重だった」とも書いています。このことは、彼のビジネスの目的が発掘のための資金調達にあったからであり、売った、買ったという商業的な冒険をすることではなかったからです。
  シュリーマンが考古学に果たした貢献は、こんにちでもどの学者も及ばないほど大きなものです。彼はそれまで伝説上の土地にすぎないと思われていたトロイの実在を証明しました。また彼はアガメムノン伝説で有名なミケーネの城跡を発見しました。
  彼は何のために「金持ちになるのか」を知っていた人であり、同時に自分は「どの程度金持ちであればいいか」を知っていた人だったのです。

 
 

77.おそらく英雄は立法者ではなく、また王でさえもないだろう。というのも、こうした職掌は慎重さを、さらには貪欲への傾向といったものをさえ必要とするのだから。(神々「英雄」)
  アランがここでいっている「英雄」とは、伝説にあらわれるヘラクレスやアキレウスのような腕力が強く、味方にしたら頼もしいような勇者のことです。三国志に登場する張飛なども典型的な英雄でしょう。彼らは伝説や歴史小説の中で、私たちの血を沸き立たせてくれます。
  私たちの社会にも少なからぬ英雄がいます。たとえば花形スポーツ選手や、碁や将棋の名人、それに数多くの歌手やタレントたち、これらのヒーローやヒロインが私たちに親しい英雄たちです。私たちはこれら英雄のファンになります。

 ちょっと地味になりますが、英雄はビジネスの世界にも存在します。たとえばトップセールスマン、とびぬけた技能を持つ職人やエンジニア、それにコンピュータにめっぽう強い担当者など、ある能力においては他の人々が追いつけないような、数段立ちまさったところでいい仕事をしているような人、これらの人々はビジネス世界におけるヒーローです。
  ところが、アランはこれらの英雄は「立法者」でもないし、「王でもない」といっています。つまりこれらの人々はリーダーではないといっているのです。ヒーローとリーダーは別物であるということです。
  たとえば、野球選手として優秀だった人がかならずしも監督として成功するとは限りません。監督はチームの内部のルールを決めますから、「立法者」です。また、チームを代表し、指揮をとりますから「王」です。この場合、監督としてヒーローであるということと、選手としてヒーローであるということは別物なのですね。

 伝説中のヘラクレスやアキレウスや張飛は、なるほど力は強いのですが、案外だまされやすく、軽率なところがあります。そのかわり名誉を重んじ、自分だけの利益を考えず、いさぎよく行動します。彼らは何でも自分自身で解決しようとし、他人に頼るということを考えません。このタイプはリーダーには不向きです。
  アランは「リーダーには慎重さが必要であり、ときには彼らは貪欲になることさえある」といっているのです。リーダーは複数の関係者の利益を代表しているからです。
  ビジネス・リーダーは、ときには負けて退くことも知っていなければなりません。また、稼げるときには稼ぐ、貯えられるときに貯える、といった欲張りな側面も必要になります。リーダーは策略家でなければならないのです。ビジネス・リーダーはヒーローを育て、ヒーローによって助けられる人のことです。自分自身が第一線のヒーローになる必要はありません。

 
 

78.確かに血の気のある方がよい。しかし、この地上で勝利をおさめた動物たちは、いちばん怒りっぽい動物ではなかった。(幸福論「忍耐」)
  アランは人間のはげしい怒りの状態がどのようなものかを観察し、考えました。その結果、恐怖と怒りが同じような生理状態にあることを発見しました。またたいていの場合、怒りは恐怖からもたらされるとも考えました。たとえば私たちは不意に驚かされたような場合、反射的に相手を攻撃したくなります。
  たとえば車を運転しているとき、不意に割り込んでくるような車があると、「このやろー」と思います。マナーの悪い車に、何とか思い知らせてやりたいと思ったりします。幸いなことにたいていの場合こんなことはすぐに忘れてしまいますが、このようなとき、私たちの心の中に怒りと恐怖が同居していることはたしかです。恐怖を感じさせられたことで、怒りがこみあげます。

 部下がつまらないことをいってあなたを怒らせることがあります。これなどもよく観察すると、部下がはじめにあなたに対して一種の攻撃を行なっていることが分かります。たとえばちっとも業績を上げないセールス担当者は、リーダーであるあなたに対して、業績不振による先行き不安、恐怖心を感じているわけです。
  恐怖と怒りの生理状態をいうならば、体の中に血が大量に流れ、筋肉が痙攣し、収縮している状態です。これは次の攻撃に向けて、あるいは防御に対して準備している状態です。動物としての私たちの当然の動きです。アランは私たちが怒っているとき、無意識のうちにこぶしを握っている、といいました。
  しかしながらアランは、「そのような場合、自分の考えを信じないほうがいい」ともいいました。なにしろ生理状態が正常ではないからです。怒っているときに下した意思決定は過激なものになりがちですし、損得の概念がとんでしまったりする可能性も少なくありません。冷静である方がトクであることはたしかです。

 ではどうしたら怒りの感情を解消できるのでしょうか。これについてアランは「握っているこぶしを開きなさい」といっています。つまり、状況の改善よりも先に、自分の生理状態の改善を行ないなさいといったのです。それもあれこれ考えて苦しむのではなく、体をリラックスさせることで、まず内なる平和を取り戻しなさいといったのです。
  外部環境が混乱している、そのためにあなたが窮地に陥っている、これは仕方がありません。しかしあなたの内部環境が混乱しているというのでは、二重の混乱です。まず一方の混乱をとりのぞく、これが先決だというのです。

 
 

79.つまり牛肉の切れやイセエビのハサミを前にしたときある人に統御の能力があるかどうかがよくうかがえる。(人間論「交渉する人」)
  社会的な地位が向上すると、次第に立派な席での会食のチャンスが多くなります。会食は関係者同士のコミュニケーションを円滑にするための最良の手段です。そこでリーダーやトップには接待や食事を含む会合が多くなるのです。立派な会食の席になるとテーブルマナーがわずらわしくなります。本当はマナーなど気にせずに、うまいものをむしゃむしゃやるのが一番です。ところがそうもいかないことがありますね。
  私は殻付きのえびが苦手です。洋の東西を問わず、えびはたいてい殻付きでテーブルに出てきます。つまり殻付きのえびの方が視覚的なプレゼンテーション効果が大きいからです。ところがこれほど食べにくいものはありません。

 和食の煮物のえびの場合、下手をするとスープを周囲にはねとばす危険があります。洋食のえびもご同様で、ナイフとフォークを少々操っても、おいしそうな中味がどうしても取れないのです。皿の上での苛立ちをガマンしながらまわりに注意し、かつ関係者に笑顔を見せながら食事を続けることなどできるものでしょうか。
  固いカツレツやステーキを切るときには思わず肩に力が入ります。「こん畜生」なんていってしまうかもしれません。要するにここで要求されているのは、品性であり、落ち着いて自然に、穏やかに、会食者と親しく話をしながら食べるということです。目的はコミュニケーションであり、人間として信頼しあえることを確認することにあります。
  だから、食べるのに夢中になってはげしい音を立てたり、咀嚼している口の中が丸見えになったり、必要以上に力んだりしているのは、テーブルマナーとしてはすべてご法度です。どのナイフをどの順序で使うかなど、枝葉末節の問題です。

 人間は食物連鎖の頂点に立っている生物です。アランは、食事とは他の生物の蛋白質を私たちの犠牲に供することであり、だから威儀を正して食べなければならないのだ、といいました。またパーティーの席では食器を壊すような無作法は許されないともいっています。
  私たちはテーブルの前で、自分自身を統御できる人物であるかどうかを試されているのです。ナイフを使いながら「こん畜生」などといっているようでは、この人は他人はおろか、自分をコントロールすることもできないのだとみなされます。
  こうしてみると、例の殻付きのえびの煮物ほど試練に満ちた食べ物はありません。あれはもしかしたら人物テストのための道具なのかもしれません。

 
 

80.結局のところ、彼が数千里四方に君臨する身であろうとも、彼がもつのは、いぜんとして彼の皮袋だけでしかないのだから。(人間論「眠りの法則」)
  「えらい人」とは、どんな人でしょうか。ひと昔前ならえらい人=天皇陛下でした。こんにちでは「えらい人」という概念がいささか怪しくなりました。けれどもいまここで、「えらい人」を、「権力の及ぶ範囲が大きい人」、あるいは「自分の一存で動員できる資源が大きい人」というように考えてみます。するとここに、いわゆる政治的なリーダー、あるいは大企業のリーダーに近い概念が得られます。 
  政界や財界を自由に操れるような人、あるいは指先一つで巨億のお金を動かせる人、これが現代における「数千里四方に君臨する身」ということになりますね。私たちはこのような権力者を想像し、「権力があったら何でも好き勝手なことができる」「この世の中は結局権力者に都合のいいようにできている」「とことん快楽を追求するには、何でも自由にできる権力を持たなければならない」などといったり、考えたりします。

 古代ギリシャの哲学者プラトンは、このような「権力者」について考えました。そしておよそ次のようにいいました。「権力者が快楽と自由を楽しむためには、自分自身を統御しなければならないはずだ。なぜなら、目先の快楽だけに溺れて不摂生を続ければ、その権力者は自由も快楽も楽しむことができなくなってしまうだろう。それに自分の部下を適切に管理しなければ謀反を起こされたり、収穫が減ったりするだろう。彼が権力を維持しようと思ったら、公平無私でなければならず、つまり、つねに節制と徳を保っていなければならないだろう」。
  このようにプラトンは無制限に権力を持っている人を想定し、もしその想定が成り立つなら、そのようなリーダーは「徳」を有しているはずだということを論証したのです。
  自己を節制し、中庸と徳を保ち、つねに部下に公平であるようなリーダーがいるとすれば、これはまさに「えらい人」といっていいでしょう。すると理想のリーダーはいわゆる暴君的な権力者からはむしろ遠い人です。それは自分の権力を楽しむ人ではなく、自分自身の限界を知り、自分の情念に振り回されることを極度に恐れている人です。

 それにまた、個人の力がどんなに大きいとしても、その人は一個の人間にすぎませんから、彼の肉体的な限界、つまり皮袋の限界を超えることはできません。その人の体調が悪くなったり、頭の調子がおかしくなれば、正常な判断を維持することができなくなってしまいます。
  リーダーは、いうなれば「えらい人」を目指している人です。しかしリーダーは自分が持っている皮袋の限界をつねに認識し、自分が持つ力に対して謙虚でなければなりません。

 
   
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